No10 平成18年1月30日






 さて暫定委員会は定期的に会合を開き、原子力エネルギー全般に関わる諸問題を議論しながら、大統領に対する勧告と助言をまとめていった。この議事録は全てインターネットを通じて入手できるが、特に1945年6月1日の委員会が興味深い。
(この記事の原文は以下から入手できる。
http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/large/documents/fulltext.php?fulltextid=8 
訳文は暫定委員会議事録1945年6月1日金曜日

 ところでこの議事録の作成者は、R・ゴードン・アーネソン中尉だ。暫定委員会では、いつもアーネソンが書記役を務めている。アーネソンといえば、スティムソンの命令で、原爆投下に伴う大統領声明の最終草稿をポツダムにいるトルーマンの下にクーリエとして届けた人物だ。大統領の署名をもらってスティムソンに届けるという重大任務も帯びていた。

 早速1945年6月1日の暫定委員会、アーネソンが作ってくれた議事録を見てみよう。
(アンダーラインはすべてアーネソンが付けたもの)

 この日の会議はテーマが多くて朝11時から12時30分まで、昼休憩をはさんで午後1時45分から3時30分まで続いている。

 委員会はこの日8人の委員全員に、産業界から意見を聞くとして次が招聘されている。

      ジョージ・H・ブッチャー氏
         ウエスティングハウス社 社長
         電磁分解プロセスの装置メーカー
      ウォルター・S・カーペンター氏
         デュ・ポン社 社長
         ハンフォード計画の建設
      ジェームズ・ラファーティ氏
         ユニオン・カーバイド社 副社長
         クリントン蒸気拡散工場の建設及び操業
      ジェームズ・ホワイト氏
         テネシー・イーストマン社 社長
         テネシー州ホルストンのRDX工場の建設及び基礎化学物質の生産

 いずれもある意味「原爆特需」の受注側企業だ。

 このうちテネシー・イーストマン社はイーストマン・コダック社の創業者、ジョージ・イーストマンがテネシー州に作った化学品製造会社。RDXはResearch Department Explosiveの略で恐らく爆発性化学物質の研究をしていたのだろう。

 この日彼らが招聘された理由は、原子力エネルギー問題に関して産業人の意見を聴取するところにあった。

 会議はスティムソンの挨拶の後、「競争力の懸隔」というテーマからはじまっている。要するに核競争の相手国、ソ連との差がどのくらいあり、ソ連がアメリカに追いつくのにどのくらい時間がかかるかを議論しているのである。
 
 暫定委員会がこのテーマから始めている事実は、極めて重要である。当時対日戦争は終盤を迎えており、ソ連の参戦も確約が取れている。それでなくてもソ連は喜んで参戦しただろう。日本が条件はどうあれ降伏するのは時間の問題だ。後に見るようにこの日の会議では、「原爆の日本に対する使用」も議論され、「使用」に正式決定もされている。 
 
 つまり、「原爆の使用」問題は対日戦争終結の決定打としてとして議論されているのではなく、戦後の核装備競争の文脈の中で議論されている。ここが日本側の文献を読んでいてベクトルの合わない点だ。

 日本側の理解は、「原爆投下は戦争終結の手段」という視点に固定してしまっている。だから、戦争終結の手段として「原爆投下は必要だったかどうか」などというおよそ見当違いな議論を延々と60年以上経た今でも続けている。 

 戦争終結の手段としての「原爆投下」は軍事問題である。しかも、日本降伏が見えているその時点では、さして重要な軍事問題でもなかった。投下しようとしまいと、どのみち日本は降伏したのだから。

 「日本に対する原爆の使用」が重要だったのは、それが戦後の核競争をいかにスタートさせるか、それがどれほどのビッグビジネスに発展するか、そしてそれを政治主導でいかなる枠組みで運営していくか、そして「戦後の原子エネルギー市場」でいかにアメリカが圧倒的な主導権を取っていくか、と言う政治問題だったからだ。

