No.23-6 平成21年1月1日


田母神論文に見る岸信介の亡霊
その6 真性民主主義の「歴史認識」とわれわれ市民の責任

「あいまいな田母神の中の日本」

 田母神は、その論文の中で、「邦人に対する大規模な暴行、惨殺事件も繰り返し発生する。」と書いている。この文章の主語はあいまいだが、文章のつながりから見て「蒋介石国民党」だと解釈できる。あるいは「中国人」ということなのかもしれない。あるいは田母神の頭の中では両者は同じことなのかも知れない。

 「蒋介石国民党」だと解釈しよう。「蒋介石国民党」というのは「国民党軍」という軍隊を指すのだと考えてみよう。

( しかし普通中国近現代史を扱うとき、蒋介石国民党といえば、政治政党としての国民党を指し、『軍』を言うときは『国民党軍』という。しかし、政治政党たる『国民党』が、『邦人に対する大規模な暴行』では文意が通じない。従ってここはとりあえず『国民党軍』と理解しておこう。なにやら小学校の国語の時間みたいになってきたが、やむを得ない。田母神の日本語が小学生程度なのだから。しかしここまで丁寧につきあってやる人間は私くらいなものだろう。)

 次に「邦人」を考えてみよう。邦人とは中国現地にいた日本人市民のことだろうか。日本政府関係者やその家族、実業人やその関係者も含んでいるんだろうか?そうだろう。軍人・軍属のことではないだろう。「蒋介石国民党軍」は現地日本軍に暴行を加えたり、「惨殺事件」をおこしたりするはずはない、それは「暴行事件」とか「惨殺事件」とかいわずに「戦闘行為」だからだ。

 そうすると『蒋介石国民党軍』が『現地日本人市民』に対して大規模な暴行を加えた事件、惨殺事件が『繰り返し』発生する、と言う文章になる。

 ここで私は「はて?」と戸惑うことになる。思い当たらないのだ。これに該当する事件が。

 ここで私は田母神にお願いすることになる。「たった一つでいいから、これに該当する事件をあげて欲しい。」と。

 田母神は一つもあげられない。田母神応援団も同様だ。そんな事件はないのだから。少なくとも歴史で確認できる限りは。

 そうすると、田母神とその応援団は次のように言うかも知れない。

 「なかったといいきれるのか?ないのならそれを証明してみろ。」

 さてここからは、歴史学の問題ではなく、初歩的な論理学の問題となる。

 「ある」ことは証明できるが、「ない」ことは証明できない。これは当然のことである。従ってないことの「証明」を求める人間がいるとすれば、その人間はまともに議論をすることが目的ではなくて、別に隠された目的がある人間として、議論の外に置かれる。つまり無視される。

 それでは、「ない」ことが証明できないとすれば、どうすればいいのか?簡単である。「ある」ことを指摘し、その事実をあげればこと足りる。従って論争や議論は、お互いに「ある」ことを提出しあって、その当否を、妥当性を比較検討すると言う手続きに入る。

 「蒋介石国民党軍」が「中国にいた日本人市民に大規模な暴行を加えたり、惨殺した事件」を、一つでいいから田母神はあげればいいのである。挙証責任は田母神にある。

 田母神はあげられない。歴史的事実としてなかったのだから。

 歴史的事実としてなかったことを、あったかのようにして描写する常套手段がある。できるだけ曖昧に描写することだ。曖昧にする常套手段は、いつ、どこで、だれが、だれに、なぜ、を書かないことである。田母神の文章が典型である。田母神の論文で実に苦労するのは、その両義性・多義性である。平たく云えばどのようにも解釈できるし、何も云っていないにも等しい。彼は自分の論理や思想、事実関係を伝えたいのではなく、自分の感じている漠然としたイメージを書き連ねているにすぎない。

 だから田母神の日本語表現能力が小学生のままに止まっているのである。

 「なかった」ことを「あった」かのようにいうことを「ウソ」をつく、という。そのウソが特定の目的のため意図的になされれば、「デマ」を飛ばす、という。

 田母神の「論文」が典型である。(ただそれにしても、このお粗末な日本語表現能力はなんとかならないか。田母神の文章を厳密に解釈しようとすれば、その両義性、多義性にほとほと疲れ果てる。)

実は蒋介石はコミンテルンに動かされていた。1936年の第2次国共合作(*第二次国共合作は1937年であることは、先にも見たとおりだし、多くの識者にも指摘されている。)コミンテルンの手先である毛沢東共産党のゲリラが国民党内に多数入り込んでいた。コミンテルンの目的は日本軍と国民党を戦わせ、両者を疲弊させ、最終的に毛沢東に中国大陸を支配させることであった。」

 歴史認識の誤り、というよりあからさまな「デマ」といったほうが近い。

 「実は蒋介石はコミンテルンに動かされていた。」からみてみよう。


第一次国共合作

 先にも見たように、コミンテルン(第3次インターナショナル)は、孫文の国民党を中心にして、中国共産党を含め、反帝国主義・反封建主義(直接には反軍閥)を旗印に、中国で民族統一戦線の結成を働きかけ、これに成功する。これが1924年(大正13年)の第一次国共合作だった。日本では清浦奎吾内閣が成立し、皇太子裕仁が久邇宮邦彦の娘良子(ながこ)と結婚したころだ。

 ところが民族統一戦線の支柱孫文は、ちょうど1年後の1925年(大正14年)あっけなく死去する。

 その後の孫文国民党はどうなるのか?国民党は1925年7月汪精衛(汪兆銘。精衛は号)を主席(国民党常務委員会主席兼軍事委員会主席)として、広東に『国民政府』を成立させる。

 一方孫文なきあとの北京政府は再び軍閥勢力が実権を握り、段祺瑞政権が成立した。段祺瑞政権は、後ろ盾となる日本やイギリスなどの列強帝国主義勢力、イギリスの香港政庁、それに中国を半植民地状態にしておいた方が経済的に都合のいい一部中国大資本家層(買弁資本という言い方もある)などと協調して、この広東国民政府に圧迫を加えはじめる。

 つまり単純に図式化すると、民族独立戦線に支えられた広東国民政府(中国共産党も参加している)と列強帝国主義勢力と買弁資本に支えられた北京軍閥政権という構図となる。

 ところがことはそう単純ではない。その複雑さは、国民党内部の複雑さでもある。国民党は、孫文の三民主義に共鳴した民族独立派、中国共産党派、それに列強との協力関係を肯定するブルジュアジー(仮に右派としておく)などの寄り合い所帯であった。完全に労働者と中小農民の党というわけではなかった。

 中には軍閥を支持する勢力と階級的利益を共有する勢力すらも含まれていたのである。

 1925年8月、広東国民政府成立の翌月、党内左派の廖仲ト(りょうちゅうがい)
(http://ja.wikipedia.org/wiki/廖仲ト)
が、イギリス勢力と結んだ党内右派に暗殺されるという事件が起こる。
なお、廖仲トの息子が中国共産党史上最大の知日派といわれた
廖承志<http://ja.wikipedia.org/wiki/廖承志>である。)

 1925年11月、国民党右派の中で、北京郊外の西山に集まって、『国民党の中から共産党勢力を追い出せ』と公然と広東国民政府に叛旗を翻す勢力も現われた。(西山事件)

 こうした国民党内事情の中で、めきめき頭角を現したのが蒋介石である。蒋介石の権力の源泉は、彼が軍を握っていたことである。第一次国共合作の時、国民党が自前の軍事力を持つために黄埔軍官学校を創立して蒋介石がその校長に就任したことは前にも説明した。こうした経歴をもつ蒋介石は、国民党の軍事を握りその軍事的背景の元に党内権力を維持していった。

 1926年(大正15年)3月、蒋介石は国民党海軍の中の共産党分子が反乱を企てたと言う口実のもとに戒厳令を敷いて、党内共産党員を逮捕し、コミンテルンから送られたソ連人顧問団の住居と省港罷工委員会を包囲した。これが中山艦事件である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/中山艦事件)

 この事件を通して、国民党軍の単に総監にすぎなかった蒋介石が、軍事委員会主席に就任するなど、軍事力を背景に国民党を掌握していくのである。


蒋介石の政治的性格

 ここで是非とも蒋介石(http://ja.wikipedia.org/wiki/蒋介石)の政治的性格をみておかねばならない。

 蒋介石は1887年(明治20年)生まれ。19歳の時に毛福梅と結婚し、彼女との間に蒋経国が生まれている。辛亥革命に参加し孫文の知遇を得たことが一つの転機になった。孫文に命じられてソ連の軍制を視察するなど、国民党軍の中心人物として成長していった。もう一つの転機は、毛福梅と離婚したあと、浙江財閥の創始者と言われる宋嘉樹の娘、宋美齢(http://ja.wikipedia.org/wiki/宋美齢)と1927年(昭和2年)に結婚したことだろう。この結婚は蒋介石の政治的性格を決定づけることになった。すなわち、蒋介石の権力基盤は強大な軍事力とともに、浙江財閥に代表される大ブルジュアジー層の支持という性格を強めていく。

