(2009.5.6)

<参考資料> スティムソン・ドクトリン

1932年1月、アメリカ国務長官ヘンリー・ルイス・スティムソンは、いわゆる「スティムソン・ドクトリン」を発表した。調べて見るとインターネットの世界では、このスティムソン・ドクトリンを日本語でまともに説明した文書がない。わずかに、日本語Wikipediaで、<満州事変>の項目中にスティムソン・ドクトリンを以下のように説明している。

アメリカの国務長官スティムソンは、1932年(昭和7年)1月7日に、日本の満洲侵略による中華民国の領土・行政の侵害と、パリ不戦条約に違反する一切の取り決めを認めないと表明し、日本と中華民国の両国に向けて通告した(いわゆるスティムソン・ドクトリン)。中華民国政府はもちろん、イギリスなどヨーロッパ諸国も、消極的ながら賛成した。しかし、日本はこれを「認識不足」だとして拒絶した。』

<http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E6%9D%A1%E6%B9%96%
E4%BA%8B%E4%BB%B6#.E3.82.B9.E3.83.86.E3.82.A3.E3.83.A0.E3.82.
BD.E3.83.B3.E3.83.BB.E3.83.89.E3.82.AF.E3.83.88.E3.83.AA.E3.83.B3>


 しかし、このドクトリンの意味を考えて見る時、いかにも不十分だと思える。そこで、英語で読めるインターネットの世界から、幾つかピックアップして訳出することにした。
文中(*青字)があれば、それは私の注釈である。




「スティムソン・ドクトリン」(The Stimson Doctrine)
引用元:<http://courses.knox.edu/hist285schneid/stimsondoctrine.html>

 最初はアメリカイリノイ州ゲールスバーグにあるノックス大学のWebサイトからの引用である。<http://courses.knox.edu/>。ノックス大学は1830年代に創立された由緒ある大学のようだが、学生数約1400人と小規模大学である。小規模の割には世界中から学生を集めており、日本語科、日本研究コースもある。この文書は大学の授業で使っている教材のようなものらしい。スティムソン・ドクトリンの原文、それに対する日本政府の回答英語原文なども網羅しており、一次資料扱いができるかと思う。以下本文である。

 1931年(*昭和6年)から政権末期の1933年まで、ハーバート・フーバー大統領の政権は、満州問題の悪化に何とか対処しようと試みた。最悪の経済恐慌に直面し、底なしのぬかるみに足下を奪われていたアメリカは、軍事行動をおこすよりもむしろ道義的勧告(moral suasion)でこの問題に関与しようとした。フーバーは極東における選択肢は極めて限られていることを発見したのである。

(* この記事の書き手、多分、ノックス大学の教授と思うが、にとって余りにも自明なのでこの中で提出されていない疑問がある。それはアメリカが何故、満州問題の悪化に対処しなければならなかったのかという疑問だ。それは、大きく言えば中国という巨大な市場をめぐる覇権争いだったからである。アメリカは、蒋介石国民党政権を支持し、擁立する形で、中国市場を自らの中に取り込みたかったのであり、日本は軍事力で中国市場を手中に収めたかったのである。)


 彼は(*フーバー)は、その性質上、日本に対する武力行使の可能性に尻込みし、この問題が困難性を増していくことに対して、別な方法を選択しようとした。アメリカはアジアの戦争に対して軍事的に準備していなかったし、フーバーは、好戦的な姿勢(*Bellicose posture)は日本が満州地域の限定を越えて、日本が行動を起こしていく導火線になることを十分認識していた。これは第一次世界大戦に伴う幻滅感なのであり、またアメリカがこの地域で武力を行使しない傾向にあったのは、この地域がアメリカにとって余りにも遠隔地であり、明らかにそれほど重要ではなかったからである。すでに、スムート・ホーリー関税法(Smoot Hawley Tariff Act)(*大統領が)署名したことによって海外との商取引を台無しにしたとの批判もあり、フーバーは日本に対して輸出入禁止措置をとることによって、外国貿易にそれ以上の水を差すこともしたくなかった。

(* スムート・ホーリー関税法。日本語Wikipedia<http://ja.wikipedia.org/wiki/スムート・ホーリー法>が簡潔な説明をおこなっている。1930年6月に成立した法律であり、20,000品目以上の輸入品に対して、平均40%以上の関税をかけるという法律で、事実上アメリカの輸入は半減した。事実上の輸入禁止措置に近い。1920年代共和党政権がとってきた保護貿易主義の仕上げをなすようなもの。ここの記述は、この法律が各国の保護貿易主義をさらに促進し、世界貿易を萎縮させ、大恐慌からの脱出を遅らせることになっていることに対する批判が高まっていたことに言及したもの。)


 国務長官ヘンリー・ルイス・スティムソンは、満州においてフーバーよりもっと断固たる立場をとろうとしていた。そして1920年代共和党の外交政策を支配していた考え方、すなわち道義的勧告を行うことによって、最後の努力をひとつなそうとした。1932年1月7日、彼は後に「スティムソン・ドクトリン」として知られる書簡を中国と日本に送った。ケロッグ条約侵犯をもたらすような一切の変更を認めない政策である。

