(原文:http://en.wikipedia.org/wiki/Vannevar_Bush)


バニーバー・ブッシュ (Vannevar Bush)(バネバー・ブッシュ)


以下は英文Wikipediaの記事の翻訳である。(* )内は私の註・補足である。バニーバー・ブッシュは第二次世界大戦に起源をもつ、アメリカの軍産複合体制形成に大きな力を発揮した人物である。60年代と違って、今のアメリカには軍産複合体制批判の雰囲気はない。そのため、ブッシュに対する批判的見解もあまり見られないようで、この記事についてもブッシュを正面から批判した論調はみられない。いわばアメリカ社会に定着したブッシュ像、公式見解である。そこが私には食い足りない。

 1945年、日本への原爆使用問題を含んだ、アメリカの戦時・戦後の核エネルギー政策をめぐるトルーマン大統領へ政策提言委員会、「暫定委員会」が大きな影響力をもち、事実上政権の最高意志決定機関となった。8人のメンバーのうち、バニーバー・ブッシュは、当時、アメリカ軍・産・学連携の要とされた人物だが、彼が果たした役割、何故絶大な発言力を持ち得たのかが分からない。以下は英語Wikipediaの記述である。



 バニーバー・ブッシュ(Vannevar Bush)(1890年3月11日―1974年6月30日)は、アナログ式のコンピュータ、原子爆弾開発における彼の政治的役割、メメックス(memex)―何十年も後に普及したワールド・ワイド・ウエブ(the World Wide Web)のパイオニアとも言うべき概念―などで知られる、アメリカの技術者及び科学分野における管理統括者(science administrator)であった。

 軍産複合体制(the Military-Industrial Complex)の発展史における、主導者の一人であり、アメリカにおける科学分野に対する軍事予算拠出の主導者の一人でもある。またそうした側面で、ブッシュは著名なポリシー・メーカーであり、第二次世界大戦およびそれに引き続き生起した冷戦の間中、社会を代表する知識人―アメリカ科学界の守護聖人“the Patron Saint of American Science”―の一人、事実上大統領の科学顧問でもあった。

 彼は、その公的生活を通じ一貫して、民主政治的テクノクラシーの代弁者であり、また経済学上及び地政学(geopolitics)的安全の両面における技術革新と起業家精神の確かさを代弁し続けた。
(* テクノクラシー=technocracy 技術家政治と訳されている。専門技術家に一国の産業資源の配分と統制を委ねようとする、1932年ごろ米国で提唱された政治思想。)
(* 地政学。国家の政治・外交問題を政治・経済地理学によって解明し、政策立案に寄与する学問。ナチスドイツではこの学問が侵略正当化に使われたことを忘れるべきではない。)

 彼の名前は、van-Nee-ver、と発音する。“receiver”と発音するときのストレスの置き方と同様である。
(* その点では、バニーバーではなくてヴァンニーヴァーと表記すべきなのかもしれない。)


人生と業績

 バニーバー・ブッシュは、マサチューセッツ州エベレットで、リチャード・ペリー・ブッシュとエンマ・リンウッド・ペインの間に生まれた。タフツ・カレッジ(現在はタフツ大学)で教育を受け、1913年に卒業した。1913年半ばから1914年10月までゼネラル・エレクトリックで働いた。(仕事は検査担当者の監督だった。)1914年から15年までの学園の年には、ブッシュはジャクソン・カレッジで数学を教えた。(ジャクソン・カレッジはタフツ大学の姉妹校だった。)

 アーサー・ゴードン・ウエブスターの博士課程の学生として、夏以降はクラーク大学で割り当てられた仕事をこなしたり、電気検査技師をしながら働いた後、マサチューセッツ工科大学(MIT)の電気工学課程に入った。結婚することによって十分な財政的余裕をもったブッシュは、1年以内に博士論文を書き終えた。1916年、タフツ時代から知り合っていた、フィービー・デイビスとマサチューセッツ州チェルシーで結婚した。1917年ブッシュはMIT(ハーバード大学と共同)で技術工学の博士号を取得した。つづいてブッシュの相談相手、アーサー・エドウィン・ケネリーと論争を起こす。

