(2011.12.24)
No.035

カール・ジーグラー・モーガン
(Karl Ziegler Morgan)
について


その④  広島・長崎原爆線量推計体系「T65D」 と
「ICHIBANプロジェクト」

 ネバダ核実験の開始とそのツケ

 カール・モーガンの話は、1946年のクロスロード作戦の話から、ネバダ核実験場での「ICHIBANプロジェクト」の話に移っていく。

 『
  ・・・私はこの15年余り、太平洋やネバダの核実験に参加した兵士の補償のために働いている。彼らは高い残留放射能を(体内に)浴びている。』 

  ―1951年からネバダでの核実験も始まりましたが、この実験にもかかわったのですか。』

 アメリカの大気中核実験は、1945年7月のトリニティ実験を除けば、まず南太平洋で開始された。それからネバダ砂漠で開始された。理由は簡単である。すべて南太平洋で実験をするのはコストがかかりすぎたからである。そしてこのことはアメリカの核推進勢力に新たな問題と課題を生む。

 中川保雄は「放射線被曝の歴史」の中で次のように解説している。

 『  アメリカはまた、核兵器の開発を加速させ、核戦争への実験的準備を進めるために、遠く離れたビキニよりも国内のネバダで核実験を始める準備も開始し、1951年1月7日にその最初の実験を行った。それは、核兵器開発にかかる費用を削減することを意図したものであったが、国内での核実験ということになれば、自国の国民が被曝するのは避けがたいことであった。これら一連の計画に合わせてアメリカは、核戦争政策を国民に認めさせるために、核戦争になっても微量な放射線被曝であれば何らの被害もなく、核戦争に勝利することができると宣伝しはじめた。アメリカ原子力委員会は、専門家のみならず大衆向けに、放射線の人体への影響に関する情報を大量に流しはじめた。たとえば「原子力計画における放射線障害の管理」などの冊子を広く配布して、核兵器や原子力開発の必要性とそれによる利益をしきりに強調し、それらに伴う放射線障害は問題になるほどのものではない、と宣伝した。公衆に対して許容線量を設定することはそのような核戦争勝利政策(および原子力開発政策)の展開を困難にすることが、火を見るよりも明らかであった。この時期アメリカ原子力委員会は、その導入(公衆に対する被曝線量の設定)をなんとしても阻止しなければならないと考えたのである。』(前出書p40-p41)

 1950年のICRP勧告では、公衆への被曝線量の設定はなされなかった。ICRPが公衆への被曝線量の設定を行ったのは、1958年の勧告からであった。それも年間0.5レム(5ミリシーベルト)という今日の5倍にものぼる高いものであった。
(福島原発事故後、日本の文部科学省は、緊急時と称して子どもや赤ん坊を含めて公衆の被曝線量の上限を20ミリシーベルトとしたが、そして現在も基本的にそうしているが、これがいかに政治・経済的意図をもった犯罪的な設定であるかがわかるであろう。クロスロード作戦の時のアメリカ政府やアメリカ原子力委員会の対応と基本的にはなんら変わらない)



 「ICHIBAN」プロジェクト

 さてカール・モーガンに戻ろう。質問はネバダでの最初の核実験に参加したか、というものだった。

 『
  われわれオークリッジの研究員がネバダで関わった最大の核実験は「ICHIBAN」(いちばん)プロジェクトと呼ばれるものだ。一連のこの実験で被曝線量を測定し、広島、長崎の被爆者がどれだけ放射能を浴びたかを推定する研究に取り組んだ。日本語の「ICHIBAN」と名付けたのは「この研究がもっとも重要な研究」との思いからだ。 

―いつごろですか。

  56年だった。実際に核実験場でこのプロジェクトのために線量測定を始めたのは57年からだ。その後、オークリッジ研究所内での研究も含め6、7年は続いた。

―「ICHIBAN」に取り組んだ背景は何だったのですか。

  広島、長崎の被爆者調査を続けている放射線影響研究所(RERF)、当時の原爆傷害調査委員会(ABCC)では、原爆投下から十年が過ぎて被爆者の健康調査が相当進んでいた。がんなど放射線の後障害(これは、放射線の確率的影響のこと。晩発障害という言い方をされることもある。要するに電離放射線の長期にわたる影響の結果、長い時間をかけて現れる健康障害。後障害といういいかたには幾分欺瞞的響きがある)と思える病気なども現れていたが、放射線とさまざまな病気との因果関係を知るには、どうしても被爆者一人一人の被曝線量を知る必要があった。それをつかむことで、放射線が人体にどのような影響を与えるかをできるだけ正確に知ることが狙いだった。

