(解説・補足説明・感想無しへ)


真実はコンプトンの語らなかったことにある


もしも原爆を使用しなかったら  カール・T・コンプトン
IF THE ATOMIC BOMB HAD NOT BEEN USED BY KARL T. COMPTON

(原文:http://www.theatlantic.com/issues/46dec/compton.htm)


(*解説・補足説明・感想入りバージョン)

 この記事は、アトランティック・マンスリー誌1946年12月号にカール・テイラー・コンプトンの署名入りで発表されたものである。当時すでに、原爆の非人道性が、特に宗教関係者から指摘され、政権に対する批判が出始めていた。この記事でコンプトンは、一見、それに反論しようと試みている。当時原爆に関する政権・軍部からの発表は厳重な統制のもとにおかれていた。またニューヨークタイムスをはじめとする全米の主要な新聞も、トルーマン政権に協力する形で政権に都合の良い報道を実施していた。また占領下にあった日本では、原爆に関する報道は検閲下にあり、これは文字通り、厳しい事前検閲で占領軍が許可した記事しか発表できなかった。45年8月9日、自力印刷発行を再開した広島地元の新聞「中国新聞」でも事前検閲が厳しく行われた。日本ではこれが占領終了まで続く。

 従ってこのコンプトンの記事もトルーマン政権中枢の事前チェックと承認のもとに掲載されたであろうことはほぼ間違いない。

 彼の説得力に富むこの記事で、コンプトンは、いくつかの意図的なミスリードを行っている。その中には明らかにウソと分かるものもある。それを見分けるにはいくつかの予備知識がなければならない。ひとつは暫定委員会議事録(特に45年5月31日6月1日6月21日)であり、ひとつは1945年6月18日ホワイトハウス会議議事録であろう。
 さらに加えれば、「米国戦略爆撃調査団報告―広島と長崎への原爆の効果―」(46年6月)「スティムソン日記」であろう。

 暫定委員会議記録は、コンプトン自身が委員の一人だったので内容は熟知していたはずだ。6月18日のホワイトハウス議事録はおそらくコンプトンは、この記事を書いた時点では読むことができなかったであろう。しかしこの会議に電信で報告を送っているマッカーサーはおそらく、マーシャル陸軍参謀総長を通じてこの会議の中身を知らされていたはずだ。とすれば、コンプトンはマッカーサーからこの会議の内容を聞くことのできる立場にいた。

 戦略爆撃調査団報告は46年6月にドリバー団長からトルーマン大統領に提出されているから、コンプトンは読もう思えば読めたはずだ。

 一般アメリカ市民はこのいずれも読むことのできる立場にいない。コンプトンに言われれば信じる他はない立場である。

 こうしたことを念頭に置いて、このコンプトンの記事を読めば、コンプトンの意図は明確だ。

1. 日本に対して原爆を使用する真の目的を隠して、目的は対日戦争終結のためだった、と世間に印象づけること。
2. そう印象づけておいて、「原爆の使用」はあのときの判断として正しかった、と主張すること。

 の2点であろう。2番目の論点は仮に負けようがどうしようがかまわない。どちらにせよ、冷静に考えれば「水掛け論」に終わるだろうからだ。逆に論争が燃え上がってくれた方がよい。そうすればそうするほど、「隠された目的」は論争の中心からどんどん遠ざかり、1の目的は達する確率が高くなるからだ。

 真実は、語っていることの中にあるのではなく、語らなかったことの中にあるようだ。

 以下はこの記事の翻訳である。()内註は私の解説ないしは補足説明である。もちろん飛ばして、読んでもらってもかまわない。見出しは原文にはなく、整理のために私がつけた。

(以下本文)



「日本は完全壊滅まで戦争を継続したろう」

 「日本に勝利した日」(V-J Day)のおよそ一週間後、私は科学者及び技術工学者の小さなグループの一員として、知的で物わかりの良い日本の軍隊士官に、横浜で尋問をしていた。

日本の敗戦の直後、コンプトンは日本にきていたものと見える。1945年―昭和20年9月16日―日曜日の朝日新聞の記事に、「コンプトン博士帝大へ」の見出しの元に、コンプトンが突然東京大学を訪れた記事が見える。「内田総長以下工学部の教授と懇談を重ねたが大学が戦争にどういう役割を果たしたか、科学動員の方法などについて詳細な質問をしたのち、同学内の原子核の実験室を熱心に参観した」とある。なおこの記事はここで読むことができる。

 われわれはこの士官に、「あなたの意見では、もし戦争が継続していたら、次の主要な動きは何だったと思うか?」と質問した。

 するとこの士官はこう答えた。「おそらくあなた方は、11月1日ごろに九州上陸作戦を実施し、日本本土に侵攻しようとしたでしょう。そうしてその攻撃はこれこれかくかくの海岸においてなされたでしょう。」

九州上陸作戦が、正式にトルーマン政権の対日軍事作戦として承認されたのは、1945年6月18日のホワイトハウス会議においてである。この時11月1日に実施することも正式に決まった。しかし実施されなかった。そのわずか2ヶ月後、日本の一士官が、その計画の詳細を知っていたというのは疑問が残る。もし仮に知っていたとしたら、敗戦後米軍の関係者から知らされたということになるが、いずれの場合にせよ、ここでコンプトンが、以下読まれるように、日本の抵抗は頑強だったろうという証拠としてこの士官の尋問の話を持ち出すのは適切とはいえない。有り体に言えばこの話はウソくさい。)

 われわれは「この上陸を撃退できたと思いますか?」と尋ねた。すると彼は答えた。「それはおそらく絶望的な戦いになったでしょう。私は、あなた方を食い止められたとは思いません。」

「それでは次にどうなったと思いますか?」とわれわれは尋ねた。

 彼は答えた。「われわれは、すべての日本人が死ぬまで戦い続けたでしょう。しかしそれはわれわれが敗れたことにはなりません。」

 これは彼が降伏による辱めを受けないと言っていることを意味している。

もしこの士官が本当にこういったのなら、「知的で物わかりの良い」日本軍士官どころか、典型的に、狂信的な日本帝国軍人であろう。しかしそれは日本人のわれわれが読むからそういえるので、当時の平均的なアメリカ市民はこの記事を信じたろう。)


暫定委員会は対日戦争を議論したか?