 浙江財閥とは上海を本拠とする大金融資本家・産業資本家の総称で、その中心が江蘇・浙江省出身者だったからである。蒋介石も浙江の出身である。これらは洋務運動に起源をもつ官僚資本と外国資本に従属した買弁資本から成長したもので、本来帝国主義と敵対関係を持つものではない。同時に必然的に地主・高利貸資本とも一体化していた。従って蒋政権は大ブルジュアジーを基盤としながら、反封建的地主階級の軍閥的性格をそのまま受け継いだ軍閥でもあった。

 その点、蒋介石の真の敵は日本に代表される帝国主義列強ではなく、大資本家層・大地主層の敵である、人民民主主義勢力であった。蒋介石は従って根っからの反共主義者である。

ただ蒋政権が他の軍閥と異なる点は、孫文以来の中国国民党の政治的正統性を受け継いでいた点にある。このことが、蒋介石国民党政権が国際的に中国正統政権と見なされた理由であろう。

すでに蒋介石は、党内共産主義者の逮捕をはじめるなど、共産党勢力との対決姿勢を鮮明にしていたが、1926年(大正15年)6月、国民党は北伐を決定する。


「北伐」の達成したもの

 「北伐」とは、広東国民政府が、北京政府を中心とする軍閥勢力を軍事的に制圧し、中国全体を統一することを目的としていた。また軍閥勢力のために苦しんでいる農民・労働者を解放するためでもある。

 にも関わらず、コミンテルンからのソ連人顧問団、中国共産党は、「時期尚早」としてこれに反対だった。蒋介石の北伐の真の意図を疑っていたからである。蒋介石は北伐に名を借りて、全国統一を成し遂げた後、自己の勢力を伸ばし指導権をとるのではないか・・・。

 実際北伐にもっとも熱心だったのは蒋介石である。しかし広東国民政府は、北伐に踏み切らなければならない事情もあった。

 北京政府の中にも、国民政府支持派が台頭しており、北京政府の傀儡化を政策としていた日本は、奉天派の張作霖を支援してこの勢力を軍事的に一掃しようとした。同じ狙いをもつイギリスは直隷派を支持し、奉天派・直隷派連合で、この国民政府支持派を完全に一掃したのである。

 当時日本は、1924年(大正13年)6月、憲政会の加藤高明内閣が成立して以来、いわゆる政党政治の時代にはいっていた。普通選挙法が共産党対策の治安維持法とセットのようにして成立し、また日ソ基本条約も成立して、やっとシベリア出兵も終了しようとしていたころだ。日本国内から見ると、あたかもデモクラシー全盛のように見えた。(大正デモクラシー)

 しかし加藤高明が、大隈内閣の時の外務大臣であり、21ヶ条の要求をつきつけたことでも分かるように、対中国侵略政策に変更があったわけではない。加藤は、その年の暮れ病気で死去し、26年(大正15年)1月、若槻禮次郎内閣が成立している。

財閥に擁立された加藤高明にしても、自ら内務官僚出身で政党政治家に転じた若槻禮次郎にしても、中国を自分の市場とするという固い決意をもった日本の支配層の方針が変わらぬ限り、中国侵略政策に変更があるはずもなかった。

 北京政府の中の国民政府支持勢力を一掃した、奉天派・直隷派連合政権は、自己勢力地域内部の国民政府支持派の弾圧を開始した。ということは反帝国主義民主運動を弾圧することに他ならない。

 1926年(大正15年)5月に開かれた「第三回全国労働大会」が広東国民政府に、「速やかな北伐」を要請するなど、全国的に北伐を求める世論がわき上がっていた。つまり「北伐」は中国人民のほぼ一致した要求でもあった。

 こうして、1926年7月、広東の国民革命軍(総司令・蒋介石)は、「帝国主義と売国軍閥を打倒して人民の統一政府を建設する。」という声明を発し、全軍10万人をもって北伐を開始したのである。


人民が熱烈に支持した「北伐」

 この後は例によって、「中国近現代史」(岩波新書、前掲書)に語って貰おう。

北伐軍(*国民革命軍)は怒濤の勢いで進撃した。内部が腐敗しきっていた上に相互に利害が対立していた軍閥軍は、革命の意気に燃える北伐軍の前に次々と各個撃破されていった。

まず湖南に進出した北伐軍の主力は、7月11日(*1926年)に長沙を、10月10日には武漢を占領して湖南・湖北の呉佩孚軍を一掃した。9月に湖南から江西に向かった中路軍(蒋介石指揮)は直隷派の孫伝芳(*そんでんぽう)軍の主力を粉砕しつつ11月8日に南昌占領して江西省を手中に収めた。

さらに10月に広州を出発して福建に進んだ東路軍(何応鈞―かおうきんー指揮)は12月9日福州を、翌年2月18日には杭州を占領し、中路軍とともに3月24日孫伝芳の本拠地、南京を陥落させた。その直前の3月21日には東路軍の一部が帝国主義最大の牙城上海郊外に到着した。


北伐軍進路図(資料引用「中国近現代史」より)
クリックすると大きな画像でご覧いただけます。

北伐軍はいたるところで民衆の歓迎を受けた。民衆は敵情報告、道案内、物資輸送に積極的に協力し、軍閥軍の輸送・通信を妨害した。中には北伐軍の到着前に蜂起して軍閥軍を追い散らしたところもある。軍閥が一掃された地域ではどこでも労働者・農民をはじめとする民衆運動が激しく燃え上がった。

中でも農民運動の発展はめざましいものがあった。農民協会員の数を北伐前と較べると、湖南では30万から200万へ、湖北では7万から100万に、広西では6000から38万に、それぞれ増加した。農民たちは地主・豪紳から権力を奪い取り、地代引き下げ、雑税廃止を要求し、さらには国民党の指導を乗り越えて地主の土地没収の動きさえあらわれた。

労働者もまた各地で立ち上がり、武装糾察隊を組織して、帝国主義・反革命資本家と鋭く対立した。なかでも共産党員周恩来らに指導された上海の労働者は過去二度の失敗にもめげず、3月21日ゼネストと武装蜂起で立ち上がり、30時間の市街戦の末、軍閥軍を一掃して臨時政府を樹立した。

こうしてわずか9ヶ月で北伐軍は長江(*長江はチベット高原を水源とし、華中を貫流して東シナ海へと注ぐ中国最大の川。全長約6000km。下流地域は揚子江とも呼ばれる。主要な都市には成都、武漢、重慶、南京、上海などがある。)一帯を制圧し、もとからの根拠地広東、広西に加えて湖南、湖北、江西、福建、浙江、安徽、江蘇の九省を革命のるつぼと化したのである。』

 北伐軍の圧勝である。軍閥政府は中国人民全体を敵に回しては、はじめから勝ち目はなかった。


帝国主義勢力と中国人民の衝突

 「帝国主義列強・軍閥」対「中国人民・広東国民政府」という図式から言えば、広東国民政府・北伐軍の圧勝は、帝国主義列強にとっては大きな脅威である。帝国主義列強と中国人民の直接対決、といっても片方は軍事的暴力装置を持たないから精々衝突、は避けられない流れであった。

 1927年1月(昭和2年1月。大正天皇嘉仁―よしひとーの死去は、1926年12月25日であり、翌26日から昭和元年が始まる。年が変わると昭和2年だから、昭和元年はわずか6日間だった。)、漢口と九江にあったイギリス租界でイギリス兵と民衆の衝突事件が発生した。これにイギリス兵が発砲したため流血事件となった。激昂した民衆は、租界を取り巻き実力でイギリス租界を回収したのである。この事件は2月国民政府とイギリスとの間の交渉で、正式にこの2つの租界が中国側に返還された。

租界が中国側に返還されたケースはこの時がはじめてではないかと思う。専門家でない私は確認する手段をもたない。どなたか教えてくださるとありがたい。)

 同年3月には、南京事件が起こる。ちょうど10年後の1937年に発生する「南京大虐殺事件」とは区別して単に「南京事件」と呼ばれている。

扶桑社発行の歴史教科書では「南京暴動」と記述されているそうだが、私は確認していない。)

 先にも見たように広東国民政府の北伐軍は、このころ南京を本拠とする孫伝芳軍閥に迫っていた。その南京攻防戦の最中に、外国領事館・住宅・教会が襲撃されてイギリス人・フランス人・アメリカ人合計6人が殺されるという事件が起こった。これが孫伝芳軍によるものなのか、国民政府軍によるものなのか、あるいは一般中国民衆によるものなのか、未だにはっきりしていない。

