<関連資料> 漢冶萍公司について
大阪朝日新聞社説 1916年


大阪朝日新聞1916年1月16日・17日付け「社説」記事である。時期的に言うと「21ヶ条の要求」に基づく「漢冶萍公司に関する交換公文」(<関連資料> 21ヶ条条約 1915年5月を参照のこと。)からほぼ半年後の記事である。
漢冶萍公司は現在の湖北省武漢市・漢陽にある製鉄会社。同じく湖北省の大冶<たいや>の鉄鉱、江西省の萍郷<へいきょう>の石炭をそれぞれ原料とする。「漢冶萍」の名前は「漢陽」「大冶」「萍郷」の3つの地名をとってつけれたものだそうだ。<http://www.tabiken.com/history/doc/E/E108L100.HTM>。だからもともと満洲の地にあったものではない。もともと清末に、清国の近代化事業の一環として設立された。日本が漢冶萍公司と関わりを持つようになったのは、辛亥革命時に破壊された同社を日本の借款で復興させた時である。日本は執拗に同社の支配権を狙い、この交換公文の内容になったものだが、その後の民族主義の高まりによって、現実にはこの交換公文通りにはならなかった。現在も中華人民共和国内の主要製鉄会社の一つ。
当時の新聞のスタイルとして、句読点がない。だから句読点を入れた。行替え、段落替えも少ない。だから入れた。
資料の出所は神戸大学・新聞記事文庫である。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=
00045195&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA
この社説は、漢冶萍公司の位置づけを的確に行いながら、対中国政策にも触れ、いわゆる帝国主義的侵略ではなく、相互互恵に基づく中国との経済協力の重要性を説いている。論者は中国現地の取材したものと見え、中国人民の動向を常に自分の視野の中に収めている。

(以下本文)


問題の漢冶萍公司 (上・下)

(上)

 支那政府が、近日農商工総長周自斉氏等を特使として我国に派遣せんとするは、表面我が御即位を奉祝せん為なりと称すと雖も、其真目的は帝政承認の運動を為さしむるにありとせられ、而して其の目的を達する為には敢て或種の利権譲与を交換条件と為し、昨年日支交渉の一要件たりし漢冶萍煤鉄公司の譲与をも其の重なる一に加え居るならんとの説あり。
(* 当時袁世凱政権は帝政復辟を計画しており、列強の賛同を得るための来日ではないかという推測を、この社説は示唆している。)

 吾人は曩きに此の如きは是れ我国が東亜の平和を維持せんとの大目的より帝政延期の勧告を為したる趣旨に反し、眼前既に内乱の勃発せる矢先、区々たる利権に誘われて帝政の承認を為すが如きは断じて許すべからず。

 更に此の際第三次の勧告をなすべきを論じ、尚交換条件として漢冶萍煤鉄公司の譲与を甘受するが如きことあらんには、却て袁総統の術中に陥り、辰丸事件の覆轍を踏むに至らんことを再三指摘し置きたり。

 抑も漢冶萍公司は我国と経済上密接の関係あり、日支交渉談判中にも重要なる一案件たりしなり。彼に於ては政略上より交換条件として持ち出すに屈強なるものと思惟すべきは無理もなき事なりと雖も、我に於ては唯其名に惑溺して実に於て何等加うる所なく、却て南方支那人の反感を招きて不測の禍を醸すが如き愚に陥るなからん為には、同公司の実情を詳らかにし、その現時の地位と我国との関係を知悉し置くの要あるべし。

 蓋し一般国民は未だ十分此等の事情に通ぜず、唯漠然と同公司と我が国との関係を密接なりと信ずるに止まり、我が枝光製鉄所の所要原料の大部分が同公司の供給する所たると、我が興行銀行其他より同公司に貸付けある資金の尠なからざるとを知る位の程度に外ならざるべし。故に吾人は此機会を以て彼我の関係を論述して、国民の注意を喚起し置くべし。

 所謂漢冶萍公司とは漢陽の製鉄所と大冶の鉄山と泙郷の炭坑とを合併総称したる一株式会社の名たることは今更事新しく説明するまでもなけれども、其の内最も我が国に関係あるは大冶の鉄山なり。同鉄山は明治二十四年独逸技師の発見せる所に係り、是より先き清国政府に製鉄事業開始の議ありて、時の湖広総督張之洞は古来『大阿の剣』と称するは湖北省大冶県より出でたるにあらずやと心付き、独逸技師を聘して同地方に鉄鉱の所在を探査せしめたるに長江沿岸より奥に進むこと二十哩にして、今を距る一千余年前土人が不完全なる吹子を以て製鉄したる跡と覚しく、鉄滓の累々山を為せるを発見し、今日何人と雖も之を見ば直ちに附近の豊富の鉄山あるを推定すべき容易なる発見を為せしが、独逸技師は欣喜雀躍之を総督に復命せずして、走せて九江に到り、同処より独逸政府に右の次第を密電したり。

