2006.3 
追加記述および訂正(2011年8月24日)
<追加2013.6.10 ABCCの生い立ちと役割・放射線防護政策の骨格と成り立ち・LSS の問題点>

ABCCを理解するための参考資料
1. ABCC(原爆傷害調査委員会)全体報告1947年 
2. 日本政府放射線防護政策の成り立ちと骨格
3. 原爆被爆者寿命調査(LSS-Life Span Study)の信頼性に関する問題点一覧


ABCC―原爆傷害調査委員会―
(Atomic Bomb Casualty Commission)について



<追加> ABCCの生い立ちと役割(クリックでPDFが開きます)


(以下2011年8月24日付け追加本文)

  現在、3月11日に発生した東京電力福島第一発電所事故による日本列島放射能汚染問題に関する勉強の一環として「電離放射線の人体に対する影響」を勉強している。参考書の一つ、中川保雄が、『放射線被曝の歴史』(株式会社技術と人間 1991年。なお同書は現在絶版だが、明石書店が『増補 放射線被曝の歴史』として11年10月中旬、復刊・刊行予定だという)の中でABCCについて触れている。非常に重要な記述だと思うので、ここに引用しておく。

 また、これを機会にこの記事の訂正・追加も行った。中川の記述の引用は青字で『 』に示している。

・・・核兵器の開発と結びついた放射線に関する研究にたずさわった科学者が何よりも恐れ、対処すべき難題の第一のものと考えたのも、放射線被曝による人類の緩慢な死に対する人々の恐怖が広がることであった。』(同書44p)

 「放射線被曝」に対する市民の恐怖感が拡散することをもっとも恐れたのは、核エネルギー開発を進め、これを人類の「エネルギー革命」の中心に据えようとしていた当時のアメリカの支配層だった。マンハッタン計画で生じたヒバクシャ(特に兵器級プルトニウムを製造していたワシントン州ハンフォード工場や兵器級ウランを製造していたテネシー州のクリントン工場での兵士・労働者たち)の存在をよく知っていただけに、彼らこそ当時放射線被曝の恐ろしさをもっともよく知るものたちだった、と言わねばならない。

 それだけに、ウィルフレッド・バーチェットが南日本報道管制の網をかいくぐって広島に入り、1945年9月5日付けで、ロンドンのデイリー・エクスプレス紙に掲載した「The Atomic Plague」(原子の伝染病)の記事がアメリカ・トルーマン政権に与えた衝撃は大きかった。この記事の中で、バーチェットは自分の見たままの広島の惨状を報告したばかりでなく、原因不明の伝染病にかかって死んでいく広島市民の様子も報道した。そしてこの様子は世界中の人たちに大反響を呼んだ。

 マンハッタン計画の軍側最高責任者レスリー・グローブズはただちに反撃に出た。9月9日日後、グローブズはアラモゴードの核実験場(トリニティ実験場)に乗り込み、アメリカから選りすぐった30人のジャーナリストを集めて、いかに実験場に残留放射能が残っていないかを説明する。各マスコミは実験場に放射能が残っていないという「事実」を報道した。同時にグローブズは、自分の片腕、軍側副最高責任者トーマス・ファレルを日本に急遽派遣し、広島で記者会見させ、「広島には残留放射能はない。死ぬべきものはすべて死に絶えた。」と発表させ、日本のマスコミに報道させた。

 「核によるエネルギー革命」を推進するものに取って、放射線(電離放射線)の影響は、出来る限り最小限でなければならなかった。ましてや一般市民が放射能に対して恐怖感をもつなどはもってのほかだった。

 ・・・このためアメリカの原子力委員会やNCRP(アメリカ放射線防護委員会。事実上アメリカ原子力委員会の一組織として1946年に成立。前身は1928年に成立したアメリカX線ラジウム防護委員会)は、1940年代の終わりから1950年代のはじめにかけて、放射線による遺伝的影響の問題において、いかにすれば主導権を握って国際的議論をリードし、リスク受忍論を主柱とする許容線量体系を全面的に導入することができるか、というテーマに必死になって取り組むことになった。

 その目的から当時アメリカが力を注いだ研究分野が二つあった。もちろん第一に、広島・長崎の調査があった。あと一つは、マンハッタン計画下の放射線研究依頼、引き続き中心的研究機関としての役割を担っていたオークリッジ国立研究所での動物実験であった。
(オークリッジ国立研究所は前出のクリントン・兵器級ウラン製造工場に隣接した研究所であった。)
  
 両研究ともそれぞれの結果のみが引き合いに出されることがあっても、当時どのような政治的議論を引き起こしたのかは、今日ではすっかり忘れ去られてしまっている。とりわけ前者の広島・長崎の調査の問題は、アメリカの作り上げた歴史が基本的には受け入れられ、定説とされてきた。・・アメリカによる広島・長崎での原爆障害調査の本質的問題点を根本的に洗い出す必要がある。この課題はまた、日本の研究者がとりわけ重きを担うべきでもある。そこで放射線による遺伝的影響の問題に内容をしぼりながら、当時の研究を改めて見直すことにしよう。

