軍縮提議の経済的解釈と日本の立場   高橋亀吉


雑誌「改造」1927年各号所収の論文から中国関係、国際政治関係の興味深いものをテキスト化した。
漢字、仮名遣いは現在の常用漢字、仮名遣いにあらためた。句読点も加えた所がある。
(青字)タイトル、中見出しは、私自身が私自身の整理のためにつけた。
原文タイトル中見出しは黒字で表記した。
(*青字)は私の註である。
(ママ)の表示のない誤字・脱字は全部私の責任である。
1927年の言説としては時代を飛び越えている。高橋は、1921年のワシントン会議における「主力艦建造制限」に続く、アメリカ大統領クーリッジ提案による「補助艦等建造制限」提案は、決して英米が「世界平和」を希求したものではなく、「帝国主義的世界分割支配の現状を固定化しようという狙い」だと論ずる。

 それは英米のような持てる帝国には極めて都合のよい「固定化」だ、と主張し、翻って日本のような「持たざる国」やインド、中国のような被圧迫国は「犬のような貧乏」な生活を強いられることになる、と説く。日本はこのような被圧迫国の先頭にたって、「民族解放」を行わなければならないし、そのための「反帝国主義の戦い」も最低限許されると主張する。

 これから「大東亜共栄圏」のイデオロギーが展開されるのかと思いきや、一転、高橋は、「そうではない。強大なる帝国主義に立ち向かうのに、帝国主義の道徳で立ち向かうのは得策ではない。被圧迫民族の解放主義の道徳をもって立ちむかわなくてはならない」とし、このためには日本も朝鮮、台湾、満州における権益を放棄し、完全の被圧迫者のために戦わなくてはならない、とする。このためにもクーリッジの軍縮提案には徹底的に賛成し、さらに押し進めて軍備の全廃を行わなければならず、強大なる帝国主義に対して軍国主義で立ち向かうのは下策中の下策だと主張する。

 この高橋の主張は良く読めば、現在の日本国憲法の前文及び第9条の思想と一直線につながった極めて現実的な国際政治論にもなっている。

 そして『日本今日の経済的行き詰まりを転換しうる国際的手段は、いま、右の如き方法以外にはないのである。しかも、この方法は、世界人類の平和を確保する唯一の方法である。』とこの論文を結んでいる。

 1927年(昭和2年)にこう主張した高橋が、その後経済政策家として、帝国主義日本の国家総動員体制に協力していくことに何故なるのか、ここは一つの大きな疑問ではあるが、だからといって1927年のこの言説の価値が、2009年の現在、損なわれるわけでもない。


(以下本文)



軍縮提議の経済的解釈と日本の立場
高橋亀吉 3月号所収

(* 高橋亀吉は、戦前戦後に活躍したエコノミスト。ジャーナリステックな感覚で本格的な経済理論を論じることもできた。現在ではちょっと見当たらないタイプ。<http://ja.wikipedia.org/wiki/高橋亀吉><http://chaos.tokuyama-u.ac.jp/souken/kamekichi/index1.html>)


 米国大統領クーリッジは2月10日、日英仏伊の四カ国に覚え書きを発して、「巡洋艦、駆逐艦、潜水艦を含む」所謂補助艦軍備縮少会議を提唱した。云うまでもなく、この軍縮会議は1921年におけるワシントン会議、すなわち第一次軍縮会議の延長である。
(* カルビン・クーリッジは、急死した大統領ウォレン・ハーディングの後、1923年副大統領から就任した第30代アメリカ大統領。共和党。1929年フーバーに引き継ぐまで彼の時代は、戦前アメリカがもっとも繁栄した時代といっても過言ではない。<http://ja.wikipedia.org/wiki/カルビン・クーリッジ>。この論文との関係でいえば、「補助艦建造制限」は1927年、ジュネーブで話し合われたが決裂に終わり、この交渉が妥結するのは30年の「ロンドン軍縮会議」まで待たなければならない。ロンドン軍縮会議はイギリスのマクドナルド首相の提唱で開かれたのだが、高橋がここで喝破しているように、表面喧嘩をしながらも、英米はずっと一体だった。)

