No.24 平成21年3月30日

「中央アジア非核兵器地帯」発効の意義  「核兵器廃絶」へ着実に進む地球市民
中国新聞の記事

 2009年3月21日付中国新聞に「中央アジア非核条約発効」の見出しのもとに、カザフスタン、ウズベキスタン、キルギス、トルクメニスタン、タジキスタンの5カ国の間で「中央アジア非核条約」が発効した、という記事が掲載された。

 短い記事なので全文引用しておこう。

核兵器はなくせる(コラム名)

中央アジア非核条約発効
(4段抜き記事大見出し)

カザフなど5カ国 軍縮に追い風
(記事中見出し)

 中央アジア非核兵器地帯条約が21日(*09年3月21日)発効した。多国間の非核兵器地帯条約の発効は世界で四番目。核軍縮や、日本や朝鮮半島を中心とした北東アジア非核地帯構想にとって追い風になる。<吉原圭介>(以上リード)

(以下本文) 

 条約の対象はカザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンの5カ国。核兵器の開発や保有、自国内で他国の放射性廃棄物を廃棄することなどを禁止している。各国の署名(*参加各国の署名は2006年9月に終了している)と批准を経て発効にこぎつけた。

 一方他国がこの五カ国に対し核兵器の使用や威嚇をしないこと(消極的安全保障)などを求める「議定書」は発効のめどが立っていない。核兵器国の署名・批准が条件で、米国と英国、フランスが反対しているため。

 中央アジアは旧ソ連の崩壊により、一時的に核保有国になった。条約は1997年に五カ国首脳が構想に合意し、国連アジア太平洋平和軍縮センターが中心となって調整を重ねてきた。 』

 核兵器廃絶へ向かっては、大きな、大きな前進である。

 ただこの短い記事からは、中央アジア非核兵器地帯条約の、「核兵器廃絶」への意義はもう一つ浮き彫りにされていない。この記事の書き手も、「軍縮」にとって追い風、とやや見当違いなことを書いている。

 今回の、この私の記事は、「中央アジア非核兵器地帯条約」の発効が、「核兵器廃絶」へ向かっていかに大きな前進であるかを明らかにすることが目的である。


核兵器の起源

 核兵器は、その最初の実戦使用の瞬間から、各国の、特にアメリカの支配者層から2つの大きな期待をかけられていた。

1. 一つはその軍事経済的波及効果である。核兵器開発製造は厖大な裾野を抱える産業である。伝統的な軍需産業ではではなく、近年はエレクトロニクス産業、コンピュータ産業と密接に結びつき、関連分野に厖大な経済的利益をもたらしている。マンハッタン計画の軍部側責任者、レスリー・グローブズの天下り先が、当時まだ揺籃期にあったコンピュータ業界の雄、スペリー・ランドであったことは決して偶然ではない。またマンハッタン計画が、その後アイゼンハワーをして、民主主義社会の脅威としてその危険性を指摘させた「軍産複合体制」形成の直接のきっかけとなったことも疑えない。

2. 二つ目は、その政治的・軍事的パワーである。核兵器を保有することは圧倒的な政治的覇権を留保する。現実に、広島・長崎後の国際政治は、一面「核兵器」を中心に展開することになった。

 軍産複合体制に支えられた各国の支配体制、特にアメリカの、帝国主義的政策を基軸とする支配体制にとって、核兵器は最後の絶対の切り札であり、彼らが核兵器製造・保有・実戦配備を正当化する努力とその宣伝は、広島に原爆が投下された直後から、一貫して続けられてきた。

 一方広島・長崎の惨禍に関する知見だけでなく、核兵器による直接の被害は今や世界中に拡がり、「核兵器」を保有すること自体が、地球文明史的に危険であるという認識は今や地球市民の共通認識となりつつある。

 この知見の拡がりは、1945年当時、フランク委員会の科学者たちやヘンリー・スティムソンなどほんの一部の人たちしかいなかった時代と較べると圧倒的に大きくなりつつある。特にフィリッピン憲法に見られるように、核兵器はそれを開発・製造するだけでなく、運んだり扱ったりすること自体が「犯罪行為」と見なされるまでに認識が高まってきた。


核兵器不拡散条約の成立

 表面民主主義国家・人道主義国家の体裁を維持せざるをえない「軍産複合体制」国家はこうした地球的世論の高まりに配慮せざるを得ない。また「核兵器保有」を正当化する勢力のもう一つの狙いは核兵器の独占であり、別な言い方でいえば「核兵器不拡散」であり、その体制作りであった。

 こうした核兵器保有正当化勢力と核兵器廃絶地球世論の妥協の産物が「核兵器不拡散条約」だったということができよう。従って核兵器不拡散条約は次の3点を骨子とする。

(たとえばhttp://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kaku/npt/gaiyo.html この外務省のサイトは網羅的に核兵器不拡散条約を扱っている日本語サイトであり、極めて有益だ。)

1. 条約発効時における核兵器保有国以外の新たな核兵器の保有を認めない。
2. 条約に参加する核兵器非保有国は今後も核兵器の保有をしない。
3. 核エネルギーの平和利用は、軍事技術からの転用を含めてすべての条約参加国に平等に認められた権利である。
( 従って『核兵器不拡散条約』<Treaty on the Non-Proliferation of Nuclear Weapons>を英語社会で<Nuclear Non-Proliferation Treaty>としたり、日本語訳で『核不拡散条約』と訳したりするのは誤りである、というより場合によれば、上記3番目の骨子を隠蔽しようとする意図的な誤訳である。)

 以上3点に付随して、核兵器保有国は将来の核兵器廃絶を目指して、核軍縮努力を行うことと全ての条約参加国は、新たな核兵器の開発をしないことを確証するために、IAEA(国際原子力機構)の査察を受け入れる、特にIAEAの予告なしの査察を受け入れることを約束した追加議定書(プロトコル)を締結する、ことが義務とされた。
( 厳密に言ってすべての核兵器保有国は、この核兵器不拡散条約の義務違反を犯して、何らかの形で新たな核兵器開発を行ってきた。特に追加議定書も締結していないアメリカの義務違反は甚だしい。)

 しかしながら曲がりなりにも核兵器廃絶を究極の目的としている国際条約は、核兵器不拡散条約のみであり、その存在の価値は計り知れないほど大きい。

 核兵器保有国に先述の2つの大きな理由がある限り、また我々が資本主義的経済原則のもとで社会が成立するかぎり、核兵器保有国が自ら進んで核兵器を廃絶することは極めて困難であることは容易に見て取れる。少なくとも資本主義的経済原則を乗り越えた、地球文明史的視点にたたなければ、彼らが自ら核兵器を廃絶することはまず期待できない。

