米国原子力委員会 年表


米エネルギー省歴史部(U.S.Department of Energy History Division ) 発行
「A History of the Atomic Energy Commission」 by Alice L.Buck July 1983より作成
(*原文は次:http://www.atomictraveler.com/HistoryofAEC.pdf) (年表は16P目)
註は原文にはなく私がつけた。


日 付 主な出来事
1946年8月1日 トルーマン大統領、原子力エネルギー法案(Atomic Energy ACT)に署名。
1947年1月1日 原子力エネルギー計画がマンハッタン工区からAECに移管。
9月 ハンフォード工場の新原子炉のうち1つが着工。
1948年3月1日 国立オークリッジ研究所が正式に設立。1943年に作られたクリントン研究所の仕事を引き継ぐ。
1948年4月-5月 AEC最初の核実験「砂岩作戦」をマーシャル群島で実施。
1949年9月1日 アイダホに国立原子炉実験基地建設決定を発表。
8月29日 ソ連が最初の核兵器実験に成功。
1950年1月31日 トルーマン大統領、AECに水素爆弾または”スーパー爆弾”を含むあらゆるタイプの核兵器の開発継続を指示。
6月27日 トルーマン大統領、米空軍に「韓国」支援を命令。
1951年12月20日 最初の原子力発電実験炉。
1952年6月14日 世界最初の原子力潜水艦「ノーチラス号」の竜骨、コネティカット、グロトンで完成。
11月 世界最初の熱核爆弾(水素爆弾)が、マーシャル群島ウエニエトク環礁で爆発。
1953年12月8日 アイゼンハワー大統領の原子力平和利用計画発表。原子力平利用のための国際機関設立を提案。
1954年3月1日 太平洋で一連の核実験「キャッスル」が開始される。(1)
1954年8月30日 アイゼンハワー大統領、新原子力エネルギー法に署名。46年法から大幅に改訂し、原子力の平和利用の分野で民間企業や各国の参加を幅広く求める内容となった。
1955年1月10日 原子力発電デモ用原子炉計画が発表される。AECが民間企業と協力して発電実験原子炉建設を行うとしている。
1955年8月8ー20日 スイス・ジュネーブで最初の、国連原子力の平和利用に関する国際会議開催。
1957年10月1日 ウィーンでIAEA設立総会開催。AEC委員長のルイス・ストラウスが5000Kgのウラン235をIAEAに提供すると演説。
1957年12月23日 ペンシルバニア州シッピングポートに世界最初の原子力発電所完成。
1958年8月22日 アイゼンハワー大統領、10月1日から核兵器実験凍結を宣言。
1959年11月24日 AEC委員長ジョン・マッコンとロシアのワシリー・エメルヤノフ教授、ソ連とアメリカの協力覚え書きに署名
1961年3月 ”規制”機能が事務局長室(General Manager's Office)から分離され規制担当理事の下に置かれる。
8月 ソ連、核兵器実験凍結破棄を宣言、核実験を再開。
12月10日 最初の平和目的の原爆実験”グノム計画”をニューメキシコ州で実施。(2)
1962年4月25日 核兵器実験で一連のドミニク作戦が、太平洋クリスマス諸島で開始。
1963年8月25日 アメリカ、ソ連、イギリスの間で部分核実験禁止条約がモスクワで調印される。(3)
1964年8月26日 ジョンソン大統領、特別核物質私的所有法に署名。
12月16日 AECはニュージャージー州オイスタークリークでのジャージー中央電灯電力会社の発電所建設計画を許可。これは政府の援助なしに、既存電力業と普通の競争を行う最初の民間原子力発電所となる。
1865年4月3日 宇宙における最初の原子炉を打ち上げ稼働開始。(SNAP-10A)
1970年3月5日 核兵器不拡散条約をアメリカ、イギリス、ロシアほか45カ国が批准。(4)
1971年6月4日 ニクソン大統領、1980年までのLMFBRのパイロットプラント完成は国家目標であることを明言。(5)
1973年12月1日 AEC委員長デキシー・リー・レイ、ニクソン大統領に報告「国家のエネルギーの将来」を提出。
1974年10月11日 フォード大統領「1974年エネルギー再編法案」に署名。
1977年8月4日 カーター大統領、エネルギー省再編法案に署名。


(1) どうしたことかこの記述はあまりに不十分である。この一連の実験はキャッスル作戦と呼ばれ、ビキニ環礁とエニウェトク環礁に分かれて水爆実験が合計6回行われた。それぞれブラボー、ロメオ、クーンユニオン、ヤンキー、ネクターの名前ついている。この記述は従って最初のブラボーのものである。このビキニ環礁で行われた実験は、出力測定を誤って当初4-8メガトン(広島・長崎を仮に2万トンとしてその200倍から400倍)の予定が、実際には15メガトン(750倍)の出力だった。このため立ち入り禁止の規制が甘過ぎ、周辺諸島住民約2万人が「死の灰」を浴びたほか、有名な「第5福竜丸事件」を引き起こした。この記述は日本語Wikipediaに詳しい。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%B9%E3%83%A
B%E4%BD%9C%E6%88%A6

また英語版Wikipediaでも詳しい。(http://en.wikipedia.org/wiki/Operation_Castle
(2) 平和目的の原爆実験というのもおかしな感じがするが、主として建設目的の爆発のようだ。従って出力も数千トンで、兵器目的に比べればはるかに小さい。
詳しくは英語版Wikiepdia.(http://en.wikipedia.org/wiki/Operation_Plowshare
(3) 1962年10月に発生したキューバ危機は注意深く省かれている。全体として米原子力委員会が平和目的のための組織であるかのように描こうとこの年表づくり全体で腐心している。
(4) 1968年に署名された核兵器不拡散条約はこの批准行為によって発効した。
(5) LMFBRはLiquid Metal Fast Breeder Reactorの頭文字で、液体金属高速増殖炉のことである。