(2010.8.13)
【参考資料】ヒロシマ・ナガサキ
トルーマン政権、日本への原爆使用に関する一考察

13.対日原爆使用の政策意図−繰り返されるその犯罪性(上)
“冷戦”の意味

 前回は主として、1945年5月31日の暫定委員会の議事録を検討しながら、トルーマン政権の日本への原爆使用の政策意図を、『1.ソ連を恐怖させて核兵器開発の道に追いやり、世界に「核軍拡競争」を出現させること。』とまず結論した。しかしこの結論は実は結論になっていない。この結論はいわば、「原爆使用の政策意図」を重層的な球に例えるなら(例えば地球の構造模型を想像してもらえばいい。)、その重層球の表層に相当する。

 なぜこれが結論になっていないか?「なぜ核軍拡競争を世界に出現させたかったか?」という疑問がただちに出てくるからだ。

 この疑問に対する解答が、「核軍拡競争は、必然的に核兵器を中心に挟んだアメリカ・イギリスとソ連の対立を産み出し、この対立は準戦時体制を産生する。」というものであり、従って『2.この核軍拡競争で、戦後世界に準戦時体制をつくり出すこと。』という目的が、「原爆使用の政策意図の重層球」の次層にあることがわかった。

 この準戦時体制は後に「冷戦」(“the Cold War”)と呼ばれることになる。「冷戦」という言葉を「核兵器を中心に置いた東西冷戦」という意味で最初に使った人間は、バーナード・バルーキ(Bernard Baruch)である。バルーキはもともと金融家、というより金融投機業者だった。遺伝学的にいえば、現在のゴールドマン・サックスやJPモルガン・チェースの祖先筋にあたる。

 ビジネスで成功した後は、アメリカの多くの実業家(彼は虚業家だったが)同様、アメリカ政治に関与し、大統領の経済顧問になったりしている。そのバルーキが1947年4月ある晩餐会のスピーチの中で、世界状勢を説明するのに使った言葉が「冷戦」だ。同じ47年秋、ジャーナリストのウォルター・リップマンが「冷戦」という一種のプロパガンダ本を出してベスト・セラーになり、「冷戦」という言葉が一般に定着する。
以上“Bernard Baruch”<http://en.wikipedia.org/wiki/Bernard_Baruch>及び<http://www.u-s-history.com/pages/h1819.html>による。) 

 しかし、「冷戦」(the Cold War)という言葉そのものを最初に使った人間は、「1984年」の作者で、ジャーナリストのジョージ・オーウェルである。バーナード・バルーキに先立つこと約1年半前の1945年10月19日付のトリビューン紙に「あなたと原爆」というエッセイを寄稿し、そのエッセイの中で「冷戦」(the Cold War)と言葉を始めて使った。しかしその意味は、バーナード・バルーキやウォルター・リップマンとは全く違っていた。


核兵器による「平和のない平和」

 このエッセイの中でオーウェルは「原爆」について考察する。原爆は非常に製造するのに難しく、それが製造できる国はほんの一握りしかない、と結論する。そして兵器一般についても考察し次のような観察を述べている。

 『  支配的兵器が高価であるか、または作ることがむつかしいような時代は、独裁専制政治の時代に傾きやすい。その逆に、支配的兵器が安価で簡素な時代は、平凡な人民がチャンスをつかみやすい。』

 そして「原爆」(核兵器)は専制政治のための兵器であるのに対して、弓やマスケット銃、火炎瓶などは民主主義的な兵器だと、いかにもオーウェルらしい、しかし妙に説得力のある結論を導き出している。