 核兵器保有国が、これまで何度も軍縮交渉を重ねながら、核兵器廃絶に至らない根本的な理由がここにある。敢えていえば、核兵器保有国同士の核軍縮交渉は、みせかけのポーズであり、それは永遠にゴールに達しない「ヘラクレスの矢」なのである。すなわち、核軍縮交渉を何度重ねても、ついには核兵器廃絶に至らない。5万発を2万5000発にし、2万5000発を1万2500発にし、1万2500発を1000発にしてみたところで事態は一向にかわらない。地球を滅ぼすには十分な破壊力なのだ。


核兵器廃絶への2つのアプローチ

 それでは、核兵器廃絶の道は全く閉ざされているのか、というとそうではない。

 大きく言って、2つのアプローチがあろう。

 一つは、フィリピン憲法とその憲法に精神を具体化した『非核兵器法』<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/philippines_2.htm>に明確に示されている如く、核兵器は、開発・製造・貯蔵・運送などそれを実戦で使用するとしないとにかかわらず、それを扱うこと自体が、もっとも恥ずべき犯罪である、という思想をまず地球市民社会の中に樹立することである。

 かつて「奴隷貿易」は、西ヨーロッパの一流の人士によって推進されてきた。また国家的保護がなければ、あれほど大規模な奴隷貿易は不可能だった。すくなくとも18世紀までは、「奴隷貿易」に手を染めることは、もっとも恥ずべき「犯罪行為」とは見なされなかった。

 アヘンに至っては19世紀の終わりまで、少なくともイギリス社会では、一流の人士、一流の会社によって運営されてきた。イギリスの一流商社「ジャーデン・マセソン」は、インドのアヘンを中国に輸出することによって大きくなった会社である。イギリスの国民議会は、人間を滅ぼすアヘンを断固として排除した清国政府に対して、その理由をもって宣戦布告を決議した恥ずべき歴史をもっている。

 21世紀の今日、いかなる資本主義的国家といえども、これほどあからさまな麻薬擁護の姿勢はみせまい。それどころか、今日麻薬を扱うものは、人間の中でも最下等のくずであり、正常な国民国家ならこれを「もっとも恥ずべき犯罪の一つとして、厳罰をもって臨んでいる。

 わずか100年かそこらの間に、国際的市民社会はアヘンに対してこれほどの認識の変化を見せている。

 地球を一瞬のうちに破滅させる蓋然性をもった核兵器が「例外」であろう筈がない。

 「奴隷取引」「麻薬取引」同様、「核兵器」を扱うことはもっとも恥ずべき犯罪行為なのである。ただ国際的に見れば、そうした世論がまだ確立していない、というに過ぎない。いったんこの世論が確立すれば、この世論に逆行して、核兵器を開発したり保有したりすることは、その国民国家にとって、精神的な自殺行為に等しくなる。


核兵器を生活空間から追放すること

 もう一つのアプローチは、「核兵器を扱うこと自体が犯罪」という国際世論の高まりを背景にして、地球市民がそれぞれの住む地域において、全ての核兵器を締め出してしまうことである。そして全ての公海、宇宙空間や空域にまで拡げていくことである。

 つまり「核兵器は犯罪」の理論をもって、自分たちの住む地域から全ての核兵器を追放し、「核兵器保有国」を地球的に包囲して行くことである。

 核兵器は、広島・長崎の時代と違って現在は、ミサイルの弾頭として搬送されている。しかし、核兵器の脅威、別ないいかたをすれば、使用しなくとも「脅す力」を最大限に高めるためには、核兵器を世界の各地で実戦配備することが必要である。ロシアを念頭に置いたブッシュ政権の東ヨーロッパ核ミサイル網の設置や、潜水艦からのミサイル攻撃が重要視されている所以である。

 世界の各地に、核兵器が持ち込めない地域がどんどん増えていけば、それだけ核兵器のもつ脅威は減じていく。もし核兵器保有国が最後まで、自国の核兵器保有をあきらめないならば、最終的には核兵器は自国領土内にしか配備・貯蔵できなくなるであろう。

 「核兵器国」を地球市民が包囲し、核兵器廃絶につなげるアプローチの一つとして、現在世界中に広がりつつある「非核兵器地帯」を捉えることができる。


「非核兵器地帯」の両義性

 こういうと或いは嗤うひともあるかも知れない。そうした論者はいうだろう。

 非核兵器地帯は決して、核兵器保有国包囲網として機能してはいない。それどころか、世界に非核兵器地帯ができていることは、核兵器保有国の核兵器独占を保障するものだ。』

 この論も一面の事実を衝いている。しかし物事には必ず両面性がある。この論者の言うことが、果たして今日説得力を持つものなのかどうか、非核兵器地帯の成立過程を中心に検証してみよう。

 まず、東南アジア非核兵器地帯の成立や「フィリピン非核兵器法」の成立に努力した、フィリピン大学・物理学教授(=当時)のロジャー・ポサダスは非核兵器地帯の意義についてつぎのように指摘している。
(「太平洋の非核化構想」岩波新書 1990年12月 論文「フィリピンの役割」より)

 アジア・太平洋地域における核戦争の危機を減少させる最も有望なアプローチは、ヨーロッパにおけるような核軍縮交渉を通じてのものではなく、この地域の超大国兵力を物理的に引き離し、彼らの作戦、干渉を許す領域を局限するような地帯を創設するためのアジア・太平洋の非核国家の協力を通じる道である。 』

 ポサダスがここで指摘していることは、「非核兵器地帯」は、核兵器保有国の世界戦略を寸断し、「彼らの作戦、干渉を許す領域を局限するような地帯」である、ということだ。そうしてその目的を持った国家同士が協力することが、少なくともアジア・太平洋地域において「核戦争」の危機を減少させる、ということだ。

 それはヨーロッパ流の「核軍縮交渉」よりも遙かに、核兵器保有国にとって打撃である、とも指摘する。

 私は、こうした非核兵器地帯の創設は、「核軍縮交渉」や「核実験禁止運動」など防衛的核兵器廃絶運動などに較べると、遙かに「攻撃的核兵器廃絶運動」だと考える。

 冒頭に引用した中国新聞の記事が、「中央アジア非核兵器地帯条約」の歴史的意義をもう一つ的確に捉えられていないのは、「非核兵器地帯条約」の「攻撃的核兵器廃絶運動」の側面を見落としているか、あるいは過少評価しているからに他ならない。

