米原子力委員会委員長だったルイス・ストロース(1986−1974)について
―アメリカン・エクスペリアンスの記事よりー


(原文は以下 http://www.pbs.org/wgbh/amex/bomb/peopleevents/pandeAMEX70.html なおアメリカン・エクスペリアンスはアメリカの公共テレビPBSの一般向け教養サイトである。)
(*)青字は私の註である。
(以下本文)

 原子力時代の幕開け最初の12年間、元銀行家、ルイス・ストロースほど、アメリカの核政策を明確化するのに重要な役割を演じた人物も数少ない。ストロースは熱烈な水素爆弾のチャンピオンとして、彼はまた大量の核兵器を貯蔵することの重要性において、その強力な信奉者でもあった。

 ストロースは、1946年に米原子力委員会の委員に指名されている。(1953年から58年までは委員長)この指名は、ストロースをトルーマン及びアイゼンハワーの2人の大統領に対して影響力を及ぼす立場にし、またすべての連邦政府関連の原子力関連活動を良く見渡せる立場に置くものだった。
(※ 米原子力員会の成立は1946年6月。1947年1月1日に陸軍マンハッタン工区が所有していた原子力開発・研究・製造等の施設全体が、原子力委員会に引き渡されている。ストロースは米原子力委員会のスタート当初から関わっていたことになる。)


 鋭いフクロウみたいな風貌のルイス・ストロースは、自分の父親のために働く「旅の靴の行商人」として、その人生をスタートさせた。後に彼は信じられぬほどの成功を収めた投資銀行家となった。原子力委員会に参加するためにウォール街を離れる時には、彼は年間100万ドルを稼ぐまでになっていた。政府機関要職への指名のため、彼はそれまでのビジネス人生を放棄しなければならなかったが、後にインタビューに答えて自身が言うところでは、「両足をもぎ取られたような気がする。」

 原子力委員会における仕事の初期の頃、ストロースはアメリカは「外国の核実験を検知するシステムが必要だ」強く主張した。彼の主張に基づいて、核実験監視システムが実現したが、これは1949年8月にソ連が最初に行った原爆実験を検知するのに丁度間に合った。

 アメリカがもう核兵器を独占していないという事態に直面して、ストロースは委員長のデビッド・リリエンタールをはじめとする他の原子力委員と鋭く対立した。リリエンタールは、ソビエトの核実験に対抗して原子爆弾の製造を増やすことで対抗しようとした。そして同時に大量破壊兵器の国際的管理機関の創設の方向に一歩踏み出そうとしていた。
(※ ここは興味深い記述である。ここでいう大量破壊兵器の国際管理機関とは国際原子力機構―IAEAのことで、1962年に実現する。広島への原爆投下前から、暫定委員会で、「原子爆弾の国際管理機構創設」は真剣に議論されていた。この場合2つの方向があった。原爆投下直後、陸軍長官ヘンリー・スティムソンが構想したように、アメリカが進んで原爆の製造・保有を廃止する方向でこの国際管理機構が設立されたとするなら、まさしくこの国際管理機構―すなわちIAEAは核兵器廃絶・核兵器不拡散のための国際管理統御機関としてスタートできた。もう一つの方向は当時トルーマンや他の政権中枢が考えたように、アメリカが原爆を保有したまま、この国際管理機構を創設する方向である。すでに原爆投下前に暫定委員会は、ソ連が原爆を保有するまで1945年を基点として考えたとき、最短で4年、最長でも20年と予測していた。すなわち将来にわたって核兵器を独占するのは無理と見通していた。この見通しに立って、核兵器の国際管理機構を創設するとは、アメリカが進んで核兵器廃絶を行わない限り、核兵器独占国際機構とならざるを得ない。現実は、IAEAは核兵器独占国際機構としてスタートした。従ってリリエンタールが、核兵器製造を増強しつつ国際管理機構創設に動いた、と言う記述は決して矛盾ではない。この場合、国際管理機構とはとりもなおさず米ソによる核兵器独占国際管理機構なのであり、核兵器不拡散とは米ソによる核兵器独占である。イギリスはマンハッタン計画当時からアメリカと一体であり、スティムソンの云う「アングロ・アメリカンブロック」であって、イギリスにその意志さえあればいつでも核兵器を持つことができた。
 世界はスティムソンが構想したように、核兵器廃絶・核兵器不拡散からスタートしたのではなく、核兵器独占・核兵器軍拡競争からスタートしたのである。しかし、今考えてみれば、広島・長崎へ原爆を投下した時点で、核兵器独占・核兵器軍拡競争から世界がスタートすることは運命づけられていた、という見方もできる。
 「アメリカが唯一の原爆保有国であって、しかも現実にそれを使用した場合、それをアメリカが進んで廃棄しようという話を、たとえ同盟国ですら信じるのはかなり難しいことになるでしょう。」―フランク・レポート―1945年7月)


