2013.5.29
追加2013.6.2
 <参考資料>国連科学委員会(UNSCEAR)

原子放射線の影響に関する
国連科学委員会(UNSCEAR)について
  United Nations Scientific Committee on Atomic Radiation




国連科学委員会第60回総会-2013年

 『原子放射線の影響に関する国連科学委員会』(国連科学委員会)は、2013年5月27日から31日の日程でジュネーブで第60回総会を開く。総会テーマは『福島第一原発事故影響』である。すでにこの総会のための草稿もできていて、この総会で承認されれば、2013年10月に開催予定の国連総会で報告するとしている。すでに2012年9月には福島第一原発事故影響に関する『暫定報告書』が国連総会に提出されており、今回の報告内容も大きくは変わらないものと見られる。なお国連科学委員会によれば、事故評価のポイントは大きく次の5点だという。

放射能放出量はどのくらいか?またその(核種)構成は?
陸上や海洋へどの程度拡散したか?またどこがホットスポットか?
1986年のチェルノブイリ事故及び1979年のスリーマイル島事故及び1957年のウィンズケール火災事故と福島第一事故はどのように比較できるか?
環境や食品に対する放射線影響はどのようなものか?
ヒトの健康や環境に対する放射線インパクトはどのようなものになろうか?

 ここで注意しておいていただきたいことは国連科学委員会の興味や問題意識は私たち日本の一般市民の問題意識と大きくずれているということだ。私たちの問題意識は、

福島原発事故ではどのような健康障害が現れるか?
どのような核種がどのような影響をあたえるのか?
ウィンズケール(現在のセラフィールド)、スリーマイル島、チェルノブイリではどのように健康調査がなされてどのような結果だったのか?
福島原発事故で日本の将来はどのようになるのであろうか?

 現実に2012年の暫定報告書でも、国連科学委員会の興味はほぼ住民の被曝線量に終始しているといってよい。住民の健康調査やがん以外の病気の発生の可能性などについては全く興味を示していない。

国連科学委員会とは

 そもそも国連科学委員会はどのような組織なのであろうか?そして彼らの報告はどの程度信頼できるものであろうか?

 英語Wikipedia“United Nations Scientific Committee on the Effects of Atomic Radiation”は次のように説明している。

原子放射線の影響に関する国連科学委員会(UNSCEAR)は、1955年の国連総会決議で設立された。21か国(現在時点では27か国)が参加し委員会のメンバーに科学者を送っている。年に1回正式な年次総会(セッション)を行うことになっており、また国連総会に報告を行うことになっている。国連科学委員会は放射線基準を設定する権限もなければ、核実験に関する勧告を行う権限もない。電離放射線に対する世界の人々の現在時点での被爆状況を厳密に決定するのみである」

 とするならば、彼らの興味が、福島原発事故での放出放射能と人口集団の被曝線量に集中しているのも何の不思議もない。また冒頭に引用した2013年10月の国連総会における報告も通常の年次報告であることがわかる。英語Wikiを続ける。こうした国連総会に対する報告以外に、

年次報告ほど頻繁ではないが、電離放射線の影響と放射線源に関する一般向け報告を発行している。2011年7月現在1958年から2010年報告まで20本のこの種の主要報告を出している。これら報告はすべてUNSCEARのウエブサイトで入手できる。これら報告は極めて高い権威のある情報とみなされており、放射線リスクを評価する際の科学的基礎をなすものとして世界中で使用されている。」
もともと、1955年インドとソ連が中国(本土)などの共産主義国家や中立国をメンバーに加えるように要求した。アメリカはこれに妥協してアルゼンチン、ベルギー、エジプト、メキシコの参加を承認したのである。」
委員会はニューヨークに事務局を置いていたが、1974年(オーストリアの)ウィーンに本部事務局が移転した。」

 これだけ読むと、何か奥歯にものが挟まったような、歯がゆい感じがする。

 日本語ウィキペディア『原子放射線の影響に関する国連科学委員会』は次のように述べている。

1950年代初頭の冷戦下、核兵器の開発競争のために核実験が頻繁に行われだし、放射性降下物などによる被曝の懸念から核爆発の即時停止を求める提案をかわす意図もあって、第10回国際連合総会にて電離放射線の程度と影響の情報の収集と評価するための委員会を設置する提案がなされ、1955年の12月3日に満場一致で承認された。」