 ここでやっと「ICHIBAN」プロジェクトが出てきた。時は1956年頃である。原爆傷害調査委員会(ABCC)は当時、1950年以降生存していた広島・長崎の原爆被爆者の健康調査に着手していた。そして被曝生存者の健康状態と放射線被曝との因果関係を調べて、放射線被曝のリスクモデルの基礎データにしようとしていた。しかしそのためには、被爆者一人一人がどの程度の放射線を「浴びた」かを推定しなければならない。被曝線量が明確にならない限り、被曝とその健康影響の関係は明らかにならない。その推定の根拠となるデータ収集のための実験が「ICHIBAN」プロジェクトだというわけだ。


(画像クリックでPDFが開きます
引用元:http://digital.library.unt.edu/ark:/
67531/metadc13058/
   「Ichiban研究」は、当時アメリカ原子力委員会が行っていた「民間影響実験作戦」(Civil Effects Test Operation=CEX)の中の「ブレン作戦」(Operation Bren)の一部分を指す用語だったようだ。最終報告書は1964年に出ている。

(CEX-64.3 Ichiban:The Dosimetry Program for Nuclear Survivors of Hiroshima and Nagasaki 
北テキサス大学にアーカイブがあり、読める。
http://digital.library.unt.edu/ark:/67531/metadc13058/)

日本では何か秘密計画のような扱いをうけているが、研究の結果自体は秘密でも何でもなく当時この報告、「CEX-64.3 Ichiban」は商務省から1冊50セントで販売されていた。

 この報告書の表題が示しているように、研究の目的は「広島と長崎の核(原爆)生存者のための線量評価プログラム」だった。


 BREN(ブレン)作戦

   1962年1月にアメリカ原子力委員会から発行された「CEX-62.01 技術的概念-ブレン作戦(Technical Concept―Operation Bren)という文書を見てみると、この作戦は1956年に開始された広島・長崎の被爆生存者が受けた個人の被曝線量を評価するプロジェクトの継続プロジェクトで次の6つのプログラムから成り立っていた。
プログラム1 混合放射線のスペクトル(線種による分布パターン)、配分および減衰スペクトルと言っても興味の中心はガンマ線と中性子線で、日本における様々な建物-伝統的な日本家屋を含めて-がどの程度放射線遮蔽効果があったかなどの遮蔽効果を決定し、被曝線量の計算基礎を提出するプログラム。 
プログラム2 ガンマ線計測、配分とスペクトル 
プログラム3 放射線遮蔽の評価 
プログラム4 中性子線分野およびスペクトルと(土への)深度線量研究 
プログラム5 中性子線分野と誘導放射能測定 
プログラム6 電子部品に対する放射線影響
このプログラムはミサイルなどに装着されている電子部品に対する放射線(特にその電磁パルス)の影響を調べるもので、GEがこのプログラムを請け負っている。

 この目的のため、高さ1527フィート(1フィート=0.305mとして約466m)の鉄塔を建てて、その鉄塔に実験用の容器にはいっていないむき出しの高速炉をつり下げた。そして同位体コバルト60約1200キュリー(1キュリーは3.7X1010ベクレル)分を燃料として核分裂させた。そして地上や空中、あるいは建物の中、地表、地中で放出放射線を計測したのである。なお、現在ネバダ核実験場を管理するアメリカ・エネルギー省、国家核安全保障局の「ネバダ国家安全保障施設の歴史」というサイトを見るとこの鉄塔は「ブレン・タワー」(BREN Tower)と呼ばれているそうだ。(BRENはBare Reactor Effects, Nevadaの頭文字。“ネバダの裸の原子炉の影響”とでもいった意味か)
 (BREN Tower)
引用資料は画像クリックで開きます。
 

 なお、前出文書「CEX-62.01 技術的概念-ブレン作戦」の第8章「組織構成と責任分担」というチャートを見てみると、アメリカ原子力委員会(AEC)をトップにして「ブレン作戦」が直下に置かれ、その全体技術責任者は、ジョン・A・オークシャー(JOHN A. AUXIER)となっている。

 オークシャーは1962年から72年までオークリッジ国立研究所の「線量評価部門」の上級主任になっている。なお、この時カール・モーガンは保健物理部門のディレクターだったはずだが、彼の名前はどこにも出てこない。またなおモーガンは72年にオークリッジを退職するのだが、その後釜として保健物理部門のディレクターに就任するのがこのオークシャーである。

