(原文:http://www.doug-long.com/stimson9.htm)
(スティムソン日記の註)

1945年8月10日
日本降伏の第一報と天皇問題



 今日は最も重要な日だった。すべて荷造りを終わって、空港へ向かう車は待っていた。
バケーションに出かける予定だった。その時陸軍省からマッカーシー大佐(マーシャル参謀総長の副官の一人)の言葉が飛び込んできた。
日本が降伏を申し込んできたというのだ。さらに云えば、日本はそのことを極めて明確に声明している。取りあえず休暇は吹っ飛んだ。私は自分の書斎へ駆け込んだ。8時半だった。
そこでメッセージを読んだ。日本は大統領によるポツダム宣言の条項を受け容れていた。またその声明は、統治総覧者としての陛下(日本の天皇)の大典を窺わせるような思いこみを全く含んでいなかった。これが私が面倒だなと思っていた唯一の点だったことを考えると奇妙だった。
ポツダム宣言の条件を書いた原稿が私の執務室にあったが、そこでは明確に、一定の条件の下での天皇制の継続を謳っている。
大統領とバーンズがその文言を削除(struck that out)したのだ。
2人とも頑迷ではないが、この案件は停戦の後、必要なら秘密の交渉で調整ができると考えたのだろう。この国には、主としてギルバートとサリバンの「ミカド」以上の知識を持たない連中から、規格化した天皇に対する扇動的言辞が長い間存在している。
 (W・S・ギルバート卿は劇作家で作詞者。アーサー・サリバン卿は作曲家。
2人はコンビでビクトリア王朝時代を代表するオペレッタを作った。
オペレッタ「ミカド」は、「ミカド、またはティティプの町」を正式題名とする。
1885年ロンドンのサボイ劇場が初演である。
サボイ劇場だけで672回も公演するほど人気を博した。
イギリスの万国産業博覧会での日本館の展示を見て思いついたと云われている。
確かに登場人物は日本のミカドであり、日本のことを題材にしたオペレッタのように見えるが、実際風刺の対象としたのは、ビクトリア時代のイギリスそのものだった。
従って対象とされている日本や天皇そのものは、荒唐無稽である。
ただし、テーマ曲のひとつ「宮さん」は実際のメロディが使われている。
 ギルバートとサリバンについては以下のURL:http://en.wikipedia.org/wiki/Gilbert_and_Sullivan
 ミカドについては次のURL:http://en.wikipedia.org/wiki/The_Mikado )


 非常に奇妙なことだが、国務省の影響力のある人々の中にも、こうした扇動的言辞が、心の奥深く埋め込まれていることを、今日私は気がついた。
ハリー・ホプキンス(ルーズベルト大統領とトルーマン大統領の特別顧問)は、非常に有能でいいセンスの持ち主だが、対天皇強硬派の一人だ。
アーチボルト・マクライシュ(広報文化担当の国務長官補佐官)、ディーン・アチソン(当時議会担当の国務長官補佐官。この後国務次官となり、1949年バーンズの後、国務長官に就任している。トルーマンよりトルーマン・ドクトリンに、マーシャルよりマーシャル・プランに、責任ある人物としても有名である)も、同様な考え方の持ち主だ。この三人は、対天皇強硬派としては突出している。