 これが全ての問題の要点である。

 この問題の要点を当時きっちり理解していた人は、アメリカの政権内部でも数少ない。恐らくこの暫定委員会のメンバーとそれを補佐するほんの一握りの人たちだけだっただろう。軍部に置いてもほんの一握りのトップだけだっただろう。「決断者」である大統領トルーマン自身にしても、この問題の要点を理解していたかどうかは非常に疑わしい。

 「アメリカ将兵の犠牲をできるだけ少なくする」という課題で頭がいっぱいのトルーマンには、実際に原爆投下が行われるまで、この問題の要点を理解することはできなかったのではないだろうか?


 マンハッタン計画に参加していた科学者たちの一部はさすがに鋭く問題の本質を見抜いていた。有名な「フランク・レポート」を読んでみると、彼らが「日本に対する原爆使用」の本質をいかに正しく捉え、戦後予想される果てしのない核競争に警鐘を鳴らしているかが読みとれる。フランク・レポートは、「日本に対する原爆」の使用を、核競争の出発点として捉え、核競争を排除する手段として国際核戦争防止協定の成立を提案している。

 つまり、核競争をスタートさせたい勢力と核競争をスタートさせてはならないとする勢力との人類史的せめぎ合いが行われていたのである。そのカギを握るイベントが「日本に対する原爆の使用」、すなわちその軍事的表現が「広島への原爆投下」だったのである。

 こうした視点で、1945年6月1日の暫定委員会の議事録を、読んでみると興味深い論点が浮かび上がってくる。

 デュ・ポン(E.I. duPont de Nemours and Company)はもともと銃砲用火薬の製造業者としてスタートした。南北戦争では両軍に火薬の供給も行っている。第一次世界大戦・第二次世界大戦では大量の軍需物資を供給した。戦後は、各種の化学繊維を開発したことでも知られている。同社の年次報告を詳しく分析していないので何とも云えないが、現在でも原子力産業に関係していると思われる。と言うのは2004年の大統領ブッシュのイラク進行時、当時のフセイン政権の核兵器開発に協力した企業として同社の名前があがったことがあるからだ。(同社は当然認めていない。)当時ブッシュ政権はイラクのフセイン政権に関係したアメリカ企業の名前をひた隠しにしてきたが、デュ・ポンの名前は何らかの理由でリークされた。

 マンハッタン計画ではデュ・ポンはワシントン州のハンフォード工場(主としてプルトニウムを製造していた)の設計・建設を担当した。質問は、ソ連が同様の工場を造るとすればどれくらいかかるだろうか、といった類と思われる。当時社長のカーペンターはこう答えている。

 「カーペンター氏(デュ・ポン社 社長)は、デュ・ポン社は基礎計画を受け取ってハンフォード工場を完成するのに27ヶ月かかっている、と指摘した。全体基礎設計、建設、操業に要した人員は他関連人員も含めて1万人から1万5000人程度だった。この時デュ・ポン社は、補助要員も参集できたので、かつて例がないほど素早く完成することができた。同氏の推測では、もし仮にロシアが基礎計画を持っていたとしても、同様な工場を建設するのに最低でも4年から5年程度かかることだろう。ロシアが抱える最大の困難は必要な技術者の確保と適切な生産設備の確保にある。もしロシアが大量のドイツの科学者の確保とI.G.ファーベンインダストリーエまたはジーメンスの協力を得るなら、もっと短期間に完成するであろう。」

 I.G.ファーベンインダストリーエは戦前ドイツのコングロマリットである。アグファ、BASF、バイエル、ヘキストなど多くの企業を傘下に持った。(ファーベンでなくドイツ語風にファルベンと表記するのが正しいのかも知れない)

