トルーマンとのやりとりを伝える広島市議会会議録

1958年、広島市議会のトルーマンへの抗議決議文


(*青字は私の註)

 1957年にエドワード・R・マローの有名なテレビ番組「See it Now」に出演した前大統領、ハリー・トルーマンは、トルーマン政権を回顧する中で、原爆問題に触れ、「良心のとがめはない」とした上で、実験に成功したばかりの水素爆弾に触れて、「もし必要なら、水爆も使うべきだ」という趣旨の発言をした。

 これを伝え聞いた広島市議会の任都栗司(にとぐり・つかさ)は、トルーマンに対する「抗議声明決議」を、ミズーリ州インディペンデント市に住むトルーマンに送りつけた。トルーマンはこれに対して反論の手紙を広島市議会に送った。以下はこの間のやりとりを伝える広島市議会の議事録である。なお、この時の「抗議声明決議」原文も、トルーマンからの返事の手紙も、今は失われているようだ。なおミズーリ州インディペンデント市にあるトルーマン博物館・図書館には、この時の「広島市議会抗議声明決議」英語原文が任都栗司らのカバーレターとともに保存されている。

 この議事録は、昭和62年3月31日発行の「広島市議会史 議事資料編U」から採録した。この資料は広島市公文書館(http://www.city.hiroshima.jp/icity/browser?ActionCode=
genlist&GenreID=1000000002030
 )に所蔵されている。

 トルーマンの返事は広島市議会に新たな憤激を呼び起こした。広島市議会は1958年(昭和33年)3月20日、このトルーマンの返書に対して再び抗議の決議を採択する。この再決議がその後トルーマンの手元に渡ったのか、トルーマンがこれに返事を書いたのか、それは知られていない。

 それより、私は任都栗が書いたであろう、「再非難決議文」の内容に興味がある。必ずしも論旨が明確でないこのごたごたした文章には、考えなければならないヒントが隠されている。いったい任都栗は何をいいたいのだろうか?

 ただ任都栗の、アメリカへの遠慮、恐らくは日本政府への遠慮もあるのだろうか、歴史認識の誤り、とってつけたような国際法の解釈、自分勝手な軍国主義解釈、平和な世界の構築を言いながら、日米安全保障条約の下での軍事壁の中に居ることの矛盾に気がついていない、などをすべてはぎ取ってみると、二つ浮かび上がる。

 任都栗の憤激は本物だ。もうひとつ任都栗はトルーマンに謝罪をして欲しいのだ。謝って欲しいのだ。それだけでも気持ちが安らぐ。

 しかし任都栗の憤激は、凶暴な天皇制ファシズムに痛めつけられた世界の人たちの、だれもが納得する冷静な理論にまで昇華されていない。自身がそのもどかしさで、唇を震わせている。

しかし憤激は本物だ。



<広島市議会 昭和33年2月13日 会議録>

議長(任都栗司君): (前略)トルーマン前米大統領の放送に対する抗議声明決議案を議題に供します。(中略)提案者一番松下一男君を紹介いたします。

    (一番松下一男君登壇)(拍手)

一番(松下一男君): (朗読)
 トルーマン米大統領の放送に対する抗議声明決議(案)

 二十数万の犠牲の苦しみの中に生きて来た広島市民は、世界平和の礎となることを崇高な義務とし、いかなる理由によるとも、世界のいずれの国も、地球のどこのだれの上にも核兵器使用の過ちを繰り返させてはならないと確信している。

 しかるに、広島、長崎の原爆攻撃を指令したあと、何ら良心の呵責を感ぜず、今後も万一の場合、水爆を使うというトルーマン米大統領のことばが事実であるとするならば、広島市民とその犠牲者を冒涜するもはなはだしいものである。

 本市議会は、市民の憤激をもってこれに抗議するとともに、人類と平和の名においてそのことばを撤回し、世界平和のため、その義務を尽くされんことを米国と米国民の知性と平和えの良心に訴えることを声明する。

 右決議する。

 昭和33年2月13日            広島市議会

 以上でございます。何とぞみなさんのご賛同をお願いいたします。

(拍手)

議長(任都栗司君): おはかりいたします。本件は決議案通り決定することに御異議ございませんか。

  (「異議なし」と呼ぶ者あり)

議長(任都栗司君): 異議はないようでございます。満場一致本件は決議案通り決定されました。


<広島市議会 昭和33年3月20日 会議録>

副議長(堀江守君): (前略)さる二月十三日の市議会において決議いたしましたトルーマン前大統領の放送に関する抗議声明に対し、トルーマン前大統領より任都栗広島市議会議長に対し書簡が参っております。この書簡の訳文は、お手元に配布しました通りであります。この書簡について、任都栗広島市議会議長より発言を求められておりますので、発言を許します。二十一番。

