(2010.7.8)
【ヒロシマ・ナガサキ関連資料】

<参考資料> 平岡 敬 1995年国際司法裁判所における口頭陳述

1991年広島市長に初当選した平岡敬は、オランダ・ハーグにある国際司法裁判所で、「核兵器の使用および核兵器による威嚇の違法性」に関する勧告的意見採択に関わる証人として証言台に立つ。

 この記事は1995年11月7日に行われた平岡敬の国際司法裁判所での口頭陳述である。

『希望のヒロシマ』(平岡敬著 岩波新書 1996年7月22日 第1刷)に平岡は次のように書いている。

 1993年5月、WHO(世界保健機構)が「核兵器使用の国際法上の違法性」についてICJ(国際司法裁判所)の勧告的意見を求めたことから始まった。・・・ICJは日本を含む関係国に陳述書を提出するように求めた。』

 国際司法裁判所は国連の一機関であり、そこで意見陳述を行うことが出来るのは政府機関か国際機関のみである。日本政府は、日本政府の証人として広島市長と長崎市長(後に暗殺された伊藤一長)に証言台に立つことを求めた。ところが平岡は、日本政府が「核兵器使用およびその威嚇使用」について、平岡とは全く異なる見解を持っていることを知る。

 すなわち、日本政府の見解は「核兵器使用およびその威嚇使用」は、明確な国際法違反とはしない、というものだった。平岡はこれを明確に「国際法違反」とする立場だったから、日本政府は自らの見解と異なる人物に証人として証言台に立つことを要請したことになる。日本政府は平岡と伊藤に、日本政府の見解に沿った陳述をして欲しいと圧力をかけるが(平岡自身は「何度か(外務省と)電話でのやりとりがあったが、私が鈍感なせいか、特に圧力がかかったとは感じなかった。」<同書110P>とトボケている。)、伊藤と語らって、明確に国際法違反の陳述を行うことを決意する。だから当日日本政府を代表して日本政府の立場を陳述した河村武和外務省審議官は自らの陳述を終えた後、

 これからの広島、長崎両市長の発言は、証人としての発言であり、日本政府の立場からは独立したものである。特に事実の叙述以外の発言があれば、それは必ずしも政府の見解と一致するものではないことを申し添える。』

 と断らなければならなくなった。

 「核兵器の違法性」というわかりきった問題で、日本政府と広島・長崎両市長の見解が違う、という事実は悲劇を通り越して、日本政府が起こした「笑劇」(ファース)というべきだが、このファースの構造は現在にいたるも変わっていない。
平岡の口頭陳述は、今読んでみると、詳述されている「被爆者の悲惨」よりも、そこで展開している平岡の考察や考え方の方が光っている。たとえば、

 先の戦争においては、わが国にも恥ずべき行為がありました。そのことを反省した上で、広島の被害はどのようなものであったかを、世界の人々に知ってもらい、このような悲劇を再びこの地球上でおこさないためには、核兵器を廃絶しなければならないということを訴えたいのです。』
 『核兵器が存在する限り、人類が自滅するかも知れないということは、決して想像上の空論ではありません。核戦争はコントロールできるとする戦略、核戦争に勝つという核抑止論に基づく発想は、核戦争がもたらす人間的悲惨さや地球環境破壊などを想像できない人間の知性の退廃を示しています。』
私は、核兵器の問題を現在の国際政治のなかで考えるのではなく、核兵器は人類の未来にとってどのような意味を持つのかという視点から考察すべきであると思っております。』

 核兵器廃絶が実現したからといって、戦争や暴力がなくなるわけではない。ましてや自動的に平和が到来するわけでもない。しかし、それでも核兵器を廃絶しなければならない理由がある。それは1945年9月、マンハッタン計画の最高責任者であり、時の陸軍長官ヘンリー・スティムソンが指摘するように、

