(2009.5.13)

(註へ) (その2へ)


<参考資料> 外交問題評議会 
     (Council on Foreign Relations―CFR) その1

外交問題評議会については註を参照のこと



外交問題評議会

 外交問題評議会(*日本語Wikiによると「外交関係評議会」と日本語表記されることもあるという。)はアメリカの超党派による(*nonpartisan)外交政策のための会員制機関である。1921年(*大正10年)に設立され、本部をニューヨーク市東68丁目58番地(パーク・アベニューに面している。)におく。またワシントンDCにも事務所をもっている。

(* どうでもいいことである。この記述によれば、外交問題評議会はマンハッタンのど真ん中にある。マンハッタンは、最南端の一部を除いて、ほぼ碁盤の目のように道路が南北東西に走っている。マンハッタンでは南北にまっすぐ走る道路をアベニュー=Avenueと呼び、東西に走る道をストリート=streetと呼んでいる。有名なブロードウエイ=Broadwayは、例外的にほぼ斜めに走っている。マンハッタンの中央部をほぼ南北に走っている道がフィフス・アベニューである。フィフス・アベニュー=5番街を中心にして東側がイースト=East、西側がウエスト=Westであり、5番街を中心にして東西に順に番地がつけられている。現地の日本人社会では、アベニューを“番街”、ストリートを“丁目”と呼び習わしている。だから外交問題評議会の住所が東68丁目の58番地にある、ときけば、ああパーク・アベニューに面しているのだろうな、とおおよそ見当がつく。パーク・アベニューの42丁目から65丁目くらいまでは、ある意味アメリカの頭脳と権力の中枢である。名だたる機関の事務所がずらりとならぶ。たとえばニューヨーク日本総領事館も48丁目と49丁目の間のパーク・アベニューのビルにあるし、外国の要人が宿泊することで有名なウォルドルフ・アストリア・ホテルも、日本総領事館のすぐ近くのパーク・アベニューにある。権力の所在が二重、三重構造になっている「帝国アメリカ」を象徴するのが、パーク・アベニューのこの地域である。)

 国際的なジャーナリストやアメリカの伝統的な保守主義者(paleoconservatives)の中には、国際問題評議会はアメリカの外交政策にもっとも影響力のある民間機関であるという人もいる。国際問題評議会は、隔月刊でジャーナル、「フォーリン・アフェアーズ」を発行している。広範な話題を持つウェブサイトももっており、そのシンクタンクへのリンクを特徴としている。


外交問題評議会の使命

 評議会のミッションは、世界にアメリカの役割と外交政策の理解を促進することにある。アメリカ政府高官、世界のリーダーや著名な人々が、主要な外交問題について討論するような会議が招集されている。国際問題について著名な研究者を雇用したシンクタンクを有しており、そうしたシンクタンクに研究の結果として生ずる本や報告書の発行の権利を与えている。評議会の中心的な目的は、「次世代の外交政策のリーダーたちを発掘し、育てること。」と述べている。1995年、政策討議を活発化するため、「独立タスクフォース」(Independent Task Force)を創設した。この独立タスクフォースは異なる専門性やバックグラウンドをもった多様な専門家で構成され、重要な問題に関し政策提言を行うべく合意形成を模索している。最近、評議会は50回以上の会合を持っている。

 「デビッド・ロックフェラー研究プログラム」(The David Rockefeller Studies Program)は内部シンクタンクであり、研究員を指定している。研究員たちの諸計画は現在進行形で討議されている外交政策の目標に対して統合的に配置されている、と形容できよう。

 評議会の当初、共同創立者のエリヒュー・ルート(Elihu Root)は、グループの使命について、その機関誌「フォーリン・アフェアーズ」で、アメリカの輿論を「導く」べきであると要約している。1970年代の初めごろ、評議会はその使命を変更、むしろ「輿論」に対して知らしめるべき、とした。

(* デビッド・ロックフェラー。David Rockefeller, Sr. 1915年生まれ。ロックフェラー一族の当主。石油王ジョン・D・ロックフェラーの孫のうち唯一の生存者。ロックフェラー財閥の総帥。なお外交問題評議会の名誉会長。元チェース・マンハッタン銀行の会長兼頭取。もうなんといっていいか分からない。
英語Wikipedia<http://en.wikipedia.org/wiki/David_Rockefeller>もいろいろ書いているが、もうなんと言っていいか分からない状態である。いまから30年以上も前になるが、デビッドはチェース・マンハッタン銀行の頭取だった。仕事でチェース・マンハッタン銀行東京支店のある調査役に取材にいった。たまたま近々デビッドが東京にくるということで、支店中が大騒ぎだった。まるで「神様」か、日本風にいうなら天皇がやってくるみたいな雰囲気だったのを思い出す。確か日本から中国へ行った、と記憶している。)
 


早期の歴史

 評議会は、その最も早い起源を、「ジ・インクワイヤリー」(The Inquiry)と呼ばれる研究者集団に求めることができる。約150名の研究者のグループで、ドイツが敗北した後の戦後世界で、ウッドロー・ウイルソン大統領が取り得る選択肢に関し、大統領に説明することをその仕事としていた。1917年から1918年にかけて、この学術集団はニューヨーク市のブロードウエィと155丁目の角にある「ハロルド・プラット・ハウス」に集まって、戦後世界の戦略について討論した。この中には、ウイルソンの最も近しい友人でありアドバイザーであったエドワード・M・ハウス大佐やウォルター・リップマンなども含まれていた。

 このチームは、和平会談(*これは1919年のパリ講和会議のこと)においてウイルソンにとって有益だと思われる世界的な政治、経済、社会事実に関する分析や詳述した文書を2000点以上も作成した。これら報告書は、戦争終結後のウイルソンの平和戦略の骨格を示した「14ヶ条の原則」(*Fourteen Points)の基盤を形成した。