 この実験全体の計画を見てわかるように、アメリカ原子力委員会やオークリッジ国立研究所は、広島と長崎の原爆被爆者の被曝線量推定にあたって、ガンマ線や中性子線にしか興味がなく、内部被曝では決定的なファクターになるベータ線やアルファ線には全く興味がなかった。つまり内部被曝による健康損傷などは眼中になかったのである。


 2011年晩秋の「オークリッジレポート事件」


(画像クリックでPDFが開きます)
 さて話は脱線するようだが、この1972年12月にオークリッジ国立研究所は、アメリカ原子力委員会に「放射線降雨(いわゆる「黒い雨」)に被曝した原爆生存者の考察と類似母集団との比較」(“An Examination of A-Bomb Survivors Exposed to Fallout Rain and a Comparison to a Similar Control Population”)という研究論文を完成させ提出している。この論文は以前からインターネット上に掲載されていたが、誰も気がつかなかった。それを日本で最初に指摘したのは、長崎県保険医協会副会長の本田孝也である。2011年11月のことである。 

 これが「オークリッジレポート事件」だ。

 この論文は、アメリカ原子力委員会がその傘下のオークリッジ国立研究所に研究を委託して、オークリッジが提出したものだ。オークリッジ研究所内部でこの研究を担当したのはもちろんモーガンがヘッドを務める「保健物理部門」だ。面白いのは直接執筆者としてこの研究を担当したのが当時ABCCからオークリッジに出向中(on loan)だった山田広明である。2011年12月5日付けの中国新聞によれば、山田は当時ABCC広島の調査課長だったという。山田の身分や位置づけはどうあれ、オークリッジ研究所がアメリカ原子力委員からの委託要請に応えて研究報告したこの論文の筆頭執筆者になったわけだ。ちなみにこの時山田とチームを組んだのは、やはりオークリッジの研究者だったT. D. ジョーンズ(T. D. Jones)である。

 今になって読んでみるとこの論文の問題意識は極めて興味深い。この論文は、そのアブストラクトで、次のように述べている。

 『  1947年頃以来、広島・長崎の原爆生存者であって放射性降雨(いわゆる黒い雨)に遭遇しかつその人体組織の上皮凸面部に全くベータ線熱傷を見せなかったものは、恐らくは、放射性降下物(すなわち黒い雨など)から有意なレベルの放射線被曝を受けなかった、と考えられてきた。しかしながら、原爆傷害調査委員会(ABCC)の生存者プログラムで収集された証拠は、それと逆のこと(the contrary)を示唆する傾向がある。

 この論文(This paper)は、すでに入手可能な情報を検証しかつ軽い被曝の集団に関して(すなわちこれまで軽度の被曝とみなされてきた集団に対して)、これまでに反して放射性降雨の影響をさらに詳細に分析することを促進すべきなのか、はたまたそうするには及ばないのかの結論を確立することを企図した一つの試みである。』

 すなわち、前出のクロスロード作戦の時その③「やはり内部被曝を完全に理解していたカール・モーガン」を参照の事、中線量・低線量ベータ線による放射線損傷を、マンハッタン計画の医学分野で最高責任者だったスタフォード・ウォレンが頭から否定していたように、アメリカ原子力委員会やその指示で動いていたABCCは、広島・長崎の放射線損傷は「ガンマ線・中性子線だけだった」、すなわち外部被曝によるものだけだった、としてきた。

 ところがこの論文はアメリカ原子力委員会やその配下のABCC内部から、「いや本当にそうかどうかは見直してみる必要がある」といっていたことになる。

 今日では、アメリカの兵器級プルトニウム製造工場で働いた多くの核労働者の深刻な放射線障害に関する詳細なマンキューソとアリス・スチュアートの科学的研究成果(後述)が一般に知られているので、ABCC=放影研の提出した広島・長崎の原爆生存者データ(LSS)自体が科学的に見て怪しい、ということがわかっている。しかしマンキューソらの研究が纏まった形で公になるのは1980年代以降である。1972年という早い段階で、しかも身内から、いわばLSSに疑義が出される報告が出ていたことは、この報告が少なくともアメリカ原子力委員会の放射線リスク策定に何らかの影響を与えたという形跡は全くないにしろ、極めて興味深い。1972年の段階で、アメリカ原子力委員会の内部で、ということはその別働隊であるアメリカ放射線防護委員会(NCRP)やその国際版であるICRPの中に、従来モデルを見直そうという動きがあったのではないか?そしてその動きは結局潰されたのではないか?