 ジーメンスは電機、通信、電子などの分野での世界的企業である。戦前はドイツの再軍備に関連していたとされる。

 テネシー・イーストマンは、イーストマン・コダック社の創業者、ジョージ・イーストマンがテネシー州に作った化学品製造会社。この当時はイーストマン・コダックの子会社化されていたらしい。と言うのはコダックのホームページに「1931年、テネシー・イーストマンがセルロース・アセテート生地の販売を初めて開始した。」と言う記述が見えるからだ。またこの委員会が開催された同じ1945年の項に「パーリー・S・ウィルコックスが取締役会会長に就任。彼は1920年に設立されたテネシー・イーストマンの体制作りを指揮した。」という記述が見える。つまりウィルコックスはテネシー・イーストマンでの業績を買われて本社イーストマン・コダックの会長に昇進したわけだ。この当時同社はテネシー州ホルストンのRDX工場の建設及び基礎化学物質の生産を担当していた。(RDXはResearch Department Explosiveの略)。なお、コダックのホームページでは、テネシー・イーストマン社がマンハッタン計画に関係していたことは全く触れていない。

 「ホワイト氏(テネシー・イーストマン社 社長)は・・・大量生産に関する標準化がアメリカで進んでいることに大きく助けられたとも指摘した。・・・ホワイト氏はロシアにおいて、操業を可能とするこのような大量の精密な製品が安定供給できるかどうか疑わしい、と指摘した。またホワイト氏はこの操業に関し、2000人以上の大学卒業者、1500人近い大卒レベルの従業員、それに5000人以上の熟練技術労働者を必要とした・・・、と述べた。
  ロシアの潜在力については、多くの熟練労働者や大卒レベルの技術者の確保が難しいのではないかと感じている、と述べた。これに関連して、クレイトン氏(国務次官補)は、ロシアは科学者や技術者に関しては、ドイツの人的資源を、恐らく確保できるだろうとの見解を表明した。」

 産業人を交えたこの日の委員会では、次のような注目すべき発言もでている。

 ユニオン・カーバイド社は化学会社として知られている。1984年インドにおける子会社インド・ユニオン・カーバイド社が引き起こしたボーパル事件の方が有名かも知れない。事故で有毒化学物質が流出し、有毒ガス化した物質で約15万人から60万人が被害を受け、そのうち少なくとも1万5000人が死亡したとされる。2001年に同じく化学会社ダウ・ケミカルの100%子会社となっている。

  「ラファーティ氏(ユニオン・カーバイド社副社長)は、現在の政府・産業界・大学間のパートナーシップは継続すべきだと述べた。」


 これは端的に大学の持つ研究開発力を軸にして軍産複合体制の維持強化が必要だという意味に他ならない。

 ウエスティングハウス社はもともと大手電機メーカーである。創立者ジョージ・ウエスティングハウスの立志伝はかなり有名な話である。同社が原子力産業に参入したのは1930年代のころで、核微粒子加速器のメーカーだった。その後原子炉の製造も手がけることになる。この会社は戦後複雑な経緯をたどるが、とにかく本社(Westinghouse Electric Corporation)から、原子エネルギー部門が切り離され、イギリスのイギリス核燃料会社に販売、その子会社となった。これがWestinghouse Electric Companyである。イギリス核燃料会社はイギリス政府の子会社で、イギリスの原子力政策の要の一つである。Westinghouse Electric Companyが2006年1月23日付けのフィナンシャル・タイムスの記事によると、日本の東芝に50億ドルで買収されるというのだ。マンハッタン計画の要の会社の一つ、ウエスティングハウスの原子力部門を60年以上経て、日本の会社が買収するというのだから、言葉もない。フィナンシャル・タイムスの記事を翻訳するのも面倒なので、1月24付けの朝日新聞から引用する。

 
「・・・提示額が最高だったほか、WHの経営陣の自主性を重んじる意向を東芝が示したことで、今後の中国での原発受注など・・・スムーズに進むと判断したという。WHは加圧水型原発の名門で・・・(沸騰水型を手がける東芝は)2タイプの原発を手がけられることになり、新規立地の急増する途上国向けビジネスで優位に立つことになりそうだ」。