 しかしそれもやむを得ない。

 「非核兵器地帯」を私やポサダスのように「攻撃的核兵器廃絶運動」と捉える見方は、現在はまだ少数派であり、これに対して「非核兵器地帯」を「核兵器不拡散条約」の補完物であり、基本的には現在の核兵器保有国以外の「核兵器国を作らない」ことを目的とした国際的取り決めだ、とする見方が有力だからだ。

 典型的には、日本の外務省の見解だろう。



 たとえば、外務省調査月報2001年N0.3にある「東南アジア非核兵器地帯条約の背景と意義」と題する詳細な調査論文を見てみると、「非核兵器地帯」を「核兵器不拡散条約」の補完物とする見解が示されている。

 執筆者の山地秀樹はいう。

 トラテロルコ条約やラロトンガ条約は・・・その作成過程でグローバルな安全保障環境と地域的な非核兵器条約が齟齬を来さないような調整が図られ、結果として核兵器国による非核地帯条約への署名を得てきた。冷戦終結に伴い世界的な規模の武力紛争が生じる可能性が大幅に低下したバンコク条約作成時の安全保障環境下では、このように調整済みの既存の非核兵器地帯条約の内容を踏襲して条約を作成すれば、核兵器国の理解は容易に得られ、また、条約締結国が核兵器を保有することを防ぎ、核兵器国が当該締結国に核兵器保有を使用することを防ぐとの非核地帯条約の本来の目的を達成することはさほど困難ではなかったように思われる。しかし、このような状況下にあったにもかかわらず、バンコク条約にはあえて核兵器国が難色を示すような内容が含められていたのである。これらの意味で、バンコク条約は他の核兵器地帯条約と較べて、「特異」とも言える内容をもっている。』

 ここで山地は「非核兵器地帯条約」の目的を、「条約締結国が核兵器を保有することを防ぎ、核兵器国が当該締結国に核兵器保有を使用することを防ぐとの非核地帯条約の本来の目的」と明確に言いきっている。

 ところがバンコク条約、すなわち「東南アジア非核兵器地帯条約」は、こうした核兵器保有国の賛成を得られていない。得られていないにもかかわらず発効させた、一体なぜなのか、というわけである。

 上記引用箇所で、山地がこの論文を執筆した動機は言い尽くされている。

 すなわちー、
1. 「非核兵器地帯条約」は、本来「当該締結国が核兵器保有を防ぐことが目的」であり、核兵器保有国はその見返りに「当該締結国に対して核兵器の使用をしない約束を与える」ものだ。なおこの約束のことを「消極的安全保障」(negative security assurance)と呼んでいる。
2. これまでのトラテロルコ条約(これはラテンアメリカ・カリブ海非核兵器地帯条約のこと。一貫してこの条約の実現推進原動力となってきたメキシコ外務省前の広場、トラテロルコ広場にちなんでこう呼ばれる。)やラロトンガ条約(南太平洋非核地帯条約のこと。条約の調印が行われたクック諸島のラロトンガにちなんでこう呼ばれる。)では、核兵器保有国との「齟齬を来さないような調整が図られ」、核兵器保有国の署名と「消極的安全保障」を得てきた。
3. バンコク条約(東南アジア非核兵器地帯条約。条約の締結が行われたバンクにちなんでいる)では、冷戦後の締結であり、核兵器保有国との「齟齬を来さないような調整が図る」ことは、極めて容易であったにもかかわらず、あえて核兵器保有国が難色を示すような条項を含んでおり、核兵器保有国の署名を得ていない。結果として「消極的安全保障」を得ていない。
4. 核兵器保有国から「消極的安全保障」を得ない「非核兵器地帯」には意味がないにもかかわらず、東南アジア非核兵器地帯条約は「核兵器保有国が難色を示すような条項」を撤回しないままに発効した。そして未だに消極的安全保障を得ていない。なぜだろうか?

 これが山地の問題意識である。

 繰り返すが、山地の疑問の基層にある考え方は、「非核兵器地帯条約は、基本的に核兵器不拡散のためのツールであり、核兵器保有国が消極的安全保障を与えなければその意味はない。」というものだ。

 この見解は実は外務省全体の「非核兵器地帯条約」に対する基本的見解であり、外務省の見解をそのまま踏襲した、例えば広島市の平和祈念資料館の「核兵器開発・核軍縮の歩み」「非核地帯は広がる」と題するサイト<http://www.pcf.city.hiroshima.jp/Peace/J/pNuclear7_1.html>を見ても、「非核地帯」の広がりを紹介しつつ、

 非核地帯条約を実効性のあるものとするためには、当該地域の国々だけでなく、核保有国の条約への参加が不可欠である。 』

とまで明言している。

 この観点からすると、山地の問題意識の如く「消極的安全保障」を与えられていない東南アジア非核兵器地帯条約は意味のないものとなる。

 だが果たしてそうか?


「非核兵器地帯」は核兵器保有国包囲体制とする見解

 フィリピン大学のロジャー・ポサダスらは、非核兵器地帯条約を決して「核兵器不拡散」のためのツールとは考えていなかった。彼らは(すなわちASEAN諸国の市民たちは)、自分たちの住んでいる地域に「核兵器」などという、馬鹿馬鹿しく恐ろしい兵器を決して持ち込んで欲しくなかったに過ぎない。

 もとより彼らは、アメリカを初めとする核兵器保有国が心配するように、自分たちが核兵器を持つことなどは、さらさら考えていない。従ってASEAN諸国の市民たちは、「自分たちの地域」に核兵器を持ち込んで欲しくない、「自分たちの地域」をできるだけ広く解釈しようとした。それが「東南アジア非核兵器地帯条約」全体を貫いている一大特徴になっている。

 具体的に言えば、この条約の対象とする「地域」を前例のないほどに広げたのだ。どの条約もその条約が対象とする地域を定義しているが、それまでの例でいうとおおむね「領海」「領土」「領空」だ。領海とすると現在は法的12海里である。

 それを「東南アジア非核兵器地帯条約」では、排他的経済水域、すなわち200海里ゾーンあるいは大陸棚まで一挙に拡大してしまったのだ。このことが「核兵器保有国」には極めて不利と見られたのだ。これが実現してしまうと、東南アジア諸地域の島々が散らばる地域、たとえば南シナ海などには一切核兵器搭載艦船は近づけなくなってしまう。

 山地は前掲論文の中で、消極的安全保障を放棄してまで、排他的経済水域・大陸棚まで条約対象地域とした東南アジア諸国の姿勢を不可思議とし、その理由をいろいろ探っている。が、成功していない。