 顧みるに、第一次軍縮会議は「主力艦及び航空母艦のトン数に制限を設け、その他の艦船の大きさ及び備砲の最大砲口径に一定の制限を付す」ることに成功したるも、所謂補助艦そのものの建造を制限せんとする企図は、仏伊両国の頑強なる反対のために不調に終わったものである。

 然るに、今クーリッジ大統領が、再びこの補助艦制限問題を提唱するに至った表面上の理由は、要するにこうである。

 すなわち、ワシントン条約の結果、主力艦及び航空母艦の競争は制限せられたが、しかしその競争の精神は、該条約に漏れた補助艦において再び表現し来るに違いない。現に日本や英国には、已に其の海軍拡張計画が立てられ、米国もまたかような計画が他国にあるという理由で、海軍拡張を力説する輿論があらわれている。

 「この輿論の底には新たな建艦競争の禍因を包蔵している。余は(クーリッジ)各国政府及び人民が建艦競争を避けて、徹底的海軍制限を達成することに同感なることを信ずるがゆえに、さらに海軍制限を実行することの可能性を確かめんため主要海軍国に対し討議の機会を招来せんために、本問題に関する会商をするべく、速やかに開始せんことを提議する。」というのである。

 これにつきクーリッジ大統領のこの提唱の動機について対内国の政治的理由の含まれていることを海外電報は伝えている。さらにまたこの軍縮提唱が、来るべきジュネーブ軍縮会議を利用した点、すなわちこの軍縮協定を来たるべきジュネーブ軍縮会議に置いて協議しようとして点につき、軍縮提唱者としての会議の技術的タクチックが云々せられている。

 しかしながら斯様なことは、要するに枝葉の問題であって、問題の根幹は米国が何故にこの軍縮問題に集中するかと云うことである。就中、私のここに問題としたい点は、その「経済的理由」についてである。




 クーリッジ大統領の教書はいう。

 「世界の平和を維持せんことを目的とするあらゆる政策を支持することは、米国政府の根本的政策としてつとに確立されたところである。米国政府及び人民は、軍備競争は国際的猜疑と不和とを醸す最も危険なもので、結局戦争を誘致するものであると信ずる。この事実を認識し、できうるだけこの危険を取りのぞかんため軍縮を提議する」、と。

 この限りクーリッジの云うところは間違ってはいない。彼及び米国人民は戦争を避けようとしている。しかしながら然らば何故に米国はー而して斯様な軍縮提議に最も賛成である英国はー戦争を避けようとしているのか。

 彼らは「人類平和」を望むがゆえに「世界各国間の平和を維持」せんとするのだ!!と心から果たして答えうるやというに、それは断じてそうではない。

 一体戦争が起こると云うには古来それぞれの理由があったのであるが、今日に置いてーすなわち世界の資本主義が、いわゆる帝国主義時代になった時に置いてー強国間に戦争の起こる危険があるという経済的理由は要するに、資源及び販路の独占に対する争奪からである。

 そもそも世界に未だ強国の独占にならない領土がなお存在した時代に置いては、かような資源及び販路の争奪ということは、主として斯様な未開国の侵略ということによって行われた。従って斯様な時代においては強国間の戦争という危険の割合は少なく、たまたま植民地征服の競争で「危険」が醸されても容易に妥協がついたものであった。

 たとえば「勢力範囲」を協定してそれぞれの縄張りを分割するとか、ドイツが膠州湾を奪取せば、露国は旅順港、英国は威海衛をとるか乃至は日本が英国に南支及び揚子江流域の特殊権を認める代わりに、英国が日本に南満朝鮮の特殊権を認めるとかといったやり方がその著例である。
(* すなわち高橋亀吉は、第二次世界大戦前の状況を、帝国主義列強間の「資源及び販路=領土の未分割が飽和点に達し、帝国主義間の既存「勢力範囲」の争奪戦時代に突入したと捉えている。この観点に従えば、太平洋戦争は「中国」を巡る主としてアメリカ帝国主義と日本帝国主義の争奪戦が本質だった、ということになり、私もまたこの見方を支持している。)

 しかしながら世界の未開地が一巡、いずれかの強国に侵略尽くすと共にこの従来の如き領土の拡張はできなくなり、その後における領土の拡張は、已にいずれかの強国に属している「領土」を再争奪するほかに行く道はなくなってくる。この時代が来ると新たな資源及び販路の獲得と云うことは、必然に、強国間の戦争ということを意味するにいたるのである。

