<参考資料>
満州日日新聞 座談会 「北支と満州の経済関係」 1940年

 この記事は、神戸大学電子図書館 新聞記事文庫にアーカイブされている。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/directory/sinbun/snlist/snlist.html>の頁から<外地・旧植民地発行の新聞>を検索し、<満州日報満州日日新聞>をクリックし、1940年の記事タイトル一覧から当該新聞記事を閲覧できる。
 当時の新聞記事のため、句点は使用しているが、読点はない。また、文章の切れや業替え、段落替えも少ない。だから私が適当につけた。文言には当然のことながら変更を加えていない。
 最初この新聞記事を参考資料として掲載しようと思ったわけは、1940年=昭和15年当時の「満州国」の経済を、華北との関係で捕捉するのに適切だと考えたからだ。しかし何度も読み直すうちにイヤになった。それはこの座談会に登場する人たちの発想があまりにも「帝国主義日本」だからだ。
 たとえば、満州国における労働力不足懸念の話題に関して、満洲労工協会・北京出張所長・成沢直亮は次のように発言している。

 成沢 ・・・それから労働資源の方では北支の約三割が青年層であるとして、二千万、河南を入れると、三千万位でしょう、而もこの農村の農民は大部分小貧農程度で約七割乃至八割を占めており、ここ数年来の天災水災、旱害、戦争に依り疲弊しており、現地で自分の土地を耕作しても暮して行けぬようになり、最近では益々深刻化しているように思います、従って労働資源の枯渇は心配しなくていいのではないですか。』

 ここでは、北支青年層2000万人、河南青年層1000万人は、単に国家資本主義的生産体制に提供される「労働力」としか捉えられていない。この3000万人の青年の一人一人に、人生があり、生活があり、豊かな未来があり、自己実現の手段としての仕事があり、・・・要するに一人一人を「独立した、個性豊かな人間」として捕捉する観点が全く欠落している。
 またアヘンは、中国社会を根本からむしばんできた大きな問題であり、歴史的に見てもイギリスの帝国主義がここから大きな利益を吸い上げてきたいきさつがある。満州国もアヘン専売からあがる収入は、関税収入とともに「国家」の基礎的収入だった。(アヘン専売収入が財政の柱の一つだった「国家」とは一体誰のための国家なのか?)

 このアヘンに関して「北支」の立場から、北京日本大使館・経済部・松井義夫は次のように云う。
 処が北支自体としては非常に多量の阿片が現在必要です。然し蒙疆政府では同地方に対し栽培の全廃をやっており漸減の傾向にあります。然し北支は単に阿片ばかりでなく殊に満洲との関係に於ても貿易のバランスを図る点からても大きな事であります。 
従って満洲は飽く迄、断□制度であり北支の事は余り考えたくないという風に見えますが、この点も少し大きな立場から北支の方へ満洲の阿片を正当に流すことを考慮して頂きたいと考えます。』

 松井の頭の中には、華北の中国人民の健全な人間生活という発想はまったくない。松井にとって、華北の人民は帝国主義的利益を満たす「産業資源」でしかない。

 「植林」についてもまったく同じ発想だ。

 日本の帝国主義は当時大量の木材を必要とした。満州がこれを供給しようとしたため、北支には回すことができなかった。しかし北支でも枕木など大量の木材を必要とした。これに対して満鉄の北京鉄路局長・下津春五郎は「100年計画」の植林で対応できるのではないかとした上で、次のように云う。

 森林の話を参考までに申しますと、恰度満洲にいる当時、熱河省では殆ど不可能だろうという意見がありましたが、兎も角もやって見ようというので、朝鮮から五百万本位の苗木を貰って省の方でやった結果、半分は駄目でしたが、後半分は付いたのです、之は一年で打切らずその後も続けてやっているようですが、禿山が段々少くなって目立たなくなりました。一年に植え付けた苗木の半分位或いは八〇%位はなくなる覚悟で毎年続けてやると大抵出来ると思います、北支では大体旱魃さえなければ大丈夫でしょう 。』

 北京市は長い間「一人2本運動」ともいうべき植林運動に取り組んでいる。北京市民一人が1年間2本の苗木を植えようという運動だ。別に義務的な運動ではなく、ボランティア的運動だ。だからどこに植えても構わない。私の知人も「北京市郊外の山に今年も2本植えてきた。」といっていた。しかし北京市が植林運動をするのは別に将来、これを切り出して材木として使おうというわけではない。豊かな市民生活をするのに樹木に囲まれた環境は不可欠、と考えているからだ。

 本来環境を豊かにするための植林も、ここでは帝国主義的収奪の手段として語られている。

 こういうわけで、この記事を編集して参考資料として掲載するのが途中でイヤになった。

満州日日新聞は「明治40(1907)年10月、星野錫(*しゃく)により「満州日日新聞」
として大連に創刊された。満鉄の機関紙的存在であった。昭和2(1927)年11月「遼東新報」を合併して「満州日報」と改題したが、昭和10(1935)年8月「満州日日新聞」に復題した。昭和13(1938)年に奉天に本社を移転、奉天・大連の同時発行で大連版は「大連日日新聞」となった。昭和19(1944)年5月、「満州新聞」と合併して「満州日報」となる。」(同新聞記事文庫 紹介記事より)
座談会の原題は「北支と満州」である1940年(昭和15年)の2月20日付けから3月2日付けまで断続的に連載されたもののようである。
文中理解の助けのため青字で(*)の註をいれた。また読みやすくするため、文中中見出しを入れた。黒字のタイトル・中見出しは原文、青字のタイトル・中見出しは私が入れたものである。原文テキストは明朝体であるが、これも読みやすくするためゴチック体にした。
神戸大学図書館の「新聞記事文庫」には本当にお世話になっている。また戦前からの新聞記事を丁寧に集め、整理編集し、これをテキストに起こしてインターネット上で誰にでも利用できるようにしておく事業・・・。神戸大学のどなたが思いついた事業かはわからないが、その見識の高さ、視野の大きさ、時代を見通す目にはほとほと感服する。こうした記事をわれわれ一般市民が自由に閲覧し、一人の市民としての政治的、社会的、歴史的教養を高めて、これを主権者としての判断、意志決定の材料とする、これが民主主義社会なのだ。民主主義社会における一人一人の市民には、自らの政治的教養を高め、見識をもつ義務がある。その意味で、この図書館は、将来ありうべき民主主義社会の重要なインフラストラクチャの一つであり、その先取りなのだ。そういう民主主義社会を夢見る一人の市民として、神戸大学には敬意を表したい。
 


満州日日新聞 座談会 「北支と満州の経済関係」 1940年

北支と満洲 (一〜完) 本社北支総局主催座談会

(一) 北支と満洲 為替関係の現状

   時 二月十日 (*1940年=昭和15年)
   所 北京六国飯店 (*現在はなくなり、跡地に立派な国際ホテルがたっているそうだ。)

座談会出席者:
興亜院 華北連絡部書記官 愛知揆一氏
華北交通会社 資業局長 伊藤太郎氏
満鉄北支経済調査所長 押川一郎氏
満洲中央銀行北京辧事処長 河田正義氏
満蒙毛織会社 北支部次長 清岡健一郎氏
北京鉄路局長 下津春五郎氏
満洲労工協会 北京出張所長 成沢直亮氏
興亜院 華北連絡部事務官 福田篤泰氏
在北京大使館経済部 松井義夫氏
興亜院 華北連絡部嘱託矢部僊吉氏
興亜院 華北連絡部 経済第二局長 湯河元威氏
華北評論社 小沢開策氏
本社側 前田聡局長、小松記者
いきなり長めの註で申し訳ない。なにしろ私がなんにも知らないものだから、これは私のための註である。とばしてもらって結構である。