 あの出来事の後、今振り返って、日本はすでに負けていた、従って、原爆を使用し、あのような非人道的な方法で、無力な数千の日本人を殺戮したことをどうやって正当化するのか、ということは容易である。

その後延々と続く「原爆投下不必要論」を見越していたかのような議論である。しかも数万をー戦略爆撃調査報告はすでに、7万人から8万人が死亡したかまたは行方不明、推定死亡となった、と報告しているーちゃんと数千―thousands of helpless Japanese−にちゃっかり割り引いている。これは9割引きかな?)

 さらにいえば、もし必要だとして、将来これを使用するための秘密の兵器として取っておかない方が良かったのか?この議論もしばしばすでになされている。しかし私にとってはこうした議論も全くあてにならない人を惑わす話に見える。(utterly fallacious)

 私は、おそらく、いくつかの角度から適切な事実を知りうるあまり普通でない機会に恵まれているのだろう。しかし私はいかなる決定からもその責任を免れる立場にいた。従って私は、さほど防衛的にならずに話すことができる。私は原爆の開発には、ほとんど関与していないとはいえ、スティムソン陸軍長官が招集したグループの一員であり、そのグループは原爆の実験、使用、それに関連した取り扱いの計画策定において陸軍長官を補佐する役割をもっていた。

 スティムソン陸軍長官が招集したグループ」といっているのは、間違いなく暫定委員会のことだ。この短い文章の中で、コンプトンはできるだけウソをいわないようにと心がけている。しかし語らない事実が多すぎる。語っているほんの少しの事実と、語っていない多量の事実とを合わせると、全体として大ウソになるという典型的な文章だ。

 まず、この文章をなにも予備知識のない人が読めば、従って多くの平均的なアメリカ市民がよめば、暫定委員会の役割は、「原爆の実験」「使用、すなわち日本への投下」「なにかわからないが、それに関連した取り扱い」を議論し、一定の提言をスティムソンにしたと考えるだろう。しかも、いやそうではない、と反論できない状況においてだ。

 従って、暫定委員会の議論は、日本への投下をめぐってその妥当性、方法論を議論したと思うだろう。しかもそれは対日戦争終結という論点をめぐってなされたたと思うだろう。

 ところがそうではない。今45年5月31日の暫定員会の議事録から、スティムソンの冒頭の挨拶を引用してみよう。そこには、その日議論すべき議題が要約されているからだ。

 『スティムソン長官は以下のことを説明した。暫定委員会は長官自身が大統領の承認を得て指名したこと。そして委員会の役割は、(原子爆弾の)戦時暫定管理、公式声明、法制化、戦後機構などについて勧告を行うことである。陸軍長官は、我が国の科学者がなした輝かしいそして効率的な支援に対して、最高度の賞賛を示した。そして出席している4人の科学者の業績と暫定委員会が当面する複雑で困難な問題に進んで助言をなすことに最高度の感謝を表明した。陸軍長官は、科学者が、全く自由にその所信をあきらかにすることを希望すると表明した。

  委員会は暫定委員会(Interim committee)と名付けられているが、これはこの計画がさらによく知られるようになると、議会によってなされるもっと恒久的な組織、あるいは必要な条約でなされる恒久的な組織にとって替わられることが期待できるからである。』


暫定委員会でのコンプトンの発言

  このスティムソンの議題提示にそって、この日の会議はおこなわれた。日本への原爆使用も話し合われているが、それは対日戦争に関する話題ではなく、「戦後国際管理」に関する話題としてでてくる。コンプトン自身もこの日、次のような段階的計画を提言しているではないか。

1. (原爆の)第一段階での生産の拡張、貯蔵用の爆弾の製造、研究用原材料の整備。
2. (原爆の)第二段階研究への注力。
3. (原爆の)必要な第二段階の実験工場の建設。
4. (原爆の)新しい製品の製造

 翌日6月1日も暫定委員会は開かれている。冒頭スティムソン発言によってその日の議題のポイントを見てみよう。

 『開会に当たり、スティムソン長官は、戦争遂行における産業界の得難い貢献を称揚した。また長官は本日参加した産業人の人たちの特別な貢献に対して感謝すると共に、その貴重な見解を提出する目的で委員会に参集したことについても謝意を表明した。

 長官は委員会のメンバーを紹介した後、委員会は長官自身によって大統領の承認の下に設立されたこと、戦争期間中、この兵器(核兵器)の統御に関し、大統領になすべき勧告内容について陸軍長官とマーシャル将軍支援することが目的であること、また戦後における統御組織に関する勧告に関する支援なども目的であることを説明した。

 長官はまた長官とマーシャル将軍の両方のグループが核エネルギーの分野における一連の発見が意味するところ関し、完全に認識を一にしていることも保証した。戦争中に必要となる即座の軍事的有用性をはるかにこえた潜在拡張力が第一の関心事であることについても認識している。この開発(核エネルギー分野における開発)は人類の福祉にとって巨大な潜在力を持つと共に、この分野の統御を考える際には、その意味する所を考慮に入れなければならない。

 長官は、本日参集の産業人が国際関係における諸問題について何か意見を開陳して欲しい旨、表明した。また、国際協力の問題に関し何らかの意志決定をする際、最も重要な要素は、他諸国が合衆国に追いつくのにどれほどの時間がかかるかという問題であることを指摘した。』

 この日もコンプトンは、いくつか重要な発言をしているが、
『 ブッシュ博士は、4人の科学者から出てきた機構では国家安全に関する全体的研究機構の問題は考慮の必要なし、と提案されたことを報告した。またブッシュ博士は理事会が抱えるであろう問題の一つは各大学や研究グループに対する原材料や融資金の割り当て問題だろうとも述べた。各大学が研究目的で一定の品質を保った原材料確保の道を欲するだけでなく、パイロット工場への道確保も欲するだろうとも述べた。
  コンプトン博士はこの意見に賛意を表明した。』