(* ウッドロー・ウイルソン=Woodrow Wilson
<http://ja.wikipedia.org/wiki/ウッドロウ・ウィルソン>
 
アメリカ第28代大統領。メキシコ革命に干渉、ハイチを保護国化するなど、ラテン・アメリカへの帝国主義的進出を強める一方、1918年初めには有名な「14ヶ条の原則」を提唱した。
エドワード・M・ハウス=Edward M. House
<http://en.wikipedia.org/wiki/Edward_M._House>
 
アメリカの外交官・政治家。ハウス大佐の方が通りがいいそうだ。地盤はテキサス。ウイルソンの外交に関するアドバイザーであり、ウイルソン政権の対ヨーロッパ外交の主導者。第一次世界大戦後のパリ講和会議ではアメリカ全権副代表を務めている。―代表はウイルソン自身。
ウォルター・リップマン=Walter Lippmann
<http://ja.wikipedia.org/wiki/ウォルター・リップマン>
 
アメリカのジャーナリスト、政治評論家。ウイルソンのアドバイザーを務め、「14ヶ条の原則」の起草にも関わったとされる。第二次世界大戦後、マッカーシズム=赤狩り、ベトナム戦争には批判的な論陣を張った。)


 これら研究者たちは1919年、パリ講和会議に同行した。1919年は第一次世界大戦が終結した年である。イギリスの小さなグループとアメリカの外交官や研究者たちがマジェスティック・ホテルで会合をもったのは1919年5月30日のことだった。この時アメリカの評議会とそのイギリスにおける連携機関である、ロンドンのチャタム・ハウスが生まれたのである。2つの組織のもともとの意図は関連していたものの、それぞれ独立した組織体となった。しかし非公式には密接なつながりを持つことになった。
 
チャタム・ハウス<the Chatham House>
<http://en.wikipedia.org/wiki/Chatham_house>

または<http://ja.wikipedia.org/wiki/王立国際問題研究所> 
正式な名称は、「Royal Institute of International Affairs」である。日本語Wikiによると王立国際問題研究所と訳されているが、あくまで非政府系、非営利の団体である。チャタム・ハウスと呼ばれるのは、その所在地の名前をとったもの。非アメリカ系の、国際政治問題に関するシンクタンクとしては世界一とされている。国際問題評議会のイギリス版と思えば間違いない。ここで重要なことは、アメリカの国際問題評議会はその誕生のいきさつから、米英中心の世界戦略、スティムソンがその論文でよく遣う言葉でいえば、「アングロ・アメリカン・ブロック」のための世界戦略を構築するシンクタンクである、という点だ。)

 この会合に出席した中から、エドワード・ハウスと分かれるものが出てきた。その中には以下のメンバーが含まれている。

 ポール・ウォーバーグ。
<Paul Warburg>
<http://en.wikipedia.org/wiki/Paul_Warburg>

1868年生。ドイツ系ユダヤ人(アメリカ市民)の銀行家。連邦準備システムの提唱者。ニューヨークの投資会社クーン・ローブの創始者、ソロモン・ローブの娘と結婚。ウェルス・ファーゴ社の取締役の後、1914年連邦準備制度の理事に就任。1921年外交問題評議会が創設された時の創始者の一人。マンハッタン銀行の頭取も務める。)


ハーバート・フーバー
<Herbert Hoover>
<http://en.wikipedia.org/wiki/Herbert_Hoover>

1874年生。アメリカ第31代大統領。)


ハロルド・テンパーリー
<Harold Temperley>
<http://en.wikipedia.org/wiki/Harold_Temperley>
 
1879年生。イギリスの歴史学者。ケンブリッジ大学教授。)


ライオネル・カーティス
<Lionel Curtis>
<http://en.wikipedia.org/wiki/Lionel_Curtis>
 
1872年生。イギリスの高級官僚、著作家。イギリス連邦制度の提唱者であり、晩年は世界連邦制度を提唱した。)


ユースタス・パーシー
<Lord Eustace Percy>
<http://en.wikipedia.org/wiki/Eustace_Percy,_1st_Baron_Percy
_of_Newcastle>

1887年生。イギリスの保守党政治家。上級男爵。)


クリスチャン・ハーター
<Christian Herter>
<http://en.wikipedia.org/wiki/Christian_Herter>
1895年生。アメリカの政治家。アイゼンハワー政権下で第53代国務長官。前任者はジョン・フォスター・ダレス、後任者はディーン・ラスク。ケネディ政権下で初代アメリカ通商代表を務めている。もともとは法律家出身の外交官。)


ジェームス・トムソン・ショットウェル
<James Thomson Shotwell>
<http://en.wikipedia.org/wiki/James_T._Shotwell>
1874年生。カナダ生まれのアメリカの歴史学者。コロンビア大学。1919年に成立した国際労働機関―ILO設立に尽力し、また国連人権憲章作成にも影響力があった。)


アーチボルト・ケアリー・クーリッジ
<Archibald Cary Coolidge>
<http://en.wikipedia.org/wiki/Archibald_Cary_Coolidge>
1866年生。アメリカの教育家。ハーバード大学歴史学教授。)


チェールス・シーモア
<Charles Seymour>
<http://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Seymour>
1885年生。アメリカの歴史家。元イェール大学学長。外交家としても力を尽くした。)


 1938年、彼らはアメリカ中で国際問題に関する様々な委員会を作った。これらは後にワシントンDCのアメリカ国際問題委員会(*the American Committees on Foreign Relations)に統括されていく。

(* アメリカ国際問題委員会<the American Committees on Foreign Relations><http://www.acfr.org/> )


組織について

 外交問題評議会はその当初から、超党派であり、共和党、民主党のメンバー双方とも歓迎した。またユダヤ人、アフリカ系アメリカ人もメンバーとして歓迎した。一方女性ははじめの頃はメンバーから排除された。こうした動きはほとんど世界的であり、私的なものであり、また秘密裏に行われていた。最初から、国務省やその他の政府の高官たちの名簿と、評議会のメンバーの名簿が重なっていたため、評議会はアメリカ政府の外交政策に大きな影響力を持つと見なされた。このように、評議会は論議の的になってきた。外交問題評議会に関する2人の批評家、ローレンス・シャープとウイリアム・ミンスターの研究によると、1945年から1972年の間での全ての政府高官のうち502名が、評議会のメンバーだった。これは同時期評議会メンバーの半数以上だった。