(* ケロッグ条約。ケロッグーブリアン条約が通常の呼称。不戦条約とも。日本語Wikipedia<http://ja.wikisource.org/wiki/戰爭抛棄ニ關スル條約>または<http://ja.wikipedia.org/wiki/不戦条約>を参照のこと。1928年8月パリに列強―米、英、仏、ドイツ、イタリア、日本などーが集まり、国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄し、紛争は平和的手段により解決することを規定した条約に署名した。その後ソ連なども参加し、合計63カ国が署名した。この条約批准時、日本は、田中義一内閣が辞職し、濱口雄幸内閣が成立していた。外務大臣は幣原喜重郎である。幣原欧米協調外交が最後の輝きを見せた時でもあった。この不戦条約は、スティムソンの前任国務長官、フランク・ケロッグとフランス社会党の重鎮で当時外務大臣であった、アリスティード・ブリアンの間の2国間交渉で始まったところから、ケロッグ−ブリアン条約と呼ばれる。上記の文章では、the Kellogg Pactと呼んでいる。)


 日本の反応は2重の要素をもっていた。(twofold)外交的には日本は不戦条約の精神の堅持を主張した。軍事的には、日本は戦争を上海に拡大することによって、国際連盟とアメリカが示した平和的解決案を無視した。上海の戦闘(*32年の上海事変のこと)は1月に勃発しており、相当な数の外国人の人々にとっては脅威だった。挫折感から、スティムソンは、共和党の上院議員で上院外交関係委員会の委員長であり、強硬な孤立主義者ウイリアム・ボラーに長い手紙を送り、その中で、スティムソンは骨身惜しまず門戸開放政策の進展や10年前にワシントンで到達した国際合意について詳述している。この手紙は、スティムソンによって公表され、当時のアメリカの政策に関する詳細な論述となった。

(* ウイリアム・ボラー。William Borah
<http://en.wikipedia.org/wiki/William_Borah>。「アイダホのライオン」のあだ名がある。10年前ワシントンで到達した国際的合意というのは1921年=大正10年のワシントン会議を指すものだと思われる。この時海軍軍縮条約が締結されたが、それよりも重要なのは、中国関税条約や9カ国条約である。日英同盟の終了し、中国関税条約=一律従価5%関税、付加税2.5−5%を認めたほか、9カ国条約で、アメリカの「門戸開放」の主張に沿って中国の主権尊重、領土保全、列強の機会均等で合意した。9カ国は日米英仏伊中ベルギー・オランダ・ポルトガル。山東懸案の解決し、中国利権は日英の独占から門戸開放への原則で合意された。)



スティムソン、ドクトリン発表

 ワシントン、1932年1月7日

 次の書簡をできるだけ速やかに、貴国政府の代わりの外国駐在事務所に伝達を乞う。

 錦州における最近の軍事作戦により、1931年9月18日以前に存在し、南満州における中華民国政府の最後に残っていた現地当局は壊滅させられました。アメリカ政府は、日本と中国の間にある諸困難の種を究極的に解決すべく推進している国際連盟理事会によって、最近承認された中立的介入努力について引き続いて自信をもってはいます。しかしながら現下の情勢およびその中にある諸権利及び諸義務に鑑み、アメリカ政府は、日本帝国政府と中華民国政府の双方に対して、以下のように通知することが義務であると勘考しております。すなわちー。

 アメリカ合衆国の条約上の諸権利あるいは中国におけるアメリカ市民の諸権利、これには主権あるいは独立、中華民国の領土的あるいは行政的統一性などを含み、一般に門戸開放政策として知られる諸権利のことを指していますが、を損なうような両国政府(日本政府と中華民国政府のこと)あるいはその仲介者によるいかなる条約や合意を認めることはできませんし、既成事実によって作られたいかなる状況の合法性も承認することはできません。また1928年8月27日に締結されたパリ平和条約(*The Pact of Paris=不戦条約のこと)、これは中国も日本もアメリカも締結国でありますが、の定める義務及び盟約に反するいかなる状況、条約、合意も承認する意図はありません。