 ただ日本語Wikiepdia「南京事件(1927年)」の項(http://ja.wikipedia.org/wiki/南京事件_(1927年))を見ると、
 まもなく、反帝国主義を叫ぶ軍人や民衆の一部が外国の領事館や居留地などを襲撃して暴行・掠奪・破壊などを行い、日1人、英2人、米1人、伊1人、仏1人、丁1人の死者、2人の行方不明者が出た。この際、日本領事館も襲撃され、暴行や掠奪、領事夫人が陵辱されるという事態となり、領事館を引き上げ軍艦に収容された。 』
とかなり断定的に書いてある。

 また英語Wikipedia「Nanjing Incident」の項(http://en.wikipedia.org/wiki/Nanjing_Incident)にも「国民党軍」が実施したと書いてある。ただ正確にはこの時はまだ「国民党軍」ではなくて「国民政府軍」または「国民革命軍」なのだが・・・。

 どちらにせよ、広東国民政府の北伐の過程で起こった「中国人民」と「帝国主義勢力」の衝突事件であることは間違いない。

 ただちに行動に出たのが、イギリスとアメリカである。軍艦が長江から南京市内を砲撃して、中国人軍・民約2000人が殺傷された。


 「ソフトな帝国主義」だった幣原外交

 当時は若槻禮次郎内閣で、外務大臣は幣原喜重郎であった。ご記憶であろうか、21ヶ条の要求の時に、大隈内閣は軍事力を背景にした強硬路線で直接、中国を侵略する「ハード派」であったとすれば、次の寺内正毅内閣は、中国に日本に都合のいい傀儡政権をたてて侵略する「ソフト派」だったこと、そして以降、この「ハード派」と「ソフト派」がない交ぜになりながら、日本の帝国主義の中国侵略が進行していくことを。

 幣原はソフト派だった。彼の見通しでは、日本の中国侵略にあたって最大の敵は、「侵略と収奪に反対する人民」とそれをバックアップする「中国共産党」だった。むしろ蒋介石は、日本の帝国主義的侵略にとっては協力して行くことのできる相手と見ていた。

この幣原の見通しは、その後の展開から今日振り返ってきても極めて的確なものだった。)

 この事件の時も幣原は列強からの共同出兵の誘いを断っている。「蒋介石のような人物を中心にして時局を収拾させるべきだ。」としたのである。

 前掲書「中国近現代史」は、P116の註で「幣原はこの時すでに蒋介石が派遣した戴季陶(*たいきとうー蒋介石国民党右派)らと接触して、蒋が帝国主義と武力で対決する意図のないことを知らされていたのである。」としている。

 一方、先ほどの日本語Wikipediaでは、
外務省は事件当初から、森岡領事から受けた、共産党の計画による組織的な排外暴動であるとの報告により、南京事件が蒋介石の失脚をねらう過激分子によるものと判断していたが、列強が強行策をとれば蒋介石の敵を利するものだとして、幣原は一貫して不干渉政策をとり、列強を説得した。」
として幣原の政治的意図とは若干的外れな説明をしている。「幣原外交」の本質を理解した説明とはいえない。

なお、日本語Wikipediaは全く同じ事件で別な項目がある。http://ja.wikipedia.org/wiki/南京事件 )

 なおこの幣原の対中国政策、すなわち、直接軍事力を使わず、できるだけ「恫喝」だけに止め、傀儡政権あるいは親日政権を育成しながら、中国に経済的侵略の実益を享受しようという政策は、当時日本国内で「軟弱外交」として非難を浴びた。

 日本語Wikipediaの項「幣原外交」(http://ja.wikipedia.org/wiki/幣原外交)では、単に「穏健な対外協調外交」としている。

 幣原外交は、強圧的な軍事進出をさけ、中国市場をアメリカと分割しようという点にその本質があると私は考えている。これはワシントン体制の維持・発展であり、帝国主義日本の政策とすれば一番賢明だった。(歴史学者はどんな見方をしているのか・・・。)
 
 しかし1927年4月、若槻禮次郎内閣が倒れると、幣原も外務大臣を退き、強面派の田中義一内閣が成立することになる・・。


亀裂が走る北伐後の統一戦線

 一方国民政府の北伐の成功は、同時に国民政府の支持基盤にも亀裂を走らせることになった。

 国民政府の支持基盤は、「中国民族統一戦線」であり、その政治的課題は、「反帝国主義」(すなわち中国の独立)だった。そのために、外国帝国主義の傀儡となっている軍閥を打倒するということだった。

 しかしその過程の中で、当然「5・4運動」以来のもう一つの政治的課題、「中国人民の民主主義革命」の課題を達成しようする動きがでてくる。たとえば長年、大地主に苦しめられてきた農民が、この北伐の中で「農地解放」的な動きを見せてきたことなどがそうだ。また都市労働者が、軍閥打倒・帝国主義的資本家階級に対して戦うときは、労働運動の形をとらざるを得ない。その矛先は自然、中国国内の民族派資本家階級にも向いて行かざるを得ない。

 しかし国民政府の支持基盤である、民族統一戦線のなかには、こうした地主層や民族資本家も含まれていたのである。こうした民族派資本家や地主層が、民族統一戦線の行方に不安を持つのもまた当然の成り行きであろう。

 たとえば、武漢では多くの民族資本が上海などに逃避したし、農村では地主たちが都市に避難し始めた。

 別な表現でいえば、国民党政権支持基盤の中の階級対立が表面化してきたのである。

 この時点で、蒋介石は南昌に国民革命軍総司令部を置いていた。一方国民政府は南京事件後、武漢に政府を置いた。この時の国民政府は、第一次国共合作で、国民党・共産党(共産党員)などで作る連合政府である。また武漢政府の中央は、国民党左派・共産党員などが多数派を占めていた。一方蒋介石とその権力は、すなわちその階級的本質は、先にも見たように「民族資本家や浙江財閥を基盤としながら、反封建的地主階級の軍閥的性格をそのまま受け継いだ」ものだった。共産党員や国民党左派の政治的主張とは相容れない。

 しかも蒋介石自身、共産主義への反発を決して隠そうとしなかった。のちには反共主義のために、虐殺でも暴力団を手先につかうなど何でもするようになった。幣原は、「中国では蒋介石を中心にすべきだ。」と考えていたが、帝国主義日本の立場からすれば、まさにこれは慧眼だった。


「反共主義」の本質

 日本も反共主義の伝統は長い。資本主義・帝国主義の枠内で、自分たちの体制を守ろうとすれば、「反共主義」は当然のイデオロギーであろう。まさに日本は帝国主義者・資本家階級が支配する国なのだから。彼らの反共主義はもっともである。しかしながら、自ら帝国主義者や資本家階級でもない、自分の労働力しか「販売製品」のない、一般労働者(つまりは一般市民である。)が「反共主義者」となっているとすればこれは滑稽である。

 私は「反共主義者」ではない。「反共主義者」には多義性があって、「共産主義思想に反対するもの」「共産党に反対するもの」「共産主義の社会体制に反対するもの」といろいろである。「共産主義体制の社会に反対するもの」という意味で「反共主義」を使うのは誤りであろう。

 「共産主義」は、いまだ地球上に存在したことがない。それがどんなものなのかまだ誰も知らないし、その青写真(モデル)すら、具体的には合意形成されていない。毛沢東は一時期、「中国はこれから社会主義から共産主義の段階に移行する。」と宣言したことがあったが、これは彼自身本気で信じていたわけではない。もし信じていたのなら毛沢東は精神錯乱だったのだろう。いずれにしてもこの毛沢東の宣言は今は誤りとして否定されている。つまり、「共産主義体制の社会」は一体どんなものなのか未だに分からない。分からないものには反対できない。したがって私はこの意味での「反共主義者」ではない。

 「社会主義」にはいろいろすでにモデルが存在する。私なりに比較検討してみると、個人的には、市民民主主義の立場からすれば、「資本主義体制」より「社会主義体制」の方が優れた仕組みだと思う。

 その意味では私は「社会主義者」だといえるが、なにがなんでも社会主義体制にしようとも思わない。要は資本主義であれ、社会主義であれ、それは一つの手段に過ぎない。

 目的は、市民が(つまりは圧倒的大多数の一般人民が)、平和に、できるだけ豊かに、病気や貧乏や、老齢の心配ができるだけ少なく、失業の不安もなく(働くこと、自分の職業をもつこと、は自分の生活を維持していくという意味では義務的営みではあるが、他面、働くことは自己表現や自己実現の重要な手段なので、これは権利だともいえる。いずれにせよ失業者が巷に溢れる社会は、市民民主主義の観点からは最低の社会だ。)、豪邸とはいえないが気持ちよい自分の住居をもち、無償の教育制度が発達し、どんな子供にでも平等に自分の可能性を切りひらくチャンスが与えられ、自分の個性や能力を十分発揮して、一生を終えられる社会を実現することである。

