(2010.8.8)
【参考資料】ヒロシマ・ナガサキ
トルーマン政権、日本への原爆使用に関する一考察

11.対日原爆使用の政策意図−警告なしの投下と冷戦の選択(下)
(「上」より続く)
オッペンハイマーとバーンズの対立

 まずオッペンハイマーが口火を切る。「ロシアはこれまで科学に対して常に友好的であり、この問題について仮の装いとして、ロシアに開放して見てはどうか、われわれの生産的努力を詳細には触れないで、一般論として話あってみてはどうか。」「この計画に対する国家的努力について語ってもいいし、この分野での協力関係についても論じてみてはどうか。」「ロシアの態度について事前に予断を持つべきではない。」と述べた。

 オッペンハイマーは、もともと親ソ連的だった。彼自身青年時代をニューディール時代で過ごしており、共産主義には何らの偏見も持たない、むしろ親しみをもった世代の一人だった。また彼の弟のフランクはアメリカ共産党員だった。だからこの発言は親ソ的立場からした発言と見ることも出来る。(たとえば英語Wikipedia“J. Robert Oppenheimer”<http://en.wikipedia.org/wiki/J._Robert_Oppenheimer>などを参照のこと。日本語Wikipedia「ロバート・オッペンハイマー」は彼の略歴を知るのに参考になる程度で、人となりや考え方などを知るにはまるで役に立たない。)

 また別な視点でも眺めることができる。デンマーク生まれの有名な物理学者ニールス・ボーアもまたこの時期マンハッタン計画に参加し、ロスアラモス研究所にいた。ボーアは「原爆を実際に使用させないためにマンハッタン計画に参加した。」というほど、原爆の実戦使用には反対だった。それは人道的理由にもよるし、またそれが「核兵器競争」を招来し、人類と地球全体を危険の淵に追いやると考えていたためでもあった。そのボーアの影響をオッペンハイマーは強く受けている。(“Niels Bohr”<http://en.wikipedia.org/wiki/Niels_Bohr>は優れた記事である。)

 だから、このオッペンハイマーの発言はこの観点からかも知れない。あるいはその両方かも知れない。

 これに対してマーシャルが、自分の軍事上の経験からソ連に懐疑的な見方を示した上で、ソ連に情報開示するなら、「志を同じくする強国間で結合力を構築し、その連合の力を背景に、ロシアを軸の中に引き入れると云った考え方に傾いている。もしロシアがこの計画に関する知識を持っていたとして、日本にその情報を公開するとしても何らの恐れも感じないことは確かだ。」と述べ、オッペンハイマーの意見にやんわりと反論した。そして「核実験にロシアの有名な物理学者2名を招待するのはどうか」と中間的な提案をした。

 これらの意見に猛然と反論したのが、それまで議事録の上ではまったく発言した形跡のないジェームズ・バーンズである。バーンズは次のように述べた。

 『 仮に一般的な話としても、もし情報をロシアに公開して、スターリンと提携関係をもつことに恐れがあると表明した。これは、とりわけわれわれのこの問題に対する関わり方の問題であり、イギリスとの協力関係に対する誓約の問題である。』

 バーンズの反対の理由は、主としてソ連に対する徹底的な不信感とイギリスとの同盟関係を重視の姿勢ということになるが、基本的には戦後世界をどう構築するかの青写真が異なっている点が指摘される。

 つまりバーンズは、戦後ソ連との冷戦構造を覚悟していたということになるし、もう少し穿っていえば、進んで冷戦構造を作りだしたかった、とみることが出来る。

 ただしバーンズは、ソ連が原爆を持つのに相当時間がかかる、という分析をしていたようだ。この問題は、翌日45年6月1日の暫定委員会の主要議題になっているが、バーンズはソ連が原爆を持つようになるまで45年から起算して20年かかると見ていたようだ。

 ( 実際にソ連が原爆の実験に成功するのは1949年、アメリカに遅れることわずか4年である。) 