    (二十一番任都栗司君登壇)(拍手)

二十一番(任都栗司君):  ただいま議長が申しましたとおり前決議をトルーマン元大統領に送付いたしましたところこれに対する書簡が参りました。これはお手元にご送付申し上げております。これに対する返事は広島市民の切なる願いを送ったのでありますが、これに対しても、なおかつ反省の色が認められておりません。のみならず、その過程において、われわれ広島市民の悲願とするところの根本理念が取り上げてられておりません。ということは、まことに世界平和を希求いたしておりまするわれわれとして遺憾千万と存せられるのであります。従って、これに対しましても、ただいまよりこれに対する返書を申し上げたいと存じます。

 貴下のご丁寧なるご回答に接し、心から深く感謝いたします。

 貴下の書簡の内容は、米国民が、日本に対して持っている一部の人の感情であると思います。

 私にはよくそのお気持ちは分かるのであります。私がここに訴えんとすることは、広島市民と、市内九万余人全国二十七万の原爆被害者の声と意思を代表していることにご注意願いたい。

 貴下は、日本に対する報復的意図のもとに、一瞬にして人類を撲滅し得る原子兵器を使用し、広島市二十数万の非戦闘員を殺戮することにより、終戦に導いたことを合法化せんとしておられることに対し、私は当時の大統領である貴下に再び抗議するものであります。指摘せられたるごとく、当時の日本国の責任者が、貴国の軍事基地真珠湾に対して無警告を持って奇襲攻撃を加えたことはまことに卑劣であったことを認め、残念に思うところであります。

 日本が十数億の東亜民族と同じく、数世紀にわたる民族的な圧迫よりの解放を求めて居た時代に日本の政治家や軍部が、外交上の正しい手段でこれを解決しようとせず、拙劣なる侵略行為により解決をはかったことは、まことに遺憾のきわみであります。かつては日本に対し理解と同情を持った友好国である貴国及び貴下に対し、経済的にまた外交上の善意を通じて、その民族的解放のために、さらに理解と友情をもとめることに出発したならば、必ずや新しい国際的理解のうちに、この問題を解決することに努力されたであろうことを、私は確信しているのであります。しかるに直接戦闘行為によって解決をはかった当時の軍部と、それに支配された政治家に対し今日なおわれわれは憤怒を禁じ得ないものがあります。

 特に一九00年の日露戦争(*日露戦争は1904年−明治37年−2月-から1905年9月まで)に際し、貴国がとられた日本への有形無形の援助と友情は、いまなおわれわれの記憶に新たなるものがあります。

 われわれの国民の大部分が、敵意と数々の罪の中において、なお、人間性の正しさと反省を忘れなかったことを認識願いたいのであります。

 その証拠には、貴国に移住して成長したわれわれの同胞は、貴国と貴下の命に従って、おのおのその責任と義務につき、しかも貴国の旗のもとに、勇敢に行動し、民族を超越した友愛の精神を持って行き抜いたことを、忘れないでいただきたいのであります。

 また貴国の駐留軍に対し、日本の国民が、再び軍部が犯した罪を犯すことなく、民族の善意と勤勉をもって努力し、かつ国家の再建を進めたことは、貴国の将兵が最初に抱いた悪感情と、その敵対意識をして美しい日本の風土と、国民の知性と、平和を希求する大多数の者の意思と協力によって、いかに本意せしめるに役だったかを実証しているではありませんか。

 日本の占領行政が行われた際に、多少の不手際と認識不足による誤りと、相克を来したとはいえ、貴国の将兵と、われわれ国民の間に、愛と友情と、さらに深い親近感が発達したことを、占領当初において認識せられていたならば、貴国の東洋政策には一大変化があったことと思います。

 これが最も好ましい国民外交のきずなとなり、一片の言葉をもって断ち切ることのできない、強い友情となったのであります。

 かくして貴国と、貴国民が世界人類の上に持つ平和への良心と、神の愛と、正義を、いかに高く日本国民が信頼し、尊敬し、かつその民主主義の伝統が日本の政治に改革をもたらし、文化の中に実践されているかを貴下はすでにご承知と存じます。

 私が特に強く貴下に訴えんとするところは、日本の海軍部隊が、貴国の戦闘員と軍事施設に加えた不意打ちの攻撃に対して、早期終結を目的に、原爆使用を決意されたものならば、何故人類と文明を破壊する如き方法手段を避けるだけの良心をもたれなかったか。