ちょっと読むと、本家のウエスティングハウス自体が身売り、とも取れるが、本家はWestinghouse Electric Corporationとしてアメリカで健在だ。

 ジョージ・ブッッチャーはこの当時のWestinghouse Electric Corporationの社長である。

ブッチャー氏は、現在の機構は少なくとも後1年は継続すべきだと奨めた。更なる基礎開発の必要性は、特に(核エネルギーの)「パワー」の点でその必要性が高まる、そしてそれは産業界においても十分に有用性が出てくるだろうと指摘した。カール・T・コンプトン博士は、特定の民間企業が核に関する研究人材を保持し、公開の形で政府予算に支えられて継続し、この分野の潜在力を評価するのが望ましい、と指摘した。」

 ここで云っていることは、原子力エネルギーは将来無限の可能性がある、この市場が育つまで政府の金で民間企業を援助することが国家利益にかなう、ということだ。

 産業界は「原爆開発」で得た「20億ドル市場」を決してあきらめない。


  「カーペンター氏は、この懸命な努力全体の中で、産業界の積極的な参加は、恐らく今後も継続するであろうが、操業レベルにとどまっている。もっと幅広い基礎的研究にその必要性があるのではないか、と強調した。産業界は、この基礎的研究を、それ相当な規模で推進する立場にない。産業界の実用的研究を鼓舞すべく、政府がそれ相当な規模での基礎研究に責任を持つべきである、と述べた。この開発に関わる範囲は同心円的に巨大であり、民間産業界で行うべきではないと深く確信している、と述べた。国家的利益の観点からは、政府が圧倒的にこの役割を担うことは当然のこととして誰しも疑いようなことである。政府がこうした大規模な基礎開発計画を統御し財政的に支援を行うことは必要であるばかりでなく、ウラニウムの安定供給を、責任をもって保障することにもなる。そして以下のような計画を推奨した。
      1.原子爆弾の積み上げ方式での貯蔵。
      2.非常体制を備えた工場の設置。
      3.基礎研究への傾斜集中化
      4.ウラン供給の安定的統御の保障
  上記第2項目に関し、ブッシュ博士は、基礎的研究の中においても実用的原材料の生産の継続は必須である、一定の実験(核実験のこと)の実施はこうした生産工場への道をあけておく意味で必須である、と指摘した。」

 ここでデュ・ポン社長、カーペンターが云っていることは、要約すると次のようになる。

1. 原子力エネルギー市場拡大には、まだまだ相当な基礎研究が必要だ。しかし基礎研究はすぐ商品化にならないので民間セクターにはなじまない、これは政府資金でやろう、民間ではすぐ商品化につながる応用研究を担当する。
2. そしてさらに重要なことは、こうした開発を続けるのは、「原子爆弾の積み上げ方式での貯蔵」、すなわち「原爆」という商品を作り続ける必要がある、と言っていることだ。それでなければ、それを支える産業界、人材、研究者の維持継続が望めない。

 原爆産業は、それを使用しようと使用しまいと、生産しなければ衰退するということである。

 この発言は、何故今何万発もの核兵器が貯蔵されているのか、と言う問題を考える大きなヒントになっている。

 この会議の10日後、シカゴの科学者たちが提出したフランク・レポートでも同じ意味合いのことが指摘されている。

  アメリカが将来想定しうる核競争で優位に立てるかどうかを議論したくだりである。

「また次のような議論もあるかも知れない。すなわち―――。
  アメリカは核装備競争に置いて安全である。というのはアメリカには、核分裂に関する大きな科学的かつ技術的知見、大規模な熟練労働者軍団による効率性、より大きな経営技量があるからだ。確かにこうした要素は、今回の戦争中にその重要性が発揮され、もって連合国側の兵器廠と化した。しかし答えはこうである。こうしたわれわれが持っている利点は、より多くの、より大きなそしてより優れた原爆の蓄積の結果である。従って、平和時に置いてもなおかつ最大限原爆の生産を行った場合にのみこの利点は維持できる。」

