No.5 平成18年1月2日



 2005年の暮、ある目的があって広島平和記念資料館を訪ねた。といっても、広島市内の西区にある私の事務所から歩いて20分ほどの距離だ。もっと頻繁に訪れていいはずだが、そうもいかない。
ニューヨークに通算10年くらい住んでいて、エンパイア・ステートビルやツインタワーには仕事で行ったが、自由の女神はついに行かずじまいだった。手近にあるとそんなものだ。

 確か資料館の回りは鳩でいっぱいだった筈だが、影も形もない。連れのものに聞いて見ると、糞害でもう餌をやらないことにし、鳩が寄りつかなくなったのだそうだ。頼み込むようにして鳩にどいてもらい車を動かしたのを思い出す。いいじゃないか糞害くらい、と思ってしまう。

 入場料は大人50円。月曜日の午後だというのに結構人が入っている。外国人の人たちがざっと2−3割。詰まらなさそうに見ている女の子も居たが、うっすら涙を浮かべている外国人のひとも2−3人居る。ここの展示はやはり何度来ても衝撃的だ。以前はなかったと思うのだが、2階の展示で、原爆投下直後の、なんと言うんだろうか、実物模型展示があった。作り物だ。いただけない。どんなに精巧に作ってみても、所詮作り物だ。その一角だけがお化け屋敷のようで、逆に原爆の恐ろしさを矮小化している。

 目的というのは、資料館が原爆投下のいきさつをどう説明しているか確かめると云うことだった。2005年のノーベル平和賞の授賞式で述べられている通り、投下後60年もたっているのに核兵器使用の危機は、減ずるばかりかかえって高まっている。一つは核拡散の要素が大きいが、やはりハイパー大国アメリカが核兵器の保有と開発をやめようとしないことに根本原因がある。

 核兵器に関して云えば、アメリカの支配層とアメリカ一般民衆とは、はっきり分けて考えなければならない。何故、いかなるプロセスで日本に、そしてその結果として広島と長崎に原爆が投下されたのかを明確にし、その意志決定のプロセスを情報として人類の共有財産にすることが、核兵器使用の歯止めの一つになると思うからだ。「ノーモアヒロシマ」ではなくて、「ホワイ?ヒロシマ?」だ。

 資料館の展示は、驚くほど簡単にこの点を済ませている。この展示があるのは東館の1階、玄関から入って突き当たりの左側の小区画でささやかに知ることができる。要約すれば
1.戦争終結にあたって米軍はその被害を最小限に止めようとした。
2.すでに米ソ冷戦がはじまっており、戦後の交渉を有利にしようと米軍が原爆投下を急いだ。
3.原爆開発計画に20億ドルの費用を使っており、何らかの形で成果を見せなければ批判が高まる恐れがあった。
ということだ。そして何故広島と長崎が選定されたかという点に力点が置かれて説明してある。
(参考に平和記念資料館のURLは、http://www.pcf.city.hiroshima.jp/





 このテーマでの資料・文献はおびただしい数に上る。しかしその論点は、多くが「原爆投下は正しかったか、誤っていたか」「原爆投下はしなくても良かったか、必然だったか」「原爆投下は防げたか、防げなかったか」という点に集中しており、それぞれの論者が自分にとって都合のいい資料を切り出して議論が行われている。こういう風に問題を立てると、それぞれのテーマに「イエス」とも「ノー」とも答えることができる。代表的な例が次のようなホームページだろう。
http://www.nipponkaigi.org/reidai01/Opinion3(J)/history/nagasaki.htm

それでなければ、原爆投下は歴史的事実なのだからいいとも悪いともいってみても始まらない、大切なことはこれからその使用をどう未然に防ぐか、と言う主張である。「ノーモアヒロシマ」に込められたイデオロギーも限りなくこの主張に近い。これを突き詰めると次のようなホームページになる。
http://www.csi.ad.jp/ABOMB/index-j.html 
このホームページでプロデューサーの大場允という人は、次ぎのように云っている。
 「原爆の被害者であることを強調して相手を非難したり、自己満足のために謝罪を求めることは、歴史の観点から見れば意味のないことです。問題は ”過去から何を学ぶか?”です。 歴史は過去を学ぶ教室です。そこで学ぶことは、教科書の中の単なる名前や言葉、数ではありません。生き方を学ぶのです。私たちは他の人たちとも過去に関する知識を共有する必要があります。」

