(原文:http://www.doug-long.com/stimson8.htm)
(スティムソン日記の註)

1945年7月24日
再び京都不投下に念押し



 9時20分に、リトル・ホワイトハウスへ行き、すぐに大統領執務室に通された。
彼は一人でデスクに向かっていた。そしてすぐに昨日の出来事(3巨頭会談)について話した。
非常に満足そうに見えた。私は昨日のマーシャルとの会談について彼に話し、またソ連は参戦しなくても良い、とマーシャルが内心思っているだろうことを話した。
また私はアメリカ代表団が帰国するとスターリンに告げようと云うマーシャルの進言についても語った。―中略―


 私はそれから昨晩私に届いたハリソンからの電報を示して、作戦(日本への原爆投下)に関して日程が分かったといった。
彼は、それこそ待ち望んでいたことだ、といった。
非常に上機嫌となり、それは彼が行う警告にとって、決定的一突きを与えることになる。彼はちょうど中国の蒋介石に警告を送った所だと云った。―中略―


 それから私は、日本の天皇制維持について再保証しておくことの重要性について話をした。
公式の警告(ポツダム宣言中の降伏勧告条項のこと)にそのことを挿入しておく事は重要だと私は感じており、言葉として表現しておかないと、(日本のポツダム宣言受諾を)損なうかも知れないとも感じている。しかし私がバーンズから聞いたところでは、その文言は挿入されないと云うことだ。
しかし今やそのような変更は、蒋介石に送るわけにはいかないだろう。大統領が第三国の外交チャネルを通じて、口頭でもいいからその旨を伝えて、再保証することが望ましいと思う。彼は心にとめておいて、何とかしようと云った。
(スティムソン日記はタイプで書かれているが、この日付の所では手書きで、スティムソンのノートが書かれており、そのノートには「H・T―ハリー・トルーマンのことーに警告で天皇の事の重要性を云う。バーンズが削除してしまった。」と書いている。
 日本の降伏を促進するため、スティムソンが作成したポツダム宣言の関連条項には、もともと次のように記述してあった。
 「もしそのような政府が世界征服をめざさないと世界が完全に同意するような形で示すことができるなら、現在の体制の下での立憲君主制を含むかも知れない。」
 この項目はトルーマンとバーンズ国務長官が削除して日本へ送った。)

 S−1計画に関して2−3言、言葉を交わした。
そして再度私は彼に、提案されている投下目標のうちの一つ(京都のことである)を除くべき理由を説明した。彼は、非常に勢いよく、繰り返し繰り返し彼が正しいと信じている信念について私に語って聞かせた。また特に私の進言については、力強く同意した。
もし京都を投下目標から除外しなければ、そういうむちゃくちゃな行為(such a wanton act)は必ず辛き目に遭うだろう、戦争が終わっても長い間、われわれは日本と和解が困難になるだろう、あるいはロシアとの和解よりも難しいかも知れない。
私が指摘したのは、これはわれわれに必要な政策を妨げるかも知れない、つまり満州でロシアが攻撃したときに、日本をアメリカに対して同情的にするという政策である。


(スティムソンはポツダム会談で、完全に排除されていた。
原爆の投下予定が決められたとき、スティムソンは無力感を感じていた。
そしてポツダム会談が終わった。7月24日付けの彼の妻への手紙はそうしたスティムソンの限られた役割に関する気持ちを要約している。
 「大統領は、親切で受容的だが、型にはまっている。何の困難モもなく、私は毎朝大統領に会って、私がもたらす原爆に関する情報を喜んでいるが、この時によくあったような、興奮はもうこの種の会議では起こらない。私はもうことの成り行きに直接の責任はない。」
 7月25日、スティムソンはポツダムを離れた。)