(原文:http://www.doug-long.com/stimson10.htm)
(スティムソン日記の註)

1945年9月21日
スティムソン最後の日
 


 (9月21日は、スティムソンの78歳の誕生日であり、陸軍長官として執務最後の日だった。)

 今日は、陸軍長官として私の最後の日だった。今日を執務の最終日として、私の辞任はすでに大統領に受理されていた。テンションが高まり、感情でいっぱいだった。私はそう感じてはいないものの、感情的にも、心臓も倒れる寸前だ。(実際翌月、10月の第3週に、スティムソンは心臓発作で倒れている)

 今日は特にスケジュールが混み合っている。大統領から最後の閣議出席を求められていることその閣議で原爆の使用問題の議論をリードして行かなくてはならなかったためだ。これはこれでとても面倒な仕事だ。

(スティムソンが驚いたことに、ペンタゴンでの昼食の時に、大きな大きな誕生日ケーキがプレゼントされた。それから、スティムソンが名付けた「トルーマン大統領からの謎の電話」を受けた。ホワイトハウスでの閣議の前に、ちょっと立ち寄ってくれ、というのだ。行ってみると、トルーマンから陸軍殊勲章(the Distinguished Service Metal)を贈られた。)

 ホワイトハウスでの閣議が、大統領執務室の後ろの部屋で始まり、私の提起した問題からスタートした。すでに大統領には9月12日に私の見解を述べた問題だ。最初の原稿を私が書き後で、マクロイが、そして多分バンディも、やや滑らかになるように手を入れてくれた。しかしその中の思想は私自身のものだ。2つ重要なポイントがある。
 (1)われわれは直ちに、適切な原爆の代償として(quid pro quo the bomb)それを共有する機会を
    求めてロシアに接近すべきである。
 (2)このロシアへの接近は直接に行われるべきであり、国際連合機構(United Nation Organization)
    やその他の機構を通じない。
 (スティムソンは、原爆を実際に保有している国からのアプローチなら、ソ連はこの問題、核兵器国際管理の問題を真剣に取り上げるだろうと、と見ていた。そしてこれは明らかにスティムソンは正しい。)

 閣議では私は完全に、手元のメモを読まないで、話をした。(spoke extemporaneously) 
 円卓式でその後討議が行われ、2−3人から、私の見解に反対というより、どちらかといえばこの秘密の提案を支持する発言があった。
 (多分閣議のメンバーは、スティムソンの最後の執務の日ということで、敬意を払ったのだと思われる。実際、海軍長官ジェームズ・フォレスタル、財務長官フレッド・ヴィンソン、農務長官クリントン・アンダーソンはスティムソンの提案に大反対だったし、他のメンバーも多分不賛成だったろう。)

 私は特に強くこの問題に関し心配をしている。と言うのは、バーンズが、ロンドンにおける連合国外相会議で、原爆を、いわゆるポケットにしまったまま交渉することを提起しており、ロシアと共有するような提言を行わないと言っていたからである。
(この閣議出席が、スティムソンの最後公務となった。
閣議が終わると妻と連れだって、ロング・アイランドのハイホールド農場へと出発した。
ヘンリー・L・スティムソンは、5年後の、1950年10月20日、83歳で亡くなった。)