 (脱線の、そのまた余談になるが、放影研は代表理事の大久保利晃が急遽記者会見まで開いて、この論文を「山田レポート」と呼んだり、「山田広明は事務職員であって研究者ではなかった」とか述べて、この論文の提起する重要性を否定しようと躍起になっている。お門違いもいいところである。大体この論文はABCC=放影研の論文ではなくて、オークリッジ国立研究所・保健物理部門の名前で出された論文だ。ディレクターのカール・モーガンや次のディレクターのジョン・オークシャーもちゃんと目を通している。)


 「T65D」策定のための一大ショー

 さてカール・モーガンのインタビューに戻ろう。モーガンは「ICHIBAN」の狙いを、広島・長崎の被爆者の被曝線量を正確に知ることにあった、と言っているが、内部被曝に詳しいモーガンの言葉とは到底思えない。もし本当にそういったのなら、あくまで建前論に徹したのだろう。

 『 ―実験では広島型と同じウラン爆弾も爆発させたのでしょうか。

  ウラン爆弾が実際に爆発したのは後にも先にも広島に投下された「リトル・ボーイ」だけだ。(実際に核兵器を使った)実験は全て長崎型のプルトニウム爆弾だった。このため長崎の方が被曝線量を決めやすかった。広島の場合は、同じ規模のウラン爆弾を爆発させることができず、線量決定の大きなネックになった。さらに大気圏核実験がやがて中止されたため、線量の実測という点ではハンディを負うことになった。

 大気圏内、宇宙空間及び水中における核兵器実験を禁止する条約」(Treaty Banning Nuclear Weapon Test in the Atmosphere, in outer Space and under Water―いわゆる部分核実験禁止条約)にアメリカ、ソ連、イギリスが署名・批准し発効したのは、1963年10月である。それ以降この三カ国は、大気圏内核実験は行えず、すべて地下核実験に移行していった。

 『 ―それにはどう対処したのですか。

  広島原爆の爆発高度に近い500メートルもあるタワーを建て、そこに小さな裸の原子炉を置いて作動させ、地上のさまざま地点の放射線を測定した。こうすることで、実際の核実験のデータだけでなく、原爆が爆発した時によく似た状態を再現した。
(これが「ブレン・タワーである。ICHBANは56年から始まっていたが、この実験が行われたのは62年である。大気圏内核実験禁止条約発効前である。前出の文書を見ると、出力は1kwから10kwと極めて小型だった。出力に変動があるのは変動中の放射線もそれぞれ計測したからである。写真参照の事。)


オークリッジでは特別な炉を作り、放射線量は広島や長崎よりはるかに低いとはいえ、シミュレーションもやった。

これらの調査結果を、原爆障害調査委員会
(ABCC)がファイルしている被爆者一人一人のカルテに当てはめていった。』

 モーガンの話の最中だが、私はここで使われている「カルテ」という言葉がひどく気になる。「カルテ」はもちろん語源はドイツ語だが、日本では「診療記録」と意味で使われている。英語ではそのものズバリの意味で「medical record」である。つまり診療行為にともなう記録である。ところがABCCは被曝生存者の検査や調査は行ったが、診療行為は行わなかった。つまり「カルテ」は発生しなかった。モーガンは「medical record」と云う言葉を使ったのか、たとえば単にrecord、あるいはdescriptionではなかったか。あるいはABCCや放影研では「カルテ」という言葉を使っているのかも知れない。些細なことだがひどく気になる。(今度放影研にきいてみなきゃいかんなぁ)

 『
  当時、私の研究所のスタッフが広島、長崎を訪れ、かなりの期間被曝線量の確定に関わった。こちらからは、部屋のどの位置ならどれだけの線量になるとか、建物の陰ならいくらとか、広島、長崎に常に実験結果を知らせていた。』

 この話は前述のブレン計画のプログラムの2から5の工程に相当する。

 『 ―すると広島で、例えば爆心地から1kmの家屋内で被曝した人の被曝線量は、ネバダで得たデータを当てはめたのですね。

  そうだ。「ICIBAN」で得たデータが、ABCC、放射能影響研究所(RERF)の基礎資料になっている。

―65年に広島と長崎のガンマ線と中性子線の線量を決める「T65D」(65年暫定線量)が発表されましたが、「ICHIBAN」はそれを出すための大掛かりな国家プロジェクトであったと・・・。』

 ここの質問はやや正確を欠くかも知れない。「T65D」は正確にはガンマ線と中性子線からの個々の被爆者の被曝線量を決める線量推定体系というべきだろう。「T65D」は「Tentative 65 Dose」(65年の暫定被曝)の頭文字をとったものだ。
(繰り返すようだが、この線量推定体系では内部被曝の決定的要因となるベータ線やアルファ線は直接取り扱ってはいない。ガンマ線や中性子線の放出量から、ベータ線やアルファ線の放出量の推定は可能だろう。しかし被曝量の推定をするには、食物・飲料摂取など生活・行動情報が必要となるのでアルファ線やベータ線の被曝線量の推定までは無理であろう。)