原爆障害調査委員会(ABCC)の設立

 広島・長崎での遺伝的影響調査は、有名な「原爆障害調査委員会(ABCC)」によって行われたが、ABCCは自らについて「真実の性格はとかく誤解されがちであるが、実際は全米科学アカデミー・学術会議と日本の国立予防衛生研究所との純粋な学術的事業である」と一貫して主張してきた。この主張への批判が不十分であったため、ABCCについてはその組織と研究内容の軍事的性格に対する評価が、過去一貫して不明確のままにされてきた。そのことは、ABCCが行った研究の中心的内容を指示することへとつながっている。例えば、「広島・長崎への原爆災害」(岩波書店、1979)は、この分野における日本の研究の包括的な到達点を示していると考えられるが、そこではABCCの主張が基本的に支持されている。

 そこでABCCの主張と研究内容を根底から見直すために、ABCCの前史を築いた原爆投下直後の「日米合同調査団」の組織と調査・研究内容をも含めて、ABCCの歴史全体を振り返ってみることにしよう。

 ABCCは、彼ら自身の説明に従うなら日米合同調査団による調査結果の解析が進むに従い、原爆の影響についての調査をさらに継続して進める必要が認められて、1946年11月26日にトルーマン大統領が、全米科学アカデミー・学術会議(NAS−NRC)に対してその設置を指令し、1947年1月に発足したということにされている。この説は、「広島・長崎の原爆災害」にも採用されているように、日本でも「定説」とされてきた。

 しかしこのような説明は、ABCCが純粋に学術的な組織であると主張するために、都合のよい事実を述べただけで、あえて言えば、歴史の改竄である。真実の歴史はこうである。

 ABCCの設立は原爆投下直後の広島・長崎で原爆の破壊力のうち、とくに人体への殺傷力に重点を置く調査にあたったいわゆる「日米合同調査団」を指揮したアメリカ陸軍および海軍の各軍医総監がマンハッタン計画の推進時から密接な協力関係にあった全米科学アカデミー・学術会議に対し、長期的な、したがって当初から軍事的計画日程に入れられていた原爆障害研究に関する包括的契約研究の一環として、広島・長崎の後障害、放射線による晩発的影響研究の組織化を要請して開始されたのである。両軍医総監はそのため全米科学アカデミー・学術会議に、「原子障害調査委員会(ACC)」と呼ばれる組織を結成させた。もちろん同委員会のメンバーは、軍やアメリカの原子力委員会と密接な関係を持つ人たちで組織された。
  
 それらの手続きを進めながら陸・海軍の当事者たちが、ACCの広島・長崎での現地調査機関としての組織を形成させたが、この委員会はACCの支配下にあることを具現するものとしてABCCの名称を与えられた。ABCCがアメリカ本国で結成されたのは当のACCの正式発足よりも早く、またそのための大統領指令の発表よりも早い1946年11月14日であった。またABCCの先遣隊として日本に派遣されたのはACCの委員の一人であるブルーズ(Austin M. Bruse)とヘンショウ(Paul S. Hanshaw)のマンハッタン計画従事者に加えて、陸軍軍医団のニール(Jim V. Neel)など軍医関係の5人であった。彼らが来日したのは、1946年11月25日で、「ABCC設立の大統領指令は発せられた」とされる12月26日以前のことであった。早く言えば、ABCCの主張する公式の歴史が始まる前に、実際にはABCCが誕生して、活動を開始していたのである。要は、それほどまでして軍は広島・長崎での調査を自らの支配下で進めようとしたのであった。

 しかし軍・アメリカ原子力委員会の主導も、広島・長崎の現地では、逆に数々の困難を生み出す最大の要因とならざるを得ない。原爆投下国の軍関係者が投下された国でその被害者を対象に、治療は一切行うことなく、新たな核戦争に利用するためのデータを得ようとする調査である。当然のことながらアメリカは、調査の学術的性格や人道性の言葉で誤魔化し、日本政府と日本人科学者の協力を取り付ける方策を採った。それは、「日米合同調査団」以来のアメリカの巧妙な戦術であった。

 原爆投下直後、広島・長崎の調査を行ったアメリカの調査団は、陸軍のマンハッタン管区調査団、海軍の放射線研究陣、そして太平洋陸軍司令部軍医団の混成部隊であった。彼らが占領後に広島・長崎に調査に入った1945年の9月上旬にはすでに最重症の被爆者はほとんど全員が急性死を免れず、重症の患者もおよそ半数が死亡していた。彼らの調査の最重点が、核戦争を勝ち抜く条件を探ること、すなわち放射線被曝下での生存可能条件を探ることにあったとはいえ、投下直後から一ヶ月あまりの調査結果は欠かすことの出来ないデータであった。

 一方、原爆投下直後に、その新型爆弾が原爆であることを確証することに重点を置いた大日本帝国政府・陸海軍の調査が行われていた。仁科芳雄、荒勝文策、浅田常三郎、田島英三等の物理学者、都築正男、中泉正徳、御園生圭輔、熊取敏之等の医学者による日本調査グループの協力を得ることは、そのデータとともにアメリカ側の調査団がそれ以降の調査をスムーズに進めるためには何よりも必要なものであった。

