No.13-3 平成18年3月19日
トルーマンは何故原爆投下を決断したか? \ スティムソンが行き着いた思想 その3 京都には原爆を投下するな
国際的交流を主張するオッペンハイマー
 1945年5月31日の暫定委員会は、オッペンハイマーの核兵器開発の三段階の説明の後、国内計画・基礎的研究と議論が続き、今後も核兵器の開発を継続すると同時に産業用用途の開発にも門戸を開くべきである、という点で意見の一致を見ている。

 これは、戦争が終わっても、核兵器の開発と原子力エネルギー産業の発展を促進するという合意である。

 さて次は管理と査察の問題だ。恐らくこの問題は、スティムソンがもっとも、深い議論を期待していた部分だ。
スティムソンは恐らくこのテーマが、発展してロシアとの協議の具体的方法論まで進むことを考えていたものと思う。

 しかし、議事録を読む限り、この議題に与えられた名称「管理と査察」とは名ばかりで全く竜頭蛇尾に終わった観がある。

 オッペンハイマーは「アメリカが、平和目的で使用することを重点において、世界と情報交換するのは賢い方法だ。原子力エネルギーは人類全体の福祉にその目的を拡大すべきだ。原爆を実際使用する前に、(その情報を公開し)各国と情報交換するなら、アメリカはその人道主義的立場を強化するだろう」と述べた。
オッペンハイマーがこの時、こういう発言をするのは、意外と思われるかも知れない。
この主張に従えば、オッペンハイマーもまた、原爆を使用(すなわち広島に投下)する前に、ロシアと話し合って、原爆の情報を公開しようという主張になるのだから。

 オッペンハイマーは、デンマークの物理学者、ニルス・ボーアの強い影響を受けていた。

 ニルス・ヘンリック・デビッド・ボーアはデンマーク生まれの物理学者である。
原子構造の発見者で、量子力学を生み出してもいる。1922年ノーベル物理学賞を受賞。  

 ニルス・ボーアなどの先進的研究がなければ、恐らく原子爆弾は生まれていなかったろう。
あるいは生まれていたとしても、第二次世界大戦には間違いなく間に合わなかったろう。
ボーアはナチス・ドイツがデンマークを占領したときに、スエーデンに逃れ、その後ロンドンに亡命した。
1943年にマンハッタン計画に参加。オッペンハイマーが所長を勤めるロス・アラモス研究所に所属した。
マンハッタン計画では、彼は他の優秀な研究者の助言者として、研究・開発全体に大きな影響を与えている。
そしてボーアは「核エネルギーと原子力爆弾の知識を国際的に共有して、国際管理にしなければならない」という主張を早くから展開していた。
フランク・レポートの主張、レオ・シラードの主張も多分にボーアの影響を受けている。
スティムソンもその意味では間接的にボーアの影響を受けていると言っていい。
しかしスティムソンは老練な政治家であり、有能な行政官であって、第二次世界大戦末期の国際政治情勢の中から、核エネルギーの国際管理の問題を政策として取り上げようとした、またそれができる立場にあった点が異なっている。

 スティムソンもこの時点でボーアの主張はおおよそ理解していた。
スティムソン日記 1945年6月12日 原文訳文

 ボーア自身「私がいなくても原爆はできる。私がマンハッタン計画に参加した目的は、将来の核競争を防止するためだ。」というほどであった。
ロス・アラモスでボーアはオッペンハイマーにこの話をし、オッペンハイマーはボーアをルーズベルト大統領に紹介した。1944年ルーズベルト大統領に面会したボーアは、おおよそ以下のように主張する。

もしアメリカとイギリスが、実際に原爆を使用したら、ロシアは恐怖に駆られて、原爆の開発を急ぎ、止めども知らぬ核開発競争が始まるだろう。
これは核戦争を間違いなく招来するだろう。だから原爆を使用する前に、ロシアを含む国際社会と話し合って、核兵器を国際管理に移すべきだ。」
ルーズベルトがこの案にどの程度動かされたのかは不明だが、ともかくもチャーチルを説得するようにと、ボーアをチャーチルのもとに送る。アメリカはこの時イギリスとケベック合意を結んでおり、イギリスの同意なしには、原爆の情報を第三国に公開できなかった。
ところがチャーチルはこの案を即座に却下する。