 目的は「生産関係を中心とする、特定の社会経済体制の実現」にあるのではなく、それを手段として真に「市民民主主義的な社会」を実現することにある。まことにケ小平がいつか云ったように、「白い猫であろうが黒い猫であろうが、鼠を捕ってくる猫が良い猫」なのだ。

 「真に市民民主主義社会を実現する資本主義体制」は「真に市民民主主義社会を実現しない社会主義体制」よりも優れている。

 しかし資本主義体制はその根幹に、「真の市民民主主義社会を実現しない要素」を内包している。社会の富の源泉である「生産手段の私有制」だ。今の社会に嵌めていえば、「私企業制」、しかも独占と集中が進んだ今日では「大企業私有制」であり「寡占・独占企業私有制」である。これは資本主義体制の強みであり特徴ではあるが、この仕組みが「真の市民民主主義社会」実現を阻む根本要素となっている。この構造的問題のゆえに私は仕組みとして「社会主義体制社会」が優れているというわけだが。

 「生産手段の私有制」、すなわち「私企業制」には絶対貫徹しなければならない法則がある。「私企業個の利益追求」だ。もし個々の企業がこの法則を貫徹できなかったらどうなるか?知れたことだ。私企業としては、資本主義社会からの退場を命じられる。だから「資本主義社会」のイデオロギーからすれば、「私企業個の利益追求」は「絶対善」なのだ。

 ところが「資本主義社会」における「絶対善」は、「真の市民民主主義社会」のイデオロギーから見ると、必ずしも「絶対善」ではない。時によれば、それは「真の市民主義社会を根底から突き崩す障害」として立ち現れることもある。

08年9月から突然世界を襲った『新自由経済主義的資本主義体制の崩壊劇』とその行く立てを見るにつけ、特にその感を深くする。資本主義は歴史的に、その時々の経済政治社会を主導する体制としては終焉を迎えているのかも知れない。)

 「反共主義」から随分横道に逸れたが、この時の中国人民は、主義や体制など何でも良かった。自分と家族の「平和で安全生活」を守って呉れ、額に汗して働くことを評価してくれる政治勢力であればこれを支持した。

おそらく今でもそうだろう。08年11月中国へ行ってある分析家と話をしていた時、『中国人民は生活を守って呉れているから中国共産党を支持している。もしそうでなければ、われわれは共産党だってひっくり返しますよ。』というのを聞いたことがある。)


「反共主義者」蒋介石

 しかし、蒋介石はそうではなかった。彼は「反共主義」に固まっていたのである。反共主義のためなら何でもやった。実際ずっと後のことになるが、1945年8月15日、中国軍と日本軍の間で停戦協定が成立し、すぐさま事実上の国共内戦にはいったが、共産党軍と戦うためなら、蒋介石は旧日本軍と手も結んだのである。

 この時、蒋介石には、浙江財閥とそれに連なる買弁資本家、地主、民族資本家、などの期待が集まり、日本のバックアップを受けた奉天軍閥とつながりを持つ政客たちも続々、蒋介石の本拠地・南昌入りをしていった。

 上海実業界の巨頭、虞洽卿(ぐこうけい)も、南昌を訪れ、蒋介石に6000万元の資金提供を申し出たと言われている。(前掲「中国近現代史」P117)

 この虞洽卿は、上海浙江財閥の巨頭の一人で、上海経済界の大手企業が作る上海商工会の会長だった。

 財団法人渋澤栄一記念財団は、丹念に渋沢栄一の伝記資料を収集・整理している。その第55巻の第6款「日華実業協会」の項を見てみると、この虞洽卿のことが出てくる。ちょっと引用してみよう。

 大正15年(1926年)6月5日の項である。虞洽卿が蒋介石に軍資金援助を申し出た、恐らく7−8ヶ月前であろう。

是ヨリ先、上海総商会会長虞洽卿ヲ団長トスル中華民国実業団来日ノ報アリ、五月十四日及ビ二十四日、当協会幹事会ヲ開キ、其款待方ニツキ協議ス。栄一、ソレゾレ出席ス。
是日、当協会及ビ日華懇話会ノ共同主催ニヨリ、飛鳥山邸ニ於テ、右一行歓迎午餐会開カル。栄一、主催者ヲ代表シテ歓迎ノ辞ヲ述ブ。同日夜、東京銀行倶楽部ニ於テ、当協会幹事ト実業団代表者トノ懇談会開カレ、栄一出席ス。
次イデ八日、栄一、虞洽卿等ヲ飛鳥山邸ニ招キテ午餐会ヲ催シ、当協会副会長児玉謙次等ト共ニ、日中親善方策ニ関シ、意見ノ交換ヲナス。』

 ここで「当協会」といっているのは渋沢が会長をつとめていた日華実業協会のことである。渋沢は虞から中国の政治情勢のことを聞き、いろいろ善後策を練ったことだろう。「日中親善方策ニ関シ、意見ノ交換ヲナス。」
(http://www.shibusawa.or.jp/SH/denki/55.html)

 渋沢に限らず、日本の財閥・経済界は中国の情勢に大きな関心をもった。それも当然である。日本の対外投資の3/4は中国に振り向けられていたのだから。直接の利害関係者と言うべきだろう。「日本の軍国主義の中国侵略」という抽象的な枠組みではなく、こうした中国への経済侵略(*それが中国人民との互恵平等にもとづく経済進出・対中投資ならば、おおいに歓迎されたことであろう。歓迎される進出には軍事的強圧はいらない。)、というその基層にある経済関係から見ていくと、中国問題が日本(財閥・経済界)にとって死命を決する課題だったことが分かる。この伝記資料では対中問題を話し合うため日本政府関係者と渋沢がいろいろ協議したことも見えている。
 
 こうして蒋介石は、中国経済界(その多くは、虞洽卿のように外国資本、列強帝国主義と強く結びついていたのだが)の希望の星となった。しかも蒋介石は、国民革命軍総司令として直接軍事力を握っている。前掲書「中国近現代史」によると、この時蒋介石が掌握していた軍事力は、20万だったという。(前掲書117P)


 一方武漢に政府を移した国民政府(国民党左派と共産党員が中心勢力)は、この当時は、軍事力をほとんど持っていなかった。蒋介石の強大な軍事力を抑制しようとはしたが、ほとんど実効をあげなかった。

 先にも見たように、周恩来が指導した労働者のゼネスト・蜂起が1927年(昭和2年)の3月に生起している。特に周恩来指導の「上海蜂起」は、軍閥を一掃したばかりでなく、上海臨時革命政府も樹立している。同じく3月南京では北伐中に例の南京事件が発生している。

 これは私の全くの想像だが、そのころ上海は「社会主義革命前夜」のような、労働者が昂揚した雰囲気ではなかったか?逆に浙江財閥や帝国主義列強はそれだけ危機感を募らせたともいえよう。

 ところで、日本の一部の教科書的歴史書は、このあたりの労働者のゼネスト、蜂起を、「中国民衆の暴動」として描いている。確かに浙江財閥や帝国主義列強にとって、こうした人民の反攻は「暴動」としか映らなかったに違いない。しかし中国人民の立場に立てば、これは「暴動」ではなく、「反帝国主義闘争」だ。

 同じ事件を描き出すのに何故、こうも違う描写になるのかと言えば、事件を「誰の立場によって眺めるか」という視点が違うからだろう。これを「暴動」と捉えるのは列強帝国主義の立場に立って眺めているからだし、これを「反帝国主義闘争だ。」と捉えるのは、中国人民民主主義の立場に立って眺めているからに他ならない。

 だからこうした「中国人民の戦い」を「暴動」として描写している現在の日本の一部の教科書的歴史書は、あれから80年経た今も、当時の「列強帝国主義」の視点で歴史を眺めているわけだ。


1925年毎日新聞中国情勢座談会

 これに関して、今日読んで非常に興味深い座談会が毎日新聞の主催で当時行われている。話題は27年3月の「上海蜂起」ではなく、25年5月に発生した「5・30」運動である。この事件のきっかけは、上海に進出していた日本資本・内外綿の工場で、日本人監督が中国人労働者を射殺した出来事だった。燎原の火のごとく中国全土を、「反帝国主義闘争」が拡がった。
http://www.inaco.co.jp/isaac/back/023-5/023-5.htm 「5・30運動の歴史的意義」の項参照のこと。)

 この座談会は、「第一次世界大戦」という名前のWebサイト(http://ww1.m78.com/index.html)に掲載されている。よく資料収集をしていて極めて参考になるサイトだ。この中に当時の大阪毎日新聞が引用されている。
(http://ww1.m78.com/sinojapanesewar/530.html)

 出席者は内藤湖南(http://ja.wikipedia.org/wiki/内藤湖南)、矢野仁一(http://ja.wikipedia.org/wiki/矢野仁一)児玉一造(当時東洋綿花専務)、
武居綾蔵(当時内外棉頭取。内外綿は歴史的な5・30運動の名誉ある火元)、阿部房次郎(当時東洋紡副社長)、小寺源吉(大日本紡重役)ら。いずれも中国に工場を持っていた企業だ。