 アメリカが将来、核競争で優位に立つためには、平和時に置いても、兵器としての原子力エネルギー装置を作り続けなければ、その優位を保てないと云っている。果てしのない核競争の本質をえぐり出した指摘だ。

 もちろん、フランク・レポートは「だから作り続けよう」と言っているのではなく、これは人類にとって恐ろしい結果をもたらす、だから核競争がはじまる前に、この問題に関する各国の主権を一部制限して、「すべての核」を国際管理に移そう、と提言する。

 核競争の本質に関する限り、フランク・レポートと暫定委員会とは完全に認識が一致している。ただ、そこから引き出している結論が全く違っている。

 バニーバー・ブッシュはこれに関連しておもしろいことを云っている。原爆を生産し続けるには、それを支える原材料工場の継続的生産が前提になる、しかし継続的生産に道を開いておこうとすれば、常に核実験をしなければならない、と言っている。核実験は性能テストのために必要なのではなく、原材料生産工場に常に道を開けておくために必要なのだ。

 何故核兵器がなくならないのか、何故核実験を続けなければならないのか、核競争・核拡散時代初期の開発製造トップたちはあからさまに、そして無遠慮に、そして無警戒に、その理由を述べている。今誰もこんな本音は言わないだろう。


 ここで、この日の暫定委員会はいったん休憩に入り、産業人は退席、場所をハリソンの執務室に移して、委員会を継続する。

 この後は、「戦後における原子力エネルギーの管理・統御機構」の検討に入り、招聘参加者として出席していた、マンハッタン計画の最高執行責任者、レスリー・グローヴズから予算の報告がなされる。グローヴズによれば、今割り当てられている予算だと、1946年6月まで持つ、と報告した。

 これに対して国務長官のジェームズ・バーンズは、
「それまでに戦争が終わったら、残りの予算を使う名目がなくなる、だから議会に戦争が終わってもこの核兵器開発を取り上げさせるために、別途に総関連予算を検討しておいてくれ」
と指示を出している。もちろん、バーンズにしたところで戦争が終わっても、この20億ドル市場を凋ませるつもりはない。

 また、このバーンズの指示は、原爆製造が戦争遂行目的から、戦後の「原子力エネルギー産業」維持発展へと、彼らの目的が移行していることを意味している。

 これに対してグローヴズは、5人の有力下院議員にすでに根回しをしている、と委員会に報告をする。あからさまなものだ。

 そしてこの委員会は次ぎに重要な決定をする。「日本に対する原爆投の使用」だ。引用してみよう。

  「バーンズ氏は次のように勧告し、委員会全体はそれに同意するものである。陸軍長官に以下の如くアドバイスがなされるべきである。最終的投下目標の選択は基本的に軍の決定に任すべきと云う共通認識を土台とした上で、現在の所の我々の見解は、できるだけ早く日本に対して原爆は使用さるべきである。また工場従事者の住宅に囲繞された軍事工場に対して使用さるべきである。さらに事前の警告なしに使用さるべきである。テストで小爆弾を用い、そして日本への最初の一撃は大型爆弾(発射型 ここではGun Mechanism と言う英語が使われている。ウラン爆弾が一方から他方へ同位元素U-235を発射してぶつけ、核分裂の連鎖反応を起こさせる構造をもっていたことからこう呼んだと思われる。)を用いることになる。」

 スティムソンは、日本へ投下できる原爆が完成するのははどんなに早くても8月初旬、という報告を受けていたから、この時点で委員会のメンバーもそれを知っていたはずだ。(スティムソン日記より。日記はマイクロフィルムに収められているそうだが、テキストは次のURLで見ることができる。http://www.doug-long.com/stimson.htm