(* スティムソンはこの書簡の中で、既成事実の積み上げによる、一切の領土的変更や中国の主権上の変更を認めないといっている。その際スティムソンがあげる根拠は大きく2つある。一つは1928年のパリ不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約)である。もう一つは1921年11月ワシントン会議において締結された9カ国条約である。9カ国条約では、帝国主義列強の「中国市場への門戸開放」の原則が定められた。しかしこの2つは実は一つの根拠として捉えることができる。パリ不戦条約は、帝国主義列強が、帝国主義的領土分割、市場分割を行うに当たって、戦争という暴力的手段を採らないようにしようというという取り決めに他ならない。それは帝国主義的侵略をもっと別な手段で行おうとする合意に他ならない。(それでも第一次世界大戦の戦禍をみれば大きな進歩ではある。)このパリ不戦条約の精神を、「中国」という特殊な地域に当てはめた条約が、9カ国条約であり、その中心を貫く精神が「門戸開放」すなわち「機会均等」ということになる。もちろん、「機会均等」は、当時の情勢に当てはめてみれば、第一次世界大戦の唯一実質戦勝国であり、資本と工業力において圧倒的に優れたアメリカに有利になる政策であった。スティムソンというキャラクターを考える時、かれが「良心的な人道主義者」「法の支配の信奉者」である側面と「アメリカ帝国主義の忠実かつ有能な指導者」である側面とを見落とすべきではない。この2つの側面が彼の内部で激しく対立したのが後の陸軍長官時に見せた「原爆」に対する激しい葛藤だろう。)



スティムソンに対する日本の回答

 駐日アメリカ大使(フォーブス)から国務長官へ

(* この時駐日アメリカ大使は、William Cameron Forbesだった。フォーブスはベル電話会社=AT&Tの前身、の社長だったWilliam Hathaway Forbesの息子であり、自身投資銀行家だった。駐日大使は1930年―32年=昭和5年―7年。
<http://en.wikipilipinas.org/index.php?title=William_Cameron_Forbes>

 東京、1932年1月16日

 私は日本政府からの回答を受け取りました。それは以下にて読めます。

 ・・・日本政府は合衆国政府が、戦争の非合法性(*Outlawry of War)を謳ったケロッグ条約及びワシントンにおける諸条約の全ての詳細について完全かつ全般的に保障しようとする日本の努力をアメリカ政府がその全ての力をもって支持していることを良く承知しております。この事実を追加的に保証されたことは喜びに堪えません。

 閣下が特に触れられた、いわゆる「門戸開放政策」に関して言えば、日本政府は、しばしば指摘されている如く、極東の政治において主要な特徴をなす政策だと見なしております。また中国を通じて明らかになった不安定な情勢によって、その効力が深刻なまでに失われていることを残念に思っています。彼ら(*They)が門戸開放政策を保証する限りにおいて、門戸開放政策は満州および中国本土において(*China proper)、常に維持されるでありましょう。

 彼ら(*They)は、アメリカ政府によってなされた声明の後半部分、すなわち、1928年8月27日の[ケロッグーブリアン]条約に反する手段によってもたらされるかもしれない、あるいはアメリカ合衆国あるいはアメリカ市民の条約上の権利を損なうかも知れない非合法な事柄を承認しないとする部分に注意を払っております。現下の情勢で必要にして執られた手段が不適切であるかどうかまた安全保障に終止符を打つものであるかどうかは、学問的疑義に属するものであるかも知れません。日本は不適切な手段を執る意図はありませんので、そのような疑念は事実上発生しません。

 中国に関連する条約は、中国において、時にして明らかになる事柄の状況に応じて適応されねばならないということも付け加えなければならないかも知れません。また現在の中国における不安定かつ混乱した状態は、ワシントン条約が結ばれた時に、条約原締結国が熟慮したものではない、ということも付け加えた方が良いのかも知れません。その時、それ(*前後の文脈からして熟慮のことと思われる。とにかくこの日本側の回答文は婉曲的であり、遠回しな、仄めかしに満ちており、日本語に訳するのに苦労する。)は明らかに不十分なものでした。そこには現在みられるような敵愾心とか分断は明示されていませんでした。これは諸条約の明示事項やそこに込められた性格に影響を与えることはできません。しかしながら、現在それらがおかれた事実の状態に鑑み、当てはめてみることが必要なわけですから、もしかしてそれらの応用を試みることが必要かも知れません。

 私の政府(*日本政府のこと)は、満州における政権人事で発生している入れ替えは現地の住民とって必要な行為であったことを、指摘したいと思います。もしかりにそれが敵対的占領であったにせよー事実はそうではないのですがー、それは現地の政府高官にとって、その機能を維持する習慣的な行為なのです。現在の場合は彼らは辞任するかあるいは逃げ出しているのですが、それは政府諸機関の働きを破壊すると思量される彼ら自身の態度なのです。日本政府は、他のすべての人たちとは違って、現在の高官たちに見捨てられた時、文明的な状態を保証するに際して、中国の人たちが、かれら自身の自決の力や組織する力に乏しいと、考えることはできません。

 繰り返すまでもないことですが、日本は満州にいかなる領土的目的や野心を持つものではありません。しかし、閣下もご承知のように、満州の安全と福祉及び商取引一般の到達性は、日本の人々にとって極めて重要であり、極めて深甚な利益の問題であります。アメリカ政府にとって、すでに一度ならず示されているように極東における問題については、緊急の課題であります。現在の分岐点において、われわれの国家政策の存在が深く関わっている時、アメリカ政府が、現在の状況をより評価していただけるような地道な配慮を含む友好的な精神に邁進していただけるようであれば、合意は確かなものなりましょう。

