<参考資料>満州金融界の今昔 1932年11月 東京朝日新聞

これは、1932年(昭和7年)11月29日・30日と2日にわたって連載された記事である。

1931年(昭和6年)9月18日午後10時30分柳条湖事件が発生すると、日本軍は翌19日午前5時30分頃から軍事行動を起こし、一挙に満州全土を占領するのであるが、まず第一の軍事攻略目標が首都奉天の軍事施設「北大営」だったことは理解できるにしても、それと並ぶ攻略目標が、張学良政権の中央銀行だった「東三省官銀号」だったことは興味ある問題だ。

張作霖政権は南京の国民政府の支持により殆ど軍事的抵抗を行わなかった。

それにしても日本軍が制圧した時刻は北大営が6時30分、東三省官銀号が6時ごろと実は銀行の方を先に制圧している。日本軍が銀行を最重要視していた事は明白だろう。「満州国」は1932年(昭和7年)3月1日、ばたばたの中で建国宣言をし、「満州国」の中央銀行たる「満州中央銀行」は32年7月1日に正式開業するのだが、その中身は驚くことに張学良政権時代の銀行組織をほぼそっくり踏襲するのである。

極端に言えば、学良政権の銀行組織をそっくり看板だけ付け替えてスタートするのである。スタートしても「満州中央銀行」発券の銀行券が間に合わず、接収した学良政権時代の銀行券の上に「満州中央銀行」のラベルだけ貼って流通させる始末である。
「新中央銀行紙幣の注文は日本国政府に発せられたるも今日迄のところ右紙幣も新硬貨も未だ流通し居らず。満州の現通過は紙幣が各銀行を通過するとき栄厚(新中央銀行総裁)の署名を追加せられ居り外依然1931年9月18日前に存したるものなり。」
<http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/37.html?&flag_mobilex=1>)

この記事は満州中央銀行総裁の栄厚が東京朝日新聞に寄稿した原稿をもとにした記事であるが(栄厚がどんな経歴を持つ人物なのか私は分からない。)、栄厚が、張学良政権時代の銀行の乱脈ぶりを強調すればするほど、何故そんな乱脈な銀行をそっくり受け継いで満州中央銀行をスタートさせたのか、またそんな信用力のない銀行の発行した銀行券を、流通させたのか、満州の人々はそんな銀行のお札をなぜ信用して使っていたのか、など読むものに疑問を大きくさせる不思議な記事である。
発足時の満州中央銀行の資本金は8000万元。うち500万元は旧張学良政権の銀行を接収したもの。3000万元は新たな投資を行ったものである。
句読点、行替えは適時私がつけた。(*青字)は私の註である。



満洲金融界の今昔 (上)

満洲中央銀行総裁 栄厚
【新京特電二十八日発】

満洲国創成以来、八ケ月。建国日なお浅きも政府当路者日夜建設の大業にまい進し、殊に金融を司る中央銀行関係者は日系行員たると満系行員たるとを問わず旧弊打破に努めている結果、その業績みるべきものあり。満洲国金融と財政の基礎はいよいよ固きを加えつつある、この時に当って金融の直接の衝に当っている満洲中央銀行総裁栄厚氏は乱脈その極に達していた旧軍閥時代の金融事業と漸次整備されつつある現在の全国金融事情を比較詳述して次の如き稿を本紙に寄せた。
(* 新京は吉林省長春。「満州国」建国にあたって、首都を長春に置き名称を新京とあらためた。)

満洲国金融事情を国民が十分に認識されるようにと思って、特に全国金融の新旧状況を比較してみる。

(一)新旧銀行設立の比較

以前東三省旧政府時代(*張学良政権政府のこと)最初奉天には東三省官銀号、公済銭号、興業銀行、東三省銀行があったが、後に東三省銀行、興業銀行、公済銭号を東三省官銀号に合併し、ついで張作霖はまた私財をもって辺業銀行を設立し、結局奉天省金融は東三省官銀号、辺業銀行および右二行号の分行、分号の二機関に属することとなったのである、吉林では最初から永衡官銀銭号およびその分号の一金融機関があったのみで何ら変動はなかった。黒竜江省は最初広信公司を設立したが、続いて黒竜江官銀号を増設し、最後に右官銀号を配して広信公司に合併せしめ更に広信公司を黒竜江官銀号と改称し各分行号とともに一金融機関となった。かくて三省四金融機関は各勝手に事務をとっており、そのため何等の統制もなく或る機関は大体成績を挙げているのに他の機関は成績極めて不良病国病民の業態を続けて来た 。

