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もしも原爆を使用しなかったら カール・T・コンプトン IF THE ATOMIC BOMB HAD NOT BEEN USED BY KARL T. COMPTON |
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(原文:http://www.theatlantic.com/issues/46dec/compton.htm) (*解説・補足説明・感想無しバージョン) |
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この記事は、アトランティック・マンスリー誌1946年12月号にカール・テイラー・コンプトンの署名入りで発表されたものである。当時すでに、原爆の非人道性が、特に宗教関係者から指摘され、政権に対する批判が出始めていた。この記事でコンプトンは、一見、それに反論しようと試みている。当時原爆に関する政権・軍部からの発表は厳重な統制のもとにおかれていた。またニューヨークタイムスをはじめとする全米の主要な新聞も、トルーマン政権に協力する形で政権に都合の良い報道を実施していた。また占領下にあった日本では、原爆に関する報道は検閲下にあり、これは文字通り、厳しい事前検閲で占領軍が許可した記事しか発表できなかった。45年8月9日、自力印刷発行を再開した広島地元の新聞「中国新聞」でも事前検閲が厳しく行われた。日本ではこれが占領終了まで続く。 従ってこのコンプトンの記事もトルーマン政権中枢の事前チェックと承認のもとに掲載されたであろうことはほぼ間違いない。 彼の説得力に富むこの記事で、コンプトンは、いくつかの意図的なミスリードを行っている。その中には明らかにウソと分かるものもある。それを見分けるにはいくつかの予備知識がなければならない。ひとつは暫定委員会議事録(特に45年5月31日、6月1日、6月21日)であり、ひとつは1945年6月18日ホワイトハウス会議議事録であろう。 さらに加えれば、「米国戦略爆撃調査団報告―広島と長崎への原爆の効果―」(46年6月)、「スティムソン日記」であろう。 暫定委員会議記録は、コンプトン自身が委員の一人だったので内容は熟知していたはずだ。6月18日のホワイトハウス議事録はおそらくコンプトンは、この記事を書いた時点では読むことができなかったであろう。しかしこの会議に電信で報告を送っているマッカーサーはおそらく、マーシャル陸軍参謀総長を通じてこの会議の中身を知らされていたはずだ。とすれば、コンプトンはマッカーサーからこの会議の内容を聞くことのできる立場にいた。 戦略爆撃調査団報告は46年6月にドリバー団長からトルーマン大統領に提出されているから、コンプトンは読もう思えば読めたはずだ。 一般アメリカ市民はこのいずれも読むことのできる立場にいない。コンプトンに言われれば信じる他はない立場である。 こうしたことを念頭に置いて、このコンプトンの記事を読めば、コンプトンの意図は明確だ。
の2点であろう。2番目の論点は仮に負けようがどうしようがかまわない。どちらにせよ、冷静に考えれば「水掛け論」に終わるだろうからだ。逆に論争が燃え上がってくれた方がよい。そうすればそうするほど、「隠された目的」は論争の中心からどんどん遠ざかり、1の目的は達する確率が高くなるからだ。 真実は、語っていることの中にあるのではなく、語らなかったことの中にあるようだ。 |
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(以下本文) |
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「日本に勝利した日」(V-J Day)のおよそ一週間後、私は科学者及び技術工学者の小さなグループの一員として、知的で物わかりの良い日本の軍隊士官に、横浜で尋問をしていた。 われわれはこの士官に、「あなたの意見では、もし戦争が継続していたら、次の主要な動きは何だったと思うか?」と質問した。 するとこの士官はこう答えた。「おそらくあなた方は、11月1日ごろに九州上陸作戦を実施し、日本本土に侵攻しようとしたでしょう。そうしてその攻撃はこれこれかくかくの海岸においてなされたでしょう。」 われわれは「この上陸を撃退できたと思いますか?」と尋ねた。すると彼は答えた。「それはおそらく絶望的な戦いになったでしょう。私は、あなた方を食い止められたとは思いません。」 「それでは次にどうなったと思いますか?」とわれわれは尋ねた。 彼は答えた。「われわれは、すべての日本人が死ぬまで戦い続けたでしょう。しかしそれはわれわれが敗れたことにはなりません。」 これは彼が降伏による辱めを受けないと言っていることを意味している。 あの出来事の後、今振り返って、日本はすでに負けていた、従って、原爆を使用し、あのような非人道的な方法で、無力な数千の日本人を殺戮したことをどうやって正当化するのか、ということは容易である。 さらにいえば、もし必要だとして、将来これを使用するための秘密の兵器として取っておかない方が良かったのか?