(* この日本側の回答は、英語で読むと極めて回りくどい、わかりにくい意味の通じにくい文章だ。満州事変の発端になったのは、1931年の柳条湖事件である。日本軍はこれを中国側の仕業と断定し、ただちにこれを口実として全満州を占領した。実際にはこの事件は日本軍が仕掛けたものだった。謀略というのも憚られるほど、露骨な軍事侵略政策だった。当時満州は蒋介石国民党政権のもと、奉天張学良政権が中国側統治主体だった。奉天張学良軍は、装備の上でも勢力の上でも国民党軍随一の精鋭軍だった。しかし張学良は蒋介石の強い指示に従い、満州進攻をおこなう日本軍に対して軍事的敵対行動をとらなかった。蒋介石はこれを国際社会の問題として提起すれば、日本軍を抑えられるという計算があった。しかし、当時の国際連盟は、現在の国際連合と比較して、この問題を処理するには余りにも力がなさ過ぎた。日本軍の行為は、法的には、スティムソンが指摘するまでもなく、パリ不戦条約違反であり、9カ国条約違反である。この回答文の中で、日本はウソをついている。すなわち不戦条約を尊重する、という箇所である。また中国侵攻の理由を中国側の敵対行為のせいにしている。中国については自分たちの方が良く分かっている、とも誇示している。つまり、スティムソンの書簡に対してまともに応えることを避けている。だからこれを日本語Wikipediaのいうように、日本がスティムソン書簡を拒絶したものとは読めない。時にはウソまでついて、スティムソンを相手にしない態度を露骨に示している。これは当時の日本がすでに、賢い帝国主義者でなく、劣悪な帝国主義者であったことを示している。もし勝海舟が生きていて、この回答文書を読んだら、恐らく、「およしよ。こんなものは。恥っさらしもいいとこだ。中国もアメリカも日本にとっちゃ大事なお得意さんだよ。それをわすれちゃいけねえ。」とでもいったことだろう。)



スティムソン、アメリカの立場を要約す

日本側の回答を受け取って、上院の有力議員ボラーに出した手紙である。
この手紙の中で、

 ウィリアム・E・ボラー上院議員へ

 ワシントン、1932年2月23日

 貴殿は、最近たびたび私が申し上げているように、最近の中国の状況が、いわゆる9カ国条約が適合できなっているとか、効力を失いつつあるとか、あるいは修正の必要性があるとかといった方向を指しているかどうか、そしてもしそうなら政府の政策はどうあるべきかについての私の意見をお尋ねでした。

 この条約(*中国について機会均等、門戸開放を合意した9カ国条約)は、中国に関して「門戸開放」政策として定式化される法的根拠に基づいて形成されたものです。門戸開放政策は1899年(=明治32年)、ジョン・ヘイによって体系的に述べられています。それは、列強による、中国における、いわゆる権益圏(spheres of interests)をめぐる争いの果てにもたらされたものであり、列強による争いのため、中国帝国は分割の危機にさらされたのです。

(* ジョン・ヘイ=John Hay<http://ja.wikipedia.org/wiki/ジョン・ヘイ>
ウイリアム・マッキンリー、セオドア・ルーズベルト両政権下で国務長官を務めた。スティムソンが触れているヘイの「門戸開放」政策は、中国市場の門戸開放・機会均等・領土保全を三原則とする。この三原則はお互いに密接に関連しあっており、列強に機会均等を実現するためには門戸開放をしなければならず、中国市場を分割されて他国の支配下におかれては、機会均等・門戸開放が実現できない。従って中国統一政権のもとの領土保全が原則となる。「蜜の地」中国に出遅れたアメリカ帝国主義の巻き返し宣言とも受け取れる。1932年日本が満州を独立させ、傀儡政権を作ったことは、このヘイの三原則を真っ向から否定したことになる。)


 これを達成するため、ヘイ氏は2つの原則を訴えたのです。
(1) 中国と関わるすべての国の商業的機会均等。及び、
(2) この機会均等を保持するため、中国の領土的・統治的統一性の必要性。

 これら外交政策の原則はアメリカにとって新しいものではありません。長年の間アメリカにとっては、他の諸国と交渉する際の基本原理で有り続けました。

(* ここはスティムソンはやや我田引水かもしれない。勢力が他の列強と拮抗しているか、あるいはアメリカ帝国主義が出遅れている場合にはこの原理が適用されたが、アメリカ帝国主義が圧倒的に優勢な場合には、たとえば中米、カリブ海地域、フィリピンなど、ではこの原則が適用されていない。)


 中国の場合には、これら原則が、中国の将来の発展や偉大なアジア人民の主権にとっての脅威から救うために提唱されました。それだけでなく、世界の他の諸国の間の争いの増大や常在の危険からすくうためにも提唱されました。戦争はすでに中国と日本の間に存在しました。(*これは日清戦争を指す。)その戦争の終結時に、日本がその戦争の結果だと主張するものを獲得するのに、3つの別の国が干渉し日本を妨げました。(*これは、独・仏・露による三国干渉のことを指す。)他の国々はそれぞれの権益圏を追求しそして獲得しました。部分的にはこれらの行動の結果、深刻な状況が中国で発生しました。北京における列強の公使館が危険にさらされる事になったのです。公使館に対する襲撃が深刻化する一方で、ヘイ氏はこの政策(*門戸開放政策)の立場から声明を出し、この原則に立脚して一連の暴動を沈静化させるべきだとしました。ヘイ氏はこう言っています。

