(2011.12.22)
No.033

カール・ジーグラー・モーガン
(Karl Ziegler Morgan)
について


その② 内部被曝に基準を示せなかったNCRPのカール・モーガン



 「カール・モーガン氏インタビュー記事」

写真引用 http://www.rikart.de/bmb/html/005.html

Dr. Karl Z. Morgan,
der erste Strahlenschutzbeauftragte.
Atlanta, Georgia. 8. August 1983.



 前回までは、核推進派の主要人物の一人(核推進派「内なる内閣」の一員-ガーディアン紙)としてのカール・モーガンの前半生と反核・反原発の闘士としてのモーガンのコントラストを簡単に見てきた。

 マンハッタン計画時代から、オークリッジ国立研究所の保健物理部ディレクターやICRPの委員を永年勤めたモーガンは、その引退後、原発や核兵器に対する態度や考え方を一変させたのは何故なのか?何がモーガンを変えたのか?いや、そもそもモーガンは本質的に変わったのか?それを次に見てみよう。

 使用するテキストは、『核時代 昨日・今日・明日』(1995年、中国新聞社刊)の中に納められている「カール・モーガン氏」インタビュー記事である。この本は「核時代」に関係したアメリカ人18人のインタビュー記事で構成されている。ちなみに1995年は原爆投下50周年にあたる。
 
 この本の著者である田城明は、現在中国新聞の特別編集委員である。おそらくこの本のための取材は1995年前半、あるいはその前年の1994年に行われたのかもしれない。だとすれば、カール・モーガン死去の4-5年前である。モーガンの掛け値のない本音が吐露されてもいる。しかし怪しいところもある。複雑なキャラクターではある。

 著者の田城明の意図や問題意識、この問題に対する理解や洞察の深さはどうあれ、このインタビューのカール・モーガンははっきりとICRP的な世界との訣別を宣言している。それだけは確かなことだ。それを見てみよう。(引用『 』は同書p159からp177である。)

 『  ―モーガン博士、まずあなたがマンハッタン計画に関わった経緯を聞かせて下さい。

 1934年から10年間、ノース・カロライナの山中で宇宙から届く放射線の研究をしていた・・・アーサー・コンプトン教授の下での研究だった。ところが、彼は43年にシカゴ大学でマンハッタン計画に関わることになり、私も同じ年の4月にシカゴ大学へ移った。

 そこで私は、世界で最初の保健物理学者5人の1人になった。・・・われわれはシカゴ大学で、放射性物質の許容基準に研究していた。その中で放射線を測るためのフィルムバッジとかポケット・リーダーの開発、汚染除去法などを研究した。』 

 フィルムバッジは、X線フィルム面の写真乳剤が放射線の入射量に応じて黒化度が増す性質を利用したもので、放射線管理区域等で作業する場合の放射線被ばく量管理に使用されている。フィルムバッジは、X線、γ線、β線、中性子線による被ばく線量とこれら放射線の平均的なエネルギー(中性子線を除く)を推定することができ、また機械的強度が大きいなど優れた特徴を有する一方、被ばく線量の算定には、フィルムを現像する必要があり時間がかかる欠点がある。長い間個人線量計として使われていた、とATOMICAの「X線フィルムの構成と応用」(<http://www.rist.or.jp/atomica/data/dat_detail.php?Title_No=08-02-04-02>)は説明している。

 ポケット・リーダーはポケット線量計のことである。

 『  これが最初の保健物理学者の出発だった。・・・保健物理学は、遮蔽物などを使って放射線から人を守る学問だ。

 とモーガンはこのインタビューで説明している。これは外部被曝には当てはまるが、内部被曝には全く当てはまらない。体の内部に、遮蔽物など構築できはしない。そのことは後にモーガン自身が思い知ることになる。

 『  ―シカゴからオークリッジ国立研究所へ移ったのはいつですか。

43年9月に、家族と一緒に移り住んだ。当時、この辺りは綿花を栽培する農業地帯だった。ここにできた核兵器工場の目的は、ウラン型爆弾に必要な濃縮ウラン235(ウランの同位体235U)を製造することだった。最初はY-12工場で電磁分離方式を使ってウラン238を分離し、やがてK-25工場でガス分離方式によるウランの分離作業をはじめた。』