はもっとも重要な発言だろう。

 こうした暫定委員会の話題の中で、対日戦争は一度もでてこない。「原爆の投下」はでてくるが、それはかならず原爆をめぐる「戦後の国際管理」なかで出てくるのであって、決して対日戦争の話題の中で出てくるのではない。

 従って、コンプトンがこの記事の中で『そのグループは原爆の実験、使用、それに関連した取り扱いの計画策定において陸軍長官を補佐する役割をもっていた。』と言えば、それは大ウソなのである。)


仮定に仮定を重ねる「原爆投下正当論」

 それから、ヒロシマの少し前、私はマニラにいたマッカッサー大将のところに駐在した。そして彼のスタッフと2ヶ月間、寝食を共にした。このようにして私は、(九州への)侵攻計画について知り、その前途に損害の大きいまた絶望的な戦いが横たわっていることをこれら将軍の幕僚たちが心から確信していることを知ったのである。最終的に、私は「対日勝利の日」(V-J Day)後の1ヶ月を日本で過ごし、日本の物理的及び心理的状態を肌で感じて確かめたのである。私が面接調査をした日本人の中には、長い間の学者仲間や個人的友人もいたのである。

 こうした背景から、私は完璧な確信をもって、原爆の使用は、数万の、おそらくは数百万の、アメリカ人と日本人の命を救った、と信じている。原爆を使用しなければ、戦争はまだ数ヶ月は続いたろう。

 スティムソン陸軍長官や陸軍参謀総長がそうであったように、良心を持ち、まだ前途に何が起こるかを知り、原爆が達成できることを知っているものなら、だれでも、あれと異なった決定はくださなかったろう。事実をもってこのことを語らしめよう。

 原爆の使用は非人道的だったか?すべての戦争は非人道的だ。

この言い方は世界共通で出てくる、論点のすり替えだ。今問われていることは原爆が非人道的なのかどうかであって、すべて戦争が非人道的かどうかではない。しかし言われるとコロッと参る。)

 今通常爆弾と原爆との比較をしてみよう。広島では約8万人の人間が死んだ。(おや、さっきは数千人ではなかったの?)そして約5平方マイル(約13平方Km)が粉みじんになった。そしてその他に10平方マイル(約25平方Km)が、なぎ倒された。もちろん中心から7から8マイル(10.5Kmから12Km)からの逓減的な破壊だった。

 長崎では、死者(fatal casualties とコンプトンは記述している)は約4万5000人だった。破壊された地域は広島よりかなり狭かった。これは長崎の地形による。

ここは明らかに、戦略爆撃調査団報告―広島と長崎―46年6月の記述だ。だからこの時点で、コンプトンは同報告を読んでいるか、あるいは内容を知っている。)

 これを、東京で2回にわたっておこなわれた焼夷弾爆撃と比べてみよう。爆撃の1回は12万5000人が死んだ。もう1回は10万人近くが死んだ。

これは、おそらく45年3月10日からの「東京大空襲」を指している。この空襲は、マンハッタン計画に従事していた科学者のうちシカゴ・グループの多くの科学者に「その非人道性」で衝撃を与え、「人道主義国家アメリカ」に大きな疑惑をもつきっかけになった。またヘンリー・スティムソンも45年6月1日に、陸軍航空隊司令官のアーノルドを呼んで、文句をいい、2度とこのような空襲をしてはならないと釘をさしている。マンハッタン計画の関係者のうち“人道主義グループ”に大きな衝撃を与えた事件としても記憶しておいていい。
 ところで、この東京大空襲を含む日本への「無差別戦略爆撃」は、当時の第21航空総軍(21st Air Command)の総司令官カーチス・ルメイの計画・立案だ。ルメイは戦後日本の航空自衛隊の創設に功績があった、として佐藤内閣の時1964年―昭和39年―勲一等旭日大綬章を受けている。これも記憶しておいていいことだ。

 このコンプトンの比較は、ひっかかりやすいが、科学的な比較とはいえない。全く要素の異なる事物を、死者という数字だけで比較しようとしている。MIT学長、元アメリカ物理学会会長の肩書きが泣こうというものだろう。)

 大東京圏を210平方マイル(約540平方Km)と考えてみると、そのうち85平方マイル(217平方Km)の密集地域が完全に、破壊された。実用的な目的のために比較してみると、広島と長崎では中心部が全く破壊されたことに相当する。のこりの地域125平方マイル(320平方Km)では約半分の建物が崩壊した。東京で焼け出された人の数は、大シカゴの人口よりかなり多い。こうした数字は東京で得られたものでまた偵察飛行であられた地図の詳細な研究でも得られた。一部誤りもあるかもしれないが、それぞれの破壊の大きさをほぼ正確に並べたものだろう。


放射線の影響には口をぬぐうコンプトン

ここでコンプトンが言いたいことは、よく分からない。おそらく被害の大きさは原爆よりも、東京大空襲の方が大きかった。だから、原爆がより非人道的とはいえない、といいたいのか、それとも戦争とはすべて非人道的なものだといいたいのか。原爆と東京大空襲はそもそも比較にならない。仮にその比較が成り立つものとしてもいろいろな数字の比較が可能だ。当時広島の人口は約35万人。原爆投下時の実際の人口は広島市に聞いても不明だ。どれほどの人が疎開し、どれほどの人が流入していたか不明だからだ。しかし、調査団報告―広島と長崎―が、言うように、「(広島では)7万人から8万人が死亡したかまたは行方不明、推定死亡となった。また同数が負傷した。その損害の規模は、1945年3月9日・10日に実施された東京大空襲とくらべると際だっている。東京大空襲では、16平方マイル(約50平方キロメートル)が破壊されたが、死者の数は決して負傷の者の数より大きくはなかった。」の様に負傷者と死者の比率を比べて、どちらが非人道的だったか、の比較もできる。しかしそのような比較にはおよそ意味はない。もともと異なる事物の比較だからだ。