 『  複雑な兵器は強いものを更に強くするのに対して、簡素な兵器は、それが何であるかは別として、弱きものの鉤爪なのだ。』

 『原爆は』とオーウェルは、いう。

 『 様々な徴候からして、ロシアが原爆製造の秘密をまだ手にいれていないことは推論できる。その一方で、数年のうちに、手に入れるだろうことは衆目の一致するところだ。だからわれわれの目の前の予測としては、2カ国か3カ国ほどの怪物みたいな超大国だ。それらの国はそれぞれ、数秒のうちに数百万の人々を消し去ってしまうような兵器を保有している。そして世界を彼らで分割してしまう。このことはさらに大きな、さらに血なまぐさい戦争、事実上機械文明の終焉、が思ったより早くやって来ると思うかも知れない。』
 『 しかし、思ってみて欲しい、実際この方がもっともありそうな事態の進展だと思うのだが、生き残った大国がお互いの間で原爆を使わないという暗黙の協定を結ばないだろうか?思ってみて欲しい。彼らが原爆を使用するのは、あるいはそれを威しで使用するのは、報復の手段をもたない人々に対してだけではないのか?』 
いうまでもなく、世界を全体としてみれば、ここ数十年の流れは無政府主義の方向にではなく、再び現れる奴隷制の方向へと向かっている。われわれは、全体的壊滅に向かっているのではなくて、古代の奴隷帝国のような、空恐ろしい「安定」の時代にむかっているのかも知れない。』 
 『 ・・・その社会構造の在り方は、すぐには征服し得ない世界において支配的である。そしてまたその社会構造の在り方は、隣人との“冷戦”(the Cold War)という世界において支配的なのだ。』 

 それではオーウェルにおいては、“冷戦”(the Cold War)とは結局どんな状況をさすのだろうか?

 『 原爆は大規模な戦争に終止符を打つもののように思える。ただし、それは無期限に続いていく“平和のない平和”という代償を払っての話だが。』 

 つまり、原爆(核兵器)による専制的支配のもとでの“平和のない平和”の状態を、オーウェルは冷戦(the Cold War)と呼んだのである。(以上「あなたと原爆」による。<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/hiroshima_nagasaki/George_Orwell.htm>)


核兵器廃絶と共に冷戦は終了する

 今日、バルーキやリップマンの云う東西対立という意味での「冷戦」は終わったのかも知れない。しかしオーウェルのいう「冷戦」、すなわち核兵器を背景とした一部超大国の専制的支配のもとでの“平和のない平和”という意味では「冷戦」は終わっていない。

 アメリカの大統領バラク・オバマが、

 『 数千発の核兵器の存在は冷戦のもっとも危険な遺産です。 
 核戦争はアメリカとソ連の間では行われませんでした。しかし幾世代にもわたって、たった一つの閃光が世界を消し去るという知見とともに生きてきました。幾世紀にもわたって存在して来たプラハのような諸都市は、もう存在できないかも知れないのです。
今日、冷戦は消え去りました。しかし数千もの核兵器はそうではありません。歴史の奇妙な展開で、地球的な核戦争の脅威はなくなりつつありますが、しかし核攻撃のリスクは高まっているのです。』
(「オバマ プラハ演説」の「核兵器の将来」及び「核兵器は冷戦の遺産」の項参照の事。
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/obama/obama_04.htm>) 

 という時、彼は歴史認識を誤っているか、あるいは故意に歴史を歪めようとしている。というのは、これまで検討してきたように、1945年のトルーマン政権は、原爆に関するソ連との情報共有を拒否することによって、冷戦を創り出した。しかもそうすることが冷戦を産生することになることを十分承知の上でだ。いわば「確信犯」である。
以上「警告なしの投下と冷戦の選択 下」を参照の事。
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/hiroshima_nagasaki/
why_atomic_bomb_was_used_against_japan/12.html
>)

 だから「核兵器のために冷戦が創り出された」のであって、決してその逆ではない。だから、冷戦が終わっても、核兵器が残っていることには何の不思議もない。

 しかも、もし「冷戦」という言葉を、オーウェルが使った意味で、すなわち核兵器を背景とした一部超大国の専制的支配のもとでの“平和のない平和”と意味で使うならば、まだ冷戦は終わっていない。

 現実に、アメリカをはじめとする核兵器大国は、まだ核兵器を実戦配備し、核戦争に備えている。ばかりかアメリカのオバマ政権は、2010年4月、第3回「核態勢見直し」を発表し、21世紀になっても「イラン」と「北朝鮮」を名指しで核攻撃の対象国としてあげている。
「核の威嚇政策に沈黙を守るヒロシマ・ナガサキ」を参照の事。
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/zatsukan/008/008.htm>)

 まことに1945年10月のオーウェルが、「生き残った大国がお互いの間で原爆を使わないという暗黙の協定を結ばないだろうか?思ってみて欲しい。彼らが原爆を使用するのは、あるいはそれを威しで使用するのは、報復の手段をもたない人々に対してだけではないのか?」という通りである。

