(2010.3.11)
No.001
「核持ち込み」は「核持ち込み」にあらず


 2010年3月11日付け中国新聞に「密約解明の波紋 上」というコラム名で、一種変竹林な記事が載った。社説でもなし、記者名も明記されていないので、恐らくは共同通信配信ものなのだろう。そうだとすれば全国の地方紙にも一斉に同じ記事が掲載された筈である。

 この記事は、
外務省有識者委員会の報告を受け、鳩山由紀夫首相は「持ち込ませず」などとする非核三原則堅持をあらためて表明した。』と書き出し、
・・・だが、密約の「源」となった「持ち込み」をめぐる日米の解釈の違いは棚上げされており、「暗黙の合意」が公然化し、有事の核艦船寄港を容認する「2.5原則」論が勢いを増す可能性を生んだ。』
と受けている。

 変竹林なのは、この記事の内容ではない。この記事の書き手の「言葉使い」だ。「持ち込み」「暗黙の合意」「2.5原則」「有事の核艦船寄港」などという言葉使いである。

 この記事の書き手の立場に立って、こうした言葉使いの意味を正確に理解できる一般市民が何人いるだろうか?こうした言葉は「政治屋の世界」でのみ通用する「政治業界用語」なのだ。つまり、この記事の書き手は、一般市民に向かって「政治業界用語」を使って記事を書いていることになる。一般市民がこの記事を理解できなくても何ら恥じることはない。恥ずべきは、「政治業界用語」を使って書く書き手の方である。

 中国戦国時代に公孫竜というソフィストがいた。名家の代表格と見なされる人物である。公孫竜の有名な三段論法の詭弁に「白馬は馬に非ず」というのがある。論理学の教科書には必ず紹介されている有名な詭弁である。公孫竜によれば、

 『 「白馬」の「白」は色に関する概念である。「白馬」の「馬」は形に関する概念である。然るに「馬」は形に関する概念である。よって「白馬」の概念と「馬」の概念は異なる。よって「白馬」は「馬」ではない。』

 この詭弁のトリックのネタは、「白馬」という一体となった一つの、分割できない概念を、無理矢理「白」と「馬」という2つの概念に分割するところにある。こんなトリックが通用するなら世の中なんでもありの詭弁だらけとなる。

 ちょうど同じことが「2.5原則」という「政治業界用語」で行われている。

 非核三原則とは、核兵器を「作らず」「持たず」「持ち込ませず」という意味内容(概念)をもった原則だった。ところが政治業界は、本来一体のものとして分割できない「持ち込ませず」という概念を無理矢理2つに分ける。

 すなわち持ち込み(イントロダクション)は通過(トランジット)とは異なる概念である。よって「持ち込み」(イントロダクション)という概念には「通過」という概念は含まれない。よって「持ち込み」(エントリー)は「持ち込み」(イントロダクション)ではない。という詭弁論法が立派に成立した。こうして「持ち込み」(エントリー)から通過(トランジット)という概念を差し引いて「非核2.5原則」という「政治業界用語」が成立した。もちろん、冒頭で紹介した鳩山由紀夫の「非核三原則堅持をあらためて表明した。」というのも「持ち込ませず」(ノー・イントロダクション)という意味であって、「持ち込ませず」(ノー・エントリー)という意味ではない。

 公孫竜も顔負けの立派な詭弁成立である。

 この詭弁が成立するなら麻薬密輸業者も大手を振って活用すべきである。麻薬を持ち込もう(イントロダクション)として、税関で摘発されたとする。そうするとこの麻薬業者は「私のこの麻薬は日本に持ち込もう(イントロダクション)としたのではない。第三国に経由するための通過(トランジット)に過ぎない。従って麻薬の持ち込みを禁じた日本の法律に違反していない。」と主張できる。

 ところが税関の担当官はあきれ顔で云うだろう。(ここは是非とも関西弁でなければならない。)

 『 オマエ、何いうてんねん。イントロダクションもトランジットもあるかいな。
持ち込みは持ち込みや、逮捕する!』

 そして、この詭弁はあえなく潰され、麻薬業者氏は刑務所送りになる。これが一般日本市民の健全な良識というものだ。こうした一般市民の良識からは「非核2.5原則」などという「概念」は全く理解できないし、そうした言葉を堂々と使った新聞記事も全く理解できないに違いない。

 繰り返すが、理解できないのはわれわれ一般市民に責任があるのではない。詭弁で塗り固めた「政治業界用語」を平気でつかう新聞の側にあるのだ。

 「通過」(トランジット)は持ち込み(イントロダクション)に非ず、よって「持ち込み」(エントリー)は「持ち込み」(イントロダクション)に非ず、の詭弁を考え出したのは、有名な「バンディ三兄弟」の一人、ジョンソン政権時代の国務次官補ウィリアム・バンディではないかと私は疑っている。