 先にも述べておいたが、特に注目しておかなければいけないのは、「原爆の使用」すなわち日本への原爆投下の議題が、この日の暫定委員会の流れでどう位置づけられているか、と言う問題だ。この日の議題を順に並べてみよう。

  T 委員長挨拶
  U 競争力の懸隔
  V 戦後における機構―産業人の見解
  W 戦後における機構―委員会討論
  X 直近の予算
  Y 日本への使用
  Z 広報活動
  [ 法制化
  \ 次回会合

 となっている。暫定委員会にとって「日本への使用」は、あくまで戦後の「核兵器・原子力エネルギー」体制をどう構築するかという文脈の中から論じられているのである。だから彼らの使っている言葉も使用(use)であって、決して投下(drop)ではない。これは「drop」ではなまなましいから、「use」に言い替えよう、といった問題ではなく、彼らの問題意識を如実に投影した言葉遣いだ。別に言い替えるなら、「use」は政治・経済問題だが、「drop」は軍事問題なのだ。

 この日の委員会を見る限り、「日本への使用」は戦後の「核兵器・原子力エネルギー」体制構築の一ステップとして論じられている。最後まで原爆投下に反対した核物理学者、レオ・シラードは、「広島への原爆投下から戦後の核競争・核拡散は始まった」と指摘しているが、彼は実に鋭く問題の本質を見抜いていたことになる。

 さて、議事録は「日本への使用」の項目を簡単に済ませている。討論の過程を全部省いて、結論だけ記録している感じだ。

 しかし、実際はこんなものではなかった筈だ。ただ議事録で記憶に止めていいことは、バーンズが原爆投下を主唱し、暫定委員会全体がそれに賛同した、ということだ。奇妙なことにスティムソンは、冒頭で当たり障りのない委員長挨拶をしたきり、この議事録には一切発言が記録されていない。

 確認しておこう。
 (1)日本への原爆投下(正確には、日本への使用)は、1945年6月1日の暫定委員会で勧告が決定された。
 (2)その際無警告で行うことも決められた。
 (3)投下目標決定は軍事問題である。
の3点となろう。

 ここで重要なのは、「(2)その際無警告で行うことも決められた。」ことの意味である。この「無警告で原爆投下」をする事の解釈は、「人道主義」の観点から論じられることが多い。代表的には、委員の一人ラルフ・バード(海軍省次官)が後に出した異議申し立てであろう。

 バード(海軍省次官)は、自分も賛同した、この委員会の決定勧告に対し、後に正式に異議を唱えている。バードは7月24日(といえばハンディの広島原爆投下指示書が出される前日だ)、スティムソンに対し極秘のメモランダムを送り、原爆投下に際しては、日本に事前警告を出すべきだとしている。(バードのメモはつぎのURLで見られる:http://killeenroos.com/5/bomb/bard.htm

 このメモでバードはS−1という言葉を使っているが、これは日本に落とす原爆の暗号だ。スティムソンも日記の中でこの暗号をしばしば使っている。

 バードは、2−3日猶予を置いた事前警告を出すべきだと主張し、こう云っている。
   「偉大な人道主義国家としての合衆国の地位、そして全体として云えばフェアプレイの精神を持った国民性からして、(この取り扱いについては)アメリカの国民感情に応えるべきである」
そしてこう続ける。

 「この警告が、日本政府に降伏の口実として使われ、和平の機会を模索するかも知れない」

 これはよく読むと、バードは、事前警告を出すべきだ、と言っているのでなく、日本への無差別投下に反対しているもとれる。少なくともその気持ちがにじみ出ている。

 しかし、バードは「日本に対する無警告使用」の本当の意味が理解できていなかった、と言うべきである。打撃を大きくし、日本に大して降伏への強制力を強めるために「無警告」としたのではない。ここの議論の過程は、暫定委員会も沈黙しているし、スティムソン日記も何も云ってくれない。唯一フランク・レポートだけがその意味を解説してくれている。問題の要点はいかなる形で戦後、核競争をスタートさせるか、である。