この議論もしばしばすでになされている。しかし私にとってはこうした議論も全くあてにならない人を惑わす話に見える。(utterly fallacious) 私は、おそらく、いくつかの角度から適切な事実を知りうるあまり普通でない機会に恵まれているのだろう。しかし私はいかなる決定からもその責任を免れる立場にいた。従って私は、さほど防衛的にならずに話すことができる。私は原爆の開発には、ほとんど関与していないとはいえ、スティムソン陸軍長官が招集したグループの一員であり、そのグループは原爆の実験、使用、それに関連した取り扱いの計画策定において陸軍長官を補佐する役割をもっていた。 それから、ヒロシマの少し前、私はマニラにいたマッカッサー大将のところに駐在した。そして彼のスタッフと2ヶ月間、寝食を共にした。このようにして私は、(九州への)侵攻計画について知り、その前途に損害の大きいまた絶望的な戦いが横たわっていることをこれら将軍の幕僚たちが心から確信していることを知ったのである。最終的に、私は「対日勝利の日」(V-J Day)後の1ヶ月を日本で過ごし、日本の物理的及び心理的状態を肌で感じて確かめたのである。私が面接調査をした日本人の中には、長い間の学者仲間や個人的友人もいたのである。 こうした背景から、私は完璧な確信をもって、原爆の使用は、数万の、おそらくは数百万の、アメリカ人と日本人の命を救った、と信じている。原爆を使用しなければ、戦争はまだ数ヶ月は続いたろう。 スティムソン陸軍長官や陸軍参謀総長がそうであったように、良心を持ち、まだ前途に何が起こるかを知り、原爆が達成できることを知っているものなら、だれでも、あれと異なった決定はくださなかったろう。事実をもってこのことを語らしめよう。 原爆の使用は非人道的だったか?すべての戦争は非人道的だ。 今通常爆弾と原爆との比較をしてみよう。広島では約8万人の人間が死んだ。(おや、さっきは数千人ではなかったの?)そして約5平方マイル(約13平方Km)が粉みじんになった。そしてその他に10平方マイル(約25平方Km)が、なぎ倒された。もちろん中心から7から8マイル(10.5Kmから12Km)からの逓減的な破壊だった。 長崎では、死者(fatal casualties とコンプトンは記述している)は約4万5000人だった。破壊された地域は広島よりかなり狭かった。これは長崎の地形による。 これを、東京で2回にわたっておこなわれた焼夷弾爆撃と比べてみよう。爆撃の1回は12万5000人が死んだ。もう1回は10万人近くが死んだ。 大東京圏を210平方マイル(約540平方Km)と考えてみると、そのうち85平方マイル(217平方Km)の密集地域が完全に、破壊された。実用的な目的のために比較してみると、広島と長崎では中心部が全く破壊されたことに相当する。のこりの地域125平方マイル(320平方Km)では約半分の建物が崩壊した。東京で焼け出された人の数は、大シカゴの人口よりかなり多い。こうした数字は東京で得られたものでまた偵察飛行であられた地図の詳細な研究でも得られた。一部誤りもあるかもしれないが、それぞれの破壊の大きさをほぼ正確に並べたものだろう。 日本は、原爆以前に敗北を喫していたか?戦争の運命がすでに日本を見離していたという意味においては、間違いなく答えは“イエス”だ。日本が依然絶望的な戦いをしており、戦争を継続をしようとしていたと信ずべきすべの理由がある、という意味においては、“ノー”だ。そしてこの答えが、唯一実際的な意義をもつ。 マッカーサー将軍のスタッフは約5万人の損害があると予測していた。そして何度か、11月1日の九州上陸作戦で、九州の海岸で発生するであろう日本軍の損害を予測しようと試みた。そしてその結果、日本本土を制圧するまでに、はるかに大きな損害が発生すると予測するにいたった。日本人が本土防衛するにあたって、硫黄島や沖縄におけるよりもはるかに大きい狂信性を発揮すると考えるあらゆる理由があったのだ。日本の究極の状況が全く「望みがない」(hopeless)と判明すれば、直ちにこの日本人との戦いが終わるという見解は、この血なまぐさい戦いを生き残るであろうアメリカ人兵士からは決して賛同をみないだろう。今現在振り返って、「おい、日本はもう負けていたんだぜ」といえる人が見ている時点から、その後も恐ろしい戦いが続いた信ずべきあらゆる理由がある。 私はマッカーサー将軍が、占領の1ヶ月に、もし日本政府が国民への統制力を失ったら何百万人もの旧日本軍兵士が山岳地帯に立てこもって戦いを続け、事態を収めるのに100万人の兵力と10年の時間が必要だろう、と語ったのを聞いた。 これは全く可能性がないことではないことは次の、私がその報告に接していなかった事実が示している。私たちは、日本が降伏を申し出てから実際に日本が降伏した9月2日までのほとんど3週間にも及ぶ長い時間のことを思い出す。これは詳細をきめるために必要な時間だった。降伏と占領のこと、日本政府に、国民に占領を受け入れる準備をなさしめることなどである。また一般には知られていないが、貧農の支持を受けた本軍のグループが政治をコントロールし戦争を継続するため革命を起こす恐れもあった。