 蓋し、今日に資本主義制度においては、斯様な資源と販路を内国以外に置いて新たに得る外に、その国資本主義の繁栄を続けることは出来ない仕組みであるが、その新資源、新販路を得る途は、領土狭く植民地狭き国に於いては、已にいずれかの国に属する資源と販路を武力に訴えて再奪取する外に策はない事情にある。

 何となれば、今日は昔と違って、いずれの領土も、その国又はその本国の利益のために政治的に「独占」せられているのであって、自由競争の下に世界に解放せられてはいないからである。

 この間に於いて、大領土と大植民地を已に有する国に於いては、その大領土と大植民地自国乃至本国のために「独占」し以て、他国の資本主義の競争を遮断するだけで、自国資本家に大なる利益を約束しうる。加うるに、なお開発の余地も十分にあるという事情にある。勢いこれ立(*ママ)の大領土と大植民地を有する国に於いては、そう無理をして、新たに領土を拡げる必要がないわけである。否々、反対に、これらの大領土と大植民地を有する国に於いては、寧ろ、外の領土に恵まれざる国強国が、死にものぐるいに、已得の領土の再奪還戦を戦い来る脅威の方がはるかに大である。大領土と大植民地を有する国に於いては、新たに領土を拡張するということを全然封ぜられても、現状を維持することさえできれば、その方が遙かに利益だと云う結論を生むに至るのである。

 従ってまた、彼らは極力、斯様な領土の再争奪戦を防止することに熱中する。かつては、軍国主義の典型であり、侵略国家の謳歌者であった英国や米国が、ここに一転して、軍国主義の反対者となり、侵略の呪詛者となり、世界各国間の「平和の神」となるに至った手品の種はこれである。

(* 高橋は、第二次世界大戦前の英米主導による「軍縮時代」の本質を見事に説明している。)





 クーリッジの云う「世界平和の維持」と云うのは右の如き意味の平和である。米国や英国の云う「戦争阻止」と云うのは右の如き意味の戦争阻止である。

 従って、彼らは、「結局戦争を誘発」する危険あるものとして、独り、軍備の競争、就中「建艦競争」のみを強調する。しかし乍ら、「結局戦争を誘発」する最大の危険物は、軍備そのものではなくて、実は領土(資源及び販路の独占を含意した)の不均衡極まる「独占」にある。


 たとえば最近国際連盟が調査したところによると、北アメリカ州は世界人口のわずか6.6%をしめるに過ぎないが、その原料及び食料の産出は世界の28.7%を占めており、豪州は同じく人口の0.5%に対し、原料及び食料は1.6%を占めている。之に反し、アジア州は世界人口の53.3%を占めながら、その食料及び原料産出高は世界の21.9%を占めるに過ぎない。しかも北アメリカ及び豪州はアジア人の入国を拒否しているのである。更にまた、今重なる国の人口と領土をとを見るに別表の如く、英帝国や、米合衆帝国の領土は、日本の16倍乃至50倍を擁し、しかもその人口密度は、一平方マイルにつき日本が309.5人の過多を有するに対し英米はわずかに30人内外に過ぎない。日本やイタリアやその他が、人口の過剰と資源の欠乏と販路の狭小に困っているとき、彼らは、斯様な贅沢な領土を独占して、奢侈な生活に陶酔しているのである。宛も国内に於いて貧富の差が甚だしく、少数大資本家の驕奢な生活のために、民衆の生活が著しく圧迫せられる時には、反資本家的戦闘が戦われる如く、斯くの如き国際的領土と人口、乃至は人口と資源の不均衡極まる独占は又、戦争を醸さざるを得ないのである。


世界主要諸国領土及び人口表
(高橋亀吉「軍縮提議の経済的解釈と日本の立場」本文中別表)
国名 本  国 帝国線計
面積 人口 人口密度 面積 人口 人口密度
日本帝国 148,706 58,481 392.04 260,738 80,704 309.50
英帝国 95,041 44,147 464.03 13,406,103 441,595 30.90
米合衆帝国 - - - 3,742,583 118,649 31.70
露帝国 - - - 8,273,130 133,442 16.10
仏帝国 212,659 39,430 184.40 5,817,797 99,525 16.90
支那帝国 1,532,420 375,000 244.70 4,277,170 400,800 93.70
オランダ 13,205 7,087 563.30 961,569 47,001 59.30
イタリア 117,982 38,836 329.10 708,847 40,889 57.70

