トルーマンと原爆、文書から見た歴史
           編集者 Robert H.Ferrell(ロバート・H・ファレル)


第8章 大統領から夫人へ 7月31日

 1910年のはじめ、ミズーリ州グランビューの近くで農民だったトルーマンがベス・ウオーレスに求婚して以来、何年もの間、トルーマンは妻に長い手紙を書く習慣があった。(ベスの住んでいたインディペンダントからグランビューまでは直線で15マイルほど)。ポツダム会談の時を含めて、トルーマンがベスから離れている時はその都度手紙を書いた。面白いことに、トルーマンは手紙を出す時に外交官用の郵便袋で送るのだが、それにもう5セントの海外用郵便切手を貼ると、通常の郵便物としてインディペンデントに届く。もしスパイが、ロシアのでも日本のでも構わないが、ポツダムで何があったか知りたければ、郵便袋から大統領の手紙を盗んでしまえば良かったのだ。
 

  (大統領の夫人宛の手紙)

ベルリン 1945年7月31日

 親愛なるベスへ

   朝7時君と話せて良かった。君のいる所では昨日の午後11時とは考えるのも難しい。大西洋の嵐のため今朝は電話がうまくつながらなかったようだ。ジョーおじさんの気分がすぐれず会議は停滞しているものの、ここ1−2日はばりばり仕事をしている。バーンズ氏、モロトフ、アトリー、ベビンみんなでかなりの所まで片づけた。私は、スターリン氏は仮病じゃないか(Mr. Stalin is stall’) と思っている。イギリスの総選挙が気にくわんのだよ。スターリンは私が伏せたまま、エースのカードを持っているとは知らない。他のカードは晒している。だからもし彼がスリーカードかツーペア位じゃないかぎり(そうじゃないとわかってはいるがね)、安心して座ってられるというものだ。

 一番の難しさは、賠償問題にある。もちろんロシアは略奪者だ。また彼らはドイツに何度も何度も繰り返し根こそぎ略奪されてもいる。だからロシアの態度をいちがいに責めることもできない。私が気を付けて置かなければならないことは、自分たち自身の身辺を綺麗にしておき、この問題にかかわらないことだ。

   ポーランドと諸問題も頭痛の種だ。ポーランドは東プロシャに動いており、プロシャのオーデル地方に進入している。もう一回戦争でもしない限りは、彼らはボルシェビキの後押しでそのまま居座ってしまうだろう。だからもう一度使い古した賠償処理とドイツに略奪されつくしたポーランドが出現することになる。

 バーンズ、レーヒーそして私は、今うまくない状況に対応する計画に手を付けたところだ。今日の午後の3首脳会談で暫定的でも何らかの合意にこぎ着けなければならん。最終的合意は明日になる。そして火曜日には帰途につく。金曜より遅くならないことは確かだよ。

 イギリスのプリマスから出発するよ。アントワープから出発するより48時間の節約になるからね。

 火曜日の午後に港を出れば、翌日の朝にはノーフォークそしてワシントンに到着することになる。1日早めようと思えばできないこともないが、これがギリギリの予定だろう。最後の郵便袋はここを今日送り出す。私たちの乗る船に積み込まれる予定だ。しかしこの手紙の方が早くつくよ。

 君とホワイトハウスに会うのはとても嬉しい。監視なしでゆっくりベッドにもぐり込めるからね。

  可愛い君にキスを。(Kiss my baby)いっぱい、いっぱい愛を込めて。

ハリー(署名)

 注 記
1. ドイツ賠償問題については、ヤルタ会談で玉虫色の一般的合意ができていた。ポツダムにおいては賠償委員会の設置が決定され、「米合衆国とソビエト連邦は、賠償委員会は200億ドル、うち50%をソ連が得るという数字を基礎に賠償額を討議するものとする、と信じている」というガイドラインが決定されている。イギリスは具体的な賠償金額の決定には反対した。そして「ドイツの戦争能力を破壊する」とする文言を書き入れようとした。ソ連はここのところをより範囲を拡大して「ドイツの軍事的経済的武装解除を目的として」という文言を入れようとした。ドイツを区域で分割することにしたため、4つの占領軍―ロシア、アメリカ、イギリス、フランス−はそれぞれの地区で賠償を統御することとなる。短い期間であるが、ソビエトはアメリカ地区で賠償を取った。それからこれは中止となった。

2. ヤルタ会談でもポツダム会談でもポーランド問題が暗い影を落とした。戦後ポーランド政府の性格はどのようなものであるべきか、これが問題だった。戦争中、ロンドンにあるポーランド亡命政府は、あまりに反ロシア的にすぎる、と言うのがソビエトの主張である。というのが亡命政府は1943年、カチンの森で発見されたおびただしい数のポーランド将校の遺体はソビエトの秘密警察が射殺したものとして、ドイツ問題を扱う国際調査委員会に提訴したのである。この提訴を受けてソビエトは直ちに亡命政府との関係を断ち切り、戦争の後半になってロシアはポーランドに進出した後、ロシアがポーランドで組織していた、ルブリン委員会の名前で知られる臨時政府との関係を樹立した。ヤルタ会談では、亡命政府とルブリン委員会との混合体である「国民統一ポーランド臨時政府」の樹立という形で妥協が図られたが、その実態はルブリン委員会が支配していた。それから米国はこの新政権を承認した。ソビエト政権は単独の調整を行い、ナイセ川の西岸と東岸の中央の重要な産業地域(ブレスラウ市-ドイツ名、またはブロツワフ-ポーランド名を含む)をポーランドに与えていた。

3. トルーマン大統領はポツダム会談出発に際し、ニューポート・ニューズからアントワープまで船に乗った。プリマスまで飛行機で行くことは時間の節約になる。プリマスを重巡洋艦オーガスタで出発した。その前にキング・ジョージ4世号に乗り込んでいる。トルーマンは英国海軍の戦艦に乗り込んだ最初の大統領となる。