 そんなことより、コンプトンが口をぬぐっていることがある。放射線の影響だ。「調査団報告―広島と長崎」を読んでいる、いや何より優れた物理科学者のコンプトンがそのことを知らぬはずはあるまい。原爆の非人道性はその破壊の『量や数』にあるのではなく、その破壊の『質』にある。コンプトンが知らぬ筈はあるまい。ここでも真実は語っていることにあるのではなく、語っていないことにあるようだ。)


6月18日ホワイトハウスでの損害予測

 日本は、原爆以前に敗北を喫していたか?戦争の運命がすでに日本を見離していたという意味においては、間違いなく答えは“イエス”だ。日本が依然絶望的な戦いをしており、戦争を継続をしようとしていたと信ずべき全ての理由がある、という意味においては、“ノー”だ。そしてこの答えが、唯一実際的な意義をもつ。

 マッカーサー将軍のスタッフは約5万人の損害があると予測していた。そして何度か、11月1日の九州上陸作戦で、九州の海岸で発生するであろう日本軍の損害を予測しようと試みた。そしてその結果、日本本土を制圧するまでに、はるかに大きな損害が発生すると予測するにいたった。日本人が本土防衛するにあたって、硫黄島や沖縄におけるよりもはるかに大きい狂信性を発揮すると考えるあらゆる理由があったのだ。日本の究極の状況が全く「望みがない」(hopeless)と判明すれば、直ちにこの日本人との戦いが終わるという見解は、この血なまぐさい戦いを生き残るであろうアメリカ人兵士からは決して賛同をみないだろう。今現在振り返って、「おい、日本はもう負けていたんだぜ」といえる人が見ている時点から、その後も恐ろしい戦いが続いた信ずべきあらゆる理由がある。

これは、仮定に仮定を重ねる話だから、何ともいえない。そう信ずる人はそう信ずるし、そう信じない人はそう信じない。信念をぶつけ合うだけの不毛の「水掛け論」だ。コンプトンが実はこの「水掛け論」に持ち込もうとしていることだけはよく分かる。
 ただ45年6月18日のホワイトハウス会議では次のように数字をあげて予測していた。

 なお、ここで『損害』といっているのは、もとの言葉は“casualty”で、死者、行方不明者、捕虜、負傷者をすべて含んでいる。負傷者は戦闘に参加できない程度の負傷と意味だろうと思う。

戦闘 米軍と日本軍の損害比
アメリカ軍の損害対日本軍の損害
(ただし負傷者は含まず。従って正確な比較ではない)

レイテ 1万7000人対7万8000人 1:4.6
ルソン 3万1000人対15万6000人 1:5.0
硫黄島 2万人対2万5000人 1:1.25
沖縄 3万4000人(陸軍) 8万1000人 1:2
7700人(海軍)(統計未整備)
ノルマンディー上陸作戦 最初の30日間 4万2000人

 1944年3月1日から1945年3月1日の間のマッカーサー将軍の作戦では、1万3742人の米軍の死者に対して日本軍の死者は31万165人で比率は1:22だった。

 九州における作戦では、最初の30日の間の犠牲は、ルソンにおける犠牲を上回るものではないと信ずべき理由がある。(マーシャルの発言)

 もしマーシャル説を採るなら、九州作戦の最初の30日間の損害は3万人程度ということになる。しかしこれは仮定の数字であまり大きな意味を置くべきではない。同様に100万人説にも大きな意味はない。本来大きな意味を置くべき出ない数字に大きな意味を置こうとするから、無理な論理立てになる。しかしもともと「水掛け論」に持ち込むのが目的だったとするなら別な意味で大きな意味が生ずる。)

 私はマッカーサー将軍が、占領の1ヶ月に、もし日本政府が国民への統制力を失ったら何百万人もの旧日本軍兵士が山岳地帯に立てこもって戦いを続け、事態を収めるのに100万人の兵力と10年の時間が必要だろう、と語ったのを聞いた。

これも今読めば、仮定に仮定を重ねる話だから、何とも論評しようがない。事実は旧日本軍の兵士も日本人も羊のように温和しかった、というだけだ。ここで記憶しておいていいことは、原爆投下擁護論の特徴は、仮定に仮定を重ねるという論法である。従ってこれに反論するには、当然仮定に仮定を重ねなければならない。これは必然的に「水掛け論」となる。しかし、この論法は、当時一般アメリカ人には説得力があった。)

 これは全く可能性がないことではないことは次の、私がその報告に接していなかった事実が示している。私たちは、日本が降伏を申し出てから実際に日本が降伏した9月2日までのほとんど3週間にも及ぶ長い時間のことを思い出す。これは詳細をきめるために必要な時間だった。降伏と占領のこと、日本政府に、国民に占領を受け入れる準備をなさしめることなどである。また一般には知られていないが、貧農の支持を受けた本軍のグループが政治をコントロールし戦争を継続するため革命を起こす恐れもあった。日本の国民が降伏を表明している日本の政府に従うかどうかに関して言うと、それ(革命のこと)は、すぐ実現しそうな(touch and go)数日もあった。

 
どことなく、思わせぶりな文章で、簡単に従順に日本国民が降伏方針を出した日本政府に従う雰囲気ではなかった、と匂わせたかったという他はない。実際に日本が降伏した日もわざわざ9月2日―すなわちミズーリ号の降伏調印式のあった日―にずらしている。
全体としては、デマに近い。スティムソンはむしろ、社会の最下層の労働者、貧農による社会主義革命をおそれていたのではなかったか?もちろん戦争反対勢力だ。)