 「核兵器工場」というのは、これは先にも見たように、正確にはオークリッジに隣接したクリントン技術工場のことを言っている。「核兵器」を最終製造していたわけではない。クリントン技術工場には、大きく2つの種類のウラン濃縮工場があった。K-12は電磁分解法によるウラン235の分離濃縮工場である。

 天然のウランには核分裂しにくい同位体U238などが99.3%、核分裂しやすい不安定な同位体U235が約0.7%含まれている。電磁分解装置カルトロンを使って、U235を分離しこれを繰り返していけば、U235の濃縮率90%以上の兵器級濃縮ウランが製造できる。気の遠くなるような作業である。Y-12工場が製造を開始したのは1943年の11月である。従ってモーガンがオークリッジに移ってまもなくY-12が操業開始になったことになる。

 一方、Y-12の建設開始は1943年2月である。凄いスピードである。前出の「陸軍長官声明」にもあったように、建設開始時点で兵器級ウランが製造できるという見通しがあったわけではない。「声明」にもあるようにそれは一種の賭け(ギャンブル)であった。

 K-25は、半透膜を利用してU235を分離・濃縮するガス拡散(gaseous diffusion)方式の濃縮工場だった。この方法はなかなか苦戦し、操業開始になったのはやっと1945年3月のことだった。だから、広島原爆リトル・ボーイに搭載された兵器級ウラン燃料は主にY-12で製造されたものだった。(以上英語Wikipedia“Y-12 National Security Complex”も参照した)

 クリントン工場やそれに隣接する住宅都市オークリッジには、「陸軍長官声明」にもあったように、最盛期家族を含め約7万8000人の人が働き、住んでいた。ここでは、ウラン酸化物などの微粒子で相当数の内部被曝が発生したと見られる。こうしたことから、モーガンはいつしか内部被曝の専門家になっていく。


 早くも出てくるモーガンのおとぼけ

 インタビューを続けよう。

 『 ―オークリッジ国立研究所の保健物理部門には、最初何人いたのですか。

私を含め、シカゴ大学から移ってきた5人だった。私はまもなくその部門の部長(ディレクター)になり、29年間、そのポストにいた。45年の初めにはその数も60人に増えた。(だからマンハッタン計画時代は、工場内の内部被曝問題に関しては焼け石に水の状態だった、と想像される)

60年になると200人、退職時の72年には215人いた。

戦時中はもちろん、原子力関係の仕事といえば、ほとんど全て核兵器製造に関わっており、そこで働く何万人もの労働者をいかに放射線から守るかに主眼が置かれた。とはいえ、どれだけの放射能を浴びれば、人体に影響を及ぼすのか、すべて手探りからの出発だった。

―放射線の許容線量はどのように決められたのですか。

1950年以前は内部被曝についての広島や長崎のデータはなかった。

 これは正確に言えばなかったのではなく、内部被曝データを収集しようとしなかっただけだ。当時(今も基本的には同じだが)、ABCC(原爆障害者調査委員会)の研究方針は、被曝による放射線障害は、初期放射線(そのほとんどはガンマ線と中性子線)による外部被曝でのみ生ずるという方針でデータを収集していった。だから最初から内部被曝は問題にしなかったのである。これは基本的にABCCの後身である放射線影響研究所(放影研)も同じ方針を受け継いでいる。また原爆被爆者の認定作業に直接関わる厚生労働省も、基本的にABCC=放影研の認識を受け継ぎ、放射性降下物(いわゆる黒い雨)や入市被曝などによる健康損傷はない、という立場を取っている。

 ABCCが広島・長崎の原爆生存者のデータを収集しているのは、1950年以降の生存者データであり、1945年8月から1949年12月までに死亡した被爆者のデータは表向き持っていないことになっている。(こうした、1949年以前の被爆者データが全くなかったかというとそんなことはない。例えば、1947年にABCCは報告書を作成しているが、その中には日本側の調査データも含まれていた)

 こうした事情をモーガンが知らなかったかといえば、後ほど述べる理由で、モーガンが知らなかったと考える方が難しい。彼はそれを知りうる立場にあったし、私はある程度知っていた、と想像している。もし私の想像が当たっているなら、ここでモーガンはいわば公式論を繰り返していることになる。


 肝心な話をしないモーガン

 『
プルトニウムについて私が最初に手にしたデータは、44年、カリフォルニア大学バークレー校が三匹のラット(ネズミ)に微量のプルトニウムを注射した人体実験だった。そのデータをもとに許容線量を決めた。