 第一次世界大戦の間、ブッシュは、国家研究評議会(National Research Council)で働き、潜水艦探知技術の改善策を開発した。1919年MITの電気工学部に入り、1923−32年まで教授を務めた。

 1922年、ブッシュは大学時代の友人、ローレンス・K・マーシャルとともに、アメリカン・アプライアンス・カンパニーという会社を設立しSチューブの販売を手がけた。これはC.G.スミスの発明したガス状の整流素子で、無線の効率を大幅に改善したものだった。この会社でブッシュは大金を儲けた。この会社は後にレイセオン(Raytheon)と名前を変更し、有数の電子会社、防衛産業契約会社となった。

 1927年にスタートして、ブッシュは「微分解析器」(a differential analyzer)を建設した。これは18個までの独立変数を含む微分方程式を解くことができた。MITでの仕事からの派生物として、ブッシュの教え子、クロード・シャノンのデジタル回路設計理論の誕生が上げられる。

 ブッシュはMITの副学長となり、1932年から38年まで工学部の学部事務長を務めた。このポストは、学長権限を含む多くの権力と機能を含んでいた。1949年にはこのポストは、特定の講座教授の指名権まで持つようになった。


第二次世界大戦時期

 1939年ブッシュは、権威あるワシントンのカーネギー協会理事長指名を受諾した。カーネギー協会は毎年かなりの額の資金を研究事業に寄付していた。
(* カーネギー協会=the Carnegie Institution。アンドルー・カーネギーが1902年、学術文化振興のために設立した組織の中央機関。カーネギー財団とは別。)

 カーネギー協会の理事長として、ブッシュは、軍事目的の研究の方向性に影響力をふるえる立場に立った。そして非公式にではあるが、科学上の事柄について連邦政府に提言を行った。

 同じ1939年、ブッシュはまた、活動の全部を政治の舞台へと移行していった。国家航空諮問委員会(National Advisory Committee for Aeronautics )の委員長となるのである。1941年まで委員長で、1948年まで委員の一人だった。

 第一次世界大戦の時、ブッシュは民間科学者と軍部の間に協力関係がないことをブッシュは見てきた。アメリカにおける科学的研究の分野での協力の欠如と、防衛に対する総動員体制(all-out mobilization)の必要性に関心を抱いたブッシュは、そのことを1939年、連邦政府の所管部局に提言した。またブッシュはこの点をしばしば、国家航空諮問委員会の同僚である、ジェームズ・B・コナント(ハーバード大学学長)、カール・T・コンプトン(MIT学長)やフランク・B・ジューイット(全米科学アカデミー会長)などと議論もしていた。
(* コナント、コンプトンは8人の暫定委員会のメンバーであることに注目。)

 ブッシュは、その問題を担当する政府部局創設に向けて圧力をかけた。1940年のはじめ、ブッシュの提言によって、国家航空諮問員会の事務局長は、議会に向けてプレゼンテーションするため国家防衛研究委員会(National Defense Research Committee−NDRC)創設に関する提案書の作成に取りかかった。しかしドイツがフランスを侵攻したとき、ブッシュは「スピード」こそ肝要と考え、直接ルーズベルト大統領にアプローチすることに決めた。1940年6月12日、ブッシュは何とか大統領とのアポイントメントを取り付けた。そして提案する政府機関の構想示した1枚の紙を携えた。ルーズベルトは10分で承認した。

 NDRCは、ブッシュを委員長とし、その他のメンバーを委員として、1940年6月27日、国家防衛評議会(National Defense Council)から正式な命令が出される以前にすでに機能し始めていた。ブッシュは素早くNDRCの指導的な科学者を指名した。

