No.20 平成19年3月15日
トルーマンは何故原爆投下を決断したか? X.米国戦略爆撃調査団報告 ヒロシマとナガサキ 「アメリカには転嫁できない責任がある」


刷り込まれたピカドン

 私は広島の生まれである。小学校も幟町小学校だった。佐々木禎子のいた小学校である。亡くなった祖父母も被爆者手帳を持っていた。小さい頃から「ピカドン」は私の頭に刷り込まれていた。

 私の頭に刷り込まれていた原爆は、今考えてみると、随分いびつなものだった。被爆の惨状だけが大きい空間を占め、「誰が、何のために、原爆を投下したか?」という問題に与えられる空間は、ほんの少しか、あるいはなきに等しい状態だった。

 まして、「ピカドン」が、今自分が生きている「現在」とどうつながっているか、などという問題意識は、恥ずかしい話だが、全くなきに等しかった。

 私の頭に刷り込まれていた原爆は、その意味では「過去」のことであり、抽象的に「もう二度とあってはならないこと。」だった。「ノーモア、ヒロシマ」であり、「繰り返しません、過ちは。」そのものであった。こうした考えが、実は「ピカドン」を「現在」につなげるものではなく、「過去」に固定するものであることにすら気づかなかった。

 自分に違和感を覚えたのは、大久野島の人たちの話を聞いた時からである。広島から東へ60Kmぐらいのところに竹原市がある。竹原市の沖合に浮かぶ大久野島では、太平洋戦争中に旧陸軍が「毒ガス」を生産していた。ここで生産した毒ガスは、大分県の陸軍曽根兵器工場へ送られ、「毒ガス兵器」として、日本国内に配備されただけでなく、中国大陸へ送られ、実戦で使用されていた。こうしたことが判明するのは、戦後何十年も経ってからである。日本の政府は、従軍慰安婦問題同様、こうした事柄には積極的に解明に動かない。

 大久野島の人たちというのは、この毒ガス工場で実際に働いていたか、あるいはそれに関連した仕事に直接従事していた人たちのことである。もちろん一番危険な現場にいた人たちは昭和30年頃までにはほとんど死んでしまっている。だから今生き残っている人たちは、比較的危険でない現場で働いていた人たちか、あるいは当時若く、頑健な体をもっていた例外的な人たちである。島全体が毒ガスの霧で覆われていたことを考えると、今日の基準で言えば、危険でない現場などはなかったのであるが。

 大久野島の毒ガス工場で働いていた人たちは実にさまざまである。徴用工、養成工、島に病院と呼んでいいほどの診療所があったから医師、看護婦。島全体は秘密を保持する必要があったから、完全なアウタルキーだった。だから有りとあらゆる職種の人が必要とされた。最盛期島全体で働いていた人は6000人だったという。最後には、高校生、中学生、女学生、小学校の児童までかり出された。


体験を歴史相対化している大久野島のひとたち

 竹原市の仕事でこうした人たちにインタビューする機会をもった。

 違和感を感じた、というのはこうしてインタビューした人たちの意識である。一致した共通点がある。毒ガス工場で働いたという経験が、現在のわれわれを取り巻く政治情勢とキチッとつながっているのである。何故かはわからない。はっきりしていることは、自分たちの、「毒ガス生産に携わった」という体験が、決して過去の断絶した体験ではなく、「現在」に連続しているのである。こうした観点から現在を見据えているのである。

 大げさに言えば、自分の個人的体験を「歴史的に相対化」しているのだ。歴史家や評論家がこうした「歴史の相対化」に成功するケースはよく見られる。しかし大久野島の人たちは、これに庶民レベルで、一般市民レベルで成功しているのだ。何故かはまだよくわかっていない。

 当時私が持っていた「原爆観」との決定的違いがここにある。私は原爆の直接体験者ではないが、小さい頃から刷り込まれた内容からいえば、「ピカドン」の話は身近以上のものがある。幼い頃聞いた祖母の逃げまどった話はいまでも生々しく私の脳裏にこびりついている。


政府文書は人民のもの

 「広島や長崎に何故原爆が落とされたのか?」そして「それは、今現在の核兵器を巡る情勢とどう連続しているのか?」というテーマは、こうして私の問題意識となった。そしてロバート・ファレルという歴史学者が編纂した「トルーマンと原爆:文書から見た歴史」という一種の電子ドキュメンタリーに出会った。

 ファレルは(いまでもこの発音に自信がない。フェレルかもしれない。)、「トルーマンと原爆」というテーマを展開するにあたって、自分ではほとんど分析めいたことは言わずに、理解するのに最低限必要な文書を示す、と言う方法をとった。「理解したければ、この文書とあの文書を読みなさい。」というわけだ。そして「読んだ結果、君がどのような見解を抱くかは、私の預かり知らないところだ。それは君の見解だからだ。」

 ファレルの指示した文書は、すべて同時代の第一次資料だった。これが可能だったのは一つには、アメリカ政府が、政府文書は人民の共有財産であり、一定の期間をすぎれば人民に公開しなければならない、と考え文書を保管してきたからである。そしてどんな秘密文書も50年の保持期間を過ぎ公開文書になっていたからである。もう一つの大きな要因は、われわれがインターネット時代に突入していたことである。いくら公開文書だからといって、米公文書館に出かけてマイクロフィルムを探し出し、そこから必要な文書をコピーするなどと言うことは、私にとっては費用的にも時間的にも絶対不可能である。検索する手間さえいとわなければ、ファレルの指示する文書はいくらでもインターネットから取り出せる。米公文書館に行く費用と手間暇を考えれば、インターネットで検索する手間などなにほどのことがあろうか・・・。


広島への原爆投下は政治問題

 こうしてファレルの指示する文書を読み進むうちに、いくつか分かってきたことがある。

 まず、広島への原爆投下(日本に対する原爆の使用)は完全に100%政治問題だったが、長崎への原爆投下は100%軍事問題だったということだ。
 
 このうち政治問題としての「広島に対する原爆投下」は特別な意味をもっていた。この意味は、私の問題意識「なぜ原爆を投下したか?」というテーマと直接関わっていた。

 当時トルーマン政権内部で、政治問題としての「日本に対する原爆の使用」は、常に戦後の「核エネルギー研究開発・管理体制」をどう構築するか、という文脈の中で語られていた。決して対日戦争をどう早期終結するか、という文脈の中では語られていなかった。

 つまりこういうことである。

 もともと、原爆の開発計画である「マンハッタン計画」は、特殊な戦時計画としてスタートしている。だから、この計画は秘密予算(blind appropriations)だった。予算については連邦政府は連邦議会と常に緊張関係にある。連邦議会は連邦政府のお金の使い方に常に目を光らせる役割を担っている。しかし、特殊な、戦時予算については別扱いを受けた。マンハッタン計画の予算についてもそうである。当時陸軍長官だったヘンリー・スティムソンは、広島への原爆投下直後出した陸軍長官声明で次のようにいっている。
(マンハッタン計画の)基金の予算化の問題に置いては、議会は陸軍省長官と参謀総長の、予算は国家安全のためには絶対に必要とする保証を受け入れた。陸軍省は、その信頼が決して間違ってはいないということに議会が合意することに確信をもっていた。」

