No.18-4 平成19年2月17日
国境なき記者団ランキングに見る日本の報道自由度
そのC タブー、自主規制、始まる大手の内部腐食


「人間天皇」が菊タブーのはじまり

  国境なき記者団の50の基準のうち、30.民間設立メディアの自主検閲が状態化しているか、と言う問いに対しては、日本に関しては「イエス」と回答せざるを得ない状況だろう。

 他国と違って自主検閲する側が、国家権力の中にシステムとして組み込まれているだけに、他国に較べてより深刻な状況ということも出来る。
 
 次の問、31.タブーとなっているテーマがあるか?に関しても「イエス」と答えざるを得ない。
日本における「言論の自由」「報道の自由」にとって、大きなタブーは「天皇制問題」「あるいは天皇家報道」と「創価学会問題」だ、と言うことは誰しも異論のないところだ。

 戦後すぐ、昭和天皇の戦争責任問題が浮上した。この時昭和天皇の戦争責任を免責にすることは、トルーマン政権の基本方針だった。天皇の権威を借りて日本を統治した方が遙かに効率的だったからだ。免責の代償は、明治以来営々として築いてきた「現人神」のイメージをはぎ取られ、「人間」になることだった。

 この時からすでにタブー化が始まった。

 敗戦直後、日本中が飢えていた。そんな中でいわゆる食糧メーデーが起こる。1946年(昭和21年)5月19日、皇居前広場でいわゆる「飯米獲得人民大会」が開催される。一説には25万人が集まったという。空前絶後の大集会だ。集まった人たちはさまざまな要求を掲げたプラカードを掲げていた。中で松島松太朗(日本共産党員と言われている。)の掲げたプラカードに

「”ヒロヒト詔書 曰ク 国体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね ギョメイギョジ”」
 
 と書かれていた。いわゆる「プラカード事件」である。

 官憲は拙劣にも、松島を「不敬罪」で逮捕した。昭和21年のこの当時ではまだ不敬罪が法律として有効だったのである。(不敬罪についてはhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E6%95%AC%E7%BD%AAを参照されたい。要は不敬罪とは、天皇神格化に大いに役立った武器だと思ってまず外れていない。)

 当時日本はポツダム宣言を受け入れることによって、無条件降伏した。そのポツダム宣言
原文http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/ferrell_book/
ferrell_book_chap7.htm
 全訳 http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/potsudam.htm )は13項目からなるが、その第10項に次のようにある。

われわれは、日本を人種として奴隷化するつもりもなければ国民として絶滅させるつもりもない。しかし、われわれの捕虜を虐待したものを含めて、すべての戦争犯罪人に対しては断固たる正義を付与するものである。日本政府は、日本の人民の間に民主主義的風潮を強化しあるいは復活するにあたって障害となるものはこれを排除するものとする。言論、宗教、思想の自由及び基本的人権の尊重はこれを確立するものとする。」

 占領軍としては、天皇を神格化するような風潮はもってのほかである。不敬罪はまことに神格化の大いなる武器であったのだから。昭和21年時点で、松島を「不敬罪」で罰することなどは論外である。不敬罪で逮捕してしまった権力側としては困ったろう。

 結局第一審の判決では不敬罪を適用せず、名誉毀損罪で有罪とした。この名誉毀損罪も実はくるしい。というのは名誉毀損罪は親告罪だからだ。これはGHQの入れ知恵と言われている。この判決が出たのは1946年11月2日だが、翌日11月3日には新憲法が公布され、この公布にともなう大赦令で、松島は免訴されている。つまりお構いなしだ。

 当時は天皇を直接拝むと目が潰れる、と信ずる人もいた一方で、松島のように「ヒロヒト」呼ばわりも出来た時代だったのだ。また当時やや公的な場で「天ちゃん」と呼んだりも出来た。また天皇や天皇制をからかったり、冗談のネタにも出来た時代でもあった。

 いつのごろからか「菊タブー」と呼ばれるように、皇室や天皇制度を正面きって批判するようなことができなくなった。


変遷する天皇に対する言葉使い 

 朝日新聞社発行の「朝日新聞に見る日本の歩み」(1977年=昭和52年発行)で、天皇や天皇制に関する記事を拾っていくとその言葉使いが興味深い。

 敗戦直前、昭和20年3月3月19日付けの記事を見ると、「畏し、天皇陛下戦災地をご巡幸」という大見出しで「焦土に立たせ給ひ」「御慈悲の大御心」「1億滅敵の誓ひ新た」などの中見出しが踊り、最大級の敬語を使った記事が並んでいる。小磯首相の談話が、「聖慮を安んじ奉らん」の見出しである。