 独逸人の為しそうなる事なり。然るに張之洞は待てど暮せど独逸技師の報告なきに、一方北京政府に対しては独逸公使より早くも既に大冶鉄山の採掘権と同地に至る鉄道敷設権とを要求に及びたるより、始めて其欺かれたるを知り、切歯扼腕独逸人の不徳を責めて其の要求を峻拒し、資を白耳義(*ベルギー)シンジケートに借りて自ら漢陽製鉄所を創設し、大冶の鉄鉱採掘に着手せんとしたり。執拗厚顔なる独逸政府は尚も其の要求を棄てずして終に鉄山鉄道に要する諸器械と材料と技師の供給を独占し、専横至らざるなく、更に資本の欠乏に附け込みて明治二十七年独逸銀行の手より三百万両の借款を給し、独逸の勢力殆ど抜くべからざるに至れり。

 然るに日清戦後多額の償金を負担したる清国政府は財政窮乏し、之が官営に堪えずして全事業を挙げて盛宣懐氏に払下げ盛氏の私有となりたり。

 是明治二十八年の事にして爾来桔据経営困難なる財政を整理し並に独逸の勢力駆逐に努めたるが、其の頃より我国に於ても製鉄所創立の議捗取り、其原料を何れに求むるかに就て種々の調査を遂げたる結果、大冶に着眼し北京政府に交渉して其の允諾を得、張総督及び盛宣懐氏と熟議を重ねて、遂に本邦産の石炭骸炭と大冶鉄鉱との交換を約せり。時に明治三十二年四月七日にして、所謂十五年契約なるもの是れなり。而して翌年七月を以て始めて大冶鉄鉱一千六百噸を汽船飽の浦丸にて本邦に回送するに至り、其れより断えず我が日章旗を掲げたる汽船は開港地にあらざる大冶石灰窯に出入して外人嫉視の的となれり。

 就中独逸は最も憤慨して種々の妨害を試み、土民を煽動して排日思想を起さしめんとし陰謀術策施さざるなかりしが、苦心惨澹の末三十六年十一月に至り我が興行銀行より三百万円貸付の議纏まり、翌年一月本契約を結びて所謂三十年契約なるもの成立せり。是れ実に日露開戦前僅に二旬にして危機一髪の際なりしが、幸に此の契約に依りて我国製鉄の原料供給の途確立し、夫より漸次我国の勢力は独逸に取って代るに至りたり。


(下)


 然るに明治四十一年に至り、盛宣懐氏及び其の与党は大冶鉄山、漢陽製鉄所及び萍郷炭坑を合併して漢冶萍公司なる名称の下に資本金二千万弗の純然たる商事会社を組織せり。之より事々物々株主総会の議を経ざるべからざるに至り、稍交渉手続の不便を感ずるに至りしが、四十三年米国ダラー商会と公司との間に鉄鉱売買の密約成れるを看破し、我より抗議して之を中止せしめたり。

 翌年武昌に革命の乱起り、漢陽製鉄所及び萍郷の炭坑は早くも革命軍の占有に帰したるも、大冶のみは我が駐在官の尽力に依りて特別中立地帯たらしめ以て我が利権を擁護し得たり。蓋し大冶の富は官革両軍の垂涎措かざる所にして、之れを担保として外国より軍資の借款を得んとするは自然の勢なるが故に、之を安全の地に置くには日支合併と為すに如くなし。

 乃ち戦乱の当時我駐在官西沢氏は公司総弁李維格氏と某艦内に密会して日支合弁案を議定したるが、株主総会の議に附するに至り、独逸の悪辣なる妨害運動に依り終に否決せられたり。而して一方支那政府に於ては近年利権回収熱よりして同公司を国有と為さんとするの議もあり、旁た其地位の安固ならざるより偖こそ昨年の日支交渉の一案件として、

