(2010.7.27)


<参考資料> トルーマンが原爆を知った時


 以下の文章は、アメリカのスティムソン研究家ダグ・ロング氏(Doug Long 以下敬称略)の記述の翻訳である。原文は次で読める。(<http://www.doug-long.com/stimson2.htm>)。ロングは無名かも知れないが、偉大で誠実な研究家である。彼は常に地道に原資料を探して来、その原資料を私たち一般市民に提示し、そして自分の頭で考えることを求める。その原資料を十分に読み込むことが難しいと判断した時にだけ、遠慮がちに自分の解説をいれている。この記述がちょうどそれにあたる。

 45年4月後半から5月中旬にかけてと云えば、スティムソンは、大統領フランクリン・ルーズベルトに急死されてもっとも難しい局面にたたされていたころだ。「原爆計画」は、ルーズベルトならうまくこの人類史的課題を処理できるだろうが、大統領に昇格したばかりのトルーマンに対しては、スティムソンは、正直にいって大きな不安があったのだと、私個人は推察している。このスティムソンのこの時期の日記を読むにあたってロングは以下の解説記事が必要だと判断したのだと思う。読んでみるといろんな意味で面白い。で、ロングには無断で独立の記事にした。(ロングは怒らないと思う。)なお、関連するスティムソンの日記の日付は、45年4月23日、4月24日、5月1日、5月2日、5月3日、5月4日、5月8日、5月9日の計8本である。これは別途「スティムソン日記」のコラムに掲載する。以下本文。なお、記事はロングの地の文章の形式をとっている。ロングの引用は『 』等で示している。




 私はこのセクションをハリー・トルーマンからの背景情報で始めたいと思う。「回想録」でトルーマン大統領は次のように書いている。

原爆に関する最初の情報の断片が私にもたらされた。ヘンリー・スティムソンがそれを告げたのだ。』(「ハリー・S・トルーマンの回想録」第1巻p10)

 これがあったとしたら、トルーマンが大統領就任宣誓を行って、短い閣議の後、45年4月12日の夜のことだろう。スティムソン日記にはこのことは触れられていないが、トルーマンによれば、スティムソンは、

もっとも緊急なことについて話がしたい、と私に頼んだ。スティムソンは、現在進行中の巨大な事業について知っておいて欲しい、それはほとんど信じられないくらい破壊的な力をもった新型爆弾の開発を見据えたプロジェクトだ、と云った。』(同「回想録」第1巻 p10)

 トルーマンは続けて云う。

翌日ジミー・バーンズが私に会いに来た。彼は非常に荘重な面持ちで、いくつかその詳細を私に告げた。彼は、世界を丸ごと破壊するに十分なとてつもない爆弾を完成しつつあるといった。』(同「回想録」第1巻 p11)
バカバカしい。この時点でジェームズ・バーンズにそんな認識があるわけない。ポツダムで、わずか2万tの破壊力しかもたない原爆実験の結果を知って狂喜乱舞したのはどこのどなたでしたっけ?だから後でトルーマンの言うことは・・・。これは哲野)

 トルーマンが4月12日以前に原爆計画について何らのことを知っていたかもしれない証拠がある。たとえば、デビッド・マッカラフ( David McCullough)の「トルーマン」p289-290、ロバート・ファレル(Robert Ferrell)の「ハリー・S・トルーマン:人生」p172及びp418の註を参照の事。

 この後トルーマンは原爆に関する45年4月25日のスティムソンとの議論の中で、スティムソンが示した反応について書いている。

スティムソンは・・・、この戦争を短縮する力として歴史を彩る原爆の役割について、少なくとも関心を持っているように見えた。』(同「回想録」第1巻 p87)

 スティムソンは45年4月23日の日記で、その日のトルーマンとの会談について言及しており、その時、将来の国際関係のことがスティムソンの頭を占めていた、と描出している。