 1966年、時の外務次官下田武三は、記者会見を開いて「日本は核の傘に入りたい、などと云うべきではない。」と述べた。

 ・・・新聞で下田発言を読んだライシャワー米国大使はびっくりしたらしい。というのは、1960年安保改定の時に、日本政府は米国の核持ち込みの権利を認める密約(トランジット[通過]の黙認とイントロダクション[持ち込み]の事前協議における同意)を結んでいたからである。』

 ライシャワーは直ちに米国務省に連絡し、急遽特別機でバンディ国務次官補が東京に乗り込んできて、ライシャワーと共に下田を詰問した。そして下田に前言撤回を約束させたのである。この一部始終をライシャワーが当時国務長官だったラスクに打電した。この打電の内容が1977年に機密指定解除され、一躍密約の存在が公になった。(外務省が認めようが認めまいが関係ない。密約はあったか、なかったかである。1977年以降はすでに秘密ではなく、周知の事実となっていた。)

 この時ラスクはライシャワーに返電を打ち、その中で次のように述べた。

 もし提案(核の傘に入るべきでない、とする下田提案のこと)が取り入れられたら、日本の港湾の中の米国の艦船と通過(トランジット)中の米国の航空機に積載された核兵器の存在に関して、日本政府が受け入れてきたあいまいさは、もはや受け入れられなくなる可能性がある。これは日本の米軍基地の有用性をいちじるしく低めるものとなる。・・・』

以上都留重人著「日米安保解消への道」岩波新書1996年12月5日第一刷による。なお都留はこの本の「あとがき」に「10月20日の総選挙を前にして、民主党代表の鳩山由紀夫が、2010年を目途として「常時駐留なき安保」の構想を発表した。例えて云うなら、いくつもの小さな小さな小川が合流して一本の大きな河川となり緑の沃野をうるおすようになる日が遠くない、という予感を私は持つ。」<1996年10月>と書いている。)


 ところが、都留の予感は外れた。アメリカは核兵器による世界支配体制を簡単にはあきらめなかった。この支配体制を維持するには、核兵器による威嚇体制が不可欠である。核兵器による威嚇体制を維持するには、国外にあるアメリカ軍基地に「核兵器が自由に出入りする」(エントリー)体制が不可欠である。
 鳩山もこの点は見込みが違った。安保体制を維持したまま、「駐留なき安保」が実現できると考えたがそうではなかった。日本の米軍基地が、中東地域を戦域とした東方からの前線基地となっていることを過少評価したからである。

 日本からアメリカ軍基地を一掃するには、日米安保条約を解消し、戦後始めて「アメリカ」から政治的独立を勝ち取る以外には道はない。しかし鳩山政権にはその度胸も見通しもない。

 先ほどの共同通信(中国新聞)の記事に戻ろう。こうして鳩山内閣は「非核2.5原則」の詭弁をそのまま飲み込んで、これを「非核三原則」と定義し直し、「有事の核艦船寄港」(有事の戦闘爆撃機核兵器搭載を含む)はやむを得ぬ例外措置として容認することだろう。

 しかしまた私は、一般市民としての良識をもつ私は、「有事の核艦船寄港」なる「政治業界用語」にクビを傾げる。「有事」かどうかを決定するのは誰か。それは日本の市民ではないだろう。日本の市民に「有事」かどうかを判断する権限は委ねられていない。ましてや日本政府ですらない。それを決定するのはアメリカ政府だ。「有事」とは「アメリカ政府」にとっての「有事」だからだ。その際「アメリカにとっての有事は日本にとっての有事」という詭弁論法が、政治業界用語を使って日本の大手メディアに登場するだろう。一年365日「有事体制」(繰り返すがアメリカ政府が決める)の中で、三原則の一つ、「持ち込ませず」(エントリー)は形骸化していく。

 こうして、鳩山内閣の「非核三原則」は事実上「非核二原則」として、日本の市民全体を自己欺瞞の中に落とし込みながら、機能して行くに違いない。

 われわれ一般市民は、こうした詭弁、あるいは詭弁論法から派生した「2.5原則」などという「政治業界用語」に惑わされないことだろう。

 三原則は三原則であり、どの原則も分割できない。2.5原則も1.75原則もありようがない。これが生活者の健全な良識からするわれわれ一般市民の「政治判断」だ。だから誰かが「2.5原則」と言い出したら、それは「非核二原則」のことだと判断するのが賢明だ。そして裏があると疑うのが健全な良識だ。