 それもそのはずである。山地は自ら立てた設問の中にすでに、自ら答えを出しているのだから。すなわち東南アジアの市民たちは「消極的安全保障」よりも、できるだけ広い範囲で核兵器を持ち込ませたくなかったのだ。山地は東南アジアの市民たちが「非核兵器地帯条約」を、「核兵器を近づけない」ツールとして捉まえていることに気がつかず、あくまで外務省(*すなわちこれはアメリカの見解でもあるが)の見解、「核兵器不拡散」のツールとしてのみ考えているために、東南アジア市民の固い決意が、条約を通じて読み取ることができないのである。


補完的非核兵器条約の7つの基準

 アメリカや、日本の外務省や、山地や、あるいは広島市の平和祈念資料館のウェブサイトは、「非核兵器地帯条約」を、「核兵器不拡散」のツールと考えている。彼らは核兵器不拡散条約(NPT)も「核兵器不拡散」のツールと考えており、その意味では世界中に広がりつつある「非核兵器地帯条約」は、NPTの補完物と見なすことができる。

 しかしそのためには、「非核兵器地帯条約」を純粋に「核兵器不拡散」のツールに押しとどめ、核兵器保有国の核兵器世界戦略に齟齬を来さないような基準が必要である、

 実はアメリカは、自国の核兵器世界戦略と齟齬を来さない「非核兵器地帯条約」の存在を容認する7つの基準を明確に打ち出している。この基準に合致する限り、当該非核兵器地帯条約を「核兵器不拡散体制」の補完物として承認し、「消極的安全保障」を当該非核兵器地帯条約の加盟国全体に対してあたえるというわけだ。

 この問題は、私は山地の前掲論文から学び、山地も詳細な議論を行っているので「山地論文」(以下山地論文と称する)から引用しておこう。

1995年に入ってバンコク条約(*東南アジア非核兵器地帯条約)の草案作成作業が本格化する。米国政府は1995年2月、インドネシア政府(*当時バンコク条約の推進エンジンのひとつはインドネシアだった。)に宛てた書簡の中で、米国が設けた非核兵器地帯を支持するための「7項目の基準」に合致する限り、東南アジアにおける非核兵器地帯の設置に賛成する用意があることを明らかにし、この動きに弾みをつけた。同年9月にバンドンで開催されたバンコク条約協議作業部会で条約草案作業がほぼ完了し、同年12月15日にバンコクで開催された第5回ASEAN公式首脳会議で東南アジア10カ国により署名され、1997年3月27日に発効に至るのである。』

 ここで山地のいう「7項目の基準」とは、山地は註で次のように書いている。

米国の7つの基準は次の通りである。

1. 非核地帯創設のイニシアティブが域内諸国から取られること。
2. 参加が重要であると考えられる国家がすべて、当該非核地帯に参加すること。
3. 非核地帯では、条約遵守のために適切な検証措置が与えられること。
4. 非核地帯の創設は、地域及び国際の安全保障に害を与え既存の安全保障上のアレンジメントに障害をもたらすものでなく、また、国連憲章で保障された個別的または集団的自衛権を奪うものでないこと。
5. 非核地帯は、その締結国がいかなる目的の核兵器の開発または保有を効果的に禁ずるものであること。
6. 非核地帯の設置は、自国の領土、内水及び領空での原子力推進及び核搭載可能な非締約国の艦船及び航空機による寄港、領空通過を含む通行の許可を与えるまたは拒否する締約国の国際法上の権利に影響を与えないこと。
7. 非核地帯のアレンジメントは特に公海での航行及び飛行の自由、領海及び群島水域の無害通航権、国際海峡の通過通航権並びに群島航路帯通航権に制限を与えるものでないこと。
1995年12月6日、米国国務省バーンズ報道官による記者会見での発表内容) 』

補完的非核兵器地帯と攻撃的非核兵器地帯

 アメリカは上記7つの原則を守る限り、「東南アジア非核兵器地帯」の成立に賛成しますよ、というメッセージを送ったわけだ。

 山地論文では、この7つの基準を発表したアメリカの態度を「米国の非核兵器地帯に対する立場変更」としているが、冷静に見れば、アメリカはこの時急に立場を変更したわけではない。前記「7つの基準」に従って、先行「非核兵器地帯」である「ラテンアメリカ及びカリブ海非核兵器地帯条約」や「南太平洋非核地帯」に対する態度を見てみれば、おおむねこの7つの基準に従って対応して来たことが見て取れる。

 ここで整理しておこう。

 「非核兵器地帯」には『両義性』があるということだ。

 ひとつは、核兵器保有国による「核兵器不拡散体制」の補完物としての「非核兵器地帯」である。この非核兵器地帯は、前記「7つの基準」(レーガン政権のときの国務長官ジョージ・シュルツがこの原則を定式化したので、私は勝手にこれを『シュルツ7原則』と名付けようと思う。)を満たす限り、核兵器保有国(特にアメリカ)の世界核兵器戦略体制にとって支障とはならず、むしろ「核兵器の独占」を強化するものとして、彼らの支配体制を補完するものとなりうる。私はこれを仮に『補完的非核兵器地帯』と名付ける。

 もう一つはフィリピン大学のロジャー・ポサダスが指摘するように、核兵器保有国の世界核兵器戦略を打ち破り、それを「非核兵器の理論=核兵器は存在自体が犯罪、で理論武装した上で核兵器保有国の自由を徐々に奪い、これを中級市民が包囲し、やがては核兵器軍産複合体制に「核兵器保有・配備」を断念させ、やがて核兵器廃絶を実現するアプローチとしての「非核兵器地帯」ある。私はこれを『攻撃的非核兵器地帯』と名付ける。

 これまで成立した世界の「非核兵器地帯」乃至「非核兵器地位」を見る時、こうした「両義性」がそれぞれ存在するという観点が極めて重要だと思う。

参考資料<世界の非核兵器地帯成立の流れ>http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/Nuclear_Weapon_Free_Zone/
nagare.htm
参照のこと。)

消極的安全保障の意味

 東南アジア非核兵器地帯の場合、アメリカを始めとする核兵器保有国はいずれも、核兵器保有国の「消極的安全保障」を定めた追加議定書を批准していない。それは、シュルツ7原則から言えば、対象地域の大幅な拡大、すなわち大陸棚や排他的経済水域にまで拡大し、核兵器保有国の世界核兵器戦略に大穴を開けている。これを認めてしまえば、事実上東南アジア全域には、核兵器を持ち込めなくなってしまう。これが、彼らがこの「非核兵器地帯」を認めない理由である。このアメリカの「シュルツ7原則」は今も変わらない。

 そのかわり、核兵器保有国は「東南アジア非核兵器地帯条約」の構成国10カ国に対して「消極的安全保障」を与えない、言い換えれば、「核兵器の使用」を行わない、あるいは「核兵器による威嚇を行わない」という約束を与えないわけだが、ASEAN諸国はこれを全く意に介していない。

 従来の日本の外務省やシュルツ7原則の立場、「補完的非核兵器地帯」の立場からすれば、こうした「非核兵器地帯は存立の意味はない」ということになる。

 が、果たしてそうか?