国際的計画

そして議題は「国際的計画」に移り、A・コンプトンが次のような提案をし、全員が了承する。

 『  今後最低限10年間、大きくは次の様な計画が採用されるべきだと提言した。
1.  研究の自由は、国家安全と軍事的必要性のレベルで維持されつつ、発展すべきである。
(国際的科学研究は自由であるのがよいが完全に自由だとアメリカの国家安全保障を脅かすし、軍事的機密も守れない。だから、この2つに影響が出ない範囲で、国際的科学研究の自由な交流を行う。)
2. この分野で民主主義的諸勢力の結合が、協力関係の目的で確立されるべきである。
3. 協力的相互理解がロシアとの間に達成さるべきである』 

 この時点ではまだソ連との協力関係は完全に捨て去られてはいなかった。

 この後、午後1:30、会議はいったん中断し、1時間の昼食時間を挟んで、午後2:15に会議は再開された。


突如出てくる「日本への爆撃効果」

 次の議題は「Z.日本への爆撃と戦う意志に関する効果」である。爆撃とはもちろん原爆攻撃のことだ。

 この日の議事進行をもう一度振り返ってみよう。

 スティムソンのあいさつに続いて、科学顧問団の科学者が「原爆開発の発展段階」について説明した。それから、これからの国内計画について、おおよそ現在の生産体制を維持しながら将来の平和目的利用の展望を開いていくことを決めた。つぎにそのための基礎的研究の在り方について話し合い、ついで将来不可避的な核兵器の拡散をにらんだ管理と査察について議論した。当然ロシア問題が次に来る。ロシアに対して情報を開示するかしないかで鋭い対立があったが結局結論に至らなかった。そして戦後は安全保障と軍事機密を確保する範囲内で科学者同士の自由な研究体制を作ろうという内容が固まった。ここまでは議事に一連の流れがある。

 その次の議題が日本への爆撃とその効果である。これはあくまで爆撃(bombing)であって使用(use)ではない。

 この議題はこれまでの議事の流れを中断しているように見える。中断しているのかあるいは一連の流れがあるのか、ともかく内容を見ておこう。

 委員の誰かが、1個の原爆を1箇所の攻撃地点に爆撃するのでは、通常の空軍による爆撃と大きな違いがでてこないのではないか、と指摘する。

 それに対してオッペンハイマーが、「原爆による爆撃はその視覚効果がとてつもなく大きい、と指摘した。高さが1万フィートから2万フィートにも昇る、まばゆいばかりの光の柱をともなうだろう。爆発における中性子の効果は最低限半径2/3マイルの間の生命が危険となるだろう。」と説明する。

 暫定委員会の出席者ですら、核兵器の破壊力について想像することができなかった、ことをこのやりとりはよく表している。それに対してオッペンハイマーが一生懸命説明する。オッペンハイマーの説明で注目しておいていいことは、放射線の生命に与える影響についても触れている点だ。彼らはこの時点で、放射線の影響をよく理解していた点は記憶しておいていいだろう。


実は「日本への使用のソ連に対する効果」

 何にもまして興味深いのは、この議論がいきなり見た目の効果から始まっていることだ。日本に対して原爆を使用すべきかどうかという話から始まっているのではない。つまりこのことは、「日本に対する使用」はすでに決定事項だったことを意味している。それを前提にした上で「その効果」、言い換えれば原爆登場の衝撃の大きさが議論の中心テーマになっていると言う点だ。

 これはどう解釈したらいいのだろうか?またこの議題が前後の議題と全く関連のない、独立した議題なのだろうか?もし前後の議題と関連があるとすれば、そこにはどんなつながりがあるのだろうか?

 まず議題はスティムソンが入念に準備して配列したものだ。順序に関連がないとは思えない。関連があるとすれば、その前の議題「国際的計画」とつながっている。国際的計画とは将来「民主主義陣営」でつくる国際管理体制に将来ソ連を引き入れる問題だ。