 以上のような事情からアメリカ側は、原爆投下直後の日本の医学的調査の最高指揮者であった陸軍中尉中将・都築正男を大日本帝国政府を代表する科学者に据えて日本人研究者を統括させるとともに、調査団の名称を日米合同調査団と称した。

 しかしその名称は日本の協力を引き出すための方便で、アメリカ本国においては「日本において原爆の効果を調査するための軍合同委員会」と言うのが正式の名称であった。合同とはあくまでも陸軍・海軍・進駐軍の合同を意味した。従って、原爆投下直後の広島・長崎の調査団は、「アメリカ軍合同調査委員会」と呼ぶのが正しいのである。

 この例にならって、アメリカは広島・長崎でABCC活動を開始するにあたって、日本人の協力を得やすい組織形態を追求した。まず連合軍最高司令官総司令部が厚生省に働きかけてABCC調査への協力を約束させ、「国立予防衛生研究所(予研)」を1947年初めに設立させた上で、「ABCC―予研共同研究」体制を作り上げた。しかしこの場合も共同研究とは名ばかりで、最初のブルーズとヘンショウの研究以降、ABCCの実態は名実ともにアメリカ軍関係者とアメリカ原子力委員会の支配下にあった。財政的にもABCCはアメリカ原子力委員会に依拠していた。そのABCCの組織系列を示すと図のようになる。
(別図「ABCCの組織系列」を参照のこと)



ABCCによる遺伝的影響研究

 1946年末に来日したブルーズらの調査団は、日本での予備的調査の結果を翌年1月報告書にまとめた。アメリカの原子障害調査委員会(全米科学アカデミー傘下)は、その報告書の線に沿ってニールを責任者として遺伝的影響調査を行うことを同年6月正式に決定し、ABCCによる広島・長崎での本格的調査が翌48年の3月から開始された。
  
 ABCCの計画に従って原爆被爆者の間に遺伝的影響が検出されるかどうかは、当の原子障害調査委員会の中にも疑問視する声が多かった。なぜならABCCが追跡調査した妊娠例はおよそ7万例であったが100レントゲン以上(吸収線量は1レントゲンあたり8.77ミリグレイと換算される。従って100レントゲンは877ミリグレイ。1シーベルト=1グレイとすると、生体吸収線量は0.877シーベルトとなる。)浴びたと推定される父親の数はおよそ1400人、母親の数もおよそ2500人に過ぎず、圧倒的大部分が低い線量の被爆例であったからである。低い線量を浴びた被爆者を対象として遺伝的影響を検出するには大規模な人口集団が必要で、しかも10年から20年の長期に渡って研究する必要がある。このようにABCCの遺伝的影響の調査は、対象とされた被爆者人口が小さい事などから統計的に有意な結果が見いだせるかどうか非常に疑問視されるものであった。しかしその予想通り影響が見いだされない場合には、放射線による遺伝的影響に対する大衆の不安を、逆に抑えることが出来るという政治的な判断が最優先されて、ABCCの遺伝学調査が行われたのである。

 ニールらによる調査は、1948年から1953年にかけて行われたが、放射線の遺伝的影響として追究されたのは5項目であった。
   (1) 致死 突然変異による流産
   (2) 新生児死亡
   (3) 低体重児の増加
   (4) 異常や奇形の増加
   (5) 性比の増加(もし影響があるなら母親が被爆した場合には男子数が減少し、
               父親が被爆した場合には男子数が増加する)

 ABCCが追跡し得た妊娠例は対象となった約7万例のうちおよそその3分の1に過ぎなかった。このため遺伝的影響が仮にあるという場合には、例えば流産・死産や新生児死亡は正常の80%以上増加していることが確認されること、また先天異常や奇形の増加の場合は正常の100%以上増加していることが確認される必要があった。

 そのような少ない人口であったので調査の結果は(5)の性比を除いては放射線による遺伝的影響は統計的に有意であると確認されなかった。その性比も1954年から58年に出生児を捕捉して再検討された結果、統計的有意性が立証されないことがわかった。調査結果は、端的に要約すれば原爆被爆者の間に生まれた子供たちに放射線による遺伝的影響があるともないとも言えない、という、案の定と言えるものであった。しかし、アメリカ原子力委員会や原子障害調査委員会、そしてABCCは事前の予想には一言も触れないで、遺伝的影響はなかったと大々的に宣伝した。』
(同書44p-50p)



(以下2006年3月オリジナル本文)

 ABCC(Atomic Bomb Casualty Commission)について、私には分からないことが多い。なにが分からないかもわからない状態だ。とりあえず、私自身の今後の研究のためにもメモにまとめておく。

1.  まず、「原爆傷害調査委員会」の日本語の訳語である。英文のcasualty を「傷害」、commissionを「調査委員会」としてそれぞれの訳語をあてたものであろう。
 「commission」は「委託されたもの」という意味である。Committeeとしなかったのは、恐らく委員が存在しなかったからであろう。誰から何を委託されたのか。