 すなわち、国家航空諮問委員会の同僚である、コナント、コンプトン、ジューイット、それにリチャード・C・トルマン(カリフォルニア工科大学大学院事務部長)である。それぞれが、担当する分野において責任をもった。コンプトンはレーダー、コナントは化学と爆発物、ジューイットは装甲と兵器(ordnance)、トルマンは発明と特許をそれぞれ担当した。政府の高官は、彼らを素通りすることによって、ブッシュは権力を一手に握ろうとしていると不満を表明した。

 後にブッシュはこの不満に同意して、「そう、まさしくその通りだった。」と言っている。第二次世界大戦において、この科学的努力の総合調整は、連合国が勝利するにあたって欠くべからざる要素だったのである。アルフレッド・ルームスは、「1940年の夏、死んだらアメリカに大災危をもたらす人物では、まずルーズベルト大統領が一番だろう。バニーバー・ブッシュは、二番目か三番目だ。」と言っている。

 1941年、NDRCは科学研究開発局(the Office of Scientific Research and Development−OSRD)に包摂される。OSRDの局長はブッシュである。OSRDはマンハッタン計画を1943年まで統括する。1943年にはマンハッタン計画は軍部に包含される。
(* この点を取り出して、バニーバー・ブッシュをマンハッタン計画産みの親のようにみなす考え方があるが、この点はどうだろうか?少なくとも予算から見る限り、マンハッタン計画全体が22億3340万ドルだったのに対して、OSRD時代は1460万ドルだった。http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/kono/AEC_27P.htm ブッシュはマンハッタン計画全体からすれば、導入部だけを担当したと言うべきだろう。)

 OSRDは第二次世界大戦中を通じて、科学的研究全体を総合調整していた。全体的に見れば、OSRDは3万人の人員に指示を出しており、200種類の兵器や軍事装備の開発を監督していた。この中には、レーダー、ソナー、近接電波信管(*proximity fuze。ミサイルなどの頭部に装備した電波信管で、目標に近づくと破裂させる。)、水陸両用車、ノルデン型航空機爆撃標準器などが含まれている。そのどれもが戦争への勝利と言う点では、決定的役割を果たしている。ある時期には、アメリカの2/3の科学者が、ブッシュの指示のもとにあった。付け加えて言えば、OSRDは、ペニシリンやサルファ剤の大量生産を含む医薬品分野、物理科学分野にも多大な貢献をしている。

 1942年3月20日付けでルーズベルト大統領がブッシュに送ったメモの中には、
私はあなたの極めて興味深い報告を読みました。新兵器開発局の仕事に関して見直すべき時がきているようです。・・・・・・この賞賛すべき報告書をあなたに返却します。多分私の書類ファイルの中に保存すべきでない方がいいと思います。」
(* ここは違った書き手の挿入かな・・・?)

 ブッシュのOSRDの運営の方法は、全体的な政策を示して、部分部分の具体的な内容は、質の高い同僚責任者に任し、干渉をしないで自由に仕事をやらせるというスタイルだった。彼は、OSRDに対する加重課税を避け、また他部局で類似機関が創設されないように、OSRDの「権力」(*mandate)をできるだけ狭く解釈できるように試みた。その他の問題は適正な予算を大統領や議会から獲得することである。また、産業界、学術分野、政府機構の中から、適切な研究課題を決定することも問題だった。
(* それはそうだろう。一つ一つに利権が絡んでいたはずだから。)

 しかし、彼の抱える最大の問題は、またそれは最大の成功でもあったが、軍事的自信を維持し続けることだった。国家安全条項を監視するシビリアンの能力に対して不信を示し、軍隊に分け入ろうとする若い科学者の論文に対して戦うことでもあった。ニューヨークタイムズの「訃報」の表現を借りれば、ブッシュは「相手が、技術者であろうが、政治家であろうが、頑固頭の将軍であろうが、提督であろうが、障害をかき混ぜる、匠の職人」だった。コナント博士は次のようにコメントしている。「将軍連を相手に渡り合っている彼は、それは見物だった。」