 マンハッタン計画に対する支出については、戦時下において政府と議会の信頼関係の元に、議会はめくら判を押してくれたというのである。


戦後体制の文脈の中で語られる原爆使用

 ところが、「マンハッタン計画」をすすめ、原子爆弾の研究開発を進めるうちに、原子力エネルギーの将来がとてつもない可能性を秘めていることが、関係者の間で了解されるようになった。それは単に軍事兵器としての可能性ではない。文明社会に一大エネルギー革命をおこすような大きな可能性だった。トルーマン政権が、「日本に対する原爆の使用」の問題を常に「戦後の核エネルギー体制構築」の文脈で語ってきたにはこういう背景がある。

 ためしに、暫定委員会の議事録の討議項目を順番に並べてみよう。議事録のなかでもっとも重要と思われる1945年5月31日、6月1日、6月21日の3点である。

1945年5月31日 暫定委員会の流れ
1. 委員長あいさつ
2. 開発の段階
3. 国内計画
4. 基礎的研究
5. 管理と査察の問題
6. ロシア
7. 国際的計画
8. 日本とその戦意に対する効果
9. 望ましくない科学者の取り扱い
10. シカゴ・グループ

1945年6月1日 暫定委員会の流れ
1. 委員長あいさつ
2. 競争力の懸隔
3. 戦後の機構―産業人の見解
4. 戦後における機構―委員会討論
5. 直近の予算
6. 日本への使用
7. 広報活動
8. 法制化

1945年6月21日 暫定委員会の流れ
1. 対外発表用声明原稿
(1) 核実験時
(2) 大統領声明
(3) 陸軍長官声明
2. 原爆使用の後の一般的かつ継続的対外発表に関する政策について
3. ケベック合意の第二条項
4. 科学顧問団にウレイ博士を追加する請願
5. 科学顧問団の提言
a. 研究・開発・管理に関する将来政策
b. 原爆の即時使用
c. 暫定計画
(* ここで暫定といっているのは、7月1日以降の予算計画のことである。マンハッタン計画の予算はその6月30日で議会の承認期限切れになる。)
6. 3巨頭会談におけるこの議題の位置づけ 
(* 3巨頭会談はポツダム会議のこと。)


 ここでやっと「産業界」が登場する。

 「マンハッタン計画」は、連邦政府がすべて内部で開発・研究・製造まで一貫しておこなったのではない。「計画」そのものが「請負契約」で、必要なプロジェクトを秘密保持条項のもとで、どんどん民間企業に発注していったのだ。重要な研究は、マサチューセッツ工科大学やハーバード大学、シカゴ大学、カリフォルニア大学といった研究開発機関が担当した。大学側から言えば、これは貴重な「売り上げ」である。


マンハッタン計画は巨大市場創設

 つまり「マンハッタン計画」とは、トルーマン政権・米軍部・一部大手企業・大手総合研究教育大学の知恵と力を総結集した、一大プロジェクトだったのだ。こうしてマンハッタン計画に参加した一部大手企業もまた、「原子力エネルギー産業」がとてつもない可能性を秘めた「市場」であることに気がつく。いや彼等こそ、工場の建設、運営、調達、製造まで直接担当したのだから、その可能性にいち早く気がついたに違いない。

 こうした企業群の中には今もアメリカを代表する企業が含まれている。スティムソンの陸軍長官声明は次のようにいっている。

計画の成功に大きく寄与した産業界の企業をすべてリストするわけにはいかないが、いくつかは触れておかないわけにはいかない。デュポン・ド・ヌムール・カンパニーはワシントン州ハンフォード工場の設計建設とその運営を担当した。ニューヨークのM・W・ケロッグズ・カンパニーはクリントン工場の設計をし、そのクリントン工場はJ・A・ジョーンズ・カンパニーが建設し、ユニオン・カーバイド&カーボン・カンパニーが運営した。クリントン第二工場はボストンのストーン&ウエブスター・エンジニアリング・コーポレーションが設計建設をし、テネシー・イーストマン・コダック・カンパニーが運営した。装置機器類についてはほとんどアメリカの全ての主要な企業が供給した。代表的なところではアライド・ケミカルズ、クライスラー、ジェネラル・エレクトリック、ウエスティングハウスなどである。大企業、小企業を取り混ぜてこれらは文字通り、計画成功に貢献した何千もの企業のほんの数例である。この兵器開発の成功に与って力のあった産業界の貢献を詳細に語ることのできる日がやってくることを希望する。」


 こうした企業群が手にした新たな「核エネルギー市場」の規模はどれだけだったか。先の陸軍長官声明では、1945年6月30日までの予算期限での規模を19億5000万ドル、と述べている。少なくとも20億ドルはくだらなかった、と見ることが出来る。

 こうした企業群やそれを支持する利権型の政治家(当時国務長官だったジェームズ・バーンズはこうした利権型政治家の代表格と見なされる)たち、また後の大統領アイゼンハウワーが「軍産複合体制」と適切にも形容したように、産業界と癒着した一部軍人(戦後すぐにスペリー・ランドの副社長となった、マンハッタン計画の執行総責任者レジール・グローブズはこの代表格と見なされる)たちが戦後も「核エネルギー市場」の開発・研究を継続したい、と考えたのも自然な成り行きだろう。


連邦予算で基礎研究の継続

 しかし民間企業側には大問題があった。戦後も「核エネルギー市場」の研究・開発を継続するのは、あまりにも金がかかりすぎるのである。今考えてみれば、当時やっとの思いで製造した原爆も、ほんのよちよちあるきの初歩的なものだった。これをさらに可能性をめざして開発を続けて行くにはどれくらいの金がかかるのか、誰にも予測すら出来なかった。しかし関係者の間ではこの「開発・研究は継続しなければならない。」という点では完全に一致していた。となれば残る手段は連邦予算を使うしかない。民間企業家の立場からいえば、基礎研究にかかる金は連邦政府に肩代わりさせ、あとでその成果だけをすくい取って商品化していくことになる。

 マンハッタン計画に協力した大企業の経営者たちを招聘して行われた、1945年6月1日(金曜日)の暫定委員会では、企業家たちは秘密会議であることに気を許したのか、かなりあけすけにその本音を語っている。
 
バーンズ氏(国務長官)は、この計画を持続するため、戦後はどのような型の機構を設立すべきであろうか、と質問した。この質問を補足する形で、カール・T・コンプトン博士(科学技術研究開発局現業活動事務所長 マサチューセッツ工科大学学長)は、もっとも現実的な問題は、産業人の目から正当に見て、いかなる形の機構がこの分野における潜在力を最もよく引き出すことができるかである、と指摘した。

