(2009.5.8)


Nさんへの手紙  09年5月8日(金)


 昨日、毎日新聞の切り抜きをとどけてくださり、誠にありがとうございました。昨日は休みにしようと思っていたのですが、切り抜きが届いたという電話を受けて、結局事務所に出て、切り抜きを読みふけりました。

 今朝、朝日新聞、中国新聞、赤旗を読んで、NPT2010年再検討会議準備委員会がスタートした、という華々しい報道を読みました。朝日新聞、中国新聞はそれぞれ広島の地元から記者をニューヨークに同行させているのですね。赤旗も特派員を送っているようです。

 内容は、一頃で言えば、「オバマのプラハ演説礼賛」「世界が大歓迎」ということになりましょうか。インターネットで読む辛口の記事とは相当ニュアンスが違います。中国新聞の記事を読むと、今年の8・6へ向けて東京から平和行進がスタートしたとか、「オバマ構想 多数支持」とか、広島市長の秋葉さんは、「オバマジョリティ」なる造語まで作ってスピーチしたとか、そんな話で埋め尽くされています。

 私はこれら一連の記事を読んで、冷静な整理が必要だな、という感じが強くしております。冷静な整理をするためのポイントは幾つかあるとは思うのですが、下記の諸点は欠かせないと思います。

 1. 「私が生きているうちには核兵器廃絶は実現しない」と自ら認める「オバマ構想」の内容と狙いは何か。結局これはオバマ構想とはいったい何か、という整理ポイントになると思います。共産党の志位さんも秋葉さんも、オバマ演説のここには同意できないと言っていますが、結局オバマ演説の内容を詳細に吟味しないまま、オバマ礼賛に走ってしまったということではないでしょうか?特に志位さんは、戦後「徳球」が「マッカーサー占領軍」を解放軍だと勘違いしたことを思い出すべきでしょう。
2. 「核軍縮」は本当に「核兵器廃絶」につながるのか、という素朴な視点です。昨年暮れにアメリカ外交問題評議会の外交問題専門誌「フォーリン・アフェアーズ」に「ゼロの論理」という論文が掲載されました。これは今読んでみると、オバマの「プラハ演説」の内容を先取りした中身ですが、典型的に「核軍縮=核兵器廃絶論」です。5万発が2万5000発になり、1000発になり、数十発、数発、そしてゼロになる、という理屈です。歴史的にみて、誰かが「軍縮」を言い出した時には気をつけなければなりません。「軍縮」は、軍事的暴力の「現状維持」だからです。戦前、ロンドン軍縮会議、ワシントン会議などを思い浮かべてみれば、それは軍事的暴力装置の縮小均衡だったわけで、それ自体は評価できるとしても、それが軍備ゼロとなった試しは一度としてありません。
3. 「核兵器廃絶」への道筋は一体なんなのか?もし「核軍縮」が「核兵器廃絶」への道筋ではないとすれば、一体何が核兵器廃絶の道筋なのでしょうか?


 「核兵器」という暴力装置は、これまで人類が作り出してきた暴力装置とは全く異なります。破壊力の大きさという「量」だけでなく、生きとし生けるものの遺伝子を破壊してしまう、という全く異なる質の破壊力をもっています。この1点で、核兵器は他の軍事兵器とはまったく異なります。
(これはまるで1945年7月の「フランク・レポート」の受け売りですね。)

 現世人類が、類人猿から枝分かれしたのはいつ頃でしょうか?100万年前、最近の科学的知見は、さらに遡っていますから、200万年前として見ましょう。われわれ現世人類は200万年かけて現在の人類に進化してきたわけです。われわれの遺伝子には、いってみれば一つ一つ200万年の進化が凝縮しているわけです。核兵器は、この進化を一瞬にしてゼロにリセットします。遺伝子は一度傷つけられ、破壊されると、二度と再生できません。ですから、核兵器は私たち人類が保有するには余りにも革命的過ぎ、危険すぎるわけです。
(これでは45年9月のヘンリー・スティムソンの受け売りですね。)

 こうした核兵器の危険性を、人類全体がまず認識をする、そして核兵器を弄ぶことをはっきり「犯罪」とする、それも「人道に対する犯罪」などという訳の分からないものではなく、はっきり「刑事犯罪」とする世界世論を形成することでしょう。この伝でいけば、わがオバマ君などは、犯罪者集団の親玉という事になります。「核実験の成功でわれわれも世界の大国に仲間入りをした。」と浮かれている北朝鮮の諸君なども、犯罪者集団の仲間入りをして喜んでいることになります。