 2010年NPT再検討会議で「報復の手段をもたない人々」は、非同盟運動諸国(NAM)の非核兵器保有国を中心に、地球市民の良識を背景に、アメリカを始めとする核兵器保有国を包囲し追い詰めた。しかし後一歩のところでするりと抜けられた。しかし彼らはすでに2015年再検討会議に向けて行動を開始している。
「2010年NPT再検討会議:核兵器を嫌悪する非同盟運動諸国」の中の「参加国のコメント」の中の「非同盟運動諸国を代表するエジプト」及び「早くも2015年再検討会議を見据える」の項などを参照の事。<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/NPT/2010_06.htm>)

 オーウェルのいう意味の「冷戦」は、地球最後の1発の核爆弾が解体され永遠に葬り去られたその日に、終了するのである。


6月1日暫定委員会

 その「冷戦創造」が決定された日は、大げさにいうなら、1945年6月1日の暫定委員会のその日だった、といってよい。

 この日、ペンタゴン(陸軍省)の自分の執務室に入ったヘンリー・スティムソンは、ハーベイ・バンディやジョージ・ハリソンとその日の暫定委員会について打ち合わせをした後、陸軍航空隊の総司令官ヘンリー・アーノルドと会う。そして東京に対する無差別爆撃に関して説明を求めている。

 アーノルドは、日本は工業地帯と住宅地帯が細かく入り組んでいて、精密爆撃が難しい、しかし精密爆撃に努力する、と弁解する。スティムソンはアーノルドに「私の許可なしに爆撃してはならない都市が一つある。それは京都だ。」と釘を刺した。
「スティムソン日記 45年6月1日付け
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/stim-diary/stim-diary19450601.htm
を参照の事。)


 そして11時からの暫定委員会に出席する。

 この日の出席者は、8人の暫定委員会委員全員に招聘参加者として、陸軍参謀総長のジョージ・マーシャル、レスリー・グローブズ、スティムソンの補佐官のハーベイ・バンディ、それから陸軍省外部広報担当者のアーサー・ページが出席していた。
「暫定委員会について」
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/Interim%20Committee.htm>及び
「45年6月1日暫定委員会議事録」
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/Interim%20Committee1945_6_1.htm
参照の事。)

 さらにこの日は4人の企業のトップを招いていた。その4人は次の通り。

 ジョージ・ブッチャー(George H. Bucher):ウエスティングハウス社長。ウエスティングハウスは電磁プロセスの装置を製造していた。

 ワルター・S・カーペンター(Walter S. Carpenter):デュポン社長。デュポンはワシントン州ハンフォード工場建設を担当した。ハンフォード工場は兵器級プルトニウム製造工場。ここで製造されたプルトニウムがロスアラモス研究所に送られてプルトニウム型原爆が製造された。
英語Wikipedia“Hanford Site”<http://en.wikipedia.org/wiki/Hanford_Site>は力作である。)

 ジェームズ・ラファーティ(James Rafferty):ユニオン・カーバイド社副社長。ユニオン・カーバイドはテネシー州クリントン工場のガス拡散工場の建設と操業を担当していた。クリントン工場全体はウラン同位体235の分離と濃縮を担当していた。

 ジェームズ・ホワイト(James White):テネシー・イーストマン社社長。同社は基礎的化学物質の製造とテネシー州ホルストンにあったRDX工場の建設にあたった。RDXは今日では「トリメチレントリニトロアミン」と呼ばれる爆薬の一種でプラスティック爆弾の主成分である。

 なお「太平洋北西国立研究所」(Pacific Northwest National Laboratory)が2001年3月22日に出したワシントン州ハンフォード工場に関する歴史的研究(Historical Time Line and Information about the Hanford Site)によると、最初の原爆実験(アラモゴード砂漠の原爆実験)、広島への原爆、長崎への原爆の3個の原爆にかかった費用は、開発、設計、製造、関連施設の建設などすべて含めて約22億ドルとしている。またこの原爆を投下するために開発したB-29爆撃機計画に23億ドル、合計45億ドルかかった、としている。
http://www.pnl.gov/main/publications/external/
technical_reports/PNNL-13524.pdf
>のp7「Overall Program Cost」を参照の事。核兵器よりそれを搬送する手段の方が、コストがかかるのであり、それは今日でも変わらない。核兵器は、破壊力に較べると経済効率の良い殺戮手段なのである。)