『目的』と『結果』すり替える正当化論

 多くの日本人は、自分たちが戦争に負けたとは考えていなかった。実際その多くは、目の前の自分たちが受けている罰にもかかわらず、自分たちは勝利しつつあると考えていた。
 
彼らは、風船爆弾が地上を離れるのを見つめながら風に乗って東方へ流れ、われわれの空襲爆撃に対して、アメリカへの仕返しとなることに自信をもっていた。

これに風船爆弾を信じていた日本人はいないと、今反論しても意味はなかろう。この時点では、コンプトンのいいかたを真に受けたアメリカ市民は少なくなかったろうということ、トルーマン政権の「原爆投下正当化論」がこうした、ウソ、デマ、誇張で地ならしされたこと、アメリカの主要ジャーナリズムがこれに協力したこと、を確認しておけば十分だろう。グローヴズがニューヨークタイムスのウイリアム・L・ローレンス記者を使って、「アラモゴードの原爆実験場には放射能はなかった」というデマ記事を書かせたのと、全く同じ構造だ。)

 われわれは、戦争の間、日本軍に従事した一人の若い兵隊から普通の日本人の兵隊の知識と士気の状態に関する物事の本質に関するビビッドな洞察を得ることができる。

 彼は、赤ん坊時代からアメリカで暮らしていた。そして1940年にマサチューセッツ工科大学を卒業した。この若者は外見上全くアメリカ人と変わりない。卒業後しばらくして親戚を訪問するため家族と共に日本へわたった。彼らは動員令にかかり、この若者は軍隊に徴兵された。

 この若い日本人が話してくれたところによると、彼の仲間の兵士は日本が戦争に勝利しつつあることを信じていた。彼らにとって硫黄島や沖縄の敗北は、アメリカ軍を本土段々たぐり寄せる全体戦略の一部なのであって、やがて突然急襲され、完全に殺戮される、と信じていた。この若い日本人自体、いろいろな報道の論理的整合性の結果、こうした信念に幾ばくかの疑いを抱いていた。また彼はフォードの生み立て製造ラインを見たことがあって、日本はアメリカの軍事生産力にかなわないと思っていた。しかし、彼の同僚はだれも真の状況を薄々気づいてすらいなかった。そしてある晩、10時30分頃、連隊全員の招集がかけられ、降伏宣言の朗読を聞いたのだった。

 原子爆弾は戦争の終結をもたらしたのか?もしそうなら、スティムソン氏やマーシャル将軍、その他の仲間たちの計算した賭けは勝ち目に出たことになるし、希望は実現したことになる。

非常に巧妙な言い回しである。スティムソンやマーシャルに、原爆が投下された時、戦争の終結を希望しなかったと聞けば、希望したとこたえることだろう。しかし日本に対する原爆の使用は、政治判断・政治決断であり、目的は「スターリンを震えあがらせ、彼を原爆開発の方向に追いやり、冷戦という準戦時体制を作り出すことによって核兵器開発のための連邦予算を、それまで同様ほとんどノーチェックで引き出す」ことだった。ここでの言い回しは、一部の真実を使って事実でないことを事実であるかのように思わせる、ことに使われている。読んだ人間は、原爆投下は対日戦争終結のために使われたと頭にすり込まれることになる。これが1点。

第2点が、ここでは第1点よりはるかに重要なのだが、この文章にはあからさまな論点のすり替えが含まれているという点だ。言い回しで論点のすり替えがぼかされている。

 『原子爆弾は戦争の終結をもたらしたのか?』は物事の結果を問うている。ところが『スティムソン氏やマーシャル将軍の・・・希望は実現』は物事の目的を問題にしている。結果を問うているのに目的で答えている。結果を目的とすり替えている。これも「原爆投下正当化論者」の論法の特徴である。事実は、原爆の使用は対日戦争集結を1週間か10日ほど早めた。つまり、『原子爆弾は戦争の終結をもたらしたのか?』は一部分に事実を含んでいる。これが『原子爆弾は戦争終結のために使われた』という言い方をさらに本当らしく見せかけることになった。)


戦略調査団報告を使って逆の結論

 事実はこうだ。1945年7月26日、ポツダム宣言が無条件降伏を宣告した。7月29日、鈴木(貫太郎)首相は内閣記者会見で、公式な降伏最後通告を価値のないものと嘲って、なおかつ日本は航空機生産に力点を置くとしたことを事実上の内容とした声明を発表した。その8日後の8月6日広島に最初の原爆が投下され、2番目の原爆が8月9日に長崎に落とされた。その翌日8月10日に日本は降伏の意志を表明した。そして8月14日にポツダム宣言を受け入れた。

ここでも、巧妙だ。事実を並べつつ、もっとも肝心な8月8日から9日にかけての『ソ連参戦』の事実をすっぽり落としている。トルーマン政権が、日本が降伏する決め手はソ連対日参戦だ、と考えていたことは今日誰でも知っている。ポツダム会談時のトルーマン日記を持ち出さなくても、また6月18日の「ホワイトハウス議事録」を持ち出さなくても構わないだろう。また事実、8月9日から10日未明にかけての『御前会議』でも、無条件降伏かそれとも国体護持を条件とした降伏かをめぐって延々小田原評定を続けていた。そのさなかに長崎原爆投下の報が入る。そしてソ連参戦でもはや、これまでとした昭和天皇が、「国体護持」を条件としてのポツダム宣言受け入れを表明し、会議を終わる。日本降伏の決め手になったのは、ソ連の対日参戦だ。コンプトンがこの見通しを知らなかった筈はあるまい。事実はこうだといいながら、肝心要の事実をすっぽり落としている。ここでも、真実は語っていることの中にはなく、語っていないことの中にある。)

 こうした事実に基づいて、私は原爆なしに、極めて多大な損害を伴う戦いや血の海を伴わないで、戦争が終結したと信じることはできない。

 まさしく原爆の果たした役割は、推測のためのある一定の視界を許容するだろう。(原爆の果たし役割を考えると、ある一定の推測が可能になる。という意味)

 ある調査は、原爆が投下された2つの都市から離れるに従って、一般の人々に原爆の影響が直接及ばなかったことを示している。(ここは原爆が人々の心理面に与えた影響のことを言っている)