 またこの周辺の記事は大本営発表の勇ましい記事で埋め尽くされている。

 ところで、昭和52年にこの「朝日新聞に見る日本の歩み」が発行された時点で、この記事につけられた目次見出しが「天皇陛下、焦土をおまわり」である。さすがに「畏し」や「ご巡幸」の見出しでは気が引けたと見える。
 
 敗戦後の昭和20年9月29日、例の有名な「天皇陛下、マ元帥御訪問」の記事が出る。モーニングを着て直立不動の昭和天皇と平常軍服にノーネクタイのマッカッサーが腰に手を当てリラックスした姿と並んで写っている写真とともに掲載した記事だ。まだ「聖上、米記者に御言葉」の中見出しが付けられている。戦争が終わっても不敬罪は残っており、まだ「現人神」の呪縛に縛られたままビクビク周りを窺っている朝日新聞の姿が浮かんでくる。

 昭和20年10月15日付けでは、「美濃部博士久々に天皇論」の中見出しのもとに天皇機関説の美濃部達吉の話がでている。朝日の言葉使いはまだビクビクものだが、それでも大分遠慮のないものとなっている。

 昭和21年2月20日付けの記事は「天皇陛下神奈川県に行幸」の見出しで戦災者宿舎を訪問した模様を伝えている。「漂ふ苦悩の表情」「鍋、釜転がる廊下を歩まる」「食料、住宅はどうか」「声詰まらせる女行員」などの見出しで、心配する天皇とそれを勿体ながる国民を描き出しているが、あまりに記事の意図が見え見えで、読んでいて気恥ずかしくなるほどだ。

 昭和21年5月2日付けは、1面全体をメーデー関連の記事で埋め尽くしている。「世界に和す歴史的メーデー」「働く百万の団結」「民主日本へ力強き前進」「勤労者の政府樹立」「飢餓と窮乏から解放」などの見出しのもとに、メーデー決議をそのまま乗せている。

 同じく1面に掲載された社説では「メーデー勤労大衆の意志」という見出しで、「労働戦線の統一、社会党を中心とする民主人民政府・・・が最大の政治的課題であることが明らかにされたのである。」と書いている。天皇に直接言及した箇所はないものの、記事の流れから見ると皇室や天皇に対する畏敬の気持ちはかなり失せたものとみえる。

 21年5月13日付けでは「宮城へ大衆デモ」の見出しのもとで、世田谷区の「米よこせ大会」が宮城に押しかけた模様を伝えている。中でデモ側の演説の一部、「我々の手に残された道がある。これは天皇のところに行く他はない、・・・このでたらめな幣原やその官僚たちを任命した天皇に・・・。いまこそ天皇のところに、君たちデモの行き先は天皇のところだ。」をそのまま引用し、全体としてはデモ隊に同情的な論調になっている。まだ新憲法公布前であり、不敬罪も残っていたころだ。

 ここでは「畏し天皇陛下」や「聖上」といった言葉は完全に吹っ飛んでいる。

 ここで記憶しておかねばならないことは、新聞は昭和20年8月15日を境にして天皇や皇室に対する言葉使いを変えたわけではないということだ。GHQや権力者、国民の動向を眺めながら天皇に対する扱いを手探りで決めていったということだ。ついでに言えば、この翌日、鳩山一郎を巣鴨送りにした吉田茂が総理大臣になっている。

 昭和21年6月20日付けの記事では、例のプラカード事件が報じられている。

 「問題のプラカード」「“不敬罪”で起訴」「予審抜きで直接公判に」の見出しのもとで事実関係だけを報じている。もっとも「限度を逸した誹謗」という中見出しで「東京地検検事」の談話を乗せているから、どちらかといえば地検寄りか。不敬罪問題は論外としても、言論・表現の自由にかかわる重大な問題という認識はまったくない。この新聞の見識のなさは今に始まったことではない。

 昭和21年11月3日付けではこのプラカード事件の判決を伝える記事が出ている。「名誉毀損で八月」「不敬罪は成立せず」の見出しでほほ事実関係だけを伝えている。記事中での言葉使いは、すべて「天皇」である。「天皇陛下」ではない。