原爆問題は経済問題

 さてこの長々しい一文をここまで読んだ人があるとすれば、以前にアメリカの原爆開発は戦争のために行われたという私たちの頭の中にある刷り込みをいったん排除して、アメリカの原爆開発(マンハッタン計画)は、長期的な原子力エネルギー開発のほんの初期段階として捉えられたのであり、私たちもそういう視点で問題を見ておかなければならない、と申し上げたことをご記憶の人もあるかも知れない。

 結局この視点で問題を眺めた方が、その後の経過を説明しやすい。

 すなわちアメリカの支配層は、全く新しいエネルギー源として「原子力」を把握したのであり、その第一段階として、当時戦時中だったという理由と平和目的の原子力利用開発よりも軍事目的の原子力利用の方が開発しやすく、また管理しやすいと云う理由によって、まず軍事利用開発(すなわち原爆開発)からスタートしたのだった。だから、戦後も軍事利用開発を進め、そこで得られた技術、ノウハウを平和利用に転用しながら「原子力エネルギー」開発を進めていった、という歴史をたどっていく。

 45年6月1日の暫定委員会議事録を検討するに際して、上記に加えてもうひとつ私たちの頭で、ともすれば忘れがちな側面を特に強調して、思い出して頂きたいことがある。

 核兵器は非人道的だ(真実である。)、核兵器は世界支配の重要な手段だったし、いまもそうだ(これも真実である。)、核兵器は決定的な軍事兵器である(間違いない。)、という政治軍事的な側面にばかり視点を固定するのではなく、核兵器の開発が「原子力エネルギー開発」というより大きな開発目的のほんの初期ステージの一形態だった、という見方からするなら、核兵器開発とその発展は、なにはともあれ優れて巨大な「経済問題」「ビジネス問題」だ、という視点である。

 こういう視点から見ると、6月1日の暫定委員会の議事録の読み取りは、さらに私たちの、正しい理解を促進する。


進行議題の概観

 先にこの日の議事進行議題を概観しておこう。( )は私の議論要約である。議題そのものはスティムソンが準備したものと思う。

T. 委員長開会あいさつ (暫定委員会の目的と役割。産業人への要望。)
U. 競争力の懸隔 (原爆開発についてソ連との懸隔。産業人の見解。)
V.  戦後の機構―産業人の見解 (戦後の原子力エネルギー開発の道筋。産業人の見解。)
W. 戦後における機構―委員会討論 (戦後の原子力エネルギー管理機構に関する議論)
X. 直近の予算 (6月末で期限切れとなるマンハッタン計画予算とその後の手当て。)
Y. 日本への使用 (日本への警告なしの原爆使用の最終確認。)
Z. 広報活動 (原爆投下直後の大統領声明原稿変更に関しての議論。)
[. 法制化 (戦後原子力エネルギー政策整備に関わる法案原稿準備)

 最後の議題は次回会合の日程なので省略する。こうして並べてみると、「Y.日本への使用」の問題が、議事進行の流れの中で異質と見える。これは外観上45年5月31日の暫定委員会の議事進行の流れと同様だ。

 しかし、ここでも「Y.日本への使用」は決して異質の問題ではなく、ちゃんと前後つながった議題である。それはおいおい明らかになるであろう。

 スティムソンのあいさつは、力のこもったものだった。スティムソンは、委員会のメンバーを紹介した後、委員会はスティムソン自身によって大統領の承認の下に設立されたこと、戦争期間中、この兵器(核兵器)の統御、また戦後における統御組織に関して大統領に勧告することが目的であることを説明した。前日の暫定委員会でも科学顧問団に同様の説明をしている。また原爆の戦時中における軍事的有用性より、その潜在拡張性の方が大きな関心事であること、これはマーシャルと認識を一つにしていることを説明した。

 産業人に対しては、ソ連との開発段階の懸隔について特に正確な見通しを示して欲しいことを強調している。


ソ連との懸隔と冷戦構造

 ソ連との「競争力の差」とは、要するにソ連がアメリカに続いて原爆を開発し、核兵器保有国となるのにどのくらいの年数がかかるか、と云う見通しに他ならない。

 このことは、アメリカが一体どのくらいの間「世界唯一の核兵器保有国」で有り続けるか、という疑問に答えることだ。

 ここでの私の疑問は、この時のアメリカの支配層の考えは、ソ連が遅かれ早かれ核兵器保有国になるものだとして、

 1.出来るだけ遅く達成して欲しいのか?
 2.出来るだけ早く達成して欲しいのか?