 こういう認識が世界の多数輿論となれば、次には自分たちの暮らす生活空間から、こんな危ないものを追放しよう、という動きになるのはごく自然だと思われます。だれも麻薬で汚染された地区で暮らしたいとは思わないでしょう。ニューヨークのブロンクス地区には、麻薬取引の巣窟みたいな地域が今でも存在しますが、こんな地域に誰も住みたいとは思わないでしょう。核兵器もまた今同様な運命をたどっています。つい先頃も、中央アジア非核兵器地帯条約が発効しました。アフリカ非核兵器地帯条約も発効へむけて最終段階に入っていると伝えられます。それぞれの国で核兵器の一時寄港は認める国はあるものの(たとえばオーストラリアのように)、少なくとも製造・保有・貯蔵・配備はこれらの国々では法的に認められません。

 もしアフリカ非核兵器地帯条約が発効すれば、核兵器をもちこめる地域は、ヨーロッパ全体、ロシア、中国、中近東、インド・パキスタンを中心とする南アジア、イラン・イラクを中心とする西アジア、日本・韓国・北朝鮮を中心とする極東地域、アメリカ大陸に至っては、アメリカとカナダだけとなってしまいます。

 「自分たちの暮らす地域からはせめて核兵器を追放したい。」これはむしろ地球市民の良識と言うものではないでしょうか?

 私は結局この地球市民の良識とそれに基づく政治行動が最終的に核兵器を廃絶していくのだと考えていますが、そうではないと考える人も多いようです。今ここで本当に何が「核兵器廃絶の道」なのかをじっくり、冷静に考えてみることが必要なのでしょう。

 少なくとも以上3点は、整理ポイントとしてあげられなければなりません。

 こうして見ていくと、お届けいただいた毎日新聞の記事には、若干の違和感を覚えます。日本が核の傘に入るべきかどうか、また日本国内にかつて核兵器基地があったかどうか、極東における安全保障をめぐる議論で核兵器がどのような役割を果たしているか、という話なのですが、また毎日の論調は、日本政府に批判的なのですが、議論の枠組みがいかにも20世紀的で、21世紀的ではありません。もちろん、日米にかつてこれこれしかじかの密約があって、日本政府がウソをついている、小笠原がかつてアメリカの核兵器基地だった、横須賀の米軍基地が航空母艦の母港かどうか、といった議論はひとつひとつが重要なのですが、いかにも21世紀的議論ではありません。

 少なくとも、核兵器を追放しようとするニュージーランドやフィリピン、南アフリカやメキシコ、ブラジルなどの論調と較べると問題意識が違うという感じが強くします。第一、アメリカやロシアの軍事基地があって、そこに核兵器が自由に出入りしていない、と考える事の方がどうかしているのではないですか?

 だから、東南アジア非核兵器地帯創設に当たって、最大の障害になっていたフィリピンの米軍基地が撤退することによって現実味を帯び進展していったのだし、つい先頃発効した中央アジア非核兵器地帯も、カザフスタンからのロシア軍基地撤退から本当に協議がすすんでいったのではなかったですか?

 キューバやリビアが非核兵器宣言を行い、非核兵器地帯に仲間入りをしている時代ですよ。なにか毎日新聞の議論の立て方は、1980年代の議論のような感じが強くします。もっとも核兵器に関する議論は、日本全体が20世紀的と云うことはできると思います。広島でも長崎でも、オバマを日本に呼ぼうとか、核兵器廃絶運動の署名をしようとか、国連で広島・長崎の被爆の経験を語ろうとか・・・。ひとつひとつの運動が間違いだとは誰も云うことはできません。それぞれが意味のあることなのだと思います。しかし21世紀の「核兵器廃絶運動」の到達点を冷静に眺めてみると、いかにも運動自体が20世紀的だなと思ってしまいます。第一いまだに日本へは核兵器が自由に出入りしているのですよ。少なくとも「核兵器の存在証明」はありませんが、「不存在証明」もありません。世界の非核兵器地帯の国々は厳密な査察と検証を受けて、それぞれ国際機関(今のところIAEAですが)から「不存在証明」を得ています。これは「われわれは犯罪者ではありません。」という証明に等しいものです。

 ・・・われわれは、いたずらにオバマ礼賛に走るのではなしに、冷静に核兵器を巡る情勢を、21世紀的に整理し、検討し、地球市民として行動すべきときにきているのではないか思います。