国際放射線防護委員会(ICRP)に最初に発表した許容線量は、現在の基準の200倍になっている。つまりプルトニウムの毒性はわれわれが最初に考えたより200倍も強いものだったということだ。

―それはいつの発表されたのですか。

ちょうど私がICRPのメンバーになった50年だった。その後71年まで委員を続けたが、その間私は内部被曝委員会の委員長を務めた。この委員会の主な役割は、放射性物質の体内許容基準を設定することだった。

私は全米放射線防護委員会の内部被曝委員長も務めており、内部被曝の研究は重要な関心事だった。どの放射性物質が体内のどこに蓄積されるかを突きとめようとした。

例えば、ヨード(これは同位体ヨウ素、I131のこと)は甲状腺に、トリウムは肝臓、トリチウムは全身に蓄積するといった具合だ。それがどのくらいの期間、臓器にとどまるのかを調べながら、プルトニウムやセシウム、ストロンチウムなど数百種の放射性物質の許容基準を決めていった。

―その研究は、あなたがオークリッジに移った43年にはじまったのですか。

そうだ。だが、先に触れたとおり、研究成果は50年にICRPを通じて初めて発表した。委員会にはフランス、ソ連、カナダ、アメリカ、イギリスなどの委員がおり、各国が持ち寄った情報を基に最終的な基準を決めた。それがアメリカをはじめ、多くの国の許容基準となった。

 ここでモーガンが述べていることは、まず、モーガンは最初から放射線内部被曝の専門家だった、それは43年オークリッジ国立研究所に移った当初からそうだった、44年当時内部被曝に関するデータは動物実験によるデータしかなかった、ということだ。

 しかし本当にそうか?このインタビューでは時期が特定されていないので何とも言い難いが、45年当時になると、兵器級ウラン濃縮を行っていたクリントン工場や兵器級プルトニウム製造を行っていたワシントン州ハンフォード工場の従業員内部被曝問題はすでに大きな問題になっていたはずだ。特にハンフォード工場のケースは後に大規模な訴訟問題になっているし、マンキューソやアリス・スチュアートの決定的な研究(後述)も出てくる。内部被曝問題が全く動物実験によるデータだけだった、と言う話は余りにも荒唐無稽だ。

 次に述べていることは、内部被曝による被曝線量基準を研究したが、それは1950年になってICRPを通じて発表した、ということだ。しかしそれは真実ではない。結局モーガンは自身の内部被曝に関する研究を発表しなかったのだ。

 そのことに言及することを避けるため、その最晩年になってもモーガンは肝心な話をすっ飛ばしている。
(あるいは著者の田城が書かなかった、とも考えられるがそれは薄い。話の中でモーガンは明確に1950年に発表した、といっているからだ。50年に発表したのは内部被曝独自の基準ではない。つまり外部被曝も内部被曝もリスクは同じとしたのだ。そして、そうでないことはモーガン自身が一番よく知っていた。)



 アメリカ放射線防護委員会(NCRP)の成立

 1950年のICRPに先だって1946年に全米放射線防護委員会(National Committee on Radiation Protection-NCRP)が成立し、すぐに外部被曝の許容線量作成とともに内部被曝の許容線量作成が企画されたが、合意に至らずに結局外部被曝許容線量をそのまま内部被曝許容線量に準用し、つまり内部被曝と外部被曝とでは、人体に対する影響を線量自体で区別をつけずに同等とする結論を出し、その結論を1950年に成立したICRPが踏襲する、そしてモーガンの研究(と称するものも)、そのICRPが出した1950勧告に吸収されていった、というのが真実である。

 ここの話は、そうとうややこしい。が、すこぶる付きに重要だ。ICRPに先行するNCRP成立のいきさつから見ておかねばならない。そうしないと、このインタビューでカール・モーガンが肝心な話をすっ飛ばしていることの重要性が理解できない。

 このために使う参考書は中川保雄の『放射線被曝の歴史』(技術と人間 1991年)である。(なお『 』引用文中の青字は私の補足である)