 このどちらを望んでいたのかという問題だ。常識的には「1.遅く達成して欲しい。」である。この場合、アメリカの支配層は、戦後準戦時体制が出来るだけ遅く実現して欲しいと考えていたことになる。

 というのは、前回45年5月31日の暫定委員会の議事録の検討を通じて、「警告なしの日本への原爆使用」の政策意図を、ソ連の目の前で、原爆を日本に実戦使用し、ソ連を恐怖させて原爆開発の道へ狂奔させることだった、とまず結論した。

 そしてこのことは、45年当時の科学者や政治家の一致した見解として、「世界に核軍拡競争」をもたらすことになることを見た。トルーマン政権は政策意図として「核軍拡競争の道」を選択したのである。

 そしてこのことは、「核兵器を真ん中に置いた準戦時体制」の構築を政策として採用したことになる。この準戦時体制は後に「冷戦」と呼ばれるようになる。

 従って、「1.出来るだけ遅く達成して欲しいのか?」それとも「2.出来るだけ早く達成して欲しいのか?」という2者択一問題は、自然とトルーマン政権は、

 1.出来るだけ遅く冷戦構造を構築したかったのか?
 2.出来るだけ早く冷戦構造を構築したかったのか?

 という2者択一問題に置き換わる。

 ソ連が核兵器保有国でない冷戦構造はありえない。
 ( たとえば、英語Wikipediaの「the Cold War」を参照してみると、冷戦を様々な時代区分で区切って見せており、1939年すなわち第二次世界大戦開始にまでさかのぼっている。これはアメリカ・イギリスとソ連の政治的軍事的対立という構造を「冷戦」という言葉で説明しようとするものだ。要は「冷戦」の定義の問題だ。「冷戦」において核兵器の要素を決定的と見るか見ないかの問題でもある。
http://en.wikipedia.org/wiki/Cold_War#World_
War_II_and_post-war_.281939.E2.80.9347.29
>を参照の事。なかなか面白い記事である。) 
 
 すなわち、ソ連が核兵器保有国になるのが遅ければ遅いほど冷戦のスタートは遅れるのである。

 当時トルーマン政権がこの2者択一問題のどちらを望んでいたか、いまは結論を出さずに先に進もう。


ソ連の原爆はドイツの協力次第

 スティムソンのあいさつに続いて、すぐに原爆開発に関するソ連との懸隔について産業人の意見開陳に入っている。

 デュポンの社長カーペンターは、デュポン社は基礎計画を受け取ってハンフォード工場を完成するのに27ヶ月(2年3ヶ月)かかっている、全体基礎設計、建設、操業に要した人員は他関連人員も含めて1万人から1万5000人程度だった、と説明。補助要員も確保できたので例がないほど素早く完成できた。

 ソ連の場合は、基礎計画があっても同様な工場を作るのに4年から5年かかるだろう。ソ連が抱える最大の問題は、大量の技術者の確保と生産設備の確保にあるのではないか、と推測する。

 当時ソ連は、ドイツとの戦いで国内生産設備は壊滅的な状況であり、すべての工業生産は軍事生産に集中的に振り向けられていた。それに人材、技術者は徹底的に不足していた。当時ソ連が蒙っていた打撃をどう説明したらいいか・・・。

 英語Wikipediaに「第二次世界大戦の人的損失」(“World War II casualties”)という項目に人的損失の各国別の表がある。
(<http://en.wikipedia.org/wiki/World_War_II_casualties>)


 この表でソ連が蒙った人的損失(バルト三国を除く)を見てみると、1939年1月1日現在人口1億6850万人のうち、軍人・兵士の死者が880万人から1070万人、一般市民の死者が1225万人から1415万人。それとは別にソ連領内のユダヤ人がドイツ占領時ホロコーストに遭っているのでこれが100万人、合計約2400万人としている。1939年1月時の人口から見ると14%が死亡している。

 ドイツも手ひどい打撃を受けた。1937年時の人口約7000万人のうち、軍人・兵士の死者が445万人、一般市民の死者が最大228万人、合計死者は最大690万人。1937年の人口からすると最大9.9%が死亡している。