 日本ではこの委員会を単に「国連科学委員会」と略して呼ぶことが多い。またそのため、国連が招集した科学者で構成している中立・公平・客観性のある委員会という印象を強くもたせることにもなっている。しかしこれは後でも触れるが決して正しい理解ではない。専門家の間では、頭文字をとって“UNSCEAR”(アンスケア、と発音するらしい)と呼ぶことが多い。ここで日本語ウィキが述べている「核実験」は大気圏内核実験である。

 アメリカ、旧ソ連による大気圏核実験からの放射能は、地球全体を覆い各地で放射線健康障害が発生した。このため国連で大気圏核実験の禁止の要求が強く起こった。この時アメリカは、放射線の影響を“科学的”に調査した上で大気圏核実験禁止問題を議論しようという提案を行って、UNSCEARが誕生した。

 つまりUNSCAERは、大気圏核実験を継続するため、またその放射性降下物による放射線被曝の人体影響を科学的概観を装って過小評価する組織として誕生したということができる。ついでに言えば、大気圏核実験の影響は深刻で、ついに1963年アメリカ・ソ連・イギリスを中心にして『大気圏核実験禁止条約』(正式名称は『大気圏内、宇宙空間及び水中における核兵器実験を禁止する条約 - Treaty Banning Nuclear Weapon Test in the Atmosphere, in outer Space and under Water』)が成立、発効する。この条約は63年8月に署名され10月には発効という慌ただしさであり、いかに『大気圏内核実験禁止』が私たち人類にとって緊急の課題だったか、そしてそのことをアメリカといえども認識せざるをえなかったかがわかる。ところがこの条約は地下核実験を禁止していなかった。そのため『部分的核実験禁止条約』(PTBT)と呼ばれることもある。核兵器後進国である中国とフランスはこのため『大気圏核実験禁止条約』に参加しなかった。このように核実験禁止条約には、核兵器保有国間の政治的駆け引きという側面もあったのだが、それはこの条約の本質ではない。アメリカ・ソ連が率先して『大気圏核実験』を禁止しなければ、降下物の放射能影響によって、人類の存続そのものが危うくなる瀬戸際にあった、というのがこの条約の本質である。事実男性の前立腺がんの発症、女性の乳がんの発症だけとってみても、北半球諸国を中心に激増し、『大気圏核実験禁止条約』発効後、約15年のタイムラグをおいて1970代の半ば頃ピークを迎えるのである。大気圏核実験の放射能による世界規模の健康損傷の実態はいまだに明らかになっていない。

中川保雄『放射線被曝の歴史』

 UNCSEAR成立の経緯を中川保雄はその著書『放射線被曝の歴史』の中で次のように記述している。少々長い引用になるかも知れないが、ご容赦願いたい。その前に。

 戦後1950年に本格的に活動を開始したICRP(国際放射線防護委員会)は、1950年勧告では、放射線被曝は「可能な限り最低レベルまで」(“to the lowest possible level”)規制すべき、という一般原則を打ち出していた。ところが1958年勧告では「実行可能な限り低く」(“as low as practicable: ALAP”)にあらためた。原則を根本的に変えたのである。一言でいえば「被曝受忍論(被曝強制論)」の本格的な導入である。この時ロックフェラー財団がICRPに財政的援助を申し出た、それはICRPが「被曝受忍論」を導入したからであったろう、と中川は書いている。

そのICRPの方針転換に大きな影響をおよぼしたものは、1958年勧告にも明記されたが、1955年の原子力平和利用会議であった。この会議は、アメリカのアイゼンハワー大統領が1953年末に国連で行った例の『原子力の平和利用』演説が契機となって開催された。」