戦後時代

 OSRDは戦争後しばらくその機能を維持していた。しかし1946年、1947年までには、戦時中からの積み残した仕事の処理をする残務整理要員(skeleton staff)だけに減っていた。

 OSRDを解散し、平和時における政府研究開発部局を創設することは、ブッシュをはじめとする多くの人々の希望ではあった。ブッシュは、基礎研究は、軍事的分野においても、商業上の分野においても、国家が生き残る鍵となり、引き続き科学と技術に対する国家の支援は必要だと感じていた。技術的優位は、将来の敵の攻勢に対する抑止力になる。
(* また繰り返されるイデオロギー。本当にうんざりする。だから国家予算をつかおう。)

 1945年7月に出された(*トルーマン)大統領に対する報告書、「科学―その果てしなきフロンティア」(Science, The Endless Frontier)の中で、ブッシュは基礎研究について、「技術的進歩におけるペースメーカー」であるとし「新たな製品や新たな加工技術は、決して成長を止めない。それらは新たな原理やあらたな概念にその基礎を置いている。それらは、科学の純粋王国の中での研究によって、痛みを伴いつつ、その開発が達成される!」と述べている。ブッシュは、後に1950年に創設される国家科学基金(the National Science Foundation-NSF)のようなものを事実上、提案していた。第二次世界大戦中に燃結していた、科学学界、産業界、軍部の間の紐帯を固めようとする努力の結実であった。
(* ここまで軍産複合体制を賛美されると、言葉を失ってしまう。アイゼンハワーの大統領引退演説をみよ。ガルブレイスの「軍産複合体制」をみよ。)

 1945年7月、ほとんど同時時に、大統領が任免権をもった、単一の科学者管理を提案した「キルゴア法案」(the Kilgore bill)が議会に提出される。これは応用研究に重点をおいた、また特許条項は政府独占に傾いた法案であった。
(* これは随分歪んだ表現だ。政府の金を使って行われる研究開発なのだからそこから得られる特許権は政府に帰属するのが当然と思われるが・・・。)

 これとは対照的に、これに対抗するように「マグニューソン法案」(the Magnuson bill)が議会に提出される。この法案は、かなりブッシュの考え方に近く、トップの科学者たちが理事会を構成し、全体を統御する、そしてそのもとでシビリアンからなる管理統括者群が置かれ、それらがまた個別責任者(the Directors)を指揮する、基礎研究に重点が置かれ、個人の特許権を保護する、と言うものだった。1946年2月、両案の折衷案とも言うべき「キルゴアーマグニューソン法案」(the Kilgore-Magnuson bill)が上院を通過するが、下院で否決されてしまった。ブッシュは、事実上もとの「マグニューソン法案」に近い対抗法案を支持した。

 1947年、上院での法案で「国家科学基金」が創設され、OSRDに取って代わった。ブッシュが主唱した特徴がほとんど盛り込まれている。議論を呼んだ、独自性をもった科学者理事会による管理運営形態を含めてである。この法案は1947年5月20日に上院を通過し、7月16日に下院を通過した。しかし47年8月6日、運営管理の責任者群が大統領に対しても、議会に対しても適切に責任を負っていないという根拠でトルーマン大統領はこの法案に対して拒否権を発動した。

 この間、依然としてブッシュはOSRDの最高責任者であり、ワシントンのカーネギー協会の理事長として任務を遂行した。さらに加えて、ブッシュは、戦後体制における、陸軍・海軍による共同研究開発理事会(the Joint Research and Development Board-JRDB)創設に力を貸した。ここではブッシュは理事長となった。国家安全法(the National Security Act)の通過により、1947年7月末大統領はこれに署名して法律となった。これによりJRDBは、研究開発理事会(the Research and Development Board-RDB)となった。これは国家科学基金が法案として提出され、最後には法律となるまで、国家研究の推進役となった。