 中国は、約5億1800万人の人口のうち、最大2000万人が死亡している。比率は最大3.86%。(中国政府は3500万人が死亡した、としている。もしそうだとしても私は意外とは思わない。)

 日本は39年1月の人口約7138万人のうち、軍人・兵士が212万人、一般市民が58万人で合計約270万人。人口比率は中国とほぼ同様の3.78%。

 アメリカは39年人口約1億3100万人のうち、軍人・兵士の死者が41万6800人、一般市民の死者が1700人で合計41万8500人。人口比にすると、0.32%である。

 第二次世界大戦でソ連が蒙った人的被害は、人口比の上でも、絶対数の上でもケタ違いに大きいのである。
 ( 私たち日本人は、第二次世界大戦の人的被害を内向きにしか見ない傾向にある。もっと外に目を開くべきではないか。)

 ただし、とカーペンターは云う。もしソ連が大量のドイツ人科学者を確保できて、I・Gファルベン産業やジーメンスの協力を得るならもっと短期間に完成するだろう、と述べた。

 I・Gファルベンはナチス・ドイツに協力した化学産業の大手で、ちょうどアメリカのデュポンに匹敵する。戦後は解体され、バイエル、ヘキスト、BASF、アグファ・ゲバルトなどの企業が生まれた。ジーメンスはドイツ電機産業の最大手でちょうどアメリカではジェネラル・エレクトリックに相当する。だから、カーペンターの指摘はドイツの人材や産業界が全面的にソ連に協力するなら、もっと短期間に完成するだろう、という事だ。

 テネシー・イーストマンのホワイトは、標準化の進んだアメリカの規格大量生産システムの存在に大いに助けられたことを指摘した。大量の真空チューブに使用する特殊なセラミックや特殊なステンレススティール、その他大量の色々な種類の製品が必要だったが、それは品質のばらつきなしに、安定供給された、ソ連でこのような規格大量生産システムが確立しているかどうか疑わしいと述べた。

 またホワイトは、カーペンター同様、科学者や技術者の存在についても触れて、2000人以上の大学卒業者、1500人近い大卒レベルの従業員、それに5000人以上の熟練技術労働者を必要とした、特殊な機械装置の運転の訓練のため専門技術訓練校を作る必要があった、と述べている。つまりこうした人材供給の環境がソ連に存在するのかどうか、疑わしい、と述べた。

 これに関連して、暫定委員で国務次官補の、というよりヨーロッパ情勢に詳しい政治家・経済人であるウイリアム・クレイトンは、「多分、ソ連はドイツの科学者や技術者を確保できているだろう。」との見通しを述べている。戦後大量の科学者と技術者がソ連に移動させられたが、クレイトンはその動きをすでにキャッチしていたものと考えられる。

 ドイツはこの暫定委員会の1ヶ月前の5月7日にはアメリカに、5月8日にはソ連に無条件降伏している。

 ウエスティングハウスのブッチャーは、ドイツの科学者や技術者、ファルベンやジーメンスなどの企業が協力すれば、電磁装置のサンプル工場を恐らく9ヶ月以内に完成するだろう、それでも本格操業に入るには、3年かかるだろう、と推定した。

 さらにこの分野では、部品の交換システムや高度に精密な工具などが必要だが、ドイツが協力すれば15ヶ月から18ヶ月で本格生産に入れる、フィアットを擁するイタリアなら15ヶ月から18ヶ月、イギリスなら12ヶ月で本格生産に入れるだろうと述べた。

 要するに産業基盤が破壊され、人材が払底しているソ連がアメリカの現段階に追いつくのはドイツの協力次第、と言う点では産業人の見解は一致していたことになる。

 ここで委員会はランチの休憩に入る。スティムソンのこの日の日記によると、昼食の間も活発な議論があったということなので、もっとつっこんだ話があったと思われるが残念ながら議事録に記載されていない。
 ( 次を参照の事。
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/stim-diary/stim-diary19450601.htm>)


支配グループの「鉄の結束」

 午後は、産業人の戦後機構に関する意見聴取から始まっている。

 まずジェームズ・バーンズが口火を切って、「この計画(大きく云えば原子力エネルギー計画、狭く云えば核兵器計画)を戦後も発展させるにはどんな機構を作るべきであろうか」と質問した。この質問を補足する形で、カール・コンプトンが「いかなる形がこの分野の潜在性をもっとも引き出しうるか」と質問した。