 彼らは(広島・長崎から離れた地域にいる人)は、原爆のことを知らなかったか、あるいはほとんど知らなかった。
 さらに壊滅的な通常兵器による爆撃のあった東京やその他の都市ですら、人々を降伏への雰囲気へと導かなかったのだ。

はてさて、何をいいたいのか?
1. 原爆から遠ざかるに従って、心理面での原爆の影響は小さくなっていったとする調査がある。(これは明らかに「調査報告―広島と長崎―」だ。)
2. 広島や長崎以外のひとは、原爆のことをほとんど知らなかった。
3. 原爆より酷い壊滅的な被害を受けた東京ですら、降伏の雰囲気はなかった。
4. 広島や長崎の人は、戦闘意欲に関して原爆で大きなダメージを受けた。
5. だから原爆が心理面でも決定的な影響を与えた。

と、こういうことだろう。これは明らかに「戦略爆撃調査報告―広島と長崎、原爆の効果―の調査結果を下敷きにしている。しかしこの引用はどこかおかしいなぁ。なんか変だなぁ。

 同調査「U.原爆投下の効果」「B.全体的効果」「2.士気」の記述の中に次のような
調査結果が報告されている。
 広島・長崎に原爆が投下される前:
日本の勝利に対する疑いを持っていた人は
広島・長崎で59%
その他の都市部で74%

日本の勝利は不可能だと明確に感じていた人は
広島・長崎で31%
その他の都市部で47%

これ以上の戦争の継続は不可能と感じていた人は
広島・長崎で12%
その他の都市部で34%

これ以上戦争についていけないと感じたことがないという人は
日本人全体で約28%
広島・長崎で約39% 』

 「こうした数字は原爆が落とされた市に住む人たちの方が、日本全体の人より抗戦しようという気持ちが強かったことを明らかに示している。」とこの報告は分析し、それは広島・長崎がそれまでほとんど空襲の大きな被害に遭わなかったからだと、結論している。

 次に原爆投下はどう変わったかというと。

『 広島と長崎に住む人々が敗北は不可避的だと考えるに至った決定的影響は原爆(投下)から受けたという点は疑いようがない。このほかに28%の人が原爆投下後、日本の勝利は不可能だと確信するに至ったと述べている。ほぼ1/4の人が原爆投下によって、個人的にも(戦争)継続は不可能だと感ずるに至ったと認めている。40%の人が原爆投下で様々な程度で「敗北主義」を誘発されたと証言している。極めて特徴的なことは、長崎より廃墟の範囲が大きくまた人的損害も大きかった広島の方が敗北に対する確信が顕著だったということだ。 』

 つまり、原爆を含めて空襲で痛めつけられた地域ほど、戦争勝利に対する疑い、厭戦気分が大きかった、という調査結果に過ぎない。それは当たり前だろう。どこから来るのか知らないが、連日飛行機がやってきて、爆弾を雨あられのごとく降り注がれて、これで戦争に勝っている、と思う人は一部の神懸かりの人以外にはいなかったろうし、もうこんな戦争早く終わって欲しい、と思うのはむしろ健全な市民良識ではないか。

 この調査は、「 だから、原爆が日本人全体に与えた心理的影響は、通常空襲に比べて大きかったとはいえない。」と結論している。

 ところで、コンプトンはこの同じ調査結果を使って、しかも原爆投下後だけの調査結果を使って全く逆の「原爆が日本人に心理面で決定的なダメージ」を与えたことを印象づけている。もうデマというしかない。しかしアメリカ市民は信じたろう。反論する予備知識をまったく与えられていないのだから。
 
しかし、コンプトンは科学者じゃないな。科学者なら、いかに原爆投下を正当化しようとも、データをこんな扱い方、しない。もっと事実に謙虚だ。この時点でコンプトンは『科学者風政治屋』に堕してしまっている。「曲学阿世の徒」だ。あ、曲学阿世は南原繁か。あの甲高い声の、大久保利通の義理の孫は本当に厭な男だった。「臣茂」だって。ああ、嫌だ、嫌だ、桑原、桑原。もうコンプトンにつきあうのも疲れた。もう少しだ。がんばろう。)


再びソ連参戦問題には触れないコンプトン

 証拠は次の組み合わせ要素を指し示している。

(1) 日本の士官の知的で物わかりの良いサークルの一定の部分は、負けると分かっている戦いを戦い続け、もし戦争を継続するなら(日本の)完全な破壊をもたらすということを理解していた。しかしこの要素は、戦時利得者たる産業人、貧困農民層、無知な一般大衆にバックアップされた圧倒的な日本軍部機構を揺るがすには力が足りなかった。
(2) 原爆はこの状況に新しい劇的な要素をもたらした。すなわち平和を追求する勢力の力を増し、戦争継続を主導する勢力に「メンツを救う」(face-saving)議論を提供することになった。
(3) 2つめの原爆が投下された時、原爆は決して単独の兵器ではないこと、すなわち続いて投下されるかもしれないことが明らかになった。こうした恐ろしい兵器が雨あられと降り注ぎ、これを防ぐ手だてはないことに恐怖して、降伏に関する議論は確信に変わった。これが、戦争を突然終結せしめた、原爆の効果に関する真の姿であり、日本に無条件降伏をもらしたのだと私は信ずる。

(1)から。ここでコンプトンが狙っているのは、圧倒的大衆が戦争継続を望む軍部を支持していたことを、アメリカの一般大衆に印象づけることだ。実際は、日本人の多くは戦争に嫌気がさしていたし。事実占領政策に対して羊のように温和しかった。

次(2)。「メンツを救う」(face-saving) は『調査団報告―広島と長崎―』の言い方を借りている。ただ、『報告』では、原爆が戦争終結に与えた影響は小さい、精々軍部の“メンツ(face)”を救った程度だ、としてコンプトンとほぼ逆の結論を引き出している。該当箇所を引用しておこう。