 内藤湖南は人も知る、日本を代表する東洋史学者だ。矢野仁一は、「中国近現代史」の専門家だ。戦後も「中国人民革命史論」などの著作がある。

 関係箇所を引用しておこう。

内藤湖南 租界内の秩序が保たれざるは各国の足並が揃わぬためじゃ。各国みな自分だけよい子になろうとするからじゃ。みたまえ米国の如きは支那に何の仕事ももっておらぬ。それが日本や英国と本当に苦楽を共にしてくれるわけはない。そこを日本人はよく考えなければならぬ
児玉一造
(東洋綿花専務)
そうかもしれませんが、日本が日本だけで何か運動でも開始すると、すぐ排日をかつぎだされて困る
内藤 それは日本の政府が悪いからじゃ、外務省内にくだらぬハイカラ論が多くて本当の対支外交というものをやらぬからじゃ。同時に又実業家諸君も悪い、諸君が外務省の連中を鞭撻されぬからいけません
矢野仁一 租界内や工場地帯が荒らされるのは平生からそれ相当の防備をしていないからではあるまいか
武居綾蔵
(内外棉頭取)
そこが問題なのです。ただ困ることは、そうした防備から間違いでも起るとすぐ日本人がやったと日本人に難癖をつけられる、実際日本人が一番馬鹿をみているのです
阿部房次郎
(東洋紡副社長)
日本は紡績だけでも二億円からの資本を支那に下ろしている。到底このまま引揚げるわけにはいかぬ。だから今度こそは徹底的に解決してもらいたいと我々は思うている。こんなことが度々おこるようでは実際日本の対支貿易も何もメチャメチャですからな
内藤 騒動がも少し大きくなって静まれば向う十年位は二度と起りっこはない。之は歴史が証明している。決して私の想像ではないから諸君はそのつもりでグングン仕事を進めてゆけばよろしい。諸君はややもすると政府を頼りにするが、日本の外務省にソンな強硬な腰があるものですか
阿部 それでは今日の支那学生中から日本の維新当時のような志士は出て来ぬでしょうか
内藤 出ますものか。出たってしれたものです
小寺源吉
(大日本紡重役)
将来支那が強くなったら日本はどうなりますか
内藤 支那の新思想は強くなるということを問題にしていません。そこがいわゆる新しい所で同時に我々が考えてみなければならぬ点です
小寺 犬養さんが仮に支那へ行くとして、日支親善をどう実現すべきでしょうか
内藤 駄目です。親善等要するに程度の問題で、少くも今日の支那の新思想家たちと真の提携などできるものではありません
内藤 日本の雑誌が社会主義のことを書かねば支那はそう悪化せぬ
矢野 そうです。西洋の雑誌が社会主義のことを書かねば日本はこう悪化しません(大笑い)』

 碩学内藤湖南には気の毒なような座談会ではあるが、これが当時の日本の知識人のレベルである。特に内藤は、幣原喜重郎に対する強烈な当てこすりをやっている。こうした「知識人」が「実業人」と一緒になって、臆面もなく「ファシズム帝国主義の論理」を日本の国民に振りまいたのである。また、矢野のお粗末な認識はどうか。これが「中国近現代史」を専門とする京都帝国大学の教授か。もうひとつ。毎日新聞である。この当時から毎日に限らず、朝日、中外商業新報(今の日本経済新聞)など大手マスコミは、軍部の提灯持ちをやり、「ファシズム帝国主義」の思想を日本中にばらまいていった。

 つまりは、当時日本の多くの人たちは、『真性帝国主義者』をはじめとして、「帝国主義者」の立場で中国と日本の関係を見ていたのである。その視点の中には「中国人民の反帝国主義闘争の立場」とその正当性など云う視点は全く欠落している。問題は、「真性帝国主義者の視点」ではなく、日本の多く一般大衆の視点である。1945年8月を境として、本当にこの視点は一変したのかという問題でもある。

この項を書いているうちに夜が明けてしまって朝になった。新聞を取りに行って拡げて驚いた。『3日連続ガザ攻撃』のタイトルのもとに、『子供7人犠牲』『死者315人に』のサブタイトルが踊っている。<エルサレム29日共同電。長谷川健司の署名入り。エルサレムにいて何が分かるものか。>

一方私が購読している無料メール・マガジン《無料メール・マガジンを購読する、というのも日本語になっていない、田母神病が伝染したのかも知れない》『Israel Today』はヘッドラインで『イスラエルの大規模ガザ攻撃、200人以上のテロリストを殺害』<Over 200 terrorists killed in massive Israeli assault on Gaza>と報じ、テロ戦争の一環であることを強調している。

そういえば、昨日のCNNニューズでブッシュ政権の国務長官、コンドリーサ・ライスの記者会見の模様が映し出されて、ライスが「まずハマスがテロ行為を辞めるのが先決だ。」と云っていた。

もう一方、東京外語大学の『中東ニュース』はエジプト『アル・アハラーム』紙の12月28日付け電子版のトップ記事として「イスラエルがガザを空爆、死者200名以上の大惨事に」の見出しで、攻撃が子供の登下校時と重なったため、現場がさらに凄惨な状態になったことを伝えている。
http://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/src/read.php?ID=15437 

死者315人は無茶苦茶である。イスラエルはナチス同様の民族殲滅主義者になったようだ。後世歴史家は『2008ガザ大虐殺事件』と呼ぶだろう。)


「4・12クーデター」(上海クーデター)

 さて蒋介石である。こうした動きの機先を制するかのようにして、蒋介石の国民党左派・及び共産党員に対する攻撃が始まった。

 1927年4月、「4・12クーデター」(上海クーデター)と呼ばれる「上海労働者の大虐殺事件」が起こる。蒋介石による「反共攻撃」の本格的第一波と見ることができる。

 最初に日本語Wikipedia「上海クーデター」(http://ja.wikipedia.org/wiki/上海クーデター)の記述を見ておこう。
 
1927年(*昭和2年)4月2日、蒋介石は李宗仁、白崇禧、黄紹пA李済深、張静江、呉稚暉、李石曾等を招き、上海で中国国民党中央監察委員会会議を招集し、会議の中で「共産党が国民党内部で共産党員と連結して、謀反する証拠がある」ことで検挙する案を提出し、広州政治分会主席の李済深はその意見に賛同した。そして会議で「清党原則」及び「清党委員会」を定め、反共清党準備工作が進行した。』

 ややマニアックかも知れないが、李宗仁(りそうじん)
(http://ja.wikipedia.org/wiki/李宗仁)は軍人で後に中華民国総統代理になっている。国民党政府台湾脱出の際には、蒋介石と行動を共にせず、香港に脱出した。後に中華人民共和国政府に迎えられ北京で死去した。白崇禧(はくすうき)(http://ja.wikipedia.org/wiki/白崇禧)も軍人ですぐれた戦略家として知られる。最後まで蒋介石と行動を共にした。黄紹пiこうしょうこう)(http://ja.wikipedia.org/wiki/黄紹コウ)も軍人だが、蒋介石の「帝国主義と闘うよりも国内共産勢力殲滅を優先する政策」に反対し、最後まで中国に残って中華人民共和国成立に参加した。文化大革命の時に「右派」として批判され、自殺している。現在は名誉回復されている。李済深(りさいしん)(http://ja.wikipedia.org/wiki/李済深)も軍人。黄紹рニ同様、蒋介石の方針に反対して袂をわかち、中華人民共和国成立に参加した。張静江(ちょうせいこう)(http://sweb.u-shizuoka-ken.ac.jp/~saga/yowa17.html)は、孫文を財政的に支援した上海の財閥出身らしい。呉稚暉(ごちき)、李石曾(りせきそう)は共に学者出身で、清朝打倒段階の革命主義者。蒋介石とともに強烈な「反共主義者」になっている。

 Wikipediaの記述を続けよう。

(*1927年)4月6日、蒋介石は軍楽隊を派遣し、「共同で戦闘に備えよう(共同備闘)」という錦の旗を掲げ、上海総工会工人糾察隊に送り、油断させる一方、同時に蒋介石は青幇、洪門の頭目である黄金栄、張嘯林、杜月笙等のところに顔を出し、右派団体「中華共進会」と「上海工界連合会」を組織し、上海総工会に対抗した。』

 上海総工会は先にも見たように、共産党が指導する上海の労働組合連合会組織。若き日の周恩来が指導した。青幇(ちんぱん)(http://ja.wikipedia.org/wiki/青幇)は、上海暗黒街を根城とする巨大暴力犯罪組織である。特にアヘンの密売で大きな資金と権力を築いた。洪門(こうもん)(http://ja.wikipedia.org/wiki/洪門)は清朝末期に起こった「反清復明」を旗印とする政治的秘密結社だったが、「兄弟仁義」を重んじる暴力団組織でもあったらしい。