 時間は前後するが、昭和21年8月28日付けでは「皇太子の婦人教師」の見出しで、ヴァイニング夫人が皇太子の英語教師に決まったことを伝えている。記事中はすべて「皇太子」だが、関連記事の皇太子が東京に帰ったと伝える記事ではすべて「皇太子殿下」である。
 
 昭和22年(1946年)になると、「天皇」という表現より「天皇陛下」「両陛下」という表現が目につくが、それよりも記者会見で「うどんやすいとん」を食べている、とか「朝日新聞社に見学にきた」とか「文学者を招いて文学放談をした」「二重橋が解放された」とか親しみやすい天皇を印象つけるような記事が目立ち出す。

 それより興味深いのは、昭和天皇の弟三笠宮妃の父親、高木正得氏の自殺を伝えるニュースが23年7月15日付けで報じられていることである。今なら皇族関連スキャンダルで、新聞はおろか週刊誌、スポーツ紙ですら書かないだろう。

 昭和24年、25年ごろになると奇妙なことに天皇・皇族関係の記事がめっきり減ってくる。
 「九州ご旅行中の天皇陛下が長崎の鐘で有名な永井博士を見舞った」とか「早慶戦を観戦した」とかいったたぐいである。その後の昭和20年代は、さらに拍車がかかって皇室・天皇関係の記事が少なくなる。

 「目立つのは皇太子が英国に旅立った」「秩父宮が死去した」とかの記事がぽつりぽつりでてくるだけだ。

 まるで「下手に天皇にふれない方がいい。ふれれれば親しみは増すが、畏敬の気持ちがなくなる。ふれればふれるほど損だ。」といった意志を感じる。

 突如皇室が突然クローズアップされるのは、1958年(昭和33年)の皇太子(当時。現平成天皇)の結婚だ。11月27日朝日新聞(だけではないが)、号外を出し「皇太子妃きまる」の大見出しで「正田美智子さん(日清製粉社長令嬢)」「皇太子さまがご懇望」「初めて民間から」「愛情に支えられて」の見出しで、壁を破った「人間皇太子」と大いにこの結婚の提灯をもった。この突然の発表に、「ああ日本には天皇がいて、皇室があったんだ。」と思い出した人も多かったろう。その後は一瀉千里の「ミッチーブーム」である。
 
 あっという間に人間天皇を中心とする「愛される皇室」のイメージが作られていった。テレビが「皇室アルバム」という番組を開始して「愛される皇室」を煽っていった。

 この記事で興味ある事実がある。まず朝日新聞が「皇太子」ではなく「皇太子さま」と呼び始めたことである。しかしこのころまだ「美智子さん」だった。この朝日新聞の「朝日新聞に見る日本の歩み」が発刊された当時、1977年はもう「美智子さま」に変わっている。だから本の目次には「美智子さま」と見出しを付け、いざ当時の記事にあたると「美智子さん」の呼び方になっている。いまでは、皇太子妃は雅子さんでは雅子さまだ。
 
 もう一つ興味深い事実は、初めて「皇太子結婚騒動」に関して主要報道各社の間に報道の自主規制があったことを、報道各社自身が認めたことだ。これを認めないと何故突如として皇太子結婚報道が始まったか説明がつかない。「大したニュースではなかった。」と国民に思われては困る。

 戦後「天皇・皇室」の神格化、といって悪ければ、「雲上人化」はこの時始まったといってよい。皇室に悪いイメージを与える報道はしない、という大手マスコミの自主規制もこの時大ぴらになった。この自主規制が後に、マスコミにおける「菊タブー」だけではなしに社会全体を覆い尽くす「菊タブー」に化けていくのだから恐ろしい話だ。言論の統制がいかに民主主義的な社会を基盤から腐らせていくかの見本のようなものだ。


嶋中事件から負のタブーが始まった

 「皇室・天皇」に悪いイメージを与える記事を書かない、必ず美談に仕上げるという自主規制がこの時おおっぴらに始まったとすれば、これに反するとどうなるかを示す、いわば見せしめ的事件がその3年後に起こった嶋中事件である。

 1960年(昭和35年)、中央公論社は12月号に新進小説家深沢七郎の書いた「風流夢譚」を掲載した。内容は作者が見た夢の話である。夢の中で「左慾」の人たちが革命をおこして、宮城に行き皇太子や美智子さんの首を切ってしまう。特に刺激的な表現が「そうしてマサカリはさーっと振り下ろされて、皇太子殿下の首はスッテンコロコロと音がして、ずーッと向うまで転がっていった。」などという下りだ。

