(原文:http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/ferrell_book/
ferrell_book_chap15.htm )


トルーマンと原爆、文書から見た歴史
           編集者 Robert H.Ferrell(ロバート・H・ファレル)


第15章 スティムソン長官から大統領へ 9月11日
     及びその内容



 1945年9月21日、トルーマン大統領は閣議を開く。
議題は、核の秘密をイギリスと、そして特にソビエト政府と共有するかどうかという問題だった。
トルーマンがこの議題をテーマに選んだ理由は、その日が国務長官ヘンリー・スティムソンの最後の公務日であり、スティムソンはその日の午後、引退するからだった。
70歳台も後半、年老いた長官は、セオドア・ルーズベルト大統領の下でニューヨークの地方検事を振り出しに、タフト政権の下で陸軍長官、フーバー大統領の下で国務長官を務めてきた。


 核の問題を共有するという議題は、スティムソンにとっては適切な議題だった。
戦争の間スティムソンはマンハッタン計画とそれが戦争と外交政策にどのような影響を与えるかについて考え続け、また相当な時間を費やしても来た。閣議での議論の後は、その問題を他の人間の手に委ねることになる。
しかし今確認できることは、当時の国務次官アチソンの言葉を借りれば、「議論は無価値の議題だった。」スティムソンは、外交的アプローチのみを望んだのであり、アメリカの科学者たちの情報を諸手をあげて相手に渡すことを望んだわけではない。恐らく推測としては、ソ連は核計画の見返りになにかその代償を申し出たに違いない。そうではなく、閣僚の何人かは、核に関する情報をただでやってしまうのだ、とその意味を取り違えていた。
多くの閣僚は、この複雑な問題を扱うにはいかにも準備不足だった。原爆の秘密と常識的な科学的知識の区別すらついていなかった。彼らは机上の空論でこの問題に対応した。
議論を終え、準備された書類を受け取った後、大統領は何とでもとれる公式声明を出した。
(スティムソンだけは例外である。彼はこの問題に関しあらかじめ十分準備していた)

 以下がスティムソンの手紙と準備していた書類である。
 (スティムソンの手紙原文:http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/small/mb15.htm )

 (スティムソンが準備した書類原文:http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/small/mb15a.htm )

 注 記
1. このメモランダムの2−3日前に起こったグーゼンコの亡命事件についてスティムソンがどれほど知っていたか確かではない。しかし、ソビエトがマンハッタン計画に浸透していたというのは前から証拠があった。
  (オタワのソビエト大使館員で暗号通信員の、イゴール・セルゲイビッチ・グーゼンコが、1945年9月5日に亡命した事件。この時グーゼンコは、ソビエトがマンハッタン計画をスパイしていたという暗号解読書類を持ってカナダに亡命した。)
2. 今は確認できることだが、この4年後にはソビエトは核爆発物質を製造した。この時ソ連はアメリカの技術加工技術や長崎型のプルトニウム爆弾の発射装置など、アメリカからの情報の獲得で大いに助けられた。

3. この時スティムソンが言及しているのは、第一次世界大戦の時ドイツが最初に毒ガス兵器を使用した事をさしている。第二次世界大戦の時、アメリカはドイツを技術的にも量的にも圧倒的にドイツを上回る毒ガス兵器を製造しなければならなかった。従って、ドイツ軍が先に毒ガスを使用したら、アメリカはドイツをはるかに凌駕する形で毒ガスを使用し得た。

4. 推測だが、第二次世界大戦のあと、第一次世界大戦後のあったパリ講和会議のような世界が一堂に会したような会議が行われるかも知れなかった。実際にはそのような会議はなかった。

5. 戦争の間、ルーズベルト大統領は国民党中国を−蒋介石総統−を、戦後問題を一緒に統括する4巨頭の一人と考えていた。第二次世界大戦の終盤、ルーズベルトもその後継者であるトルーマンも、その正義的基盤の弱さにもかかわらず、ヨーロッパ問題や正解問題に関して、フランスの再登場を求めていた。
(シャルル・ド・ゴール将軍が政府を初めて再組織したのは1944年のことである)

6. スティムソンは、国際連合機構のことを念頭に置いていた。国際連合組織は、1945年の夏の初め、サン・フランシスコ講和会議で作られたが、核問題を扱うには組織が大きすぎまた弱すぎた