 この問題と「日本への原爆使用」とが関連がある。その際、日本への原爆攻撃は出来るだけ見た目に攻撃効果が大きいものでなくてはならない、ということだ。

 だからこの議題の「Z.日本への爆撃と戦う意志に関する効果」とは、交戦国日本に対する効果の話ではなくて、あくまでソ連を意識した議題だ、という事がいえる。

 だから正確に議題をつけるとするならば、「日本への爆撃と戦う意志に関する、ソ連への効果」ということになる。

 4年前、この議事録を始めて読んだ時、自分の頭の中に「日本への原爆使用は、当然対日戦争のため」という思いこみがあったため、「戦う意志」とはこれまた当然、「日本の戦う意志」のことだと思いこんで読んでいた。だから、「どれほど日本人の戦う意志を挫くことができるか」といった類の話が、一言も出てこないことを訝しく思った。これは議事録とはいいながら、要点しか記載されていないため、それに類した話はカットされているのだろうと思ったこともある。

 そこで、これはソ連を意識した議題ではないかと考えて読むと、議事に一貫性と筋の通った一つのストーリーが見えてくるようになった。


「情報共有」と「冷戦開始」の関係

 ざっとおさらいになるが、「ロシア」という議題の中で、オッペンハイマーとバーンズが対立する場面が出てきた。ご記憶の方も多いと思う。

 それは「原子力エネルギー(原爆)に関する情報をロシアと共有するかどうか」という点が論点だった。ロシアと「原子力エネルギーに関する情報」を共有すれば、不可避的にアメリカ・イギリス・ソ連三カ国の間で、不拡散合意=核兵器独占体制を構築することとなる。この場合、アメリカとソ連の間に第二次世界大戦後の処理を巡って様々な問題が生ずるものの、少なくとも核兵器を中心にした「冷戦」と呼ばれる状況は発生しなかった。要するに、これがオッペンハイマーの主張である。

 一方バーンズが主張するように、「ソ連とは一切原爆に関する情報を共有しない」ままに、日本に対して原爆を使用すれば、ソ連はその日から原爆を保有しようとあらゆる努力をし、遅かれ早かれ核兵器保有国となるだろう。その場合は、アメリカ・ソ連・イギリス三カ国で不拡散合意=核兵器独占体制を構築するのは難しく、核軍拡競争が開始される。これはとりもなおさず、核兵器を中心に挟んだ「冷戦」という準戦時体制を招くことになる。

 以上の2者択一の展開は、暫定委員会の出席者全員にとって共通の理解事項だった。問題はどちらを選択するかだけだ。

 この日の暫定委員会はこの2者択一問題に最終的な結論を与えなかった。留保したのである。(実は、この問題はすでに決着していたのだが・・・)

 しかし、「日本への爆撃と戦う意志に関する効果」という議題は、原爆爆撃の効果に話題が集中した。しかもそれはソ連を意識した、言い換えればソ連に対する効果を狙った話題だった。原爆の効果が大きければ大きいほど、ソ連は激しく動揺し、自分も原爆を保有しようとあらゆる努力をする。それは後に冷戦と呼ばれる「準戦時体制」を自ら招き寄せる結果となるのだが・・・。

 だからこの「日本への爆撃と戦う意志に関する効果」という議題の立て方そのものが、すでにバーンズの主張が暫定委員会全体の意志であることを示していることになる。ただしこの日は決着は持ち越した形を取っている。この決着は、翌日6月1日開かれた暫定委員会で決定的になるのだが、それは後に検討して見よう。


「警告なし」の意味

 とにかくこの日の委員会で、いきなり次のことが決定される。

陸軍長官は委員会全体の合意として以下の結論を表明した。
日本には警告なしに投下する、一般市民が住む地域はあまり考えない、しかし、日本の住民にできうる限り大きな心理的効果を与えることを模索する。コナント博士の提言に基づいて、陸軍長官は、最も望ましい目標は、極めて重要な軍事工場であり、かつ大勢の従事者が働いており、かつ従業員の住宅に隣接して囲まれているような所、ということで同意した。』 
    
 4年前、この文章を読んで私はここで大混乱に陥ったことを、今もはっきり記憶している。ここまでの議論とまるきり辻褄が合わないのである。また、これは議事録からはカットされているのかも知れないが、ここに至る議論の過程がまるでないのだ。