もし原爆を、従来の国際関係のパターンにはめて、さらに破壊力の大きい軍事兵器とのみ見なそうとすれば、ひとつだけ実施すれば事足ります。毒ガスの時にやったように、核兵器の将来的使用を警告する国際的慣習に依拠して、国家主義的軍事力の優位性を誇示し、秘密の帳をおろすという古くさいやり方を取ればよいのです。

 しかし私は、そうではなく、原爆は人類が自然の力を制御するほんの第一段階に過ぎず、古くさい概念をもってしては、原爆は革命的に過ぎ、また危険すぎます。』
(「議題:原爆管理のための行動提言」
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/stim-memo/stim19450911.htm>)
 からであろう。

 「核兵器」は、国際政治とか国家主権とかそうした小さな尺度から見るべきではない、地球文明史的尺度から見るべきだ、と言う点でスティムソンと平岡は、期せずして一致している。

 平岡は「ヒロシマの惨状」を落とされた側から眺め、スティムソンは「ヒロシマ・ナガサキの惨状」を落とした側から眺めて衝撃を受け、等しく文明史尺度を用いて核兵器を捉えるようになった、ということを付け加えておかねば公平ではないだろう。つまり両者とも出発点は「ヒロシマ・ナガサキの惨状」だったのだ。
この平岡の口頭陳述は、前出『希望のヒロシマ』のP114からP129をテキスト起こししたものである。縦書きから横書きにしたため、必要な行替えを行っている。また中見出しは原文に4箇所あり、それは黒字で表記した。



国際司法裁判所における広島市長の口頭陳述


広島市長の平岡敬です。当法廷で広島の原爆被害の実態について陳述する機会を与えていただき、ありがとうございます。

 私はここで、核兵器廃絶を願う広島市民を代表し、特に原爆により非業の死を遂げた多くの死者たち、そして50年後の今もなお放射線障害によって苦しんでいる被爆者たちに代わって、核兵器の持つ残虐性、非人道性について証言いたします。

 広島・長崎への原爆投下は、従来の戦争被害の概念を覆し、人類の存立基盤を揺るがす甚大な被害をもたらしました。

 政治家と軍人と科学者が協力して原子爆弾を開発し、それを人間の上に実際に投下することによって、核時代は始まったのです。

 核の巨大な破壊力によって、全く罪のない市民が焼きつくされ、放射線を浴び、老人も女性も生まれたばかりの赤ん坊も殺されました。

 この行為は、本来国際的にされなければならない事柄なのです。しかし、歴史は勝者によって記され、このように悲惨で残酷な大量虐殺の行為でさえも歴史の中で正当化されています。

 それゆえ、この50年間、世界はこの恐ろしい行為が人類にとって、どのような意味を持つのか、ということに真正面から取り組んできませんでした。

 そのため、私たちは未だに膨大な核兵器の恐怖のもとに、生き続けなければならないのです。

 広島の平和記念公園の慰霊碑には、「安らかに眠ってください。過ちは繰返しませぬから」ということばが刻まれています。過ちとは人類が戦争を起こすことであり、戦争に勝つために原爆を開発し、使用したことです。

 私は原爆投下の責任を論ずるために、この法廷に立っているのではありません。先の戦争においては、わが国にも恥ずべき行為がありました。そのことを反省したうえで、広島の被害はどのようなものであったかを世界の人々に知ってもらい、このような悲劇を再びこの地球上で起こさないためには、核兵器を廃絶しなければならないということを訴えたいのです。

 原爆の巨大なきのこ雲の下で焼けただれ、水を求めて苦しみもがき、死んでいった人々の思いを原点として、また自分の妻や子供が核戦争の犠牲者となった状況を考えて、私たちは核の時代、核と人間とのかかわりあいについて考えなければなりません。

1. 原爆の瞬間的な無差別殺りく

 1945年8月6日午前8時15分、広島市に投下された原子爆弾は、市の中心部の上空580メートルで爆発しました。

 この原子爆弾には、ウラン235が使用され、爆発した1キログラムのウランから発生したエネルギーは、TNT火薬15キロトン相当であったと推定されています。1945年当時、世界最大の爆撃機とされていたB29ですら、5トンの通常爆弾しか搭載できませんでしたから、広島は、一瞬にして3,000機以上のB29による爆撃を受けたことになります。強烈な閃光と爆風が市街地をおおい、大音響とともに巨大な火柱が噴き上がると、同時にほとんどの建物は破壊し、死者、負傷者が続出しました。

