米国戦略爆撃調査団報告:広島と長崎への原爆の効果
1946年6月30日-完成版と6月19日版の異同


 「米国戦略爆撃調査団報告 広島と長崎への原爆投下の効果」の6月19日版は実は戦略爆撃調査団の団長フランクリン・ドリバーが大統領ハリー・S・トルーマンに提出した下書きである。ドリバーはトルーマンの見解を受け入れて6月30日版を完成し大統領に提出した。6月30日版の原文は、今のところWeb上では、ミズーリ州インディペンダント市にある「トルーマン大統領博物館」(Truman Presidential Museum & Library )にしか見あたらない。(原文は以下のURLで入手できる。http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/large/
documents/index.php?documentdate=1946-06-30&documentid=7-1&st
udycollectionid=&pagenumber=1
 )

またこの間の事情は、ドリバーがトルーマンに出した6月20日づけの手紙からも窺える。
(原文と訳文は以下から検索できる。
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/U.%20S._Strategic_Bombing_Survey
/20thletter.htm


 完成版(6月30日版)は「トルーマン文書:秘密ファイル」に分類されている。
 国務長官(ジェームス・フランシス・バーンズ)、陸軍長官(ロバート・パターソン)、海軍長官(ジェームズ・フォレスタル、初代の国防長官でもある)の3人もこの報告書を読んでおり、その了解を取りつけてあった。報告書はそのまま大統領機密(Confidential)ファイルに分類された。30日版の画像版を見てみると、表紙に「C.F.」(Confidential)のスタンプがおされ、誰かの手書きで「Atomic Bom」(本当はBomb)と書いてある。

 この秘密文書は、トルーマンの大統領時代、ホワイトハウスの大統領執務室用センターファイルに保存された。その後1953年1月トルーマンが大統領を退任するのに伴って、これらの文書はミズーリ州カンサス・シティにあるジャクソン郡裁判所に移された。トルーマンが回想録を書くにあたって文書類は手元にあった方がいいという配慮による。その後この文書はいったん同じくカンサス・シティの連邦準備制度ビルに移された後、1959年ミズーリ州インディペンダント市にあるトルーマン博物館に収蔵された。

 これら文書は当時米国政府の文書とは見なされず、トルーマン個人所有の文書と見なされた。1972年トルーマンが死去すると、その遺言により文書はすべて米国政府の所有物とされた。恐らくはこの時点で米公文書館に収蔵されたものと思われる。またトルーマンはその遺言で1976年に「文書の公表」を許可していたから、この報告書は1976年に一般に公表されたものと思われる。
(この事情はトルーマン博物館の次のURLに詳しい。http://www.trumanlibrary.org/hstpaper/whcfcf.htm
 また、6月19日版は6月30日版-完成版の下書きであることは、トルーマン博物館のアーカイビニストのデビッド・クラーク氏の教示による。)

6月30日版は、1995年(平成7年)、長崎原爆資料館の前身にあたる機関が、被爆50周年事業として、その完訳を上下巻で刊行している。長崎原爆資料館に問い合わせれば現在でも日本語の完訳を頒布してくれる。

 1946年6月19日版と30日版のもう一つの最大の違いは、写真資料がふんだんに使われていることである。

 以下、19日版との違いを詳細に見ていきたい。
 (19日版の訳文は
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/U.%20S._Strategic_Bombing_Survey/01.htm
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/U.%20S._Strategic_Bombing_Survey/02.htm
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/U.%20S._Strategic_Bombing_Survey/03.htm
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/U.%20S._Strategic_Bombing_Survey/04.htm
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/U.%20S._Strategic_Bombing_Survey/05.htm を参照のこと。)


 まず、30日版では、19日版では含まれていた「はじめに」(FOREWORD)が全面的に削除されている。緒言(Introduction)から、はじまっている。「緒言」では、次のところに追加文章がある。
(赤字が追加文章)

