(原文:http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/small/mb11.htm)


陸軍省長官声明


 本日大統領から発表のあった、日本に対する原爆の使用は、軍当局、科学、産業三者が協力して何年も続けてきた超人的努力が、その頂点に達した結果である。
 数千もの参加者の最大限のエネルギー、極めて高い国家への義務感、工程遵守への気持ちなどからもたらされたこの開発は、科学、産業、労働力、そして軍が一緒となった、恐らくは歴史上最高の業績であろう。

 この軍事兵器は実に幅広い仕事から生み出された製品群から作り出されており、想像を絶するほどの爆発力を持っている。これからの改良は極めて短期間に達成されようし、また現在の効率を持ってすれば、改良は加速度的に進むであろう。しかしながら最も重要なことは、長期的に見るなら、相当な研究開発を経てこの兵器が全く新しい激震をもって進化の可能性を持っていることだ。科学者たちは、数年にわたる原爆開発の機関を経て、現在すでに手にしている原子爆弾が、よりはるかに強力なるだろうことに自信を持っている。アメリカ合衆国の現在の形での原爆保有ですら、対日戦争の終結を早める大きな助けになっていることは火を見るより明らかだ。

 保安への要求の観点から見て、原爆を製造する方法そのものやその機能原理を明らかにすることは現在の所、許されない。しかし、国家の安全を脅かさないかぎりで、国民全体に情報を開示するという政策に従って、陸軍省としては戦争終結を早めるため極めて効率的に開発されたこの驚異的な兵器について、現在のところで許される限り、また多角的に、明らかにしたいと考えている。付帯した声明では、この計画の科学的ならびに製造上の見地から色々な情報が明らかにされようし、またこの兵器を実現可能とした科学者、技術者、産業人、労働力についても明らかにされよう。

 原爆を生み出し得た一連の科学的発見は、20世紀が始まる時点で放射能が発見された時に始まっている。1939年までは、この分野での仕事は世界中で、特にアメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、デンマークなどの諸国で続けられていた。

 ヨーロッパの灯が消えるまで、また戦争の進行によって、安全上の規制を余儀なくされるまで、アメリカをして原爆を実用化に至らしめた原子力エネルギーの基礎的知見は、連合国、枢軸国を問わず多くの国に広く知られていた。しかしながら、戦争はこの問題に関する科学的情報交換を終わらしめた。ただし合衆国、イギリス、カナダ間は例外であった。この分野におけるその他の国々の状況は、よく分かっていない。しかし、日本がこの戦争期間中に原爆を使用できる立場にないことは断言できる。ドイツがそのような兵器の開発に熱心に取り組んでいたことはよく知られている。が、今回の敗北と占領によって、そのような危険は根元から取り除かれた。戦争が始まった時、そのごく近い将来に置いて、戦争目的の原子力エネルギーが開発されるだろうということは明らかだった。問題はどの国がその発見を支配するかであった。

 アメリカの科学が戦争へと動員された時、多数のアメリカの科学者が、この肥沃な新しい分野での科学的知見へ、その限界に向かってなだれ込んでいった。
ヨーロッパで戦争が始まったときにはすでにイギリスで原子核の分裂に関する研究が進歩していた。アメリカとイギリスは、軍事上の重要事項に関するいろいろな科学的研究事項と共に、この面での研究情報を共同利用する体制ができており、イギリスでの調査とアメリカでの研究を密接に連関させ続けた。その後ルーズベルト大統領とチャーチル首相の間で、この計画をもっとも早急かつ効率的に成果を出させるために全ての研究をアメリカに集中し、そうすることによって緊密な共同研究を保証し、また同じことの同時並行作業を避けることで合意を見た。この結果1943年の後半には、この問題に関わってきたイギリス側の科学者がアメリカに移転し、その時以来彼らもアメリカで計画進展に参加するようになった。