 『原爆そのものは軍部をして、本土防衛は不可能と悟らせることは出来なかった。しかしながら、政府をして「武器のない軍隊がどうやって武器を持っている敵に抵抗できるんだ」と言わしめることはできた。このようにして原爆はいわば軍部指導者のメンツ(“face”)を救ったのである。』

(3)ここでもコンプトンはソ連参戦に慎重に触れていない。これが戦争を「突然終結」せしめた決定的要因だからだ。ここでコンプトンは「無条件降伏」といっているが、実は厳密にいって「無条件降伏」ではなかった。8月10日の日本政府ポツダム宣言受け入れ声明の中に、『国体護持―天皇制存続―の了解の元に』ポツダム宣言を受け入れる、という文言が見える。これもおかしな話で、ポツダム宣言は明確に「無条件降伏」を謳い、これ以外のいかなる条件も受け入れられない、といっている。無条件降伏を唯一絶対の条件とするポツダム宣言を『国体護持の了解の元に』受け入れるというわけだから、矛盾に満ちている。

 案の定、この通告をめぐってトルーマン政権内部はちょっともめた。回答文書に「天皇制維持」を認めるとは書けなかったからだ。私は、これがスエーデン政府を通じて口頭で伝えられたと考えているが、証拠はない。

 ここのやりとりを窺わせる記述がスティムソン日記45年8月10日の記述に見える。


暗黙の了解付き条件降伏だった

『日本が降伏を申し込んできたというのだ。さらに云えば、日本はそのことを極めて明確に声明している。取りあえず休暇は吹っ飛んだ。私は自分の書斎へ駆け込んだ。8時半だった。

 そこでメッセージを読んだ。日本は大統領によるポツダム宣言の条項を受け容れていた。またその声明は、統治総覧者としての陛下(日本の天皇)の大典を窺わせるような思いこみを全く含んでいなかった。これが私が面倒だなと思っていた唯一の点だったことを考えると奇妙だった。(実はあった。)
  
 ポツダム宣言の条件を書いた原稿が私の執務室にあったが、そこでは明確に、一定の条件の下での天皇制の継続を謳っている。

 大統領とバーンズがその文言を削除(struck that out)したのだ。
2人とも頑迷ではないが、この案件は停戦の後、必要なら秘密の交渉で調整ができると考えたのだろう。・・・

 陸軍省に到着するとすぐに、ホワイトハウスのマシュー・コナリー(トルーマンの面会予約担当官)に電話をし、自分が執務室にいて動かないこと、大統領に用事があればいつでも出かける準備があることを伝えた。

10分も経たないうちに、電話があり大統領がすぐに会いたいということだった。

すぐに急いでホワイトハウスに出かけ、会議に参加した。
大統領、バーンズ、フォレスタル(海軍省長官)、レーヒー大将、そして大統領の副官がいた。

フォレスタルの日記によると、この時現場にいた大統領の副官は、復員局長のジョン・シュナイダー、海軍問題担当補佐官ジェームズ・バーダマン大佐、軍事問題担当補佐官ハリー・ボーン将軍だったという)

バーンズは、過去ルーズベルトとトルーマンから出した公式声明の観点から見て(無条件降伏を要求してきた)、日本からの降伏提案を受け容れるべきかどうかを判定するのに苦慮していた。

もちろん過去三年間の戦争は、苦渋に満ちたものだったし、当然天皇に対する厳しい声明も出して来た。今そうした声明がわれわれに伝染している。

レーヒー大将が、いい意味で大局観をもっており(a good plain horse-sense)、天皇問題は、今われわれが手中に収めかけている勝利を遅らせる問題に較べれば、比較的小さな問題だ、といった。

毎日新聞社の昭和史全記録の8月9日の項を見ると、次のように書かれている。「午前に開かれた最高戦争指導会議とこれに引き続いて同日午後2回にわたって開かれた臨時閣議に置いて、帝国戦力の徹底的測定と、諸般の国際情勢に関する検討が行われたのをきっかけとして、大東亜戦争終結の方式は急速なる進捗を見せ、同夜半畏くも天皇陛下親臨の下、最高戦争指導会議が開かれ、帝国の基本方針ここに決定。帝国政府は、これを中立国を通じて米英支蘇の四箇国に通達したのである。このポツダム宣言に対する帝国政府の通告文の要旨は、日本政府はポツダム宣言が陛下の国家統治の大権を変更するがごとき如何なる要求をも含まざるものとの諒解の下に同宣言を受諾する用意ある、旨のものだった。」)

大統領は私に意見を求めた。私は云った。

もし仮に日本からこの問題の提起がなくても、依拠すべき権威を失って、各方面に散らばる日本軍を降伏にもっていくために、われわれの指揮と監督の下に、独自にこの問題を継続すべきだ。硫黄島、沖縄、中国全土、ニューネザーランド諸島で起こったような血なまぐさい闘いを避けるために天皇を使おう、というのが私の意見だ。

日本の国家理論からして、天皇は日本における唯一の権威だ。

そして私は、この問題の解決を巡って行われる休戦は恐らく不可避だろう、それは人道問題でもある、休戦の間は日本に対する空襲は停止すべきだろうし、それは問題解決にも影響を与えるだろう、日本に対する空襲は直ちに停止すべきだ、と進言した。

私の最後の進言(直ちに空襲を停止すべきだ)は却下された。

それは日本の降伏がまだ公式なものではないから、即座に停止はできない、という意味に置いてである。われわれは、日本からの公式降伏声明は受け取っていない、われわれの情報はあくまで傍受したものである。

われわれに関して云えば、確かに戦争は続いている。確かにこれは正論である。しかし狭い考え方だ。(narrow reason) 日本はすでに無線で世界のすべての国に降伏を伝えている。・・・

  私は陸軍省に車で戻り、私がホワイトハウスにいた間に海外から戻ったばかりのマクロイとマーシャル将軍、バンディ、ロベット、ハリソンとの会談に入った。(マクロイはヨーロッパの視察に行っていた。)後でバン・スリックを呼び入れた。・・・

