<関連資料>21ヶ条の要求に対する日本政府の最後通牒


資料の出典は、外務省編「日本外交年表並主要文書」上巻(1965年=昭和40年 原書房)である。
これは、1915年(大正4年)1月、日本の大隈重信内閣が中国の袁世凱政府に突きつけたいわゆる「21ヶ条の要求」に関する日本政府の中国政府に対する「最後通牒」である。
教科書的な記述では、「日本政府は中国政府に21ヶ条の要求を突きつけたが、中国の反対、列強の干渉で、要求のいくつかを取り下げ、最終的に合意した。」といった書き方がされることがあるが、この最後通牒を読めばとてもそんな生やさしいものではなかったことがわかる。
この通牒は、当時北京に駐在していた特命全権公使日置益から中国政府に渡されたものである。
原文はカナ書きであるが、読みにくいのでかな書きに変えた。漢字はそのままである。また途中で句読点を入れた。また原文は一切行替えなしであり、行替えをいれた。
文中(青字)は私の註である。
原文は「最後通牒及回答」となっているが、最後通牒と回答が同一文書であるはずがなく、これをひとつの文書とする方がおかしい。しかし表題は原文通りとした。ここでの内容は最後通牒部分のみである。
中国側は、日本と戦わずこの要求を飲んだ袁世凱政府の姿勢に対して、最後通牒が発せられた5月7日と21ヶ条条約を締結した5月9日を「国恥記念日」としている。


(以下本文)




中国政府に対する最後通牒及回答

(大正4年5月7日在華日置公使より交付)


抑も(そもそも)帝国政府か(が)支那国政府に対し今回の交渉を開始したるは、一は日獨戦争に因り発生したる時局の善後を図ると、一は日支那国の親交を阻碍するの原因たるべき諸種の問題を解決し、両国友好関係の基礎を固くし、以て東亜永遠の平和を確保せむとするに在るものにして、本年1月我提案を支那政府に申入れてより以来、今日に至るまで胸襟を披き支那政府と会議すること実に二十有五回を重ねたり。

ここでいっていることは、21ヶ条の要求を飲むことが、「時局の解決」を図り、「日支間の問題」を解決し、両国友好関係の基礎を固め、東亜永遠の平和を確保する、ということだ。中国侵略主義者は「そうだ、そうだ。」というかも知れないが、一市民の立場からみれば、これほど厚顔無恥な言いぐさもない。)

比間、帝国政府に於いては終始妥協の精神を以て我提案の要旨を解説し、同時に支那政府の主張に至ては、細大努めて之に聴き、圓満和平の間に解決を見むことを努めたるに於いて実に餘薀なき(余すところなく)を信す。

交渉全部の討議は第24回会議即客月17日に於いて略終了したるを以て帝国政府は交渉全部を通して支那政府の論議したる所を蔘酌し最初編製したる原提案に対し多大の修正譲歩を加へ、同月26日を以て修正案を支那政府に提出し同意を求むると同時に若し支那政府にして該案に対し同意を表するに於いては日本か多大の犠牲を以て獲得したる膠州湾一帯の地を公正至富なる条件の下に適当の機会に於いて支那に還附すべきことを声明せり。

これまで日本は譲歩に譲歩を重ね、しかもドイツから奪った「膠州湾一帯の地」もそのうち返すと声明もしたではないか、が文意。)

帝国政府の修正案に対し、5月1日を以て支那政府の興へたる回答は全然帝国政府の豫期に反するものにして、啻(ただ)に該案に対し誠意ある研究を加えたるの痕を示さざるのみならず、膠州湾還附に関する帝国政府の苦哀と好意とに対しては殆ど一顧の労をも興へさるものなり。元来膠州湾の地たる商業上軍事上実に東亜に於ける一要地にして、之を獲得するか為に日本帝国の費したる血と財との数少ならざることは言を俟たざるなり。而して既に一度之を我手に収めたる以上は敢て支那に還附するの義務毫も之なきに鉤らす、進て之を還附せむとするは誠に将来に於ける帝国国交の親善を思へはなり然るに支那政府の苦心を諒とせさるは実に帝国政府の遺憾禁する能はさる所なり。支那政府は啻(ただ)膠州湾還附に関する帝国政府の情誼を顧みざるのみならず帝国政府の修正案に対する其の回答に於いて同地の無条件還附を求め、日獨戦争に際し日本か膠州湾に於いて用兵の結果生じたる避くべかざる各種損害の賠償の責に任せむことを求め其の他地方に関係し数項の要求を提出すると同時に、更に今後日獨講和の会議に参加するの権あることをも聲明せり。殊に膠州湾無条件還附若くは日獨戦争の為に生じたる避くべからざる損害の賠償を日本に於いて負担すべしとの要求の如きは日本に対し到底其の容認する館はさること明白なる所のものを求めむとするに外ならず、而も支那政府は右要求を含める今回の対案を以て其の最後の決答なりと明言せり。従って日本に於いて是等の要求を容認せざる限り諸項に関し如何に妥協商定する所あるとも是等は皆遂に何等の意味をも有せざることとなるべく、結局支那政府今回の回答は其の全體に於いて全く空漠無意義のものとなるに至るべし。