U
 1939年の遅く、原子力エネルギーの軍事的利用問題がルーズベルト大統領の関心を引くようになった。大統領は問題調査の委員会を任命した。海軍の資金を使って行われてきた小規模の研究は、各種の科学的委員会の勧告に基づいて全面的基盤に拡張された。1941年の終わりには、全面的な研究体制への移行が決定され、科学研究開発局(the Office of Scientific Research and Development-OSRD)の下に、著名なアメリカの科学者グループが指示し、全ての計画がOSRDとの請負契約下に移行した。OSRDの局長、バニーバー・ブッシュ博士は直接大統領に報告を上げることとなった。その間、ルーズベルト大統領は、全体政策グループを発足させ、ヘンリー・A・ウォーレス元副大統領、ヘンリー・L・スティムソン陸軍長官、ジョージ・C・マーシャル陸軍大将、ジェームズ・B・コナント博士、ブッシュ博士を任命した。1942年6月には研究の大幅拡大と主要な部分の陸軍省移管を勧告した。陸軍省長官は、レジール・R・グローブズ少将をこの計画全体の執行責任者に任命、報告を直接陸軍省長官と参謀総長に上げる体制を敷いたのである。計画を軍事的見地から検討し続ける目的で大統領全体政策グループは、軍事政策委員会を発足させ委員長をブッシュ博士、コナント博士を代行としてウルへルム・D・スタイヤー陸軍少将、ウイリアム・R・パーネル海軍准将を委員とした。この委員会は、原材料の開発生産、原子核分裂爆弾そしてその兵器としての使用など、計画に関連した軍事政策の検討・企画立案全体に責任を負っていた。

 依然として、爆発物質生産方法に関する理論上の諸問題が未解決のままだったが、時間的制約からくる大きな圧力があったため、1942年12月、大規模な工場建設の段階に進むことが決定された。2つの大規模工場がテネシー州クリントン技術工場内に置かれ、3つ目の大規模工場がワシントン州ハンフォード技術工場内に置かれた。こうした早期の段階で、大規模工場建設に踏み切ったのは、もちろん一種の賭であった。しかしそれは戦争における必要不可欠なリスク算定というものであり、そのリスクは回収できている。

 クリントン技術工場は、テネシー州ノックスビル市から西に18マイルほど離れた連邦政府所有地区内に5万9000エーカーの敷地を占めた。この広いこと、また孤立していることと言う立地条件は、未だ知られざる危険や障害を考慮すれば、保安上も安全上も必要であった。オークリッジという名前の連邦政府所有運営の新しい都市が、そこで働く従事者を収容するために連邦政府所有地内に建設された。人々は、相応の住宅、寄宿舎、仮兵舎、トレーラーなどで通常通り快適に暮らし、そこは宗教施設、レクレーション施設、学校、医療機関、その他必要な施設を備えた近代的小規模都市であった。オークリッジは総人口約7万8000人。建設労働者、工場操業従事者とその直近の家族より成り立っている。その他の人々もすぐ隣接した回りに取り巻く地域に居住した。

 ハンフォード技術工場は、ワシントン州パスコ市から西北に15マイル離れた連邦政府所有地内に43万エーカーを占めた。ここでは連邦政府所有運営になるリッチモンドという町が作られ、約1万7000人が居住した。工場運営従事者とその直近の家族よりなる。テネシー州におけるのと同様、保安上また安全上の考慮から孤立した地区に設置している。リッチモンドにおける暮らしの状態もオークリッジと同様である。

 効果的爆弾と密接に関連した部品に関係する技術的諸問題を取り扱うために特別研究所が、ニュー・メキシコ州サンタフェ市の地域内で、孤立した地区に立地している。この研究所はJ・ロバート・オッペンハイマー博士が計画、組織化し自ら采配をふるった。原爆そのものの開発は、彼の天才と着想、それに彼の同僚たちへのリーダーシップに大きく負っている。

 規模に置いて小さいその他の工場は、必要とする原材料の基本的な生産・製造を目的として、合衆国内及びカナダにあった。計画に必要な特殊機器、原材料、処理装置などを開発したり研究するのに大きく貢献した研究所は、コロンビア、シカゴ、カリフォルニアの諸大学内、その他の学校内、あるいは民間企業の研究所内に置かれた。またカナダには研究所が置かれ、そこでは原材料生産製造のための試験工場が設置された。この研究は合衆国とイギリスの適切な現地支援とともに現在カナダ政府に引き継がれている。