合衆国政府の政策は、中国に永遠の安全と平和をもたらすものだ。中国の領土的また統治的一体性を保持し、国際法と条約で保障された全ての権利を保護し、中国帝国のすべての部分における平等で公平な貿易の原則で世界にセーフガードを保持すべきだ。』

(* ここでもスティムソンは意図的にか、無意識的にか、重要な見落としを行っている。中国の中にも、近代的独立国家を作って中国人の利益は中国人自身が決定し、守ろうという勢力と外国勢力と結んで中国人民から美味しい蜜だけを吸い上げようという勢力が存在していた、と言う点だ。ヘイの政策は、列強による列強のための平和なのであって、大多数の中国人民のための平和ではなかった。しかしそれにしても、中国国内が戦乱の中に投げ込まれるよりもましである。)


 ヘイ氏はこのように声明した列強の暗黙の了解を取り付けることに成功しました。

 こうした段階を経ながら、ヘイ氏はイギリス政府の本心からの支持を取り付けるように行動しました。ヘイ氏の声明に対して、さらに一歩押し進めるように、当時のイギリスの首相、ソールズベリー卿(ロバート・セシル=第3代ソールズベリー候。Robert Cecil, 3rd Marquess of Salisbury<http://ja.wikipedia.org/wiki/ロバート・ガスコイン=セシル_(第3代ソールズベリー侯)>は彼自身、『アメリカの政策の中で同意できるもっとも力強いもの』と表現しました。

 それから以後20年間、「門戸開放政策」は、いろいろ異なる列強の非公式な関与を通じて生き残ってきました。しかし1921年から22年にかけての冬に、太平洋に権益をもつ全ての列強が参加した会議において、この政策は、いわゆる9カ国条約として結晶化し、この政策の意図する原理に定義が与えられそして厳密化したのです。

 このようにこの条約は、注意深く発展させられまた熟成した国際的政策となりました。一方で中国に関して、締結国のすべてに利益と権利を保証し、他方で中国の人民にもっとも完全なチャンス、すわなち地球上の人々の間で間違いないと信ぜられる近代的かつ賢明な基準に従って彼らが独立としつこい妨害のない発展を可能とするチャンスを保証するものでした。

 この条約が署名された時、中国では専制的な政府の形態に対して革命が発生した後、自由な共和政体を構築しようという試みの過程であったことが知られています。この達成には経済的にも政治的にも何年もかかったことでしょう。またこの試みは漸進的であることが必要でした。この条約は、中国に対する攻撃的な政策がこうした中国の試みを妨げるかもしれないとして、(攻撃的政策に)自己否定的合意を含んでいました。「門戸開放」政策を貫く全体の歴史は、そのような合意の保護の下の誠意、このプロセスのみが、中国の完全な利益に合致しているばかりでなく、中国の最大の利益に尽くすことが関連したすべての国々の利益に適うことを明らかにしていると信ぜられます。

 この条約を発表した大統領に対する報告の中で、アメリカ代表団の団長、国務長官、チャールス・E・ヒューズ氏はこう言っています。

この条約を通じて中国における「門戸開放」こそが最終的に現実的で有り続けると信ぜられます。』

 条約に至る議論の過程で、イギリス代表団の団長、バルフォア卿は、こう述べています。

イギリス帝国代表団は、古い教訓である「権益圏」は、この交渉のテーブルについたどの政府からも主唱されなかったし、寛容的でもなかった、そのような代表は一人もいなかったことを理解した。』

 同時に日本の代表である幣原男爵は、彼の政府の立場を声明して次のように続けました。

中国が自身を統治する神聖な権利をだれも否定しなかった。中国がその偉大な国の運命を自身で作り上げる道に誰も立ちはだからない。』

(* これは1921年=昭和6年、のワシントン会議の模様を伝えたものである。アメリカ代表団はウォレン・ハーディング大統領政権下の国務長官、チャールス・E・ヒューズ=Charles E. Hughes<http://ja.wikipedia.org/wiki/チャールズ・エヴァンズ・ヒューズ>。イギリス代表は、1917年のバルフォア宣言出有名なアーサー・バルフォア(Arthur Balfour=<http://ja.wikipedia.org/wiki/アーサー・バルフォア> だった。幣原喜重郎はこの時日本の全権代表だった。これで見ても分かるように幣原外交は、英米協調外交であり、その本質は英米帝国主義と協調しながら、中国という蜜の地を日本の帝国主義のために共有しようというものだった。もし幣原外交が、1920年以降の日本の外交政策として一貫していたなら、当然太平洋戦争は起こらず、英米日は共同して蒋介石国民党政権を助け、国民党政権を通じて、中国を経済的に支配したであろう。それでなくても非力な中国共産党は、国共内戦に勝利できず、1949年の中華人民共和国の成立はなかったであろう。あるいは共産党政権が成立したとしてもずっと遅れたことだろう。)