日本の国民が降伏を表明している日本の政府に従うかどうかに関して言うと、それ(革命のこと)は、すぐ実現しそうな(touch and go)数日もあった。 多くの日本人は、自分たちが戦争に負けたとは考えていなかった。実際その多くは、目の前の自分たちが受けている罰にもかかわらず、自分たちは勝利しつつあると考えていた。 彼らは、風船爆弾が地上を離れるのを見つめながら風に乗って東方へ流れ、われわれの空襲爆撃に対して、アメリカへの仕返しとなることに自信をもっていた。 われわれは、戦争の間、日本軍に従事した一人の若い兵隊から普通の日本人の兵隊の知識と士気の状態に関する物事の本質に関するビビッドな洞察を得ることができる。 彼は、赤ん坊時代からアメリカで暮らしていた。そして1940年にマサチューセッツ工科大学を卒業した。この若者は外見上全くアメリカ人と変わりない。卒業後しばらくして親戚を訪問するため家族と共に日本へわたった。彼らは動員令にかかり、この若者は軍隊に徴兵された。 この若い日本人が話してくれたところによると、彼の仲間の兵士は日本が戦争に勝利しつつあることを信じていた。彼らにとって硫黄島や沖縄の敗北は、アメリカ軍を本土段々たぐり寄せる全体戦略の一部なのであって、やがて突然急襲され、完全に殺戮される、と信じていた。この若い日本人自体、いろいろな報道の論理的整合性の結果、こうした信念に幾ばくかの疑いを抱いていた。また彼はフォードの生み立て製造ラインを見たことがあって、日本はアメリカの軍事生産力にかなわないと思っていた。しかし、彼の同僚はだれも真の状況を薄々気づいてすらいなかった。そしてある晩、10時30分頃、連隊全員の招集がかけられ、降伏宣言の朗読を聞いたのだった。 原子爆弾は戦争の終結をもたらしたのか?もしそうなら、スティムソン氏やマーシャル将軍、その他の仲間たちの計算した賭けは勝ち目に出たことになるし、希望は実現したことになる。 事実はこうだ。1945年7月26日、ポツダム宣言が無条件降伏を宣告した。7月29日、鈴木(貫太郎)首相は内閣記者会見で、公式な降伏最後通告を価値のないものと嘲って、なおかつ日本は航空機生産に力点を置くとしたことを事実上の内容とした声明を発表した。その8日後の8月6日広島に最初の原爆が投下され、2番目の原爆が8月9日に長崎に落とされた。その翌日8月10日に日本は降伏の意志を表明した。そして8月14日にポツダム宣言を受け入れた。 こうした事実に基づいて、私は原爆なしに、極めて多大な損害を伴う戦いや血の海を伴わないで、戦争が終結したと信じることはできない。 まさしく原爆の果たした役割は、推測のためのある一定の視界を許容するだろう。 (原爆の果たし役割を考えると、ある一定の推測が可能になる。という意味) ある調査は、原爆が投下された2つの都市から離れるに従って、一般の人々に原爆の影響が直接及ばなかったことを示している。(ここは原爆が人々の心理面に与えた影響のことを言っている) 彼らは(広島・長崎から離れた地域にいる人)は、原爆のことを知らなかったか、あるいはほとんど知らなかった。 さらに壊滅的な通常兵器による爆撃のあった東京やその他の都市ですら、人々を降伏への雰囲気へと導かなかったのだ。 証拠は次の組み合わせ要素を指し示している。
もし原爆を使用していなかったら、実際的確実さの観点から私がこれまで述べてきた諸点が証拠として示すように、莫大な規模での破壊と死がさらに何ヶ月も続いていたであろう。また早いタイミングでの原爆の使用は、思いがけなかった理由により幸運だったと言わねばならない。もし予定通り1945年10月に進められていたとしたら、沖縄は航空機で埋め尽くされ、その諸港は攻撃を待ちかまえる上陸用艦艇で埋め尽くされていたろう。 その同じ月に沖縄を襲った台風(枕崎台風のこと)は、日本への侵攻計画を根こそぎにし、パール・ハーバーに匹敵する軍事災害を起こしていたであろう。 ここに、この問題をよく知る人たち、またそれらに基づいて原爆投下の基本的決断を下した人たちを導くいくつかの事実がある。非人道的であるとして、あるいは「日本はすでに敗れていたのだから、その使用は不必要だった」と遺憾を表明する根拠が、いかに「後の祭り戦略家」(after-the-event strategists)の中にある誤った信念や希望的観測であるかを感じさせる事実でもある。 日本に降伏をもたらしたのは、1個の原爆ではない。2個の原爆でもない。それは原爆が実際に、その地域社会にそのように働くかを知った経験であり、その上、後にそれが続々つづくことへの恐怖である。このことが効果的だったのである。 もし500機の爆撃機が、東京の破壊の様な損害をもたらすとしよう、そしてこの爆撃機が1機1機、1個1個の原爆を搭載していたら、「明日の都市」(the City of Tomorrow)に対してどのような作用をもたらすであろうか? このような絶望的な見地は、必然的にこの話題に関して2つの政策の採用をわれわれの国家に強いてくる。
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