 1945年5月31日の暫定委員会の段階では、ボーアの影響を受けているオッペンハイマーも委員会で「核の国際管理」の線に沿った主張をしたのである。

 このオッペンハイマーも複雑なキャラクターである。J・ロバート・オッペンハイマーは、1904年ニューヨークで生まれている。父親はドイツ系ユダヤ人の移民で繊維貿易商として成功し資産家だった。
小さい頃から優秀で、しかも数学、科学、ギリシャ文学、フランス文学など幅広い分野に興味を示す、一種の天才少年だったといっていい。博士号は22歳で取得している。

 カルフォルニア大学バークレー校時代は、アーネスト・O・ローレンス(暫定委員会のメンバーでもある)など多くの友人を得る。この時代の友人の一人、ハンス・ベース(ノーベル賞受賞者の一人)は、オッペンハイマーについてこのように云っている。
才能豊かなオッペンハイマーのもっとも優れた本質は、教師、ではなかったろうか。
彼は今何が問題なのかを見分ける能力に優れ、それをグループに伝えて、リードしていく能力に優れていた。」

 のちロス・アラモス研究所の所長として、マンハッタン計画を進めていく際、オッペンハイマーは、この能力をいかんなく発揮した。

 ロス・アラモス時代の同僚科学者、ビクター・ワイスコフは次のように評している。
オッペンハイマーは決して事務室から指揮を執るタイプの指令官ではなかった。
決定的段階では、物理学的にも知的にも間違いのない判定を行った。
だから、研究所が何かセミナー室の様だった。
もちろんいろんな着想や助言もおこなったが、彼の価値は、もっと違うところにあったように思う。
全員がこの計画に熱狂的に参加していくような、そんな雰囲気を醸し出していった。」


ロシアとの共同管理案を潰すバーンズ
 そしてオッペンハイマーは、ボーアからの影響を受け、原爆を国際管理のもとに置こうとする意見をもつ。
当時これまで見てきたように科学者の間には、日本に対して原爆を使用すべきという主張する「使用派」とレオ・シラードやハロルド・ウレイ、ジェームズ・フランクのように使用には反対のグループにまっぷたつに割れていた。

 主要な科学者には反対派が多かったが、オッペンハイマーは、グローヴズなど軍部と共に使用派の急先鋒で、「日本に対して原爆を使用するな」という請願書を出していた、レオ・シラードやエドワード・テーラー(後に世界最初の水爆を開発する)に対して、「マンハッタン計画の邪魔をするな」という警告も出している。

 戦後は、「科学者の罪」というテーマを提起して、原爆は投下すべきではなかった、と主張して次ぎのように云っている。
もし原爆が戦争世界の兵器庫に新たに加わるなら、人類はロス・アラモスとヒロシマの名前を呪う事になるだろう。人類は今こそ団結しなければならない。さもなくば死滅あるのみである。」

 なかなか名文句である。しかし彼はマンハッタン計画で原爆を開発した事自体が間違っていた、とは一度も云っていない。
(オッペンハイマーは極めて興味あるキャラクターで一筋縄ではいかない。
 次のURLは比較的網羅的にオッペンハイマーを説明している。
 興味のある人は次へhttp://en.wikipedia.org/wiki/J._Robert_Oppenheimer )


 この日の暫定委員会で、オッペンハイマーは自分の説を展開して、一般論としてロシアと原爆に関し情報共有をしてもいいのではないか、という提案をする。
これに対してマーシャルは慎重な意見を提出し、まず「志を同じくする強国間同士で連合を作ってから、ロシアとの話し合いに入った方がいいのではないか」とやんわり反論する。

 マーシャルも、スティムソンの「ロシアとまず協議」という案には心底賛同していたわけでなかったのだ。

 ここで念頭に置いておかなければならないのは、当時オッペンハイマーは共産主義シンパと見られていたことだ。戦前、ナチスの台頭、大恐慌を経験したアメリカの若い世代には、共産主義の理想が流行した。
オッペンハイマーもそうした若い世代の一人で、共産主義思想に共鳴し、多額の寄付も行っている。
またオッペンハイマーの弟フランクは共産党員だった。
従って、オッペンハイマーは、ロス・アラモス研究所時代から、FBIの思想調査を受けている。
グローヴズはオッペンハイマーから事情聴取をした上で、マンハッタン計画に参加させた。
また戦後、マッカーシー旋風が荒れ狂い赤狩りが行われたとき、オッペンハイマーは真っ先に血祭りに上げられ、公職から事実上追放を受けた。
このことでまた、「赤狩りの殉教者」というオッペンハイマーのイメージができあった。
オッペンハイマーの主張は、あるいは共産主義シンパとしての発言として見られたのかも知れない。