 私は当時小学校6年生だったと思う。母親が中央公論と文藝春秋を購読していたので、挿絵いりのこの「風流夢譚」を読んだというより、眺めた記憶がある。「ずいぶん下品な話だな」と思ったことがある。今この風流夢譚を読み返してみて、やはり「下品だな」という感想が変わらないのに驚いた。
(これはhttp://takamatsu.cool.ne.jp/azure2003/s_hukazawa/huryumutan.htm で閲覧できる。)

 この内容に怒ったのが右翼である。中央公論社に続々抗議が続いた。宮内庁も11月に抗議し、中央公論社がお詫びするという事態になった。61年2月17歳の右翼少年が、中央公論社社長の自宅を襲い夫人に重傷を負わせ、お手伝いさんを殺害した事件だ。この少年は大日本愛国党という右翼団体に属していた。このため愛国党総裁の赤尾敏が「殺人教唆」で拘束されたが、証拠不十分で不起訴になっている。

(Wikipediaの記事はどこか腰の引けたところがあるが参考になる。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B6%8B%E4%B8%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6 また、 http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/simanaka.htm の記事と合わせ読むとほぼ輪郭が明らかになるだろう。)

 その後中央公論社はお詫びにお詫びを重ね、それまでの左翼的論調から急速に右翼的論調に変わっていくのだが、この事件の一番の意味は、天皇・皇室に関する限り「言論・表現」の自由より、「不敬」の方が優先するという社会的風潮を作り出すのに大いに役立ったこと、右翼のテロの脅しが実に効果的であることを証明したことだ。

 西山太吉事件の時毎日新聞が孤立無援になったのと同様に、「言論・表現の自由」の立場から、ジャーナリズムは中央公論社を応援しなかった。というよりこの時、中央公論社自身が最初から腰が砕けた。

 前にも見たように、日本に置ける右翼テロは必ず次に起こる何かの露払いである。

 「ミッチーブーム」「嶋中事件」を契機にその後日本の大手ジャーナリズムは一気に「菊タブー」に向かって走り出し、今では社会全体を覆う「菊タブー」という怪物を作り上げた。

 (この題目にかんしては、Wikipedia「菊タブー」の記事が優れている。是非読んで欲しい。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E3%82%BF%E3%83%96%E3%83%BC )

 ここまでくれば、あと一歩、安倍首相が「不敬罪」を作ろうといい出さないとは誰も断言できない。

 といって、安倍首相が本気で戦前までの支配的思想を信じて居る訳でもないだろう。

 1948年(昭和23年)、歴史家の服部之総はこういっている。
ポツダム宣言受諾の日までの支配的日本思想を、敗戦後三年の今日維持しているものがあったら、彼はその支配的思想が支配していた社会状態を愛するがためにそうするのであって、狂人でない限り、その思想じたいを愛するがためでないだろう。」(服部之総「明治の政治家たち上」岩波新書11P)

 それとも60年後、いよいよ狂人が日本の首相になったか?


権力を握ったカルト団体、創価学会

 菊タブーと並んで日本の社会にとって厄介なのは、「鶴タブー」だ。創価学会を批判することがタブーとなっているのだ。(創価学会のマークが鶴なので、鶴タブーと言うのだそうだ。鶴には大変迷惑な話だ。)

 1960年から70年代にかけて、創価学会は凶暴な言論弾圧団体だった。その政治的分身である公明党は、その後細川内閣で連立与党になってから一貫して与党の側に立っている。つまりは完全に権力の側に立っている。かつてのような凶暴性は影を潜め、その言論弾圧体質は若干改善したかに見える。しかしそれは、彼等が権力を握ったからで、大手ジャーナリズムはこれを恐れて、批判しなくなった、つまりは大手ジャーナリズムは完全な自主規制に入ったからでもある。これが「鶴タブー」だ。