ローレンス・シャープ<Laurence Shoup>とウイリアム・ミンスター<William Minster>は、共著で外交問題評議会に関する「The Imperial Brain Trust」という本を書いている。)


 今日外交問題評議会のメンバーは、5年メンバーを含めて約4300人いる。上級職に就いた政治家たち、1ダース以上の国務長官、元国家安全委員会の高官たち、銀行家、法律家、元CIAの高官たち、教授たち、マスメディアの有力者たちなどが含まれている。しかし、民間機関として、国際問題評議会(=CFR。以下同じ)は、アメリカの外交政策立案に関わる公式な機関ではないことを、そのWebサイトを通じて表明している。

 1962年、選抜された空軍の高官が研究者と共に、ハロルド・プラット・ハウスに集まりある研究をするグループが発足した。陸軍、海軍、海兵隊も彼らの幹部のために同様の計画をスタートさせる必要に迫られていた。ベトナムがそのような裂け目を組織の中に作ったのである。1970年、45年間も“フォーリン・アフェアーズ”の舵取り役を務めたハミルトン・フィッシュ・アームストロングが、引退を発表した時、新たに評議会会長に就任していた、デビッド・ロックフェラーは、ロックフェラー家の友人でもあるウイリアム・バンディをアームストロングの後任に指名した。評議会内の“戦争反対”主唱者たちは、この人事に抗議の声を上げた。タカ派としてのバンディの、国務省、国防総省、CIAにおける過去の記録は、バンディが“フォーリン・アフェアーズ”誌の独立性を乗っ取る前奏曲だというのがその理由だった。あるものは、バンディはその以前の行為から戦争犯罪人だと見なすものもいた。

(* ハミルトン・フィッシュ・アームストロング<Hamilton Fish Armstrong>
<http://en.wikipedia.org/wiki/Hamilton_Fish_Armstrong>
1893年生。アメリカの外交家、編集者。もともとジャーナリストだったが、1922年、アーチボルト・ケアリー・クーリッジとともにファオーリン・アフェアーズの編集主幹となる。1928年クーリッジが死去すると、アームストロングは編集長に就任、以後72年に実際に引退するまで、編集長を務めた。
ウイリアム・バンディ<William Bundy>
<http://en.wikipedia.org/wiki/William_Bundy>
1911年生。アメリカの高級官僚。というより有名なバンディ兄弟の長兄。父親のハーベイ・バンディは、陸軍長官だったヘンリー・スティムソンの有能な補佐官だった。弟のマクジョージ・バンディは、スティムソンが47年に発表した有名な論文「原爆使用の決断」の実質的なゴースト・ライターだったと見なされている。ウイリアムはCIAを振り出しに官僚としてスタートし、ケネディ、ジョンソン時代のベトナム戦争を実質的に指導した人物の一人と考えられている。この記事でウイリアムが“戦争犯罪人”と見なす人たちがいた、といっているのはベトナム戦争時代のことを指していると思われる。)


 7人のアメリカ大統領が、外交問題評議会で演説し、うち2人、すなわちビル・クリントンとジョージ・ウォーカー・ブッシュの2人は大統領就任中に演説している。

 ジャーナリストのジェセフ・クラフトは、彼自身外交問題評議会とトリラテラル委員会の元メンバーだが、評議会は「C・ライト・ミルズが“パワー・エリート”、表舞台から身を隠し、脆弱な地位から問題に鋭く切り込み、同じ利益を共有し、同じような外観をもっている人たちのグループ、と呼んだ機構にもっとも近い。」といっている。

(* ジョセフ・クラフト<Joseph Kraft>
<http://en.wikipedia.org/wiki/Joseph_Kraft>
1924年生。ワシントン・ポスト、ニューヨーク・タイムスの記者をへてジョン・F・ケネディのスピーチ・ライターになる。彼がアメリカの新聞シンジケートに連載したコラムは200以上にもなる。
トリラテラル委員会<the Trilateral Commission>
<http://en.wikipedia.org/wiki/Trilateral_Commission>
または<http://ja.wikipedia.org/wiki/日米欧三極委員会>
日本語では三極委員会と呼ばれている。これも正体のはっきりしない民間機関である。ここにもデビッド・ロックフェラーの影がある。
C・ライト・ミルズ<C. Wright Mills>
<http://en.wikipedia.org/wiki/C._Wright_Mills>
または<http://ja.wikipedia.org/wiki/ライト・ミルズ>
アメリカの社会科学者。「ホワイト・カラー」「パワー・エリート」は有名。惜しいことに46歳で死去した。)


 経済学者のジョン・ケネス・ガルブレイスは、1970年にメンバーを辞任した。その時彼は評議会の企業活動部会(Corporate Services)で、経済界のトップたちと1年に2回会合を開き、オフレコで政府の高官たちが政策説明をしていることを、反対理由に挙げた。評議会は、もともと公共セクターと共有することのない政府の政策立案書類のための受け皿を目指しているのではないと、いった。またメンバーでもある政府の高官たちにそうすることを鼓舞することもない、ともいった。評議会によると、本部の中での討論が秘密であるのは、秘密の情報について討論したり、共有するためではなく、新しい考え方を他のメンバーと共にテストする機構のためだ、という。

ジョン・ケネス・ガルブレイス<John Kenneth Galbraith>
<http://en.wikipedia.org/wiki/John_Kenneth_Galbraith>
または<http://ja.wikipedia.org/wiki/ジョン・ケネス・ガルブレイス>
1908年生。カナダ生まれのアメリカの経済学者。というよりすでに文明批評家の域に達している。私は彼の名前を、米国戦略爆撃調査団<太平洋戦争―広島・長崎への原爆攻撃の効果>のメンバーの中に発見して驚いたことがある。また彼には、軍産複合体制について書いた短い冊子がある。)