 この質問は、本来こういう秘密委員会でなすべき質問ではない。長期間・莫大な投資が必要な計画だから、公開の席でもっと民主的な討論にかけられるべき議題であろう。

 いきなり、ユニオン・カーバイド社長のラファーティが興味ある答えをしている。

現在の政府・産業界・大学間のパートナーシップは継続すべきだ。』

 産業界にとって現在のシステムは理想的なシステムである。目の前には無限の可能性をもった「原子力エネルギー市場」が突如登場した。戦時中のことであり、連邦政府はほとんどノーチェックの形で議会から予算を引き出すことができる。政府・軍部は世界一流の科学者を抱えて、それを政府機関や各大学に散らして研究をさせている。産業界は指名でそうした各分野の業務を請け負い発注制で受注し、政府予算を回してもらっている。そればかりか、技術開発の成果をほとんど独占的に自社のものとすることが出来る。

 現在原子力産業の主要な技術は、アメリカ企業かあるいはそれに起源を持つ企業に由来し、厖大な特許や技術、ノウハウをもっているが、その大元をたどれば、マンハッタン計画時の「政府・産業界・大学間のパートナーシップ」に淵源があるといっても言い過ぎにはならないだろう。

 機器・装置メーカーのウエスティングハウス社長のブッチャーもラファーティに同調する形で、現在の組織は、最低後1年は継続すべきだと云い、特にやがて産業界でも応用できる「動力」という点に関してはさらなる基礎研究が必要だ、と強調した。

 しかしこんな話ならわざわざ委員会に呼んで話を聞かなくても彼らの意向はわかっていると言うべきだろう。

 しかし、次のデュポンのカーペンターの話は興味深い。

 カーペンターは、原子力エネルギー分野への産業界の積極的な参加は今後も続くだろうが、現在は「原子力エネルギー分野での努力は操業レベル」に止まっている、と述べた。操業レベルに止まっているのはやむを得ない。戦時中のことであり、原爆の完成が何にもまして重要な目的だからだ。

 しかし、この分野での発展を将来見据えるならば、今の「操業レベル」ではいけない、もっと幅広い基礎研究に着手すべきだ、とカーペンターは述べた。このカーペンターの主張は前日の暫定委員会で、科学顧問団の4人の科学者やバニーバー・ブッシュ、K・コンプトンなどが主張したこととも軌を一にする。特にカーペンターの云う「操業レベルに止まっている。」と云う内容は、前日の暫定委員会でオッペンハイマーが「研究の前段階の成果をもぎ取っている。」と表現している内容と同一だ。
「11.警告なしの投下と冷戦の選択 上」
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/hiroshima_nagasaki/
why_atomic_bomb_was_used_against_japan/11.html
>の中の「誤っている基礎研究方法論」の項参照のこと。)


産業育成は政府資金で

 しかし、とカーペンターは続ける。私的資本で運用される民間産業界は、こうした基礎研究を相応な規模で推進する立場にない、民間産業界は実用応用研究を担当すべきだ、と主張する。

 原子力エネルギー市場を確立するのに、これからどれほどの基礎研究が必要かは誰にもわからない。すぐに製品開発や装置開発につながらない、こうした基礎研究を民間企業が手掛けても、それはすぐにビジネスにならない、民間企業には不向きな分野だ、とカーペンターは言うのである。随分身勝手な言い分だが、資本主義経済の枠組みでは「真理」である。

 だから、とカーペンターはいう。そうしたすぐにビジネスにつながらない基礎研究の開発こそ政府が受け持つべきだ、この原子力エネルギー分野が波及する産業界は同心円的に巨大であり、民間産業界で行うべきではない、と深く確信している、とカーペンターは主張する。

 政府はこうした基礎開発計画を立案管理し、財政支出を行うだけでなく、原材料たるウランの安定供給に責任を持つべきだ、というのがカーペンターの発言の趣旨である。

 国民の税金を使って新たな基礎研究開発を政府が行うところまでは正しい政策だろう。しかしその基礎研究の成果を排他的に一部大企業だけが利用できるという仕組みはどうだろうか?「マンハッタン計画」の運用体制をそのまま手つかずに維持し、カーペンターの主張する方向で政府予算を使っていくのはあからさまな国家独占資本主義の主張ということになる。

 しかしここで私に浮かぶ大きな疑問は、日本との戦争が終了し、戦時体制が終わったら、こうした基礎研究にかかる予算は、一体アメリカ議会がすんなりと認めるものだろうか、というものだ。

 暫定委員会当時は、戦時中であり、戦時中の軍事的国家機密という大義名分があったため、議会はマンハッタン計画予算をほとんど「めくら予算」(Blind Appropriations)として認めた。戦後もそれが一体すんなり通るのであろうか?