 このオッペンハイマーの主張に猛然と反論したのが、ジェームズ・バーンズである。議事録ではこのバーンズの反論は次のように記述されている。

仮に一般的な話としても、ロシアに情報公開してスターリンと提携関係を持つことには懸念がある。これはわれわれの問題全体の関わり方に関する問題であり、イギリスとの誓約関係にも関わる問題である。」

 当時アメリカはイギリスとの間にケベック合意を成立させており、お互いの同意なしに、原爆に関する情報を第三国に漏らさないと云うことになっていた。

 しかし、バーンズの反論はこの議事録に記されているようなやんわりしたニュアンスではなかったろう。
会議が、ロシアへの情報公開に流れないようにバーンズは極めて強圧的に合意事項をまとめてしまう。
議事録はアンダーラインを付けて次のように記述している。
バーンズ氏は、参加者全員による全体的合意事項として、もっとも望ましい計画は、ロシアと望ましい関係を作る努力を行うと同時に、核開発競争の常に先頭に立って置くために、できる限り急いで生産と研究を前に推し進めるべきだという見解を表明した。」

 この日の会議では、戦後の核競争、さらに核戦争の危険を感じ取っているメンバーが多く、それをその時点で防止するのに役立つかも知れない、ロシアとの協議を完全に否定するわけにはいかなかった。
それで上記のような表現でのまとめ方になったのだと思われる。
バーンズには、ロシアに情報公開するなど云う考え方は全くなかった。
そしてこれは後に見るように、ロシアに情報公開をするのかしないのかはっきりしないこの日の暫定委員会の決定は、6月21日の暫定委員会であっさりひっくり返される。

 ここで再びジェームズ・バーンズという人物に触れないわけにはいかない。
前回Y暫定委員会とその決定前編でも見た通り、バーンズは寝業師型の政治家である。
理路整然と政敵を攻撃するというより、調整して政治目的を達するというタイプである。ジェームズ・バーンズがトルーマン政権の国務長官に正式に任命されるのは1945年7月3日、ポツダム会談の直前であるから、この暫定委員会時点では、彼の肩書きは、トルーマン大統領の全権代表と言うものである。
前大統領フランクリン・ルーズベルトに特に信任されたバーンズはルーズベルト時代から、大統領全権代表だった。トルーマンは、ルーズベルト時代からの人的資源をそのまま引き継いだ形で、その政権を発足させたわけだが、バーンズもその一人だった。
そしてバーンズは急速にトルーマンの信任を深くしていく。

 トルーマンの全権代表というバーンズの存在は、暫定委員会でも、大統領の意志を代表していると見なされ、特別な影響力を持った。
大統領の意志を代行しているという意味では、スティムソンよりも影響力のある人物だ。
高校すら卒業せず、上院議員、最高裁判所長官、大統領全権代表、国務長官、サウス・カロライナ州知事を歴任したバーンズは、ひたすら立志伝中の人物で、どこか田中角栄を思わせる。
政治手法も「ハイウエィ建設のチャンピオン」呼ばれたように利権屋の面影もある。

 バーンズがどうしてトルーマンと気が合ったのかは、まだよく調べていない。
学歴がない点でも共通点があったのだろうし、厳しい現実政治を生き抜いてきた点、パワーポリティクスを信奉している点でも共通点があった。
ともかく、後にはバーンズを追放するトルーマンもこの時期には、バーンズの助言によく耳を傾けた。

 バーンズが原爆に対してどのような考え方をもっていたかは、レオ・シラードのエピソードがよく物語っている。

 レオ・シラードは、日本に対する原爆の投下をやめさせようとルーズベルトに会談する直前に、ルーズベルトは急死する。1945年4月12日の事だ。
その後、シラードは、今度はトルーマンに会って原爆投下を説得しようと試みる。
何とかつてをたどって、トルーマンの面会予約担当官のマシュー・コナリーにわたりをつけたところが、コナリーが面会を指定した相手が、ジェームズ・バーンズだった。
当時バーンズはサウス・カロライナ地元のスパタンバーグに住んでいたので、シラードはシカゴから夜行列車に乗ってバーンズに会いに行く。
レオ・シラードはバーンズがどんな人物か全く知らないし、トルーマンに原爆投下を思いとどまらせようと説得するのに、バーンズに何故面会しなくてはならないのかもわからない。
1945年6月のことである。バーンズに会って、シラードはびっくりする。 