(* 結局、満州事変当時は奉天に本店を置く東三省官銀号、辺業銀行の2行、黒竜江省には黒竜江官銀号、吉林省には永衡官銀銭号の4行があった。)

然るに満洲新国家成立するや、まず新京に満洲中央銀行を設立し、本年(1932年)三月より六月まで三ケ月の準備時代を経て七月一日正式開業、同時に奉天東三省官銀号吉林永衡官銀銭号、黒竜江官銀号を分行と改め、従来の各分号を全部各支行と改め、頭にそれぞれ奉字、吉字、江字を冠した。辺業銀行はこれを業字総支行と改め従来の各分行はそれぞれ業字支行と改称した。

(* 結局、満州事変前の中央銀行体制をそのまま引き継ぎ、発券銀行は満州中央銀行のみとしたことになる。)

総行には総裁、副総裁を置き行務を総理し理事を置いて各部の事務を分任せしめ、分行には駐在理事、駐在員を置いて行務を監理し、分支行には経理を置き業務を経営し、従来無統制だった金融機関を統一し、また思い思いに政策を行っていた総弁を廃し総裁、副総裁の監督下に直属せしめたがため、今後は機関の分裂するという弊害は除かれ事務統一の効果を挙げ得るに至った。


(二)新旧銀行の資本の剰余、欠損の比較

奉天、東三省官銀号、吉林永衡官銀銭号、黒竜江官銀号の最初の資本額には限度があったが、紙幣の発行或は付業の特産経営による収入で随時填補したので資本額は結局確定的な金額はなかった。なかんずく兼営事業の損失、軍費、政費の立替えなどにより欠損を来し、欠損後これを埋合せ、その後再び欠損し、結局欠損多く、埋合せ少く、資金はますます減少し来ったので兌換を行わず、為替を取組まず、暴落したのも皆これに起因したのである。


(* 京都大学人文科学研究所『人文学報』第79号―1997年3月所収の論文「満州中央銀行と朝鮮銀行」安冨歩、によれば、「満州国」の金融史を、
第1期 32年6月15日〜33年12月末 第一次幣制統一期
第2期 34年1月〜37年12月末 第二次幣制統一期
第3期 38年1月〜40年12月末 産業資金膨張期
第4期 41年1月〜42年12月末 軍費インフレ期
第5期 43年1月〜45年終戦 全面的資金膨張期
の五期に分けている。この満洲中央銀行総裁・栄厚の論文は32年11月であるから、ほぼ第1期のスタートにあたっている。安富はこの第1期について「満州中銀は張学良関係の資産負債を未整理のまま継承したため、この時期にその整理を行った。満州国は満州中銀中の“逆産”を“不良資産欠損額”1億9060万円、“関係負債の消滅による利得金額」1億5760万円”と査定し、両者の差額3300万円を補償公債の交付にて補填した。」と言っている。だからここで栄厚のいうような一方的な欠損ではなかったと考えられる。従って貨幣価値の“暴落”があったとしても、その原因は別な要因に求められなければならないだろう。)

中央銀行の資金は元来、国幣三千万元であるが合併成立後は、実に資金八千余万元を算し、政府公布の法律によれば銀行が紙幣を発行するには、三分の一以上の正貨準備を必要とするが、この八千余万元の準備金に対して、一億四千六百余万元の旧紙幣発行額を見ているから、その準備金は既に法律所定の準備額の二倍以上に達している。

かくの如く資金の充実せるは単に東三省において未曾有のことに属するのみならず支那各地の銀行においてもまれに見るところである。

(* この記述と前段の記述は、読むものを戸惑わせる。“国弊3000万元”といっているのは、満州中央銀行創設の際に日本が実施した資本金である。満州中央銀行は、政府と独立した機関ではないため、満州中央銀行券は厳密には銀行券ではなく、“国券”である。このためこの論文では国弊と表現している。しかし準備金としての“国弊3000万元”は、私の資料の読み間違いでなければ、日本本国から金塊や銀塊あるいは外国通貨などで調達されたものではなく、朝鮮銀行との相互保証で調達されたものだ。つまり信頼のおける準備金は5000万元だった。ということになる。この5000万元は、張学良政権時代の銀行資産を接収して調達したものだ。この5000万元を準備金としてみれば、総発行額1億4600万元の総紙幣発行額は極めて健全な状態だったことが分かる。つまり怪しい出所の3000万元を加えない方が、よかったのである。さらに、独立した機関でない満州中央銀行より、政府とは独立した中央銀行であった張学良政権時代の方が金融システムとしてははるかに健全だったといえよう。この時期はまだ準備金の中に、金塊、純金、天津銀、鎮平銀などを保有していたが、3期、4期、5期と進むにつれて、準備金の中身は日本国債、日本銀行券、満州国国債、商業手形などが大半を占めるようになり、これが満州国の超インフレの原因になっていく。=以上前掲論文による。

