トルーマンと原爆、文書から見た歴史
           編集者 Robert H.Ferrell(ロバート・H・ファレル)


第9章 ホワイトハウス 広報発表 C.8月6日

 アメリカの国民に対して、数年間の原爆開発計画を含めて詳細ないきさつを説明しないまま、広島原爆投下に関する発表を行うわけにはいかない。そしてそのような発表を合衆国大統領の名前を入れないで行うわけにも行かない。そこで、陸軍省の高官たちは広報発表という形で一緒にして詳細なコメントを付けて発表することにした。その発表内容は、当時ポツダムにいた大統領の同意を得て行われている。陸軍省長官スティムソンはポツダム会談のはじめの頃、ポツダムにいて、この広報発表について大統領と色々議論している。

 ワシントンに戻ってから、スティムソンは、ポツダム宣言、劇的なアラモゴードにおけるプルトニウム爆弾の実験結果及び英国政府からのいくつかの小さなアドバイスなどを参照しながら、広報発表原稿を見直した。7月30日、長官はバベルスベルグに滞在するトルーマンに、電文メッセージを送り、8月1日以降のいついかなる時でもこの内容で発表していい許可を求めた。7月31日には追いかけて本文テキストをクーリエで送ってもいる。

 広報発表に大統領の「署名」を求める段階となり、事態はいよいよ興味深い(fascinating)ことになってきた。原爆の使用に関するゴーサインはすでに7月25日、トーマス・T・ハンディ将軍からカール・スパーツ将軍への手紙で出されている。この手紙は通常軍用文書であり、大統領の承認は取っていない。トルーマンはもちろんこの手紙を、原爆投下の前の、いついかなる時でも取り消しすることができた。従って、事実上、この広報発表に大統領の署名を求めると云うことは、ハンディの手紙の確認作業ということになったのである。次の文章は、7月30日スティムソンから受け取った電文に、大統領が普通筆記体で書き入れたメモの最終版である。

   「41011承認を求める貴下の文書に対する返事:陸軍長官へ
    準備でき次第発表。ただしハワイ標準時8月2日以降のこと」
    (原文スキャン版は以下。大統領の手書きメモ)

 1945年7月30日にスティムソン長官からトルーマン大統領にあてた電文に対する、トルーマンの手書きメモ入り返事は以下を参照のこと。
http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/small/mb07.htm

 このテキストはワシントンに電文で送られた。トルーマンは8月2日まで待って欲しかった。というのはその日、トルーマンはポツダムを飛行機でプリマスに向けて出発することになっていたからだ。そして米海軍の重巡洋艦オーガスタに乗って帰途につく。従って、広島に原爆が投下された時には、トルーマンはポツダムから遙か離れた、荒波の上にいたのである。トルーマンはスターリンに原爆のことを伝えていたけれど、単に一般的な言葉を使い、原子力爆弾とは云っていない。

 もう一つ指摘しておきたいことがある。原爆の破壊力のことである。TNT2万トン相当というのは、実際の話が実験爆弾の推定破壊力である。広島型の原爆はウラン爆弾あるいは核分裂型爆弾だ。(その筒型の外形から“Little Boy”とあだ名された。)この爆弾はU−235を採用したただ一つの実用可能な爆弾だった。実験で使われた爆弾も、広島の3日後長崎に投下された爆弾(“Fat Man”と呼ばれた)もプルトニウム型であり、丸い形をし異なった爆裂機構を持っていた。広島型爆弾―原爆の一種類にすぎない−の本当の破壊力は推定の根拠すらなかった。それは後になって、建物の破壊状況などの計測によって、TNT1万3000トン相当と推定された。

(以下は1945年7月31日付けのスティムソンからトルーマン大統領に当てた手紙と、7月30日付けの広報発表資料用原稿。おそらくはスティムソンがクーリエに託して、ポツダムに滞在するトルーマンの手元に届けたものだろう)

1945年7月31日付けでトルーマン大統領の下に届けられた、ヘンリー・L・スティムソン用意の原爆投下に関する公式声明

(以下本文)