 トルーマン大統領が、研究開発理事会の理事長にブッシュを指名したのは自然の成り行きとも見えるが、実際舞台裏ではブッシュの猛烈な運動があったと推測される。しかしトルーマンの、ブッシュが裏で支えた国家科学基金に対する拒否権の時に見せた不快感は顕わになっていた。トルーマンはブッシュが権力を一手に収めようとしていると見たのである。トルーマンのブッシュに対する疑念は1947年9月3日に公になった。トルーマンはこの件について、もう少し考える時間が欲しいと表明し、伝えられるところによれば、トルーマンは、軍部のあるトップに、もし仮にブッシュを指名したとしてもブッシュを監視しておく計画を語ったと言われている。9月24日、ブッシュはトルーマンと国防総省長官・ジェームズ・フォレスタルに面会し、トルーマンはその場で、ブッシュに理事長のポストを約束した。

 当初、研究開発理事会(RDB)「軍事的な研究開発目的」に4億6500万ドルの予算をつけられた。1947年の終わり頃、フォレスタル(*国防総省長官)が出した指示では、理事会の任務は、「軍事に関連したいくつかの省及び部局の間の意見の相違を解消し、おのおのの責任と権限を決定する」と定義づけられた。

 しかし、研究開発理事会(RDB)におけるブッシュの理事長としての責任範囲と権限は、かつて科学研究開発局(OSRD)時代に局長としてふるった権限と影響力に比べると、はるかに限られたものになった。戦後における、彼の望んだ「研究開発組織」は、政府関係各部局や議会からほとんど独立したものだった。ブッシュは理事長のポストに全く不満で、1年後には辞任してしまう。しかし外部委員会には残った。

 後になってトルーマンとの関係はぎくしゃくしたものになるのだが、科学上、政治上の問題に関するブッシュのいろいろな提案には、トルーマンはよく耳を傾けた。トルーマンが大統領に就任して、原爆の事について最初に学び始めたころ、ブッシュは科学的観点からの説明をした。その後すぐに、1945年6月、ある委員会に居たブッシュは、できるだけ早い機会に日本に対して原爆を使用するようにと提言した。「行動の片々」(Pieces of Action)の中で、ブッシュは「原爆の使用は戦争終結を早め、多くのアメリカ人の損害を食い止めることができた。」と書いている。
(* この書き手もまた、アメリカの公式見解に従っている。ブッシュが属していた委員会というのは暫定委員会の事だろう。45年6月といえば、6月1日の暫定委員会のことだろう。この委員会で、ブッシュがそういったとは書かれていないし、日本に対する原爆の使用はこの委員会で決定したことは事実だが、ブッシュはそれを自分の提言として、トルーマンに伝える立場には居なかった。委員会の原則は、委員長のスティムソンが大統領に伝える決まりになっていた。しかも、その日は決まりを破ってバーンズが先に大統領に伝えた、とスティムソン日記には書いてある。どちらにせよ、ブッシュが、スティムソンやバーンズをさしておいて、委員会の決定を大統領に伝えたり、ましてやこの問題に関して、委員個人の立場で大統領に提案や提言ができるはずもない。暫定委員会の議事録や履歴を読んでみればすぐわかることだ。
 恐らくここの記述は、ブッシュの回顧録「行動の片々」によったものだろう。
 ブッシュは上記のことを考えたと言っているが、委員会では「対日戦争終結」と「日本に対する原爆の使用」との関係は一切話し合われていない。すくなくとも議事録を読む限りにおいては。議事録を信用するかそれとも後付の回顧録を信用するか。)