また中国の他の軍閥政権では、中央銀行などないも同然であったり、南京の国民政府ですら、裏付けのない発券をおこなったため、インフレによって人民が搾取・収奪されたことを考えれば、奉天軍閥は際めて抑制的かつ健全な金融政策を実施したということができるのではないか。ここに、満州事変当初から関東軍が、張学良体制の中央銀行をいち早く接収しようとした秘密があるように思われる。逆に言えば、「満州国」は、健全な張学良政権の金融システムをそのまま乗っ取り、最後にはこれを破滅させたという言い方も可能であろう。)


(三)新旧紙幣発行の比較

従来東三省旧官銀行号において発行せる紙幣は合計十数種類の多きを数え、市価区々にて発行高もっとも多く、暴落もっとも甚だしきものは例えば近年の奉天票の如き、現大洋との兌換において一元四、五角より六〇元に暴落し或は江省官点の如き、六、七〇吊より一千六、七百吊に、永衡官帖の如き百数十吊より六百数十吊に暴落せるが如き、従来の奉天票十二角、江帖七、八吊永帖三、四吊をもって現大洋一元と兌換せるとを比較せばその差極めて甚だしきものがある、哈大洋、永洋、江洋の暴落これに次ぐ、これがため商業は損失を受け倒産者続出し一般人民悉く痛憤するもあえてこれをいわず、或は逃走或は殺害された者さえある中央銀行成立以来紙幣の発行は旧紙幣に発行額をその発行額としているが旧紙幣を回収せざれば、絶対に新紙幣を発行せざるをもって開業日より十月三十一日までに回収した旧紙幣は、四千五百七十六万六千七百三十三元であり新紙幣の発行は僅かに二千六百四万一千二百三十三元である。かつ法律では二年間に旧紙幣を全部回収すべしと定められている。

(* 張学良政権のお膝元、東三省官銀号の“大洋元”の信頼が大きかったことを窺わせる記述である。満州中央銀行が「旧紙幣を回収せざれば、絶対に新紙幣を発行せざる」は本当のことで、この時期旧紙幣の回収に努めた。またここでは記述されていないが朝鮮銀行券も相当流通しており、満州中央銀行の第二期はこの朝鮮銀行券の回収に努めることになる。逆に言えば「張学良の遺産」で、こうした健全な財政政策がとれるほどの準備金の余裕があったということにもなる。しかし、それも2期までで、日中戦争の勃発後は裏付けの少ない発券が鰻登りに大きくなっていく。)

新旧紙幣の発行、回収の換算標準は既に政府及び中央銀行の査定を経て公布してあるが、その公布した価格は市価に比し高く、事実人民は利益を得、銀行は損失を受けているのだから、政府と銀行との一般人民厚遇の苦心に対し、満洲の人民は欣喜せざるなく、全部これに服従し一ケ所また一人としてこれを阻害するものはない。


(四)新旧紙幣為替取組の比較

奉天東三省官銀号旧発行の奉天票は以前は兌換紙幣であったが、間もなく不換紙幣となり、その間一時●兌券(為替券)と改めたが間もなく非●兌紙幣となった吉林永衡官銀号発行の永衡官帖、永衡大小洋、黒竜江官銀号発行の江帖および江大洋、四□債券は終始一貫一元一吊の為替取組もなかった。

奉吉江三銀号および辺業銀行発行の哈大洋紙幣は毎日極少額、しかも限度ある為替を取組むだけで為替取組み価格の限度は低きは十数元より二十余元まで、高きは三、四十元より五、六十元までで全然為替取組みをしない紙幣といってもよかった。そのため商民の窮乏は甚だしきものがあった。

しかるに中央銀行発行の新国幣は正金、朝鮮両銀行の援助により大連、上海、日本に対しても為替を取組み得る上、最近では北平、天津への為替取組みも可能となった。

かくて貨物を購入運搬するところは為替の利くところであり、かつ総分支行とももっとも公平低廉な手数料で為替を取組むため、商民には便利であり、貨幣の流通また円滑である。