 原子力平和利用会議は、外務省の昭和34年(1959年)3月付け『わが外交の近況(第3号)』で次のように記述されている。

第二回国連原子力平和利用国際会議

 昨年(1958年) 九月ジュネーヴで開催された第二回国連原子力平和利用国際会議は、一九五五年の第一回会議以後三年間における世界の原子力発電、核融合反応その他の分野における急速かつ飛躍的な進歩を反映し、七十カ国の科学者専門家等約七千名の出席をみ、また学術論文二千百余篇が提出されるなど、未曽有の一大国際学術会議となつた。
わが国も五十四篇の論文の提出および湯川秀樹博士を首席代表とする学者、専門家、実業家等五十二名に上る政府表団を派遣して、同会議に積極的に参加し、海外の最新知識の摂取に努めるとともに、わが国における研究成果を発表し、原子力の平和利用を目的とする国際協力と研究開発の推進の上に極めて有意義な成果を収めた。」

また1955年の第1回原子力平和利用会議に日本は、次のメンバーで代表団を送っている。

国際連合原子力平和利用国際会議(1955年8月)
代 表 田付 景一 首席(在ジュネーブ総領事)、安芸 皎一(資源調査会)、藤岡 由夫(東京教育大学)、駒形 作次(工業技術院)、都築 正男(日赤中央病院) (東大退官後1954年日本赤十字社中央病院長)
顧 間 矢木 栄(東京大学)、三井 進午(東京大学)、岡村 誠三(京都大学)、武田 栄一(東京工業大学)、加藤 正夫(東京大学)、本田 雅健(東京大学)、阿部 滋忠(経済企画庁)、栗野 鳳(外務省)、一本松 珠璣(関西電力)、奥田 克已(三菱造船)、 神原 豊三(日立製作所)
オブザーバー 中曽根 康弘(衆院議員)、 前田 正男(衆院議員)、志村 茂治(衆院議員)、松前 重義(衆院議員)、立花 昭(電源開発)」(原子力委員会資料)

 中川を続ける。
世界に広がった原子力開発への関心の高まりが、その会議の開催に結びついたとするなら、アメリカのビキニ核実験によって世界的に高まった死の灰への不安は、国連の下に『原子放射線の影響に関する科学委員会』(UNSCEAR)を誕生させた。互いに対立する契機(すなわち“原子力平和利用”と“死の灰への不安”)から生まれた二つの組織ではあったが、国連科学委員会は、本質的には、『原子力の平和利用』をスムーズに進めるためのものでしかなかった。そのためにアメリカは、この両組織で主導権を握るためにあらゆる手を使った。
 原子放射線の影響に関する国連科学委員会は、名称こそ科学委員会とされているが、科学分野ではなく国家の代表から構成された。(後でも見るが、中川の指摘どおり現在のメンバーも国家代表であり、各国科学研究機関の代表から構成されていない。“科学委員会”の名に値しない)アメリカが強い反対を押し切ってそのようにしたが、その大きなねらいは、人類的影響を問題にする遺伝学者を排除して、国家利益を全面的に押したてた議論へと持ち込むことにあった。もちろんアメリカの代表団に遺伝学者は一人も選ばれなかった。ビキニ後(ビキニ環礁の熱核融合爆弾実験で被曝した第五福竜丸事件は1954年3月1日)放射線問題の行方を決める議論が展開されたこの時期、アメリカ原子力委員会は(当時アメリカ原子力委員会は核の軍事利用・平和利用を促進する行政組織であると同時に規制組織でもあった。一連の核実験もアメリカ原子力委員会の事業として行われた)、遺伝学者の声を可能な限り封じ込めようとしていた。

『もうひとつのICRP』

そのよい例がつぎのような事件であった。
アメリカを代表とする遺伝学者マラー(ハーマン・J・マラー=Hermann Joseph Muller。ショウジョウバエに対するX線照射の実験で人為的に突然変異を誘発できることを発見した。この業績により1946年にノーベル生理学・医学賞を受賞している。精子バンクの提唱者でもある)は、すでにNCRP(アメリカ放射線防護委員会。NCRPの国際版がICRPである。NCRPはその後アメリカの行政機関の一つとして位置づけられ現在アメリカ放射線防護審議会となっている)の許容線量の委員会のメンバーとしてNCRPよりの姿勢を強めていた。そのマラーが1955年の国連の原子力平和利用会議で、放射線の遺伝的影響について報告しようとした。そのことを知ったアメリカの原子力委員会は、圧力をかけてマラーの発表を行わせなかった。この例のように。原子力委員会は微量放射線の影響をもとに放射線に安全線量は存在しないとする主張を徹底的に排除しようとした。
 