 第一、日本に対する原爆の使用は、一種の政治委員会である暫定委員会の専管事項だが、投下目標や投下の仕方は軍部の専管事項として、軍部の投下目標委員会がすでに議論しているではないか?そこでは、人口の大きい、一定程度面積も有する大規模な都市ということで、すでに5月10日・11日に候補地選定済みではなかったか?
  「9.暫定委員会の発足とその中心議題」の「原爆の持つ政治と軍事の二面性」の項参照の事。
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/hiroshima_nagasaki/
why_atomic_bomb_was_used_against_japan/09.html
>)

 しかし、今では上記決定のポイントは「日本には警告なしに投下する。」だけで、後はすべてお飾りであることがわかっているので、もう慌てない。実際に、広島では市の中心部に投下されたし、長崎ではそうしようとして果たさなかった。またスティムソンが、「一般市民が住む地域に投下したではないか。」と軍部をしかりつけた記録もないし、スティムソン日記にそれに類した記述もない。

 大体「極めて重要な軍事工場で、隣接して労働者住宅がぐるりと取り囲んでいる地域」など、下町の零細・小規模工場ならともかく、日本に存在しているはずもない。

 これらの文言は、「人道主義国家アメリカの矜恃」を守るための、自己弁護としてのお飾りだ。人道主義国家アメリカは、あくまで軍事工場に対して原爆攻撃をしなければならなかったが、そんなことは出来るはずもないことは、全員承知だった。原爆は無差別殺戮破壊兵器なのだから。それはこの時点では、彼らが一番よく知っている。

 「日本への警告なしの使用」が決定されたこと自体が、バーンズとオッペンハイマーの論争で、バーンズが勝利し、「ソ連を核兵器開発狂奔への道」に追いやり、核兵器を中心に挟んだ「冷戦」という準戦時体制を選択したことを意味する。


輪郭を取り始めた政策意図

 ここでようやく、「日本への原爆使用」に関するトルーマン政権の政策意図の輪郭が形を取り始めた。

 「日本への原爆使用」の政策意図は、その表層に「ソ連を核兵器開発狂奔への道」に追いやる、という目的が先ずあったことになる。この目的を効果的に達成するためには、出来るだけ劇的な形で、原爆をデビューさせる必要があった。その形が「警告なしの使用」ということである。

 「ブッシュ−コナント メモランダム」をもう一度思い出して欲しい。

 「1.核競争を防ぐ望みはまだある。2.将来の世界平和をあるいはもたらしさえするかも知れない。3.この主題について国際的に科学者が交流し、技術的な交換を行って、国際的な委員会が各国間の同盟組織の下に、査察の権限を持つことによって可能だ。」というブッシュ−コナント提案は、アメリカの原爆完成という状態を前提にした政策提言だった。

 アメリカが原爆(核兵器)を保有したまま、不可避的で無制限の核軍拡競争を防止するにはどうするか、という論点がこの「ブッシュ−コナント提案」である。それは「査察権限をもつ国際的な委員会が管理することによって可能だ。」とこの提案はいっている。

 このブッシュ−コナント提案をもっともスムースに達成させるためにアメリカが採りうる政策は、実際に核兵器を使用する前に、もっとも核兵器保有国として可能性の高いソ連と情報共有をした上で、核不拡散合意を結び、両国が核兵器保有国となった上で、この両大国の圧力のもとに、他の非核兵器保有国にこの不拡散合意に参加させ、核独占体制を築くことだった。これこそ「アメリカにとっての世界平和」を実現する道であった筈だ。

 ところがこの日の決定は、ちょうどそれと逆の決定となる。

 この暫定委員会がワシントンで開かれている頃、シカゴ大学の冶金工学研究所で、ジェームズ・フランクを委員長とする科学者7人が「政治ならびに社会問題に関する委員会報告」を作成中であった。7人の委員は、ジェームズ・フランク(委員長)(James Franck )、ドナルド・J・ヒューズ(Donald J. Hughes)、J・J・ニクソン(J. J. Nickson)、ユージン・ラビノウィッツ(Eugene Rabinowitch)、グレン・T・シーボーグ(Glenn T. Seaborg)、J・C・スターンズ(J. C. Stearns)、レオ・シラード(Leo Szilard)だった。うちフランクとシーボーグはノーベル賞科学者であった。(「フランク・レポート」<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/flanc_report.htm>の冒頭註を参照の事。)