 この条約は、元来、アメリカ、ベルギー、大英帝国、中国、フランス、イタリア、日本、オランダ、ポルトガルで発効したものでした。これに続いて、ノルウエイ、ボリビア、スエーデン、デンマーク、そしてメキシコが加入して発効しました。ドイツは署名はしたものの、ドイツの国会は批准しませんでした。

 同時に、その時、この条約はワシントン会議で集まった、相互に関連性をもちまた相互に依存しあっていた列強が定めた色々な条約や合意の一つであった、ということも記憶しておかねばなりません。これら条約や合意はどれ一つとっても、完全を求めて集まった各国による影響を考慮し、意図して狙った均衡や全体理解を無視したものはありません。ワシントン会議は基本的には軍縮会議であり、海軍軍拡競争の中止(cessation)を通じてだけでなく、また世界平和、とくに極東における平和にとって脅威となる色々な悩ましい問題の解決を通じて、世界平和の可能性を促進しようという狙いがありました。こうした問題はすべて相互に関連しあっておりました。アメリカが軍艦建造の主導権をとることをあきらめたり、グアム島における地位をすてたり、フィリッピンをこれ以上要塞化しないなどといった、アメリカ政府の積極的な意志は、9カ国条約に含まれた自己否定の合意に基づくものでありました。9カ国条約は、世界の諸国家に、東半球における防衛期の機会均等を保証するだけでなく、中国の犠牲でおこなわれる、その他の列強の軍事的攻勢に対しても平和を保証するものでした。何人といえども、全員が、同時に、本当に依存している約束事を考慮することなしに、この条約の文言を変更したり、廃棄したりすることについて議論することはできません。

 それから6年後、強大による弱小への軍事攻勢を自己否定する政策は、それは9カ国条約が基礎にした政策ですが、パリ和平条約が、いわゆるケロッグーブリアン平和協定と呼ばれ、ほぼ全世界の国家によって締結・実行されることによって、力強いてこ入れを受けました。これら2つの条約はそれぞれ独立した条約ですが、すべての争いを恣意放縦な力によってではなく、正義と平和の手段によって解決することを含む諸国家の法で秩序ある発展を志向する世界の世論と良心とを連携させる目的を持って、調和あるステップを踏み出したのです。

 外部からの軍事的暴力から中国を保護しようという計画は、そのような進展の最も根幹をなすものです。9カ国条約の署名国及びその支持者たちは、中国に暮らす4億人の人々のための秩序ある平和的な福祉は、全世界の平和的福祉にとって必要なものだと、正当にも感じました。また世界全体の福祉を増進する計画は、中国の福祉と保護を無視することによってはありえないとも感じました。

 最近中国で起こった事件は、特に満州で始まった敵対的行為は、そののち上海にも波及しました。(*1932年1月の上海事変を指す。)これら事件は、私たちのこれまで議論の変更を指摘しているというよりも、極東に権益をもつすべての諸国に、この条約の合意を誠実に遵守することがいかに重要かを思い起こさせる傾向にあります。争いの原因の関係性、あるいは不幸にも係争中の両国の責任の所在を特定したりすることは不必要です。責任や原因に関係なく、現在進展中の状況は、いかなる条件の下でも、これら二つの条約の合意義務に立ち戻らなければ和解に達することはできないことは明白でしょう。もしこの2つの条約の誠実な遵守があれば、そもそもこのような状況は発生しなかったのです。この係争の当事国でない、9カ国条約とケロッグーブリアン条約の署名国はこれら条約の文言を変更するなんらの理由も見いだせません。それらの諸国にとって、この条約の誠実な遵守の真の価値は、上海において被る災禍や損失のために、更に鋭い形で戻って来るのです。

 以上がアメリカ政府の見解です。この2つの条約に込められた賢明な原理を放棄するいかなる理由も見いだせません。私たちは、この条約の精神の誠実な遵守が状況を打開するものだと信じます。法の遵守義務を果たすことが、これら条約の署名国である中国とその国民の法制的権利を適切に保護することを妨げるとするいかなる証拠も見いだせません。