 「攻撃的非核兵器地帯」の立場から言えば、事態は全くそうならない。ASEAN諸国10カ国が一致団結してこれだけの意思表示を行っているにもかかわらず、この地域に核兵器搭載艦船や航空機を入れるには、これまで以上の抵抗があろう。

 それに外務省や広島市の平和祈念資料館のウェブサイトや、一部論者の問題とする、核兵器保有国からの「消極的安全保障」の問題はどうなのか。もちろん「消極的安全保障」を取り付けた方がいいが、しかしNPT体制が今までになく確立している現在ではそれも大きな問題にはならない。

 各地域の「非核兵器地帯条約」はよく観察すれば、NPT体制の大枠の中で成立している。「非核兵器地帯条約」参加国は例外なしに、NPT締結批准国である。

 冒頭にも触れたように、NPTは不十分ながら、唯一「核兵器廃絶」を究極の目的とする「国際的合意」である。そのNPTは次の3点を骨子とする。

1. 条約発効時における核兵器保有国以外の新たな核兵器の保有を認めない。
2. 条約に参加する核兵器非保有国は今後も核兵器の保有をしない。
3. 核エネルギーの平和利用は、軍事技術からの転用を含めてすべての条約参加国に平等に認められた権利である。

 この条約の精神は、「核兵器の先制攻撃」どころか、核兵器の使用や核兵器による威嚇を禁じているばかりか、核兵器の新たな開発も禁じている。
もっともこの点については、核兵器保有国は厳密には守っていない。)

 「消極的安全保障」の問題については、当然のこと大前提である。もともとNPTは「核兵器保有国」が核兵器を使用したり、核兵器による威嚇を行わないことを前提に「非核兵器保有国」が参加している。そのかわりに「非核兵器保有国」は、「核兵器を将来にわたって保有しない」ことを約束した上でNPTに参加しているのだ。いわば、NPTは「非核兵器保有国」が「核兵器保有国」を「信頼」することによって成立している。「消極的安全保障」などという言葉を持ち出さなくてもこんなことは大前提だ。

 もっとも1969年NPT成立時、「非核兵器保有国」の「核兵器保有国」に対する不信感は根強く、NPT体制が維持できなくなる恐れがあった。それも当然である。NPTを成立させながら、核兵器保有国は「NPT」の精神を次から次へと踏みにじるようなことを行ったのだから。非核兵器保有国が核兵器保有国を「信頼」できなくなるのも当然であった。

 このため核兵器保有国は、わざわざ核兵器国が非核兵器国に対して消極的安全保障を与えるとの一方的宣言をおこなわなければならなかったほどだ。
岩田修一郎「核戦略と核軍備管理―日本の非核政策の課題」 日本国際問題研究所1996年 52P及び83P)


消極的安全保障は一度した約束

 つまりNPTに参加する以上、「非核兵器地帯条約」がどうあれ、「核兵器保有国」の「非核兵器保有国」に対する「消極的安全保障」は「一度した約束」なのだ。

 「一度した約束」を二度、三度と約束することには大きな意義がある。しかし「一度した約束」を二度、三度約束しないからといって「一度した約束」がなかったことになるわけではない。

 こうした約束は果たしてどこまで拘束力があるのか?どこまで実効性があるのか?それはだれも保証できない。

 ただし歴史的いきさつから見れば、一定の拘束力があることは事実だ。たとえばNPT成立以前、朝鮮戦争で「原爆を使用するか、しないか」の議論がアメリカで公然と議論されてきたのはよく知られた事実だ。

 朝鮮戦争から10年以上もたった1966年9月、元大統領のドワイト・アイゼンハワーは、朝鮮戦争の休戦を強要するために核兵器を使用するという脅しをかけたことを明らかにした。この時彼は次のように認めた。

もし休戦に向かう動きが見られなければ・・・・われわれは、われわれが使用する兵器の種類によって縛られることはなくなるだろう、ということを相手方に知らせた。
・・・わたくしは、この大物兵器を使って都市を破壊しようというつもりはない。しかし、われわれは戦争に勝つために十分それを使うつもりであり、だから、われわれはもちろん、それを非軍事目標にではなく、軍事目標に限定することに務めるつもりだった。』
(シドニー・レンズ著 「軍産複合体制」岩波新書 小原敬士訳 1971年7月 なおレンズはこの箇所を1966年9月19日付シカゴ・サン・タイムス19Pに掲載されたインタビュー記事を引用しながら書いている。)

 また1954年フランス・ベトナム戦争の時、ディエン・ビエン・フーの戦いに敗れたフランスがベトナム撤退を決定した時、ベトナム撤退を思いとどまるようにフランスを説得したアイゼンハワー政権の国務長官ジョン・ファスター・ダレスはフランスの外務相ジョルジュ・ビドーに次のように提案したという。

ビドーの回顧によれば、(*提案は2回あり)最初の提案はベトミン共産軍に対する中国補給路に対する反撃として、インドシナ国境に接する中国領に、一つか二つの原子爆弾を投下したらどうかというものであった。二回目は、ディエン・ビエン・フーのベトミン軍に二つの原爆を投下しようという提案だったと覚えている。』
前掲書 なおレンズはここを「デュアル・アット・ザ・ブリンク」<ロスコー・ドラモント及びガストン・ゴブレンツ共著 1960年 ニューヨーク ダブルビー社>の121Pに掲載されたビドー本人に対するインタビュー回顧記事を引用しながら書いている。)

 1961年、ケネディ政権がラオス危機に介入した時、アメリカ統合参謀本部はラオスに停戦をおしつけるために、核爆弾投下の脅しをかけた。それによるともし通常兵力での攻撃に失敗した場合、

核爆弾投下の威しをかけ、そして必要ならそれを実行する。もしもソ連がそれに続いて介入してくるならばわれわれは「全面戦争の可能性をうけいれる覚悟」をしなければならない。』

という提案だった。
前掲書。なおレンズはこの部分を、ケネディの第一側近だったシオドア・ソレンセンの書いたケネディの伝記「ケネディ」<1965年 ニューヨーク ハーパー社>757Pを引用しながら書いている。)

