トルーマンと原爆、文書から見た歴史
           編集者 Robert H.Ferrell(ロバート・H・ファレル)

第2章 7月16日の大統領日記より

(原文 http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/ferrell_book/ferrell_book_chap2.htm




 論 評

 1945年の4月から7月まで、大統領は信じられないくらい多忙だった。ヨーロッパにおける戦争はゆっくりではあるが終息に向かいつつあった。アドルフ・ヒトラーは、4月30日にベルリンの自分の防空壕で自殺を遂げていた。ヒトラーの軍隊も5月8日には降伏することになっていた。ヨーロッパ西側では、5月7日に連合国最高司令官ドワイト・D・アイゼンハウワー将軍の副官にランス(フランス、シャンパーニュ地方の中心都市)において降伏していた。東部戦線では、翌日モスクワにおいてドイツ軍はソビエト司令部に対して降伏したのである。

 それから大統領はヨーロッパから極東への米軍移送の管理監督をし、一方で米本国への復員が開始され、長い船旅が始まっていた。同時にトルーマンは、7月中旬に予定されている、ポツダムからほど近いベルリンでの会議で、ソビエト連邦の指導者・ジョセフ・V・スターリン元帥、大英帝国の首相・ウインストン・チャーチルと会う準備を進めていた。重巡洋艦に乗ってアントワープ(ベルギーの都市)に到着し、その後ブラッセル(ベルギーの首都)から飛行機に乗ってベルリンに到着した。

 驚くべき出来事、すなわちニューメキシコ州アラモゴード空軍基地からさらにへんぴな区域で、核装置の爆発実験が成功裏に終わったという知らせを受けた翌日に、ポツダム会談は開始となったのである。

 トルーマンは大統領に就任した当初から(ルーズベルトの急死を受けて正式に大統領に就任したのは1945年4月12日である)、日記をつけはじめていた。その時々の出来事や会った人たちについての感想、あるいはそう思った理由、自分が何をしたかなどについてしばしばメモを取った。会話の合間や大統領公務の合間、それから恐らく朝早く大統領執務室に一人でいる時などに手早く書き留めたのである。こうしたメモを集め、通常日付が入っているので大統領日記としたわけである。7月16日の日付が入っている内容は、当日自分がベルリンでしたことについてであった。