 鶴タブーの実態は古典的な「あめとむち」政策で、陰湿である。

 溝口敦が書いているところを引用しよう。
( http://www.asyura2.com/0502/senkyo8/msg/1010.html )
 「なぜ日本の大メディアは創価学会タブーに罹患したのか。不思議なことに創価学会・公明党に強い圧力を加えられたからではなく、単に利益誘導されたからにすぎない。
 公称550万部の聖教新聞、同80万部の公明新聞の印刷を受注すること、あるいは池田大作氏(創価学会名誉会長)の本や学会系雑誌の広告出稿を受けることで、日本の大メディアは自ら学会批判の芽を摘み、自主規制に踏み切っていった。

 聖教新聞の印刷で一番名高いのは毎日新聞系の東日印刷だが、同社は1955年から聖教新聞、62年から公明新聞の印刷を受注している。現在では北海道で毎日新聞北海道、東北で東日オフセット、関東で毎日新聞北関東コアなど同系の印刷会社も受注している。

 もちろん聖教、公明を印刷しているのは毎日系だけではなく、読売系や西日本、京都、神戸など有力地方紙系も受注している。東日印刷は社員約500名で年間売上高は130億円、経常利益18億円の会社である。同社は主力の毎日新聞の他、スポーツニッポン、東京スポーツ、東京新聞、株式市場新聞などの日刊紙も印刷している。

 公明新聞の印刷受注では年間3億円の支払いを受けており、聖教新聞550万部のうちはたして何十万部受注しているか不明だが、せいぜい年間10数億円どまりだろうと推定されている。つまり創価学会・公明党は年間20億円程度の印刷費を支払うことで、大メディア(この場合は毎日新聞系)に同会への批判をタブーとさせた。会員寄付や収益事業によって年間収入は4000億円以上、総資産10兆円と推計される学会としては、笑いがとまらないほど安価なメディア対策費であり、同会は安いカネで最大限の成果を挙げたと豪語できる。

 メディアの側からいえば、決して学会を批判しないという特典を大安売りしたのだが、なぜこうもバカげた悪習が固定化したのか。」


 機密漏洩事件で経営危機に陥った毎日新聞に、聖教新聞を印刷させると持ちかけたのが創価学会だ。この売り上げで、毎日新聞は一息ついた。その代わり創価学会批判は出来なくなったことはよく知られた話だ。

 その次は広告出稿による締め付けだ。

 これはいろんなところで書かれているが、http://www.asyura2.com/0502/senkyo8/msg/631.html で見る
山田直樹の記事などが具体的だ。(週刊新潮2003年11月19日号掲載記事の転載らしい。)

 「グラフをご覧いただきたい。
 これは、主要週刊誌記事のタイトルおよぴ本文中に、「創価学会」もしくは、「池田大作創価学会名誉会長」を含むものをデータ化して作成したものである(学会や池田名誉会長などの略語も含む)

 一見して分かる通り、その惨状たるや「失われた10年の株価」とでも言いたくなるようなものである。

 95〜96年にかけてのグラフの高いヤマは、宗教法人法改正問題、新進党結党から解党に向けて揺れた政治状況を受けて、記事の登場頻度が増加したことを示している。

 他方、99年10月に公明党が与党入りしてからこの方、各誌記事の激減ぶりはすさまじい。

 例えば、95年から97年の3年間に、第1位の「週刊新潮」が122本の学会関連記事を掲載し、最近3年間でも71本の記事を掲載しているのに対し、第2位だった「週刊文春」は、108本の記事を掲載していたのに最近3年間では、わずか16本。第3位の「週刊ポスト」は同じく80本から12本に激減している。

 もちろん、政治社会情勢等の変化があり、この二つの時期を同列には論じられないものの、あまりの変貌ぶりに驚かざるを得ない。

 データにはコラムやエッセーのタイトルや記事中にキーワードがあったものも含めているので、明らかな学会や池田氏への批判記事は、レッドデータブックに載るような「絶滅種」に近い。例えば、今年「サンデー毎日」は9本の創価学会関連記事を掲載しているが、それは政治・選挙がらみのものばかりで、実際に学会の検証や批判をおこなったのは、評論家の佐高信氏のコラム2本だけである。