 これがいわゆる「フランク・レポート」である。フランク・レポートは、この日の暫定委員会の10日後の45年6月11日に陸軍長官スティムソンあてに発送されている。


フランク・レポートの指摘

 このフランク・レポートでは、「ブッシュ−コナント提案」と全く同一の認識の上に立って次のようにいう。

過去に置いて、科学はしばしば攻撃者の手の中にある新兵器に対して、適切な保護装置をも提供することができた。しかし、原子力の壊滅的な使用に対しては、そのような有効な保護装置を提供できると約束することはできない。世界の政治的機構だけが、このような保護装置を招来することができる。』
(同「適切な政治機構が唯一の保護装置」の項参照の事) 

 と述べた上で、この国際的保護装置が唯一「核軍拡競争」を遮る道だ、と指摘し、今必要なことはこの国際的保護装置としての「核戦争防止協定」の成立である、として次のようにいう。

 『 もし効果的な国際合意に達しないとすれば、核兵器の存在を最初に誇示した翌日の朝から、最も早ければ核装備競争が始まることだろう。そして3年から4年のうちにはわれわれが現在スタートしている位置に追いつき、その後10年以内には、仮にわれわれが核分野でかなり重点をおいた開発を続けるものとして、彼らとわれわれは対等の力関係になるだろう。』(同「先制奇襲攻撃の前には無力」の項参照の事。) 

 そして、このような事態はアメリカ、ソ連を初めとする世界の人々を、「核戦争」という恐怖のどん底につき落とすことになる、ここから抜け出す道は「核戦争防止協定」などの国際合意なのだが、この国際合意に達することを妨げることになるのは「お互いの信頼の欠如」と「合意に対する意欲の欠如」だけだ、として次のように続ける。

 『 この見解からすると、今現在秘密に進められている核兵器を、初めて世界に明らかにする方法が非常な、ほとんど運命的といえるほどの重要性を帯びるのである。 可能な一つの方法は―核を秘密兵器として開発し、今回の戦争を終わらせる主要な手段として見なしている人々には、特に説得力をもつ方法だろうが―日本で適切に選択した目標に対して警告なしに使用することである。』
(同「核戦争防止協定が先決」の項参照の事。) 

 このフランク・レポートの見解と「警告なしの原爆使用」を決定した暫定委員会の認識は全く同一である。しかし結論は全く逆である。

 フランク・レポートでは、だから「日本への原爆の使用は行ってはならない。特に警告なしの使用は行ってはならない。」という結論となるのだが、暫定委員会では「だから警告なしの使用」を行うという道を選択するのである。


「核軍拡競争」と「冷戦」

 ここでの大きな疑問は、それが底なしの「核兵器軍拡競争」を招来し、核兵器を中心に挟んだ「冷戦」の出発点となることがわかっていて、何故「日本への警告なしの原爆使用」を実施したか、ということである。この疑問に答えることは「トルーマン政権、日本への原爆使用」の政策意図を表層から次層に進めて理解することになる。

 ここでは、取りあえず、「トルーマン政権の日本への原爆使用」の政策意図は、

1. ソ連を恐怖させて核兵器開発の道に追いやり、「核軍拡競争」を招来すること。
2. この核軍拡競争で、戦後世界に準戦時体制をつくり出すこと。 

 にあった、と理解してこの政策意図の次層を探るため次に進もう。

 45年5月31日の暫定委員会で、こうして「警告なしの日本への使用」が、一応、決定された。ここで「一応」というのは、どうも全員が納得したわけではないフシがあるからだ。翌日6月1日の暫定委員会の議題としてもう一度蒸し返されて、改めて決定する。しかし、「警告なし」の問題に関する科学顧問団の統一見解は、6月18日になって出されている。

 この問題はどう解釈したらいいのか?ここではこの疑問だけ提起して、先に進もう。


使用に反対する科学者たち

 この日の次の議題は、「望ましくない科学者の取り扱い」、そして「シカゴ・グループ」へと続いている。しかし、この2つの議題は実は1つの議題なので、一緒に検討することにする。