 同じ1961年、ベルリン危機が発生した時、ソ連の西ベルリン封鎖に対抗して「水爆が使用を使用できる環境を作り出すべきだ。」と当時のNATO最高司令官ローリス・ノースタッドはケネディ政権に提案した。
前掲書 なおレンズはこの部分をアーサー・シュレジンジャー・ジュニアがケネディ政権について書いた「1000日」<1965年 ボストン ホウトン・ミフリン社>852Pを引用しながら書いている。)

 1962年10月に発生した「キューバ危機」は余りにも有名だ。またアメリカ・ベトナム戦争の時に核兵器の使用が何回か計画された話も有名だ。


公然と議論できなくなった核兵器攻撃

 しかし1969年「核兵器不拡散条約」の成立以来、こうした話はピタッと止まっている。1969年以降サイゴン陥落までのベトナム戦争の間にも核兵器使用の話はあったと伝えられているし、その後のカンボジア紛争の時にも核兵器使用の話があったと言われている。しかし事実として確認されていない。(恐らくはあったと思う。)

 湾岸戦争の際にも、今回のイラク戦争、アフガン戦争に際しても、あるいは核兵器使用の話は、米軍部の中では出ているのかも知れない。それは分からない。しかしはっきりしていることは、1969年以前のように後で証拠が残る形では議論されていないということだ。つまりそれを検討すること自体が、NPTの精神に違反するということで、「非核兵器保有国」の不信を招き、国際問題になりかねないからだ。

 NPTという枠内での約束事は、こうして歴史的いきさつに照らしてみれば一定の拘束力・制御力(それは抑止力ではない)を持ってきたというべきであろう。


NPT体制の中で成立している非核兵器地帯条約

 従って注意深く観察すれば「非核兵器地帯条約」もNPT体制の大枠の中で成立してきたことがよく分かる。

 たとえば、アフリカ非核兵器地帯条約は1996年に署名され、現在54カ国が参加しているが、これは1991年「核兵器保有国」であった南アフリカ共和国が保有核兵器を完全廃棄し「非核兵器宣言」を行った上で、NPTに加盟することによってはじめて、「アフリカ非核兵器地帯条約」が成立する条件が整ったのである。残念ながら、条約締結各国のうち、批准国が規定に満たないため、まだ発効にはいたっていない。
しかし批准国はすでに2008年現在26カ国に達しており、発効要件批准国数28カ国に後一歩である。しかし、アフリカのアラブ諸国はイスラエルが核兵器廃絶をするまで、この条約は批准できないと言っていると伝えられている。それでもアフリカ・アラブ諸国の内、アルジェリア、リビア=例のカダフィ大佐のリビアである、モーリタニアの3カ国はすでに批准を終えている。<http://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Pelindaba>

 もともと「補完的非核兵器地帯」の色合いが濃く、核兵器保有国も早くから署名・批准をしてきた「ラテンアメリカ・カリブ海非核兵器地帯条約」も、参加各国がNPT体制を上手に利用することによって、徐々に「攻撃的非核兵器地帯」の性格を強めてきた。それまで激しく核兵器開発競争を行ってきたブラジルとアルゼンチンが、「核兵器廃棄宣言」を共同で出し、NPTに参加した。それを見たチリも核兵器廃棄宣言を行ってNPT参加。1994年にはアルゼンチン、チリ、ブラジルが、申し合わせたように「ラテンアメリカ・カリブ海非核兵器地帯条約を批准した。形勢を見守っていたキューバも2002年、核兵器保有をしないことを誓って、これを批准し、これで全てラテンアメリカ・カリブ海の独立国がすべてこの非核兵器地帯に参加することになったのである。

 この条約では、各国個別の安全保障政策は自由としているため、安全保障条約を結んだ相手国の核兵器搭載艦船や航空機の寄港は妨げない、という弱みはあるものの、核兵器の配備は国際法上不可能である。またこの条約は、条約が守られているかどうかの検証作業をIAEAに寄託している。この条約では、NPTでは追加議定書扱いとなっている予告抜きのIAEA査察も「チャレンジ査察」として義務化されているなど、NPT体制より更にすすんだ仕組みを持つに至っている。

 アメリカにしろ、ロシアにしろ、イギリスにしろ、この地域で核兵器を事実上常備配備はできなくなってしまった。アメリカとカナダは核兵器非保有国の「核兵器締め出し包囲網」によって南から囲まれてしまったわけだ。

 さらに大きな成果は、アメリカはキューバに対して、国際法上核兵器攻撃をしたり、あるいは核兵器を使った威嚇をしたりすることが2重にできなくなったことだ。この地域の安全にとってどれほど大きな意義があるか計り知れない。


前代未聞のモンゴル1国非核兵器化

 こうして1998年、世界の核兵器地帯成立の歴史の中で、未曾有の事態が発生する。モンゴル共和国が「一国非核兵器地帯」を成立させたのだ。この年国連総会が、1992年国連総会でモンゴル首相オチルバトが宣言した「モンゴル1国非核地帯」宣言を承認したのだ。

 モンゴルはロシアと中国という核兵器保有国にぐるりと取り囲まれている。しかも歴史的に、核戦争の脅威に苛まれてきた。しかし他の地域のように、隣国と連携して非核兵器地帯を形成することは地政学上不可能である。1992年最後の駐留ロシア軍が撤退したのをきっかけに、前述の宣言に踏み切った。外国軍駐留という条件のもとでは、「核兵器の非存在」を証明し、世界に納得してもらう事はむつかしいが、駐留外国軍がいなくなると、その障碍は取り除かれる。
(それでなくても。存在の証明ができるが非存在の証明は不可能に近いほどむつかしい。)


 「一国非核兵器地帯」は史上例がなく、正式にはこれを非核兵器地帯とは呼ばずに「非核兵器地位」(英語ではNuclear-Weapons-Free Status)と呼んでいる。

 そしていよいよ、冒頭の中国新聞の記事で紹介したように、「中央アジア非核兵器地帯」の発効である。


中央アジア非核兵器地帯の歴史的意義

 「中央アジア非核兵器地帯」の歴史的意義をもっとも的確に捉え日本語の記事は中国の「人民網」日本語版である<http://j.peopledaily.com.cn/94474/6619882.html>

 引用しておこう。

「中央アジア非核兵器地帯条約」(セメイ条約)が21日に発効した。中南米、南太平洋、アフリカ、東南アジアに続き、世界で5番目、北半球で最初の非核地帯が誕生した。
 セメイ条約には

(1) かつての核保有地帯に非核地帯を設ける初の条約
(2) 中央アジア5カ国による初の地域集団安全保障協力条約
(3) 発効後18カ月内に各締約国が国際原子力機関(IAEA)との補足協定に調印し、条約の定める責任の全面的な履行を確保することを初めて規定
という3つの特徴がある。 』