興亜院は『 興亜院(こうあいん)は、昭和13年(1938年)12月16日に設立された日本の国家機関の一つ。中国大陸での戦線が拡大し占領地域が増えた為、占領地に対する政務・開発事業を統一指揮する為に設けられた。長は総裁で、内閣総理大臣が兼任した。総裁の下に副総裁4名と総務長官、政務部・経済部・文化部の各部長で構成された。現地に連絡機関として華北・蒙彊・華中・厦門に「連絡部」が設けられた。華北連絡部には出張所が置かれ、後に大東亜省に改編されたときには青島総領事館となった。占領地では軍政を行う為興亜院の幹部も主に陸海軍の将校で占められた。昭和17年(1942年)11月1日に拓務省・対満事務局・外務省東亜局・同省南洋局と共に統合・改編され大東亜省に変わる。
 後に内閣総理大臣となる大平正芳は興亜院の蒙疆連絡部や経済部で勤務していたことがある。大平内閣の閣僚でもあった大来佐武郎、伊東正義もまた官僚時代、興亜院勤務で大陸に渡っていた。』(http://ja.wikipedia.org/wiki/興亜院 )
ということのようである。

 1938年=昭和13年といえば、1月に「国民政府を対手とせず」の第一次近衛声明で幕開けした年である。10月には日本軍が広東、武漢山三鎮を占領、11月には「東亜新秩序の建設」を謳った第二次近衛声明が発せられている。

 満州の岸信介人脈も戦後大いに活躍するが、大蔵省、商工省、外務省などの高級官僚とその人脈もその多くが戦後、政治家・経済人・各界指導者、教育者、学者・文化人として活躍する。野口悠紀雄の「1940年体制」は、すくなくとも「支配階級の各界指導層の継続」という点では仮説ではなくなっている。ただ愛知揆一もこの時期、中国にいたとは知らなかった。

 愛知揆一は1931年に大蔵省に入っているから、この座談会の時には30そこそこの若造だったはずだ。それが興亜院華北連絡事務所の書記官の肩書きで大物扱いされている。戦後池田勇人に見いだされ、自由党公認で衆議院議員、「池田から離れて、岸信介に接近、佐藤栄作派に所属する。田中角栄、保利茂、松野頼三、橋本登美三郎とともに「佐藤派五奉行」と呼ばれ、佐藤の政策ブレーンとして、佐藤が掲げた「社会開発」の概念をまとめた。佐藤内閣成立後は、内閣官房長官、外務大臣を歴任。外相時代、沖縄返還に関する日米交渉を担当し、沖縄返還協定を成立させることに尽力した。

 佐藤引退後は田中角栄を支持し、1972年12月22日、第2次田中内閣の大蔵大臣に就任。積極財政論者でもあった愛知が田中内閣の「切り札」として、最も困難な時期に大蔵大臣に登用されたことは、愛知の実力が高く評価されていた証である。」(http://ja.wikipedia.org/wiki/愛知揆一 )

 華北交通株式会社は南満州鉄道のグループ会社で、華北地方のバス・鉄道の運行を行っていた。(http://ja.wikipedia.org/wiki/華北交通 )同じく満州日日新聞の記事「華北交通に脈搏つ 満鉄魂 (上・下)」(http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?
METAID=00105334&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA )
にその名前が見える。

 押川一郎は、また違った意味で、戦後日本のリーダーになっていく人物のようである。寺岡寛の「日本における中小企業の研究動向」という論文(http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/541/541-02.pdf )によれば、満鉄調査部次長から、戦後大阪府が「中小企業問題」に取り組むに際して立ち上げた調査研究機関、「大阪府立商工経済研究所」の初代所長に就任(1952年=昭和27年)、従来型のアカデミズム手法によらない「中小企業調査研究の手法」を確立したものと思える。押川は次のように書いているそうだ。「(商工行政のためのー引用者注)動態調査をより強化し、科学的な視覚から研究するには、一業種の実態を深く掘り下げ分析することによって抽象的且つ形式的な調査は避け、具体的な且つ体系的な調査方法を確立せねばならない。」(大阪府立商工経済研究所『鉄鋼二次製品工業の実態―府下枚岡町の伸線業を中心として』の序文。)

 河田正義についてはわからない。信託業界出身の人らしい。満州中央銀行については次。(http://ja.wikipedia.org/wiki/満州中央銀行 )あるいは当時の中外商業新報の記事の方が参考になるかも知れない。(http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?
METAID=00755391&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA)


 清岡健一郎については全くわからない。満蒙毛織は昭和18年(1943年)東亜紡織(現トーア紡コーポレーション)に併合された。またこの当時奉天市内で満蒙百貨店も経営していたようだ。また同社は南満州鉄道関連会社の一覧にも載っている。

 下津春五郎は満鉄の中堅幹部職員の一人らしい。1931年3月(昭和6年)東京で第14回日中国際連絡運輸会議が開かれた時、満鉄の鉄道旅客課長として出席。(http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?
METAID=00102429&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA )


 成沢直亮は1932年(昭和7年)の満州日日新聞の記事に「総務庁長」としてその名前が見える。この座談会の時点では満州労工協会に転出していたものと見える。満州労工協会は1938年(昭和15年)「満州国」の労働統制組織として設立されている。満州国の建国後、大量の労工(工場労働者だけではなく一般に労働者という意味。)が華北地域から流入した。「満州でもっとも豊富な資源は労働力」とも云われた。ところが1936年(昭和14年)第一次5カ年計画がスタートし、1937年日中戦争が始まると、状況は一変した。膨大な労働力を必要とした上に、華北でも第一次5カ年計画が始まっており華北からの労工の流入は止まった。満州は労働力不足に陥ったのである。労働力確保の国策機関として満州労工会が38年にスタートした。また労働統制の政策立案機関として労務委員会、法的保障として「国民総動員法」「労働統制法」が同年成立している。満州労工会はわずか4年で終了している。(以上王紅艶の博士号取得論文『「満州国」の労工に関する史的研究』論文要旨による。)

 福田篤泰は、外務省出身で彼も満州にいたとは知らなかった。戦後首相吉田茂の秘書官となり、その後自由党から衆議院議員になっている。閣僚経験も抱負である。(http://ja.wikipedia.org/wiki/福田篤泰)

 松井義夫についてもわからない。矢部僊吉は「矢部僊夫」の誤植ではないか。華北評論の昭和16年5月号に「寧河県新民会の経済工作(現地報告):矢部僊夫」の名前が見える。(http://www.tky.3web.ne.jp/~sakubun/kahokuhyouron.htm)

 湯河元威は、戦後、農林中央金庫(農林中金)第6代理事長の湯河元威にほぼ間違いないだろう。1945年終戦時の農林省事務次官でもある。(http://www.ienohikari.net/data/kjinryaku/meisai/yukawa.htm )

 小沢開策は、新民会中央本部総務部長だった小沢開策だろう。華北評論は昭和16年に創刊された。)


前田 お忙しいところをお集り下さいまして有難うございました。
日支事変も三年つづいて参りましてその間皇軍の聖業にはただ感謝の外ないのでありますが、日を経るに従って経済戦、思想戦の重要度をいよいよ増高しつつあるように感ぜられるのでありまして、特に現地であります北支におきましては金融、物産乃至は交通、労動といった方面に可なり重要な問題が山積して居りますし、北支と接壌して居りまする満洲国との関係におきまして、相互に幾多の悩みを内蔵していると思われ、満洲国と北支の招来は可なり複雑した問題が生ずるのではないかと考えられます。

それ等の問題に就きまして御腹蔵なく御意見を承わることが出来ますれば結構に存じます。なお話を進めますために御迷惑乍ら矢部君に進行係をお願いし度いと存じます、何卒宜しく。
矢部 では僭越ですがお知り合いの方も多い関係上、一つ司会させて頂きます。
第一に通貨関係について御意見を伺い度いと思うのであります。北支と満洲との為替関係の現状と申しますか、それについて愛知さんからお話し願えれば結構です

[写真あり 省略]