国連科学委員会のアメリカ代表団には、代表のシールズ・ウォレン(Shields Warren。アメリカ原子力委員会の生物・医学部の初代の長で、その任期の後も一貫してアメリカ原子力委員会の諸組織の要職を務めた)の他にブルーズとアイゼンパッドが加わった。(ブルーズはオースティン・ブルーズ。Austin M. Bruse。全米科学アカデミーの下部組織である全米研究審議会=National Research Council=NRCのもとにできていたABCC=原爆傷害調査委員会-Atomic Bomb Casualty Commission の創設期からの中心メンバーの一人。アイゼンバッドはMerril Eisenbud。アメリカ原子力委員会の幹部で健康安全研究所初代所長、原子力委員会ニューヨーク事務所長、のちに原子力委員会全体のすべてのウラニウム調達の責任者。アメリカ保健物理学会会長。電力業界ともつながりが深かった。)すべて原子力委員会を代表するメンバーであった。イギリスやカナダの代表もアメリカと似たようなもので、放射線問題の専門家といえば、大抵が(各国)原子力委員会の人間であった。スウェーデンもまた同様で、ICRP議長のシーベルトが代表であった。(シーベルトはロルフ・シーベルト=Rolf Sievert。ICRPの線量体系単位“シーベルト”も彼の名前からとった。なおシーベルトは1958-59年の国連科学委員会委員長を務めている。国連科学委員会メンバーとはICRPのメンバーと完全に重なっている)またしても同じような顔ぶれが並んだ。」

 国連科学委員会を理解するにあたって非常に重要な記述となるので、中川保雄を続ける。

国連科学委員会を構成したのは、それらアメリカ、イギリス、カナダ、スウェーデンの他にフランス、オーストラリア、ベルギー、日本、アルゼンチン、ブラジル、メキシコ、インド、エジプト、さらにソ連とチェコスロバキアの15か国であった。これらの国々の中で、『BEAR報告』、『MRC報告』、NCRP勧告やICRP勧告といった放射線問題で図抜けた経験とデータをもっていたのは、最初の4か国であった。ICRPを主導していたそれら4か国が、ソ連・社会主義国と開発途上国が加わった、いわばもう一つのICRPといえる国際科学委員会をリードすることになった。」

 このか所で中川はUNSCEARの本質をズバリ一言で言い当てている。すなわち『もう一つのICRP』である。ICRPが国際的科学者の集まりという偽装をこらした「国際被曝強制委員会」とすれば、国連科学委員会は国際連合の権威を振りかざした「国際被曝強制委員会」といういい方もできるだろう。なお、中川がこの文章を書いたのは1990年から1991年にかけてであろうが、現在の国連科学委員会は、旧ソ連崩壊後、旧社会主義国からロシア(旧ソ連)、チェルノブイリ事故の当事国ウクライナ、ベラルーシ、分裂後のスロバキア(チェコは参加せず)、ポーランド、それに核兵器保有国である中国が参加し、核兵器保有国であり国連安全保障理事会の永久理事国(P-5)が揃った。それに西側から、ドイツ、スペイン、フィンランド、韓国(イタリアは参加せず)、発展途上国からは核兵器保有国であるパキスタン、ペルー、スーダンが参加し27か国体制となっている。うちもっとも新しく参加したのは2011年参加のベラルーシ、ウクライナ、フィンランド、韓国、パキスタン、スペインである。しかし基本的な構図はアメリカ、カナダ、イギリス、スエーデン主導であることには変わりない。