 ラファーティ氏(ユニオン・カーバイド社副社長)は、現在の政府・産業界・大学間のパートナーシップは継続すべきだと述べた。

 ブッチャー氏(ウエスティングハウス社長)は、現在の機構は少なくとも後1年は継続すべきだと奨めた。更なる基礎開発の必要性は、特に(核エネルギーの)「パワー」の点でその必要性が高まる、そしてそれは産業界においても十分に有用性が出てくるだろうと指摘した。カール・T・コンプトン博士は、特定の民間企業が核に関する研究人材を保持し、公開の形で政府予算に支えられて継続し、この分野の潜在力を評価するのが望ましい、と指摘した。

 カーペンター氏(デュ・ポン社長)は、この懸命な努力全体の中で、産業界の積極的な参加は、恐らく今後も継続するであろうが、(今はその参加は)操業レベルにとどまっている。もっと幅広い基礎的研究にその必要性があるのではないか、と強調した。産業界は、この基礎的研究を、それ相当な規模で推進する立場にない。産業界の実用的研究を鼓舞すべく、政府がそれ相当な規模での基礎研究に責任を持つべきである、と述べた。この開発に関わる範囲は同心円的に巨大であり、民間産業界で行うべきではないと深く確信している、と述べた。国家的利益の観点からは、政府が圧倒的にこの役割を担うことは当然のこととして誰しも疑いようなことである。政府がこうした大規模な基礎開発計画を統御し財政的に支援を行うことは必要であるばかりでなく、ウラニウムの安定供給について責任をもって保障することにもなる。そして以下のような計画を推奨した。

1.原子爆弾の積み上げ方式での貯蔵。
2.非常体制を備えた工場の設置。
3.基礎研究への傾斜集中化
4.ウラン供給の安定的統御の保障 」


 要は、これからも膨大な基礎研究開発予算が必要だが、それは民間企業にはなじまない、連邦政府の予算でやってくれ、ということだ。今は議事録に残る形で誰もこんなにあけすけには語ってくれないだろう。


戦時予算の平時予算への移行とヒロシマ

 こうなると次の問題は、いかにしてこうした要求を政策化して、連邦予算の中に組み入れるかである。ここで忘れてならないのは、「マンハッタン計画は」戦時予算だったということである。戦時予算だったからこそ、議会はこの予算の規模・使途・結果に目をつぶり、フリーハンドをトルーマン政権に与えたのだ。平時予算となるとそうはいかない。ひとつひとつ議会のチェックが入り、規模・目的使途に制限が加わることになる。実際に、戦後「マンハッタン計画」がどのようなチェックを受けたか、私はまだ調べていないが、それまでのような自由な使い方が出来なかったであろうことは間違いない。また平時においても「マンハッタン計画」が必要にして不可欠の予算項目として、連邦議会がこれ自体を承認したかどうかは全くの推測の域を出ない。現実は全く別な方向をたどったのだから。

 ここで「日本に対する原爆の使用の仕方」、別ないいかたをすれば、「広島への原爆投下の仕方」が政治的に決定的重要性を帯びることになる。

 当時「原子爆弾」という秘密兵器の帳の開け方には様々な議論があった。
1.非人道的だからこれを使用すべきでない。
2.威力を見せればいいのだから、どこか無人島でデモンストレーションすれば十分だ。
3.日本に対して使用する場合でも事前に警告してから使用すべきだ。
4.日本に対して無警告で使用すべきだ。

 忘れてならないことは、「原爆は秘密」だったという単純な事実だ。だから上記の議論も各界トップのほんの一握りの関係者の間で行われていた議論である。しかしこうした議論を整理してみると上記のような分類のどれかに当てはまるだろう。

 しかし上記の議論も、さらによく整理してみると、2段階の2者択一の組み合わせであることが分かる。
  それは、
1段階 原爆を使用するか、しないか。
2段階 使用にあたって、警告するか、しないか。

  である。

 実際には上記分類の4.「日本に対して警告なしに使用する。」が決定されたわけだが、ここで私がとまどうのは、あれほどいろんな議論が出ていた日本に対する原爆使用問題が、「警告なしの使用」となるとピタリと議論がなくなってしまうことだ。つまり暫定委員会の議事録も、科学顧問団の勧告書も、スティムソン日記ですら、まったく説明してくれないのだ。なぜ「警告なしの使用」となったのか誰も説明してくれていないのだ。

 唯一、暫定委員会のメンバーだったラルフ・バードが、「警告なしの投下」を決定した暫定委員会の後で、委員長でもあったスティムソンのもとに書簡を送り、「人道主義的観点から見て、自分は警告なしの投下には反対である。」という趣旨の付帯意見書とでもいうべき手紙を送りつけたのみである。といってこのバードも体を張ってこの決定を覆そうとしたわけではない。「自分は反対だった。」という見解を歴史にとどめようとしたものである。従って、このバードの手紙も「何故警告なしの投下に決まったか」という肝心な説明は全くしていない。まさに歴史の謎である。


 
警告なしの投下は冷戦を激化するため

 当時関係者ではあったが、トルーマン政権とは全く異なる観点からこの問題を注視していたグループがある。シカゴ大学冶金工学研究所で働くマンハッタン計画の主要な科学者たちだ。トルーマン政権が、資本主義の擁護者・担い手という観点(もう少しむきつけにいえば、独占資本主義の政治的支配者の観点)から、この問題を見ていたのに対して、シカゴ大学冶金工学研究所の科学者たちの観点は、「近代民主主義思想に裏打ちされた人道主義」ともいうべき観点だった。
  
 その科学者たちは、1945年6月11日、陸軍長官スティムソンあてに「政治ならびに社会に関する委員会報告」と題する報告書を提出する。いわゆるフランク・レポートである。
 
 フランク・レポートは、自らを「原爆の危険性をもっとも知悉した科学者でありかつ市民グループである」と規定し上で、「核兵器が人類の運命にとって極めて危険な存在であり、これを廃絶しなければならない。」と訴え、「今なら、それができる。」と説いている。そうして、もし、その逆、すなわち、無限の核競争に入り、核戦争の危険に大きく近づきたいならば、たったひとつのことをすれば事足りる、といっている。

この見解からすると、今現在秘密に進められている核兵器を、初めて世界に明らかにする方法が非常な、ほとんど運命的といえるほどの重要性を帯びるのであります。

 可能な一つの方法は―中略―日本で適切に選択した目標に対して警告なしに使用することであります。−中略−もし全面的核戦争防止協定が、なににも替えがたい最高の目的だと、われわれが見なすならば、またそれは達成可能だと信じているならば、原爆をこのような形で世界に登場させると、いとも容易に(核兵器全面廃止)条約の締結成功の機会を打ち壊すことになります。ロシア、また同じ同盟国や中立国ですら、われわれの方法論と意図に対して不信感を募らせ、深い衝撃を与えることになりましょう。

 何千倍も破壊的でロケット爆弾のように無差別的な爆弾を秘密裏に準備する能力を持ち、かつ突然その兵器を発射するような国が、自分だけしか持たないその当の兵器を国際条約で廃止しようとの主張が信頼されるかというと、その主張を世界に納得させることは難しいでしょう。」
(フランク・レポート 第V章 「予期される合意」より)