 それにしても、なぜ週刊誌から「学会批判記事」が姿を消しつつあるのか。

 実は、これは週刊誌に限った現象ではない。新聞、放送の大メディアでも、驚くほど似たような現象が起きているのだ。」

 「埼玉新聞労組は以下のような報告を行っている。
 <経営が厳しく広告に頼っているので、広告のあり方について文句が言いにくい。8月から池田大作の本から抜粋する形で1ページの「記事」が掲載されている。その下に数段の広告が合わせて掲載されているが、広告費はゼロという。しかし、創価学会が掲載日の新聞を数万部購入し、その販売収入は1へ−ジ分の広告費に匹敵するという。月1回か数カ月に1回程度掲載していくようだ。
 読者からは、『お前のところはどうなっているんだ』『なんだこれは、がっかりした』などの批判の声が届いている。
 また、記事においても『池田大作が名誉市民に』とか『創価学会○○支部が誕生』などという記事が頻繁に出るようになっていて、大量部数購入との関連だと思う。「広告がらみではないか」と言われるが、経営が苦しいのであいまいな答えしかできず、編集のみならず全体の士気が下がっている>

 茨城新聞労組も以下のような報告をしている。
<11月には茨城新聞社の編集局長自らが創価学会の記事を書き、『ぜひもの』(優先的に掲載すべきもの)として整理部に記事を出稿してきた。掲載されたその記事は『創価学会 2001年の活動方針決める』というものだった。後日判明したところでは、編集局長は地元の創価学会担当者とつながりがあるらしく、日常的なマスコミ懐柔がこうした『成果』を生んでいるようだ>


 以上が新聞労連の内部資料の抜粋だが、池田大作氏が登場するのは、何もこれら地方紙だけではない。大新聞も同様だ。いくつかその実例を挙げてみよう。
 朝日新聞──「私の視点」への池田氏の寄稿(01年5月23日)。
 読売新聞──政治部長による池田氏へのインタビュー記事掲載(01年7月4日)。
 毎日新聞──主筆とのインタビュー(01年9月25日)。「発言席」への池田氏の寄稿(02年8月19日)。
 産経新聞──論説副委員長による池田氏へのインタビュー記事掲載(01年9月17〜20日)。
 ブロック紙では、
・西日本新聞──編集局長と池田氏の対談を掲載(01年12月3、4日)。
・中国新聞──寄稿「広島の心と平和教育」(02年1月3日)。
 言うまでもなく、これらはほんの一部にすぎない。

 2006年暮れ、私は広島を走る路面電車、広島電鉄の電車に乗った。広告代理店に取っては冬枯れの時期である。電車内の広告を見て驚いた。広島電鉄関連企業の広告と、聖教新聞社、潮出版社、第三文明社の広告ばかりだった。確かに広告代理店にとっては、創価学会は助かるだろう。

 個々の具体的事実は、http://www.asyura2.com/ というWebサイトで、検索から「創価学会」をキーワードに打つとおびただしい記事が閲覧できる。

 ただしお断りしておくが、これらの記事がすべて正しいとは限らない。

 インターネット時代は、言論の自由の時代の幕開けであるが、同時に夥しい情報の氾濫時代でもある。いいかえれば、送り手の責任よりも受け手の責任の方が重い。どの情報を受け入れるか、どう批判的に摂取するかは100%受け手の判断と責任にかかっているのである。少なくとも「権威」や「ブランド」で情報を選択することは出来ない。

 しかし「鶴タブー」の本当の恐ろしさは、彼等がカルト教団のまま、日本の国家権力の一部を握ってしまっているということだろう。ここまできてしまっていることは肝に銘じて欲しい。


外国資本を事実上閉めだしている日本のメディア

 さて国境なき記者団の50の基準のうち、日本の実情に特にあてはまらない項目を探すのが難しいが、ここで注目しておかねばならないのが、41.外国資本のメディアへの投資を極端に規制、という項目だろう。ここで国境なき記者団がこの項目を挙げているということは、報道の自由のない国は、例外なく外国資本がメディア参入出来ない仕組みを作っているからだろう。

 また独立法人経済産業研究所の主任研究員、鶴光太郎は、外国の研究を紹介して次のようにいっている。

「Besley and Prat (2001)の分析にもあるように、外資メディアのシェアの高さが、プレスの自由度や政府の透明性の向上に寄与しうるため、外資規制も集中排除原則と並び、根本的な見直し(緩和)が必要である。」
(氏のサイトはhttp://www.rieti.go.jp/users/economics-review/015.html )

 (なお氏の論文は、主として放送メディアに関する研究である。私は新聞を中心にした印刷メディアばかり扱ってきたが、これは主として放送メディアまで広げてしまうと膨大な分量になるのと、基本的には日本は大手新聞メディアがテレビメディアを支配しているので、大手新聞メディア中心に見てきたと言う事情による。氏の研究は、大手新聞メディア支配の日本にも良く当てはまる。新聞のメディア支配は地方でも基本的に変わらない。県紙やブロック紙はどれぞれの地方に置いて、小マスコミ王国を築いている。)