中国聯合銀行券は「タネも仕掛けもない手品」

聯銀の立場
愛知 それでは最初に御指名を戴きましたので一言します。話の順序と致しまして一応私共が過去においてどういうことをやって参りましたかということから申上げて見たいと存じます。
(*愛知の立場は興亜院 華北連絡事務所 書記官)

先ず最初に聯銀券の現状を簡単に御紹介致しますと御承知のように一昨年三月以来聯銀券は兎角の御批評等もいろいろあろうかと思いますが、先ず丁度二ケ年間の成績におきましては現在与えられている客観的の状況の下では相当の発展を示していると確信している次第であります。

(*  日中戦争勃発後の1937年12月=昭和5年、帝国主義日本は、中華民国臨時政府を作った。北京=蒋介石国民党政府の言い方では「北平」、河北省を中心とする傀儡政権である。この傀儡政権が1938年設立した中央銀行が、中国聯合準備銀行、すなわち「聯銀」である。<http://ja.wikipedia.org/wiki/中国聯合準備銀行> この銀行は設立後「聯銀券」を発行し、流通に努める。法弊の流通は禁止された。ただ聯銀の準備金は、同じく日本植民統治下の朝鮮銀行との持ち合いだかから、信用力は非常に低かった。愛知は、興亜院華北連絡事務所の肩書きを持ちながら、だから中国聯合準備銀行の立場で話をしていることになる。ちょうどこの座談会がおこなわれている1940年=昭和15年3月に南京に王精衛=王兆銘の傀儡政権国民政府が成立する。この政府が成立すると、北京の中華民国臨時政府はこれに合流、民国臨時政府は消滅する。非常にややこしいのだが、このややこしさは帝国主義日本が表面のアリバイ作りを行っており、その作られたアリバイを中心に記述しようとするからである。わかりやすく云えば、満州傀儡国家成立後、華北でも同じような傀儡政権作りを行おうとした。これが、中華民国臨時政府である。この政権が発行した紙幣が「聯銀券」であるが、仕組みからみてこれは正規の中央銀行とはいえず、従って「聯銀券」も軍政下の「軍票」だった、と言う方が適切だろう。満州日日新聞の前田が、冒頭の挨拶で「経済戦の様相を呈している」といっているが、まさにこの「聯銀券」=軍票の発行などはその経済戦という表現がぴったり当てはまる。すなわち軍政下で軍票を発行し、それを法弊と交換し、集めた法弊で国民政府の中央銀行準備金を吸い上げようという戦略だ。これがうまくいけばまるで「タネの仕掛けもない手品」である。)

昨年末までの現状を申上げますと(*聯銀券の)発行高は四億を少し超過しております。

この数は追って聯銀当局から公表されることと思いますからはっきりした数字は差控えますが兎に角過去二ケ年の間に四億円余の発行高を示しているのであります、そうしてこの反対に法幣(*国民政府の発行した不換紙幣。http://ja.wikipedia.org/wiki/法幣 )は一体どうなっているかと申しますと法幣の回収も非常に好成績を挙げております。

そうして同時に地方におきましても治安回復の程度に応じて聯銀券の普及区域というものは見るべき発展をなしているのであります、一例を申しますと先般の水害の際に天津の附近から大部避難民が出て来まして、その被害地帯には相当法幣があるだろうという予想で非常に寛大に聯銀券と交換してやることにしたのですが、法幣は殆ど姿を現さなかったのであります。

(* 国民政府の法弊に「骨董価値」がつき始めたは、かなり苦しい説明だ。一般人民からすれば「法弊」もかなり怪しいが、「軍票」よりましだった・・・。)

最早やこの段階になったのですから、例えば物価についても漸次聯銀券の立場から自主的に北支の物価を調整して行けるようになって参りますし、またそういった方策を進めて行かなければならんという風に考えて居ります。

ところが申すまでもなく最近北支の物価は驚くべき昂騰を示しております、どうして斯うなったかといえばこの聯銀券の発行高が非常に進むということは聯銀券の普及という観点からすれば非常に結構なことでありますると同時にその原因に就き常に充分の研究を続けて行かねばならないのであります。

勿論現在の北支の経済活動の程度、開発の計画の方から見ましてもまた治安の関係から申しましても非常に大きなのは当然で、現在では未だそう大して心配しなくてもよいかも知れません。文明国とは非常に違いまして、文明国では預金通貨という形になるべきものがそうした形をとらずに市場に滞留する札が多いことも考えなければならないのであります、現在の北支の程度においては金融機関は大して活動を致して居りません。元々支那の一般の民衆は金融機構の利用ということにそれほど進んだ考えを持っていません。こうした関係からも発行高が多くなることは已むを得ないということは言えるのですがそれにしても最近のような相当発行高が増加することに対しては相当の確固たる対策を以て行かなければならないと考えられるのであります。

結論を先きに申しますと北支の現在置かれている立場から言うと結局日満に対しては非常に貢献している、貢献している反面において北支はなかなかに苦しい立場に置かれているということであります。

(* かなりいいにくそうな、持って回った言い方だが、要するに「聯銀券」を発行しすぎてインフレを招いている、ということだろう。)

[写真あり 省略]


(二) もっと満洲の物資が欲しい

愛知 例えて申しますと判然とした数字は持って来ませんでしたが、昨年中において北支は満洲国に対して資金的に年一億円以上の受取り超過となっていると思われるのであります。

本来北支としては受取超過は非常に喜ぶべき事ではありますが現在北支としての受取超過の内容たるや円の資金だけであって、これが巨額であっても自由に外国の物が買えないのは勿論、日満からの物資の輸入もなかなか楽には出来ないという実情であります。

つまり北支が日満に非常に貢献をしたということがいえると同時に物をどんどん日満に差上げても代りに物資が貰えないで北支としては物が不足し物価騰貴その他の非常なる負担を負っているという訳であります。

(* 日本が満州を収奪し、その満州が華北を収奪するという構造が浮かび上がってくる・・・。)

それで私は端的に満洲国との関係で私の現在持っている一つの問題をお話しますと、例えば苦力の問題であります。山東その他から苦力(*苦力という言葉はその侮蔑的響きが嫌われて、この頃には「労工」という言い方がされていたはずだが、愛知はなおも「苦力」といういいかたをしている。)が満洲国に非常な勢いで流れている、昨年中も九十何万ということであります。

更に本年は満洲国五ケ年計画(満州国5カ年計画1936年=昭和11年に始まっており、この座談会の年1940年はその最終年にあたる。)に対応して非常に増加を予想されています。

この苦力が北支に送金する金額は現在までのところ我々のところでも充分精査した自信のある数字は出来て居りませんが恐らくこの苦力の送金だけで数千万円、その数千万円も五千万円や六千万円のものでなく寧ろ一億に近い数字ではないかと予想されて居ります。

で我々が若し北支だけを考えた問題という事でありまするならば少くとも満洲国の苦力の送金だけ位のものは満洲においても北支の食糧、特に雑穀の如きものを是非供給して頂きたい、そうすることが聯銀券の価値維持になりますし、延いては日、満、支一体としての円ブロックの真の意味での強化拡充が出来るのではないかと思います。

今日円ブロックの何処の一端に破綻が起っても直接に円ブロック全体に影響を生ずるのは当然でありますので、要するに北支を今少しく大事に育てていただき度いと率直にお願い出来る筋合かと思われます。

(* もし愛知の話が実態に近いものなら、満州は華北から「労働力の収奪」を一方的に行っていて 、その見返りがない、といっていることになる。一橋大学大学院の王紅艶の研究<前出>によれば、この年1940年には華北からの労工の満州流入は、130万人以上にのぼったという。この年をピークにして満州への労工の流入は急激に減少しはじめる。)

で、これに就きましては昨年秋以来満洲側、北支側、日本側と本当に膝を突き合して相互に話し合おうじゃないかという気運がだんだん熟して参りまして、私共今そういう観点からも一度円ブロックに対処する相互的政策に就いて、北支の立場から真剣に対策を考究している次第で、これ等につきましては具体的に満洲国側にいろいろ協力をお願いし或る場合には、北支としての已むを得ない立場から満洲国に対しても相当の無理を要請して行かなければならんという事も考えられるわけであります 。