 トルーマン政権内部の第一次資料から直接の裏付けはとれなかったものの、「広島への警告なしの原爆投下」の真相は、このフランク・レポートの指摘通りだったであろうと、私は考えている。

 政治問題としての「広島への警告なしの原爆投下」は、意図的にも結果的にも、第二次世界大戦後の核軍備競争の時代を華々しく開き、髪の毛が逆立つほどの恐怖を覚えたスターリンは、なりふり構わず原爆開発を急ぎ、製造の秘密はマンハッタン計画から盗んで、わずか4年後の1945年にはセミパラチンスクで長崎型とそっくりのプルトニウム原爆を炸裂させて、アメリカに対抗するのである。当時ソビエトは、対ドイツ戦争で工業も農業も市民生活も荒廃し尽くしていた。戦後予算はこうした分野に振り向けられるべきであった。しかし、スターリンはアメリカの読み通り、核兵器開発に狂奔し、冷戦の骨格を自ら固めていくのである。
 
 トルーマン政権の狙いはあたった。冷戦構造が深化していく過程のなかで、戦後も核兵器関連予算は、最重要事項としてなんなく議会を通過し、あまつさえ「冷戦」という準戦時体制のもとで、ある程度軍事機密も保持できたのである。

 こうして、「核エネルギー開発計画」としてのマンハッタン計画は、平時における国家政策として、戦後も膨大な予算を注ぎ込みながら、戦時体制から平時体制移行に成功するのである。

 この意味で「広島への警告なしの原爆投下」は、戦後仮想敵国としてのソ連との冷戦を激化させるためであり、連邦予算を潤沢につかいながら、戦後も核エネルギー関連の基礎研究を継続するためだった、と考えて差し支えない。

 それは、対テロ戦争を口実に、今なお膨大な国家予算を軍事や新たな種類の核兵器の開発に注ぎ込んでいるブッシュ政権の姿と似ていなくもない。


アメリカの責任の意味

 ここで大きく浮上してくるのは、アメリカの、直接的にはトルーマン政権の責任の問題だ。広島や長崎に対する原爆投下は、これまで見てきたいきさつからして明らかに戦争犯罪を構成する。さらにいえば、「人道に対する犯罪」である。
 
 私は自分の中で、一時「あれは戦争という特殊な状況でおこった出来事だ。特にトルーマン政権が相手としていたのは、日本の天皇制軍国主義だった。当時日本の軍部は、史上まれに見る劣悪で卑劣な軍事組織だった。自分たちのメンツや利益を守るためなら、一般市民も、沖縄の女学生も、子供も、学生も道連れにすることをいとわない、卑怯者集団だった。トルーマン政権が日本に原爆を使用したのはある意味でやむをえないことだった。」と考えた時期があった。

 「米国戦略爆撃報告調査団書 ヒロシマとナガサキ」の中に次のような一節がある。
(1945年8月9日の御前会議で、降伏を基本的に決めた直後)この時政府部内の高官たちの間に辛辣な皮肉(a quip)が飛び交った。『原爆こそ本当の神風(Kamikaze)だ。これ以上の無益な殺戮と破壊から日本を救ってくれたのだから。』」
(同報告書「日本の降伏の決定」より。
原文:http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/
large/documents/index.php?documentdate=1946-06-19&documentid=
65&studycollectionid=abomb&pagenumber=1

訳文:http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/U.%20S._Strategic_Bombing_
Survey/03.htm


 残念ながらこの話は本当だと思う。当時日本の首脳部は、非軍人も含めて、「天皇制維持」のことしか考えていない無責任な人たちばかりであった。
 
 「日本に対してアメリカが原爆を実戦使用したのはある程度やむを得ないことだった。」

 この私の考え方を一変させたのは、フランク・レポートだった。
 
 フランク・レポートは、その問題に精通した科学者の立場から、核兵器が人類の運命に破滅的な影響を及ぼすことを説き、日本に対して原爆を使用することは、「核戦争時代」へ大きく道を開くことになる、と警告している。そして近代人道主義の立場から核兵器の使用に反対し、次のようにいう。

核兵器の力に関する全容がアメリカ国民の前に明らかになれば、そのような兵器の使用を不可能とする全ての企てに支持するだろうことは火を見るより明らかです。」
(同レポート、第V章「予期される合意」より)


フランク・レポートのメンバーの一人でもあったレオ・シラードの、大統領宛請願書になるともっと痛切
な響きをもっている。

原爆は、まず何はさておいても、残虐な都市絶滅の手段であります。
いったん原爆が戦争の道具として使用されれば、今後長い目で見ればそれを使用したいとする誘惑に打ち勝つことは難しくなるでありましょう。
―中略―
 原爆は各国に破壊の全く新しい手段をもたらすものです。われわれの手にある原爆は、この方向性のほんの第一段階に過ぎません。現在の開発が進んでいけばわれわれが使える破壊力はほとんど無制限となっていきます。破壊を目的する、新たに解放された自然の力の使用を前例とする国は、想像を絶する破壊の時代に扉を開ける事に責任を持つべきであります。」
(レオ・シラードの請願書 第1稿 1945年7月3日)

 シラードは、アメリカ(トルーマン政権)は、想像を絶する破壊の時代に扉を開けることに責任を持つべきだ、と明確にアメリカ(トルーマン政権)の「責任」を問うている。

 私の考えは間違っていた。今現在核兵器を巡る状況を見てみると、危機的状況にある。ヒロシマ型の原爆に換算して約10万発の核兵器原材料がある。その半分以上をアメリカは保有している。核兵器廃絶をめざした「核兵器不拡散条約」(NPT)の追加議定書(プロトコル)すら締結していない。世界中に「核抑止論」をばらまき、「核兵器の保有」を正当化しようとしている。

 こうして状況の根元は、さかのぼって突き詰めていくと、トルーマン政権の日本への原爆投下の問題がキチッと今にいたるも清算出来ていないからだ、と考えるに至った。今から60年以上も前に、フランク・レポートは、「もしアメリカ国民が、核兵器の全容を理解すれば、それを最初に使う国がアメリカであるなどと言うことは、決して容認しないだろう。」といっているが、私も同感である。これをさらに敷衍してみると、現在の核兵器を巡るアメリカの状況、ブッシュ政権の政策を、アメリカの国民が是認しているのは、アメリカ国民が「核兵器の全容を理解していないからだ。」と考えるに至った。

 原爆を投下したトルーマン政権の責任を追求し、その全容を明らかにすることこそが、現在の核兵器を巡る世界の情勢を、「核兵器廃絶」に向けて正しく進めていく第一歩なのである。


平板で退屈な戦略爆撃調査団報告書

 ロバート・ファレルは、今度は「米国戦略爆撃報告 ヒロシマとナガサキ」(1946年6月19日)を読め、という。それが「トルーマンと原爆、文書から見た歴史」第16章」の内容になっている。(原文・訳文)。ファレルは例によって、ポンとこちらに放り投げてよこす調子だ。ただ、この報告書のメンバーの多くは、空軍独立派で、「従来空爆信奉主義者」が多いので、原爆の効果を過小評価しようと言う傾向にある、その点注意して読めよ、といってくれているだけだ。当時空軍はアメリカ陸軍や海軍の指揮下の軍事組織だった。戦争において空軍のもつ比重が重くなるにつれ、空軍内部では独立し、陸軍・海軍とならぶ地位をしめようという動きがあった。これが「空軍独立派」である。