 この文書のスペースの関係で、計画の成功に大きく寄与した産業界の企業をすべてリストするわけにはいかないが、いくつかは触れておかないわけにはいかない。デュポン・ド・ヌムール・カンパニーはワシントン州ハンフォード工場の設計建設とその運営を担当した。ニューヨークのM・W・ケロッグズ・カンパニーはクリントン工場の設計をし、そのクリントン工場はJ・A・ジョーンズ・カンパニーが建設し、ユニオン・カーバイド&カーボン・カンパニーが運営した。クリントン第二工場はボストンのストーン&ウエブスター・エンジニアリング・コーポレーションが設計建設をし、テネシー・イーストマン・コダック・カンパニーが運営した。装置機器類についてはほとんどアメリカの全ての主要な企業が供給した。代表的なところではアライド・ケミカルズ、クライスラー、ジェネラル・エレクトリック、ウエスティングハウスなどである。大企業、小企業を取り混ぜてこれらは文字通り、計画成功に貢献した何千もの企業のほんの数例である。この兵器開発の成功に与って力のあった産業界の貢献を詳細に語ることのできる日がやってくることを希望する。

 これら具体的な業績の背後にはアメリカの科学の大きな貢献が横たわっている。我が国の科学者が国家利益のためになした完璧な献身、輝かしい業績、惜しみのない努力はいくら賞賛してもしすぎと言うことはない。世界中のどこを探しても、科学がこれほどの成功を収めた例を見出すことができない。この計画の成果をもたらした科学に従事した人々は、実に効果的に産業界ならびに軍部当局と協力し、その功績は国民全体から最大限の賛辞をもって迎えられるべきである。

 陸軍省に置いては、計画の成功に関する責任はレジール・R・グローブズ少将との関連において語られるべきである。かくも短期間に我が軍事力にこの兵器の効率的開発を保証したグローブズ少将の手腕は実にめざましいものであり、極めて大きな賞賛に値する。


V
 計画のごく当初から、最高限の機密と保安手段がこの計画を取り巻いていた。これはルーズベルト大統領の個人的な命令でありまたその命令は厳格に守られた。研究は完全に分割・分業で進行し、そのため何千もの人々がこの計画に関与しながらも、その関わり方は縦割りで、またその仕事にどうしても必要な情報しか供与されなかった。その結果、政府内でも科学者内でも最高位に属するほんのわずかな人間しか、その全体観がつかめなかった。もちろん、これだけ大きなプロジェクトだから人々の好奇心が大きくなってくるのは避けがたいことだったし、一般市民が議会に対して問い合わせを出すことも避けがたかった。そのような状況でも、米議会のメンバーは、詳細な情報の公表を軍事上の保安の観点からあえて避けている陸軍省の声明に対して好意的信頼を寄せた。

 基金の予算化の問題に置いては、議会は陸軍省長官と参謀総長の、予算は国家安全のためには絶対に必要とする保証を受け入れた。陸軍省は、その信頼が決して間違ってはいないということに議会が合意することに確信をもっていた。と言うのは議会が、1945年6月30日現在で19億5000万ドルにものぼるこの計画に必要な予算を精査することは不可能だったからである。この予算は、計画全体の潜在的拡張性にあわせて根拠を持つため、時に応じ各進行段階に会わせて。高度に選別された科学者とほんの一握りの産業人が見直しをしてもいた。

 アメリカの新聞やラジオは、その他で見られるケース同様、検閲局( the Office of Censorship)の要求に誠心誠意応え、この話題のいかなる段階に置いてもその報道を抑制した。


W
 この計画をできるだけ早急に結実させるため、1943年8月合同政策委員会が設立された。メンバーは次の通りである。ヘンリー・L・スティムソン陸軍長官、バニーバー・ブッシュ博士、ジェームズ・B・コナント博士(以上合衆国):元帥ジョン・ディル卿、J・J・ルーリン大佐(以上イギリス側。ルーリン大佐は1943年12月ロナルド・I・キャンベル卿と交替。キャンベル卿はエリファックス伯爵と輪番。またジョン・ディル卿は1945年早々に元帥アンリ・ミットランド・ウィルソン卿と交替):C・D・ハウ氏(以上カナダ側)。委員会は各国間の幅広い指示について責任を負った。情報の交換については一定の制限の中で行われた。科学的研究開発の分野は、それぞれの分野同士では完全な情報交換を行った。大規模工場の設計・建設・運営の案件では、この戦争での実戦使用で、核兵器の完成が急がれる場合にのみ情報交換が行われた。全ての調整は合同政策委員会の下に置かれた。科学者顧問団は以下の通りであった。リチャード・C・トルマン博士(アメリカ)、ジェームズ・チャドウィック卿(イギリス)、C・J・マッケンジー学部長(カナダ)。

