序章:トルーマンと原爆、文書から見た歴史
           編集者 Robert H.Ferrell(ロバート・H・ファレル)


(原文 http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/ferrell_book/ferrell_book_intro.htm



 1945年8月6日と8日に、ハリー・S・トルーマン大統領が、日本の2つの都市に核兵器投下を決定するに至る恐ろしく込み入った計算を理解するにあたって、ミズーリ州インディペンデント市にある全ての基本的文書を読み通すより優れたやり方があるだろうか?
 
 この新兵器、その後明らかになったようにとてつもない破壊力を持ったこの兵器の使用にあたって、トルーマン大統領の頭の中には2つの理由が間違いなくあった。一つは日本の軍事力、主として日本軍だが、彼らの第二次世界大戦の進め方にあった。日本は1937年、開戦の当初から野蛮きわまりない戦争を実施した。同じ年、日本は南京を占領したが、その人的犠牲はとてつもない。日本占領軍は、10万人から20万人もの人間が、血に飢えているとしかいいようのない理由によって殺されたのである。

 後年、第二次世界大戦後、この事件の責任者であった日本の司令官、松井石根将軍は東京における戦犯裁判で糾弾され絞首刑を宣告されている。(松井石根についてはWikipediaの比較的冷静な記述がある。訳注http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%BA%95%E7%9F%B3%E6%A0%B9

 松井の釈明は、「何が起こっているか私は知らなかった」というものだが、この釈明は彼の負うべき責任を免責するものではなかった。戦争後の犯罪人裁判では、「南京大虐殺」( the Rape of Nanking)を含めて、1941年12月7日のアメリカ参戦前に中国で起こった日本軍数知れぬ他の残虐行為に関する下位指揮官たちの責任を個々把握するのは不可能なことである。

 それからアメリカを参戦に至らしめる事件が起こった。日本の艦載機による宣戦布告なしの、パールハーバー「奇襲」(sneak attack)である。結果、米国海軍戦艦アリゾナで1000名の死者がでた。あまりに沈没が早かったので、甲板下で寝ていた水兵が逃げることができなかったのである。それから、パールハーバーの他の艦船にいた人間、回りの上空にいた人間、機銃掃射や爆撃で民間人を含めて1500人が亡くなっている。

 アメリカの承知している日本の野蛮さはパールハーバーだけではない。1942年4月9日からはじまった「バターン死の行進」(the Btaan Death March)が起こっている。バターン半島に収容されていた72000人のフィリピン人とアメリカ人が、4日間食料も水もなしに50マイルもの距離を行進させられた事件だ。数百もの落伍者が日本兵に撃たれたり、銃剣で刺された。(バターン死の行進については同じくWikipediaに比較的客観記述がある。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%B3%E6%AD%BB%E3%81%AE%E8%A1%8C%E9%80%B2

 その上、残りの3年半もの戦争期間中、軍事捕虜や抑留された民間人は、日本軍の収容キャンプで動物のような生活に耐えねばならなかった。また第二次大戦の終わりまで、(捕虜に対する侮蔑を示したとしか思えない全く手当たり次第の)銃撃や斬首が続いた。その例は数え知れない。

 これらはアメリカ人捕虜に対する虐待の例であるが、それだけにと止まらず、戦争の始まった最初の1ヶ月間に、香港、シンガポール、蘭領東インド、ビルマの地域で同じような虐待が、イギリス、オランダその他の連合軍捕虜に対してなされたのである。

 日本の戦争のやりかたは、ジュネーブ協定に違反するばかりか1920年代の中頃に行われ、つい最近署名された一連の国際法にも反している。そればかりかソビエト捕虜に対するナチドイツ軍の扱い、ホロコースト、ナチ時代の身の毛もよだつような政策に基づいた皆殺しなどとも同類であった。

 それから、トルーマン大統領と政権の指導層が核戦争を恐るべき蛮行と見るより、肯定的な善行と何故みなしたかを考えるにあたって、日本本土に侵攻する米軍のコストという、
1945年の夏における極めて現実的な問題があった。たとえ歴史家がそれには仕返しという感情的な理由があった、といおうとも、米国陸軍及び海軍の日本侵攻は、大きな犠牲を伴うという恐れがあったのだ。