 ストロースは、(こうしたリリエンタールらの考え方に対して)水素爆弾の製造による「クラッシュ計画」を鋭く主張した。

 「今やわれわれの計画の質的飛躍の時がきた。超爆弾の方向へ向けてわれわれの努力を大きく傾けるべきである。」
(※ ここで超爆弾というのは、熱融合爆弾のこと、すなわち水素爆弾のことである。ウランやプルトニウムの核分裂を利用した原子爆弾は、1発の破壊力がTNT火薬換算で精々数十万トンなのに対して、水素爆弾はメガトン級、すなわち数百万トンから数千万トンであることから、当時超爆弾―Super Bomb―と呼ばれた。といってこのことは別にソ連の原爆保有時代になって登場した新知見というわけではない。広島・長崎への原爆投下前から、核兵器開発のステップはそうなることは分かっていた。
「オッペンハイマー博士: これら数段階における爆発力の規模について概観した。最初の段階では、爆弾1個あたりTNT換算で2000トンから2万トン。しかし実際の精確な威力については、実験をしてみるまで分からない。第二段階では威力はNTN換算で5万トンから10万トン。第三段階では爆発力はNTN換算で1000万トンから1億トンの爆弾を製造できるようになると考えられる。」―1945年5月31日開催の暫定委員会議事録よりhttp://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/Interim%20Committee1945_531.htm ) 


 結局ストロースの主張が勝った。1950年、トルーマン大統領は超爆弾製造の「クラッシュ計画」を公式に発表するのである。
(※ こう記述されると、なにかトルーマンが意志決定したように考えがちだが、私は結局トルーマンは原爆についても水爆についても、政治的に決定的な軍事兵器、と言う以上の理解はしていなかったと考えている。トルーマンは「なにも分かっていなかった。」
 現実には当時すでに支配的になっていた軍産複合体制が判断し意志決定し政治を動かしていたのである。ジョージ・マーシャルは、原爆投下時の陸軍参謀総長だが、のちにトルーマン政権下で国務長官に就任する。ある下院議員がマーシャルに対して質問をした。1951年の5月のことだそうである。この質問は、国務省と国防総省―ペンタゴンーの間に論争が起こった場合、トルーマン大統領はどちらの側につくかという質問だったそうだ。これにジョージ・マーシャルはこう答えている。                
 「トルーマン大統領が、国防省との関係に置いて統合参謀本部や国防長官の意志に反して行動したようなケースをわたくしは思い出すことができない。」―シドニー・レンズ著「軍産複合体制」岩波新書 小原敬士訳 53P―なおこの話は1951年5月9日付けのニューヨーク・タイムズに掲載されているそうだ。)


 水素爆弾を巡る争いは、「原爆の父」ロバート・オッペンハイマーとの間に緊張関係も生んだ。ストロースはアイゼンハワー大統領に、もしオッペンハイマーが原子力委員会に置いていかなるアドバイスもしないと言う条件でのみ、原子力委員会の委員長のポジションを受け入れると通告した。そして、オッペンハイマーが一貫して水素爆弾に反対の立場をとり続けていることも理由として、オッペンハイマーを信用していないからだと説明した。

 1953年7月、ストロースは原子力委員会に君臨することになり、それから数日の間に、オッペンハイマーの事務室から原子力委員会で「秘密」とされている書類をすべて引き上げさせた。その年の終わりまでには、オッペンハイマーは原子力委員会に出入り禁止となった。

 数年の間に、ストロースの傲慢と主張の執拗さで、彼は米議会で不人気となった。1959年、身も心もくたくたになるような2ヶ月にも及ぶ公聴会ののち、上院はストロースの商務長官指名を拒否した。
(※ ここは説明不足だが、ストロースは1958年、原子力委員会をやめ、アイゼンハワー政権の商務長官代行に就任する。この公聴会は、ストロースの正式長官就任を認めるかどうかが課題だった。つまりストロースは議会の嫌われ者になったわけだ。)


 この公聴会、特に宣誓の下で偽証したとされた後は、ストロースは満天下に恥をさらすことになった。以降この金融業者は永久に公職に就くことはなかった。