私は、ロシアが日本本土に侵攻する前に、われわれの手を日本本土に延ばして、日本占領に関するロシアの要求を抑え、日本統治を行う支援を行うことが、すべてにもまして最も重要なことだと思う。

こうした議論の後、私はバーンズに電話をして、この問題について議論した。

バーンズの云うところでは、日本に対する回答の原稿を作ったので、私に見て欲しいとのことだ。国務省にカイル(大佐。スティムソンの副官)を取りにやって、手に入れた。

一定の譲歩はあるものの、原稿の内容は、マクロイの考えより、私の考えに近い。マクロイに見せたら最終的には彼の見解からしても賛同できると云うことだった。私はこれは極めて賢明で注意深い声明だと思った。

外向け言っていることよりはるかに受け容れやすい内容だと思う。天皇の行動は、ただ一人の連合国司令官によって、統括される、ここの司令官は単数形が使われており、今ポーランドで起こっているような複数の合意を排除している。(日本に対して責任を持つのはただ一国、すなわちアメリカである。)
 
バーンズは、総司令官には誰がいいだろうかと尋ねたので、私はマッカーサーだろうと答えた。

 15分か20分後、この政権にしては珍しいことだが、別室で協議していた、大統領とバーンズが入ってきて、内閣の全員に向かって、アメリカは日本からの第三国、すなわちスエーデン経由で送られてきた公式通告を受け容れる、と発表した。

バーンズは日本への回答を準備しており、その中でこの受諾は、アメリカ、イギリス、中国、そして恐らくはソ連によってもなされる、この4国はお互いに意思疎通している、としていた。その回答文書は、バーンズが私に電話で読み上げたそのままであり、私が承認した内容であった。

   今日は本当に大変な1日だった。 』
 長い引用で申し訳なかったが、スティムソンは「天皇制存続」が日本側の、最後の唯一の問題だと見抜いていた。だから、日本側が受け入れやすい回答文書を作成し、「天皇制存続」の約束を、口頭でスエーデン政府を通じて日本政府に伝え、これが「対日戦争終結」の決定打になったのだと思う。どちらにせよ、コンプトンがいう2個の原爆で戦争が終わった、という話はない、コンプトンだって信じてはいなかったろう。)


核保有論者の理屈をもって締めくくる

 もし原爆を使用していなかったら、実際的確実さの観点から私がこれまで述べてきた諸点が証拠として示すように、莫大な規模での破壊と死がさらに何ヶ月も続いていたであろう。また早いタイミングでの原爆の使用は、思いがけなかった理由により幸運だったと言わねばならない。もし予定通り1945年10月に進められていたとしたら、沖縄は航空機で埋め尽くされ、その諸港は攻撃を待ちかまえる上陸用艦艇で埋め尽くされていたろう。

 その同じ月に沖縄を襲った台風(枕崎台風のこと)は、日本への侵攻計画を根こそぎにし、パール・ハーバーに匹敵する軍事災害を起こしていたであろう。

これは同感である。この時戦争が終わっていて良かった。アメリカの市民にも日本の市民にも。ただ、『原爆投下正当化論』に枕崎台風まで動員するとは恐れ入る。)

 ここに、この問題をよく知る人たち、またそれらに基づいて原爆投下の基本的決断を下した人たちを導くいくつかの事実がある。非人道的であるとして、あるいは「日本はすでに敗れていたのだから、その使用は不必要だった」と遺憾を表明する根拠が、いかに「後の祭り戦略家」(after-the-event strategists)の中にある誤った信念や希望的観測であるかを感じさせる事実でもある。
 日本に降伏をもたらしたのは、1個の原爆ではない。2個の原爆でもない。それは原爆が実際に、その地域社会にそのように働くかを知った経験であり、その上、後にそれが続々つづくことへの恐怖である。このことが効果的だったのである。

事実を提示すると言いながら、また仮定・推測の結論を提示していますよ、コンプトン君。仮定に仮定を重ね、そこで得られた結論を使ってまた仮定を重ねる議論には、手の施しようがない。こうした議論にはかならず裏の目的がある。広島で原爆にあった無名のおばあさんの言葉。「ピカは山崩れたぁ違う。人が落とさにゃ、落ちてこん。」そして人が落とすにはかならず『理由』がある。)

 もし500機の爆撃機が、東京の破壊の様な損害をもたらすとしよう、そしてこの爆撃機が1機1機、1個1個の原爆を搭載していたら、「明日の都市」(the City of Tomorrow)に対してどのような作用をもたらすであろうか?
 
 このような絶望的な見地は、必然的にこの話題に関して2つの政策の採用をわれわれの国家に強いてくる。

(1) われわれは、国家間における未来の平和を確実なものとする国際連合の努力を全面的に、そしてあらゆる能力を動員して、推進しようと奮起しなければならない。しかし、われわれの国家防衛の手段としての原爆を軽々しく放棄すべきではない。
(2) われわれが完全な自信をもって平和を構築する国際的な計画を採用できた時のみ、われわれは原爆を放棄するかあるいは(他の諸国と)共有すべきである。

これがコンプトンの論文の結論である。立論が逆立ちしていることは今は措いておこう。最後は核兵器保有論者・核兵器抑止論者の理屈をもってコンプトンがこの記事を締めくくったことだけを確認すれば十分だろう。
 
 このコンプトンの政策に対して、45年9月11日づけで大統領トルーマンに提出したスティムソンの政策をもって対抗しよう。
『・・・軍事兵器としての核爆弾のこれ以上の改善、製造を中止することを意味し、同様な措置をロシア、イギリスにも求めて同意させる事を意味します。

  また現在われわれが保有する原爆を進んで封印し、ロシアとイギリスがわれわれと共に、3国間の同意がなければ、戦争の手段として原爆を使用しないという合意をすることになります。・・・

  世界の歴史の中で、極めて重要な一歩を達成する最も現実的な手段がこの方法だと、私は主張するものです。』
 


(解説・補足説明・感想無しへ)