 バーンズは原爆の問題について、シラードと全く逆の考え方をもっていたからだ。

 この後は、1960年USニューズ&ワールド・リポート8月号のレオ・シラードのインタビュー記事から引用しよう。原文訳文
シラードは次のように語っている。
(日本への警告なしの原爆投下は、結局ソ連を恐怖に陥らせ、果てしのない核競争時代に突入し、核戦争の危険があるので得策ではない、という内容の)メモランダムを読み上げると、バーンズは云いました。
『グローヴズ将軍(原子爆弾開発のマンハッタン計画の総責任者)によると、ロシアにはウランがないそうだ。もしロシアにウランが全然ないなら、原子力兵器競争に参加しようがないじゃないか』
 でも私にはこれは到底ありそうにもない推測のように思えました。
ロシアが高品位のウラン、瀝青ウランの原鉱を埋蔵していないことは大いに考えられます。
ロシアの統制下にある範囲内で、唯一知られている瀝青ウランの埋蔵はチェコスロバキアにあります。しかもこれは大量の埋蔵ではないと信じられています。
しかしロシアの膨張範囲の領土の中に、低品位でもウラン原鉱が全くないと考えるのはちょっと難しい、低品位のウランでも原爆の製造に必要なウランを獲得できるのですからね。
 バーンズ氏に会って私の関心を引いたのは、原爆が世界に突きつけている難問をうまく処理するような政府の政策がまったく存在していないと言う事実でした。
そこで私は、原爆実験をここで延期して時間を稼ぎ、そういう政府の政策を発展させる方が賢明ではないかという疑問を提起しました。
私にはいったん実験をすると、原爆の存在をそう長くは秘密にしておけないように思えたのです。
バーンズは実験の延期はいい考えではない、と言いました。
そして、今振り返ってみると、私だって彼に賛成しかけたんです。
振り返ってみて実験の延期は、問題を解決することにはならなかったのですから。
 バーンズの関心は、ロシアがポーランド、ルーマニア、ハンガリーを乗っ取ってしまいはせぬかと言うことでした。その点は私も心配でした。
バーンズはアメリカが原子爆弾を保有していると、ヨーロッパにおいてロシアを御しやすくすると考えていました。」

 バーンズは、原爆の力でソ連を封じ込めようとしたわけである。
そしてバーンズは、かなり長い間、アメリカは原爆を独占できると考えていたようでもある。

 そうしたバーンズに取って見れば、スティムソン流の、「原爆に関する情報をロシアと共有して、核兵器を国際管理に持っていこう」とする考え方は、全くアメリカの国益に反する、とんでもない議論だったわけだ。
特に、対日戦争を早期終結させたい、そのためにはソ連の参戦を引き出さなければならない、しかしソ連に鼻面を引き回されたくもなければ、見返りに法外な要求を持ち出されたくない、と考えているバーンズに取っては、スティムソンの考えは、俗な言い方をすれば、「アホか!折角の好機をみすみす逃すのか。」と映ったに違いない。

 トルーマンはその後の経過を見る限り、バーンズの考え方を採用した。すなわち、ソ連に対しては力の政策を採ったのである。
1945年5月31日の暫定委員会は、ある意味バーンズとスティムソンの、原爆の取り扱いを巡る対決でもあった。
そしてこの後、この対決はポツダム会談をはさんでバーンズの完全勝利に収斂していくのである。


議論抜きに決まった警告なしの原爆投下
 この日の暫定委員会は、八番目の議題として、「日本とその戦意に関する原爆投下の効果」と題したテーマも討議されている。

 この時点で、日本に対して原爆を使用することに関して、いろんな議論があった。それを整理してみると次のようなことになろう。
 1.日本に対して原爆を使用しない。
   (1) どこか無人島でデモンストレーションをすれば十分である。
     (フランク・レポート、レオ・シラードなど)
 2.日本に対して原爆を使用する。
   (1) 十分な警告を行って使用する。(暫定委員の一人ラルフ・バードなど多数)
   (2) 警告を行わず使用する。(オッペンハイマー、バーンズ、グローヴズなど)
   (3) 軍事基地などに限定する使用する。
   (4) 投下目標に産業地帯なども含める。
   (5) 労働者の住宅に囲まれた産業地帯を含める。
     (これは、事実上無差別爆撃に等しい)