 アーサー・M・シュレジンジャー・ジュニアはケネディ政権のことを書いた本、「1000日」の中で、ケネディは「ニューヨーク・エスタブリッシュメント」の一員ではなかったとした上で、次のように書いている。
 
特に彼は(*ケネディは)ニューヨークの法曹界や金融界に知己をほとんど持たなかった。――ニューヨークの法曹界や金融界は、常にオーソドックスで安定した人材を供給しており、またしばしば共和党といわず民主党といわず、政権に人材を送り込む才能の兵器庫だった。この社会(*community)は、アメリカの支配層(establishment)の心臓部だった。その手持ちの神々(deities)は、ヘンリー・スティムソンでありエリヒュー・ルートだった。その現在のリーダーたちは、ロバート・ロベットやジョン・J・マクロイである。その最前線に立つ機関は、ロックフェラー財団、フォード財団やカーネギー財団、外交問題評議会であり、彼らの機関誌は、ニューヨーク・タイムスであり、フォーリン・アフェアーズである。』

(* アーサー・シュレジンジャー・ジュニア<Arthur Schlesinger, Jr.>
<http://en.wikipedia.org/wiki/Arthur_M._Schlesinger,_Jr.>
または<http://ja.wikipedia.org/wiki/アーサー・シュレジンジャー>
1917年生。父親のシュレジンジャー・シニアとともにアメリカの歴史家。ジョン・F・ケネディの特別大統領補佐官であり、宮廷歴史家でもあった。ロバート・ケネディの大統領選挙を支持した。「帝国大統領制」<Imperial Presidency>は彼の造語である。
ヘンリー・スティムソンについては別途に<参考資料>ヘンリー・ルイス・スティムソンの略歴を用意しているのでそちらを参照されたい。
エリヒュー・ルート<Elihu Root>
<http://en.wikipedia.org/wiki/Elihu_Root>
または<http://en.wikipedia.org/wiki/Elihu_Root>
1845年生。ニューヨークの法律家で外交問題評議会の共同創立者の一人。第38代国務長官、第41代陸軍長官。ノーベル平和賞受賞者。スティムソンはこのエリヒュー・ルートの法律事務所でそのキャリアのスタートを切っており、スティムソンにとってルートは自分の規範となるべき先達であった。なお、日本語Wikiではエリフ・ルートと表記しているが、これはエリヒューと表記するのが正しいのではないかと思う。私が間違っているかも知れない。
ロバート・ロベット<Robert Lovett>
<http://en.wikipedia.org/wiki/Robert_A._Lovett>
1985年生。これはまた大物の名前が出てきたものである。ジョージ・マーシャルの後をついで第4代国防長官。トルーマン政権下である。その前にやはりトルーマン政権下で、第15代国務次官を務めている。前任者はディーン・アチソンだった。朝鮮戦争の立役者で「冷戦の構築者」の異名がある。
ジョン・J・マクロイ<John J McCloy>
<http://en.wikipedia.org/wiki/John_J._McCloy>
1895年生。スティムソンが陸軍長官の時の陸軍長官補佐官で、のちに副長官。ハーベイ・バンディともにスティムソンを支えた。スティムソン日記を読むとしょっちゅう「J・J・マクロイ」の名前が出てくる。)


モルガンとロックフェラーの関与

 パリ講和会議から戻ったアメリカ人のグループは、ニューヨークの金融家と国際的法律家からなるグループで、すでに1918年6月に組織されていたのだが、ニューヨークの控えめな、あるクラブに引きこもった。このグループは、J・P・モルガンの弁護士でもあった、エリヒュー・ルートをリーダーとしていたが、自らを「国際問題評議会」と呼んだ。そして1921年(=大正10年)7月29日に正式に評議会が設立された。エリヒュー・ルートをトップとし、地理学者のイザヤ・ボーマンとジョン・W・デイビスが創立時理事(Director)で、デイビスが理事長(*President)になった。この時の創立メンバーは108人だった。デイビスは、J.P.モルガン商会(J. P. Morgan & Co.)の主席顧問であり、ウイルソン政権の前国訴務長官(Solicitor General)だった。デイビスはまた1924年の大統領選挙に民主党候補として出馬する。

(* 国訴務長官=Solicitor General。米連邦最高裁判所において、米連邦政府を代表して訴訟遂行業務にあたる役職。なお、この役職の日本語名は、研究社「英和大辞典」では国訴務局長となっており、日本語Wikiでは国訴務長官となっている。<http://ja.wikipedia.org/wiki/アメリカ合衆国訟務長官>法務省下の役職なので局長の方が適訳と思えるが、日本語Wikiに従っておく。
イザヤ・ボーマン<Isaiah Bowman>
<http://en.wikipedia.org/wiki/Isaiah_Bowman>
1878年生。アメリカの地理学者で、ウイルソン大統領の顧問を務めた。
ジョン・W・デイビス<John W. Davis>
<http://en.wikipedia.org/wiki/John_W._Davis>
または<http://ja.wikipedia.org/wiki/ジョン・W・デイビス>
1873年生。アメリカの政治家、外交家、法律家。国訴務長官も務めている。1924年民主党大統領候補となり、カルビン・クーリッジに敗れている。
J・P・モルガン商会<J. P. Morgan & Co.>
2000年にチェース・マンハッタン銀行がJ・P・モルガン商会を買収する形で現在のJPモルガン・チェース銀行が誕生している。J・P・モルガン商会については、別途に項を起こさなければならない。
<http://en.wikipedia.org/wiki/JPMorgan_Chase#J.P._Morgan_.
26_Company>

または<http://ja.wikipedia.org/wiki/JPモルガン・チェース>


 創立時のメンバーには、ジョン・フォスター・ダレス、ハーバート・H・リーマン、ヘンリー・ルイス・スティムソン、アベレル・ハリマン、アイビー・リー、ポール・ウォーバーグ(=前出)、オットー・カーンなどがいた。