 議事録は、次のように伝えている。

 『 グローブズ将軍は、その開始時点から、ある種の疑わしい方向性を持った科学者や忠実性に欠ける科学者の存在があって、それに計画が悩まされてきた、と述べた。実際にこうした連中を退職させるのは、原爆を使用した後か、精々実験が行われた後でも良かろうと云うことで、合意された。この兵器に関する何か発表がなされた後、計画からこうした科学者の分断を図り、もう必要のない要員の雑草取りを徐々に進めていく。』

 この議題はグローブズから提起された。「ある種の疑わしい方向性をもった科学者」「忠実性に欠ける科学者」というのは、「原爆の使用」に反対している科学者のことである。

 「グレート・デーン」(偉大なるデンマーク人)ことニースル・ボーアは、先にも紹介したとおり「私は原爆の使用を止めるためにマンハッタン計画に参加した。」と公言しているほどだし、「フランク・レポート」のところで触れた通り、シカゴ大学冶金工学研究所はこうした科学者の牙城だった。

 マンハッタン計画に参加した科学者のうち、一体どれだけの科学者が「日本に対する原爆の使用」に反対だったのか?

 1960年「USニューズ・アンド・ワールド・レポート」の記者も私と同じ疑問を持ったものと見えて、同じ質問をレオ・シラードにしている。シラードは次のように答えている。

Q. シラード博士、日本に対する原爆投下問題に関する1945年時の博士の姿勢はどんなものだったですか? 
  A. 全力を尽くして反対しました。しかし私が望んだほど効果はありませんでした。 
  Q. あなたとおなじように感じた科学者は他にいましたか? 
  A. とても多くの科学者が同じように感じていました。これはオークリッジ(テネシー州のクリントン工場のためにできた住宅都市。)やシカゴ大学の冶金工学研究所においては特にそうでした。ロス・アラモス(ニューメキシコ州ロス・アラモス研究所。Y計画を担当)の科学者たちがどうだったかは分かりません。 
  Q. オークリッジや原爆計画のシカゴ支部では、意見の分裂はありましたか? 
  A. こういう風に云っておきましょう。創造的な物理学者はほとんど例外なしに原爆の使用に関して不安と疑念を持っていました。化学者たちも同じとは云いませんけどね。生物学者たちは物理学者とかなり同じ感じ方をしていました。』
(「レオ・シラード インタビュー記事 Truman Did Not Understand」
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/reo.htm>の冒頭「ニューヨークで」の項参照の事。) 

 こうした科学者たちがいかなる理由で、「原爆の実戦使用」に反対したか、その理由はさまざま濃淡がある。しかし共通していたことは「それが直ちに核軍拡競争をもたらし、核拡散を招来し、人類の破滅に直結する。」という危機感だった。またこれを使用する政権の政策意図についてはシカゴ大学の科学者たちは、多かれ少なかれ「日本との戦争を終わらせるため」と信じていたようだ。

 「フランク・レポート」からもそれが窺えるし、レオ・シラードが書いた、「原爆を使用してはならない」とする「シラードの請願書」(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/seigansho.htm>を参照の事)からもそれが窺える。

 これはマンハッタン計画が一般には極秘だったことに加えて、ワシントン中枢の「対日戦争情勢分析」がシカゴから把握しにくかったので、「対日戦争終結のため」という政策意図しか見つけられなかったため、と私は推測している。

 もちろん暫定委員会科学顧問団の4人の科学者は別だ。彼らは原爆を巡る政治・軍事上の最高機密を知りうる立場にいた。そしてこの4人の科学者は最終的には、それがソ連を核兵器開発に駆り立て、核競争時代を招来する、まさにそれこそが「日本に対する原爆使用」の政策意図だ、と知りつつ「警告なしの使用」に賛成するのである。

 ( しかしこれも表層だ。科学者たち個人個人の心の中に、もし分け入ることができるとすれば、彼らすべてが両手を挙げて賛成だったのではない、と私は想像する。というのは原爆の使用を止めようと全力をあげるレオ・シラードを、科学顧問団のメンバーであるアーサー・コンプトンが消極的に激励するシーンが出てくるからだ。前出「レオ・シラード インタビュー」の「ニューヨークにて」の項を参照のこと。シラードは「救われた思いがした。」と語っている。) 