 フランク・レポートはこういう。

 「・・・この見解からすると、今現在秘密に進められている核兵器を、初めて世界に明らかにする方法が非常な、ほとんど運命的といえるほどの重要性を帯びるのである。
 可能な一つの方法は―核を秘密兵器として開発し、今回の戦争を終わらせる主要な手段として見なしている人々には、特に説得力をもつ方法だろうが―日本で適切に選択した目標に対して警告なしに使用することである。
その場合、最初に使える原爆が、―それは比較的効率が悪くまた小型だろうが―、日本から抵抗への意志や能力を打ち砕くのに十分かというとこれは疑問である。特に通常空爆で時間をかけてほとんど廃墟と化した、東京、名古屋、大阪あるいは神戸といった主要都市に爆撃した場合にはそうだ。重要な戦術的結果を招来するであろうことは、恐らく、いや確実に、間違いない。
しかしながら、云うまでもなく、対日戦争で最もはじめに稼働できる原子爆弾を使用する問題は、単に軍事当局によってのみ考量するのではなく、この国の最高レベルの政治的リーダーたちによっても慎重に考量されるべきだと考える。
もし全面的核戦争防止協定が、なににも替えがたい最高の目的だと、われわれが見なすならば、またそれは達成可能だと信じているならば、原爆をこのような形で世界に登場させると、いとも容易に条約の締結成功の機会を打ち壊すことになる。
ロシア、また同じ同盟国や中立国ですら、われわれの方法論と意図に対して不信感を募らせ、深い衝撃を与えることになるだろう。
何千倍も破壊的でロケット爆弾のように無差別的な爆弾を秘密裏に準備する能力を持ち、かつ突然その兵器を発射するような国が、自分だけしか持たないその当の兵器を国際条約で廃止しようとの主張が信頼されるかというと、その主張を世界に納得させることは難しいであろう。」


 少々長い引用だったが、フランク・レポートは核を巡る諸問題そのものは、暫定委員会と全く認識を一つにしていた、と言うことを念頭に置いておいて欲しい。ただそこから引き出している結論が全く異なっているというだけだ。

 戦後核競争をスタートするにあたって、最も効果的な方法は、
「日本で適切に選択した目標に対して警告なしに使用することである。」

 暫定委員会の関心は、すでに原子力エネルギーに関する戦後体制の構築にあった。軍事的に云えば日本はすでに「死に体」である。そうして戦後体制の中で核競争をスタートさせたいとする勢力があった。その「核競争スタート」の最も効果的な方法が、「広島に対する無警告原爆投下」だったのである。この意味ではまさにレオ・シラードの指摘の如く、「ヒロシマ」が「戦後核競争・核拡散」の出発点だったのである。
 (核競争は必然的に核拡散をもたらさざるを得ない)



 日本原爆投下の決定は、議事録ほど簡単ではなかった筈だ、と先ほど書いた。これには根拠がある。というのはこの委員会は科学者顧問団にも原爆投下(正確には、日本への使用)に関する意見を求めており、この4人の意見は割れていたからだ。次が4人である。

エンリコ・フェルミ http://en.wikipedia.org/wiki/Enrico_Fermi 
1938年のノーベル物理学賞受賞者)
アーサー・H・コンプトン http://en.wikipedia.org/wiki/Arthur_H._Compton 
シカゴ大学冶金工学研究所の責任者。
1929年ノーベル物理学賞受賞者)
アーネスト・O・ローレンス http://en.wikipedia.org/wiki/Ernest_O._Lawrence 
カリフォルニア大学バークレイ校・放射線研究所。
候補には何度もなったがノーベル賞は取れなかった。)
J・ロバート・オッペンハイマー http://en.wikipedia.org/wiki/J._Robert_Oppenheimer 
ロスアラモスの原爆組み立て計画の責任者(ロス・アラモス研究所長)
原爆製造の責任者という意味で、原爆の父、と呼ばれている。)