 陸軍省に到着するとすぐに、ホワイトハウスのマシュー・コナリー(トルーマンの面会予約担当官)に電話をし、自分が執務室にいて動かないこと、大統領に用事があればいつでも出かける準備があることを伝えた。
10分も経たないうちに、電話があり大統領がすぐに会いたいということだった。
すぐに急いでホワイトハウスに出かけ、会議に参加した。
大統領、バーンズ、フォレスタル(海軍省長官)、レーヒー大将、そして大統領の副官がいた。
 (フォレスタルの日記によると、この時現場にいた大統領の副官は、復員局長のジョン・シュナイダー、海軍問題担当補佐官ジェームズ・バーダマン大佐、軍事問題担当補佐官ハリー・ボーン将軍だったという)
 バーンズは、過去ルーズベルトとトルーマンから出した公式声明の観点から見て(無条件降伏を要求してきた)、日本からの降伏提案を受け容れるべきかどうかを判定するのに苦慮していた。
もちろん過去三年間の戦争は、苦渋に満ちたものだったし、当然天皇に対する厳しい声明も出して来た。今そうした声明がわれわれに伝染している。
レーヒー大将が、いい意味で大局観をもっており(a good plain horse-sense)、天皇問題は、今われわれが手中に収めかけている勝利を遅らせる問題に較べれば、比較的小さな問題だ、といった。
(毎日新聞社の昭和史全記録の8月9日の項を見ると、次のように書かれている。
  「午前に開かれた最高戦争指導会議とこれに引き続いて同日午後2回にわたって開かれた臨時閣議に置いて、帝国戦力の徹底的測定と、諸般の国際情勢に関する検討が行われたのをきっかけとして、大東亜戦争終結の方式は急速なる進捗を見せ、同夜半畏くも天皇陛下親臨の下、最高戦争指導会議が開かれ、帝国の基本方針ここに決定。帝国政府は、これを中立国を通じて米英支蘇の四箇国に通達したのである。このポツダム宣言に対する帝国政府の通告文の要旨は、日本政府はポツダム宣言が陛下の国家統治の大権を変更するがごとき如何なる要求をも含まざるものとの諒解の下に同宣言を受諾する用意ある、旨のものだった。」)



 大統領は私に意見を求めた。私は云った。
もし仮に日本からこの問題の提起がなくても、依拠すべき権威を失って、各方面に散らばる日本軍を降伏にもっていくために、われわれの指揮と監督の下に、独自にこの問題を継続すべきだ。硫黄島、沖縄、中国全土、ニューネザーランド諸島で起こったような血なまぐさい闘いを避けるために天皇を使おう、というのが私の意見だ。
日本の国家理論からして、天皇は日本における唯一の権威だ。
そして私は、この問題の解決を巡って行われる休戦は恐らく不可避だろう、それは人道問題でもある、休戦の間は日本に対する空襲は停止すべきだろうし、それは問題解決にも影響を与えるだろう、日本に対する空襲は直ちに停止すべきだ、と進言した。
私の最後の進言(直ちに空襲を停止すべきだ)は却下された。
それは日本の降伏がまだ公式なものではないから、即座に停止はできない、という意味に置いてである。われわれは、日本からの公式降伏声明は受け取っていない、われわれの情報はあくまで傍受したものである。
われわれに関して云えば、確かに戦争は続いている。確かにこれは正論である。しかし狭い考え方だ。(narrow reason) 日本はすでに無線で世界のすべての国に降伏を伝えている。
相当な議論の末、会議は一旦停止とし、最終通知を待つことにした。


 会議が終わったあと別室でバーンズと書類に形式について話をした。
その時私は、マーシャルのたっての頼みについてバーンズに話した。
それは日本と降伏の条件を話をするときに、彼らの手中にあるアメリカの捕虜をどこか受け容れられる施設に集めさせて、飛行機で迎えに行きたい、という条件だった。
この時までに、このニュースは、おおやけになり、ものすごい群衆がホワイトハウスに押し寄せ、ペンシルバニア通りは人垣で遮断され通ることもできなかった。


 私は陸軍省に車で戻り、私がホワイトハウスにいた間に海外から戻ったばかりのマクロイとマーシャル将軍、バンディ、ロベット、ハリソンとの会談に入った。(マクロイはヨーロッパの視察に行っていた。)後でバン・スリックを呼び入れた。
バン・スリックは、私が大統領に示した、日本の降伏に関する知的な報告書の著者である。
またウエッカーリング将軍も呼び入れた。(参謀総長補で陸軍諜報機関G−2の長官)彼は、本来彼がそうであるべきほどこの問題に精通していない。
またG−2の事実上、対日問題担当のロバート・A・キニー氏とウィリアム・R・ブレイステッド氏も参加した。