 次にcasualtyである。これを傷害という訳語をあてるのはちょっと無理があるのではないか?casualtyは基本的に死者を含んでいる。傷害者だけでない。これに関連してすぐ連想するのは、アメリカ軍の各種報告書に出てくるcasualtyの用語法である。たとえば、「九州上陸作戦では、最初の30日間では、ルソン上陸時における損失の規模を上回るものではない。」とマーシャルが云うとき、損失に相当するもとの英語は、casualtyである。こうしたときには例外なくcasualtyである。この場合、死者・戦闘行為のできない負傷者・行方不明者をすべて含んでいる。例外はない。

 たとえば、米国戦略爆撃調査団報告でも、同じ使い方である。「広島に投下された原爆における損失は・・・」はcasualtyである。「広島の原爆では死亡者は7万人だった。」と言うときには、「7,000 were killed 」とかdeadとかを使い、casualtyと区別する。この報告では、時にcasualtyの代わりに、victims が使われるときもあった。まったく同じ事物をさしている。違うのは、書き手の見解だ。散文的に「死傷者」と言いたいときには、casualtyだし、幾分同情が込められている時には、被害者、victimsだった。

 casualtyには、人を指さずに、その事象を意味することもある。たとえば、損害保険―casualty insurance―などはそうだろう。海上保険、火災保険を除くすべての災害・事故によって生じた損害の総称だ。だから人を指さずに、事象を指したというのなら分かるが、それにしてもこの用語法でも死者を含んでいる。

 一番自然な訳語は「原爆死傷者調査委員会」とか、委員はいなかったのだから、原爆死傷者調査研究団とか原爆死傷者調査署とかではなかったか?

 だれが何故この訳語をあてたのか?


2. 日本語Wikipediaを見ると、

原爆傷害調査委員会(げんばくしょうがいちょうさいいんかい、Atomic Bomb Casualty Commission、ABCC)とは、原子爆弾による傷害の実態を詳細に調査記録するために、アメリカが設置した機関である。施設は、広島市の比治山の山頂に作られた。カマボコ型の建物である。ABCCは調査が目的の機関であるため、被爆者の治療には一切あたることはなかった。1975年、日米共同出資の放射線影響研究所に改組された。』
 
  とだけしか書いていない。これは事実上何も言っていない。こんな記述で、何か少しでも分かった、という奴がいれば、大馬鹿ものだ。http://ja.wikipedia.org/wiki/ABCC

 次に、ここでも触れられている、放射線影響研究所ではなんと説明しているか?「財団法人 放射線影響研究所」http://www.rerf.or.jp/のサイトを見ると、「ABCC―放影研の歴史」http://www.rerf.or.jp/intro/establish/rerfhistj.pdfというのがあって、一応歴史と連続性を概観できるが、「写真で見る歴史」とでもタイトルをつけた方がいいような、およそ内容のない記述である。放影研時代になると記述が詳しくなる。

 次に、広島平和記念資料館のバーチャル・ミュージアムを見てみることにする。ここは原爆医療・治療とか云う話になると俄然張り切って、微に入り細に入りの報告をしてくれる。ところが唖然とした。

 原爆(げんばく)の人体への影響(えいきょう)を長期的に調べるため、1947年(昭和22年)にABCC(原爆(げんばく)傷害(しょうがい)調査(ちょうさ)委員会(いいんかい))が広島・長崎(ながさき)両市に設けられました。1951年(昭和26年)、市内比治山の高台に移り本格的な施設(しせつ)が整いましたが、市民からは「研究、調査するだけで治療行為(ちりょうこうい)をしない」と、その活動方針(かつどうほうしん)を批判(ひはん)する声もありました。 1975年(昭和50年)に日米対等で管理・運営されることになり、(財)放射線(ほうしゃせん)影響(えいきょう)研究所(けんきゅうじょ)(RERF)として改組(かいそ)されました。 』

 これだけである。

 ここまで調べて、「 ハハーン、やっぱりみんなあんまり触れて欲しくないのだな。」と思わざるを得なかった。

 「やっぱり」というのは、私が子供時代から、ABCCについて芳しくないうわさ話を聞いて育ったからだ。記憶しているところでは、「あそこは原爆で死んだ人をかいぼうするらしいよ。」とか「行きたくない、と言っているのに警察が来てむりやり連れて行った。」とか云う類のうわさ話だ。この手の話は、尾ひれがついて面白おかしくなるものだ。だから大人になれば取り合わなくなる。真に受けなくなる。また物事にはいろんな側面があって、いろんな立場もあると言うことも分かってくる。

 しかし、このような紹介の仕方では、ABCCについては何も分からない。だから「子供時代の記憶」がよみがえって「やっぱり、うわさはほんとうだったんだな」と言うことにもなる・・・。

3. 英語版Wikipediaを見ることにする。  
http://en.wikipedia.org/wiki/Atomic_Bomb_Casualty_Commission

