No.2 平成17年11月25日
原爆と毒ガス
旧陸軍毒ガス工場
 人類最初の被爆都市広島から50−60Km離れた竹原市忠海町沖の大久野島(おおくのしま、と濁らない。土地の人は、くのしま、と呼んでいる)に、旧日本陸軍唯一の毒ガス生産工場があった。
1929年(昭和4年)から生産を開始し、終戦までに約6600トンの各種毒ガスを生産したと見られている。マスタードガス(イペリット)、ルイサイト、ホスゲン、青酸など猛毒性の毒ガスから催涙剤まで、まるで毒ガスのデパートだ。ここで生産された毒ガスは、大分にあった旧陸軍曽根兵器工場へ送られ、火砲弾、迫撃砲弾、空爆弾、有毒発煙筒、手投げ弾からてき弾筒や拳銃弾までの毒ガス兵器として製造し、主として中国大陸へ送られ、または日本全国で貯蔵された。

 毒ガス兵器の製造や使用を禁止したジュネーブ条約(Jeneva Convention)が成立したのが1925年で日本もこれを批准していたから、「毒ガス生産」の事実は秘中の秘で、当時大久野島は日本地図からも抹消されていた、というのはよく知られた話しである。

被害者意識と加害者意識
 最盛期大久野島では、約6000人の人が働いていたと見られる。その多くは、竹原・忠海を中心とする人たちで毎日連絡船で通勤していた。実に様々な人たちで、一般工、徴用工、医師、看護士、戦争も終盤にかかると動員学徒から学童までかり出された。中級技術者養成のために島には養成所もあり、近隣の学業優秀な小学校卒業者を集めて勉強させた。これらの人たちは養成工と呼ばれていた。

 書きたいのは毒ガス島ではない。ここで働いていた人たちのことである。もうちょっといえば、その気持ちである。毒ガス工場で働くというのは実に危険極まりないことである。誰にでも容易に想像がつくだろう。大げさでなく毒ガス島全体が常に悪臭を放つ霧に覆われた状態で、島にはいること自体が危険なことだった。ましてや工室と呼ばれる生産現場で働くことは、「死」を意味していた。実際、工室で長く働いていた人たちは昭和30年までにほとんどなくなっている。戦後長く生き残ることのできた人は、比較的軽い作業だったか、20歳までの回復力のある人か、例外的に頑健な体の持ち主だったかのいずれかである。

 それでも戦争中は、「お国のために頑張っている」「ほしがりません。勝つまでは」で、自分を支えることができた。それに大久野島で働くと危険手当が付き収入も一般の国民に較べると良かったこともあり自分を慰めることもできた。

 戦争が終わっていろんなことが段々明らかになってくると、自分たちが騙されていたと言うことに気がつく。比較的高い収入につられて、命を代償に働いていたことに愕然とする。一般工や養成工の人たちはまだしも、嫌も応もなしにつれてこられた徴用工の人たちや動員学徒の怒りは想像を絶する。ここに根の深い被害者意識が生まれる。

 ところがことはそう単純ではない。戦後いろんなことが明らかにになるにつれ、自分たちが生産した毒ガスが実際に戦争で使われたかも知れない、という疑いと恐れを抱きはじめる。毒ガスの恐ろしさは自分たちが一番よく知っているだけに、「使われたかも知れない」と考えることは恐怖である。

 話しはそれるが、今も日本政府は中国大陸で旧日本軍が毒ガス兵器を使用したことを国際的に認めていない。中国大陸に毒ガス兵器を持ち込んだことはやっと認めた。旧日本軍は毒ガス兵器を敗走のどさくさに、当然中国大陸に置き去りにした。(一般日本人ですら置き去りにしたのだから)。こうして置き去りにされた毒ガス兵器が今も中国で環境問題を起こしているのである。内閣府の資料によると、中国各地に旧日本軍が置き去りにした毒ガス兵器は70万発。中国側の資料では200万発となっている。

高い庶民レベルでの歴史認識
 実際に中国大陸で毒ガス兵器を日本軍が使ったことが明らかになるにつれ、大久野島で毒ガス生産に従事した人たちに加害者意識が芽生えてくる。「知らなかった、やむを得なかったとは云え、自分たちの作った毒ガスで子供や赤ん坊の命まで奪ったかもしれない」というわけだ。

 客観的にいえばこの人たちに責任は全くない。しかしそのことと「意識」とは別物である。

 ついでにまた話しはそれるが、戦争責任を問われてA級戦犯になった賀屋興宣(広島市の出身である)、岸信介(お隣の山口県の出身である)が戦後またぞろ復活して、法務大臣や総理大臣まで務める厚顔無恥さ加減と大久野島で毒ガス生産に携わった人たちの「加害者意識」とを較べてみて欲しい。

 被害者意識は当然のこととして、これに加害者意識が加わるとものの見方が深くなるのだろうか。自分を見つめる力が強くなるのだろうか・・・。
 「私は自分が軍国少年だったことを深く反省しております。恥じております。」
 「いかに周りがそうだったとはいえ、盲目的に軍国主義を信じていた自分を反省している。これからはどんなことがあっても、こういう盲目主義にならないよう、今は心がけている」

 いずれも大久野島で毒ガス生産に従事した人たちの言葉だ。こうして自分を見つめる力は、やがて現在を見つめる目へと発展する。
 「知らず知らずそうなるんじゃけえ。ちょっとづつ、ちょっとづつ・・・。今もそうなっとるかもしらんよ。ほんまに気をつけんにゃ。あっと気がついたときはもう遅いけえね。子供や孫にはわしらが経験した様なことはさせんよ。わしの目の黒いうちは。」

 大久野島毒ガス障害者も人たちは、話しを聞いてみると「現在」を見つめる力が強い。過去の経験が現在に結びついている。そして未来につながっている。そして一様に勉強家が多い。一言で言えば自分たちの体験を一般庶民の立場のまま、歴史認識にまで高めている。

 いいづらいことだが、原爆被爆者の人たちと話しをしてみて、決定的に違うのはこの点だ。原爆被爆者の多くは、目が過去の体験に凍結している。現在の政治情勢とつながっていない。別な云い方をすれば「核兵器反対、ノーモアヒロシマ」という垣根から一歩も出ることができないでいる。大久野島毒ガス障害者一般と較べて、一般庶民レベルでの歴史認識が希薄なのである。

 大久野島毒ガス障害者の人たちの「加害者意識」がその歴史認識を高めたのだと云えなくもない。