隠れた「国際核推進体制」

 しかし大気圏内核実験の是非については、この問題が国連科学委員会設立のきっかけでもあっただけに鋭い内部対立があった。

その問題ではアメリカ、イギリス等とソ連、チェコスロバキアとの意見は真っ向から対立した。社会主義国は、核実験即時停止を盛り込むよう主張した。被爆当事国日本からは都築正男や田島英三等が代表として参加したが、なんと日本は核実験即時停止に反対した。結局核実験即時停止は、少数意見として葬り去られた。」
1958年の夏にICRP勧告と国連科学委員会報告が出そろい、放射線問題に関する国際的議論の大勢が固まった。まるでそれを待っていたかのように、他の国際組織も本格的に動き出した。1955年の原子力平和利用会議が母体となって生まれた原子力推進のための「国際原子力機関(IAEA)」も、文字通り推進の立場から放射線被曝基準の制定をめざして検討を開始していた。それらの国際的強調の総仕上げとも言うべき集まりが、1958年8月末に密かにスイスで開催された。その会議はICRP議長のシーベルト(ロルフ・シーベルトのICRP議長は1956年-1962年)の個人的招集をというかたちをとって、1958年の第2回原子力平和利用会議に参加する各国の代表を密かに呼び集めて開かれた。これには『国際放射線防護委員会』(ICRP)、『国際放射線単位委員会』(正確には国際放射線単位測定委員会-International Commission on Radiation Units and Measurement-ICRU)、『国際放射線会議』(正確には国際放射線研究会議- International Congress of Radiation Research- ICRR)、『国連科学委員会』、『国際原子力機関』(1957年に設立されている)、『ユネスコ』、『世界保健機関』(WHO。1959年WHOなどはIAEAと協定を結び放射線問題については、WHOはIAEAに従属する体制をとった。後で出てくるFAOも同じ)、『国際労働機関』(ILO)、『食糧農業機構』(FAO)、『国際科学組合評議会』(ICSU)、『国際標準組織』(ISO)の6政府組織、5非政府組織が参加した。この会議では、
 (1) 放射線の影響に関する基礎研究
 (2) 放射線によるリスクの評価を含むデータの集積と評価
 (3) 上の2点を基礎とする放射線防護基準の確立
 (4) 実用的な規範(たとえばIAEAなどのセーフガードがそれにあたるの確立
 (5) 勧告の実施に向けた実務
を進めることで意志統一がはかられた。
原子力平和利用会議に参集した国際諸組織が、一方では原子力の推進を図るための協議を行いながら、他方では放射線被曝問題を議論するのであるから、放射線被曝の危険性が副次的なものとして扱われ、軽視されることになるのは明らかである。その方針で、ICRP主導の下に共同して事にあたろうと誓いあったのである。」
これはまさに、原子力開発の推進を前提とした、放射線被曝問題に関する国際協調体制の構築であった。1958年に築かれたこの協調体制は、その後も陰に陽に表れて、重要な政治的役割を果たす。放射線や原子力の問題を見る場合、決して見落としてはならない隠れた原子力推進体制なのである。」

 もし中川の指摘する「隠れた原子力推進体制」を踏まえるなら、1958年にICRP(というよりロルフ・シーベルトを表面に立てた国際核利益共同体)は、国連科学委員会、IAEA、WHO、FAOなど放射線被曝問題及び健康影響問題に大きな利害関係をもつ国際組織から、「すべてICRPに任せる」という一札をとった格好となる。その意味でオール国連体制でICRP支持を打ち出したかに見えるし、事実表面その通りである。しかし一歩中に入って見ると国連も決して一枚岩ではない。WHO自体も一枚岩ではないし、ここに集まらなかった国際機関、たとえば国連人権委員会などは、ICRPの掣肘の埒外にある。要するに私たちが、誰の指摘を正しいと受け止めるかの問題ではないだろうか?

 この記事のテーマである『国連科学委員会』(UNSCEAR)はもちろん完全にICRPの管理下にある。というより、ICRPとUNSCEARは人的には完全に重なっており、中川保雄の指摘するとおり、国連科学委員会は「もう一つのICRP」なのだ。

完全に核推進学者とダブる日本代表団

 たとえば、国連科学委員会の現在の日本代表メンバーを見てみよう。日本代表は米倉義晴である。米倉は私の記事にもしばしば登場するが、独立行政法人放射線医学総合研究所(放医研)理事長を2012年3月まで務めた日本のICRPを代表する大物の一人である。また同時にICRPの医療被曝を担当する第3委員会のメンバーである。米倉は2013年以来国連科学委員会の委員長、副委員長に次ぐ三役の一人である特別代表(Rapporteur)にも指名されている。日本代表代理は児玉和紀。元ABCCの放射線影響研究所(放影研)の主席研究員である。役員といえば、2004年と2005年の2年間国連科学委員会の委員長を務めたのが日本アイソトープ協会の佐々木康人である。また佐々木は1997年から2006年の約10年間国連科学委員会日本代表を勤めている。また2001年から2009年の間、ICRPの主委員会委員の一人でもあった。つまり佐々木も米倉もUNSCEAR日本代表を勤める傍らICRPの主要メンバーだった、あるいは現在も主要メンバーの一人ということになる。これは日本に限らない。各国UNSCEARのメンバーは同時にICRPの主要メンバーであり、また同時に各国核産業利用推進機関や研究機関に属していたり、またそのまま放射線防護行政(規制行政)に直接・間接に関与していたりする。