(* このスティムソンのボラー上院議員への手紙を読んで、はじめて満州事変勃発時前後の、中国国民党軍の不可解な行動が判明したという気がする。中国軍は、柳条湖事件が関東軍によって仕掛けられた謀略であることを、前年の張作霖爆殺事件の時同様、発生と同時に察知していた。そのことを口実に日本軍が全満州で軍事行動を起こした時も、張学良軍は蒋介石の「不抵抗」の指示のもとに殆ど軍事行動を起こさなかった。張学良軍は、全国民党軍随一の装備と兵力を持っていたにもかかわらず。―実際航空兵力を持っていたのは張学良軍だけだった。蒋介石は、アメリカの条約遵守の決意がいかに固いかを知っていた。それはスティムソンの手紙の中にある、当事国は2つの条約を遵守すべきである、その紛争がいかなる原因であれ、どちらに責任があるかに関わらず、という言葉の内容を理解していた。日本軍に抵抗することが、アメリカからは条約遵守の精神から逸脱すると見なされることを恐れた。従って、日本が口実とする「反日感情」の抑制にも努めた。アメリカの意向は、どんな理由であれ、軍事的行動はゆるされない、というものだった。実際後のリットン調査団の報告の骨子は、1.日本軍の軍事行動は許されない、2.中国側の反日行為も許されない、3.しかし中国の政治的統一性を損なう満州国は認められない、という3点だった。これはすでにこのスティムソンの手紙で明確に示された方向性だった。

 蒋介石はアメリカに忠実だった。しかし中国共産党はそうではなかった。中国共産党は、日本軍の行動を、中国の自主独立を犯すものだと考えた。中国共産党にとって、抗日は自衛手段であり、民独独立の戦いだった。スティムソンは意図的にか、この中国人民の権利については全く触れていない。従って、2つの条約は、結局アメリカによるアメリカのための「中国の平和」だった、ということができるだろう。

 一方全く愚かしかったのは日本である。中国における、条約の精神を破る行為は一切認められないというアメリカのサインを全くキャッチできていなかった。アメリカの戦争の準備ができていなかったという表面的な、状況的な、流動的な事態を唯一の根拠として、中国への侵略を強めていく。この時点で太平洋戦争は、不可避だったといっても過言ではない。)


 昨1月7日(*1932年。この月にこれも謀略で上海事変が発生している。)、大統領の指示に基づき、アメリカ政府は公式に日本と中国に、これら条約の合意に反した両国政府の、いかなる条約、合意、状況も承認することはできないということを知らせました。この条約は合衆国政府の諸権利及び中国におけるアメリカ市民の諸権利に影響を及ぼします。もし世界の他の政府によって、似かよった決定が為されたとしたら、またにたような立場が取られたとしたら、そのような行為には抗議(a caveat)が出され、と私たちは信じますが、条約の違反あるいはそれへの圧迫によって得られた諸権利あるいは諸名分の合法性を害することになりましょう。そして過去の歴史が示すように、中国が奪われるかも知れない諸権利や諸名分の回復へ向けて事態を主導することでしょう。

 過去において、私たちの政府は、太平洋における主導的な列強の一つとして、中国の人々と関わり合う際、相互の善意、フェアプレイ、公平な行いといった原則に基づいて究極の成功と中国人民の将来を念頭に辛抱強く誠実な政策をとって来ました。中国とその政府の発展に尽くした政治家がなした厖大な仕事を私は評価したいと思います。中国の進歩の遅れ、その責任ある政府を保証する試みにおける不安定さ、こうしたことはすでにヘイ氏やヒューズ氏が予測していたことであります。また門戸開放政策が適合するよう完成されていく過程で大変な障碍があることも予測されていました。中国が発展するに際して時間が必要であると決定した、ワシントン会議におけるすべての代表及び政治家とともに私たちは克服しなければなりません。私たちはこの政策を将来のために策定する用意があります。


1931年の柳条湖事件とスティムソン・ドクトリン


(* スティムソン・ドクトリンについては英語インターネット上には様々な記事がある。たとえば英語Wikipedia
<http://en.wikipedia.org/wiki/Stimson_Doctrine>
アメリカ国務省の「Stimson Doctrine, 1932」
<http://www.state.gov/r/pa/ho/time/id/16326.htm>
などである。
しかし同じくアメリカ国務省の記事「The Mukden Incident of 1931 and the Stimson Doctrine」
<http://www.state.gov/r/pa/ho/time/id/88739.htm>は、スティムソン・ドクトリンの本質を良く捉えた上で、そこに至る過程をも略述した優れた記事である。
以下訳出する。)


 1931年、中国の奉天市(*英語ではMukden。現在の瀋陽)の近郊で起こった事件(*柳条湖事件)は、日本の満州征服に導く導火線となった。その反応として、ヘンリー・スティムソン国務長官は、スティムソン・ドクトリンとして知られる書簡を出し、その地域で自由な商業流通に制限を加えるような日本と中国の間の合意は承認しない、との立場を明らかにした。

 1920代から30年代にかけて合衆国は多くの投資を極東に対して行った。合衆国は中国において貿易と投資を行った。その地域では、多くの宗派を代表するアメリカの宣教師たちも活動した。合衆国はまた、太平洋地域に対して、たとえばグアム、ハワイ、フィリピンなどで領土的要求もしていた。合衆国は、この地域における権益を3つの段階からなる政策で防衛しようとしていた。「中国に対して商業機会の均等受益を保証する“門戸開放”」「中国の領土的一体性を維持することの重要性への信念」「地域において権益をもつ他の列強との協力を通じる関与」の3つである。