 原爆被害の特質は、大量破壊が瞬間的に、かつ一斉に引き起こされ、老若男女の区別なく非戦闘員も含めて、無差別に殺りくされ、@熱線、A衝撃波と爆風、B放射線などが複合して被害が増幅することにあります。

 まず、熱線による被害ですが、原子爆弾の爆発により、爆発点は摂氏数百万度の温度となり、直径約280メートルの火球が生じました。そこから発生した熱線により、爆心地付近で戸外にいた人は、瞬時に黒焦げになりました。爆心地から約2キロメートル離れたところでも衣服に着火したと記録されており、また、市内の多くの場所で同時に火災が発生し、ほとんどのものが焼失し、焦土と化しました。

 次に、衝撃波と爆風による被害ですが、爆発点では火球によって数十万気圧という超高圧状態が生じ、強い衝撃波が発生しました。この衝撃波は、直接進んだ波と地面や建物に反射した波が影響し合って大きな被害を出しました。

 また、衝撃波の後から非常に強い爆風が吹き抜けました。この爆風は、爆心地では秒速440メートルにもなり、多くの人が爆風で吹き飛ばされました。爆心地から半径約2キロメートル以内の木造の建物は倒壊し、それ以遠のところでも相当の被害を受けました。

 こうした熱線と爆風により、当時の広島市の全戸数76,327戸のうち、約70パーセントが全焼・全壊し、残りの建物も半焼・半壊などの被害を受け、全市が瞬時にして破壊されたといっても過言ではありません。

 そして、放射線による被害ですが、爆発直後の初期放射線―つまり、ガンマ線と中性子線が強く降り注ぎ、爆心地から半径約1キロメートル以内で、4グレイ以上の全身照射を受けた人の多くが死亡し、かろうじて生き残った人にも放射線による後遺症があらわれ、その後死亡したり、今もなお病魔とたたかっている人は少なくありません。

 また、直接被爆しなくても、後に被爆者の救援などで爆心地に近い場所に行った人などには、残留放射線が障害を与えました。
 
 当日、広島市には約35万人がいました。死亡者数について、広島市では、1945年12月末までに、約14万人が死亡したと推定しています。
 
 ただ、被爆により一家全滅世帯が多く発生し、地域社会が崩壊した上に、当時の記録も焼失し、被爆後十分な調査が行えなかったため、正確な死亡者数は、現在でも分かっていません。

 死亡者の中には、当時広島にいた多くの韓国・朝鮮人のほか、中国人やアジア地域からの留学生、少数ながら米軍捕虜も含まれています。


2.原爆がもたらした人間的悲惨

 ここで私たちが注目しなければならないことは、原爆がもたらした通常兵器とは異なる人間的悲惨の事実です。

 原爆が人体に与えた障害は、既に述べたように熱線と高熱火災による火傷、爆風によるけが、放射線による障害の三つが複合的に絡み合って引き起こされたものです。この障害を総称して「原爆症」と言います。

 原爆症は、急性障害と後障害に大別され、放射線の影響が今日まで続いているところにその特徴があります。放射線が人体に与える影響は、50年を経た現在でもまだ十分に解明されていませんが、医学的には放射線によって人体の細胞が破壊されることが障害の原因であると考えられております。

 このように大量の放射線を浴びたのは、人類にとって初めての体験であり、人体への影響についてのデータはありませんでした。そのため、被爆後の医療活動はまったく手探りの状態から始まりました。病院が崩壊し、医療スタッフの多くが死傷し、薬品や器材もないため、おびただしい数の被災者は十分な治療を受けることができず、次々と死を迎えました。