面積は平方マイル、人口は千人、人口密度は1平方マイルあたり。
この表の作成者高橋亀吉は、註に「米国ワールド新聞社発行の1925年度版アルマナクに主として由る」としている。
「露帝国」は少しおかしい。というのはすでにロシア革命後で「ソ連」が成立している。しかし案外この見方、「露帝国」の方が正解なのかも知れない。特にスターリン主義のソ連とは実際には「露帝国」だったのかも知れない。
「米合衆帝国」という言い方は実に当を得た新鮮な響きがある。高橋亀吉はこの用語を本文中でも使っている。「米合衆帝国」が、米ワールド新聞社の原表にあったのか、高橋独自の用語なのかは確認出来ない。
原文中別表は縦書き・漢数字なのでエクセルに移し替えた。

 云うまでもなく、斯くの如き不均衡極まる世界領土の分割は、人類に「平和」をもたらす筈はない。なるほど、英米の如き大帝国主義国に於いては「人類は平和」を皷腹し得るかもしれないが、日本、イタリア、支那その他の小国乃至被圧迫国に於いては、人類の多くは犬にも劣った生活に苦闘しつつあって、そこの何処に「平和の咲き出づる沃土」があろうぞ。

 米国及び英国の如き大帝国主義圏の云う「世界平和」というのは、斯くの如き各国国内の暗黒面はこれをその国々の中に押し隠して、国際間にだけ「平和」を維持しようというのである。之れ、宛も国内に於いて労働階級や小作人階級の生活苦がいかに甚だしいかということは、これをそのままに放っておいて、否、之は依然「政治的力」を以て不人情に圧迫しておきながら、独り、労働者対資本家の間、乃至は小作人対地主の間に飲み、「人情的平和」を主張し、ソレコソ「誠心誠意」その平和維持のために努力する、ソコラ辺りの「紳士的」大資本家と全く同じ「平和」の愛好者である。

 米国と英国(今度のクーリッジの軍縮提唱に於いても英国と予め打ち合わせ済みのことだとの新聞電報である)とが、軍縮に熱心なる所以は、以上によって、大体に誰にも看取出来るであろう。而して、宛も脛に傷を持つ泥棒が、神経過敏に、常にビクビクする如く、彼らがその厖大な、人口希薄な、資源に豊富な領土の独占を続けようとすればするだけ、彼らには外の領土狭小な強国の侵略が、常に悪夢の如くつきまとうのである。

(* この高橋の議論は取りようによっては、「大東亜共栄圏」の正当化理論のようにも取れる)





 斯様にクーリッジの軍縮提案は、第一次のそれと共に、「人類の平和」を愛好する所から生まれたのでは全然ない。従って又、人類の平和の名に就いて斯様な提案をシャーシャーとなした彼れ、及び彼の国民の偽善をこの際ヒキむいでやるがよい。

 しかし乍ら、その故に然らば、日本は此の際軍縮そのものに反対すべきかというとそうではない。一体、今日の世の中に於いて、今日の日本の実力を以て、英米仏の如きと競争して、領土の「拡張」を企図することが全然間違っている。このことに対支21ヶ条の強要、シベリア出征の大失敗等によって、已に試験済みのことである。蓋し日本の如き後進国乃至貧弱国が、斯様な企図の下に死力を尽くすことは、宛も、今日の労働者が三井か三菱の如くならんとして、彼れと必死に競争するの愚挙に等しく、到底、成功の見込みは内からである。
(* 興味深いのは、高橋は、大隈内閣による「21ヶ条の要求」、しかも高橋は21ヶ条の“強要”と表現している、「シベリア出兵」は「大失敗」だと断じ、日本は「後進国」だと看破している。もちろんこの後進国は、現在の低開発国という意味ではなく、「遅れてやってきた帝国主義国」という意味である。)

 尤も斯様な希望が労働者にも現に出現せられた時代もあった。がそれは資本主義の初期の動揺時代のことであった。資本主義の発達し固定した時代のことではない。それと同じく、日本の如きも、英米と同じく水準線に立って、「領土拡張」を競争し得る希望を持った時代もあったが、それは帝国主義初期の動揺時代のことであった。今日の如く、帝国主義が固定し守勢時代に転じた時のことではない。