(* ジョン・フォスター・ダレス<John Foster Dulles>
<http://en.wikipedia.org/wiki/John_Foster_Dulles>
または<http://ja.wikipedia.org/wiki/ジョン・フォスター・ダレス>
1888年生。アイゼンハワー政権下の第52代国務長官。冷戦初期の主要人物で、反共産主義の巨頭と目されていた。1953年イランのモサデク民主主義政権、1954年グアテマラのアルベンツ民主主義政権を、CIAを使って転覆させたのも彼の戦略と目されている。またフランスのインドシナ動乱に介入、原子爆弾の使用をフランスに提案した。しかし矛盾したことに、1945年トルーマン政権が広島に原爆を投下した直後、全米キリスト教連邦会議は直ちに抗議の電報をトルーマンに送ったが、そのとき「正義と恒久平和に関する委員会」の委員長だったダレスは、激しく抗議している。彼の個人的信条と政治的行動は明らかに矛盾している。
ハーバート・H・リーマン<Herbert H Lehman>
<http://en.wikipedia.org/wiki/Herbert_H._Lehman>
1878生。投資銀行で有名なリーマン・ブラザーズのリーマン兄弟の一人。ハーバートは金融家の道を歩まずに政治家となった。民主党でニューヨーク選出の下院議員を務めた他、ニューヨーク州知事にもなった。リーマン・ブラザーズ自体は、よく知られているとおり2008年の世界金融危機の際、見捨てられる形で倒産した。
アベレル・ハリマン<Averell Harriman>
<http://en.wikipedia.org/wiki/W._Averell_Harriman>
または<http://ja.wikipedia.org/wiki/W・アヴェレル・ハリマン>
1891年生。アメリカの民主党政治家、実業家、外交家。第11代商務長官=トルーマン政権下。第二次世界大戦中、駐ソ連アメリカ大使として、ルーズベルト政権、トルーマン政権で重要な役割を演じている。またニューヨーク州知事も務めている。南満州鉄道買収を桂太郎に持ちかけた鉄道投資王、E・H・ハリマンの息子である。
アイビー・リー<Ivy Lee>
<http://en.wikipedia.org/wiki/Ivy_Lee>
1877年生。アメリカのジャーナリスト、ストリンガー。というよりも近代的PR業務の創始者と見なされている。彼の重要な顧客にロックフェラー家があった。
オットー・カーン<Otto Kahn>
<http://en.wikipedia.org/wiki/Otto_Kahn>
1867年生。アメリカの投資銀行家。ドイツ生まれだがイギリスの市民権を取得。その後アメリカに渡り結婚。義理の父がパートナーだった投資会社クーン・ローブに参加した。そしてアメリカ市民権を取得。そしてクーン・ローブの成功が彼を金融界の大立て者の一人に押し上げた。クーン・ローブはその後一時モルガン財閥と張り合うほどになったが、戦後はリーマン・ブラザースに吸収され、クーン・ローブの名前は消えることになった。)


 当初、外交問題評議会は、モルガンと利益関係を持つ人々との強いつながりがあった。法律家のポール・クラバスなどがそうである。クラバスのニューヨークの法律事務所(後にカラバス・スウエイン・アンド・ムーア法律事務所と名付けられる)はモルガンの仕事を代表していた。またモルガンのパートナーの一人、ラッセル・コーネル・レフィングウエルは、のちに評議会の会長になる。評議会の財政委員会委員長アレキサンダー・ヘンフィルは、モルガン・ギャランティ・トラストの会長でもあった。ニューヨーク・イブニング・ポスト紙の編集長だった経済学者のエドウィン・F・ゲイは、評議会のセクレタリー兼トレジャラーだったが、そのニューヨーク・イブニング・ポスト紙はモルガンのパートナーであるトーマス・L・ラモントが所有していた。このほかにモルガンと密接に関係をもっていたメンバーをあげると、元国務次官のフランク・L・ポークはJ.P.モルガン商会の弁護士だったし、元ウイルソン政権の国務次官だったノーマン・H・デイビスは、モルガン家の銀行業務担当役員だった。しかしながら時が経つにつれ、冷酷にも権力の中心はロックフェラー家へと移っていった。ポール・クラバスの法律事務所は、またロックフェラー家をも代理していた。エドウィン・ゲイは、季刊雑誌「フォーリン・アフェアーズ」の創刊を提案した。彼はアーチボルト・ケアリー・クーリッジを初代編集長に、そしてニュートーク・イブニング・ポストの記者だったハミルトン・フィシュ・アームストロングを編集長補に推した。クーリッジは評議の執行理事を兼任した。

(* ポール・クラバス<Paul Cravath>
<http://en.wikipedia.org/wiki/Paul_Cravath>
1861年生。世界でもっとも格式の高いとされるニューヨークの法律事務所Cravath, Swaine & Mooreのパートナー。
ラッセル・コーネル・レフィングウエル<Russell Cornel Leffingwell>
<http://en.wikipedia.org/wiki/Russell_Cornell_Leffingwell>
1878年生。アメリカの銀行家。カーネギー財団のトラスティ。銀行家としてはJPモルガンでスタートした。1950年に同社の会長として引退している。
アレキサンダー・ヘンフィル<Alexander Hemphill>
<http://www.smokershistory.com/guaranty.htmのAlexander J. Hemphillの項参照>
1856年生。19歳の時に鉄道会社の会計係を皮切りにモルガン・ギャランティ・トラストの社長、会長まで上り詰めた。
エドウィン・F・ゲイ<Edwin F. Gay>
<http://oasis.lib.harvard.edu/oasis/deliver/~hou01203>
1867年生。アメリカの経済史家。ハーバード大学ビジネス・スクールの初代学長。1919年にニューヨーク・ポスト社の編集主幹兼社長に就任。この時、ラモントが同社を買収した。当時発行していた新聞がEvening Post。現在はニューヨーク・ポストを発行し、ルパート・マードック傘下である。
トーマス・L・ラモント<Thomas W. Lamont>
<http://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_W._Lamont>
1870年生。アメリカの銀行家。J.P.モルガン商会のパートナーとなり、20年代30年代と海外投資アドバイサーとなった。パリ講和会議ではアメリカ代表団に加わり、財務省の代表にもなった。1920年アジアにおけるアメリカ金融界の利益を守るため、半ば公的な使節団の一員として日本を訪れている。これは恐らく対支四国借款団のときだろう。1943年、J.P.モルガン商会の会長に就任。
フランク・L・ポーク<Frank L. Polk>
<http://en.wikipedia.org/wiki/Frank_Polk>
または<http://ja.wikipedia.org/wiki/フランク・ライアン・ポーク>
1871年生。アメリカの有名な法律家。世界でも有数の企業向け弁護士事務所、Davis Polk & Wardwellの名義パートナー。1919年初代国務次官に就任している。
ノーマン・H・デイビス<Norman H. Davis>
<http://en.wikipedia.org/wiki/Norman_Davis>
または<http://ja.wikipedia.org/wiki/ノーマン・デイヴィス_(外交官)>
1878年生。アメリカの外交官、実業家。大統領ウイルソンに仕え、国務次官に就任した。)