 表面的に見たり、その部分だけ取り出して見れば、当時の日本本土侵攻(実際には起こらなかったのだが)に伴うコストを計算することは、現実問題としてできないことであり、従って当てずっぽうにならざるを得ないと見える。この場合、本土侵攻はどうしても理論上の問題として考えざるを得ない。従って、夥しい数の民間人、女性、子どもを含む10万人以上の日本人の生命を危険にさらす(これは実際に起こったことだが)というトルーマン大統領とそのアドバイザーたちの究極の決定はなんら根拠を持たないとも見える。しかし、投下に至る考慮の過程は理論ではなく、日本本土侵攻は極めて犠牲が大きいと考える根拠があったのだ。今振り返ってみて、トルーマンや彼を補佐した人たちが感情的な理由や、それは日本の野蛮性のことだが、米軍が直面するだろう犠牲を量ることなしに、決定的な決断を下したということはできない。

 米軍の日本本土侵攻がいかなる犠牲を伴うかを量る基準が2つあった。硫黄島と沖縄である。1945年の春と初夏のことだ。

 硫黄島侵攻は極めて犠牲が大きいことを証明した。ここで海兵隊6200人が死んでいる。硫黄島は日本本土爆撃のためのB−29の航空基地として価値があった。帰投できなかったり、途中機械的トラブルや損傷を受けた爆撃機がここに着陸できたのである。

 硫黄島侵攻における米軍の数的優位は日本軍に対して4:1であった。日本本土の再南端九州から350マイル南にある沖縄本島侵攻は犠牲が2倍であることを証明した。1万3000人が死んだ。うち3分の1は数十ダースもの神風特攻隊の攻撃により艦上で死んでいる。(沖縄戦についてはWikipediaに比較的客観的な記述がある。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E6%88%A6

 この旧式航空機はほとんどの場合基地に帰投する能力を持たず、そのパイロットは自らを犠牲にした。航空機そのものが爆弾であった。もっとも高価についた単独カミカゼ攻撃は、(米海軍戦艦フランクリンであったが)1000名の死者を出し、艦は炎に包まれ大破し、戦闘能力を失わしめた。

 このような殺戮が行われる一方で、海兵隊と陸軍は沖縄中を一歩一歩、死ぬまで闘う防御兵を相手に白兵戦を闘った。日本軍の高級指揮官は全部腹切り(hara-kiri)を敢行した。一方民間人は、荷物運びの動物のように扱われ、またしばしば兵隊のようにも扱われた。日本軍の最前線にかり出されて米軍の射撃を最初に浴びるか、地雷で吹っ飛ばされた。米地上軍の数的優位は日本軍に対して2.5:1だったにもかかわらず、米攻撃軍の35%までが戦死、行方不明または負傷したのである。

 1945年6月の半ばまでに、米司令部とトルーマン政権の高官たちに去来した大きな疑問は果たして日本政府を説得し降伏させることができるかどうかと言うことだった。当時日本軍は(明白に破滅的状況だったとはいえ)、降伏するつもりはなかった。もし決定が非軍部のリーダーたちや日本の民衆の手によってなされるとすれば、戦争は恐らく早急に終結していただろう。しかし不幸なことに決定権は彼らになかった。決定権は軍部に、特に軍部首脳にあったのである。(このときまでに日本海軍は事実上消滅状態にあった。艦船のほとんど全部が航行不能に陥っているかまたは撃沈されていた。)

 日本の軍備首脳は、いかなる犠牲を払おうが戦い続ける覚悟だった。日本軍人の綱領である武士道の誉れを得ようとしていた。この武士道ははるか昔に遡る武人の綱領であった。
 1945年の初夏の時点で、昔の1対1の戦闘で通用したやりかたで戦争は遂行できるはずもなかった。20世紀の兵器で、20世紀のやりかたで戦争は行わなければならない。しかし軍部首脳は考慮だにしなかった。彼らは手に何があろうと闘っただろう。そしてその時彼らの手にあったのは、大砲の放列とカミカゼにもなりうる5000機の航空機だった。硫黄島や沖縄の時同様、攻撃にあたっては必ずや大きな犠牲が必至だった。