4月9日、蒋介石は淞滬戒厳司令部の成立を命令し、白崇禧に、周鳳岐を副司令にするよう任命させ、合わせて戦時戒厳条例12条を頒布した。同日、中央監察委員のケ沢如、呉稚輝、黄紹пA張静江、陳果夫等と連名で『護党救国通電』を発表し、武漢国民政府の容共政策を非難した。4月12日、蒋介石は各省に「一致して清党を実行せよ」と密令を出した。同日夜杜月笙は上海総工会会長汪寿華を誘い出して生き埋めにした。 』

 杜月笙(とげつしょう)(http://ja.wikipedia.org/wiki/杜月笙)は青幇の首領で、すでに伝説的な存在だった。上海総工会会長汪寿華(おうじゅか)(http://ja.wikipedia.org/wiki/汪寿華)の恩師の甥でもあったらしく、汪とも個人的に親しかった。それで汪も杜月笙に簡単におびき出されたものと見える。

4月12日夜明け、蒋介石の指揮を受けた「中華共進会」と「上海工界連合会」は上海の租界から出撃し、上海総工会糾察隊の駐屯する、閘北、南市、浦東、呉淞等を攻撃した。その後、蒋介石は淞滬戒厳司令部に国民革命軍第26軍に所属するよう命令を下し、「労働者が内輪もめしている」ということを口実に工人糾察隊に対して武装解除を強行し、300人余を殺傷した。』

翌4月13日、上海総工会は労働者大会を開催し、蒋介石討伐を言明した。大会の後に10万人余の労働者や学生が宝山路に行き、国民党第26軍第二師団の周鳳岐に請願したが、軍隊は群衆に掃射し、その場で100人余りが死に負傷者は数知れなかった。そして、蒋介石は上海特別市臨時政府、上海総工会及び共産党の組織一切全ての解散を命令し、共産党員及びその支持者を捜索し、1000人余を逮捕し、主要なメンバーは処刑された。15日には、300人余が殺され、500人余が逮捕され、5000人余が失踪した。著名な共産党員の汪寿華、陳延年、趙世炎らが害を受けた。』

 要するに「4・12クーデター」は典型的な「反共右翼クーデター」だったのである。この事件が「クーデター」と呼ばれるのは、蒋介石がこの事件をきっかけにして、国民政府から左派及び共産党を追い出し、その実権を掌握し、「蒋介石独裁体制」を強めていくからである。「反共右翼暴力」は今の日本でも、戦前の日本でも、1965年のインドネシア反共クーデターでも、1973年のチリ・反共クーデターでも必ず暴力犯罪組織と連携する。この「4・12クーデター」はそうした「反共右翼暴力」の先駆けとしても記憶しておかなければならない。


理解不能な中国共産党の対応

 この「4・12クーデター」に呼応するかのようにして、4月15日には広州でそして、蒋介石の支配する地域では、共産党員・労働者への逮捕・虐殺が行われた。その直前のことになるが、4月6日には、北京で、政府を支配する張作霖軍閥の軍隊がソ連大使館を襲撃し、隠れていた共産党員を逮捕・処刑した。この時、中国共産党創設以来の主要メンバー、李大サも殺された。

 この事件の後、中国共産党は、今考えてみても、誰が考えてみても不思議な理解不可能な行動をとる。

 この時の政治状況を大ざっぱに概観しておこう。

 「5・4運動」「5・30」運動を通じて、中国人民は、もっとも差し迫った政治的課題が「反帝国主義闘争」と「近代的民主主義の実現」であることに気がついた。一方コミンテルンも中国における課題が「社会主義革命」ではなく、「反帝国主義闘争」であり、「民族独立闘争」であることに気がついて、1920年(大正9年)、「民族・植民地問題テーゼ」を採択し、中国の「反帝・民族独立闘争」を積極的に支援することにした。そしてその中心に孫文の中国国民党をおいて、中国民族統一戦線結成を働きかけた。孫文も、1923年(大正12年)、「連ソ容共」を骨子とする「孫文・ヨッフェ宣言」を発して、この期待に応えた。

 中国民族統一戦線結成に大きく一歩踏み出したのである。1924年(大正13年)、中国国民党は第1回全国大会を開いて、共産党員も共産党員の身分はそのままで国民党に参加する。すなわち民族統一戦線が結成され、ここに第一次国共合作が成立する。当面の目標は「帝国主義の傀儡であり、半封建的な抑圧政権である軍閥打倒」という方針を掲げ、北伐が開始される。大きな誤算は孫文が死去することである。

 軍事的後継者蒋介石はこの北伐の中心に座るのだが、コミンテルンや中国共産党が当初危惧していたとおり、北伐を通じて蒋介石は、軍事的権力の集中と掌握に成功する。こうして蒋介石は、「反共主義者」の本質をむき出しにして、財閥や大資本・地主階級(その背後には列強帝国主義がいる)の要請を受けつつ、突然その矛先を共産党員や労働者階級に向けて虐殺を開始する。これが「4・12クーデター」の本質であろう。このクーデターを通じて蒋介石は、軍事面だけなく国民党全体の権力を掌握してしまう。

 これが当時の政治状況の流れだろう。統一戦線を裏切ったのは蒋介石であり、共産党は多くの党員を殺されたばかりでなく、優秀で戦闘的な多くの労働者も失った。

 ところが中国共産党は、1927年(昭和2年)4月27日、本拠地である武漢で開かれた第5回中国共産党全国大会で、激しい議論の末ではあったが、「国共合作維持」を決定してしまうのである。

 「4・12クーデター」ほど蒋介石の明確な意思表示はない。にも関わらず、この時の共産党は、国民党で一つにまとまり、「国共合作」堅持の方針を変えなかった。この決定の背後にはコミンテルンの「国共合作維持」「統一戦線における国民党の主導権承認」という基本方針と指導があった。

 つまり当時の陳独秀を中心とする共産党中央は、このコミテルンの指導を正しいものとして、全く現状には沿わない方針を機械的に決定してしまったのだ。


第一次国共合作の崩壊

 当然のことながらこの方針は蒋介石から無視された。いわば鼻先でせせら笑った。武漢政府の中でも崩壊現象がはじまった。武漢政府傘下の主な軍人たち(といってもそのほとんどはもと軍閥であるが)が明らかな「反共」に転じたのである。国民党左派も「反共」を鮮明にしていった。江西省に駐屯していた左派系軍人朱培徳(しゅばいとく)も共産党員の省内からの退去を要求した。

 以下は朱培徳が反共に転じたことを伝える大阪朝日新聞の記事だ。日付は1927年(昭和2年)6月9日となっている。
(http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID
=00789458&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA )


朱培徳氏も南京派に味方 共産派狩りに着手す

【漢口特電五日発】江西は最近湖南に次いで共産派の横暴甚だしく極端なる恐怖政治をとるので当初より武漢派にくみしていた朱培徳氏も過日の通電で李宗仁氏と北伐提携について会見して以来態度一変し南京派に加入し共産党排斥に着手したので南昌および江西各地より共産党系政治部員は続々当地に逃れて来た、朱培徳氏の部下は三個師であるがその中王鈞氏の一個師は共産系で朱培徳軍に対抗している、なお李烈鈞氏も一個旅を率る玉山県にあったが朱氏と打合せた結果一致して江西の共産派を討伐することとなった、武漢政府はこの形勢に大いに狼狽しているが取敢ず朱氏を免職して王鈞氏を第三軍長に任命した』

 この記事で「南京派」というのは蒋介石国民党政府のことである。4・12クーデターで実権を掌握した蒋介石は、本拠地を南昌から南京に遷していた。

 こうした情勢の中で、「馬日事変」と呼ばれる事件が起こる。1927年5月21日、国民革命軍第8軍長唐生智(とうせいち。もと湖南の軍閥)の部下許克祥(きょこくしょう)の連隊が長沙で省総工会(労働組合)、農民協会、共産党諸機関を襲い1週間にわたって処刑を繰り返した事件である。

 毛沢東選集(外文出版社 1968年3月31日 初版)第1巻「井岡山の闘争」の項の註に、

湖南省の平江県、瀏陽県一帯では、1927年春には、相当有力な農民武装組織が作られていた。5月21日、許克祥が長沙で反革命事変(つまり「馬日事変」)をおこし、革命的大衆を虐殺した。5月31日、平江県、瀏陽県一帯の農民軍は、長沙に向かってすすみ、反革命勢力に反撃を加えようとしたが、日和見主義の陳独秀に阻止されて撤退した』(P130)
とある。

 つまり何らなすすべもなかったということだろう。

 国民党左派の汪精衛(汪兆銘)も反共に転じた。労働者糾察隊の活動は制約を受け土地革命は厳禁となった。汪精衛も武漢政府部内からの共産党員排除に動いた。

 27年(昭和2年)7月13日、共産党は武漢政府から撤退し、15日国民党は「容共政策の破棄」を宣言、ここに1924年(大正14年)1月以来の「第一次国共合作」は名実ともに崩壊したのである。