 まさしく「過去から何を学ぶか」なのだが、大場氏がついに触れようとしない一点、「誰が、どのようなプロセスで、原爆投下を決断したか?」こそが学ぶべきことなのだ。

 なぜ日本に原爆投下をしたのか、この問題は決断した当の本人に聞いてみるのが一番手っ取り早い。大統領トルーマンはすでになくなっているけれど、膨大な文書を残している。しかもトルーマン政権の意志決定の過程から議論の詳細に至るまでの公式記録を、私たちは現在入手できる。しかも大統領トルーマンという人は、アメリカの農民出身者らしく几帳面な人柄で、「トルーマン日記」を大量に残している。ハリー・S・トルーマンは何の拍子かルーズベルト大統領の副大統領に指名され、ルーズベルト大統領の急死によって、副大統領職わずか82日間で、これまた何の拍子か大統領になってしまったという人である。大学卒業ではない最後の大統領としても有名である。比較的冷静な記述が次のホームページにあるので興味のある方は参照されたい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BBS%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3





 トルーマン大統領に関しては、ミズーリ州インディペンデント市にあるトルーマン大統領博物館(Truman Presidential Museum and Library)に、トルーマン日記を含めて膨大な資料が保存されている。これら文書の内容は次のURLで簡単に入手することができる。
http://www.trumanlibrary.org/

 膨大である。問題は私のテーマを追求するにあたって、どの文書を出発点とするかだ。色々検討した結果(というよりも直観的に)Robert H. Ferrell という人の「トルーマンと原爆、文書から見た歴史」を出発点とすることにした。この論文はトルーマン大統領博物館のホームページに掲げられており、いわばトルーマンの代弁を行っていると見たからだ。ここでざっとおさらいをしておけば、その後に出てくる生資料(原爆投下までに開かれたおびただしい原爆投下に関する臨時委員会の内容やトルーマン日記や手紙)の内容も理解しやすいと思ったからだ。ファレル(と発音するのだと思うが)という人は、インディアナ大学の名誉教授で歴史学の権威だそうだ。トルーマンの研究家としても知られているようだ。
 「トルーマンと原爆、文書から見た歴史」は21章からなっており、ファレルがコメントを加えつつ、原爆投下に至る過程をまとめている。無料で手に入る日本語の翻訳がどこかにないかと思って探したが、どこにもない。そこで無謀にも自分で訳してみることにした。

 私は英語の文章を読むとき、どうしても日本語に訳さないと理解した感じがしない。英語の文章を英語のまま理解できないといってもいい。恐らく私が日本語でものを考えているからだろう。やむを得ない。今回はもっとも重要な序章のみの全訳を別途に掲載しておいた。興味のある方は参照されたい。
(序章:トルーマンと原爆、文書から見た歴史 全訳)





 ファレルは、日本に原爆を投下するに際して、大統領トルーマンの脳裏には2つの理由があった筈だと云っている。一つは日本軍の野蛮性・非人道性。ここで3つの事件を上げている。
 1.南京大虐殺
 2.パールハーバーの奇襲
 3.バターン死の行進
 こうした日本軍の獣性・非人道性は、ナチがおこなったホロコーストにも匹敵すると、ファレルは述べ、トルーマンの心中を代弁している。
「こうした獣にも等しい日本軍は懲らしめてやらねばならない」とする感情がトルーマンにあったかなかったかは想像の域を出ないが、少なくとも、ファレルが理由の第一番目に「日本軍の獣性」を上げていることは注目に値する。これが日本に対する原爆投下の直接の理由でないにしろ、重要な下地だったことはまず間違いない。
(私も20代前半の頃、堀田善衛の「時間」を読んで衝撃を受け、つくづく日本人であることやめたいと思った記憶がある)

 云うまでもなくファレルは、歴史学者としてよりトルーマンの代弁者としてこの論文を書いていることは念頭に置いておかねばならない。

 二つ目の理由が日本本土作戦に伴うコスト(ここではほとんど人的犠牲の意味で使われている)のことだったという。やや弁解気味に次のように云っている。
 「表面的に見たり、その部分だけ取り出して見れば、当時の日本本土侵攻(実際には起こらなかったのだが)に伴うコストを計算することは、現実問題としてできないことであり、従って当てずっぽうにならざるを得ないとも見える。本土侵攻はどうしても理論上の問題ならざるを得ない。従って、夥しい数の民間人、女性、子どもを含む10万人以上の日本人の生命を危険にさらす(これは実際に起こったことだが)というトルーマン大統領とそのアドバイザーたちの究極の決定はなんら根拠を持たないとも見える。しかし、投下に至る考慮の過程は理論ではなく、日本本土侵攻は極めて犠牲が大きいと考える根拠があったのだ。今振り返ってみて、トルーマンや彼を補佐した人たちが感情的な理由や、それは日本の野蛮性のことだが、米軍が直面するだろう犠牲を量ることなしに、決定的な決断を下したというのは不適切である。」