 最初のうちだけだったが、ジョン・D・ロックフェラー・ジュニアも定期的な寄贈者になって、毎年寄付をしたし、彼の会社も東65丁目にある評議会本部に多額の寄付金を送った。1944年、スタンダード石油の重役だったハロルド・I・プラットの未亡人は、パーク・アベニューと68丁目の角にあったプラット家の4階建ての邸宅を評議会に寄付した。これが現在も「ハロルド・プラット・ハウス」として評議会の本部建物となっている。

(* ジョン・D・ロックフェラー・ジュニア<John D. Rockefeller, Jr.>
<http://en.wikipedia.org/wiki/John_D._Rockefeller,_Jr.>
または<http://ja.wikipedia.org/wiki/ジョン・ロックフェラー2世>
1874年生。英語Wikiは、彼をフィランソロピストとして紹介しているが、それには間違いはないが、どうだろうか。とにかく、スタンダード石油グループを作り上げたジョン・ロックフェラーの一人息子であり、ロックフェラー財閥の当時の総帥であった。なんともいいようがないが、ロックフェラー財閥の基礎を作ったのは、ジュニアの時代だろう。大恐慌を通じて資本の集中と集積を強め、ニューヨーク市最大の地主となっただけでなく、現在JPモルガン・チェース銀行となっている旧チェース・マンハッタン銀行の基礎を築いたのも彼の時代だ。有名なロックフェラー5人兄弟の父親としても大成功した。現在イースト・リバー沿いの国連本部の敷地はロックフェラー家の寄付によるものである。
ハロルド・I・プラット<Harold I. Pratt>
<http://en.wikipedia.org/wiki/Harold_I._Pratt>
1877年生。アメリカの石油産業家。スタンダード石油の重役。というよりアメリカの石油産業のパイオニア、チャールス・プラットの息子といった方がいいかもしれない。チャールスは石油産業企業を興したが、その会社はのちに、ロックフェラーのスタンダード石油に吸収される。)


 ロックフェラーの息子たちも何人かは、その年齢になると評議会に参加した。1949年にデビッドが理事に就任した時、彼は最年少の理事となった。(*デビッドは1915年生まれだから、30代半ばで評議会理事となったことになる。)その後1970年から1985年まで評議会会長を務め、現在彼は名誉会長である。1940年、彼が兄弟とともに設立した代表的な慈善団体、ロックフェラー・ブラザース財団はずっと評議会に、1953年から少なくとも1980年まで、資金援助をしている。

(* ここは英語としておかしな表現の仕方をしている。資金援助は1953年から少なくとも1980年までといいながら、資金援助している、のところはちゃんと現在完了形になっている。つまり過去のことを言っていなくて、現在も続いているとしか読めない。英文法上の誤りなのか、それとも別なことを言いたいのか、私にはわからない。)


 外部からの資金援助のもう一つの柱は「企業セクター」である。1920年代、26社に及ぶ企業が評議会に資金援助を提供していた。評議会の支配的エリートの中の学者や研究者の極めて重要な討論審議に、こうした企業の業務上の関心事を注入する機会を掴むことも同時に行われた。それに加えて、1937年カーネギー財団が資金を投入した。これによって、評議会は活動範囲を広げ、全米の8都市でその元の形を消し去る形で、同じ機構を構築していった。

(* カーネギー財団<Carnegie Corporation>
<http://en.wikipedia.org/wiki/Carnegie_Corporation_of_New_York>または<http://www.carnegie.org/>
カーネギー財団と日本語で訳したが、法人名はCarnegie Corporationで、歴とした営利会社である。主要業務は信託基金の運用と慈善事業への寄付行為である。
同社年次報告書
<http://www.carnegie.org/pdf/CCNY-AR08-18.pdf>参照のこと。
Carnegie Foundation という言い方もあるが、これは正式法人名ではなく、この筋をたどるとCarnegie Corporation of New Yorkに突き当たる。日本語ではカーネギー財団についてまともな説明をしたサイトは見当たらない。)


 第二次世界大戦後、ジョン・J・マクロイ(*前出)は、評議会にとって最も影響力のある人物の一人となった。また彼はモルガン・グループ(the Morgans)とロックフェラー・グループ(the Rockefellers)の両方にコネクションがあった。第二次世界大戦中は、陸軍長官ヘンリー・スティムソン(彼はまたJ.P.モルガンの弁護士だったが)の補佐官として、マクロイは重要なアメリカの戦争政策を統括した。マクロイの義理の兄弟にあたるジョン・ジンサー(*John Zinsser。この人物についてはよく分からない。マクロイの妻、エレンの兄弟にあたることは間違いない。)は戦争の間、J.P.モルガン商会の取締役の一人だった。戦後マクロイはニューヨークの法律事務所、ミルバンク・トュイード・ホープ・ハドリー・アンド・マクロイに参加しパートナーの一人となる。その法律事務所は長い間、ロックフェラー家とチェース・マンハッタン銀行の法律顧問を務めていた。マクロイはチェース・マンハッタン銀行の会長に就任し、ロックフェラー財団の理事を務め、1953年から1970年の間、外交問題評議会理事会会長を務めている。ハリー・S・トルーマン大統領は、世界銀行グループの総裁に任命し、また駐ドイツ高等弁務官にも任命している。また、ケネディ大統領の軍縮担当の特別補佐官やキューバ危機の時の特別委員会の委員長も務めた。彼は戦後のアメリカの外交政策にもっとも大きな影響を与えた人物といわれている。マクロイの義理の兄弟、ルイス・W・ダグラスも外交問題評議会の理事を務め、またロックフェラー財団のトラスティの一人だった。トルーマンはダグラスをイギリス大使に任命している。