第一 支那政府は将来漢冶萍会社を両国合併組織とするに同意し、且予め日本の承諾なくして同会社の全財産及び権利を単独に処分し、又は同会社自身をして同様の処分を為さしむることを得ず。
第二 支那政府は漢冶泙会社所有の附近に在る全鉄山を該会社の承諾なくして他人に採掘を許すべからず。且つ若し此等の事を実行せんと欲する場合には第一に該会社の同意を経ることを約すべし。

との要求を提起するに至りしなれ。

然るに交渉談判行悩みて終に成立したる条項に拠れば(一)他日該公司と日本資本家との間に合弁の議成りたる時は之を承認すべく(二)政府は同公司を没収せざるべく(三)関係日本資本家の同意なくして同公司を国有と為すことなかるべく(四)日本国以外より外資を公司に入れしむることなかるべき事を約したり。

 即ち原案の通りにはあらざるも大体に於て不安固の原因は除去せらるるを得たり。此の点に就ては先ず先ず成功と謂わざるべからず。唯漢冶萍公司所有の附近にある鉱山を他国に採掘せしめずとの条項を欠きたるは遺憾なりと雖も、仮令付近の鉱山を採掘すとも鉱石の搬出には公司の鉄道に由らざるべからざるが故に、事実不可能にして之が鉄道敷設権をも併せて要求する場合に方っては、更らに抗議の余地あるべきなり。剰す所は公司をして日支合弁の実現を速かならしむるの一あるのみ。

 大冶の鉄山は抑も之を観て一驚を喫せざる者なき真の無尽蔵なり。突兀たる満山の巌石は悉く是れ鉄鉱にして鉱脈は縦に深く地中に入れるが故に其の量幾許に達するや測り知るべからず。而して其の鉱石は毫末も砂を交えず、純分実に六十五パーセントの多きを占むと云う。現今世界に於ける普通の標準は三十五パーセントにして瑞典(*スエーデン)は六十余、米国は五十五、独逸は五十、英国は四十余なりと云えば、大冶の鉄は蓋し最大の量を含有すと称すべし。 

 而して同地の委棄されたる古代の鉄滓の如きも純分尚五十パーセントを残せり。独逸は勢力失墜の後、此鉄滓買収の議を公司に申込みたる事ある程なり。此の地は啻に鉄鉱に豊富なるのみならず、石灰、白雲石、満俺、石炭等も附近に多量に産出し、水陸運輸の便亦備われるが故に製鉄所を此の地に設くるを最も得策とす。

 張之洞が漢陽の地を卜したるは当時其の理由他にありしとは云え、今日となりては頗る不利不便と謂わざるべからず。依って目下大冶に於て溶鉱炉新設の計画着々其の歩を進めつつありて之が資金は又我国より提供する所なり。

 今日までに我国より注ぎ込みたる借款は興業、正金、三井を合して総額旧債三千万円に上り利率は六分乃至八分の間なり。其の上尚新借款千五百万円の約成りて、其の内九百万円は前記の溶鉱炉新設に要するものなり。

 随って西沢駐在官の外に新に会計監督をも我国より派遣することとなりたり。資本金二千万弗の会社にして我国の貸付四千五百万円に達せんとす。盛んなりと云わざるべけんや。

 而して大正四年度に於る我国への鉄鉱輸出量は枝光製鉄所(*八幡製鉄所のこと。“枝光”という地名の場所にあったのでこう呼ばれたものらしい。)に二十五万噸、北海道輪西製鋼所に五万噸にして、之を漢陽製鉄所への供給三十万噸に対すれば恰も同額に当る。以て同公司と我国との関係如何に密接なるかを知るべし。加之ならず同地に於ける公司関係者及び一般土民の我国に対する感情は頗る良好にして、諸外国の離間中傷盛んなるに拘らず、一点の排日思想だになく、全く別天地の観を為せり。是れ何よりも吾人の慶幸とすべき所なり。

 事情此の如くにして未だ正式の日支合弁となるには至らざれども、事実我国の地位は或る意味に於て合弁以上にして、其の実権は既に安固の基礎の上に立てり。

 正式の合弁手続は此の上最早一歩のみ。而も我国に毫も侵略の野心なきを示して、彼をして喜んで其の議を提起せしむるの賢なるに如かず。袁政府が帝政承認の交換条件に少しも自己の腹を痛めざる公司の譲与を以てせんとするが如きは、寧ろお門違いにして虫の善過ぎる沙汰と云わざるべからず。若し袁政府が爾く公司を自由に処分し得る事せば●(*一字不明)は日支条約の違反にして我国の素より黙止する能わざる所なり。




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