それからその次に聯銀券工作というものが、満洲国側或いは日本側において非常に実際以上に弱く認められて居るのではないかという懸念があるので、一言申上げて置きますが、御承知の通り昨年三月から実施しました為替集中制に致しましても、例えば天津の水害、租界の隔絶、奥地の水害、旱害という悪条件が山積したにも拘らず、三月以後十二月までの取引額が、二十三弗十六分の七で換算して実に六千万円を遥かに超ゆるような純粋の対第三国貿易額を得て居るのであります。

この数字の如きは事変前に優るとも劣らざるものでありまして元々聯銀券の生立ちから言いましても貿易通貨としての成績をこれだけ挙げることが出来たのは寧ろ非常に大きな成功であると確信致します。

ただ後程、湯河局長からお話があるかと思いますが、北支の当面の問題は食糧の需給調節をするということに重点が掛っているのでないかと思いますが、その供給を確保するためには北支としては出来だけ日本及び満洲に貢献していることから申してもせめて食糧の足らんもの、それも全部とは必ずしも申しませんが相当程度入れ得るよう配慮して頂き度いのであります。

昨年よりも以上に此の点特に満洲の方におかれては充分この事情に同情せられまして御援助をお願いし度いと思っております。

(* 愛知も日本・満州・華北=北支の3者関係の中で、華北のおかれた立場を十二分に理解していたことだろう。しかしそれにしても、華北は一方的に収奪され続け、しかもその評価は低い、せめて食糧だけでも回してくれないか、そんな悲鳴に近い発言、と読むことができる。)

矢部 河田さん何か此の問題に就いて御意見は御座いませんか


満支の国際収支
河田 一時間ほど前にこの御催しを伺ったばかりで突然のお話で何も用意しておりませんのですが、只今愛知さんからいろいろ結構なお話を承りましたが、一昨年九月一日天津と北京に私共の店を開く事をお許願いしまて、満洲と北支との為替並びに此方の幣制統一に出来るだけの協力をしたいというので、満洲国の国幣回収事務をやっておりますが、先程お話がありました通り苦力の出稼人数がだんだん殖える、それからまた彼方から此方で何か仕事をしようという人が随分来る、且つ旅行者も殖えるというような関係から従前に較べてだんだん満洲国幣の流入が殖えて来たので、これでは不可ないと満洲国に於きましても従前の為替管理を更に強化して持出し限度を厳格にする、それから百円券は一切国外に持出してはならん、若し持出したら此方の銀行では絶対に受入れて呉れるなという方策を採りまして、満洲国幣の回収に努力しました結果、昨年上半期で三千百万円、六月までに三千万円ですから一ケ月約五百万円以上の満洲紙幣を天津、北京の店で回収しましたが、八月一日から先程申しました通り為替管理を強化した結果、その額がずっと減りまして、下半期には千四百万円になり、詰り上半期に較べて半分以下になりました。

そういう風に満洲国幣の回収はだんだんマア理想的というところまでは行きませんが、効果を挙げつつある。ただ十二月と一月は苦力が帰郷する期間に当っておりますから、このところ昨年下半期の例月の平均よりも約倍位殖えた結果になっております。

[写真あり 省略]


満洲国幣の回収は大体そういう状況にありますが、然らば満洲と北支との為替はどうであるかと申しますと、只今愛知さんからも一寸お話がありましたが他の銀行でお扱いになっている分は承知致しませんが、私の方だけでやったのは大体扱い高が此方から彼方に送金するのが約五千万円、向うから此方に送金した分が一億一千万円、大体六千万円ばかり此方の店としては支払い超過であります。

国際収支の方からいえば北支の方が六千万円、自分の方の店の扱いだけで受取超過になって居ります。無論そういう受取超過は結構でありますが、矢張り金円系の資金でありますからスターリングほど有難くない、でそれだけを品物でカヴァして呉れという御要求は御尤もですが、私の一寸調べましたところに依りますと満洲と支那との貿易は昨年は一億六千万、満洲から此方に品物を出しており、此方から約六千万の品物が行っておる、これは支那全土でありますが大体八割は北支と見てよいだろうと思いますが、そうすると結局満洲から此方に品物を余計出している、満洲から言えば此方に約一億円の出超になっている、これが一昨年五千万円の出超であったのが昨年はその倍、一億円の出超になっております。

尤も貿易額から言えば倍の出超になっていますが、単価の値上りになっている今日、それだけ物資の数量が殖えたという訳には行かぬかも知れませんが、兎に角満洲から此方に出した品物の金額はそれだけ殖えていることになっております。

北支から搾取ばかりしているという風には一寸取れないのでありますが、前に述べました国際収支の尻はどういう風に物資に依ってカヴァするかということは何の方面でも物の足り(判読不能)□□□□□□□□□ 。(原文のママ)


三 物資関係は今後が重大

(判読不能)頃において見ても非常に顕著なのです、見方によると御異論もあると思いますが聯銀券発行高の半分以上はそこに原因があると謂えるのであります、これに就ては私共としては色々の観点から真相を究明して行かなければならんということは先刻言った通りであります。

河田 異論があるかも知れぬという只今の前置きがありましたが、聯銀券の発行高が殖えたことは大半は満洲国からの送金が殖えるからじゃないかという点は確に異論が御座いますネ。

それは無論送金が殖えて窓口から聯銀券が出れば凡そそれだけ発行が殖えるのですが、然し発行が殖える一方それを回収、詰り資金の還流というようなことも大いにお考えにならなければならんと思います。

単純に満洲の送金のみから発行増ということからでなしにもっといろいろな複雑な根本的の原因があるのではないかと私共考えて居ります。最近金融関係の方から始終満洲からの送金とそのために聯銀券の発行が非常に殖えて来るとばかり言われるのはどうも我々の立場から考えまして多少に誇大に考えられているのではないかと思って居りますが、それは当局のお方としても充分ご研究願いたいと思います。


聯銀権発行増の原因

矢部 今の河田さんのお話ですネ、もっと根本的なものがあるのではないかと言われましたが、大体どういう点で御座いますか。
河田 それは一寸此の席で言いたくないのですが。
(* これはもちろん、「聯銀券」が軍票という性格を色濃くもっており、日本軍の収奪という側面があることだろう。)
愛知 先刻押川さんからお話がありましたが、之は議論になって了いますが持出す送金額が一人当り三十円という程度のことはないと思います。
(* 何故か押川の発言は記録されていない。)
河田 苦力の送金額は我々の銀行の窓口を見ますと、苦力の送金ばかりではない。大きな意味において郷里送金、親の代或は祖父さんの代に移民して此方に親戚なり、或いは本家を持っております、そういう者への送金も所謂苦力送金に含まれていますが。
愛知 それは先程も伺ったが例えば満洲で現在事業をやっております満洲国人というもののうち相当北支に本拠を持っている者もあるでしょう。
(* 愛知のいう満州国人とは擬制であった。大体満州国に戸籍法がない以上、法的にも満州国人を確定できない。)
河田 相当じゃない、殆ど全部ですよ
愛知 そうすると向うからの利潤その他の送金ということが非常に多くなると思います、またそういう事実がはっきり判れば、またそれで対策ははっきりする訳です。
河田 今と同じことを申しますが、郷里送金の方法といいますか何と言いますか、工人が直接に例えば奉天に出稼ぎに行って居る苦力が、山東省何県何村の親の家に金を送る時には、直接に私共の銀行を通じては出来ないから向うにある満洲の地場銀行が、天津の銀号に送って、その銀号が更にだんだんと地方的に関聯があるからいろいろな沢山な手を経て行くらしい、ですから為替調整の決済資金を我々の銀行を通じて満洲にある地場銀行から天津の銀号に送るというのが、この額が、昨年中大体七千万円になったのであります。