 放射線はまず医療用や工業用の部門で実用化された。すでに早くからこうした分野で放射線障害があらわれていた。こうした職業被曝から、医療従事者や、研究者、工業労働者を防護する必要に迫られた。こうして1928年、「アメリカX線およびラジウム防護諮問委員会」(The Advisory Committee on X-Ray and Radium Protection)が成立する。この委員会のメンバーは、当時の放射線学会の科学者、放射線器機メーカー、そして当時唯一の規制当局的役割を担っていたアメリカ連邦政府・規格標準局(National Bureau of Standards- NBS。現在はNational Institute of Standards and Technology-NIST”に改組されている。)だった。

 ところがマンハッタン計画が始まると事情は一変する。まず防護対象がラジウムやX線からウランやプルトニウムに変わった。なによりも大きな変化は厖大な人員が参加する核産業の成立である。つまり被曝対象が圧倒的に拡大したのである。一言で云えば「核時代」が始まったのである。

 戦後マンハッタン計画(アメリカ陸軍の組織としては「マンハッタン工兵管区」-Manhattan Engineering District)はアメリカ原子力委員会(AEC)に衣替えをした。このAECが核時代を先導したのである。また核時代にふさわしい放射線防護基準も必要となった。そこで、戦前からの組織であった「アメリカX線およびラジウム防護諮問委員会」が衣替えをして誕生するのがNCRPだった。1946年のことである。この時(正確にはその準備会合で)、次のことが決定された。

 『 (1)名称を全米放射線防護委員会(NCRP)と改める。 (2) NCRPには執行委員会および7つの小委員会を設置すること。(3) NCRPの委員長をテイラー(ローリストン・テイラー=Lauriston S. Taylor)とし、全体の調整をはかる組織は引き続き全米規格標準局とすること、であった。こうしてNCRPが誕生した。』(同書p17)

 なおこの時、ローリストン・テイラーは全米規格標準局のX線部長だった。このX線部は1951年には原子および放射線物理部になり、引き続きテイラーが部長だった。
(以上<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/hiroshima_nagasaki/fukushima/ECRR_sankou_05.html>の<「Mr.放射線防護」ローリストン・テイラー>の項参照の事)

 つまり、原子力委員会は全米規格標準局を通じてNCRPに影響力を与える体制をとった。もちろん、キーパーソンはローリストン・テイラーである。

 『 この組織(NCRP)は、放射線作業に従事する人々を放射線障害から守るための、政府から独立した学術組織とされてきた。はたしてそうなのか。この疑問に応えるためにはNCRPの実態を具体的にみる必要がある。

NCRPの執行委員会は委員長(テイラー)を含めて5名で構成された。そのメンバーはストーン(R.S. Stone。カリフォルニア大学バークレー校。アーネスト・ローレンスのもとでマンハッタン計画に参加していた)、ファイーラ(Gioacchino Failla。コロンビア大学。戦争中はマンハッタン計画に関与していたと思われる。<http://jnm.snmjournals.org/content/6/5/376.full.pdf+html>)、スタフォード・ウォレン(臨時:Stafford Warren。アメリカ陸軍軍医でマンハッタン工兵管区の主席軍医。アメリカ軍合同調査団の主要メンバーで広島・長崎も調査した。<http://en.wikipedia.org/wiki/Stafford_L._Warren>)、ウィリアムズ(E.G. Williams アメリカ保健省公衆衛生局<http://radiology.rsna.org/content/72/3/430.full.pdf>)であった。』(同書p17-p18)


 アメリカ原子力委員会の別働隊

 『 彼らの経歴を振り返ってみよう。ストーンは、シカゴ大学冶金学研究所の「プルトニウム計画保健部」、すなわちマンハッタン計画の放射線影響研究の中心的指導者であった。彼の指導によるその研究においては、ガン患者の全身にX線をあびせる実験が行われた。ストーンの出身校、カリフォルニア大学医学部の付属病院に入院していたガン患者を使った人体実験の結果から彼らがひきだした結論は、1回あたり20-25レムはもちろん、40レムまでの放射線照射なら、被曝の影響をもっとも敏感にしめすリンパ球の有意な減少は見いだされず、総被曝線量も300レムまでなら障害は現れず、従って「耐用しうる」というものだった。』(同書p19)

 中川の講義の最中であるが、ここでの人体実験などが、1990年代中頃アメリカの議会で問題となるのである。この一文の冒頭で、「口承歴史プロジェクト“人類放射線研究:初期の時代の記憶”」のことに触れ、カール・モーガンが重要な証言者の一人となったことを述べたが、中川の記述もこのことである。アメリカの議会で問題になった時は、中川はすでに死去していた。