 この驚異的な兵器が敵の手中に落ちないことを確かにするため、この分野の特許について速やかな行動を起こすこと及び製造過程に置いて欠かせないウラン原石の統制を確実にすることなどは早くからの了解事項だった。アメリカ、イギリス、カナダでかなり部分の特許統制が達成された。それぞれの国で、研究に従事する全ての人間は、科学分野に置いてであれ産業分野に置いてであれ、
その発明・発見に関わる全ての権利をそれぞれの属する政府に帰属することを確認した。一つの発明・発見が行われた場合、それぞれの国でなされた割合に応じて、相互に交換し合う調整も行われた。このような特許権、利権、名義は相互交換が行われたが、相互に満足のいく条項ができるまで信託に付された。また全ての特許権活動は、この計画の保安のため必要とされる全ての安全保護条項で周囲を固めた。原子核分裂科学発展の現段階では、ウラニウムが核兵器製造に置いて基本的原鉱石である。この鉱物資源の適切な供給体制が、今一歩一歩整備されつつあるし、これからもそのステップは整備されて行くであろう。


X
 平和が到来すると、まだ開発がほとんど手つかずの原子核分裂平和利用は、われわれの文明をさらに豊かにすることが大きく約束されている。しかし必要性から戦争優先となっており、この新知見を平和利用しようという全面的な探索は今除外されてしまっている。しかしながら現在時点で手中にしている確証からみて、もし世界情勢が科学と産業がこの観点に集中できる暁には、人類の幸福にこの新しい知見が大きく有益な貢献をなすであろうことは、ほとんど必然的と言っていい。

 原子力エネルギーが原爆に置いて極めて大規模なエネルギーを解き放っている事実から見て、平和産業目的でこのエネルギーを利用できると観点からの課題が提起されている。すでに要素の一つを製造している中で、大量のエネルギーが、爆発という形でなしに、調整された量として放出されている。しかし、このエネルギーは、従来型の発電所で実用的に運用するのは温度が低すぎる。
 原子力を有用な力として転用していくための機器・装置類の設計は、これからの更なる研究開発の問題である。どれくらいの時間がかかるのかは誰にも分からないが、数年以内のことであることは間違いない。さらにまた、我が国や他の諸国で産業界の基本的動力源として使われている水力、石油、石炭を補完する動力源として原子力がどれほどのものかを論じる前に、経済的見地からの検討も必要である。われわれはまだ開発するのに多額の資金と何年もの時を必要とする新しい産業技術の門口にたっているにすぎない。

 戦争前からこの課題に関する知識と関心が幅広く行き渡っていたため、長期にわたる秘密保持政策によって、この知識に内在する危険性を排除するわけにはいかない。またこのような考察を念頭に置きつつ、核兵器の統御に関する課題を提起するこのゆゆしき問題と同時に世界の平和のための科学が仄めかしていることも念頭に置きながら、大統領の承認の元に、陸軍長官は、こうした諸問題を検討する暫定委員会(Interim Committee)を任命した。メンバーは次の通りである。陸軍長官―委員長、現国務長官ジェームズ・F・バーンズ閣下、前海軍次官A.バード閣下、国務次官補ラルフ・クレイトン閣下、科学技術研究開発局長バニーバー・ブッシュ博士(ワシントン、カーネギー協会理事長)、国家防衛委員会委員長ジェームズ・B・コナント博士(ハーバード大学学長)、現業科学技術研究開発局長カール・T・コンプトン博士(マサチューセッツ工科大学学長)、陸軍長官特別顧問ジョージ・L・ハリソン氏(ニューヨーク生命保険会社社長)。ハリソン氏が委員長代行である。

 この委員会は、戦後アメリカが行う、この分野における全面的研究開発を統括管理する機構及び軍事的利用に関して大統領に対する勧告を形成することに責任を持つ。また、アメリカの国内外での統御問題に関しても大統領に勧告を行う。委員会はこれら問題の検討にあたって、マンハッタン計画に関与している科学者の見解からその有益性を獲得することもできた。これらの見解は、マンハッタン計画に主要な立場で関わっている科学者からなる顧問団からもたらされた。この顧問団はJ・R・オッペンハイマー博士、E・O・ローレンス博士、A・H・コンプトン博士、エンリコ・フェルミ博士から構成される。委員会はまた、計画の生産・製造段階において直面する多数の問題と密接に関連する産業界の代表者たちにも諮問をおこなった。あらゆる努力が、この兵器と新たな科学の分野―その背後では平和愛好国家と世界の幸福を確かなものとする利益を賢明にも取り入れることが必要なのだがーの保障に向けて注がれているのだ。