(* ここらへんのマクロイの経歴は、
<http://en.wikipedia.org/wiki/John_J._McCloy>
ニューヨーク・タイムスの訃報
<http://www.nytimes.com/1989/03/12/obituaries/john-
j-mccloy-lawyer-and-diplomat-is-dead-at-93.html>
にも詳しい。 
ルイス・W・ダグラス<Lewis W. Douglas>
<http://en.wikipedia.org/wiki/Lewis_Williams_Douglas>
または<http://ja.wikipedia.org/wiki/ルイス・ウィリアムズ・ダグラス>
1894年生。アメリカの政治家、外交家、実業家。イギリス大使就任時の前任者は例のアベレル・ハリマンである。戦前アメリカン・サイアナミッドの副社長を務めていたことがある。また下院議員も務めている。)



外交政策における影響

 1939年(*昭和14年)から続く5年間の間、評議会は政府と国務省にその名を広めていった。完全な秘密厳守の「戦争と平和研究」(War and Peace Studies)のためだった。これは100%ロックフェラー財団の資金で行われた研究である。このグループを取り巻く秘密性は、たとえばその当時663名いたメンバーでも全く議論されず、研究グループの存在自体も全く知らされていないほどだった。その研究は4つの機能的テーマ・グループに分かれていた。すなわち「金融と経済」「安全保障と軍備」「領土」「政治」である。「安全保障と軍備」グループはアレン・ウエルシュ・ダレスを長としていたが、彼は後にCIAとなる前身組織のOSSの肝心要を握る人物となる。そのグループは最終的に国務省に対して682点のメモランダムを作成するのだが、完全秘密とされ、政権内部の適切な人物にだけ回された。歴史的に見て、その当時の政府の計画に対してどれほど全体的影響を与えたかは、まだ評価が定まっていない、といわれている。

(* アレン・ウエルシュ・ダレス<Allen Welsh Dulles>
<http://en.wikipedia.org/wiki/Allen_Dulles>
または<http://ja.wikipedia.org/wiki/アレン・ウェルシュ・ダレス>
1893年生。厳密にはダレスの役職は、中央情報長官=Director of central intelligenceである。事実上のCIA長官でもある。ダレスはもともと法律家であり、有名な法律事務所サリバン・クロムウェルのパートナーでもあった。
OSS=the Office of Strategic Services 第二次世界大戦中の戦時諜報機関。1947年にトルーマンによってCIAに吸収統括される。でも日本語のインターネットの世界はOSSとかCIAというと何故こんなに張り切ってしまうんだろうか?)


 1947年フォーリン・アフェアーズ誌に「ソヴィエトの行動の源泉 」(The Sources of Soviet Conduct)」と題する無署名論文が掲載された。外交問題評議会の研究グループのメンバーであったジョージ・ケナンが「封じ込め」(*containment)という言葉を創り出した論文でもある。この論文はその後7代にわたるアメリカの大統領政権の外交政策に大きな影響を及ぼした論文であるということができよう。40年後、ケナンはソ連がアメリカを物理的に攻撃できるという理由でソ連を封じ込めるといったつもりはない、それは論文の中であまりにも明らかで、説明の必要もないと思った、と説明している。ウィリアム・バンディはNATO及びマーシャル・プランの考え方の枠組み作りで、外交問題評議会の研究グループの果たした役割を大きく評価している。

 グループへの新たな関心のために、メンバーは1000人へと大きくなっていった。

(* ジョージ・ケナン<George Kennan>
<http://en.wikipedia.org/wiki/George_F._Kennan>
または<http://ja.wikipedia.org/wiki/ジョージ・ケナン>
1904年生。アメリカの政治科学者、歴史家。駐ソ連大使、駐ユーゴスラビア大使。なお、ソヴィエトの行動の源泉 」という論文の概要は日本語Wikiで読むことができる。<http://ja.wikipedia.org/wiki/X論文> なおこの日本語Wikiでは、ケナンは国務省の役人としてこの論文を書いたとしているが、実際には、外交問題評議会の研究グループの一員としてこの論文をという英語Wiki「外交問題評議会」の記述の方が正しいと思う。もともとプリンストン大学の学者である。)


 ドワイト・D・アイゼンハワーはコロンビア大学の学長の時、外交問題評議会の、ある委員会の委員長をしていた。あるメンバーは後に次のように言っている。アイゼンハワー将軍がいかに経済学について詳しかろうと、彼は研究グループの会合でそれを学んだんだ。」この研究グループは、「アイゼンハワーのためのアメリカ人」という名前の拡大研究グループを創出し、大統領へのチャンスを膨らませた。アイゼンハワーは後に、外交問題評議会の上位メンバーを彼の政権の閣僚メンバーに引っ張った。彼自身がまずメンバーである。彼の主要な外交問題評議会メンバー人事は、国務長官ジョン・フォスター・ダレスだろう。スタンダード石油会社の顧問弁護士として、またロックフェラー財団の長きにわたる理事会理事として、ダレスは評議会にもロックフェラー・グループにも強い結びつきを持っていた。ダレスは、「ハロルド・プラット・ハウス」において演説をし、その中でアイゼンハワー政権の新しい外交政策を発表した。

共産主義者の世界の強大な領域の力を単独で封じ込める局地防禦は単独では存在し得ない。局地防禦は、大量の報復力に裏打ちされた、さらなる抑止力によって補強されなければならない。』