 1930年代にはいるとこれら政策に真っ向から衝突する事件が頻発した。1931年9月18日、奉天市郊外の鉄道路線のある部分が爆破された。日本がその鉄道を保有していたのだが、この事件は中国国民党の仕業であると非難し、報復と満州侵略の機会に利用した。しかしながら、あるものは、この爆弾は日本軍の中堅将校によって仕掛けられたものかも知れない、そして続いて起こす軍事行動の口実にしようとしたものかも知れない、と推測した。それから2−3ヶ月のうちに、日本軍は満州を席巻し、訓練されていない中国軍からの抵抗も全く受けずに、資源豊富なその地域(*満州)にその統一的な統制を打ち立てた。日本はその地域に、新たな独立存在の満州国樹立を宣言した。しかし実際のところその新国家は、現地日本軍の統制下におかれていた。

(* アメリカ国務省のサイトにこう堂々と書かれていては・・・。しかも全部事実なのだから、どうもこうもない・・・。汗顔の至りと言う他はない。あれは間違いだった、ごめんなさい、とでも正式に行動しておけば、まだましなのだが・・・。)


 アメリカやその他の西側の列強は、危機の急激な進展にどう反応したらよいのか当惑した。日本が、“攻撃”地点の奉天から遙かに離れた錦州を爆撃した時ですら、その地域におけるアメリカの権益は、アメリカが軍事行動を起こして介入することが必要でもなければ、望ましいものではないほど、基本的に意味のないものだった。1930年代の世界的な大恐慌の中で、日本を懲罰するだけの経済的合意への支持もほとんどなかった。そのかわりとして、アメリカは初めは、国際連盟理事会にこの問題を提出して、ケロッグーブリアン条約の遵守を主張しようとした。この条約には日本も中国も署名していたのである。しかし平和条約に基づくアピールでは効果がないことが証明された。

(* 殆ど抵抗らしい抵抗をみせないまま、奉天張学良軍は、首都奉天を放棄し華北の錦州に避難していた。日本軍はこの張作霖軍を攻撃するため、錦州爆撃を敢行した。)


 従って、スティムソン長官は1932年早々、スティムソン・ドクトリンを発したのである。このドクトリンは、合衆国はアメリカに認められた合意あるいはアメリカの権利に反するような日本と中国の間のいかなる条約あるいは合意も承認しないと声明していた。

 「不承認」を骨子とするこのドクトリンは、現在進行中の日本軍の軍事侵攻や拡張に直面して、信じがたいほど無効力であることが明らかになった。日本はそれから数年満州において勢力を拡大し続けた。そして正式に満州を支配したのである。その上さらに、満州征服に成功した後、1932年、上海も攻撃したのである。上海は中国における国際社会の本拠地とでも言うべき性格をもっていたので、日本軍の突然の侵攻は、外国人居留地に対しても大きな脅威になったのである。スティムソンはこの事態の進展に対して、9カ国条約に日本が違反した結果、合衆国は海軍軍縮条約の制限から束縛されないと考える、と宣言することによって対処しようとした。

(* 9カ国条約締結時のワシントン会議では、軍艦建造を列強がおたがい制限するワシントン海軍軍縮条約が締結された。)


 このことは太平洋地域において、海軍軍拡競争が到来することを意味している。当然日本もこれに引き込まれることになる。しかし、満州における状況は全く変わらなかった。

 アメリカは、自身の方法で解決策を模索する一方で、柳条湖事件を調査する国際連盟の調査団とともに非公式な調査団を送った。リットン調査団によって作成された調査結果報告では、満州における問題は、中国側の国粋主義と日本側の軍国主義に平等にその責任を負わせていた。しかし、報告書は中国の領土的一体性の原則に違反しており、主要な国際連盟のメンバーが署名している9カ国条約に違反している、として満州国の設立を認めていなかった。1933年、リットン報告書が国際連盟の場で批准されると、日本の代表団は国際連盟理事会の会場から出て行き、二度と戻らなかった。日本と中国は停戦協定に署名はしたが、日本の満州における支配権は頑強にそのままだった。

 1931年から33年にかけて起こった満州危機(The Manchuria Crisis)は、1920年時代の和平、非攻撃、軍縮などといった合意が、進軍ラッパを鳴らして進撃する力の前にはまったく無意味であることを露呈した。スティムソン・ドクトリンに示された不承認の原則も同様にほとんど効果がなかった。この危機に続く何年かの間に、同盟関係が変わり、経済上の必要性とそれに対応する政策の出現で全面的な日中戦争に突入していくのである。

(* この国務省の書き手は、スティムソン・ドクトリンが無益だった、そこで示された原理原則は全く無益だった、と論じている。この書き手は力の信奉者のように見える。私はスティムソン・ドクトリンとそこで示された思想が全く無益だとは思わない。たとえ帝国主義者からだされたものだとしても、それどころか、それ以降の地球市民を拘束していく考え方の枠組みになった、と思う。)