 完全勝利となった蒋介石は、1927年9月武漢と南京の両政府を統一し、その指導権を握っていく・・・。

 ここまでが、第一次国共合作崩壊までの大きな流れである。


コミンテルンの変質と「スターリン主義」

 ここでの大きな疑問は、「4・12クーデター」の後も何故コミンテルンは、「国共合作維持」「国民党主導の統一戦線」などというおよそ非現実的な指導方針をとり、この方針のためにむざむざ多くの共産党員や労働者・農民を殺させるような誤りを犯したのかという点と何故陳独秀をはじめとする共産党中央は、およそこの馬鹿げた指導方針に盲目的に従ったのかと言う点である。

 この疑問に前掲書「中国近現代史」(岩波新書)はP119―P120の註で次のように答えている。

レーニンの死後ソ連では党の指導権をめぐってスターリン、ブハーリンらとトロツキー、ジノヴィエフらが激しく対立しており、その対立はコミンテルンの中国政策そのまま持ち込まれた。トロツキーが早くから、反動化した国民党への追随を辞めて共産党独自の労農運動を展開せよと主張していたのに対して、スターリンは国共合作の維持に固執し、蒋介石あるいは汪精衛との決裂を極力避けようとした。

これが上海の4・12クーデターや長沙の馬日事変のような白色テロに対して有効な反撃を加えることができず、革命を敗北に導く一因となったことは明白である。もちろん誕生わずか6年の中国共産党が理論的にも実践的にも未成熟であったことも、革命敗北の大きな要因であった。

スターリンは敗北の全責任をたとえば6月1日訓令のような革命的政策の実効をサボタージュした陳独秀の右翼日和見主義に帰しているが、陳はむしろ忠実にスターリンの路線を守っていたとさえ云えるのである。』

 ここで6月1日訓令というのは、1927年6月1日コミンテルンが発した指令で「土地革命の実行」「新しい軍隊の創出」「国民党中央委員会の改造」「反動的な将校の追放」などおよそ、国民党の枠内にいては実行できそうにもない非現実的かつ矛盾に満ち満ちた訓令であった。陳独秀はきまじめにもこの内容で、武漢政府の左派汪精衛にかけ合い、にべもなく拒絶されている。

 鹿児島大学の平田好成は論文「コミンテルン第7回大会論」の中で、
・・・コミンテルンに関する歴史的・論理的な研究は、外国でも日本でも、最近になってようやく本格化してきたといっていいようである。・・・コミンテルンの歴史には、極めて積極的な側面と同時に、今日、十二分に研究されなければならない否定的な消極的側面が含まれていた。」(P161)

・・・第7回大会当時(*1935年=昭和10年)まで、コミンテルンのとってきた戦略・戦術には、スターリン主義の命題に基礎を置く、決定的な欠陥が隠されていた。事実、レーニン主義の時代とスターリン主義の時代とでは、コミンテルンの歴史評価の上で、大きな屈折面を指摘することができる。レーニンのコミンテルンに対する能動的な関与に較べ、スターリンはコミンテルンの活動の表舞台には一度も登場せず、従って、『直接に責任が一度もなかった』(トリアッティ)にもかかわらず、コミンテルンの諸決議や諸指令を再評価する場合には、彼の影の関与の浸透性を正しく処理しなければならない。」(P163)

 と述べている。平田がこの論文を書いたのはソ連崩壊前だが、大筋は今でも変わっていない。

 レーニンの時代(レーニンが死去するのは1924年―大正13年1月である。孫文はその14ヶ月後、1925年3月に死去する。)は、コミンテルンは、世界共産主義運動の中心だった。スターリンの時代には、コミンテルンはそれ防衛の道具として使われるようになったといういいかたをすると言い過ぎであろうか?「ソ連の社会主義」がそうであったように、コミンテルンもまた「スターリン主義」の登場によって大きく変質したのである。

 毛沢東らが中国共産党の指導権を確立するのは、コミンテルンの影響を脱するのは、のちに見るように、1942年(昭和17年)のことだが、それまで毛沢東らはコミンテルンの誤った方針のために何度も煮え湯を飲まされる。毛沢東らは、日本の帝国主義と闘う半面、スターリン主義のコミンテルンとも戦わざるをえなかったとさえ云えるのである。


帝国主義日本は誰と戦ったのか?

 「田母神論文」の中の、「蒋介石はコミンテルンに動かされていた。」「毛沢東はコミンテルンの手先だった。」という単純幼稚な記述を検証するためにここまで来てしまった。

また何度も繰り返しになるが、こんな単純幼稚な男がなぜ航空幕僚長になったのか?)

 「田母神論文」を貫く歴史観は、また日本の自民党の多くの政治家の歴史観であり、ということは彼らを支持する学者やマスコミ、ジャーナリスト、それらを正しいと信じる少なからぬ日本の市民の歴史観のことでもあるが、あの戦争を『侵略戦争であったかなかったか』という議論の前に、『一体日本軍は誰と戦ったのか』と言う問題に真剣に答えてみる必要がある。

 田母神自身は、この問題、すなわち旧日本軍は一体誰と戦ったのかという問題を、あまり深くは考えていない。ある部分では「蒋介石国民党軍」と戦った、と考えている箇所もあるし、「コミンテルンの手先の毛沢東」という部分では、あるいは中国共産党と戦ったとも考えているようにも見える。「実は蒋介石はコミンテルンに動かされていた。」と言っている部分では、コミンテルン、すなわち国際共産主義と戦った、と考えているようにも見える。これは、しかし、田母神だけではない。

 あの戦争は「侵略戦争ではなかった。日本の防衛戦争だった。」と主張する政治家、学者、マスコミ、文化人(?)、ジャーナリスト、市民の誰に聞いて見てもいい。「誰と戦ったのか?」

 あるものは怪訝な顔するかも知れない。「どうしてそんな馬鹿な質問をするのか?わかりきっているじゃないか?」あるものは「蒋介石」「毛沢東」「共産主義勢力」「コミンテルン」「ソ連の陰謀にそそのかされた勢力」・・・。

 岸信介は『岸信介回想録』(昭和58年―1983年 廣済堂出版 11月8日初版)で次のように書いている。

 今、ここで、戦争裁判の当否について詳細に論ずるつもりはないが、戦争裁判(*極東軍事裁判のこと)を通じて日本国民の中に、「日本は侵略戦争をした、悪いことをした」という受け止め方が、戦後三十年たった今日でも根強く残っているように思われる。はなはだしきに至っては明治開国以来、日本のしてきたことはすべて侵略であり悪である、と言う解説、教育が未だに幅をきかせているような状態も見られるので、ここで一言述べてみたい。』(同書P17−P18)

 さしずめ、私などはそうであろう。「中国侵略は明治政権の国家意志だった。」と言っているのだから。ただ私はそう言う解説を受けたり、教育を受けたからこの結論を得たのではない。一市民として「歴史」、特に「中国近現代史」を学んで行く過程で得られた、誰のものでもない、私の結論だ。

岸を続けよう。

・・・戦争には自衛と侵略の区別が可能なのかといった理論や学説に新たに寄与するところは(*極東軍事裁判は)なかったのである。

米国を中心とした連合国の初期の対日占領政策の基本は、戦争の責任をすべて日本国民に負わせ(*岸の話の途中だが、ここは、岸は若干勘違いをしている。ポツダム宣言や極東軍事裁判の記録、占領軍の対日政策文書などを読む限り、戦争の責任は、日本の国民に負わせてはいない。天皇制ファシズムと軍国主義者に負わせている。明らかにこの両者を区別している。田母神と違い、聡明な岸のことで、ここを間違えるはずはない。だから意図的な勘違いというべきだろう。)、日本国民が今日受けている困苦や屈辱はすべて自業自得であると思いこませる点にあり、その意味で東京裁判も絶対権力を用いた“ショー”だったのである。多くの費用と人命の損失で結末を見た東京裁判が、その後の世界平和の進展にどれほどの価値をもっているかは、今日までの国際情勢の変遷を見れば明らかであろう。太平洋戦争中の最大の無差別殺人である、広島・長崎に投下された原子爆弾に対する責任は、東京裁判では全く不問に付せられたが、そのことが戦後においても激烈な核戦力競争を出現させ、人類全体をして破滅か存続かの重大局面に立たしめているのである。』(同書19P)

