No.3 平成17年12月7日
ユニタールと広島
広島にひるがえる国連旗
 広島市の中心部、相生通りを電車道に沿って東へ進むと相生橋にさしかかる。右手に原爆ドームが見え、平和公園を望める。左手には川岸に沿って広島商工会議所ビルが見える。その商工会議所ビルの屋上をよく見ると、国連旗がひるがえっている。このビルの屋上に国連旗が掲げてあるのは、ここにユニタールが入っているからだ。

 ユニタール(UNITAR)は、国連調査訓練研究所(United Nations Institute for Training and Research)のことで、スイスジュネーブに本部(http://www.unitar.org/)を置くれっきとした国連の機関だ。1965年に国連内の独立機関として設立され、主として地域経済発展のための調査、人材育成・訓練などを主な仕事としている。財政的には各国政府、各政府間機関などの援助で運営されている。日本政府は各国政府の中で、財政援助額では1998年には2位、99年、2000年では1位を占めている。因みに本部のあるスイスは98年には3位、99年・2000年は日本に次いで2位である。目的別財政援助者の項目(1998年から2000年)を見ると、各政府間機関や国連機関の中に交じって、スイス連邦政府難民事務所やアメリカ国務省の名前やカーネギー財団の名前も見える。アメリカ政府の方針は総論に対しては金を出さないが、移民問題など各論には金を出しましょう、ということらしい。逆に目的別財政援助者のリストには日本政府や日本関係の機関・財団は一切出てこない。総論に気前よく援助は出すが、目的意識がないとも云えるかも知れない。スイス政府や機関は総論にも各論にもよく金を出している。


第3番目の事務所が広島
 このユニタールは1996年にニューヨーク事務所を開いている。南北アメリカ大陸や大西洋地域が担当だ。そして2003年にアジア太平洋地域を担当する事務所として広島事務所が開設された(http://www.unitar.org/hiroshima/jp/)。

 広島県としてはもちろん、中国四国地方としても初めての国連機関である。「国際都市ヒロシマ」を標榜する広島市としては、胸をはってもいい快挙である。ただしユニタール広島事務所の誘致については、広島市よりも広島県の方があずかって力があったらしい。このため、開設から3年間広島事務所維持経費(年間約100万ドル)を拠出する契約を交わしたり、2006年以降も相応の経費負担をする、と約束している。それに対して広島市は年間700万円(約6万4000ドル)の拠出にとどまっている。(http://www.chugoku-np.co.jp/abom/04abom/news/An04072908.html

 広島市と広島県は、どちらも財政難で金がないことは同じであるが、こうなると広島県と広島市では見識が違うと云われても仕方がない。藤田雄山知事と秋葉忠利市長の見識の違いと見られないこともない。
 ユニタールがニューヨークに次ぐ第三番目の事務所として広島を選んだのは、もちろん広島県の熱心さのためばかりではない。ヒロシマが人類最初の被爆都市だという要素が大きい。


広島は復興のシンボル
 ユニタール広島事務所の初代所長は、イラン生まれのスイス人ナシリーン・アジミさんだが、その所長室に入ってみると、大きなガラス窓が作ってあり、いつでも原爆ドームを見下ろすことができるようになっている。ただその原爆ドームに対する見方や感じ方は、われわれヒロシマの人間とは少しく違うようだ。

 アジミさんは、イラン生まれで幼い頃、よく国境を越えてアフガニスタンに遊びに行ったそうだ。美しい国だったそうだ。私もいまから35年も昔にアフガニスタンを訪れたことがある。首都のカブールですら電気事情が悪く、夜はいつも停電で、都会生活に慣れた人間には住みにくいかも知れないが、見方を変えればゆったりと美しい町だったことを憶えている。特に夕方から夜にかけてのバザールは、一斉にランプやろうそくの明かりがともり、はっと息をのむほどの幻想的な美しさだった。

 そのアフガニスタンは、旧ソ連の侵攻やうち続く永年の内戦ですっかり荒れ果ててしまい、今は見る影もない、とアジミさんはいう。原爆投下直後の広島も恐らく今のアフガニスタンと同じだったのではないか、とアジミさんは考えている。今のアフガニスタンをよく知っている彼女が、単にあてずっぽでアフガニスタンと原爆投下直後の広島を比較しているのではことはよくわかる。というのは彼女は実に原爆直後の広島の状況について勉強しており、私が知らないことまでよく研究してよく知っているからだ。

 ところが今の広島はどうだ、とアジミさんはいう。
 「美しい水路と緑豊かな街路樹、近代的な建物と心地の良い歩道をもった美しい町に生まれ変わっています」

 ここでアジミさんがある会合のために書いた文章を引用してみよう。(原文は英語。以下拙訳)
 「ユニタールの各種プログラムに参加するため海外から広島を訪れる外国のお客さんは、最初は、最悪の状況(の広島)を思い描いてやってきます。ところがその全く逆に、彼らは、美しい川と水路に恵まれ、いきいきとした緑に包まれた町、快活で親切な人々、前向きで知的かつ文化的な生活、活気に満ちた歩く人中心の市街、そういった広島を目の当たりにします。
 灰燼の中からよみがえった広島は、単に戦争の野蛮さや愚かしさ、核兵器による大量虐殺の危険性などに対する証言者であるばかりでなく、人類の持つ知恵と工夫、創造力、不屈の忍耐力の証(あかし)でもあります。この意味に置いて広島は、人類全体に対する励ましであり鼓舞なのです」

 この文章を書いた時、アジミさんの念頭にあった情景は、荒れ果てたアフガニスタンをはじめとする国々であったことは疑いようがない。


広島の権限と責任
  アフガニスタンなどから広島にユニタールの研修にやってきた人たちは例外なしに、今の広島の復興に驚嘆し、勇気づけられて帰国するという。わかりやすく云えば、ヒロシマは内戦や飢餓、貧困に苦しみ荒れ果てた国々にとってその復興へ向けた「希望の星」となっていると言うことだ。私たち広島の人間にとっては思っても見ない観点である。

 再びアジミさんの文章を引用しよう。
 「私は、広島には特に(平和問題に関し)権限(発言権)があるといいたい、そしてその権限(発言権)ゆえに、特に奥深い責任があるといいたい、そして広島の町の中心に国連が存在することは、いろんな人たちに、この広島の権限と責任の両方を思い起こさせるに預かって力となることだろうといいたいのであります」

 ここで考えておきたいのは、アジミさんのいう「特別な権限」とはなにか、またそれに伴う「責任」とはなにかという点である。まず特別な権限とはいうまでもなく、最初の被爆地として、二度とこのような愚劣なことを起こしてはならない、と世界に訴えかける権限であることは明らかだ。しかしそれだけではないだろう。二度と起こさないためには、その原因や理由を明確にしておかなければならないし、その過程で責任追求もきちっとしておかなければならない。そのことを「ヒロシマ」は行う権限があるということでもある。

 もしこの権限をヒロシマが十分に行使していなければどうなるか、それはとりもなおさず、「責任」を果たしていないことになる。つまりアジミさんのいう特別な権限と責任は、同じことの別な表現、コインの裏表みたいなものだ。切り離すことができない。

 ヒロシマは最初の被爆地として、これまで60年間「ノーモアヒロシマ」を叫び続け、核兵器絶対反対を世界に訴えかけ続けてきた。それはそれとして大きな意義があり、一定の歯止めになってきた。これは紛れもない事実である。しかしこれだけでアジミさんのいう「特別な権限」を行使したことになるのだろうか。別な云い方で云えば「広島の責任」を果たしたことになるのだろうか・・・。