 この項の最初に、“This article needs additional citations for verification.”の注意書が、あるので、英語圏でも評価が定まっていないのだな、とわかる。ともかくも読んでみよう。


< 英語版Wikipediaの記述 >

『 The Atomic Bomb Casualty commission(ABCC)は、1948年春、ハリー・S・トルーマンからの全米科学アカデミー−全米研究評議会に対する大統領指令(a presidential directive)に基づき設立されたもので、広島と長崎における原爆生存者の間にみられる「後期放射線影響」(後障害)を調査指揮した。純粋な科学的調査研究のために設けられたもので、医学的治療は行わなかった。また、アメリカに強く支持されていたために、ABCCはおおむね原爆生存者や日本人から疑惑の目で見られた。

(* 全米科学アカデミーは、南北戦争に起源をもつ科学者の集まりで、公共の利益のために-pro-bono-国家に対して助言を行う。一方全米研究評議会は、全米科学アカデミーの下部機構とも云うべき機関で、科学アカデミーのために研究を行う。起源は第一次世界大戦にあり、当時増大していた軍事目的の科学研究を実施するために構成された。乗組員が健康に操業できる潜水艦の研究開発などがその成果である。その後、軍部との協力関係を密接にしていった。全米科学アカデミーについては以下。(http://en.wikipedia.org/wiki/United_States_National_Academy_of_Sciences)全米研究評議会については以下。http://en.wikipedia.org/wiki/United_States_National_Research_Council 

従ってこのWikipediaの記述では、大統領指令は全米科学アカデミーそのものではなく、その実働研究調査機関である全米研究評議会に対して指示がおりたと読むべきであろう。)
なお私がここで「全米科学アカデミー−全米研究評議会」と訳した組織は、前出の中川保雄の記述で出てくる「全米科学アカデミー・学術会議と同じ組織である。以下混乱を避けるために「NAS-NRC」と表記する。」


【歴史】
The Atomic Bomb Casualty commission(ABCC)は、1945年8月の広島と長崎の原爆攻撃の後、8月9日に作られた。ABCCは、もともとは軍の共同調査委員会として開始されたのである。ABCCは、原爆による死傷(casualty)に関する長期間の研究をおこない、人々にその知見を得る機会を与えることを目的としてスタートした。1946年、NAS-NRC委員長、ルイス・ウィード(Lewis Weed)は、同僚の科学者グループとともに、「人間に対する詳細かつ長期的な、生物学的かつ医学的影響の研究はアメリカと人類一般に対して緊急の重要性を持つ」と宣言した。ハリー・S・トルーマン大統領は、ABCCに対して1946年11月26日、その存続を命令した。

▽ABCC存続の進言に署名した、いわゆる「トルーマン指令」
(クリックするとPDFでご覧いただけます)


ABCCの鍵を握るメンバーは、ルイス・ウィード、NAS-NRCの医学者、オースティン・M・ブルーズ(Austin M. Brues)とポール・ヘンショウ(Paul Henshaw)、それに陸軍を代表して参加したメルビン・A・ブロック(Melvin A. Block)とジェームズ・V・ニール(James V. Neel)だった。ニールはまた遺伝子工学の医学博士号をもっていた。


(* ルイス・ウィードについては、ジョン・ホプキンス大学の次のサイトに若干記述が見える。
http://www.medicalarchives.jhmi.edu/sgml/weed.html
もともと同大学の出身者だったらしい。1946年同大学医学大学院の学長を務めていたというから、当代一流の医学者だったのだろう。1937年、NAS-NRCの医科学部会の会長に指名され、1947年にはこの部会長の仕事に専念するため、ジョン・ホプキンス大学医学大学院学長を辞任している。ちょうどABCCに大統領指示がおりた頃だ。先の声明と合わせて考えてみると、人体に対する放射線の調査・研究の仕事を最優先したものと見える。だから正確に言うと、ABCC設立当時、ウィードはNAS-NRCの会長だったのではなく、医科学部会長だったことになる。オースティン・M・ブルーズについては、1991年3月6日付けニューヨークタイムズ紙に訃報がみえる。http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9D0CE4D9113BF935A35750C0A967958260 が、簡単すぎてわからない。ともかくも放射線生物学の権威だったらしい。ハーバード大学医科学大学院の出身で、こちらも当代一流の医学者だった。ポール・ヘンショウについてはシカゴ大学のサイトに若干詳しい経歴がのっている。http://ead.lib.uchicago.edu/view.xqy?id=ICU.SPCL.HENSHAW&c=h