 実際に彼等の希望は叶えられ、この報告書の2年後、1947年、国家安全法が成立し、国防省が創設され、陸軍、海軍と並んで合衆国空軍が創設された。

 「米国戦略爆撃報告書 ヒロシマとナガサキ」を読む私の視点には、これまで説明したような視点、「広島・長崎に原爆を投下したトルーマン政権の責任を追求する」という視点が意識的に加わっている。さらにこの視点自体も一定の進化を見せている。「広島・長崎に原爆を投下したトルーマン政権の責任」ではなく「人類史上初めて原爆を実戦使用したトルーマン政権の責任」へ、である。

 こうした視点でこの文書を読んでみると、全体としては実に退屈で平凡なレポートであることが分かる。 一つに収集した事実をいろんな視点で眺め、検討してみようと言う気迫に欠けていることが挙げられる。単眼的なのだ。

 それとこれは単眼的であるということと大いに関連がありそうだが、全体に非人道的である。原爆を常に投下した側から見ており、投下された側から見てみる、と言う視点が全体に欠けている。従ってレポートとしては、全体として平板であり、非人間的である。これが、「米国戦略爆撃調査団報告 ヒロシマとナガサキ」に一貫する大きな特徴である。

 長い退屈な文章だが一度読んでごらんになるのも良かろう。

米国戦略爆撃調査団報告ーヒロシマとナガサキ
原文:http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/
large/documents/index.php?documentdate=1946-06-19&documentid=
65&studycollectionid=abomb&pagenumber=1
 
訳文:広島及び長崎の原子爆弾投下の効果
その@ 緒言、攻撃と損害、広島まで
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/U.%20S._Strategic_Bombing_Survey/01.htm
そのA 長崎、人的損害、閃光火傷、その他の負傷まで
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/U.%20S._Strategic_Bombing_Survey/02.htm
そのB 放射線症、日本の士気、降伏への決断
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/U.%20S._Strategic_Bombing_Survey/03.htm
そのC 原爆の働き、爆発の性質、熱、放射線、爆風、他兵器との比較
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/U.%20S._Strategic_Bombing_Survey/04.htm
そのD その危険性、対応策、シェルター、非集中化、民間防衛、積極防衛、結論
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/U.%20S._Strategic_Bombing_Survey/05.htm


原爆を理解できない書き手たち

  しかし、部分的にははっとする記述も時々でてくる。ほとんどの記述が、事態を投下された側から眺めようとする部分の記述だ。書き手の複眼的視点と人道主義的な姿勢があって大いに勉強させられる。この報告書のおもしろいところは、明らかにテーマごと、項目ごとに書き手が替わっている、という点だ。しかも最終的な報告書にまとめるときに、単一の編集者がいて、全体的なトーンを統一したり、言葉遣いを訂正したりしたあとがない。項目の書き手の言葉がそのまま報告書の地の文章になっている。だからほとんどの書き手が、広島・長崎での原爆の犠牲者たちのことをcasualty (人的損害)やsurvivors(生存者)と表現しているのに対して、こうして原爆を投下された側から眺めてみようする書き手は、victims(犠牲者、被害者)と表現している。また原爆そのものを表現するにも、こうした書き手は時々、ominous (縁起の悪い、不吉な、不気味な)と形容している。

 これは単に言葉遣いの違いというだけに止まらず、原爆の理解に深く関わっている。米国戦略爆撃調査団に参加した軍人の多くは、原爆の破壊力、惨状、その科学的現象にのみ関心を奪われ、原爆の持つ人類史意味にまったく気がついていない。トルーマン同様原爆が理解できていないのだ。ところが一部複眼的な視点をもつ書き手は、原爆を投下された側から眺めることが出来、従って人道主義的な観点を自分の中に取り込むことが出来、また従って原爆のもつ人類史的意味に気がつくのである。これは単に犠牲者に同情を寄せているのではない。同じ人間として、自分や自分の家族のイメージを原爆の犠牲者に重ね合わせているのだ。だから原爆をominous(不気味、不吉)と形容できるのである。原爆を理解している。

(* 今つくづく思うことは、すでに引退していたヘンリー・スティムソンはこの報告書を読んだのだろうか、ということである。スティムソンは原爆を理解していた。)

 それともう一つ、これまで不思議に思っていたことが、この米国戦略爆撃調査団報告(ヒロシマとナガサキ)を読んで、わかったような気がする。


原爆必要論の淵源

 「原爆」に関する資料を収集する過程の中で、「米国戦略爆撃調査団報告は、『原爆投下は必要なかった』といっています。」といった種類の記述に時折お目にかかる。こうした記述は多く引用出典を明示していない。もしそれが言われているなら、この「米国戦略爆撃調査団報告:広島及び長崎の原子爆弾投下の効果」だろうと考えていた。しかし一向それらしい記述にはお目にかからない。あえていうなら、この報告書の中の「日本の降伏の決定」の中で次のようにいっている箇所だろう。

原爆そのものは軍部をして、本土防衛は不可能と悟らせることは出来なかった。しかしながら、政府をして『武器のない軍隊がどうやって武器を持っている敵に抵抗できるんだ』と言わしめることはできた。このようにして原爆はいわば軍部指導者のメンツ(“face”)を救ったのである。それは決して日本の産業家たちの財産のことを考えた訳でもなければ、日本の兵士たちの武勇のことをおもんばかったためでもない。」
(同報告書:U原爆投下の効果 B.全体的効果 3.日本の降伏の決定 より。)

 この文章でいっていることは、「広島への原爆投下が、日本降伏の決定打になったのではありませんよ。精々降伏時期を早めたか、あるいは陸軍のメンツを救った程度でしょう。」ということだ。

 しかし、今考えてみれば、「原爆が日本を降伏に導いたわけではない」ことは、当時トルーマン政権内部でも陸軍内部でも常識だった。この報告書はごく常識的なことを書いているに過ぎない。広島への原爆投下の目的はこれまで見たようにまったく別なところにあったのだから。まさしくトルーマンがポツダム会談の時に、自分の日記に書いているように、「ソ連が参戦すれば日本は音をあげる。」だった。マーシャルは「少々時間はかかるかも知れないが、ソ連なしでも日本を無条件降伏に持っていける。」とポツダム会談前のホワイトハウスでの「分析会議」で言っている。

 この文章はその当時の常識を単に皮肉っぽくなぞったに過ぎない。

 問題はこの文章(直接この文章ではないかも知れないが、これに類した記述。あちこちにこうした記述は出てくる。)を、何故「原爆投下は必要なかった。」と読むのかである。


トルーマン政権の自己正当化

 戦後トルーマン政権は、日本に対する原爆投下を正当化するために一大キャンペーンを張る。その趣旨は、

日本を降伏させるためには原爆投下が必要だった。原爆投下は100万人のアメリカ人将兵の命を救った。」

と言うものである。引退して80歳だったスティムソンもこのキャンペーンに協力した。アメリカの有名な雑誌に「原爆投下擁護論」を展開する。トルーマンは自分回想録にも大まじめでそういう内容のことを書いている。このころから常識が常識でなくなる。