 6月中旬までに、米軍部首脳は米軍が直面するだろう事態に恐れをなしていた。そしていくつかの試算をおこなってみた。そのどれもが恐ろしい事態を思わせた。陸軍と海軍の共同戦争計画委員会は、二方面から九州侵攻を行った場合25000人の将兵が死亡するという推計に達した。もし九州一方面、続いて本州―東京のあるところだが−侵攻なら40000人の犠牲が発生し、九州二方面、続いて本州への侵攻となると46000人の犠牲が発生するという推計に達した。

 しかしながら、これらの数字は試算であり、ジョージ・C・マーシャル参謀総長などは、1945年6月18日のホワイトハウスにおける会議では議論しなかったし、触れようともしなかった。その代わりにマーシャルは混乱気味にこんな発言をした。(日本本土)侵攻は、恐らく、最初の1ヶ月で1日当たり1000人ちょっとの損害だった米軍のフィリッピン・ルソン島への侵攻より犠牲が少ないだろう。1ヶ月で31000人の損害となる。
(通常損害の4分の1が死亡である)。マーシャルがこの数字を出したときに、当時ルソン島の総司令官山下奉文が米軍侵攻の最初の1ヶ月間に前線撤退を命じていたことを考慮にいれてないか、またはほとんど考慮を払っていないかのどちらかである。そのため艦砲射撃は避けられたし、その後の戦いはもっと犠牲が大きかったのである。

 もっとそれらしい損害に関する数字は、トルーマン大統領の個人的補佐官、ウイリアム・D・レーヒー海軍大将(admiral)から出された。彼は九州と本州の攻撃に関わる損害は、恐らく総攻撃軍の35%の損害を出した沖縄戦に匹敵するだろうと述べた。この議論の間、トルーマン大統領は、本土侵攻が沖縄戦の二の舞になるのを恐れると指摘している。

 6月13日の会議では、出席者全員がよく理解しているように、空恐ろしい損害が伴うだろう日本本土侵攻に伴う犠牲についてもっと慎重に議論されるべきだった。しかし実際はポイントがぼやけていた。レーヒーでさえ、自分が本当に考えている詳細な損害について云わずじまいだった。もしレーヒーが九州侵攻に必要とされる米軍の数を統計学的に推定したら、767000人の3分の1以上の損害について触れなければならなかったろう。これは250000人以上である。もしも死者の数がこれまでの例に当てはまるならば、沖縄戦の5倍、65000人となる。(沖縄戦の時の米軍の総兵力は150000人、うち13000人が死者である。)

 もう一つ考えてみなければならない数字がある。当時の九州における兵力である。硫黄島、沖縄における米軍の兵力的優位性はそれぞれ4倍、2.5倍だった。6月中旬時点でマーシャル将軍は、九州における日本軍兵力を350000人と推定していた。7月24日までに彼はこの数字を500000人といい、8月6日までに560000人に増えている。彼はこの数字を日本の無線交信傍受による分析からはじき出している。この諜報作戦は「ウルトラ(Ultra)」の名前で知られている。マーシャルはこのウルトラの推計が不当に低いと言うことを知らなかった。8月6日までの時点で九州における日本軍兵力は900000人だったのである。九州侵攻の予定日は9月1日だったが、その時までに九州における日本軍の兵力は優に100万人を越すことができただろうし、これは兵力において米軍が劣勢に立つことを意味している。

 さらに、カミカゼの危険性である。カミカゼが危険なことは沖縄作戦時に明々白々である。九州侵攻時にはさらに深刻であったであろう。沖縄戦の時、カミカゼは九州から飛ばなければならなかった。しかし九州ではほとんど飛行距離を必要としない。最も成功した単独カミカゼ攻撃は戦艦フランクリンのケースだが、これが補給船などに及べばアメリカ側の死者数は、とてつもない数に上ったであろう。

 1945年の夏、最も決定的な日々や決定的な幾週間、米国の政府関係者-トルーマン大統領から下級関係者まで、考えていたことと言えば、いかにアメリカの兵や水兵も命を助けるかということばかりだった。だれしも容易に想像がつくように、日本帝国の軍隊と戦い、戦争を終結できる手段であれば、どのような手段であろうと喜んで採用しただろう。