 そもそも、強者が一度その地位を固定した時に於いて、その強者の圧政に苦しむ勇者が、その圧政を倒す方法は、由来、唯一つしか成功したものはない。その方法とは即ち、強者と同じ道徳水準に於いて「支配の争奪」をすることではなくて、新たな被圧制者の道徳水準に立ち、「解放」を闘い取ることである。例えば、今日労働者がその圧迫の生活から脱しうる唯一の方法は、資本家にまで自らを持ち上げるという戦いを戦いとることではなくて、(今日の固定した世の中に於いては斯様な希望は最早実現の見込みは全くないこと已述の如し)労働者そのものを、労働者のままで解放することである。今日の労働運動は現にそれである。それと同じく、今日日本の如きが英米その他の帝国主義国の圧政と独占とを、克服しうる唯一の方法は日本自らを英米の如き帝国主義国にまで持ち上げる戦いによってではなく(即ち英米とその領土拡張戦を戦うことによってではなく)支那や印度やその他の被圧迫国の味方となり、それと共同戦線に立って、植民地その他一切の世界領土の解放を要求することである。

 なるほどこの解放を要求するためには、日本は朝鮮、台湾、満州等の「独占」を放棄せねばならないが、しかし、これら「猫額大」の土地の解放によって、今日、日本に閉ざされているアメリカ州、豪州、南洋、印度、アフリカ州等を解放しうるならば、如何なる領土拡張論者と雖も之に反対するものはないであろう。之を個一の「空想」というなかれ。現に、支那、トルコ、エジプト等は已に自らを解放しつつあり、その暁には印度その他にも此の波は及ばざるを得ないのである。少なくとも、英米と「戦争」して支那や南洋やに新領土を拡張せんとする我が軍国主義者よりも、遙かに、この「解放」運動の方が、日本自身の「解放」を約束する可能性が多いわけだ。
(* 高橋は「日本の解放」をいうが、誰からの、あるいは何からの解放なのかは明示していない。)

 果たして然らば、領土の新拡張の武器としての今日の軍備に対しては、日本は極力その世界的縮少に努力すべきであり、進んではその撤廃にまで之を進展せしむべきであって、毫も之に反対すべきでない。

 而して、その軍縮の比率問題の如きは、之を最大限に譲歩しても、尚お、此の軍縮を実現せしむべきである。さり乍ら、その軍縮主張の意味は、英米の如く、最少限度の軍縮を以て、彼らの優越せる「現状を維持」せんがためではなくて、実にこの「現状」を根本的覆して、世界の全領土を世界の全人類のために解放せしめんがためである。

 されば、英米の軍縮は彼れ一流の偽善者「世界平和」のためであるが併し乍ら、我々日本の此際主張すべき軍縮乃至軍備撤廃は、世界における強者の支配と独占(その武器は即ち軍備である)とを打破して、「人類の平和」を世界各国に確立せんがためであって、そのためには、「反帝国主義戦争」も之を余儀なしとし、その反帝国主義戦争の惨禍をできるだけ除去する一方法として軍縮を叫ぶのである。

 日本今日の経済的行き詰まりを転換しうる国際的手段は、いま、右の如き方法以外にはないのである。しかも、この方法は、世界人類の平和を確保する唯一の方法である。
(* ここの高橋の議論は見事という他はない。太平洋戦争開戦当時、日本の支配層が誰しも認めていたとおり、帝国主義戦争としてみれば日本はアメリカの敵ではなかった。であるならば、アメリカ帝国主義との戦いは避けるべきであった。それは日本がアメリカ帝国主義の支配下に入ることを意味する。高橋は、この道も間違っていると説く。日本が唯一取るべき道は、帝国主義的国策をやめ、人民解放主義的国策を取るべきだという。それが、昭和恐慌に際し『日本今日の経済的行き詰まりを転換しうる国際的手段』だという。

 ならば高橋は、1960年の日米安全保障条約に対して、なぜ沈黙を守ったのか?この道は日本の帝国主義がアメリカの帝国主義の支配下に入ることを決定づけたのではなかったか?)