 つまりは、「ICHIBANプロジェクト」は、62年の「ブレン・タワー」計画でそのハイライトを迎える、「T65D」をもっともらしく見せるための一大ショーだった、というわけだ。


 唖然とするモーガンの大うそ

 『
  ・・・しかし、残念なことに私の同僚の一人が、放射線量を評価する際に間違いを犯した。致命的な間違いは、広島、長崎の8月の湿度を計算に入れることを忘れたことだ。数年前に線量評価を見直したのも、このことと関係している。言うまでもなく広島や長崎の湿度は、砂漠地帯の乾燥したネバダよりはるかに高いわけだ。湿度の違いは透過力の強いガンマ線の線量にはほとんど関係ないが、中性子の線量には大きく影響する。中性子は水によって阻止される。だから空気中に水分を多く含んでいれば、中性子線量は減る。(これは中性子線からの被曝線量は減る、別な言い方をすると中性子線は減衰する、という意味)初期の計算はこの点を考慮していないため、過ちを犯した。』

 ・・・・・・・・・・。本当にモーガンはこう言ったのだろうか?

 「数年前に線量評価を見直した」といっているのは明らかに、86年に確定した「DS86」という線量評価体系を指している。(DSはDosimetry Systemの頭文字。Dosimetryとは線量計測のことだから、86年の線量計測体系、という意味になる)

 つまり、65年の「T65D」という線量評価体系に誤りがあって、それを正したのが「DS86」だ、と言っているわけだ。その誤りは、一人の研究者が、夏の湿度の高い広島や長崎の気候のことを忘れて、中性子線の減衰を計算に入れず、被曝線量を導き出す線量体系を作ってしまった、というのだ。

 しかも「T65D」作成にあたって、「ICHIBAN」プロジェクトという「国家プロジェクト」(大笑いであるが)まで実施したのに、一人の研究者のミスでそれがフイになったというのだ。

 ある被曝線量をもとにしてその被爆者の障害を評価する。すると「ガンマ線をXXシーベルト浴びたから、たとえば10年経て白血病を発症した」という言い方が成り立つ。するとその事例を一般化して、「ガンマ線をXXシーベルト浴びると10年で白血病を発症する可能性が高い」という言い方が成り立つ。そうすると「ガンマ線はXXシーベルト浴びると白血病を発症するが、それ以下では科学的な証拠がない」という言い方で、被曝上限値が決まる。この被曝上限値が今日「基準値」とか「線量限度」とか呼ばれているシロモノだ。「公衆の被曝線量は年間1ミリシーベルト」という言い方も基本的にはこうして生まれる。

 ICRP(国際放射線防護委員会)の様々な勧告は、基本的に広島・長崎の50年以降の生存者の生涯調査(寿命調査=Life Span Study-LSS)をもとにしてその放射線リスク(人工電離放射線の人体への危険)が導出されてできあがった「リスクモデル」に基づいてなされている。

 もしその基礎になる線量評価体系が誤っていたら、広島・長崎の被爆者が被った放射線リスクも誤る、という構造になっている。

 モーガンは「T65D」では、ガンマ線の被曝線量は正しかったが、中性子線の減衰を計算に入れていなかったので誤りがあった、と言っている。「T65D」の推定方式に基づいて、ある人が、10ミリシーベルトの中性子線を浴びて、10年後に白血病を発症してなくなったとしよう。しかしその中性子線での被曝には誤りがあり、空気中の水分にあたってすでに減衰した中性子線に被曝して白血病になって死亡した、と訂正したとしよう。その時、減衰した後の量はもとの量の10分の1だったとしよう。そうすると白血病で死亡するリスクは、10ミリシーベルトではなく、1ミリシーベルトだった、ということになる。

 つまり「広島・長崎」の原爆生存者の被曝線量体系は「電離放射線リスクモデルの土台中の土台」だ。それに誤りがあればその上に築き上げているすべての理論が一瞬にして砂上の楼閣と化す。それをモーガンは一人の研究者の誤りで発生したというのだ。そしてICRPやアメリカ科学アカデミーやIAEAや、世界にそうそうたる科学者や放射線医科学者や核物理学者が(ついでに日本のエライ先生方も入れておくか)誰一人それに気がつかず、「T65D」を決定し、発表したというのだ。信じられない話である。

 もしモーガンがこのインタビュー通りのことを言ったとすればモーガンは大うそつきである。


(以下その⑤へ)