 これは巷間伝えられる、「日本に原爆を落とすことによって、戦争終結が早められ、多くの米軍将兵の命を救った」という極めて短絡した原爆擁護論とはややニュアンスが違って相当屈折している。

 で、肝心の「米軍コスト」だが、これにはいろんな試算があったようだ。1945年6月中旬、陸海合同戦争計画委員会が提出した数字は、九州侵攻と本土侵攻による米軍将兵の犠牲(死者)を4万6000人と見積もり、6月18日のホワイトハウスにおける会議に提出した。ところが参謀総長のジョージ・C・マーシャル(戦後ヨーロッパ復興計画のマーシャルプランで有名。その後ノーベル平和賞受賞)はこの数字を全く無視し、諜報作戦の分析から割り出した3万1000人という数字を上げたようだ。ファレルはこのマーシャルの態度には腹を据えかねたと見えて、「マーシャルがこの数字を出したときに、当時ルソン島の総司令官山下奉文が米軍侵攻の最初の1ヶ月間に前線撤退を命じていたことを考慮にいれてないか、またはほとんど考慮を払っていないかのどちらかである。」とこき下ろしている。(ファレルはトルーマン大統領の代弁者であることをお忘れなく)

 同じ会議ではトルーマン大統領の個人的補佐官であったウイリアム・D・レーヒー海軍大将が遠慮がちに「沖縄戦の死者の5倍に達するだろう」と述べたようだ。沖縄戦では1万3000人の死者が出ているから、レーヒーによれば6万5000人の死者ということになる。
(なお、ウイリアム・D・レーヒーはWilliam D. Leahyでリーヒーと表記してある文献もあったが、研究社 新英和大辞典 第6版の表記に従った。また肩書きはadmiralなので、提督と表記してある文献もあったがこれは間違いであろう。イギリス海軍には称号としてadmiralがあり、これは提督とすべきであるが、米国海軍のadmiralは階級であり、海軍大将とすべきであろう。
次のURLを参照のこと。
http://www.ecsu.edu/personal/faculty/pocock/rank.htm





 要するになんら科学的な根拠をもった数字が出たわけはなく、どの数字を取ってみてもスペキュレーションである。

 米軍の犠牲を推し量るのに際して、こうした個々の数字は大して重要ではなく、もっと重要なのはファレルの次の記述である。
 「1945年6月の半ばまでに、米司令部とトルーマン政権の高官たちに去来した大きな疑問は果たして日本政府を説得し降伏させることができるかどうかと言うことだった。当時日本軍は(明白に破滅的状況だったとはいえ)、降伏するつもりはなかった。もし決定が非軍部のリーダーたちや日本の民衆の手によってなされるとすれば、戦争は恐らく早急に終結していただろう。しかし不幸なことに決定権は彼らになかった。決定権は軍部に、特に軍部首脳にあったのである。(このときまでに日本海軍は事実上消滅状態にあった。艦船のほとんど全部が航行不能に陥っているかまたは撃沈されていた。)」

 この記述をした時、ファレルの念頭にあったのは、すなわち大統領トルーマンの念頭にあったのは、硫黄島と沖縄本島の激戦である。
硫黄島では、日本軍守備兵力の4倍の兵力で侵攻したのに海兵隊を中心に6200名の死者が出た。沖縄本島では守備兵力の2.5倍の兵力臨んだにもかかわらず1万3000人の戦死者を出した。数字より強烈に印象づけられたのは日本軍の徹底抗戦ぶりである。沖縄本島では、民間人まで自決した。(実際にはさせられたのだが、当時米首脳部にその認識があったかどうか)

 そして極めつけはカミカゼである。ファレルはこう記述している。
「この旧式航空機はほとんどの場合基地に帰投する能力を持たず、そのパイロットは自らを犠牲にした。航空機そのものが爆弾であった。もっとも高価についた単独カミカゼ攻撃は、(米海軍戦艦フランクリンであったが)1000名の死者を出し、艦は炎に包まれ大破し、戦闘能力を失った。」

 また当時日本には5000機のカミカゼになりうる航空機を日本軍は保有しており、これが九州侵攻で使われたら米軍艦船・補給船の損害、人的損害は計り知れない、ともファレルは書いている。
 (この5000機という数字の根拠は今のところ全く不明である)