(四) 労働者と賃銀問題

矢部 今の苦力送金の問題ですが成沢さん、満洲労工協会の方で調査されたものはありませんか。
成沢 只今お話のように苦力送金一人当り三十円、或は二十円、五十円といういろいろの数字が出ますが、苦力が此方から彼方に参りまして、南満にしますと最近は上りましたが、今迄は八十銭から一円位、マア平均九十銭、北満は早く結氷して遅く溶けるので就労期間も短くなりますので賃銀が南満より高く一円三、四十銭から五、六十銭、これは昨年あたりのことで現在はもっと高くなっています。

そうしますと、その一日得るところの九十銭、その中から食費代三十五銭から四十銭、それから把頭に搾取されるのが一日五銭乃至八銭、そういうものを引きますと南満では五十銭、北満では一円という手取りになりますが、一と月三十日全部働くというはなかなか出来ないもので雨が降ったりして一番よくて二十五日間、或は二十一日位でしょうから手取りは南満で一月七、八円、北満で十円内外ということになります。

(* 把頭は、パートーと発音したらしい。要は労工集めを請け負う手配師のことである。よく把頭の搾取、ピンハネというがもし成沢の話が正しいとするなら、一人1日平均日給90銭に対して5銭だから、搾取・ピンハネというにはあたらない。現在日本の人材派遣会社は、さしずめこの「把頭」に相当するのだろうが、人材許可.COM http://www.jinzaikyoka.com/shoukai_tesuryo.htmlを見てみると、厚生労働省令で紹介手数料自体は上限10.5%と定められているが、670円を上限とする求人受付手数料を初め、相談助言手数料、調査探索手数料、受付事務手数料などの名目で、手数料を徴収しており、大体取り分は1/3程度にあるそうだ。「現代の把頭制度」の方がよほど、ピンハネ・搾取が激しいといえる。)

それから就労期間の関係や煙草や賭博などの娯楽費も多少は要りますし、北満に行くものは十円から十五円位の前借をしているので夫等を引くと一ケ年の手取り(*ここは手元に残る金という意味だろう。)は二十四、五円から三十五、六円ということになります。

[写真あり 省略]

苦力には単独苦力と団体苦力がありますが単独苦力は所謂バラ苦力ですが一年働いて郷里に帰るということは不可能です。何故かと申しますと北支から満洲に参りますには二十円或は三十円の旅費が掛る。

その旅費を小貧農の彼等が持っている訳が無い、それで小貧農でも四、五畝或は五、六畝の耕地を持っている小作をしている者もあるが、土地を持っている者はその内の二畝三畝を担保として二、三十円借金して旅費を作る。小作している者は牛とか豚とかを担保にして旅費を作るのです。それに帰るにも旅費が要るので一年働いて帰るということは出来ない、二年でも足らん、マア三年或は四年辛抱しないと帰れません。

三年で六、七十円、四年で百円か百二、三十円溜めてから帰るのですナ、今のお話にもありましたが、満洲国の国民は、前は皆山東と河北から行った、今から百五十年程前乾隆の中期ですか、此の北支で非常な飢饉が数年つづいてその結果あちらに移った者が向うで成功している、そういう者の本家に金を送るというのが相当あるだろうと思いますが。
河田 エエ相当ありますネ。
成沢 単に苦力から受ける金子以外祖父の時代を過ごして相当数になっています、そうすると三十円や五十円ではない訳ですな
河田 苦力と言えば土工だけということに思われ勝ちですから郷里送金といった方が言葉としては適当だと思いますね。
小沢 兎に角北支を大きく考えると満洲には労力が行き、資本は皆北支にやって来る、それは満洲が独立した外国だと思うから、北支だけの経済、満洲国だけの経済と吾々は考えているけれど支那人から見れば区別がないのです。

(* 満州評論・小沢開策の発言は当を得ている。満州国だの中華民国臨時政府だのといっても所詮、擬制である。経済は実は一体化しているのだ。中国人民からみれば、区別する意味がない。)

で、我々が北満を旅行して気がついたのは旧正月ですから殆ど商人の半数は此方に引上げて、最近は帰って行かないのです。特に巽(*これは明らかに冀の誤植)東地区(*河北省東部地区)、山東地区とが満洲の方から資本が返って来る根拠だろうと思います。この辺が事変で満洲も経済的にウンと膨張して金子が此方に流れて来る動機になっているのではないかと思います。だから満洲と北支を二つに考えないで満洲と北支は親子の関係のようで自由に両方に行ったり来たりしています。

愛知さん、この点に対する考察は如何ですか?


満洲・北支の関係

愛知 その辺は考えていますが、今お話しのような事実が判然、判ればそれに対する策は自ら判然して来る訳です。

只、なる程事変前には両方の国は同じだったが、現在は違った当局が、各々それをやっていると言えば言えますが、当局同士は相互に事情が判然すればうまく行くと思うので今後一層連絡を密にして行く心算です。

こういう時期になって満洲の方でもそういう点は色々心配されているようですから、この機会に密接な提携の下に対策を樹てるなら時期は遅くないと思います。

先程押川さんが言われたように現在の北支としては少くともそう恐るべき「インフレーション」という事はないが、この儘の状態で放置すれば如何なるかこの際相互的の対策を練って行きたいと思います。

満州国も中華民国臨時政府も所詮擬制の傀儡政権である。その自ら作った擬制に帝国主義日本の官僚が戸惑い、ふり回されているのが実態であろう。また何故か、押川一郎の発言はカットされている。)


物資の問題
不足物資とこれが対策

矢部 有難う御座いました次に物資問題に移ります、北支に於ける不足物資の状況及び之が対策に就いて一つ湯河さんにお願いします。
湯河 私の存じているところを少しお話申し上げたいと思います。

北支一帯の地帯は物資がそう豊富な地帯とも思われない。将来相当各種の開発が進捗し生産が増大すれば相当なものがあると思われますが、従来は兎に角非常に不足していた事は事実です。

殊に先程愛知さんからお話のあった食糧に就いても、過去に於てもそうですが、今後も益々重要な問題だと思います。また先程お話しのあった石炭に就いても随分沢山のものが此処にありますが之が開発されていません。

そういう訳で将来私達の仕事としましては先ず北支自力として此処に相当物資の生産と申しますか獲得しなければならんという風に思うのです、之が産業開発の非常に重要を思われる所以であります。北支を北支で発展させて行く上にも従来のような貧弱な物資の不足の状態では資源開発性質上北支として安心出来ないという風に考えるのであります。


(五) 食糧問題に就て 不足物資と其対策

湯河 それで私達が此処で開発を急いでいる第一のものは先ず農業であります。

これに就きましては長い話は省略しますが、要するに北支には広い耕地があり、未だ随分沢山な土地があり、近辺には百姓がいる訳ですが、これだけの土地と人とを以ってして尚お毎年相当多量の農産物を外国から輸入しています。

金額に見積りますと年々一億円以上の輸入があります。輸入というのは無論上海航路の輸入です。そのうち、この北支に買込まねばならぬものが相当あるのですが、こんな不合理なことはありますまい。

これは要するに此処の地帯の生産力が発揮されていないということに起因しています。

この点に関し色々な人々から話を聞いて私は思うのですが、今後は日本の資本許りでなく、日本の力をこれに加えなければ生産の増大ということは図れないと考えます。

従って今後そうした方面に意を注ぐ心算です。現在狙っている開発の目標は農業方面に於いては一面には食糧としての小麦であり、他面は工業原料としての棉花であります。この棉麦両方の農産物は北支に於ける農業政策の二本柱で急速なる増産を図りたいと思います。

これには結果に於ては孰れも北支として国際政策を画策するに役立ち、又単に北支のみならず日満支を通ずる東亜経済ブロックの見地に立つ対策を行うに就いても之を是非強化せねばなりません。対策の内容に就いては今発表する自由は持ちませんがこれと関聯して是非考えねばならぬことは、先程来議論にあった対満関係の一つの問題です。北支から人が出て満洲に行き北支に利潤を持って来るという資本関係は一面その通りです。それと同時に従来満洲より北支に対して相当の食糧が供給されていたことも見逃せない事実です。