1515年5月1日の中国側の回答は、全く日本側の意に沿うものではなかった。「膠州湾」の地は非常に重要である、その重要な地を日本はドイツから奪った、本来は言う必要もないのだが、これを将来返還してやると好意を示しているにもかかわらず、中国は好意に全く応えていない・・・、と日本は中国の誠意のなさを口を極めて非難している。なにか、こちらの頭が変になりそうな言い分だ。この「膠州湾」の地を奪うにあたっては、日本人の血が流され、費用もかかった、その費用も負担しようとも言い出さない、こんな回答は全く意味をなさない、と日本側は主張している。しかし、中国側からすれば、一方的にドイツに宣戦布告して、ドイツ軍と戦ったのは日本であって、中国が頼んだわけでもない、戦費負担は全くのお門違いというものだろう。日本の主張は、暴力団まがいの言いがかりに近い。)

加之(これに加えるに)、翻って帝国政府の修正中、他の条項に対する支那政府の回答に就て考ふるも、素と南満州及東部内蒙古の地たる地理上政治上、将た商工業の利害上、帝国の特殊関係を有する地域たるは、中外の認むる所にして、此関係は実に帝国か前後2回の戦役を経たるによりて、特に深きを致したるものとす。

南満州・内蒙古に特殊権益があることを中外が認めている、はこの時点では言い過ぎであろう。確かにロシアとの密約でお互いにその特殊利権を認め合ったがー日本は南満州及び東内蒙古、ロシアは北満州及び西内蒙古―中国や列強が認めたわけではない。中国が日露戦争後、ポーツマス条約に基づく「日清条約」で認めたのは、南満州におけるロシアの鉄道経営権と旅順・大連の租借権に過ぎない。)

然るに支那政府は此事実を閑却し、帝国の該地方に於ける地位を尊重せず、即ち支那政府の代表者か会議の席上明言したる所に基きて、帝国政府が互議の精神を以て案出したる条項に付ても、支那政府の回答は濫りに之を改訂して代表者の陳述をして一片の空言に止らしめたるものあり。或いは一方に於いて之を許しながら他方に於いて之を禁せんとするか如きものありて、支那当局者の信義と誠意とは全然之を認むるを得ず。

従ってこれも殆ど言いがかりに近い。)

将又(はたまた)顧問に関する件、学校病院要地に関する件、兵器若くは兵器廠に関する件、南支那鐵道に関する件、等に関しては帝国政府の修正案は関係外国の同意を条件としたるか若くは支那政府代表者の己に言明したる処を記録し置かんとするかに止り、何等支那の主権又は条約に抵触するものにあらず。然るに支那政府の回答は軍に主権又は条約等に関係ありとして帝国政府の希望に癒することを拒絶せり。

ここは、5号要求に関する記述とも思われる。「中国政府に日本人の政治・財政・軍事顧問を雇うこと」、「兵器は日本に供給を仰ぐかまたは日中合弁の兵器工場を作ること」、「華中華南にも鉄道敷設権を認めること」など。中国の主権に抵触しないといっているが、これは保護国になれというに等しい。中国が拒絶するのは当然だろう。)

帝国政府は支那政府の此の如き態度に鑑み、此上協商を継続するの餘地、殆ど之なきを遺憾とするものなりと雖(いえども)、極東平和の維持に誉々たる帝国は努めて本交渉を円満に結了し、時局の紛糾を避けむことを翼ひ、難きを忍びて更に隣邦政府の情意を酌み優に、帝国政府の提出したる修正案中第5条の各項に就き、己に両国政府代表間に協定を経たる福建省に関する公文交換の一事を除くの外、5項は本交渉と引離し、後日改めて協商することとなすを承諾すべきにより支那政府に於いても亦帝国政府の誼を諒とし、他の各項即第一号第二号第三号第四号の各条項及第五号中福建省に関する公文交換の件に付ては去る4月26日を以て提出したる修正案記載の通り之に対し何等改訂を加ふることなく速に應諾せんことを茲に重て勧告し、帝国政府は此勧告に対支那政府より来る5月9日午後6時迄に満足なる回答に接せむことを期待す。右期日迄に満足なる回答を受領せさるときは帝国政府は素の必要と認むる手段を執るべきことを併せて茲に聲明す。

今まで、25回に渡って話し合い、日本が譲歩して来たかのように記述しているが、実際には1号から4号まで全く日本は、譲歩していなかった。第5号に関しては中国国内からも、列強からも強い反対があったために取り下げることになったものだが、それでも福建省における運輸施設に対する日本資本の優先権は認めさせた。
それより、このものの言い方である。高飛車で恩着せがましく、品性のかけらもない。これが外務省の高級官僚の書く文章である。暴力団と全く変わりない。そして期限を切って相手が飲まない場合は、「必要と認むる手段」を取る、と凄んでみせるのである。)
これで最後通牒は終わるのだが、この最後通牒には以下の説明書きがついている。)



最後通牒提出の際在支日置公使より陸外交総長へ手交せる説明書


陸外交総長は、袁世凱政権の“外務大臣”の陸徴のことである。)

最後通牒後段福建省に関する公文交換の一事を除く外5項とあるは顧問傭聘に関する件、学校病院用地に関する件、南支那鐵道に関する件、兵器廠に関する件、及布教僧に関する5件指すものなり。
  (以上は「要望」と称せられた第5号要求である。)
福建省に関する件は4月26日提出せる我最後修正案の通と為すも又は5月1日支那国政府より提出せる対案の通とするも何れにても差支なし。
此次最後通牒中には4月26日我修正案に対し改訂を加へすして應諾すべきことを支那国政府に求めあるも右は原則を示したるものにして本項及(4)(5)の如き例外あることは特に注意を要す。
此次最後通聴を以て要求せる各項を支那国政府に於いて承諾するに於いては4月26日支那国政府に対し聲明せる膠州湾還附に関する件は其の儘残り居る次第なり。