 こうしてみてくると、ファレルすなわちトルーマンの脳裏にあった2つの理由とは実は1つの理由であることが分かる。すなわち理性を超えた旧日本軍とその指導者たちの存在である。まったく予測しがたいほど非理性的で非人道的な日本軍部が、日本の進路の決定権を握っている以上、日本本土侵攻は相当大きな犠牲が出る、と腹を括ったのである。これは数字を超越した問題だ。





 実際当時日本は「国体護持(これはとりもなおさず天皇制の維持ということだが)さえできれば全面降伏してもいい」と考えていた。戦争遂行に自信をなくした小磯内閣が総辞職し、当時70歳をはるかに超えた鈴木貫太郎が内閣を組織していた頃である。当時の日本の状況がどうであれ、トルーマン政権は以上のように考えていたということである。これを念頭に次の記述を読んで頂きたい。

「原爆投下容認論への反駁―なぜ原爆は投下されたのか(大阪国際平和センターの展示パネル)
 「米大統領トルーマンは、『ヒロシマ・ナガサキヘの原爆投下は、本土決戦で失われる百万人以上の米軍の犠牲を回避し、戦争を早期に終わらせるためであった』と述べた。しかしこの主張は、米軍戦略爆撃調査団報告では否定されている。
 また、ブラケットという学者は、『原爆投下は第二次世界大戦の最後の軍事行動というよりも、ソ連との冷たい外交戦の最初の大作戦の一つであった』と述べている。さらに一九九三年八月にはアルペロビッツという著述家が、公開された米政府公文書をもとに『原爆が日本降伏促進』という見解をきっぱりと否定している。
 こうみてくるとヒロシマ・ナガサキは、アメリカの戦後冷戦政策のデモンストレーションの犠牲にされた、といえるのではないだろうか。」
(※ここで紹介している米軍戦略爆撃調査団報告の結論は以下に掲載。
日本会議のホームページより。
http://www.nipponkaigi.org/reidai01/Opinion3(J)/history/nagasaki.htm


 問題は原爆投下の必要性があったかなかったではなく、トルーマン政権が、狂信的な日本軍部が日本の進路の決定権を握っている以上、日本本土侵攻は相当大きな犠牲が出る、と見ていたことだ。数字の問題ではなくこの見解が、日本に対する原爆投下決断の大きな伏線になっていたことは疑いようがない。

 1通の興味深い手紙がある。1945年8月9日の日付の手紙で、ジョージア州選出のリチャード・D・ラッセルという上院議員から来た電報に対するトルーマンの返事だ。ラッセル上院議員の電報は8月7日付けとなっているから、時差を考えても広島への原爆投下後に打った電報に違いない。この電報でラッセル上院議員は、トルーマンに対日強硬路線を取れ、日本が許してくれと云うまで原爆を落としまくれ、と言っている。これに対するトルーマンの返事だ。
原文 http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/large/documents/fulltext.php?fulltextid=22
短い手紙なので全文を訳しておこう。
(なおラッセル上院議員の電報も違う意味で興味深いので全文を掲げておく。ラッセル上院議員のトルーマン大統領に宛てた電報―全訳)
                           1945年8月9日
  親愛なるディック:(ディックはリチャードの愛称)
 
 8月9日付けのあなたの電報を興味深く拝見しました。
戦争において、日本が恐ろしく冷酷で、反文明的な国であることは私も承知しています。しかし、日本が野蛮であるから私たちも同様に振る舞うべきだという考え方には私は与しません。

私自身のことと言えば、その国の指導者たちが頑迷(pigheadedness-豚頭という言葉を使っている)であるゆえに、人口まるごと消し去ってしまわねばならないことを後悔しています。これはあなただからお伝えするのですが、私はそれが(原爆のこと)、絶対に必要という状況でなければ、使用するつもりはありません。私の意見では、ソ連が参戦すれば日本はすぐに降伏するでしょう。(降伏はfold up という口語を使っている)

私の目的は、できるだけ多くのアメリカ人の命を救うという点にありますが、日本の子どもや女性に対して人間的な感情も同時にまた持ち合わせるものであります。

敬具
ジョージア州・ワインダー リチャード・B・ラッセル足下へ
 

 この手紙の中でトルーマンは彼なりの必要性に迫られたとはいえ、明確に「後悔-regret」という言葉を使っている。
この手紙の直後に2発目の原爆が長崎に落とされるわけだが、トルーマンはこの時点で「後悔」がまだ足りなかった・・・。

(以下次回)