 ヘンショウは、ウィードやブルーズと違って、医学者としてはエリートコースを歩いてこなかった。ガンの研究で全米ガン医療機関の特別研究員になってから陽が当たり始めたようである。1940年に全米ガン医療機関の上席放射線研究員に昇進する。興味深いのはその後の経歴だ。1944年シカゴ大学冶金工学研究所に所属し、マンハッタン計画の生物学研究員になっている。シカゴ大学冶金工学研究所というのは、シカゴ大学で原爆開発を担当する研究グループのカバーネームである。1年後、テネシー州オークリッジにあるクリントン研究所に移る。クリントンには、原爆開発の中枢の一つを担当するクリントン工場があった。ここでも生物学研究員だった。それから1946年から47年にかけて、日本におけるアメリカ原子力委員会の共同リーダーの一人となった。またこの時、マンハッタン計画との関係が切れている。1947年から49年にかけて、東京の連合軍最高司令部の基礎研究部隊を率いて、日本の科学の復興に従事した。その後アメリカに帰り、アメリカ原子力委員会の生物理学者として働いた。メルビン・A・ブロックについてはよく分からないが、ガンに関する論文を残している。ジェームズ・V・ニールについては、英語Wikipediaの記事もあるが−http://en.wikipedia.org/wiki/James_V._Neel、ミシガン大学発表の記事の方がより詳しい。http://www.ibis-birthdefects.org/start/neel3.htm 。

 これによるとニールは2000年に84歳でなくなっているから、45年当時は、29歳か30歳だったことになる。この記事に拠れば、ニールは、「近代人間遺伝子学の父」とされている。1946年にロチェスター大学で博士号を取得し、インターンを経験した後、ミシガン大学の研究所に、准遺伝子研究者として参加した。46年の後半から47年にかけて、陸軍医学部隊に入り、ABCCで現地研究を担当した。1948年、アメリカに戻って遺伝子の研究を続け、1956年には、アメリカの医学大学院最初の人間遺伝子学部を創設、その後、この分野の権威として学界に君臨した。
        
 以上Wikipediaが指摘する、ABCCのキーパーソンの後をたどってみると、陸軍と関係の深いNAS-NRCの中でも、とくに陸軍と関係の深い、中にはマンハッタン計画と関係の深い人物が、中心だったことがわかる。)


【ABCCの仕事】

 ABCCは1946年11月24日、日本へ到着した。そして旧日本陸軍の流れを引くスタッフと親しくなった。広島と長崎を訪れ、どんな仕事が可能かを検討した。そして日本国家研究評議会(*どの組織のことを指しているのか私には分からない。)のもとに極めて効率的な組織が存在していることを確認した。(*放影研労働組合の森原ゆう子氏の講演によれば、48年からは厚生省管轄の国立予防衛生研究所がABCCの調査に参加している。http://www.jichiro.gr.jp/tsuushin/708/708_02.htm。)

 この日本の組織が、原爆生存者の直接被曝および時期をずらしての間接被曝の実態を調査した。広島、長崎の両市で、一体どれほどの死傷者がったかを正確な数字として把握するのは不可能だった。戦争中であり、絶えず疎開が行われ、人口動態がつかめなかったからである。広島は、重要な軍需品補給センターとして見なされ、爆撃を受けたわけだが、そのため多くの人たちが残っていたと考えられる。また、周辺を含めて、不規則的な仕事に従事するため、多くの人の流入も見られた。ロバート・ホームズ(Robert Holmes)は1954年から1957年までのABCCのディレクターだが、「生存者は最も重要な、生きている人々である。」といっている。(*意味が上手くつかめない言葉である。いろいろに解釈できる。)

 また、ABCCは、日本の科学者の仕事も一部援用した。というのは、彼らはABCCの到着以前に、すでに生存者の研究をしていたからである。(*東京帝国大学の都築正男教授などは代表例だろう。)都築正男は、放射線の生物学的影響に関する研究では代表的な権威だった。彼は、広島と長崎の両市において、4つの傷害原因があった、と言っている。熱線、爆風、初期放射線、放射能性毒ガスの4つである。都築の報告中で彼は次のように答えている。「人体に放射能エネルギーがどのくらい強い影響を及ぼすだろうか?まず、最初に血液に損傷を与える。次に骨髄などの造血器官、脾臓、リンパ節に損傷を与える。それらはすべて破壊されるか、損傷を受ける。肺、腸、肝臓、腎臓は影響を受けるか、結果として機能障害を起こす。」傷害は、その甚大さによって等級付けができる。爆心地から半径1km以内で被曝した場合は、極めて厳しい傷害に苦しむだろうし、2−3日以内に死亡するだろう。あるものは2週間くらいは生き延びるかも知れない。爆心地から半径1−2kmで被曝した場合は、中程度の傷害で2−6週間くらいは生き延びるかも知れない。2−4kmで被曝した人は軽程度の損傷で、死に至らないかも知れない。しかし被曝の後数ヶ月は健康障害になるだろう。

【ABCCの成長】

 1948年から49年にかけてABCCは急速に成長した。1年間でスタッフは4倍となった。1951年までに、その数は1063名となった。うち143人が連合国側で、920名が日本人だった。恐らくは、ABCCがもっとも成し遂げたかった、重要な研究は、遺伝子研究だったであろう。妊婦や流産した赤子に対して電離化した放射能がどんな影響を与えているか、についてできるだけ長期間にわたって研究し、その環境の未確定要素を研究することだったろう。その研究は広く拡散した遺伝子からこれという証拠は見つけられなかった。しかし、原爆の放射線のため、子宮の中でもっとも近接して被曝した子供の中に、小頭症や精神発達遅滞児が多く発生していることは発見した。このプロジェクトは、ABCCの計画の中で、最大のかつ最も大きな転換をもたらした。