 ところで、1レムは生体の放射線吸収線量の単位で、この当時は使われていたが今はシーベルトになっている。換算は通常100レム=1シーベルトである。従ってここで扱われている「20-25レム」というのは200ミリシーベルトから250ミリシーベルトのことであり、「40レムまでの放射線量」というのは、400ミリシーベルトのことである。「300レムまでなら障害は現れず」といっているのは、3シーベルトのことである。無茶苦茶である。

 『  ファイーラは、ニューヨークのメモリアル病院の放射線治療法の第一人者でマンハッタン計画の顧問を歴任して、戦後もアメリカ原子力委員会の各研究所の顧問や生物医学部の生物物理部門の長を兼ね続けていた。彼はまた、コロンビア大学の関係者や公衆衛生局にも大きな影響力を有していた。

 NCRP議長(委員長)のテイラーは、X線の線量測定が専門で、マンハッタン計画にこそ参加しなかったが、戦争中は空軍のオペレーションリサーチに従事し、戦後に規格標準局に復帰した後の1948年に、アメリカ原子力委員会に出向してその生物物理部門の長を務めるなど、産業界、軍、原子力委員会と深くつながっていた。

 スタフォード・ウォレンは、マンハッタン計画の医学部長であった。1945年7月16日にニューメキシコ州のアラモゴードで行われた初の核実験「トリニティ実験」において、放射能測定を陣頭指揮した人物であった。(彼は臨時委員だったので)後に彼に代わってNCRPに入ったシールズ・ウォレン(Shields Warren)は、アメリカ原子力委員会の生物・医学部の初代の長で、その任期の後も一貫してアメリカ原子力委員会の諸組織の要職を務めた。彼が執行委員会に加わったことにより、NCRPに対するアメリカ原子力委員会の影響力はいっそう強められた。』(同書p19-P20)

 要するに、NCRPは政府と独立した学術組織どころか、完全にアメリカ原子力委員会(AEC)の影響力のもとにあり、財政的にもNCRPを支えた。いってみれば、AECの政策を「放射線防護」の立場から推進する別働隊だったのである。

 結論を出せなかったモーガンの「内部被曝」委員会

 NCRPには緊急の仕事があった。それは、「核時代」に対応した放射線防護の基準を定めることであった。しかもその仕事は、AECが要請する、すなわち原爆開発を通じて急激に膨張したアメリカの核産業が要請する「核と人類が共存できる」レベルの基準値でなければならなかった。そんなものはありはしないのだが、少なくとも科学的外観を装ってその仕事を急がねばならなかった。

 この仕事に取りかかったのは、NCRPの下に置かれた各小委員会であった。特に重要だったのが、ファイーラが委員長の外部被曝許容線量を決定する小委員会とほかならぬモーガンが委員長の内部被曝許容線量小委員会だった。NCRPが改組(事実上の設立)された翌年の1947年には、外部被曝許容線量小委員会は早々と、放射線作業従事者に対し1週あたり0.3レム、年間15レム(それぞれ3ミリシーベルト、150ミリシーベルト)と決定した。それまでの1週当たり0.7レムに比べると大幅な引き下げである。この時は公衆の被曝上限は決めなかった。そしてこれがほぼそのまま、ICRPの1950年勧告の中身になるのである。

 モーガンの内部被曝許容線量小委員会はどうなったのであろうか?結論をだせなかったのである。

 この間のいきさつについては、欧州放射線リスク委員会(ECRR)2010年勧告に詳しい。関係箇所をその第5章「リスク評価のブラックボックス 国際放射線防護委員会」から引用しておこう。

 『 ・・・。原子爆弾の実験を行い、それを日本に投下していた合衆国政府は、核科学が持っているどうしても軍事機密が絡んでくるその特質を1946 年には明確に認識していた。それは核物質の私的保有を非合法化し、その分野を管理するために原子力委員会(AEC: Atomic Energy Commission)を設立した。(46年原子力法の成立)

それと時を同じくして、NCRP は合衆国X 線ラジウム防護諮問委員会(US Advisory Committee on X-Ray and Radium Protection)を改組してつくられた。