原爆の積み上げ方式での貯蔵

 カーペンターはここで、次のような具体的計画を提案する。

 1.原子爆弾の積み上げ方式での貯蔵。
 2.非常体制を備えた工場の設置。
 3.基礎研究への傾斜集中化。
 4.ウラン供給の安定的管理の保障。

 3の基礎研究に国家予算を使え、4のウランの安定的供給のための管理体制の確立、は理解できる。しかし、1の原子爆弾の積み上げ方式での貯蔵やそれを達成するための工場(当然安全体制や警備体制など非常時緊急体制を備えていなければならない。普通の工場とは違う。)の設置、というのはどういうことか?戦争は終わるのではないか?

 そういえば前日の科学者を交えた暫定員会でも同じような議論が出ていた。
11.警告なしの投下と冷戦の選択」の中の「拡張と原爆貯蔵」の項参照の事。
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/hiroshima_nagasaki/
why_atomic_bomb_was_used_against_japan/11.html
>)

 それはこういうことである。

 原子力エネルギー産業は、カーペンターの指摘するように「同心円的に巨大な産業」である。それは自動車産業などの比ではない。こうした原子力エネルギー産業を維持するためにはその製品を製造し続けなければならない。もし製品の製造を辞めれば、その「同心円的な産業」はたちまち衰退してしまう。それに関連した企業は注文がなくなれば、経済的に立ちゆかなくなり、その市場からでていかなければならない。そして何より打撃となるのは、次世代を担う研究者、科学者、技術者、熟練労働者が継承的に育たない、という問題だ。

 現在のアメリカの核兵器産業がちょうど今同じ問題に直面している。アメリカは生産過多によって1970年代が始まる頃にはすでに兵器級の核燃料の生産を停止した。少なくとも1990年代以降はこれも製造過多によって新たな核兵器の製造を行っていない。その後何度か新たな核兵器の開発製造の話はでたが、いずれもアメリカの良識的な核兵器反対の市民運動で潰されている。

 90年代クリントン政権以来行っているのは、古い核兵器の新品再生事業である。このため核兵器を取り扱える人材が少なくなってきた。これに危機感を募らせているのが現在のオバマ政権である。

 たとえば、2009年5月(オバマのプラハ演説の翌月である)、元国防長官ウイリアム・ペリーを委員長とするアメリカ議会が任命した「アメリカの戦略態勢委員会」が、最終報告書を出したが、その「第2章 核態勢論」の中に次のような一文がある。

能力(施設と共に人材も)の再構成は、それがいかなるものであれ、何年も何年もかかるものだ。
 この問題の解決策は、産業界でまだ経験の浅い人材に決定的な技術を伝えていくことのできる(開発)諸計画と共にあるし、次世代システム開発を支援する先端開発に対する資金手当てを伴うものであるし、また先端開発によって全部は支えきれない決定的分野を支援する計画を伴うものだ。
 委員会はこの能力の持続への必要性を強調するものである。インフラ持続に関して死活的な、ユニークな技術を保持していこうという決定は、開発計画に対する資金手当てを必要としている。しかし、その開発計画とは全面規模の生産を意味するものではない。 』
(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/obama/USA_SP/
strategic_posture_4-2.htm
>の中の「運搬手段について」の項を参照の事。)

 この委員会は核兵器の全面生産再開まで踏み込んで提言してはいないものの、核兵器産業を支える人材の育成と継承について政府は資金手当てをするべきだと提言し、オバマ政権の2010年核軍事予算はほぼこの委員会の提言に沿ったものとなっている。
「アメリカ国家核安全保障局について」
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/obama/obama_21.htm>を参照の事。)

 さて65年前6月1日の暫定委員会に戻ろう。

 デュポンのカーペンターが、原爆の積み上げ式の貯蔵とそのための製造工場の設置を主張するのは決して冷戦のためでも、核抑止のためでもない。生まれたばかりの核兵器産業を維持発展させるためだ。                   


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