・・・日本に対する原爆投下のニュースで、この計画は新たな緊急性を帯びることになった。それは対日航空戦争に関する研究は明らかにこの新兵器と密接につながっており、また(戦争において)空軍力が決定的要素となるかもしれないような新たな集中的攻撃の可能性と密接につながっているからであり、空軍力の効果に関して調査団の結論と勧奨に変化すらあるかも知れないからである。

 調査団の主流が、「空軍独立派」だったことを考慮すると、ここは独立派の立場を強く打ち出した追加記述と考えられるかも知れない。

 さらに後の段では逆に削除が見られる。
・・・1945年の10月から12月にかけての10週間にわたって、全体でいえば110人以上の人たちの、技術者、建築家、火災問題専門家、経済学者及び研究家、医師、写真家、製図専門家などからなる参加があった。それぞれの研究は、すでに公開されつつある。(要約報告の追補にリストしておいた。)


 赤字の部分が削除されているカ所である。従って30日版では、19日版にあった「追補リスト」がない。全面的に削除されている。推測だが、それぞれの研究報告のうち、何を公表するかはまだ決まっていなかったものと思われる。特に急性放射線症に関する医療チームの報告は、戦後のマンハッタン計画でも機密扱いになったため、これは結局公表されなかったのではないかと思う。

 緒言では、他は全く19日版と同様である。この緒言の最後に写真資料が挿入されている。


 写真説明には
「ヒロシマ−赤十字病院の屋上から北西を望む。最近建ったフレーム建造物」とある。


「U 原爆攻撃の効果」では、「1.攻撃」にまず追加が見られる。

大気の流入が、地上における自然な風(この時広島の風速は毎時5マイル-約8km)に打ち勝つのはごく簡単で、爆発から2−3時間後には風速30−40マイル(* 1マイルは1.6Kmだから風速48Kmから64Km)に達した。」


と、広島の自然風速が付け加えられている。これは描写を正確にしようとしたものだろう。
 
  この後のページに写真資料が掲載されている。
攻撃と損害 ナガサキの写真
 写真説明は、

    「ナガサキ・・・『墓標がたっていない墓場のようだ・・・』 長崎県の報告より」

  となっている。
 さらに次の「2.広島」の項では次のような追加がなされている。広島の人口密集を説明したカ所である。

広島市の境界線は、西側と北東川の低い丘々まで伸びており、(広島市は)26.36平方マイル(約67.5平方キロメートル)の面積を抱いている。しかし13%だけが市街地である。うち7平方マイル(約18平方キロメートル)だけが建物稠密地域かまたは準稠密地域である。そのほかはまばらな住宅地域、倉庫地域、輸送地域、菜園、川、それから樹木におおわれた丘陵地域である。

 これも当時の広島の模様をより詳しく記述しようとしたものだ。
 次の段では重要な変更が行われている。広島中心部の人口密度に関する部分だ。

一般住宅、商業地区、軍事地区の人口は全体の75%を占める。もし原爆投下の時に広島市の人口が24万5000人だったとするなら、多分そうだと思うが、人口の密集した地域での密度は1平方マイル(2.56平方キロメートル)あたり、4万6000人に達していたとみて間違いない。」

 という19日版の記述から、
広島市の中心部の建物密集地域は約4平方マイルで、一般住宅地域、商業地域、軍事地域から成り立っている。もし原爆投下の時に広島市の人口が24万5000人だったとするなら、多分そうだと思うが、人口の密集した地域での密度は1平方マイル(2.56平方キロメートル)あたり、3万5000人に達していたとみて間違いない。」

 と変化し、広島市内中心部の人口密度を4万6000人から3万5000人に訂正している。

 また「広島」の後の記述ではつぎのような追加記述が見られる。
・・・戦前産業分野は、(軍事や行政における重要性と比較して)、さほど重要とはいえない。12位に過ぎない。しかし、戦争中には新しい工場が建ちその重要性を増していった。