 OSRDで学んだ教訓を平和時にいかに応用するかについてのビジョンは、トルーマンの要求に応えて提出した「科学、この終わりなきフロンティア」に書かれている。
(* ブッシュがOSRDで学んだ教訓とは、戦時においては、軍・産・学がいかにアメリカ市民の目から隠れて、連邦予算を食い物にするか、そこで権力と影響力を行使するかがいかに美味しいか、であろう。)

 戦争が終わると直ちに、原子力エネルギーの将来使用についてと国際管理もとに置くかどうかについての議論が起こった。1946年、ブッシュは国際連合体管理の計画づくりに携わる委員会に指名された。トルーマンの回顧録によると、ブッシュはトルーマンに国際管理の下に置き事実上国際管理に効果的なロシアとの科学上の情報交換に門戸を開いておき、原子競争をさけることを提案したという。
(* この執筆者は、暫定員会議事録を全く読んでいないか、あるいは読んでいても故意に無視している。「核兵器」の国際管理の問題は、戦時中から一貫した議論の対象だった。暫定委員会の半分は、この議論に費やされたと言って良い。戦後にわかに起こってきたものではない。ロシアとの情報交換を指摘したのは、シカゴのマンハッタン計画に参加した科学者で、スティムソンはさらに進んで、国際管理の下の「原爆」製造の中止、ロシアと合意の上での、「原爆の封印」まで進んで提案している。すべて45年以内のことだ。トルーマンがブッシュの提案と言っているのは、なにか別な目的があってのことだ。この書き手は、45年以内に起こったことを何も知らないか、知っていても無視しているかのどちらかだ。)

 ブッシュはメモの中に、「(*ロシアと情報交換するという)そのムードは、ロシアに原爆の秘密をくれてやるという事ではない。秘密と言っても、原子爆弾を製造する技術的詳細にあるのであり、その製造工程にあるのだ。情報交換する、というのは科学的知見の事に過ぎない。」と書いている。

 ブッシュは、科学的秘密をロシアから守るというのはアメリカにとってほとんど利益はないと考えていた。アメリカの科学者が秘密にしておこうと思っても、どちらにしてもロシアはスパイを使ってでも、その秘密を手に入れるにちがいないからだ。
(* これは1946年の議論ではなく、45年の秋頃までの議論だ。46年以降に明るみに出たに過ぎない。ブッシュ自身はこの議論を暫定委員会のメンバーとしてよく知っていたではないか。にも関わらず、「ソ連との冷戦」を作り出し、戦時中同様、核兵産業に膨大な、連邦予算をついやす案に賛成したではないか?しかし、日本に原爆を使用する前ならともかく、広島に無警告で原爆を投下したアメリカをロシアが信用するはずはない、このこともブッシュはよく知っていたはずだ。46年になってこういうことをいうブッシュは、白々しいの一言に尽きる。)

 1949年9月、ブッシュはロシアが最初の核実験に成功したかどうかを決める科学委員会の委員に指名される。結論はトルーマンに伝えられ、トルーマンはそのように声明した。

 ブッシュは1948年まで、NACAのメンバーとして働き、航空軍需会社がターボジェットエンジンの開発に遅れていることに腹立ちを表明した。航空各社によれば、研究開発に膨大な金がかかり、その上古いピストンエンジンからの転換に手間取ったのだという。
(* シドニー・レンズは「軍産複合体制」―岩波新書 1971年 第1刷 5P―という著作の中で、ブルッキンング研究所のC・H・ダンホフの研究を引用して、「1950年代を通じて、事実上多額の軍需契約の全部は・・・・結局最初の契約見積もりを300ないし700%上回る経費を含んでいた」と書いている。)

 1947年から62年までブッシュはAT&T社の取締役会のメンバーであった。また1955年には、カーネギー協会理事長を辞し、マサチューセッツに帰った。1957年から1962年まで、アメリカ製薬産業の巨人、メルク社の会長を務めた。

(以下の記述は略)

(* 参照資料は英語原文を参照のこと。)