 日本に置いて外資が日刊新聞メディアに対して直接の投資を規制する法律はない。しかし、巧妙に外資の投資を排除出来る法律がある。

 それが、「日刊新聞紙の発行を目的とする株式会社の株式の譲渡の制限等に関する法律」である。

 元来商法における株式会社の株式譲渡は自由でなければならない。この法律のミソは「日刊新聞紙の発行を目的とする株式会社にあつては、定款をもつて、株式の譲受人を、その株式会社の事業に関係のある者に限ることができる。この場合には、株主が株式会社の事業に関係のない者であることとなったときは、その株式を株式会社の事業に関係のある者に譲渡しなければならない旨をあわせて定めることができる」(第一条)として商法の例外規定で、株式の譲渡制限が付いている。
(なお同法は、たった4条でhttp://www.houko.com/00/01/S26/212.HTM などで読むことが出来る。)

 この一言が極めて威力を発揮する。それを証明する事件が最近発生した。

 高名な経済小説家、高杉良が日本経済新聞社を相手取って、2006年8月14日株主であることの確認を求める訴訟を東京地裁に起こした。高杉良の作品は体裁こそ小説の形を取っているが緻密な取材に裏打ちされており、内容は事実といっていい。その高杉が日本経済新聞社の腐敗を追及していく過程の中で、日本経済新聞社の元記者大竹堅固から同社株の譲渡を受け株主として登記しようとした。日本経済新聞社側は、上記法律に基づく定款を盾にとって、高杉は株主になる資格はない、とした。これに対して高杉は確認を求める訴訟を起こしたのである。
 (参考となるサイトはhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9D%89%E8%89%AF あるいはhttp://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20060726/1153887399 などである。)

 この訴訟の行方そのものにも興味があるが、高杉は日本の日刊新聞ジャーナリズムの閉鎖性の心臓部に切り込んだことにある。

 この法律がある限り、外資どころか自分の支配が及ばぬ人物が株主となることを拒否できる。全員社員や従業員は追い出されたくなければ全員イエスマンとならざるを得ない。


当然始まる大手ジャーナリズムの内部腐敗

 自主規制でがんじがらめにされ、権力と癒着して自ら支配権力のシステムの一部となり、記者クラブ制度に代表されるような言論カルテルの中にどっぷりつかり、菊タブーや鶴タブーのようなタブーに取り囲まれた大手ジャーナリズムの内部で何が起こるだろうか?

 当然ジャーナリズムとしての腐食が始まる。

 最近日本経済新聞社の中で発生した犯罪行為を挙げてみよう。

 児童買春 加藤泰生(40)名古屋支社・インサイダー取引 笹原一真(31)東京・広告局・セクハラ 海外新聞普及社長・元日経常務・助成金詐欺 森明(58)元東京・販売局・助成金詐欺 田中 猛 日経ピーアール元部長・痴漢行為 花輪 契志(60)日経統合システム専務・セクハラ 玉置 直司(47)編集局消費産業部長・・・。2006年1年間で表沙汰になった事件だけである。
(なお、この話はhttp://members.jcom.home.ne.jp/kabu85/index.htmlに詳しい。)

 もちろん日本経済新聞だけではない。最近朝日新聞の丹羽敏通・前東京本社編集局写真センター員(46)は読売新聞・新潟日報からの盗作をした。

 NHKの不祥事はすでにWikipediaの題目になっているほどだ。
(詳細は http://ja.wikipedia.org/wiki/NHK%E3%81%AE%E4%B8%8D%E7%A5%A5%E4%BA%8B )

 こうした不祥事の続発は、偶発的とはどうしても思えない。また朝日新聞や日本経済新聞、NHKなどの個別組織の管理問題とも思えない。

 自ら言論と報道の自由を放棄し、ジャーナリズムとしての活力を失っていった日本の大手ジャーナリズムの腐食過程でたまたま明るみに出た病巣部と見るべきだろう。

これまで、国境なき記者団の世界報道の自由度インデックスとその50の基準を見てきたが、彼等のもつ鏡が歪んでいるのではなく、そこに写し出された「日本の報道」が歪んでいた、と言う結論は今更確認するまでもないだろう・・・。