 無警告に戦闘を行った者への報復として、広島の非戦闘員、二十数万の老若男女を殺戮する暴挙を行いながら、これを合法化せんとする貴下の態度を、あえて人道的行為と考えられますか。貴下のかかる回答こそ支配者が被支配者に対する劣悪なる植民地政策的感情によるものであると極言されても、一言の抗弁もできないと思う。

 これが憲法をもって戦争を放棄し、平和都市法のもとに復興再建を行いつつある広島市民に対する貴下の正しい言葉であると考えられますか。

 非戦闘員の殺戮は、いかなる理由によって合法化するともそれは決して平和への良心とならないのみか、これこそ国際法を裏切るものであります。国際法に勝者が敗者のみを罰せよと書いてありますか。原爆を製造した貴国が、その威力を熟知し、またその恐るべき破壊力をも当然予測されていながら、人類史上最初にして、しかも最大なる残虐行為をあえて行った犯罪が、勝者なるがゆえに許されると思われますか。この国際法上の明らかな犯罪をかつての歴史的いきさつや、真珠湾の軍事基地攻撃の名において、正当づけ、合法化させようとする貴下の言動は許されません。

 日本の、一部軍人がとった、国民大多数の意志に反する暴挙に対しては、それぞれ責任者は処刑されているではありませんか。

 当時、広島市民が持っていた数百億余の重要な資材と家庭の財賀は、ことごとく灰燼と帰し、四百万坪はただ死屍の街になったのです。
 広島市内九万、全国で二十七万の原爆の傷をうけた生存者は、十三年の今日なお、たれもが病患を不治と考え、たれもが医療の完全性を期待できずして、死んできつつあります。

 私がこうして貴下に抗議申し上げている瞬間にも、日本のどこかで、あるいは広島市内のどこかで、あるいは原爆病院のベッドの上で、誰かが死んでいく事実をどうお考えですか。

 この暴挙に対し、貴下はなんら良心の呵責を感ぜず、今後もさらに水爆を使用することは確実であると言われますが、この貴下の言葉を、われわれの信頼する、米国の指導者の良心であると断じてよいでしょうか。

 私はいま、静かに犠牲者の霊の冥福を祈りつつ、一切を失って生き残った、広島市民の悲惨な生活を思うとき、貴下の回答が、いかに残酷、かつ不誠意きわまるものであることを訴え、反省を促すものであります。

 願わくは、これが今日までわれわれがアメリカ国民に寄せている、信頼と友情を破壊することなきよう憂うるものであります。

 しかしながら広島市民は、貴下のとった暴挙に対し、なおかつ寛容にこれを許し、貴国がこの過ちを再び繰り返すことのなきよう広島市民の苦しみと、犠牲の名において、今後世界のいずこにおいても、決して原子兵器を使用させないことを願い、終戦の翌年の原爆記念日には、爆心地の市民大会において、平和宣言を行っているのであります。

 原爆の翌年、私どもがみずから主催者として行った平和宣言は、電波を通じてその翌日、全世界に報道され、しかも、広島市民はけなげにも立ち上がって平和都市建設に第一歩を踏み出したのであります。

 この平和宣言を通じて、世界に呼び覚まし続けつつあるものは、一日も早く、打ち建てられるべき人類の永遠の平和であります。

 私ども広島市議会は、これを『広島決議』とし、あらためて宣言するものであります。

 私が広島市議会の議長として昭和二十四年マッカーサー司令官の承認と、国会の決議及び広島市民の住民投票を通じて成立した『広島平和記念特別都市法』は、人類平和のメッカとして、世界の広島を建設することにほかなりません。

 私は、今日もなお貴国に対し、過去現在における数々の援助と、さらにその未来に対しても、感謝と尊敬を持ち、この平和都市建設の市民感情をして、正しく正常に進めることにつき努力しつつあります。

 貴下がかかる事実を理解なく、貴国民並びに世界に呼びかけられた討論の内容と回答を見るに及んで、以上の気持ちを率直に表現し、再び抗議を申し上げ、書簡に対する返書とし、貴下の理解と回答を求めるものであります。

 昭和三十三年三月二十日
 広島市議会議長 任都栗 司

 以上申し上げました内容を英訳いたしまして、これをできるだけ速やかにトルーマン元大統領への返書として送りたいと存じます。

 何とぞ理解ある協賛を得たいと存じます。
 
 (拍手)

副議長(堀江守君): ただいまの任都栗市議会議長の声明をご承認願いたいのでございますが、御異議ございませんか。

 (「異議なし」と呼ぶ者あり)

副議長(堀江守君): 御異議なしと認め、さよう取り計らいます。