 熱傷や外傷が軽度であっても、救助に走り回っていた人たちが数日から数週間して、発熱、下痢、吐血、全身の倦怠感といった症状を訴えて、あっけなく死んでいきました。これが原爆の急性症状でした。

 急性障害は、被爆後4か月間に現れた障害で、熱傷や外傷による症状のほかに、初期放射線による特徴的症状として、爆心地から近距離の被爆者に、細胞や造血器の破壊と臓器の障害、免疫機能の低下、脱毛が顕著に現れました。

 急性障害は、4か月くらいで下火になりましたが、被爆後5、6年して、白血病患者が急増するなど、後障害が大きな問題となりました。後障害の特徴的なものは、火傷が治った跡が盛り上がったいわゆるケロイドのほか、白内障、白血病、甲状腺がん、乳がん、肺がんなどを中心とする諸種のがん、胎内被爆者に生じた知的障害、発育不全を伴う小頭症などがあります。

 これについて、いくつかの事例を紹介します。

 2歳のとき被爆した佐々木禎子さんは、健康に育っているように見えましたが、10年後の1955年に放射線による白血病と診断されて、入院しました。

 日本ではツルは長生きのシンボルとされているため、禎子さんは、ツルを千羽折れば病気が癒ると信じ、ベッドの上で毎日飲む薬の包み紙でツルを折り続けました。しかし、その願いもむなしく、8カ月の闘病生活の後死亡しました。

 この事実は、被爆して何年もたってから障害が現われる放射線の恐ろしさを示しています。

 禎子さんの死と折りヅルの話は、子どもたちに大きな衝撃を与えました。世界の子どもたちが募金して広島の平和記念公園に折りヅルを高く掲げた少女の像が建てられました。その台座は、国内はもとより世界の人々から寄せられた折りヅルでいつも埋まっています。放射線後障害による少女の死によって、折りヅルは、核兵器廃絶と世界平和のシンボルとなったのです。

 また、原爆が投下されたとき母親の胎内で放射線を浴び、その後に生まれた子どもたちのなかには、知能の遅れと身体の欠陥を伴った小頭症に代表される症状もあらわれました。

 これらの子どもたちには、今や健常者になる道はなく、医学的にも何ら施す術は残されていません。何の罪もない当時の胎児たちの生涯に、原爆は消え去ることのない烙印を焼きつけたのです。

 この子らの親たちは、既に老い、あるいは亡くなりつつあります。ある親は、「子どもも普通50歳になれば、年老いた親を保養地へ連れていったりするだろう。しかし、私の場合、親がいくら年老いても、常に50歳近い我が子の手を引いて連れ歩かねばならないのです。」と、原爆が生んだ親子一体の悲劇を語っています。

 原爆放射線が胎児に与えた、この人間破壊ともいうべき影響こそ、核兵器のもとでの人類の未来を暗示しているのです。

 広島・長崎市内で直接被爆したり、救援活動のため市域に入り残留放射線を浴びた原爆被爆者は、現在、日本国内に約33万人いますが、50年たった現在でもこれらの後障害で苦しみ続けています。

 これまでの研究の結果、被爆者が発がん年齢に達すると、一般の人よりがんにかかりやすいこともわかってきました。また、現在、白血病のほか、乳がん、甲状腺がん、胃がん、肺がんなどに原爆による影響が認められています。しかし、体内に取り込まれた放射線が年月を経て何を引き起こすのか、すべてが解明されてはおりません。

 原爆は、物的・人的被害を与えただけではなく、市民の経済的・社会的基盤を崩壊させ、辛うじて生き残った人々の社会生活そのものを破壊し、生活の困窮をもたらしました。

 また、家族、親族関係の断絶により、原爆孤児、原爆孤老といわれる、社会的に自立できない若年者、高齢者が生まれました。一命をとりとめた被爆者は、いつ原爆症が発病するか分らない不安の中で、精神的、肉体的、社会的後遺症に苦しめられました。