 まず最初にバーンズの要求に従って、日本からの降伏文書の語句の検討から入った。
日本への回答も含めた。日本への回答の問題では、マクロイは私よりも幅広い考えをもっていることが分かった。
マクロイは、これを天皇問題を機会に日本に対して、言論の自由を含め、自由な政府が有するすべてのアメリカの持つ要素を日本に注ぎ込みたいという考えに興味をそそられていた。
 (ジョン・ジェイ・マクロイは、1941年から1945年の間、スティムソンの補佐官だった。
日本に対する原爆投下反対論者として知られる。1947年から49年まで世界銀行総裁を務める。
その後1953年から1960年までチェース・マンハッタン銀行の頭取を務めた。
またケネディ政権の時に大統領顧問となり、その後ジョンソン、ニクソン、カーター、レーガンの各政権で大統領顧問を務めた。http://web.worldbank.org/WBSITE/EXTERNAL/EXTABOUTUS/EXTARCHIVES/
0,,contentMDK:20504728~pagePK:36726~piPK:437378~theSitePK:29506,00.html
 に詳しい)



 私はこれは非現実的だと思う。今大事なことは、すでに満州に侵攻しているロシアが、日本本土に到達する前に、日本との降伏問題を片づけてしまうことだ。
私は、ロシアが日本本土に侵攻する前に、われわれの手を日本本土に延ばして、日本占領に関するロシアの要求を抑え、日本統治を行う支援を行うことが、すべてにもまして最も重要なことだと思う。
こうした議論の後、私はバーンズに電話をして、この問題について議論した。
バーンズの云うところでは、日本に対する回答の原稿を作ったので、私に見て欲しいとのことだ。国務省にカイル(大佐。スティムソンの副官)を取りにやって、手に入れた。
一定の譲歩はあるものの、原稿の内容は、マクロイの考えより、私の考えに近い。
マクロイに見せたら最終的には彼の見解からしても賛同できると云うことだった。
私はこれは極めて賢明で注意深い声明だと思った。
外向けに行っていることよりはるかに受け容れやすい内容だと思う。天皇の行動は、ただ一人の連合国司令官によって、統括される、ここの司令官は単数形が使われており、今ポーランドで起こっているような複数の合意を排除している。
(日本に対して責任を持つのはただ一国、すなわちアメリカである。)
 バーンズは、総司令官には誰がいいだろうかと尋ねたので、私はマッカーサーだろうと答えた。
海軍と陸軍の間で問題が起こるかも知れないが、その場合はマッカーサーとニミッツの2人司令官となる、と答えた。
 (チェスター・ミニッツ。米海軍太平洋艦隊総司令官)


 午前中の間、フォレスタル(海軍長官)が電話を寄越していた。
彼は、攻撃を直ちに中止し、話し合いの間人命を損なわない、とするという私の意見にこころから(heart and soul)賛成だ、ということを伝えたかった、といってくれた。
今ハルゼイの新たな攻撃計画が進行中で、この計画が遂行されるのを恐れる、とフォレスタルは云った。
 (ウィリアム・“ブル”「雄牛」・ハルゼイ。太平洋第三艦隊司令官。大将)


 15分か20分後、この政権にしては珍しいことだが、別室で協議していた、大統領とバーンズが入ってきて、内閣の全員に向かって、アメリカは日本からの第三国、すなわちスエーデン経由で送られてきた公式通告を受け容れる、と発表した。
バーンズは日本への回答を準備しており、その中でこの受諾は、アメリカ、イギリス、中国、そして恐らくはソ連によってもなされる、この4国はお互いに意思疎通している、としていた。その回答文書は、バーンズが私に電話で読み上げたそのままであり、私が承認した内容であった。

 今日は本当に大変な1日だった。