満洲の雑穀に期待

湯河 北支は大体相当人口稠密で勿論農業としての立場、支那の百姓の建前から申しますと手一杯なのです。で、私共先程申した如く北支の農業生産力を伸ばすには国家の力を加えなければならぬ、換言すれば日本人が農業の技術も科学的に進歩したものを応用してやれば生産力は増大しますが、目下の所は支那の百姓にとっては手一杯なのです。

そういう手一杯な処にいる支那の百姓は広袤たる未開地の多い満洲に入る傾向もあったかとも思います。また満洲のような非常に粗暴な経営をやっている地域では、農業が食糧方面の生産を行い北支が、煙草、棉花というような工業化したものを生産しているのは当然の階段と言えるでしょう。
満洲のようなどっちかと云えば農業の発達していない地帯には食糧の中でも特に小麦より安い高粱、玉蜀黍の生産をする傾向になります。で、北支の食糧の不足については満洲に期待しており、殊に雑穀において然りであります。

満洲の雑穀に期待することは両国の相関関係において是非当分の間は確保せねばならぬと考えます、満洲の当局者でもそういう風に考えられているようですし、産業五ケ年計画についても色々相談があった訳ですが、北支の食糧に慎重に考慮を要します。

一方、最近の状態を申しますと、ここ一、二年殊に昨年の秋から満洲の農産物の出廻りが真に不十分です。勿論これには満洲自体としていろいろ原因なり事情があるでしょうし、当局では非常に努力されていることは認めていますが、兎も角も双方充分緊密な連絡を保持しつつ充分改善し協力的態度を執って行き、また貰いたいと思います。先程の愛知書記官のお言葉の如く食糧は重大問題ですから、この確立には善処したいと考えます。

この湯河の通り一遍の発言と、奥歯に物の挟まったようなニュアンスはどのように解釈したらいいのであろうか?)


木材資源に就て

満洲との関係において物資問題中今後の重要性を帯びるものに木材資源があります。これについては未だ一般の世間の問題になっていませんが今後のご注意を喚起したい。

北支は御覧の通り山に行っても木が無く誠に荒廃した姿です。北支の森林資源は何故にかくも不足かと感じられる程顕著です。元来木材の需要は極めて大きいもので鉄道の枕木、炭鉱の坑木を始め、各種建築資材に利用される。

余談ですが大体中国人は木材の使用に就ては非常に倹約しています。さて北支の開発に併行して、木材の資源開発が重大ですが、之は矢張り日満支軌を一にしており実は日本にも相当期待を持ちたいのですが現状では残念ながら大きな期待は出来ません。

只今後は是非とも満洲の森林開発を進めて貰いたいと思います、未だ満洲には斧鉞の入らぬ山があり、この山を伐木して北支に提供して頂きたい、勿論満洲にいる私の同僚には随分機会ある毎に要求していますが、これも満洲の内部的な諸種の事情に依って未だ実現の域に達していませんが、是非何とかしたいと思います。


(六) 日満支の石炭問題

湯河 以上の話と別個に満洲との関聯性の問題を申しますと満洲の需要とする物資中、一般の原料問題、石炭問題がある訳ですが、斯かるものの中に北支に期待されてよいものもあります。

石炭に就ては押川氏の言われたように、満洲の重工業の完成に向って満洲国自体が石炭の増産を充分図られていることと考えますが、尚、将来の問題としては日満支を通じて一つの石炭の需給対策を確立すべき必要を痛感する次第です。

(* また押川の発言がカットされている。)

例えば昨年の如きは、満洲国側の特別の希望によって北支から或る程度供給したのであります。北支としては現在の生産状態から申しますと非常に無理をして、危険を冒し、不便を忍び増産に努めていますが如何にせん未だその開発は不充分で思うようにはやって行けません。

所が、日本の生産力拡充計画、日満支生産力拡充計画の最も基本になるのはこの石炭問題です。日本内地から石炭に対する相当量の要求がある、その要求を満しても、尚、満洲に相当要求されるので無理がある訳ですが、兎も角も昨年は無理を敢てなし、対満輸出しました私達としては、将来この完全な日満支の経済ブロックを形成するに当り、充分石炭開発を考慮に入れたいと思います。

即ち日満支を通じ、一つの綜合的な開発をなし各地による重点を確認してその責務の遂行に邁進して行かねばなりません。

北支棉花問題

湯河 もう一つ考慮せねばならぬのは棉花ですが、極く簡単に述べますと満洲においても南満の方では栽培していますが、元来満洲は自然条件より見て適当でない。

生産条件から見れば北支の棉花という事になるでしょう。それで満洲の農民を北支に入れてここに総合的に日満支の農業政策を樹てるべきでしょう。そうして、満洲国農業政策の一つたる棉花は或る程度転換すべきではないでしょうか。

北支ではそれに即応して棉花の増産計画を樹てたいと考えます。そして将来原料資源の供給に就て満足のいくように努力します。只、現状に於ては、愛知君の説明された如く、北支の経済事情として非常に物資と資源との間に均衡状態が取れず、各地域の需要にドシドシ応じることが出来ないのは遺憾ですが、今後充分努力する心算です。

北支阿片問題
松井 只今湯河局長から話された物資の外に、日本人としてピンと来ないかもしれませんが阿片問題があります。

これは御承知のように北支は従前から阿片の消費地であり、生産地ではなかった。綏遠、甘粛及び熱河の阿片が北支に来ていますが、御承知の通り西北の方は巧く行かず今では熱河、甘粛の阿片は出来ず、辛うじて綏遠(*綏遠は国民政府時代の省名で、現在の内モンゴル地区フフホトあたり一帯のことを指す。)の阿片が出て来ている訳です。

一方満洲にては熱河(*熱河は満州国の一部であるが、アヘンの生産地であった。)の阿片は北支に流さぬ対策を執っており、延いて北支に於ける阿片は減少しています。

元来北支で阿片が出来ない事には沿革的に種々な理由が挙げられますが、食糧問題と関聯して阿片問題も擡頭して来ています。

処が北支自体としては非常に多量の阿片が現在必要です。然し蒙疆政府では同地方に対し栽培の全廃をやっており漸減の傾向にあります。然し北支は単に阿片ばかりでなく殊に満洲との関係に於ても貿易のバランスを図る点からても大きな事であります。 

従って満洲は飽く迄、断□制度であり北支の事は余り考えたくないという風に見えますが、この点も少し大きな立場から北支の方へ満洲の阿片を正当に流すことを考慮して頂きたいと考えます。

(* ここは今読んで見て全く理解のつかないところである。満州のアヘンを北支に正当に流すとはどういうことか?)
小松 北支の京漢線方面では地方的に栽培をやり、可成り成績を挙げている処もあるように聞いていますが…
湯河 北支の阿片については農業から言えば奨励すべきかも知れませんが実際のところ現在では奨励しようとは思っていません、現在では緊要なことは食糧その他の農産物の生産ですから。
小松 何だか最近阿片のことについて漸禁主義の政策を行う状態ではありませんか。
愛知 現在阿片政策は一番北支が立遅れているかも知れません、それに又一番慎重に考えて行っているものと思います、阿片の漸禁主義で行くことに就いて各方面とも異議はありません。
矢部 下津さんの何か意見はありませんか。


鉄道より見た労働問題
下津 (判読不能)翌年また出て来るという訳で現地に残るものは二、三〇%で開発に当っていました。処が昭和十一、二三年満洲で労働統制をやり山海関、営口、大連に対して制限をしたため、最高は三十万乃至四十万に減少した。

当時私は新京で当局に「かかることは将来満洲が開発されても結局労働力の減少を来し、延いては開発に支障を来しはしないか」と提言したことがあるが、その当時制限の理由は、山東苦力の持って帰る金が多く、満洲の圧迫を受けるというのが最大原因であったように記憶しています。