 これでUNSCEARの報告の独立公平性が保てるわけがない。「UNSCEARはもう一つのICRP」と言われるゆえんである。

 2008年、UNSCEARはオーストリアのウィーンで第56回総会を開いた。当然日本も代表団を送った。ところがこの時日本代表の米倉は所要でウィーンに行けなかった。この時米倉に替わって代表代理を勤めたのが京都大学名誉教授の丹羽太貫である。丹羽も日本のICRPを代表する大物である。また佐々木康人に替わって現在ICRP主委員会の委員をつとめている。ばかりか、ICRPがリスクモデルを作成する際の主要データであるLSSを提供する放影研の評議員の一人でもある。

 『福島第一原発事故』をテーマとする国連科学委員会第60回総会が今月末終了予定で開催されている。心を躍らせてその報告を待ちわびているものは恐らく一人もいまい。その報告の結論は目に見えているからだ。


【参照資料】
UNSCEAR:『Background information for journalists UNSCEAR assessment of the Fukushima-Daiichi accident』(2012年5月23日)
英語Wikipedia:“United Nations Scientific Committee on the Effects of Atomic Radiation
日本語ウィキペディア:『原子放射線の影響に関する国連科学委員会
UNSCEARのWebサイト:“The Fukushima-Daiichi nuclear power plant accident”
UNSCEARのWebサイト:“Officers of UNSCEAR”
UNSCEARのWebサイト:“Composition of UNSCEAR”
外務省『わが外交の近況(第3号)』(昭和34年3月)
内閣府原子力委員会『原子力白書 昭和31年度版』『国際連合原子力平和利用国際会議』の項。
なおこの白書は「はしがき」で原子力委員会委員長・国務大臣の正力松太郎が次のように書いている。
「世界の原子力の平和利用は、この数年来急速に発展しつつあるが、わが国においても昭和31年(1956年)初頭に原子力委員会が発足して以来その開発態勢も着実に整備され、32年8月にはわが国の第一号研究用原子炉が東海村において運転を開始するに至った。
 さらに世界の原子力利用の尖端はすでに原子力発電の時代に突入しつつあり、この情勢はわが国にも直ちに波及し,原子力発電はもはや現実の課題として登場してきた。このように原子力利用の奔流に棹さして常に方向を誤らないためには,これまで歩み来た跡を正確な事実に基いて顧み。かつ原子力平和利用の将来を展望することが肝要である。この趣旨において,ここに昭和31年におけるわが国原子力の平和利用についての年報を編纂し公刊する次第である。昭和32年12月」
日本語ウィキペディア『ハーマン・J・マラー』
哲野イサク『カール・ジーグラー・モーガン(Karl Ziegler Morgan)について その② 内部被曝に基準を示せなかったNCRPのカール・モーガン』 2011年12月1日
アメリカエネルギー省:『Office of Human Radiation Experiments』のオーラル・ヒストリー・シリーズの『HUMAN RADIATION STUDIES:REMEMBERING THE EARLY YEARS Oral History of Merril Eisenbud』の中のアイゼンバッド略歴(Short Biography)。1995年5月  http://www.hss.energy.gov/healthsafety/ohre/roadmap/histories/0456/0456toc.html
哲野イサク『世界保健機構(WHO)第4代事務局長 中嶋宏氏死去-IAEA(国際原子力機関)のWHO支配に挑戦した事務局長-』(2013年1月30日)
国連科学委員会日本代表 『原子放射線の影響に関する国連科学委員会(UNSCEAR)第56回会合報告』(2008年。報告といいながら報告年月日が明記されていない。)
中川保雄『放射線被曝の歴史』の『国連科学委員会』(p77からp81)(1991年 株式会社技術と人間社版)