 ここは19日版であまりに産業面では重要でなかった、という印象の残る記述を改めている。
 この次のページでは、例によって写真資料を掲載している。
広島の挿入写真

 写真説明は、

     「ヒロシマ 原爆投下の前と後。爆心地付近の地域。1000フィートごとの円。」

 となっている。

 広島に関する記述では、現地の新聞の再建が遅かったとする追加記述を入れている。

噂の拡大を防ぎ、戦意を高揚するために、広島市の外部から21万部の日刊新聞が持ち込まれ、壊滅した地元紙にとって替えた。しかしながら降伏で、再建はさらにゆっくりとしたテンポとなった。

 赤字が30日版の追加記述である。

 この後記述は「3.長崎」に移るが例によって写真資料がはさまれている。
長崎の挿入写真

 写真説明は、

      「長崎の爆心地 原爆攻撃の前と後」

 さらに長崎では別な写真資料が挿入されている。
長崎の密集地
 写真説明は、
   
長崎の建物稠密地域:丘によって防御され、残った密集地域。下は爆心地から1000フィート北東の密集地域。瓦礫と化した。」

 長崎については、同心円的な被害状況についての追加記述がある。

爆心地から半径2キロメートル以上4キロメートル以内では、人も動物も、爆風のため生じた窓ガラスの破片やその他の飛散物に苦しみました。また多くはものすごい熱のために火傷を負いました。住宅やその他の建物は半分ないし部分的に損壊を受けました。」
爆心地から半径4キロメートル以上8キロメートル以内では、人も動物も飛んできたもので負傷しました。大半は表面的な負傷でした。家は半壊かまたは部分的な尊重でした。」

 赤字が追加記述である。
 次のページはまた挿入写真である。
長崎の三菱製鋼所
 写真説明はやや長く、
爆風の猛烈な圧力 三菱製鋼所の鉄骨がぐにゃりと曲がっている。爆心地から南へ2400フィートの地点。爆発からは離れている。背景は長崎医科大学。日本人による1945年8月26日の撮影。」

 次の「B.全体的効果」では「1.人的損害」で次のような追加記述が見られる。

 しかしながら、(投下の)衝撃があった時には、死亡や負傷の主たる原因は閃光火傷(Flash Burns)
だった。そして2番目には爆風の影響、落下するがれき、そして燃え上がる建物から受ける火傷だった。いろいろな負傷形態の中でどの負傷が相対的に重要だったかを示す明確な記録はない。特にいろんな負傷を何度となく受け、また爆発のすぐ後に死んでいく人に関して、実際のところ、何が主要な負傷だったかを明確にはできない。」


 赤字が19日版に対する追加記述である。
 全体的効果ではまた写真資料の追加がある。
全体的効果 放射熱の説明
放射熱からの防御。1945年10月2日に日本人によって撮影されたこの患者は、爆心地から6500フィートの地点で、向かって左側から光線を受けた。かぶっていた帽子が十分に閃光火傷から患者の頭を守った。」

 その後しばらく、6月19日版の訂正や追加はなく、「V 原子爆弾の働き」のところで写真資料の挿入がある。
原爆の働き 泡状態になった瓦と影
写真説明は、
爆心地で発見された泡状の瓦」
広島のガス保管庫のペンキ塗料の上についた手動バルブ舵の“影”。放射熱が一瞬にして、熱線があたらなかった部分の影をペンキ塗料の上に焼き付けた。爆心地から6300フィート。日本人撮影。」

長崎で芽吹いた栗の芽 ひっくり返った木
写真説明は、
くりの木の枝から出た新たな分枝。爆撃から2ヶ月後、長崎の爆心地から約2100フィート。葉は爆撃の際、焼けかつ萎びていた。日本人撮影」
爆風で裂けた木。爆心地から2700フィートの丘陵地帯で。日本人撮影」

写真説明は、
真下に向かった爆風。長崎の爆心地から1500フィート離れていた鎮西高校の屋上は真下に向かった爆風に直撃。当時ここは軍需工場の一部だった。4階は完全に崩壊した。しかし耐震構造の鉄筋コンクリート建築はよく持ちこたえ、1階の機械類は破壊から免れた。変圧器や切り替え盤は爆風、火災、飛んできた瓦礫などの複合要因で破壊から免れなかった。」