それから数年後一昨年でしたか大連協会が提唱して建築或いは土木関係の仕事が出来ないから多少許して呉れと申し出た話を聞きましたが、そう殖えていないようです。    

事実は色々潜入している者もあり大体五、六十万位でないかと思いますが−それで満洲は北支が期待する程な処まで開発の域に達していない、先程話の如く労働者は冬は百姓をするが、建築期或は農繁期になると百姓も忙がしいが、同時に土木建築も多忙になる、その結果百姓をやめて建築にとられる、百姓をやる労働者がなくなるという事になります。

こういう意味では私は北支と満洲を一体に考えるという皆の御意見の立場から考えると、寧ろ一定の期間は満洲に制限せんで、出来るだけの者を入れ、北支には出来たものを持ってこさせる、という方がいいのではないでしょうか。

北支も先程の話のように農法の改良の余地がありましょう。これは今に科学的農法などで満人に教えると大体二割乃至二割五分の増産は確実です。殊に大豆、小麦、棉は確実で北支においても同じことがいえると確信しますから、当然そういう政策をとって増産を計る計画です。さし当りそういう根本問題について相互に諒解が出来たら結構と思います


(八) 両国を通ずる木材問題

下津 只今湯河さんから木材の話がありましたが、私も、斯う言う風に関係の皆さんが御諒解願って、満洲国と北支との間に融通し合う事が出来れば有難いが、満洲国自体としてだけ木材を考えて見ても殆ど出すことは不可能ではないかと思う。

私は興安嶺の森林に行き牡丹江、鏡泊湖の森林に行って更に敦化、明月溝を見ましたが、あの間の森林は相当なものです。

そうかと云って之をドンドン伐って了うことは面白くありません。満洲から言って既に足らず、大体北海道からも充分供給されず、現在では朝鮮の蔚山方面から入れている状態ですが、未だ足らぬ有様です。それで満洲国自体でも林業問題に関しては極力方法を講じているが恐らく充足するには相当の年月を要するし、北支へ材木を豊富に供給することは出来ない。

従って北支自体でも自給自足を目指して百年の計画でもいい、兎も角進ませなければ、永久に満洲に頼っていては満足することは出来ません。

最近北支の森林については部分的に調査させましたが、大体伝えられているところと調査の結果は非常に懸隔があり、孰れも不利です。現在北支では平地にある木を伐って色々なことに使用する極めて小掛りなことをやっていますが、これではとてもいけません。伊藤さんの話のように根本的な基礎の上に立ってやることが大切で政府当局の方々も高い理想を以てやって行くようにお願いします。

[写真あり 省略]

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湯河 只今当方でも朝鮮から苗木を呉れといってやりましたが幾等でも送るといって来ました。
伊藤 気長にやる必要がありますね。根本的にやらないと対策は結局出来ないとおもいます。

日満支の投資問題

小松 物資及び通貨と関聯性を持つ問題ですが、日満支のプールシステムにおける投資問題に対して愛知さんの御意見を伺いたいと思います
愛知 この問題に対して率直に私の感じを申しますと、日満から北支への資金の投資ということは現在の所では、格別誘導しなくても相当来るものと思われます。

寧ろ日満での資金の調整に関して、北支の不急不要の事業への投資を如何にしてより良く抑制するかに頭を悩ましている次第です。日本が北支でより得ることは主として日本、満洲の国防産業の見地から本当に必要である資金を供給して行くこと、その限度に於ては、日本人が絶対的な力、全力を挙げているものとかそれ以上に求めているもの、例えば農業であるとか或いはその他の所謂工業については私達出来るだけの援助をしようと思っています。そうして中国人の資本を今相当私共の方で希望していますが、中国人の資本家としては利潤が少いので利用出来ませんが、その中治安が回復して採算がとれると支那人も北支でやると思います。
小松 現在支那側資本が利用されず、固定している事が北支開発に大きな影響を与えているように考えられますが、将来この支那側資本を誘導して開発に当てることが急務だと思います。この点に関して湯河さんの御意見は。
湯河 勿論この事に関し色々講究している訳ですが農業の開発に於ては支那人の資金を出来るだけ利用したいと思います。

日本人の資金は北支の投資に対して色々の希望もありましょうが、本当に投資するなら、北支に於て何ものかを把握するに適するような又は日本が是非なさねばならぬところに集中的に投資したいという風に思います。

そして矢張り支那側の眠っている資本を起して行きたい、それから日支合併問題ですが、事変後何でも彼んでもそうした傾向がありますが、日本としては押える所は押える、肝腎な所は押えると共に是非とも支那側を把握しなければならぬ、儲けるところは儲けるということは結局支那人を踊らせる心算で、却て日本人が踊り疲れることになるでしょう。かかる見地から北支に進出している事業にはより検討を加え先程愛知さんのお話の如く目下の情勢を参酌して事業の方針なり内容を審査し、適当不適当を律す、心算です 。

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矢部 清岡さん、何か質問がありますか。
清岡 石炭輸送に関係する事ですが、近く北支において炭鉱会社、販売会社を設置する計画のあるように聞いていますが、将来どんな形態で出来ますか、又日満商事の石炭輸送に対してどういう風に行きますか。
湯河 実はまだはっきりしていませんが、今迄をいうと北支の石炭は日本での最大重要資源で、これが開発並びに輸送に対しては充分考慮しています。

所が各炭砿は天々事情が異っているため、重要な炭砿を単位にして開発したいと思います。これと併行して重要な事は配給と販売の統制です。例えば一炭砿会社で開発も配給も販売もやれば統制問題もないわけですが、各炭砿によって夫々形態内容も相違し、所によっては外人の経営している有様で従って、自由競争は許されず、凡ゆる方面に対する統制が必要となって来ます。ただどの程度に行うかについては各委員慎重に考慮しており内地の石炭統制と密接な関係があるので、私共も研究中です
清岡 それでは日満支石炭聯盟との関係はどうなるでしょうか
湯河 現在同聯盟は本当の動きを示しておらず、石炭の根本的な物動計画は企画院で定めています。従ってその範囲内において相互の連絡を取り協調する場合に同聯盟が役立つだろうと思います


(十) 満支蒙の労働問題

矢部 北支における労働問題、殊に労働統制の方法及び満洲、蒙疆に於ける労働力の需給に関して福田さんにお願いします。

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福田 私達の検討していることを率直に言えば、北支の労働者は世界的に有名ですが、北支には、統制なく、調査機関もなく、放任状態で必要に応じ関係者が扱う程度で範囲も狭く、方針もなく、早晩北支も統制機関を持たねばならぬところで、満洲、蒙疆の必要量に対し北支が供給するにしても、一体如何程出来るかという根本問題さえ判然していないので明確なことは申されぬが、常識的に考えて食糧、治安及び従来の伝統的な労働関係から見て北支の労働力の不足という材料はないように思います。

目下満洲の土建協会から調査員が派遣され現地において調査されているので新しい見通しを与えることになろうが兎も角楽観しています。

但し配分関係については放置すれば労働力の撹乱に役立つだけなので満洲国とも相談して充分やって行くつもりです。

唯、日本人は労働力を見る場合、北支を地方的な観念に律しようという偏見があるのではないでしょうか。いわば万里の長城に依って北支と満洲更に日本と対立的に考えているのです。

勿論現在政治情勢からいって已むを得ぬが、将来宿命的に溶け込んで行くでしょうし、北支、満洲が一丸となって所謂東亜の問題であると思います。

私共は同問題を契機として東洋的な性質を、外の分野に進める心算で昨年既に満洲、北支の関係者で一つの国際労働的な連絡会を常設したいと考えていますが、直に具体化出来ないのは残念に思います。
矢部  この問題について何か成沢さん一つ。

北支労働力の限界性

成沢 昨年は約九十万入満したが、その際、出来ることだろうが労働資源が枯渇しやしないかという事を耳にしたが、私はその点非常に楽観しています。事実昨年当初は緊張もし心配もしたがやって見ると各需要者側の努力に依り四月末迄に既に五十万、七月末で七十万入りました、従って本年も矢張り心配ないと思います。

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小松 唯今の福田、成沢さんのお話によれば労働力は楽観されていられるようですが果してそう見ていいのでしょうか。

従来主として、山東苦力が入満したのですが、昨年は思う程行なっていないし、当然京漢沿線、津浦沿線から今年は出さねばならぬと考えるのですが、満洲、蒙疆の需要量は産業開発と共に激増し、之と併行して北支の開発も進展すれば相当北支自体必要とするでしょう。

而も北支においては現在匪区地帯からは労働力は吸収出来ません。鉄道沿線にしたって、昨年の水害、或いは事変以来壮丁の死亡などにより減少しているのですから、強ち楽観ばかりは出来ないのではないでしょうか?