 1957年、日本で原爆医療法(The Atomic Bomb Survivors Relief Law)が成立、認定された被爆者に年2回の医療検診が行われることになった。原爆生存者のことを日本語では「ヒバクシャ」という。医療が受けられると認定されたヒバクシャは、投下時爆心地半径数キロ以内、あるいは2Km以内にいた人たちであった。また、いかなる分類であろうが、その時子宮の中にいた子供たちで、被曝した人たちであった。(*1957年の原爆医療法は一部、ABCCへの協力だった、とでもいうのか?)


【ABCCに対する賛否両論】

 ABCCには賛否両論がある。

否定論:
ABCCは日本人の必要としている小さな細部を見下した。母親や赤ん坊が待っている待合いの床は磨かれたリノリウムで、下駄履きの女性はしばしば滑って転んだ。サインや待合室の雑誌は英語だった。ABCCは治療しない、研究するだけだ。ABCCは週休2日制で9−5時だった。そのためにみんな1日を棒に振って稼げない。補償はほとんどなかった。
賛成論:
貴重な医療情報を提供してくれた。生まれた時赤ん坊をしっかり見てくれ、しかも9ヶ月後にもきっちり見てくれた。当時としては珍しく良くやってくれた。赤ん坊をしっかり見てくれて心配の必要はなかった。成人に対しても、しかりで医療検査の頻度が多かったのでとても良かった。


【ABCCのRERF(放射線影響研究所)への編成替え】

1951年、アメリカ原子力委員会は、日本におけるABCCの活動継続のための基金を打ち切った。しかしながら、ジェームズ・V・ニールはこれに抗議したため、原子力委員会は、3年間に限って、研究継続のため、年間2万ドル拠出することを決めた。このためABCCは1951年はともかく生き残った。1956年、ニールとウィリアム・J・シュールは、「広島と長崎における妊娠中絶に対する原爆被爆の影響」と題する刊行物を発行した。この中に彼らが集めたデータを詳細な説明を加えて挿入した。こうした努力にもかかわらず、ABCC存続の基金は確保できず、ABCCは、放射線影響研究財団へと衣替えすることになった。


4. このWikipediaの記事によっても、ABCC理解という点では大きな進歩が見られたものの、私はどこか消化不良である。

 それでテキサス医科大学のマクガヴァン・ライブラリーのサイトから、適当に文書を抜き出して、読んでみることにする。というのは、ABCCに関する一部の文書が、その後テキサス医科大学のこのライブラリーに移管され、このライブラリーのサイトから、かなりの文書を引っ張り出せるからだ。

 取り出したのは、ハーマン・S・ウィゴドスキイ文書(The Papers of Herman S. Wigodsky)の中の、原稿コレクションN0.65である。

 (原文は次で読める。
http://mcgovern.library.tmc.edu/data/www/html/collect/manuscript/Wigodsky/hsw_intro.htm )



< 原稿コレクション 65番 ハーマン・ウィゴドスキイ文書 >
1.【はじめに】

 最初の、ABCCのディレクター、テスマー博士は病理学者であり、米国陸軍からの「借り物」だった。2代目のディレクター、H・グラント・テイラー博士は、小児科医であり、この人はデューク大学医科大学院、ウィルバート・デビッドソン博士からの借り物だった。早い時期における、専門家(ここではABCCの研究課題における専門家という意味)の一人が、遺伝子学者の、ウィリアム・J・シュール博士(Dr. William J. Shull)だった。シュール博士は、ABCC設立以来、ずっとその中心人物だったひとであり、その仕事は「ハリス郡医学文書館」におさめられている。その時、記録文書保管担当員を招聘するに際して、3名が候補に挙がった。1985年、ハーマン・S・ウィゴドスキイ博士は、医学文書の保存について話し合うため、その3名に面接した。ウィゴドスキイは、全米科学アカデミーの会長、フランク・プレス会長に手紙を送って、1985年8月、彼の手紙の写真複製を寄贈することを申し出た。

 ウィゴドスキイ博士の手紙の中で最大部分を占めるのは、1986年11月に寄贈されたチェルノブイリ報告である。
(*1986年4月、現ウクライナの旧ソ連チェルノブイリ原子力発電所の原子力発電所事故に関する報告、と言うことだろう。同事故については日本語Wikipediaの優れた記述がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%82%A7%E3%
83%AB%E3%83%8E%E3%83%96%E3%82%A4%E3%83%AA%E5%8E
%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E7%99%BA%E9%9B%BB%E6%89%
80%E4%BA%8B%E6%95%85。

         
 ウィゴドスキイはまた、IAEA(国際原子力機関)のマンフレッド・レイザーからの手紙も寄贈した。ウィゴドスキイ博士のABCC関連文書に関する寄贈は全体からいえばずっと小さい、が、極めて重要である。博士も認めているとおり、博士のコレクションは、全体からすれば、小さな部分のグループだったが、「私のガレージの床を壊すほどだった。」