 確かに指摘の通り中央アジア非核兵器地帯条約は、北半球だけで成立する初めての非核兵器地帯条約である。それだけ北半球の非核兵器地帯化が遅れているということでもある。

 またカザフスタンは、かつてソ連の崩壊後、カザフスタン共和国として独立した時、旧ソ連の持っていた核弾頭を約1400発も引き継ぎ、一時的にはではあるが、世界第4位の核保有国となっていたことがある。1995年にこうした核弾頭をすべてロシアに引き渡した上で、非核兵器宣言を行ってNPTに加盟した。

 なおこの時、世界第三位の核兵器保有国になったのは、やはり旧ソ連から独立したウクライナ共和国であった。ウクライナの引き継いだ核弾頭は約5000発であった。1996年までにウクライナはこうした核弾頭を完全廃棄するか或いはロシアに引き渡した後、非核兵器宣言を行ってNPTに加盟した。

 カザフスタンは長い間、旧ソ連の核実験場であったセメイ(旧名称はセミパラチンスク)を領土内に抱えており、この実験の影響で多くの放射線被害者(被曝者)を抱えている。その悲惨さは身を以て経験している。おまけにこの非核地帯条約に参加したカザフスタン、キルギス、ウズベキスタン、トルクメニスタン、タジキスタンの5カ国は、その周辺をロシア、中国、インド、パキスタン、そして中東地域を挟んでイスラエルという核兵器保有国に取り囲まれている。

 こうした5カ国の市民は、旧セミパラチンスク地域の被曝者たちの惨状をよく理解している。そればかりでなく、セミパラチンスク医科大学、セミパラチンスク救急病院、カザフ放線医学環境研究所、セミパラチンスク市立がんセンター及びセミパラチンスク病理診断局と広島大学は長年「国際交流協定」が結んでおり、この国際交流協定を通じて、広島大学の放射線病やがんなどの専門チーム(広島大学・原爆医療研究所、医学部、歯学部の医師・研究者などからなるチーム)がセメイに送られて、診療や現地人材育成に当たっている。

 こうした交流を通じて、中央アジアの人々は、1945年8月の広島と長崎に何が起こったかをよく知っている。


「核兵器のない世界」に暮らしたい

 核兵器保有国にぐるりと取り囲まれ、しかも核兵器の恐ろしさを知悉している現地の市民の「核兵器対して抱く恐怖」は、私自身は直接取材していないが、おそらく想像以上のものがあろうと察せられる。

 彼らが自分たちの暮らす地域から核兵器を追放したい、と考えるのは当然すぎるほど当然なことだ。「核兵器で自国を守る」などということがいかに馬鹿馬鹿しい幻想であるかは、身をもって理解している。核兵器はいったん使われれば誰にとっても終わりなのだ。

 従って1991年のソ連崩壊の翌年1992年には、はやくもカザフスタンが、ソ連から引き継いだ大量の核兵器の段階的削減を宣言した。これは当然将来の核兵器廃絶、非核兵器地帯の創出を視野に入れてのことだった。そして1993年9月には同じ思いをいだくウズベキスタンが「中央アジア非核兵器地帯」の創設を提唱した。最大の障害だったカザフスタンの核兵器も前述の如く、1995年には完全にロシアに引き渡し、域内に核兵器はなくなったことから、構想は一挙に現実味を帯びた。

 それから10年以上の歳月を経て、2006年9月には「中央アジア非核兵器地帯」が成立し5カ国が調印した。各国の批准は2008年には全て終了していたが、この条約は、中国人民網が伝えているように、調印後18ヶ月以内に各国がIAEAと補足協定に調印することを発効の要件としている。

 そのIAEAとの補足協定調印が2009年3月21日に完了したのでこの非核兵器地帯条約が正式に発効したのだと思われる。思われるというのはこの点に関する情報が私に不足しているからだ。

 想像では、核兵器の「不存在証明のための検証」と査察をIAEAに委ねるという内容の補足協定なのではないかと思われる。もしそうだとすれば、中央アジア非核兵器地帯の構造は、現在のラテンアメリカ・カリブ海非核兵器条約同様の構造、すなわち「非核兵器地帯構築」はあくまでNPTの枠内で行い、その検証はIAEAに依頼するという構造をもつものだと考えられる。


興味を引く核兵器保有国の対応

 もう一つ私が是非とも知りたいのは、核兵器保有国のこの条約に対する対応である。現在のところロシアと中国はこの条約を批准する方向と伝えられる。そしてアメリカ、イギリス、フランスは批准どころか、この条約に反対だと伝えられる。(2009年3月21日付け中国新聞)

 もしこの3カ国が反対なのだとすれば、何故なのか。想像ではこの条約の存在自体が、ロシアの世界核兵器戦略の一環という見方をしているからではないかと思う。

 推測に推測を重ねる形で大変申し訳ないのだが、もしそうだとすれば、彼らは大変な思い違いをしていると言わざるを得ない。中央アジア5カ国の市民たちは、核兵器を自国の領土内に、自分たちの暮らしている地域におきたくないのだ。こんな危険なものと一緒に生活はできないと言っているのだ。それが掛け値なしの本音である。

 それは現在まで成立した全ての「非核兵器地帯」に住む市民たちの共通した思いなのである。彼らが地球市民として偉いのは、その思いを国際政治の中で実行に移し、国際法上の保障措置を講ずることに成功したことだ。これが「核兵器廃絶への道」への正真正銘の本筋である。

 1984年、ニュージーランドの総選挙においてデビッド・ロンギ率いる労働党が「反核兵器」を掲げて戦い勝利した後、アメリカに対して突きつけた言葉を今思い出す。

 この時ロンギはこう言ったのだ。

われわれは核兵器で守って貰うことを望まず、核抑止戦略がわれわれの安全保障に役立っているとは考えず、またわれわれは西側の価値、すなわち民主的価値を信奉しているので、これを通常兵器のみで守って貰いたいと考えていることを合衆国に分かって貰いたいと思って、その意思表示のために合衆国に次のように言いました。

  「われわれは原子力推進または核武装した軍艦がわが国を訪れることを望まない」』
(岩波新書「太平洋の非核化構想」のなかのカンタベリー大学、ケビン・クレメンツ教授の講演より)

 アンザス同盟下にあるニュージーランドから、すべての原子力艦船・核兵器の寄港をきっぱりと断られた、レーガン政権は怒り狂った。当時の国務長官は、例の「核兵器のない世界」という共同論文を発表したジョージ・シュルツだったが、シュルツはニュージーランドをアンザス同盟から追い出したばかりか、ロンギ政権を「世界の安全保障体制の破壊者」「気違い」としてことあるごとに非難した。しかし、ロンギは一歩も引かなかった。背後にはニュージーランド市民の圧倒的な支持があったからである。