 私の問題意識からして、今一番重要なことは、一般のアメリカ人がこのキャンペーンに進んで乗っていった、ということだ。まだ詳しく調べてないが、恐らくは広島・長崎への原爆投下は一般アメリカ人の「心の痛み」とまではいえないにしても、「心の痛み」のその又下層の「疼き」になったのではないかと思う。その疼きを癒してくれたのが「原爆投下は100万人のアメリカ人の将兵の命を救った」とするキャンペーンだった。


アメリカ人の「疼き」を癒した正当化論

 このアメリカ人一般がもった「疼き」について、戦後レオ・シラードがUSニューズ&ワールド・レポートとのインタビューで実にうまい表現をしている。

 アメリカ人は原爆の投下に対して「罪の意識」を感じているだろうか、というUSニューズ&ワールド・レポートの質問に対してこう答えている。
   
私は、それを『罪の意識』そのものとはよびません。ジョン・ハーシーの書いた「ヒロシマ」という本を憶えているでしょう。アメリカでは大変な反響を呼びましたが、イギリスではさっぱりでした。なぜ?
 それは原爆を投下したのがアメリカであって、イギリスではないからです。意識の下のどこかで、われわれは原爆のくさびを打ち込まれているのです。イギリス人にはこれが全くありません。  
 でも私はそれをまだ『罪の意識』とは呼びませんね。」(1960年同誌8月号)

 こうしたアメリカ人のセンティメントに、「原爆はアメリカ人将兵の命を救った。」とするキャンペーンはぴったり合ったのである。
 
 なお同じインタビューで、シラードはスティムソンがキャンペーンに協力して有力雑誌に寄稿した記事のことを、こういっている。

スティムソンさんが原爆について深い考えをもった思慮深い人であることは知っていました。彼はトルーマン内閣の中ではもっとも思慮深い人の一人でした。
 ヒロシマの後、スティムソンさんがハーパーズ・マガジンに書いた記事は例外だと受け止めておかねばなりません。その記事の中で、彼は原爆の示威使用(demonstration)は、2つしか原爆を持っていなかったのだから、不可能だったといっています。そして2つとも示威使用の段階で仮に不発だったとしたら、アメリカの面目は丸つぶれだった、と言っていました。
 今この議論は全く無効ということがはっきりしています。確かにヒロシマの時点では原爆を2つしか持っていませんでした。だけどあと数発持つのにそんなに長く待つ必要はなかったのですから。」


投下後すぐに開始?自己正当化

 しかも、トルーマン政権の「原爆投下正当化」は原爆投下直後からすでにはじまっているようなのだ。その痕跡は、1946年6月に公表された、この「米国戦略爆撃報告 広島と長崎への原爆投下の効果」にも表れている。それは「日本の降伏」と「原爆」をそれとなく近づけようという努力だ。

 「米国戦略爆撃調査団報告-太平洋戦線」の団長、フランクリン・ドリバーはこの報告の日付の翌日6月20日づけで大統領トルーマンに手紙を送り、19日付の報告の内容は、国務長官、陸軍長官、海軍長官の承認を得てあり、またマンハッタン計画の機密保持事項とも合致していると確認した上で、トルーマン大統領の見解を取り入れてあるので、もう公表しても大丈夫だと、いっている。
 (ドリバー団長のトルーマン大統領への手紙
原文:http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/large/
documents/index.php?documentdate=1946-06-20&documentid=16&studycollectionid
=abomb&pagenumber=1

訳文:http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/U.%20S._Strategic_Bombing_Survey/
20thletter.htm


 この手紙の内容から察するに、ドリバーは1946年6月9日付けの報告書をまず作成し、事前に大統領トルーマンと面談し、トルーマンの見解をとりいれて若干修正し、修正した内容で6月19日付けの報告書としているようなのだ。

 それではどこに修正が加わったかというと、「日本の降伏の決断」の項である。それではどう変化したかというと以下の通りである。

3.日本の降伏の決定
 日本の指導者層の戦意及び戦争放棄の決定に与えた原爆の影響のさらなる問題は、その他の因子と密接に結びついている。原爆は、投下目標地域以外の各階層の民間人の戦意に与えたのより、日本政府の指導者層の考えにより大きな影響を与えている。しかしながら原爆が、降伏による平和必要性に影響力をもっている指導者層を得心させたかというとそういうことは出来ない。戦争を終結させる道と方法を模索する決断は(降伏への決断は)部分的には、一般民衆の士気の一番低い状態に関する知見に影響を受けており、(6月26日に天皇臨席のもとで開かれた最高戦争指導会議にその最初の決断を見ることが出来る。)、1945年5月までの最高戦争指導会議でその方向への第一歩が取られていた。

 (しかしもちろん政府関係者の影響力のある人たちの合意を得るには至らなかった。)
(参照:1946年6月9日版 「日本の降伏の決定」の訂正 9日付けの関係部分
原文は
http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/large/
documents/index.php?pagenumber=2&documentid=16&documentdate=1946
-06-20&studycollectionid=abomb&groupid=
 
訳文:http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/U.%20S._Strategic_Bombing_
Survey/9th_ver.htm


 赤字の部分が6月19日付けの報告書である。日本の指導者が降伏への本格的模索を開始し始めた時期を、9日では1945年の5月としてあったのを、6月26日御前会議に遅らせている。しかも昭和天皇臨席の御前会議とわざわざ昭和天皇の役割を強調しようとしている。次にこの26日の御前会議でも、全員の合意には至らなかった、と19日付けの報告では書き加えている。これらはドリバーの手紙によれば、大統領トルーマンの見解を取り入れたものということになる。トルーマンは「日本の降伏への決断」に関して昭和天皇の影響をできるだけ大きく見せようとしたと同時に、少しでも原爆の影響を大きく見せようとした、と考えて差し支えない。


「原爆不必要論」はすでにプロバガンダに乗っている

 こうして、「原爆は日本を降伏させた。そして100万人のアメリカ人将兵の生命をすくった。」というプロバガンダは、戦後一人歩きを始める。この議論に対して、「いや、原爆を使わなくても日本は降伏した。」という議論は当然起きてくる。こうして延々「必要・不必要議論」がその後60年以上も続くことになる。

 しかしプロバガンダに対して、反論するのなら、そのプロバガンダ性を暴かなければならない。「日本降伏に原爆は必要だった。」というプロバガンダに、「いや不必要だった。」と反論するのは反論になっていない。自ら「必要・不必要論」の泥沼にはまりこみ、反論どころか、原爆投下の実相を一緒になって覆い隠す効果しか持たない。

 さて、こうした「原爆必要・不必要」の議論が頭に刷り込まれた人が、たまたま戦略爆撃報告書を読んだとしよう。そして先ほどのような記述にお目にかかったとしよう。

 「ほら、調査団も原爆は不必要だった、といっている。」とならないだろうか?