 1987年12月17日、ウィゴドスキイは、NAS-NRCの原子傷害委員会の元委員長だったトーマス・M・リバーズから受け取った手紙を寄贈した。その手紙は極めて興味深い。ABCCに関する歴史をジョン・Z・バワーズ博士が準備していたが、その記述は不正確極まるものだった。ウィゴドスキイ博士によると、その不正確さのうち最大のものの一つは、シールド・アレン博士の役割に関する記述だったという。

アレン博士は、米原子力委員会の生物学及び医学部門のディレクターであり、NAS-NRCの原子傷害委員会との連絡・調整役をしていた。(ここでNAS-NRCとアメリカ原子力委員会の公式の接点が見つかる。この時期のアメリカ原子力委員会は、戦時のマンハッタン計画が拡大発展し、いわば暫定でない“暫定委員会”だった。またこの時期のNAS-NRCは軍部と極めて密接に仕事をしていた。)

 リバーズからの手紙は、ワレン博士とそのスタッフとのやりとりの中で生ずるフラストレーションを数え上げていた。ウィゴドスキイ博士は、ABCCの予算は、ワレン博士を通じて米原子力委員会に提出されており、ワレン博士は常にABCCの諸計画を承認する際、削減に回っていた、とはっきり言っている。このように、原子傷害委員会が、ABCCの計画において、科学的に健全な研究を行おうとすることに対して、(*ワレン博士は)常に妨害要因として働いていた、という。

 (科学的に健全な研究とはどんな研究なのか?逆に科学的に健全でない研究とはどんな研究なのか、ABCCのキーパーソンを調べ、その背景をみてみると、科学的に健全ではない研究とは、軍事目的に限定した研究と云うことだろう。)

 日本においてなされるABCCの継続した活動は、全体としては、陰鬱(gloomy)のように思えます。もし(アメリカ)原子力委員会が、このような妨害戦術を採り続けるなら私は、委員会(NAS-NRCの原子傷害委員会)の委員長の辞任を申し出ようと思います。        

トーマス・M・リバーズ博士
ハーマン・S・ウィゴドスキイ博士への手紙
1950年12月27日 
 

 1988年2月24日付けで、リバーズ博士の手紙と一緒に同封されていたのは、「広島原爆40周年記念慰霊祭」の仮計画書だった。もっとも直近の寄贈文書は、1995年4月のもので、1949年2月7日付けのものである。それは彼が日本のABCCを訪れた4ヶ月後のものである。


  添付された報告書に含まれている情報は、現在のABCCの現状を、1948年9月3日あら1948年12月23日までの訪問期間中、報告者の目を通して得られたものであります。状況が許す可能な限り目的に沿った報告であります。そこここに客観的な分析や必要な個人的意見に関する報告を含めております。      

メモランダム
 原子傷害委員会、常務理事 フィリップ・S・オーエン医学博士
 ハーマン・S・ウィゴドスキイ、医学博士・准教授、より
 1949年2月7日

(*このウィゴドスキイの報告がどんな内容のものかは分からないがABCCの日本における活動が、軍事目的に沿った、非人間的なものであることを強く暗示している。)

1947年から1950年の間、ウィゴドスキイ博士は、NAS-NRCの原子傷害委員会の准教授だった。その権能で、彼は、ABCCの長期的プロジェクト、設計、研究所建設など、計画全体を補佐しようとした。

ABCCの設立、その初期の発展を研究しようとする学者、研究者は、ウィゴドスキイ博士のコレクションを吟味するべきであろう。また彼のコレクションには、チェルノブイリ事故に関する報告も含まれている。このコレクションは研究目的には開放されている。このコレクションを利用しようという人は、歴史研究センター理事(Director)またはABCCコレクションのコーディネーターに連絡を取って欲しい。(以下略)

5. 以上の記述を合わせて考えると、ABCCはトルーマン大統領の命令で作られたことにはなっているが、その実アメリカ軍部は、広島・長崎のヒバクシャの実態を軍事目的で調査研究することを目的に活動を開始していた。トルーマン指令はその活動を法制化したに過ぎない。戦後マンハッタン計画は、シビリアン主導という外観をとるために、原子力委員会という組織をつくったが、ABCCも実質このアメリカ原子力委員会の予算と指示で運営された。しかしABCCは、学術研究の外観をとるために、NAS-NRC直接の担当となり、非軍事部門の科学者や医学者も関わるようになり、その非人道的軍事目的に反発を覚えたこうしたグループがいろいろ記録を残してくれた、ということになろう。その意味では軍事研究機関としてのABCCの実態はまだ明らかになっていない、と言うことになろう。

 (誰かがやらんかなぁ・・・。)




以下は、ABCCを理解するための参考資料
(クリックでPDFが開きます)

1.日本政府放射線防護政策の成り立ちと骨格


2.原爆被爆者寿命調査
(LSS-Life Span Study)の信頼性に関する問題点一覧