1945年7月31日

親愛なる大統領

添付した2部の写しは、核兵器が使用され次第発表する声明の検討文です。この内容は昨晩私が電信で送ったものであります。

私がこれを急いでいる理由は、天候さえ許せば、この兵器が太平洋標準時で8月1日までに使用される可能性があることを、私が知ったのがつい昨日だったからです。ご承知の通り太平洋標準時と言えば、ワシントン時間のかなり前となります。

このメッセージと内容物は、R・G・アーネソン陸軍中尉が搬送します。中尉は、大統領の承認の下に指名された原爆の開発と使用に関する暫定委員会の書記であります。このこと(中尉が運ぶこと)はバーンズ国務長官も認識しています。

敬具、
陸軍長官

大統領閣下


  注 記

1. 1938年ベルリンに置いて3人のドイツの科学者がウランの原子を分離することができるという実験を行った。つまり核を基礎とした爆発が実際上できるということを示したことになる。第二次世界大戦のごくはじめの頃、この1938年の発見によってアメリカやイギリスに先立ってドイツの科学者が爆弾を製造するかも知れないと云う恐れが大きくなった。この恐れは1944年連合軍の侵攻まで可能性として存在した。そして数ヶ月後、アメリカとイギリスの軍隊がライン川に近づいた時、最初の出来事の一つであるが、ある中隊に科学者たちが姿を現し、ウランの痕跡があるかないかライン川の水のサンプルを採取した。その痕跡はなかった。ドイツの科学者たちは、原爆の製造に失敗していた。というよりその近くにすら到達していなかった。有名なドイツのV-1は無人飛行機でヨーロッパ大陸にある打ち上げ基地から放たれて英国本土に飛来し、爆発物を投下した。簡単に打ち落とすことが出来、損害はほとんどなかった。それよりもっと破壊力があり迎撃不可能だったのは弾道弾のV-2である。ロンドン中の窓ガラスを壊して大きな被害をもたらした。V-2は、1944年から45年の秋から冬にかけてその発射基地が制圧されるまで、ロンドン防衛軍を悩ました。

2. 戦争の当初マンハッタン計画の科学者たちは、核分裂物質を製造するにあたって、2つの方法で行くことに決めていた。大量の電力が必要なため、テネシー州オークリッジとワシントン州のハンフォードに工場を建設した。
  オークリッジ工場ではU-235が製造された。ウラニウムの、より軽い核分裂しやすい同位元素で、長い直列につながった濾過器にガス状になったU-238を通すことによって得られる。より重い同位元素はその後に残留する。(ここの記述は若干正確ではない。ウランから6弗化ガスを作り濾過器に通すと、より軽い同位元素U-235を取り出すことが出来、より重い同位元素U-238が残留するのである。)
ハンフォードに置いては、科学者たちはウラニウムからプルトニウムを製造する原子炉を採用している。

3. 大統領は、当たり前のことだが、この時原子爆弾をあとたった1個しか所有していないことに触れていない。1個の爆弾とは長崎に落とされることになったプルトニウム爆弾だが。2個目を製造するにはあと数週間必要とした。

4. サンタフェ近くの施設とは、I・ロバート・オッペンハイマーが指揮していたロス・アラモス研究所のことである。

5. 1938年のベルリンにおける実験結果は、即座に通常の科学上の実際知見として発表され、すぐに出版された。3年後、イギリス−アメリカ原爆計画が始まった時、そこにおける諸発見はもちろん秘密にされた。

6. 大統領は事実上、原子力エネルギー委員会(an Atomic Energy Commission- ABC)の設立を勧告したことになる。1947年1月1日戦時マンハッタン計画を継承する形で設立された。その間、政権内部ではアチソン−リリエンタール委員会としてこの議論が継続された。国務次官補のディーン・アチソンとテネシー河開発公社のデビッド・F・リリエンタール総裁の名前を取ったものである。リリエンタールはABCの初代委員長に就任した。アチソン-リリエンタール計画に若干の手直しをしてスタートしたのがバルチ計画である。国際連合機構米大統領特命全権公使、バーナード・M・バルチの名前を取って付けられた。国連に同様な提案をしたが、国連では同意が得られなかった。