 この日の議論は、日本に対する原爆投下問題といっても、それはあくまで政治的な観点からの議論だった、ということを忘れないで欲しい。
対日戦争終結という純軍事的な観点からは、先に6月12日のホワイトハウス会議の項で見たとおり、原爆使用は問題にならなかった。

 議事録を見ると、誰の指摘かは分からないが、「一個の原爆を一つの軍事基地へ投下するのでは、通常爆撃による効果と大して違わないのではないか」とする発言から始まっている。

 原爆の問題を専門的に研究している暫定委員会のメンバーすら、原爆の威力を、通常爆弾の大きなものという認識しかなかった。当時爆弾1個で最大の破壊力を持っていたのはイギリス空軍が開発したもので、TNT破壊力1トンだった。それを破壊力1万トン、2万トンと数字で云われてもピンと来るはずもなかった。その破壊力は想像を絶していた。

 この質問に対してオッペンハイマーは、「視覚効果がとてつもなく大きい。3000mから6000mの高さで雲があがり、半径1km以内の生物をすべて焼き殺す」という説明をしている。想像を絶したあるものを説明することは誰にでも難しい。要はオッペンハイマーは1個で十分だと、云いたかったに違いない。

 そして議事録は、議論なしにいきなり暫定委員会の結論を書いている。引用してみると、
陸軍長官は委員会全体の合意として以下の結論を表明した。
日本には警告なしに投下する、一般市民が住む地域はあまり考えない、しかし、日本の住民にできうる限り大きな心理的効果を与えることを模索する。コナント博士の提言に基づいて、陸軍長官は、最も望ましい目標は、極めて重要な軍事工場であり、かつ大勢の従事者が働いており、かつ従業員の住宅に隣接して囲まれているような所、ということで同意した。」

 表現は回りくどいが、要するに先ほどの整理表で云えば、警告なしの無差別投下である。

 私にはここがどうしても納得いかない。
結論に納得いかないのではなく、議論が全然なかったことに納得いかないのである。
これまでスティムソンの考え方をたどってきたように、少なくとも「警告」「一般市民の退避」はスティムソンにとって絶対条件だったはずだ。

 なぜ、いきなりこの結論になったか分からないが、推測では、スティムソンがバーンズとの決定的対決をさけた、と考える方が妥当だろう。
上記の「同意事項」をよく読むと投下目標として、「一般住民が住む地域は考えない」とあるが、その後段では「労働者住宅に囲まれた産業地域」を投下目標とする、とある。一種の玉虫色の表現だ。

 ところで、この時点では、投下目標として全員が想定したのは、京都と広島だ。

 5月10日と11日にロス・アラモス研究所で、陸軍の原爆投下目標委員会が開かれ、その時第1目標(AA)とされたのが京都と広島だった。横浜、小倉兵器廠が第2目標(A)であり、新潟が(B)となっている。
(原文:原爆投下目標委員会報告書。http://www.dannen.com/decision/target.html
なお、これは正確には議事録ではない。
 当日グローヴズが出席できなかったので、出席者の一人がグローヴズに送った報告書である)


 特に、原爆の心理的効果、世界に与える影響力からして、当時軍部のマンハッタン計画指導者は京都に落としたかったようだ。この報告書では、京都を第一とする理由を次のように説明している。

100万人の人口を有する都市産業地帯である。日本の前の首都であり、他の地域が(空襲で)破壊されているので、多くの人口と産業が流入中でもある。心理的観点からして京都が日本の文化的中心地でもあり、ガジェット(アラモゴードで使用されたプルトニウム型原爆のコードネーム)の様な兵器の意味するところをよく理解する人々が住んでいる事を考えると、京都は(投下目標として)有利である。」

 よく読むと、前段の京都が産業地帯であることに重点があるのではなく、日本の前の首都で日本文化の中心地である、と言う点に重点がある。

 つまり原爆の投下目標が「京都」であった事を考えると、少なくとも軍部は、原爆という革命的兵器を世界に劇的に登場させたかった、ということになる。


直前まで京都をあきらめないグローヴズ
 もっとも実際には第二目標の広島に投下される事になるのだが、これはスティムソンが最後まで反対したからだ。

 6月1日付けスティムソン日記を見てみると、この日スティムソンはアーノルド将軍を呼んでいる。
ヘンリー・アーノルドは当時陸軍に属していた米空軍の総司令官だ。
だから陸軍長官のスティムソンは、参謀総長マーシャルのさらにまた上の上司あたる。