目下北支における労働力の源泉地は鉄道沿線に専らある訳ですが、幸い交通会社では愛路課があり労働資源の確保にも考慮されていると思いますがその対策について伊藤さんにお話を願いたいと思います。
伊藤 勿論愛路課では種々考慮している訳です。ところで私も労働力に対しては平素から疑点をもっている訳ですが−現状に於ては治安の維持も確立していないし又従来の儘の北支に於ける農業、鉱山その他資源、産業開発の関係は進展しておらず、従って満洲方面に相当送っているのですが、果してこれを以て楽観していいのでしょうか、逆に質問しますが。

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成沢 北支自体では殖産工業の勃興を真先にする石炭、鉄鉱、鉄道、港湾、道路の修理、治水、運河、それから紡績とか製粉という様な方面に将来相当苦力を要する事は事実ですが、何も満洲国のように急激に勃興は出来ないのじゃないかと思います。

為替管理とか資材入手の困難から考えてですが、それから労働資源の方では北支の約三割が青年層であるとして、二千万河南を入れると、三千万位でしょう、而もこの農村の農民は大部分小貧農程度で約七割乃至八割を占めており、ここ数年来の天災水災、旱害、戦争に依り疲弊しており、現地で自分の土地を耕作しても暮して行けぬようになり、最近では益々深刻化しているように思います、従って労働資源の枯渇は心配しなくていいのではないですか。
伊藤 成程、現在ではいいとしてもう少し先を見ると一体満洲、北支の産業開発が如何なる程度進められ、北支に如何程の労働力があるか知りませんが、将来満洲で百五十万なり二百万とドンドン労働力を要求された場合果して応じ得る余力があるでしょうか、尤も二、三年後の問題になるでしょうが。
矢部 満洲が将来果して現在のように労働力を必要とするかどうか疑問に思います。
押川 現在満洲に送っている苦力の中で結局四割か五割で満洲に定着する者も半数位あると見れば、向うでも労働力の源泉が出来る訳ですネ、北支としての労働者への心構え−。

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矢部 世間で労働者と言えば苦力に局限しているようですが、広い意味で熟練工或いは北支開発に伴う技術者を必要とする訳で、この点満洲から相当供給して貰わねばならぬと思います。

例えば炭砿にしても、交通にしても現地養成の外、急場に間に合す為には満洲から取り敢ず求める必要があります。但し満洲でも人手の足りぬ折柄、困難な問題もあるでしょうが、兎も角も北支へ熟練工又は技術者を送ることに当局は充分考慮して欲しいと思います。
伊藤 現実の問題として或る程度そうしたことは必要ですが、満洲でもいい、日本でもいい、一歩突込んで考えると日本人が北支に入って来ることは望ましいが、事業という点から見ると、非常に労働力の高い人を多数持って来ることは実際上困難です。

従って一時或る程度指導者はつれて来れるかも知れませんが早く現地で安い労働力を得ないと事業が成立しないから、土着の労働力を改善して行くことに向わねばならぬと思います。

(完) 労働者の実情

矢部 清岡さん満洲と北支における工場での使用労働者中比較して目立つ点はありませんか。
清岡 私共現在北京の工場における労働者は土地の者ばかりで、宛平県が主ですが、奉天では方々からの寄せ集めです、そして北京の工場は比較的長続きするのですが、奉天は非常に移動が多い。北京は始めたのが昭和十二年の十二月ですが、現在八百人その半数は、その時分からいるものですが、奉天では先ず、平均の勤続年数は八箇月位しかありません、普通は二、三ケ月で移動性が激しい。
伊藤 その点に就いて私共交通関係から申し上げますと、只今のお話の如く、従事員は出来るだけ土地の人を使用する、そうすれば比較的安い労銀でやって行けるし、自分の生れ故郷に近い処で使っていれば移動性も少ない上に、土地の事情によく通じていると凡ゆる方面においていい事だと思います。

[写真あり 省略]

北支の羊毛問題

矢部 羊毛問題に就いて、清岡さん。
清岡 羊毛は御承知の如く買付、輸送共に制限があります私共の方では京漢線の新郷から保定までの間に羊毛買付区域がある訳ですが、事変前と現在の買付量即ち集まって来る買付量を比較すると約五分の一に減少しています、買付の価格に関しては当局の方から限定されていますが、価格が非常に安いので苦心しており、一面には支那人の手から外人の手に渡って山西方面に流れて行くのが多いようです。
伊藤 殊に中国の西北や甘粛に沢山行きますよ
清岡 それで北支でも支那人の間に闇取引が行なわれています。
当局でも集めるに苦心していますが価格が安いので他処にドンドン流れて行くという実情ですから、今後買付価格については相当当局でも考慮しなければ結局外国に流れて行くということになるでしょう。只羊毛ばかりの問題ではなく他の物資についても言えることですし、統制を布いた実数が挙がらぬことになります。
伊藤 同感ですな、何故他処に流れて行くかということは価格の点にあると思います。
清岡 それから満洲で出来る毛織は輸出禁止になっています。私共の方は北支に工場を持っているので構いませんが。処でこんな新しい手があります。他処に出すのに関東州で一回手に入れて関東州から送るのは制限がなく、関東州から、北支に入れるのも制限がないので盛んに、内地の商品毛織物を入れているのです。

そうして内地では凡ゆる品物が価格の統制を受けているので、最近大阪、神戸方面では、北支に名目上の支店とか出張所を設け、今迄の実績に依る顧客を獲得し、向うで五円で買ったものを五円で売らず八円とか十円で売るようなことを盛んにやっています、ここでも価格の統制について慎重な考慮が必要でしょう。

北支の連絡 輸送問題

矢部 交通関係ですが日満支の貨物連絡及び輸送について、下津さん。
下津 連絡輸送について言えば、主要なものは、大体日満支連絡扱いをやることになっています。
北支では二月一日から従来仮営業の箇所を本営業にしました。只今貨物が大部分あります。詳しくいうと満洲では大体滞貨が、昨年百五十万、最近で百二、三十万瓲あります。それで必死になってさばくようにしていますが、満洲国の各種の事情から思うようにはいきません。同時に北支の状態を申しますと、一日八万六、七千瓲は運んでいますが、滞貨は二十七、八万瓲約三十万瓲あります。

満洲に比較すれば非常に少ない訳ですが、片付けば次々に出て来るという有様で満足には出来ません。

その上、特殊輸送乃至突発命令があったりして、日満支の輸送も自由には出来ませんし、貨車の不足も充分原因している訳ですが。兎も角も主要なものには緊密な連絡扱いの輸送をすることになっています

[写真あり 省略]

小松 北支の問題ですが現在京漢線、津浦線を始め各鉄道に依って運賃が不統一になっていますが、輸送に支障する事大だと思います。近く統一するでしょうか。
下津 今本社で根本的に研究して一本の運賃制度にすることを考えているようです
小松 日満支の運賃をその有機的な聯関性から言って根本的に改正して合理化することが必要ではないでしょうか。
下津 御尤もです、各地方は経済上の負担力が相違していますから或いは比較した場合同率になっているかも知れませんが、満洲と北支では立場が違いません。