3.被爆者の訴え

 原爆を投下された時、私は広島を離れていましたので、被爆を免れました。

 しかし、私の最も愛すべき親類や多数の友人が犠牲となりました。

 当時女学校1年生だった従姉妹は爆心地から800メートルの地点で被爆し、その夜亡くなりました。「戦争がなかったら....... 。 原爆さえ落ちなかったら......」と言う叔母の嘆きを聞くのは耐えがたいことでした。

 また、私の妻も、当時女学校1年生で、当日たまたま体調が悪く学校を休んだため、被爆を免れました。しかし、級友のほとんどが死亡しました。そして、自分だけが生き残ったことは、今なお妻の心の底に重い記憶となって沈澱しています。

 生き残った市民は、だれもが今なお被爆による精神的、肉体的影響から逃れることはできないのです。

 広島の被害については、手記、絵画、写真・映画など、たくさんの記録があります。しかし、直接被爆した人たちは、そのどれもが自分たちの体験したこととはかけ離れ、とてもこの世の出来事とは考えられないと感じています。

 「あの日の状況は、今語り継がれているような状況ではなかった。もっともっとひどかった。それは、とうてい言い表せない。」というのです。

 このことは、被爆の惨状は人間の表現能力や想像力を超えた、非人間的なものであったということを示しています。

 私もまた、証言するに当たって、被爆の惨状を十分に伝えきれないもどかしさを感じています。

 裁判官の皆様方には、ぜひ広島・長崎を訪れて、被爆の実相を検証し、理解を深めていただくようお願いします。

 核兵器の問題を考えるためには、まず、生き残った人々の悲惨な体験を聞き、被爆資料に触れることは欠かせないことだからです。

 私はかつて広島の新聞社で働いていましたが、同じ職場にいた顔や手に多くの傷跡を残していた年輩の女性のことを忘れることはできません。

 夫を原爆で失った彼女は、自分の傷ついた姿を恥ずかしく思いながら、子どものために生き抜き、働いた後、16年前に亡くなりました。

 33歳のとき、爆心地から1,700メートルの地点で被爆した彼女は、その体験を5年後の1950年に次のように書き残しています。

 「どこかで「あッ、落下傘だよ。落下傘が落ちて来る」という声がした。私は思わずその人の指さす方を向いた。ちょうどその途端である。自分の向いていた方の空が、パアッと光った。その光はどう説明していいのか分らない。私の目の中で火が燃えたのだろうか。夜の電車がときどき放つ無気味な青紫色の光を何千億倍にしたような、といってもその通りだともいえない。

 光ったと思ったのが先か、どーんという腹の底に響くような轟音が先だったのか、瞬間、私はどこかにひどくたたきつけられたように地に伏せていた。それと同時に頭へも肩へもバラバラと何か降って来る。目の前が真暗で何んもみえない。

 その時、急に私は田舎に疎開して行った3人の子がはっきりと目に浮んだ。不意に私は、そうしてはいられない衝動ではげしくからだを起しはじめていた。木片や瓦が、手で払っても払っても頭の上にかぶさって来て、なかなかからだが自由にならない。「死んではならないのだ。子供たちをどうするのだ。夫も死んでいるかも知れない。逃げられるだけは逃げなければ......... 」私は無我夢中で這い出した。

 ふと自分で吸う息がとてもくさいのに気がついた。「これは黄燐焼夷弾というのかも知れない」私は無意識に鼻と口を、バンドにはさんでいた手拭で思い切りぬぐった。その時私は初めて顔に異状を覚えた。ぬぐった顔の皮膚がズルッとはがれた感じにハッとした。
 ああ、この手は―右手は第二関節から指の先までズルズルにむけて、その皮膚は無気味にたれ下がっている。左手は手首から先、5本の指がやっぱり皮膚がむけてしまってズルズルになっている。」

 手記によると、彼女はこのあと夢中で郊外の収容所まで逃げのびたのですが、夏が過ぎ、秋が来ても傷口がドロドロに肉が溶けて、熟したトマトを突き崩したようになって皮膚ができませんでした。