 話は違うが、岸は広島・長崎への原爆投下の本質をよく冷静・的確に見ているというべきであろう。


「侵略戦争」と「自衛戦争」

 この文章の中で、岸が言っていることは、極東軍事裁判の不当性の他には、次の2点につきよう。

  1.あの戦争は侵略戦争ではなかった。
  2.日本はアメリカに負けた。

 それでは、岸はあの戦争をどう見ていたのかというと、日本の自衛戦争だった、と言っているわけだが、これは論理的におかしい。

 戦争が日本の国土で戦われたのなら(たとえばベトナム戦争におけるベトナム人民のように)、これは自衛戦争だが、もともと中国大陸での戦いが、太平洋戦争に発展していったわけで文字通りの自衛戦争だったわけではない。しかし岸の認識の中では、自衛戦争だった。岸がこんな非論理的な思考をするはずがない。だから、岸が語っていないことを補ってやらなければ、岸の論理性は一貫しない・・・。

 「あの戦争で、日本の天皇制ファシズム・軍国主義は一体誰と戦い、誰に敗れたのか?」・・・これが今のテーマである。田母神と話をしていても、らちがあかないので、黒幕・大御所、岸信介に登場して貰ったわけだが、その岸も肝心な点は口をつぐんでいる。

 しかし考えるヒントは十分に提供してくれている。

 岸はあの戦争は侵略戦争ではなかった、と考えている。自衛戦争だったと考えている。では戦った相手は誰だったかというとアメリカである。岸には中国人民と戦ったと言う意識は極めて希薄である。そしてアメリカには負けた、と考えている。極東軍事裁判は結局勝ったアメリカが負けた日本を裁いたものであり、歴史的にも、法的にも正当性はないと考えている。この考え方は、岸の著作すべてを貫く彼の主張でもある。


侵略され続けの中国近現代史

 ここで巨視的にあの戦争を考えてみよう。中国の中に視点を置いてみると、清朝末期、アヘン戦争以来、中国は一方的に侵略を受けてきた歴史だったことはこれまで、このシリーズで見てきたとおりだ。

 しかし今度は視点を、イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、アメリカ、日本など、列強の立場に移し、その帝国主義的観点から眺めてみよう。それは「中国市場争奪史」だった。

 他の植民地国のように中国が単一国の植民地にならなかったのは、中国が余りにも規模が大きく、これを完全な植民地にするだけの力をもった帝国主義国が存在しなかったと言うにすぎない。

 まず、19世紀世界に帝国主義的覇権を確立したイギリスが中国に足場を築いた。地理的に近いロシアが次に南下してきた。近代化を進めた日本がニューフェースとして急速に登場してきた。フランス、ドイツなどもそれぞれの帝国主義国としての力量に応じて、中国を蚕食した。フィリッピンの植民地化を終えたアメリカ帝国主義もやってきた。

 こうして中国の利権をめぐって、列強がにらみ合いつつ、中国からの搾取と収奪を強めていった。

 第一次世界大戦の勃発とその結末は、中国をめぐる列強の勢力図を一変させた。まずロシアが脱落した。しかし、これは観点を変えてみると脱落したのではなく、帝国主義的価値体系とは全く異なる価値体系もった国として変身したのであるが、帝国主義的価値体系をもった国としては、とにかくも脱落した。

 敗戦国、ドイツが全く脱落した。大戦で国力を消耗したフランスは、中国から大きく後退し、ベトナム植民地経営に専念する姿勢に変換した。イギリスは最大の帝国主義国から、大戦後その首座をアメリカに明け渡さざるを得なかった。中国からも依然大きな影響力を保ちつつも、列強帝国主義国としては後退した。


「日米決戦」に対する岸信介の認識

 こうして残ったのが、「火事場泥棒」的に影響力を増した日本帝国主義と第一次世界大戦で大きく力を増したアメリカ帝国主義だった。広大で極めて魅力に富む中国の支配権をめぐって日本帝国主義とアメリカ帝国主義が睨み合う格好となった。

 こうして、岸信介の認識では、中国支配権をめぐる最終戦が、日米戦争(太平洋戦争)だったのであり、帝国主義日本にとって「中国」は残された最大の「権益・利権・市場」であり、これを失うのは、帝国主義日本の自殺行為に等しい、これを守るのは「自衛行為だ」と言うことになる。

 思い出して欲しいのが、日米開戦のひとつのきっかけとなった「ハル・ノート」のことだ。簡単にいって「ハル・ノート」で言っていることは一つである。「日本は中国大陸からその軍事力を撤退せよ。」ということだ。それをしなければ、主要な経済関係をすべて断絶する、と言うことでもある。

 これまで見てきたとおり、帝国主義にとって軍事力はセットである。軍事的暴力を背景にしなければ、帝国主義的経済利権は守れないし、拡張できない。軍事力の撤退は、帝国主義日本が中国から全面撤退することを意味する。

 だから岸信介にとって、日米戦争(太平洋戦争)は「自衛の戦争」だったのである。ただここでも岸は「意図的勘違い」をしている。「自衛の戦争」はその通りだとしても、それは「日本の市民一般」にとっての「自衛の戦争」だったのではなく、「日本の帝国主義」にとっての「自衛の戦争」だったのである。

 岸が「あの戦争は侵略戦争ではなく、自衛の戦争だった。」と主張する時、彼が完全に帝国主義者の論理を使って、帝国主義者の立場に立って主張していることを理解しておかねば、その論理は首尾一貫しない。


岸から欠落している中国人民の戦い

 太平洋戦争が、基本的には中国の覇権をめぐる「帝国主義間戦争」だったという岸の認識は、その通り正しいとしても、岸の認識からは「中国との戦争」は何だったのか、と言う視点はすっぽり抜け落ちている。

 視点を「中国近現代史」に立場に戻してみよう。

 アヘン戦争以来の中国の歴史は、一言で云えば、列強からの理不尽な侵略(帝国主義の侵略は例外なく理不尽である。)を受け続け、これと戦う歴史だった。(私が驚嘆するのは、中国人民がこの列強からの侵略に長い期間素手で戦ったことだった。)

 その長い歴史の最終局面で登場した帝国主義が日本帝国主義だった。この時アメリカは自らのための帝国主義の利益と資本主義内民主主義(それをブルジュア民主主義といっても差し支えないだろう。)の2つの異なる立場から、中国を支援した。太平洋戦争には「ファシズムと民主主義の戦い」という側面もあったことは紛れもない事実だった。

 結局、中国と人民が戦った相手は、日本の帝国主義だったのである。しかもそれは凶暴化したファシズム帝国主義だった。

 この戦争は「帝国主義間戦争」ではない。中国人民の側から見れば、「反帝国主義戦争」であり、「民族独立戦争」だった。中国人民から言えば、戦争は「日本の帝国主義・軍国主義・天皇制ファシズム」との戦いであり、そして、これに勝利したのである。「自衛の戦争」というならこれほどの「自衛の戦争」もない。

 ところが岸の中では、「中国人民と戦ってこれに敗れた。」という認識はない。

 もし「日米決戦」(太平洋戦争)に、日本(といっても帝国主義日本であるが。)に負けなければ、中国から撤退する必要はなかったと考えていることだろう。

 それは岸が一貫して、帝国主義者の論理を使って、帝国主義者の立場で歴史を見、世界を見ているからだ。帝国主義者の論理以外は入り込む隙間がない。

 しかし、もし岸の認識がこの通りなら、岸はまったく歴史認識を誤っていると云わざるを得ない。「帝国主義日本」は「帝国主義アメリカ」に敗れたが、中国人民にも敗れたのである。繰り返すが岸がこの認識に達し得ないのは、彼が帝国主義者の論理しか持たず、正面の敵「中国人民」が見えておらず、従って彼らを帝国主義に楯突く「暴徒」、共産主義に煽動されている「暴民」としか見なかったからだ。

 田母神の主張は、この岸の論理を幼稚にたどたどしくなぞっているに過ぎない。


真性民主主義からの「歴史認識」

 私が「田母神論文」でもっとも問題と感じたのはこの点である。話は、田母神でもなく、岸でもなく、自衛隊でもなく、文民統制問題でもなく、右翼政治家でもなく、右翼文化人でもなく、右翼マスコミ・ジャーナリズムでもない。他ならぬわれわれ一般市民の「歴史認識」の問題だ。

 真性帝国主義者である岸信介やその三下奴である田母神が、帝国主義者の論理を使ってその歴史観を打ち立て、その立場から世の中を見ているのは、ある意味当然だろう。(ただ、岸が戦後自分が『真性帝国主義者』である本質を隠し、『民主主義者』であるかのように振る舞うのはフェアではない。)

 われわれ日本の一般市民が、なぜ「帝国主義者」の論理と立場で歴史を眺めなければならないのか?

 もしわれわれ日本の一般市民が、「真性民主主義者」であるなら、民主主義の論理と立場で歴史を眺め、その立場から現在の政治状況に判断を下していかねばならない。21世紀に生きる、われわれ「日本の市民」には、その一人一人にその責任がある。

 「田母神論文」が提起した問題は、従って「歴史認識」の、それもわれわれ主権者たる日本の一般市民の「歴史認識」の問題なのだ。

(以下次回)