 「米国戦略爆撃調査団報告も原爆投下は不必要だった、といっている。」という話の出どころは案外こんなところではないか、という気が今私にはしている。

 「原爆投下は不必要だった。」と主張すること自体が、すでにトルーマン政権のプロバガンダに乗せられている。


氷解しないナガサキの謎

 もうひとつ私には、大きな疑問がある。それはこの米国戦略爆撃調査団報告(ヒロシマとナガサキ)を読んだあとでも氷解しなかった。長崎に何故原爆を落としたかである。広島への原爆投下は、100%政治問題だった。そしてその理由は今ではよく分かる。しかし長崎については氷解しない。

 米国戦略爆撃調査団報告(ヒロシマとナガサキ)の翻訳メモに私はこう書いている。

長崎の項はこれで終了するが、読み通してみてとっさに感じる疑問は、なぜ長崎に原爆を落とさなければならなかったのか、と言う疑問である。まず政治的には全く意味がない。というのは、長崎原爆投下が対日戦争終結に与えた影響はゼロだからである。トルーマン政権は、日本の無条件降伏はソ連の参戦次第と考えていたし、また降伏の決め手になるのは天皇制の維持(国体護持)を認めるかどうかにかかっている、と考えていた。ソ連が参戦しその上天皇制の維持を認めれば日本は降伏すると見ていた。また、陸軍長官スティムソンや国務長官代行のグルーなどの意見、「天皇制を維持した方が日本占領はやりやすい。」という見方もほぼトルーマン政権の総意になりつつあった。これをはっきりいえなかったのは、天皇戦犯論が他の連合国、ソ連、中国、多くの英連邦諸国に根強く、これを明文化しない方がかえって日本降伏に導きやすいと考えたからに過ぎない。

 一方日本側はどうだったかというと、まさにトルーマン政権の読み通りの動きを見せるのである。

 ポツダム宣言受諾の方向で、最高戦争指導会議とこれに引き続いて臨時閣議が開かれたのは8月9日、ソ連参戦の報をうけた直後である。この臨時閣議が再び最高戦争指導会議に切り替えられ延々と同じ議論が繰り返された。すなわち連合国側は「国体護持」を認めるのか認めないのかと言う点である。この会議の最中に長崎原爆投下の報がはいるが、会議に大きな影響は与えず、同じ議論が蒸し返された。トルーマン政権は天皇制維持を明文化するととても他の連合国の合意は得られないと見て取って、スティムソンの準備したポツダム宣言から天皇制維持をにおわす文言を削除した。そしてついに9日夜半、「日本政府はポツダム宣言が陛下の国家統治の大権を変更するがごときいかなる要求をも含まざるものとの了解のもとにポツダム宣言を受諾するする用意がある。」との声明文を「米英支ソ」4カ国に中立国を通じて送付することを決定するのである。いわば天皇政府とトルーマン政権は、この天皇制維持問題を「あうんの呼吸」で処理したのである。そしてこれが、日本の「無条件降伏」の決定打になるのである。もちろんこれは中立国を通じての意思表示であるから、法的には8月14日の御前会議で正式回答文を作成し、これを連合国側に正式に通知しなければならなかった。しかし実質的には8月9日の最高戦争指導会議で決着がついていたのである。正式通知ではないが、トルーマン政権もこの8月9日の日本政府の決定を実質的降伏受諾と受け止めている。この間のトルーマン政権内部の意志決定は、8月10日付けのスティムソン日記から読みとることが出来る。「日本降伏の第一報と天皇問題 スティムソン日記1945年 8月10日」を参照のこと。
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/stim-diary/stim-diary19450810.htm

 つまり、トルーマン政権も天皇政府も長崎への原爆投下によって、戦争終結が早められたとはほとんど考えていなかったのだ。

 それでは、長崎への原爆投下は何故行われたのか、という問題が浮上してくる。」

 また別な箇所では次のようなメモを残している。
 
これで<原爆と他の兵器との比較>の項が終わっている。長崎では本来の原爆の能力は発揮できなかった、とくりかえし述べている。長崎の地形のせいだ。分かっているなら落とさなければいいではないか。しかし、待てよ。それでは何故本来の能力が発揮できないと想定できる長崎に原爆を落としたのか?

 『長崎に何故原爆を落としたのか?』はずっと引っかかっている疑問である。
もしかすると『長崎に何故原爆を落としたのか?』という問題の立て方自体が間違っていたのかも知れない。

 『何故広島か?』。これは十分説明がつく。軍事問題としてよりも政治問題として、警告なしに日本のどこかへ最初の原爆を落とすことは暫定委員会での決定事項だった。ソ連を震え上がらせ、スターリンがその髪の毛を逆立てるほど恐怖を覚えるやり方で、原爆を国際政治の舞台に華々しくデビューさせることが必要だった。その政治目標を達成するためには、結局「京都」か「広島」への投下が最適という結論を投下目標委員会が出した。京都は肝心要のスティムソンが強硬に反対した。となると残るは広島しかない、と言うことになる。後は天候任せだ。広島が原爆投下に最適の天候になるまで待った。1945年8月4日付のスティムソン日記にはこうある。

やっかいな日だった。
陸軍省からひっきりなしにメッセージが入る。
主にS−1のことだ。(日本の天候のため原爆投下が遅れに遅れた。)
しかしまたバン・スリックの報告書のためでもある。(スティムソンは、バン・スリックの報告を、国務長官代行ジョセフ・グルーの元に届けさせ、よく読むようにといった。そして電話でグルーとその問題について話し合っている。)

 私は取らなければならない休息が十分取れなかった。

 S−1作戦は結局金曜日の夜(8月3日)から、土曜日の夜(8月4日)に延び、さらにまた日曜日(8月5日)に延びることになる。』

 広島には小倉の時のように次の目標はなかった。天候の回復を待って、8月3日、8月4日8月5日と辛抱している。これは目的が軍事にあるからではなく政治にあるからだ。だから広島への投下は説明がつく。

 しかし長崎への投下は全く説明がつかない。小倉がダメだったから、長崎に落とした、それも雲間を狙ってのあぶなっかしい投下だった。そして戦略爆撃調査団報告は、『あれは実力ではない。もっと長崎の条件が良ければ、本当は実際の5倍も破壊力があったのだ』と文句を言っている。

 『何故長崎へ原爆を投下したのか。』という問題の立て方自体が誤りとすれば、正しい問題の立て方は『何故2発目の原爆を落としたのか。』と言うことになる。そして、この設問は『何故2発目はプルトニウム型だったのか。』という設問と同義になる。

 原子爆弾を含めた核エネルギー問題―それは当然核の平和利用問題も含んでいる−について政治的枠組みの中で議論し、大統領トルーマンに政策提言をおこなう役割を持っていたのが、暫定委員会だった。暫定委員会は原子爆弾を含めた核エネルギー問題に関する当時アメリカの、事実上の最高意志決定機関だった。その暫定委員会の、少なくとも主要な議事録を読むと、2発目の原爆の話は全く出てこない。1発目は完全な政治問題として取り扱い、2発目以降は完全な軍事問題として取り扱ったのだ。