 スティムソンの陸軍長官声明では、オッペンハイマーが筆頭に書かれていたから、あるいはオッペンハイマーが座長格なのかも知れない。ともかくこの4人の意見は割れた。
グローヴズと仲のいいオッペンハイマーは云うまでもなく投下派だろう。シカゴ大学冶金工学研究所のコンプトンはレオ・シラードと考え方を同じくしていたから恐らく投下反対派だろう。(最後まで原爆投下に反対し続けたレオ・シラードは恐らく祈るような気持ちで、コンプトンに思いを託したのではなかろうか)

 その後4人は協議を重ね、6月16日に協議内容をとりまとめ、委員会に報告を送った。
(この報告書の原文は次:http://www.nuclearfiles.org/menu/key-issues/nuclear-weapons/history/pre-cold-war/interim-committee/interim-committee-recommendations_1945-06-16.htm

 この報告書を引用しよう。

「これら兵器をはじめて使用する件に関して、われわれ科学者顧問団の意見は一致を見なかった。(この“一致”はラテン語起源のunanimous という言葉を使っている。)その意見の幅は、純粋に技術的デモンストレーションとすべきという提案から、降伏を誘発するような最も効果的な軍事的適用、まであった。純粋に技術的デモンストレーションを提唱する人たちは、原爆の使用を無法(outlaw)と宣告したい人たちで、今の状況から原爆を使用すると、将来の話し合いにおいて反感を持たれることを恐れている。一方、即刻の軍事的適用を主張する側は、アメリカ人の生命を救う機会、と言う点に力点を置いている。そしてこのような使用は、国際的繁栄に取って大きな改善となると力説する。さらにこの特殊な兵器の廃絶を持ってするより、戦争の防止をもってする方により大きな関心を抱いている。われわれ全体の見解は、後者の見解により近い。われわれ全体は、技術的なデモンストレーションというより、戦争に終止符をもたらす方を提案する。直接の軍事的使用以外の代替案は受け入れがたい。」

 4人は一致を見なかった。しかしルールに則って4人の共通見解を出したのが、この報告書である。

 要は原爆による無差別攻撃は「無法」(outraw)という立場から、即時使用派まで、幅がありすぎる。4人の報告書は結局、6月1日の暫定委員会の結論を科学顧問団が追認したことになった。

 ここでもう一つ非常に興味深いことをこの報告書は述べている。
「さらにこの特殊な兵器の廃絶を持ってするより、戦争の防止をもってする方により大きな関心を抱いている。われわれ全体の見解は、後者の見解により近い。」

 すでにここに「核廃絶論」と「核抑止論」の対立の萌芽が見られる点だ。「このような恐ろしい兵器は廃止してしまえ」というのが核廃絶論だ。(恐らくコンプトンだろう)

 それに対し「核兵器は恐ろしい兵器だからこそ、相手は怖がって戦争を起こさない。戦争抑止力がある。核兵器はそういう風に平和を維持する力がある」というのが核抑止論だ。(恐らくオッペンハイマーだろう)

 しかしすでに見たように、核抑止論者の本音は「原子力エネルギー市場を維持発展させたい。そのためには原爆の継続的生産・備蓄を行わなければならない。またそのためには関連した原材料生産を続けなければならない。その生産への道を常にあけておかねばならず、そのためには核実験が必要だ」と云うところにある。いわば「核抑止論」は後からつけた屁理屈だ。屁理屈は常にわかりにくい。

 従って「核抑止論者」は常に「核備蓄論者」であり「核実験容認論者」である。これは3点セットなのである。

 6月1日の暫定委員会の結論は、委員長のスティムソンをさしおいて、バーンズがトルーマンの所に報告に行った、という。そしてトルーマンはこの委員会結論におおいに心を動かされたという。(ピーター・ウエイドン著:Day One: Before Hiroshima and after 163P)


 (以下次回)