 まず、スティムソンは、3月に行われた東京大空襲に対して文句をいう。
ロバート・ロベット(空軍担当陸軍長官補佐官)との約束はどうなった。無差別爆撃はしない、という筈でなかったのか。東京への空襲(3月の東京大空襲)はこの約束とはほど遠いではないか。」

 これに対してアーノルドは弁解する。

日本はドイツと事情が違っている。日本の工業地帯は枝分かれしおり、一般住宅と区別が付けにくい。空軍としては日本では軍事施設だけを狙って爆撃するのは不可能である。
従ってどうしても一般市民に損害を与えるようになる。しかし、できるだけ軍事施設だけを狙うようにする。」

 スティムソンに責められて、大汗をかいて弁解するアーノルドの顔が目に浮かぶようだ。
 (原文:http://www.doug-long.com/stimson5.htm
  訳文:1945年6月1日 京都に投下してはならぬ )


 そして、スティムソンはアーノルドに対して念を押す。
    「私の許可なしに、爆撃してはならぬ都市がひとつある、それは京都だ。」

 しかしマンハッタン計画の軍幹部は京都をあきらめない。

 1945年7月21日と云えば、トルーマンに同行してスティムソンがすでにポツダム入りしていた頃だ。
7月16日アラモゴードにおける最初の原爆実験成功の知らせも受け、後はいつ原爆が実際に使用できる体制になるかの知らせを待っていた。

 夜10時半、スティムソンはワシントンのジョージ・ハリソン(暫定委員会の委員長代行で、陸軍長官特別顧問)から2通の電信を受け取る。
1通は「原爆は8月10日までには実戦使用が可能」という電信だった。
もう1通は「グローヴズ将軍が京都に原爆投下をする許可を求めている」という電信だった。

 この電信に対して、「(京都に投下しないと言うのは決定である。)この決定を覆すだけの新しい要素は見あたらないが、逆に何か新しい要素があったら、教えて欲しい。」と皮肉たっぷりの返電を打つのである。
 (原文:http://www.doug-long.com/stimson8.htm
  訳文:1945年7月21日 原爆実験成功の詳報 )


 翌7月22日、ハリソンからの知らせを報告に、スティムソンはトルーマンを宿舎(通称リトル・ホワイトハウス)に朝一番で訪問し、原爆投下の準備が8月10日までにはすべて整うことを報告した。
この時スティムソンは、トルーマンに「特別投下目標(京都のこと)については私が、許可を拒絶した。」と報告する。

 「トルーマンは強く私に確認をし、私と同じように感じている。」
(原文:http://www.doug-long.com/stimson8.htm 訳文:1945年7月23日 一変したトルーマン )

 さらにその翌日7月24日、スティムソンはトルーマンと天皇制維持の問題について協議する。
その時に「提案されている投下目標のうちの一つ(京都の事)を何故除くべきかを説明した。」
そしてこれが最終念押しになるのである。

 スティムソンは、感情的な理由で京都を除外したのではない。
彼の理由は、京都は日本人の文化的中心地である、これを破壊しつくしてしまうと戦後処理において、日本人の感情的反発から、日本人の気持ちをソ連の側に追いやってしまうかも知れない、というものだった。
スティムソンの推測が当たっているがどうかは別として、京都に原爆を投下していたとしたら、マッカーサーはあれほどスムースに占領政策を遂行できなかっただろうという事は間違いない。

 また、スティムソンが特に日本に好意を持っていたという証拠もない。
それどころか、スティムソンがフーバー大統領の下で国務長官だった時、満州事変が起こるが「軍事力による国境線の変更は認められない。日本軍は満州から撤兵すべきだ。」とするスティムソン・ドクトリンを発して、日本との対決姿勢を強めるのである。