(五)新旧紙幣信用の比較

奉天商民は東三省官銀号発行の奉天票を正式の貨幣として認めていなかった。吉林省民も永衡官銀号発行の官帖が五、六百吊から一千吊にも下落し、又黒竜江省商民は黒竜江省官銀号発行の官帖が千六、七百吊より一万数千吊に下落するため官帖を受取っても刻々に相場が変り、何人も一度手に入れば直にこれを手離したもので、手離せば手離すほど価格は低落したのである。しかるに中央銀行発行の新国幣は各市場に円滑に流通し、最近その価格は硬貨及び平津方面の紙幣よりも高価になっている。

(* これはどの時期の状態を示しているのか、不明である。また当初1−2年、大洋元を回収してもこれを焼却せず、満州中央銀行券のスタンプを押したまま流通させたことは一言も触れていない。)

旧紙幣の回収に当ってはことごとく政府規定の法価によっており、しかも回収後は焼却し、再び発行しないため旧紙幣の市価は法価より高く、特にその効果を認められるものは黒竜江省において政府の換算価格未公布の時代、江省官帖は廃紙に等しく何人もこれを所持することを嫌ったものが、公布後は市価確定したため喜んでこれを用い、あたかも無より有を生じた形となったのである。


(六)新旧銀行の預金及び貸付利率の比較

三省旧官銀号預金利率は、大体奉天吉林両省では月利一分乃至一分六厘、黒竜江省では月利一分乃至二分にして、しかも預金者の大部分は権勢を有する官吏であった。貸付利率は月利一分二厘乃至二分で商民には高利で貸つけ官吏の貸付には低利又は無利子をもってした。

中央銀行ではすでに最高月利六厘、最低月利一厘五毛の預金利率を定め、預金の種類は三ケ月、六ケ月、一ケ年の定期預金、当座預金、特別当座及び通知預金等に分っている。

貸付利率には商業手形、割引公債証書、政府発行の手形及び政府保証の各種証券を抵当とするもの、確実な抵当ある当座貸越等の別あり月利一分以上、最低月利八厘五毛である。

この利率を外国銀行のそれに比べると幾分高率だが従前の奉、吉、黒三省官銀号の預金貸付利率に比較せば一倍近くも低率であって、本年九月一日以前の商民の旧債利息はこれを一律に三分の一に減じ、官吏の債務は一切これを厳重に取締っている。


(七)新旧銀行付業の比較

奉、吉、江三省官銀号は付業を経営し商、工、林、鉱の各業はじめほとんど手をださぬものなく、店数百三十二ケ所、従業員三千五百三十九人の多きに上っている。これらはいずれも銀行としての正当な範囲を越え各種営業は市場にて優位を占め同業者の嫉視を買っていた。これはもちろん不換紙幣を資本として奇を繰り勝を制したにほかならぬ。

中央銀行は一年内に全部の付業を分立せしめる趣旨で別に実業局を設立しこれが管理に当らしめている。

この一年間にまず総行内に実業局を設立し各付業を経営せしめ、三分行には各実業分局を設け管下の各付業を分轄管理せしめ一年後に分立する準備を整えている。

しかして、その一切の営業方針に随時指導し一般商民と利を分ち、これと利を争うが如きことなきを保している。


結論 以上を総合するに全国金融並に各種付業一切の施設、経営方針に関し新旧いずれが是か、いずれが非なるかはここに評断を待たずして何人も判然するを得るであろう。

然らば何がゆえに旧態非なりしか。即ち旧銀号の過失小なりしも旧政府の過失は実に大であったのだ。旧政府の金融ぶん乱によって、無限の痛苦を受けた全民衆は今や、新政府の金融安定の楽しみを受けている。今後中央銀行の使命大にして責任重く、事務また極めて煩雑、失敗なしとは自ら称し得ないが、全行の総裁、副総裁、理事以下満洲人行員たると日本人行員たるとを問わずことごとく一心一徳廉潔を以て自らを持し互に敬愛し上は政府の苦心を体し下は国民のいん盛を期し寸時も怠るなく、総行支行一切の業務を進展せしめるならばよくその目的を達成し得るものと信ずるのである。

(* 全体として言えば、張学良政権時代の金融システムを、悪く誇張して描き出すのが目的のような論文である。しかし、接収後1年足らずで満州中央銀行が曲がりなりにも正常に運営できた、それも第二期までであるが、理由を冷静に考えれば、張学良時代の遺産を食いつぶした、という他はあるまい。)