中高生のための「核兵器廃絶」基礎知識


【一】
 09年6月のはじめ頃であったろうか、広島のある中学生・高校生のグループのために「核兵器廃絶」をテーマとして、何か基本問題を立てて、その解答例が書けないだろうかという依頼があった。(依頼とも相談ともつかないものであったが)もともと私はこうしたことは不得手であり、自分勝手に書き飛ばすタイプである。首をひねったけれど、結局これは自分のための勉強にもなると思って作成した。結果は予想通り惨憺たるもので、誰一人読んだ形跡はない。彼らもまた日常生活の中で忙しいのだ。(後で読み返してみると、中高生のため、と云いながら自分のためであることがありありの読みにくい文章だ。)

【二】
 その後、いろいろ考えてみて、ある真理に思い至った。カザフスタンのセミパラチンスク(今のセメイ)の、あるいは南太平洋のマーシャル諸島の、あるいはニュージーランドの、あるいはフィリッピンの中高生に比較すると、広島の中高生にとって、「核兵器廃絶」は生活に根ざした要求ではなく、なにかもっと抽象的なテーマなんだと気がついた。

【三】
 広島で生まれ育った中高生たちにとって、「核兵器廃絶」が抽象的なテーマであり、彼らの生活に根ざした要求ではない、というのは一つのパラドックスである。彼らは物心ついた時から「平和教育」を受け、被爆者の話を聞き、お題目のようにして「核兵器のない平和な世界」を聞いて育ったのではないか?その彼らにとって「核兵器廃絶」が自分の生活実感から離れた抽象的テーマであるのはどういうわけか?

 この問題もすぐ氷解した。広島への原爆投下は60年以上も前のことであり、核兵器の危機を彼らが身近に感じて育ったわけではない。被爆者の話と云っても、本当に原爆の恐ろしさを知っている人は、「ピカドン」の瞬間に死んでしまっている。生き残っている人たちは、原爆の恐ろしさを、間接的に、あるいは部分的にしか経験していない。しかも、多くの被爆者は、自分たちのした経験が、「人類が経験した最も悲惨な経験」であり、自分の経験を語れば、それが自動的に「核兵器廃絶」につながると思いこんでいる。しかも彼らが経験した核兵器は、まだほんのよちよち歩きのベビー時代の核兵器だ。被爆体験がその後の研究や勉強で深められ、現在的な政治課題に昇華させられたのなら別として、どの話を聞いても、あくまで個人体験の域をでない。精々いって、「原水爆反対運動」でしかない。これでは「核兵器廃絶」が身近な生活の要求になるはずがない。中高生だけではない。被爆者を含め多くの広島市民にとって、「核兵器廃絶」が現在的な鋭い政治課題ではなく、抽象的なテーマになるのはやむを得ない。

【四】
 ところが、セミパラチンスクや、マーシャル諸島や、ニュージーランドやその他の多くの地域に住む人たちにとって、「核兵器」は抽象的なテーマではなく、生活の基盤を脅かす身近な脅威だった。まさしく「核兵器廃絶」は生活に根ざした要求だった。だからこそ鋭い政治的テーマに昇華させることができた。ニュージーランドのデビッド・ロンギ政権が、恐らく世界ではじめて「核兵器問題」を国政レベルの選挙で争点とし勝利したのも、フィリピンの民衆革命の後すぐに新憲法が成立し、核兵器を一切国土に持ち込ませないことを明記したのも、反アパルトヘイト政策を掲げて選挙に勝利した南アフリカで、実戦配備までした核兵器を廃棄して、国土から完全に核兵器を追放したのも、決して偶然ではない。「核兵器」が生活の中での実際的な脅威だったのだ。「核兵器廃絶」が生活の中の切実な要求だった。

【五】
 核兵器の脅威が身近になければ、「核兵器廃絶」は生活に根ざした要求にはならないのだろうか?あるとすれば、私には、その方法は一つしかないように思える。それは「核兵器」と「核兵器を巡る歴史と情勢」を知る、深く知ることだと思える。「知は力なり」という言葉があるが、この言葉ほど「核兵器廃絶」に当てはまる言葉はない。それを深く知れば知るほど、どんな人にでも「核兵器廃絶」は「生活に根ざした要求」になりうる。

【六】
 私には「核兵器廃絶」の道筋は一つしかないように思える。それは地球市民の一人一人が核兵器について深く知り、「核兵器廃絶」を自分の生活に根ざした要求とし、そうしてそれを地球各地の政治的要求に昇華させ、ニュージーランドや南アフリカやフィリピンでやったように時の政権を転覆させ、「核兵器廃絶」を掲げる政権を成立させ、「核兵器保有国」を包囲し、彼らにその保有をあきらめさせる、取り上げるという道筋だ。その意味では「核兵器廃絶」は地球市民の民主主義革命の道筋と恐らくは軌を一にするだろう。この意味で、市民の一人一人が核兵器について勉強し、研究して深く知る過程そのものが、「核兵器廃絶」運動といっても決して云いすぎではないように思える。オバマに「核兵器のない世界」実現を期待するなどは愚の骨頂といわなければならない。

【七】
 こうした意図をもって、中高生のための「核兵器廃絶」基礎知識をつくったのだ、中高生を念頭に置いてみると、いかにも読みにくい。何とかならないだろうか、と考えてみたが、ある部分やむを得ない。「核兵器廃絶」は高度な政治課題だ。歴史的にも定説があるわけではない。記述そのものが、複雑で読みにくくなるのはやむを得ない。しかし、これを恐れていては、実際に考える武器としての「基礎知識」は身につかない。幾分か手直しをしてこのサイトに掲載することにした。



【はじめに】