 スティムソンは、あくまでヒューマニズムという軸を中心にその思想が展開している。

 こうして、ある意味議論抜きで、警告なしの日本への原爆投下が暫定委員会決定され、その内容が大統領勧告となるのである。


望ましくない科学者の排除
 1945年5月31日の暫定委員会では、最後の議題として、「望ましくない科学者の排除」が取り上げられる。

 この問題を提起したのは、マンハッタン計画の最高責任者、グローヴズである。

 「マンハッタン計画の当初から、ある種の疑わしい方向性をもった科学者や忠実性にかける科学者の存在があって、計画全体が悩まされてきた。こうした雑草を何とか抜き取りたい」というのが彼の言い分だ。

 これは、ソ連のスパイという意味と、人道主義的立場から原爆の使用に反対する科学者という意味と2つ考えられるが、フランク・レポートが出されたり、レオ・シラードやニルス・ボーアなどの動きから考えて、後者の意味であろう。
こうした科学者は、原爆実験成功後かあるいは原爆の実際の投下後に退職を求めていくということで委員会は合意している。

 こうした投下反対派の科学者の牙城は、シカゴ大学冶金工学研究所である。
そこで、アーサー・コンプトンはマンハッタン計画におけるシカゴ大学冶金工学研究所(いわゆるシカゴ・グループ)の役割を縮小使用という提案を出して委員会は合意する

 こうして「無警告原爆投下」の地ならしは着々、軍幹部・バーンズペースで進められていく。

 この5月31日の暫定委員会が終了した後、スティムソンは日記にこう記している。
(原文:http://www.doug-long.com/stimson5.htm
 訳文:1945年5月31日 次第に浮き上がるスティムソン )

私は入念にこの委員会の準備をしている。私は科学者(科学顧問団を指している)にどんな仕事をして欲しいか、を十分に明確にした。
(中略)
 私は原爆を単なる新たな軍事兵器として見なしてはいない。
人類と宇宙の関係を革命的に変えてしまうものである、と考えている。
人類はこの利点を優位性にすることもできるし、あるいは文明の破滅を意味するかも知れない。
逆に文明がより完全なものなるかも知れない。
あるいはわれわれを食い尽くしてしまうフランケンシュタインになるかも知れないし、世界平和をより完全なものにするかも知れない。
(中略)
私は、私がこの問題を政治家の立場で見ていることを科学者(科学顧問団)に印象付け、戦争に勝とうとしている単なる兵士でない、ということを印象付けることができたように思う。」

 「政治家ではなく、戦争に勝とうしている単なる兵士」は、今読んでみると、トルーマンに対する痛烈な批判と読めないこともない。

 また、今読んでみて、スティムソンの「原爆は人類と宇宙の関係を革命的に変えてしまうもの」という新鮮な驚きと恐怖を、われわれは忘れつつあるのではないかと思う。

 戦後、部分的核実験停止条約、全面的核実験禁止条約、核不拡散条約など数多くの核兵器廃絶に関わる動きがなされてきた。
その一つ一つが各国間の政治的駆け引きの中で、一種の政治的技術論になっていき、スティムソンが表明している新鮮な驚きと恐怖が共有されていない。
われわれは核兵器に対して不感症になりつつある。

 しかし、1945年8月6日に向かって、事態はいよいよバーンズペースで進められて行く。

 この方向を暫定委員会ベースで確認したのが、ポツダム会談を目前に控えた1945年6月21日の暫定委員会であろう。
(原文:http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/large/documents/
fulltext.php?fulltextid=1
1 訳文:1945年6月21日 暫定委員会議事録 )


 この日、スティムソンは欠席だった。
代行はジョージ・ハリソンが務め、スティムソンの代わりには、ハーベイ・バンディが出席していた。
主要な議題の一つは、原爆に関する大統領声明文、陸軍長官声明の内容である。
また原爆の実験直後の諸声明文の内容についても検討された。
これは核実験が失敗して、死亡者を含む事故が発生したときの対応まで検討された。

 問題の一つは、ケベック合意である。
これは、1943年8月19日、カナダのケベックでルーズベルトとチャーチルの間で行われた合意である。原爆完成の目途も立たないうちに、早手回しの合意だが、以下の3項目がポイントになっている。
 1.この兵器(核兵器)をお互いの相手国に対して使用しない。
 2.お互いの合意なしには、第三国に使用しない。
 3.お互いの合意なしには、原爆開発に関する情報を第三国に提供しない。