「拝啓河野衆議院議長殿 21世紀を、歴史的和解の世紀としませんか?」「その8 世界に広がる核兵器廃絶への地球市民の戦いー核兵器の所有は犯罪とするフィリピン非核兵器法案までー」のうち「核兵器をきっぱり拒絶したニュージーランド」の項参照のこと。
<http://www.inaco.co.jp/isaac/back/022-8/022-8.htm>

 アメリカとニュージーランドとの関係は今はよほど改善したが、それでもアメリカはニュージーランドを許していない。オーストラリアの奔走で、最終的には、南太平洋非核地帯条約は、なんとか「シュルツ7原則」を守った形に仕上がった。しかもオーストラリアはアメリカのためにいろいろ抜け道を作ってやった。
後で触れるファースは、「核の海」の中で、こうしたオーストラリアの裏切り行為を多少の憤慨を込めて書いている。)

 こうして南太平洋非核条約は成立し、「核兵器5大国」は同条約の「消極的安全保障」を定めた追加議定書に署名はしたが、アメリカだけは未だに批准していない。

 今も鞏固に原子力艦船・核兵器の寄港を拒否するニュージーランドを許していないのだと考えられる。



 一方、中央アジア5カ国の市民たちが、核兵器に関する態度をなぜ自分たちの意志のみで決定できたのか、という問題がある。この問いに対する答えを探っていくと、それは「旧ソ連が崩壊し、これら5カ国が独立し、自分たちの運命を自分たちで決定できるようになったからだ。」という極めて単純な事実に突き当たる。

 これに関しても、南太平洋非核条約成立への立役者だった、バヌアツ共和国の与党バヌア・アク党の書記長バラク・ソペが、首都ポートビラで開催された「非核独立太平洋会議」で行った基調講演の一節を思い出す。この時ソベはこういった。

 非核化運動の中心目標である太平洋諸国の非核化は真の独立を達成しない限り不可能であって、太平洋の核の歴史はこれら諸国が独立を果たしていなかったことに原因があった・・・。

 (*ムルロア環礁のある)タヒチの住民には、核爆弾が彼らの土地で実験されるか否かを決定することができない。決定権はフランス政府にある。

 バヌアツは非核国家の道を歩んでいるが、それはかつての宗主国であるイギリスやフランスではなく、バヌアツ国民がそう決定したからなのだ。』
(スチュアート・ファース=現国立オーストラリア大学教授 1987年 「核の海」<原題「Nuclear Playground」>岩波書店 河合伸訳 1990年7月18日 第1刷)

 自分の運命を自分たちで決定する、この当たり前の民主主義の大原則にこそ、「核兵器廃絶」の出発点がある、この単純明快な原理をソベは指摘したのだ。


核兵器廃絶に向かって着実に進む地球市民

 この記事を書いている最中に少なくとも私にとっては衝撃的ニュースが伝えられた。

 フランスが自ら行った「核実験被曝者」に補償をするというのだ。このニュースを朝日新聞(2009年3月25日付け)から引用しよう。(パリ=国末憲人)

 フランスのモラン国防相は24日、サハラ砂漠と南太平洋で実施した核実験による被曝者に対して大規模な補償を実施する方針を明らかにした。このために先ず1000万ユーロ(約13億円)を拠出、これまで機密扱いだった核実験情報も公開する。

 同日付フィガロ紙に掲載されたインタビューで国防相が明言した。米など核保有各国が次々と被害者補償に踏み切る中、仏は被曝者の存在自体を認めない態度をとり続けてきただけに、大きな転換と受け止められている。』

 このフィガロ紙を引用した朝日新聞の記事ではアルジェリア及び南太平洋諸地域で行った核実験の回数は210回に及び、実験に携わって被曝した可能性のある兵士や作業員の数は15万人にも上るという。アルジェリアや南太平洋の被曝市民の数まで含めるとその数はちょっと見当がつかない。

 さらにモラン国防相は大気の汚染状況など核実験情報を大幅に公開する意図も表明し、

このような方針を打ち出すことに対して<核抑止力を築いた努力が報われないのでは>との疑念が政府内でも強かった。ただ、もはや補償を拒み続ける時ではない。仏戦力の整備に貢献した人々が(*これは被曝した元軍人や元作業員のこと)が長い裁判に関わる事態を避けたかった」と説明した。』

 とこの記事は結ばれている。

 アルジェリアでフランス核実験の被害状況を詳細に調査している2人のアルジェリアの物理学者の講演を、広島で聴いたのは、昨年2008年8月6日の夕べであった。この2人はグローバル・ヒバクシャ研究会に講師として招かれ、アルジェリアの被曝者の実態をわれわれに報告したのだった。講演終了後、この2人にフランス政府の姿勢を尋ねたところ、フランス政府はますます秘密主義に走っており、核実験情報すら永久に秘密にする法案が通過してしまった、サルコジが大統領でいる限り好転する見込みはない、と語っていた。

 それからわずかに半年あまり、フランス国内の元軍人被曝者からの強い圧力があったとはいえ、フランス政府の急転回ぶりである。私は、フランス国内での「反核運動」の状況に関しても、アルジェリアの状況に関しても、また最大被害者である南太平洋諸島の市民たちの運動に関しても、疎い。

 しかし彼らの粘り強い運動が、一歩一歩フランス政府を追い詰めていったことは恐らく想像に難くない。


日本の市民の責任・・・

 今地球市民は、「核兵器廃絶」に向かって一歩一歩進んでいる。それぞれの地域で、それぞれの市民が、そのときできることを進めながら、核兵器廃絶に向かって進んでいる。

 翻って、われわれ日本の市民が、われわれが今できることを一歩一歩積み上げているだろうか、と考えて見ざるを得ない。われわれは他の地域の地球市民に対して責任を負っている。

 今われわれができることはなにか。そして積み上げの出発点は何か。

 言うまでもないだろう。それは日本にいかなる形でも「核兵器」を持ち込ませないことだ。「核兵器」に関して、われわれ日本の市民の運命を、アメリカに決めてもらうのではなしに、われわれ日本の市民が決定できる、というこの当たり前の民主主義の大原則を取り戻すことだ。そしてこの大原則を取り戻す過程で、「まやかしの非核三原則」を廃して、非核三原則を国の法律とし、その査察と検証をIAEAに寄託することだ。

 日本から「核兵器」を完全に追放することだ・・・。