火災のまだら模様 支柱を釘付けにした爆風
写真説明は、
火災のまだら模様。長崎爆心地から8200フィートの地点。古い警察署は火災で完全に燃えつくした。丘が右側の家々を爆風から守った。火災はそこまで広がらなかった。日本人撮影。」
爆風が支柱を釘付け。広島で爆心地から7600フィートの木造建築物は火災から免れたが、爆風で支柱が釘付けになった。」

長崎市電の停留所でとばされる 広島の消防暑の火災
写真説明は、

長崎の爆心地から1500フィート北にあった市電の停留所では、中央の電車が爆風で6フィートとばされた。日本人撮影」
広島の爆心地から西へ4000フィートのところにあった西消防署は爆風と火災で焼失した。はしご車だけがぽつんと焼け残る。日本人撮影」

 「原爆と他の兵器の比較」の項では、使用していた他兵器との比較表に訂正が入っている。これは、広島中心部の人口密度に訂正が加わったことに伴う変更。広島の中心部人口密度は1平方マイルあたり、4万6000人から3万5000人に訂正されている。
 さらにこの項では写真資料が添付されている。

広島兵舎の破壊 興亜海上火災の破壊
写真説明は、

構造壁を有したブロック造りの建物の破壊状況。広島の爆心地から4200フィート離れた地点。日本陸軍の師団グラウンドにあった兵舎の残骸。壁に正対した爆風の内側でのブロックの瓦礫。広島爆心地から1300フィート離れた興亜海上火災の建物。重い壁を残して建物は完全に破壊されている。」

依然として立っている鉄筋コンクリートの建物
写真説明は、

依然として立っている鉄筋コンクリートの建物。長崎の爆心地から2200フィートのところにあった長崎大学病院。しかし内部の手術室は、焼け落ちている。火災は床、バルコニー、すべてのシートを焼き尽くし、金属レールやパイプを歪めている。」

 「W. 道標」のところでも写真資料が使われている。
道標 機械類の損害
写真説明は、

機械類の損害は通常間接的なものである。長崎の爆心地から4200フィートのところにあった三菱製鋼所と三菱兵器工場の機械類は、密集した形で設置してあったため天井の崩壊からの損壊を免れた。しかし野ざらしとなってしまった。その他の機械類は、鋼材などの破壊のため基礎から壊れてしまった。」

 また、この項で使用されている表「米国都市での人口密度」の中で使われている広島のデータは、先にも述べた変更のため、数字が訂正されている。すなわち広島中心部の人口は18万4000人から14万人へ。また人口密度は、1マイルあたり4万6000人から3万5000人へ。

 また、ここでもまた写真資料が使われている。

重機電装置 三菱製鋼所
 写真説明は、

広島の爆心地7700フィートにあった南千田町のこのようなターボ発電機のような重機電装置などは爆発にもよく生き残った。」
長崎の爆心地から南へ約4000フィートのところにあった三菱製鋼所と三菱兵器工場の爆風のため、グロテスクに鉄製フレームの建物が歪んでいる。」


長崎と広島のシェルター
 写真説明は、

長崎のシェルター。写真のように丘の中腹に作られたシェルター。極めて爆心地に近い。中にはほとんど人がいなかったが、爆風、熱、放射線から防御する。」
広島の地上型空襲用シェルター。この簡単なシェルターは、爆心地から北東へ5000フィートのところにあったが、火災や爆風から損壊を受けなかった。周りの建物は皆壊滅している。日本人が1945年8月10日に撮影している。」

 またこの項の「2.非集中化」の項目でも写真資料が使われている。


広島の鉄骨建築
 写真説明は、

広島の爆心地から2000フィートの鉄骨建築は、爆風で1階の支柱が吹き飛び、2階が地上面に落下してぺしゃんこになった。火災で内部は壊滅している。」
崩壊した鉄筋コンクリートの建物。中国石炭配給会社は広島の爆心地から700フィートのところにあった。」

 以上が、「米国戦略爆撃報告 広島と長崎への原爆の効果」の1945年6月19日版と6月30日版の相違点である。