唯一の「使用反対」勢力

 グローブズがこうした科学者の反対を恐れた理由は、それが原爆の完成を遅らせる要因となるばかりでなく、「原爆の使用」そのものを妨げる政治的要因になるかも知れないからだ。だからグローブズはこうした科学者を「分断し」、必要がなくなったら退職させると述べている。それにしても世界一流の、ノーベル賞級の科学者を「雑草」呼ばわりはないだろう。

 従って話題は、自然「シカゴ・グループ」の話になる。前述のように、「望ましくない科学者」の拠点がシカゴ大学冶金工学研究所だったからだ。この日の委員会では、さして議論のないまま、「1.プルトニウム開発を行うハンフォード計画への支援。2.サンタフェ・グループへの支援。3.トリウム使用層の研究。4.ウラニウム層の拡張のための初期段階調査。5.この物質の従事者の健康に関する研究。」をシカゴ・グループに担当させる、と決定した。

 「サンタフェ・グループ」とはあまり聞いたことのない表現だが、ロス・アラモス研究所のあるロス・アラモスにもっとも近い鉄道の駅がサンタフェだったのでこう呼んだのではないかと推測している。当時特別な場合を除いて研究者たちの移動の手段は鉄道だった。(ロス・アラモス歴史協会の中の「マンハッタン計画」などの記述を参照の事。<http://www.losalamoshistory.org/>)

 つまりマンハッタン計画全体の中で、シカゴ・グループの位置づけはハンフォード工場やロス・アラモス研究所に対する支援業務に限定され、あとはトリウムなど将来の核燃料の研究など直接事業とは関連のない研究をさせることになった。

 このうち注目されるのは「5.従事者の健康に関する調査」で、この問題は、私はまだ詳しく調べていないのだが、マンハッタン計画で働く従業員の中で暫定委員会に話が出るほどの放射線障害があらわれていたのではないか?

 そうしてシカゴ・グループに対しては、戦争が終わるまで現在の地位身分を保っておくことで一致して合意するのである。


民主主義と専制権力の対立

 ここで考えてみたいのは、「日本に対する原爆使用」の決定とシカゴ・グループとの関係である。「日本に対する原爆の使用」は、前述のようにすでに動かせぬ決定事項だった。これが決定事項として確定されたのは恐らく45年4月中旬以降から暫定委員会の第1回会合の5月9日までの間だろうと推測した。その間に「4ヶ月以内に原爆が完成する。」というグローブズ報告が出され、それまで仮定問題として議論されていた「日本への使用」が仮定問題ではなく現実問題として日程にあげることが出来るようになり、一つの政策として形成できる条件が整っている。

 トルーマン政権にとって、「日本への使用」を実現し、その政策意図を貫徹するにあたって政権内部には大きな意見の違いはなかった。(もしあるとしても後で見る、暫定委員の一人海軍次官のラルフ・バードの留保意見程度だった。)

 しかし「マンハッタン計画」内部ではそうではない。マンハッタン計画は視点を変えてみると、アメリカの軍部と一流科学者の共同事業という側面をもっている。もちろんイニシアティブを持っているのは軍部だが、実際に科学者が動かなければどうしようもない。グローブズが「忠誠心のない科学者」といっているのはこの間の事情を物語る。

 その科学者たちの少なからぬ部分は「対日使用」に反対していた、ということは前述のシラードの証言からも窺えるし、現実にシラードが作成した「請願書」には最終的にシラードを含め70名の科学者が署名している。

 だからこの時期、「対日原爆使用」で「トルーマン政権・マンハッタン計画」は一致していた、という見方は誤っていることになる。現実は、「対日原爆使用」は意見が割れていた、ただ反対派は政策決定権を奪われていた、ために賛成派は自分たちの決定権を振りかざして反対派を抑えつけ排除して、自分たちの政策を貫徹した、という見方が成立する。