 広島の原爆は政治問題だが、2発目以降は軍事問題だったのである。軍事問題としては、『プルトニウム型原爆を実戦で使用し、その性能を検証する』というテーマ以上の軍事問題はなかったであろう。

 1発目は政治問題として「広島」でなければならなかったが、2発目以降は軍事問題として、完全に軍部にその取り扱いを任されていた。だから小倉に落とせないから、急遽長崎に落とす、などと言うことができた訳だ。

 長崎への原爆投下の目的は、いや2発目の原爆投下の目的は、『プルトニウム型原爆を実戦で使用し、その性能を検証する』という軍事目的だったのだ。

 言うまでもなく、これは「戦争犯罪」であり、「人道に対する犯罪」である。 ある意味では広島への投下より残虐であり、非人道的だ。だれかがいったようにこれはsuch a wanton act である。」


ナガサキはプルトニウム型の実証実験だった?

  鹿児島大学の平和学専攻の木村朗は「原爆投下問題への共通認識を求めて−長崎の視点から」という論文の中で、何故長崎へ原爆が投下されたかという問題をとりあげて、いろんな学者の説を紹介しながら、次のようにいう。

長崎への二発目の原爆投下について注目する見解は、これまで主に日本側(特に長崎)の研究者によって提起されてきており、その多くは人体実験説と密接に関係している(注12)。それは、長崎の視点から原爆投下問題にアプローチするもので、長崎原爆は広島に投下されたウラン型とは異なるプルトニウム型であり、アラモゴードで実験済みであったとはいえ、広島原爆と同じく、やはり実戦での使用でその威力と効果を試すためであったのではないか、という点を重視する。これは、7月25日の時点で出された原爆投下指令が二種類の原爆を準備が出来次第、連続して投下することを厳命していた(すなわち、広島原爆と長崎原爆は「ワンセット」としてとらえられていた)という事実とも符合するものである。つまり、米国政府は都市の物理的破壊ばかりでなく都市住民の皆殺しを狙って新型兵器の実戦使用を行ったのであり、人体実験の性格が濃厚であったという主張である。」
(同論文はhttp://www.ops.dti.ne.jp/~heiwa/peace/shiryo/nagasakigenbaku.html )

 木村のいう人体実験は、やや正確な表現ではないかも知れないが、プルトニウム型原爆を実戦で実証実験して見たかったのだ、と言う主張には大いに心を動かされる。


「我が国家には責任が、アメリカ人には転嫁できない責任がある」
 こうして長い、全体として言えば退屈な米国戦略爆撃調査団報告書を最後まで読み進めていった。そして一番最後の「結論」(conclusion)を読んで私は自分の目を疑った。

 この項の書き手は、「フランク・レポート」やレオ・シラードのいう、人類最初の実戦原爆使用を行った国家としてのアメリカの責任、国民としてのアメリカ人の責任を明確に認めているのだ。あきらかにこれまでの執筆者ではない、全く別の書き手だ。

 短いので全文引用しよう。原文


One further measure of safety must accompany others. To adoid destruction,the surest way is to avoid war.This was the Survey’s recommendation after viewing the rubble of German cities, and it holds equally true whether one remember the ashes of Hiroshima or considers the vulnerability of American cities.

Our national policy has consistently had as one of its basic principles the maintenance of peace. Based on our ideals of justice and of peaceful development of our resources, this disinterested policy has been reinforced by clear lack of anything to gain from war - - even in victory.No more forceful argument for peace than the sight of the devastation of Hiroshima and Nagasaki have ever been devised. As a developer and exploiter of this ominous weapon, our nation has a responsibility which no American should shirk, to lead in establishing and implementing the international guarantees and controls which will prevent its further use.”



さらに安全な手段をといっても、孤立して安全な手段というものはない。破滅を避けるもっとも確実な方法は、戦争をさけることである。これが、ドイツで瓦礫の山を見てきた、われわれ調査団の勧奨であった。(* 戦略爆撃調査団は一足先に「ヨーロッパ戦線」の報告を完了していた。) そしてこれはまた、人が灰燼と化したヒロシマを記憶していようが、アメリカの諸都市の(核攻撃に対する)脆弱性に思いを馳せようが、引き続き等しく真実である。

 平和堅持の理念はこれまで一貫して、われわれの国家政策であり続けた。正義と諸資源の平和的発展の理想に基づいて、この政策は、戦争から得るものはなにもない、たとえそれが勝利であっても、得るものは全く何もないという事実によって、これまでも強化されてきた。

 広島と長崎で造り出された破壊の光景は、どんな平和に関する議論や国際的平和機関に関する議論よりも、説得力に富む。
 (* 1945年10月24日、恒久平和を理想として、サンフランシスコで国際連合が発足していた。これには長い議論が費やされた。)

 この禍々しい兵器の開発者として、またそれをくいものとして利用した我が国家には責任
がある。いかなるアメリカ人といえども他に転嫁できない責任がある。二度とこの兵器を使
用しないことを約束する統御及び国際的保障を実行し、そしてそれを確立すべく、主導して
いく責任が。」


 私にはこの無名のアメリカ軍人の文章が、広島と長崎の犠牲者に対する誓いの言葉のように思えてならない。あるいはファレルはここを読ませたかったのかも知れない。

ここの部分の私の翻訳メモには次のようにある。
 「* この最後の結論部分だけ明らかに書き手が替わっている。原子爆弾のことを禍々しい(ominous)といい、これを使用した自分たちをexploiterと呼んでいる。Exploiterは日本語に置き換えれば利用者だが決していい意味では使われない。むしろ利用して食い物にするという意味の強い言葉だ。そしていかなるアメリカ人も責任転嫁できない、no American shirk、と自らを規定し、これからの責任は、原爆が二度と使われないようにする保障を完成させるにあたって、この動きをリードしていくことだ、と言い切っている。これがアメリカの責任だと言い切っている。

 私は、この書き手がきれい事を並べているとは思わない。彼の真摯な姿勢と深い反省は、短い文章だが、その言葉遣いの端々に表れている。だから私は彼の言葉を高く評価したい。

 が、今の問題は、その後のアメリカが、かれの希望したとおりになっていないと言うところにある。その後も彼が「禍々しい」と形容した兵器の製造と蓄積を続け、核兵器不拡散条約の追加議定書も締結せず、核問題に関する国際的な唯一絶対の権威であるIAEAを無視して、その権威をないがしろにしている。あまつさえ実戦で使える小型の戦術核兵器と核シェルターを攻撃できるバンカーバスター型の核兵器の開発に、さらに2000億ドルをブッシュ政権は投じようとしている。

 まさに問題は、彼がアメリカの責任と言い切ったその責任をアメリカが果たそうとしていないところにある。アメリカがその責任を裏切っているところに、すべての問題の根元がある。」