 翌年春になって、ようやく包帯がとれました。その時の自分のからだの状態を彼女は次のように書いています。

 「左の耳は耳たぶが半分に縮まってしまい、左の頬から口とのどへかけて、てのひら程のケロイドができ引きつってしまった。右の手は第二関節から小指まで、はば5センチ位のケロイドができ、左手は指のつけ根のところで、5本の指が寄り集ってしまった。」

 時間の関係でその全文を紹介できないのが残念です。どうかここに持参しました、原爆被害の科学的な調査報告書である「広島・長崎の原爆被害の概要」などを証拠として採用していただくよう要請いたします。

4.核兵器の非人道性

 これまで述べてきたように、核兵器が恐ろしいのは、その強大な破壊力はもちろんですが、後代にまで影響を及ぼす放射線を発するからです。

 戦争が終わり、平和を回復して50年たった今、なおも多くの人が放射線後障害で苦しんでいることほど、残酷なことはありません。

 つまり、核兵器による被害は、これまで国際法で使用を禁じているどの兵器よりも残酷で、非人道的なものです。

 国際法にいう一般市民に対する攻撃の禁止と、人間に不必要な苦しみをもたらす大量破壊兵器の使用が過去において、国際宣言や拘束力ある協定によって禁止されたことの根底には、人道的な思想が流れています。これこそが近代ヨーロッパから発した国際法の精神であります。

 1868年の「セント・ぺテルスブルグ宣言」、1899年の「特殊弾丸の使用禁止の宣言」(「ダムダム弾の禁止に関するハーグ宣言」)、1907年の「ハーグ陸戦条規」(「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約附属書陸戦ノ法規慣例ニ関する規則」)の第23条、1925年の「毒ガス等の禁止に関する議定書」、1972年の「生物・毒素兵器禁止条約」などが生まれた底流には、人間の非理性的行為を防止しようとする人道主義が存在しています。

 さらに、1961年の国連総会では、「核兵器・熱核兵器の使用は、戦争の範囲を超え、人類と文明に対し、無差別の苦しみと破壊を引き起こし、国際法規と人道の法に違反するものである。」を内容とする「核兵器と熱核兵器の使用を禁止する宣言」が決議(国連総会決議1653(]Y)されております。

 市民を大量無差別に殺傷し、しかも、今日に至るまで放射線障害による苦痛を人間に与え続ける核兵器の使用が国際法に違反することは明らかであります。また、核兵器の開発・保有・実験も非核保有国にとっては、強烈な威嚇であり、国際法に反するものです。

 現在地球上には、人類を何回も殺りくできる大量の核兵器が存在しています。核兵器は使用を前提として保持されていますが、核兵器の存在が平和の維持に役立つという納得できる根拠はありません。核兵器によって、自国の安全を守ることはできず、今や国家の安全保障は、地球規模で考えなければならない時代が到来しています。

 核兵器が存在する限り、人類が自滅するかもしれないということは、決して想像上の空論ではありません。核戦争はコントロールできるとする戦略、核戦争に勝つという核抑止論に基づく発想は、核戦争がもたらす人間的悲惨さや地球環境破壊などを想像できない人間の知性の退廃を示しています。

 それゆえ、私たちは、広島・長崎の体験に基づいて核兵器の問題を考えるとき、さらに核保有国の核実験場周辺の被曝住民の苦しみを知るとき、核兵器廃絶を明確にする条約を結ぶことによって、世界は希望の未来へと足を踏み入れることができるのです。

 私は、核兵器の問題を現在の国際政治の力関係のなかで考えるのではなく、核兵器は人類の未来にとってどのような意味をもつのかという視点から考察すべきであると思っております。

 1981年2月、広島を訪問されたローマ教皇ヨハネ・パウロ二世は、「過去を振り返ることは、将来に対する責任を担うことです。広島を考えることは、核戦争を否定することです。」と述べられました。

 人類の運命は、今あなた方の手の中にあります。

 どうか、神のごとき叡智と明察と人間への愛をもって、この核兵器の問題に対して、正しい判断を下していただくようお願いして、陳述をおわります。