 この演説の後、評議会は「核兵器と外交政策」(*Nuclear Weapon and Foreign Policy)と題するセッションを開催した。そしてそのセッションの議長にヘンリー・キッシンジャーを選んだ。キッシンジャーは評議会本部でこのプロジェクトに関する学術的な仕事をその後数年続けるのである。1957年、このセッション名と同じタイトルの本がキッシンジャーの研究から出版された。一躍彼の名前は全米に知られ、本はベストセラーのトップリストに入ったのである。

(* ドワイト・D・アイゼンハワー<Dwight D. Eisenhower>
<http://en.wikipedia.org/wiki/Dwight_D._Eisenhower>
または<http://www.whitehouse.gov/about/presidents/DwightD
Eisenhower/>

または<http://ja.wikipedia.org/wiki/ドワイト・D・アイゼンハワー>
1890年生。第二次世界大戦の英雄にして、アメリカ34代大統領。1961年1月の大統領離任時にした演説で、「軍産複合体」がアメリカの民主主義に対する脅威であると警鐘をならしたが、これは今日でも傾聴に値する見方である。
<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/Eisenhowers_
Farewell_Address_to_the_Nation_January_17_1961.htm>
ヘンリー・キッシンジャー<Henry Kissinger>
<http://en.wikipedia.org/wiki/Henry_Kissinger>または
<http://nobelprize.org/nobel_prizes/peace/laureates/1973/
kissinger-bio.html>
または
<http://ja.wikipedia.org/wiki/ヘンリー・キッシンジャー>
1923年生。ニクソン、フォード政権時の第56代国務長官、ニクソン、フォード政権時の第8代国家安全保障担当アドバイザー、前任者はウォルト・ロストウ、後任はブレント・スコウクロフトである。)


 1953年11月24日、ある研究者グループは、フランスとベトナムの共産主義者ホー・チミンの率いるベトミン軍との紛争に関する、社会科学者ウイリアム・ヘンダーソンからの報告を聞いた。この紛争は後に第一次インドシナ戦争として知られることになった。ヘンダーソンは、ホー・チミンの主たる理由はその本質からして、民族主義者としてなのであって、マルクス主義者としての理由は最近の革命にはほとんど関係ない、と主張した。さらにヘンダーソンの報告は、アメリカはホー・チミンと協働しうる、そしてホー・チミンを共産主義からとうざけられうる、と述べていた。

(* ヘンダーソンの主張は全く正しいのであって、今日から見れば、ホー・チミン・ベトナムの課題は、民族独立・近代国家建設であった。ベトナムは社会主義移行の前に、今現在資本主義的な本源的蓄積を急いでいる。アメリカがホー・チミンを支援していたなら、ベトナムの社会主義体制化はもしあったとしても、ずっと遅れていたかも知れない。)


 しかし国務省の高官はベトナムへの直接介入に懐疑的であることを表明し、ヘンダーソンの考えはたなざらしとなった。20年以上もの間、アメリカは反共南ベトナムと同盟を組んでホー・チミンとその支持者を相手にベトナム戦争を戦うのである。

(* ウイリアム・ヘンダーソン<William Henderson>
<http://www.nytimes.com/1983/05/22/obituaries/
william-henderson-3d-foreign-affairs-expert.html>

1923年生。コロンビア大学出身でニューヨーク・タイムスの訃報によると根っからの評議会研究員だったようだ。極東問題の専門家として紹介されている。)


 国際問題評議会は、「相互抑止」「軍備管理」「核不拡散」といった重要なアメリカの政策課題の「培養地」(breeding ground)として機能した。

 1964年(*昭和39年)から1968年(*昭和43年)の間、米中関係について、4年間の長い研究が評議会内部で行われた。


(* ちなみに昭和39年は東京オリンピックの年であり、日本がOECDに加盟した。オリンピック終了直後、池田勇人は退陣を表明し、佐藤栄作内閣が成立する。一方昭和43年は、「プラハの春」の年であり、佐藤首相は国会答弁で「非核三原則」を明言する。中国では文化大革命が絶頂を迎えようとしている時であった。)


 1966年、アメリカと中国の間は、政治家同士よりも市民同士でもっとオープンに話し合うべきだとする論文が発表された。キッシンジャーがフォーリン・アフェアーズに連続で発表したものだ。そして1969年、キッシンジャーはニクソン大統領に国家安全保証担当のアドバイザーに指名され、就任した。1971年、キッシンジャーは北京へ向けて秘密の旅を行い、中国対話の風穴を開けた。1972年、ニクソンは中国を訪問し、カーター政権の国務長官、サイラス・バンスの時に米中の外交関係が完全に正常化したのである。サイラス・バンスもまた評議会のメンバーであった。

(* サイラス・バンス<Cyrus Vance>
<http://en.wikipedia.org/wiki/Cyrus_Vance>
または<http://www.nytimes.com/2002/01/13/world/cyrus
-r-vance-a-confidant-of-presidents-is-dead-at-84.html>

または<http://ja.wikipedia.org/wiki/サイラス・ヴァンス>
1917年生。カーター政権の時の第57代国務長官。前任者がキッシンジャーである。ジョンソン政権の時の国防副長官、ケネディ、ジョンソン政権の時の陸軍長官も歴任している。ロシアとの経済関係強化も推進した。)


 1979年(*昭和54年)11月、外交問題評議会の会長、デビッド・ロックフェラーがある国際的事件に巻き込まれることになった。イランのシャー、ムハンマド・リーザ・パーレビーがリンパ腫の病院治療のため、アメリカに入国できるように、デビッドはキッシンジャー、J・J・マクロイやその他のロックフェラー側近たちと共に、国務省を通じてカーター大統領に働きかけたのだ。この行動が、「イラン人質事件」として知られる事件に発展していく。ロックフェラーは、彼の公的生活の中ではじめて、大量のメディア(特にニューヨーク・タイムス)からのしつこい監視下におかれることになった。


(以下その2へ)

(その1へ) (その2へ)