これは被ばくを起こしていた大部分の分野が、医療用X 線というよりも、核爆弾開発であったような時期のことである。こうして軍と政府、そして研究契約を結んだ私的企業を巻き込んだ新しい放射線リスク源(すなわちアメリカの核産業)が誕生したのである。そして、放射線リスクについての最高権威であると主張できるような十分な信頼を担う主体を早急に設立することがはっきりと必要になっていた。』

・・・さらにそこには新しく発見され、生産され、労働者の手によって扱われ、そして環境中に放出されるようになっていた、新しい放射性同位体の宿主による内部放射線についての被ばく限度を設ける必要性も現れていた。今日では、核兵器の研究や開発を妨害しないような被ばく限度になるように、NCRP がAEC から圧力を受けていたことを示す十分な証拠が存在している。』

 というよりNCRPはAECの別働隊であったという中川の分析の方がより的確であろう。

 『 NCRP には核リスクの様々な側面を調査する8つの分科委員会がおかれていた。(中川は7つの小委員会、と数えている)そのなかでも最も重要なものは、ジー・フェイラ(G. Failla)が議長で外部放射線被ばく限度に関与していた第一委員会と、ズィー・モーガン(Z. Morgan)、オークリッジ主席保健物理学者、が議長で内部放射線被ばくリスクに関与していた第二委員会の2つであった。』

 “フェイラ”は中川の表記では“ファイーラ”である。カール・モーガンの肩書きは、保健物理部の“ディレクター”だった。

 『  (NCRPと)AECとの間には交渉があり、今日ではそれにとって受け入れ可能なものとして決められたことも明らかになっているが、NCRP はそれ自身の外部被ばく限度を1947 年に決定している。それは週間0.3 レム(3 mSv)であったが、既存の週間0.7 レム(7 mSv)を引き下げたものであった。・・・・。

 フェイラの第一委員会(外部放射線)が到達した結論であるこの値については1947年に同意されたのであるが、NCRP から最終報告書が出されたのは1953 年になってからであった。

 この遅延の原因は、モーガンの第二委員会が、体内の臓器や細胞への内部被ばく源となる、実に多種にわたる様々な放射性同位体がもたらす被ばく線量やリスクとを決めるために容易に適用できる方法を見出し、そして、導かれた値が正しいと簡単に同意するのは極めて難しいことを見いだしていたからである。

 このような難しさの一部には、様々な組織や臓器、そしてそれらの構成要素である細胞における放射性同位体の濃度やそれらの親和性に関しての知識が不足していた当時の状況下でものごとを進めなければならなかったことがある。

 またその難しさの一部には、線量の単位自体に含まれている平均化する考え方を、非均一な構造中におけるエネルギー密度分布に対して適用する問題が当然にしてあった。』

 当時は分子生物学が未発達であり、細胞の機能や性質、染色体やDNAに関する基本的知識が絶対的に不足していた。電離放射線の細胞に対する影響などは科学的に決定できなかった。さらに、「1kg」を基本単位とする「レム」という吸収線量の考え方は、細胞や分子レベルでの放射線の影響を考えるにはあまりに巨大すぎる単位であった。細胞レベルでは、1kgあたりの放射線量などはほぼ意味を持たなかったのである。(この事情は現在のシーベルトという単位に置き換えても全く変わらない。)

 『  結局、1951 年に、NCRP はこれらの問題が解決されるのを待つことにしびれを切らし、その執行委員会は第二委員会の審議を即刻うち切ってしまった。そして、おそらくはリスクに関してある誘導操作が必要であったがために未解決のままで内部放射体について報告書を準備するよう主張した。それにもかかわらず、最終報告書は1953 年になるまで公表されなかった。』(同勧告の日本語テキストp41-p42)

 やや長い引用になったが、「核時代 昨日・今日・明日」(中国新聞社刊)という本の中でインタビューに答えているカール・モーガンは、内部被曝の許容線量を決定するNCRPの小委員会がついに結論を出さずに終わり、その結果放射線量においては、内部被曝も外部被曝も人体への影響については区別をつけない現在のICRPモデルを作ることになったいきさつについては一言も触れていないのである。

 先に引用したモーガンのコメントは、放射線の標的は「臓器・組織」などであるとするを含め完全にICRPの主張を忠実に繰り返している。これはこのインタビューの後半での矛盾した発言と考え合わせると実に奇妙な内容になっている。
   
(以下その③)