 もし、仮の話として、当時「日本への原爆使用」が、公開の場で民主的討論にかけられていたら、結論はどうなっただろうか、と想像することがある。おそらく、「日本に対して原爆を使用すべきでない」という意見が勝利を占めただろう。

 だから、「原爆の対日使用」は、秘密主義のベールに覆われた専制権力の勝利であって、人道的民主主義の敗北であった、という結論も導き出すことが出来る。

 さて、トルーマン政権の対日原爆使用の政策意図は、 『1.ソ連を恐怖させて核兵器開発の道に追いやり、「核軍拡競争」を招来すること。2.この核軍拡競争で、戦後世界に準戦時体制をつくり出すこと。』だった、と私は結論した。

 しかしこの結論は実は結論にならない。ではなぜ「準戦時体制」(それは後に冷戦と呼ばれる。)をつくり出したかったのか、という疑問がすぐ生まれるからだ。それを次回に見ていこう。   


なお、日本への原爆の使用は、1944年9月のハイドパーク合意ですでに決定済みだった、その決定に従って日本への原爆の使用が実行された、という見方がある。例えば原水協はそういう見方を取っているし(<http://www.antiatom.org/GSKY/jp/Rcrd/Basics/jsawa-13.htm>を参照の事)、広島平和記念資料館のWebサイトの説明でも「ルーズベルト米大統領とチャーチル英首相が1944年9月18日、米ニューヨーク州ハイドパークで会談し、日本への原爆使用と将来の核管理について申し合わせたもので、1972年に初めて公開された秘密協定である。」という説明をしている。(<http://www.pcf.city.hiroshima.jp/Peace/J/pNuclear1_1.html>を参照の事。)

 私は浅薄な見方だと思う。ハイドパーク協定は“Hyde Park Agreement”で、アメリカを訪問したチャーチルが、ルーズベルトのハイドパークにある別荘を訪問した時の会話をメモランダムにしたもので、これを、両国政府を拘束する協定(Treatment)だという言い方は随分牽強付会な見方だと思う。しかもこのメモランダムの骨子は、戦争終了後アメリカがイギリスの核兵器開発に協力することを約束したもので、日本への原爆使用はいわばつけたりである。しかもこの文書の存在を戦後になるまでスティムソンもマーシャルも知らなかった。(以上英語Wikipedia“ Quebec Agreement”の説明記事中の“Hyde Park Agreement”に関する記述を参照の事。ちゃんと出典も明示されている。)

 この程度の合意を「協定」というのもおかしい気がするが、この「協定」がトルーマン政権の意志決定を拘束した形跡は全くない。暫定委員会の議事録にも1回もでてこない。それはそうだろう。存在さえ知らなかったのだから。

 次の問題として、仮にこの「協定」がトルーマン政権を拘束するものだとしても、現実まで拘束することは出来ない。44年9月はまだ「原爆完成」は仮定の話だった。蓋然性は非常に高かったけれど、日本降伏までに原爆が完成する、という確実性の点から見れば仮定の話だった。この仮定に話に基づいて、ハイドパーク「協定」で原爆使用が決定されていたので、その決定に基づいて 45年8月に日本に対して原爆の使用が行われた、と説明するのは歴史科学的でない。恣意的だ。

 これに対してケベック合意は、イギリス・アメリカ両国政府の代表が具体的な項目で合意しあい、関係者の署名も完備している。<http://www.atomicarchive.com/Docs/ManhattanProject/Quebec.shtml>を参照の事。これを「ケベック協定」と呼ぶのは十分根拠のあることだ。以降この合意は両国政府を拘束しているし、この合意の検証のため、合同政策委員会(CPC)も作られ、定期的な会合も開かれている。また暫定委員会でも、ケベック合意をどうくぐり抜けるか、という議論も行われている。

 日本で、ハイドパーク「協定」がなぜ重視されるのか、またその内容のより重要でない部分だけが取り出されて、「原爆使用」に関連づけられて議論されるのか、私にはよくわからない。

 私にわかることは、「ハイドパーク協定で日本への原爆使用は、すでに決定事項だった。」という説は、「トルーマン政権の原爆使用の政策意図」に関して人々を思考停止状態に陥らせる効果をもっている、ということだ。】 

(以下次回)