 もし、アメリカが日本に対して原爆を使用するなら、当然第2項目に抵触する。
そこでこの暫定委員会で検討議題になったわけだが、これはあっさり「ケベック合意の第2項の取り消しをイギリスに求める」ということで結論がついた。
どちらにしても第2項が問題になる筈もなかった。
2項に基づいて仮にアメリカがチャーチルに同意を求めたとしても、チャーチルが拒否するはずがなかったからだ。

 先にも見たように、原爆の使用は、直接に日本を屈服させるためではない。
日本を屈服させるためにはソ連の参戦が必要だった。
少なくともトルーマン政権はそう分析していた。
しかし、ポツダムでソ連参戦を認めさせるためにはその代償をトルーマンに支払わなければならない。
その代償を最低限に抑えるためには、原爆カードが有効だった。
つまり、原爆は日本に対する脅しではなく、ソ連に対する脅しの目的で使用されたわけだ。
こうした目的で原爆を使用するのに、チャーチルが反対するわけがない。


核不拡散合意の本質は核独占合意
 それより、今興味を引くのは、ケベック合意の第3項目である。
この内容は、一種の核不拡散合意である。
核不拡散合意(条約)は、本質的に核保有国の核兵器独占を目的としたものである事が分かる。
従って現在のいかなる形の核不拡散条約は本質的には核独占条約である。
 (現在インド、イスラエルなどがこの不拡散条約に加盟していないが、これは、核保有国が自国の利益のためではなく、世界の利益のためだけに核を利用することが確証されない限り、当然の権利ということにもなる。ましてや非核兵器保有国が多くこの条約を批准しているが、これは核兵器保有国の善意を信頼しての行為に他ならない。それだけに、核不拡散条約に加盟している核保有国には、この信頼に応える責任と義務が発生している。核兵器が生まれた後のいきさつから見ると当然の結論である。)

 ケベック合意の第3項目、核不拡散合意によれば、スティムソンが考えたように、そして、フランク・レポートやボーアが提言したように、戦後核兵器をソ連との共同管理にしていくためには、イギリスの同意が必要と云うことになる。
しかし、実際第3項目に関してイギリスの同意を取り付けたり、あるいはこれを取り消すなどと言った事態はおこらなかった。
結局アメリカは、原爆投下後、ロシアと協議して「核兵器を国際管理」に移行しようという動きはなかったからである。

 この暫定委員会では、また5月31日の委員会でシカゴ・グループ排除を決めた案件の追い打ちを行っている。この時だされたシカゴ・グループの要求を蹴ったのだ。議事録はこう伝えている。

 「ハリソン氏は、シカゴの冶金工学研究所のシカゴ・グループとクリントン研究所の一部から、ウレイ博士を科学顧問団に加えるようにという要請を受け取っている事を説明した。委員会はウレイ博士を科学顧問団に加えないことで合意した。」

 委員会の決定に科学顧問団の意見が大きく左右していることは明白である。
また、科学顧問団の提言を理由にして、在廷委員会の大統領勧告決定がなされている節もあった。
ウレイを、科学顧問団に加える事によって、委員会の結論に影響力を行使しようというのが、シカゴ・グループの狙いである。

 ハロルド・クレイトン・ウレイはアメリカ生まれの化学者である。
(ウレイについてはhttp://en.wikipedia.org/wiki/Harold_C._Urey を参照のこと)

 彼は物理学にも興味をもち、デンマークのコペンハーゲンにいたニスル・ボーアの原子構造研究にも参加した。ニルス・ボーアとは極めて近い間柄だ。
レオ・シラードがルーズベルトの死後トルーマンに近づこうとして、サウス・カロライナ州に住んでいたジェームズ・バーンズに会いに行った話は先述の通りだが、この時ウレイもレオ・シラードに同行している。
ウレイが原爆の使用についてどのような見解をもっているかは、ジェームズ・バーンズも委員会のメンバーもよく分かっている。
またウレイは当時すでに科学界では影響力ある人物だった。
重水素の発見で1934年にノーベル化学賞を受賞しているし、マンハッタン計画では、ウラン中性子U−238から、ガス状分裂でU−235を取り出す方法論も確立している。
ウラン濃縮の心臓部にあたる研究だ。
科学顧問団に加えても遜色のない人物である。
いや、それだけにバーンズとしてはこの時点では、科学顧問団には加えたくない人物である。

 議事録は簡単に「ウレイ博士を科学顧問団に加えないことで合意した」と簡単に伝えている。
シカゴ・グループはこれで息の根を止められたといっていいだろう。

(以下その4)