2010.8.18
第1回 原爆投下直後の広島の「平和」
   この2年くらい平岡敬が話をするというと意識して聞きに出かけた。この人物のいう「ヒロシマの思想」なるものに興味をもったからだ。話を聞いているうちに平岡敬の中でも「ヒロシマの思想」がまだ体系としてまとまった形を取っていないことがわかった。その事にも好感をもった。安っぽく纏めようとしていないからだ。話を聞くうちに、もしかすると、平岡の云う「ヒロシマの思想」とは、多くの日本の市民の討論の中から鍛えられて、体系として纏まり、固まって行くのではないか、そして、それはもしかすると私たち市民社会が、日本やアジアや世界の将来を考える「思想的武器」になるのではないか、と思うようになった。だとすれば、平岡敬は「ヒロシマの思想」の問題提起者にすぎない。しかし、私はまだ彼の問題提起を存分に受け止めてすらいない。私は平岡の云うことを真剣に考えてみたいと思うようになった。平岡の頭の中身を引っ張り出す必要がある、と思った。
 
 一介の広島市民に過ぎない私は平岡敬とは一面識もない。常に一聴衆の立場に過ぎない。知り合いを介してインタビューを申し込んだところ、平岡は快く受けてくれた。

 4回に分けて合計約12時間のインタビューの録音を、メモにおこして見て私は途方に暮れた。まとめられないのだ。そのうち「解」が見つかった。まとめようと思うからいけないのだ、もともと考える材料を引っ張り出そうというのが動機ではないか、私がそういう動機なら、このインタビューを読む人に私と同じ姿勢を要求して悪いわけはあるまい、小賢しくまとめようと思うからいけないのだ、読む人がそれぞれ平岡の問題提起を自分なりに考えてくれればそれで取りあえずの目的は達するではないか・・・。

 従って長くなる。何回かに分けて掲載することにする。後で私自身の検索のために、比較的細かく小見出しをつけた。また煩雑かも知れないが、必要と思った箇所に註を入れた。註は青字の小さめのフォントで表示した。註は、読み飛ばしやすくするために、行頭を明けた。なお、平岡敬の著作やこれまで発表されている記事を参考にして「平岡敬 略歴」を作成したので参照して欲しい。なお、記事中の写真は、フォト・ジャーナリストの網野沙羅の撮影である。
   (文中敬称略)  


平岡敬は何を考えているか
平岡 今日は平和運動の話? 
哲野 今日は大体、1945年からの話をお尋ねしようと思っています。
平岡 その頃は、こっから(と著書の「偏見と差別」を示しながら)いくしかないね
ここが一番私の源流みたいなことですね。素直さからいったら一番これがそうなんです。私から見て。

   「偏見と差別」の中で平岡は次のように書いている。
・・・また、こんなことばも記憶の底に澱のようによどんでいる。「ゲンバク?今になって何をとぼけたことをぬかすんなら。亭主も殺されたし、わしもしにかけとらあ。何を言うてもどうにもなるもんかい。疲れるだけよ。」―向こうを向いてごろりと横になると、もう口をきこうともしなかった老女。−中略― そして原爆小頭症の娘のかなしい瞳に、広島大学の構内で燃え上がった火炎びんの炎の色が重なる。
 私は「ヒロシマ」から発するこのようなイメージの中に数々の国家犯罪、抑圧された民衆の苦悩、そして民衆の内部でのせめぎ合いを見る。これこそ私のいう「ヒロシマ」である。』
(同書「ヒロシマをめぐって」p264)
また次のようにも書いている。
・・・この冷戦構造の面からの広島原爆の把握は、その後ビキニ水爆実験による第5福竜丸事件をきっかけに国民運動にまで高まった原水爆禁止運動に継承され、広島は一方的な被害者として<ヒロシマ=平和>の図式が完成する。−中略−原水爆禁止運動はこの現実(戦後の経済発展は朝鮮戦争や沖縄県民の犠牲の上に成り立った繁栄だったこと)に目をつぶったまま<ヒロシマ=平和>の論理に基づいて被爆者の被害者的側面を強調した。−中略−私は、ある年はケロイドの残る被爆者、次の年は原爆小頭症と、“目玉商品”を求めては、年に一度の儀式(原水爆禁止世界大会のこと)をとりおこなう平和の司祭たちを責めようとは思わない。むしろそのような被害者の立場に容易にのってしまう被爆者、さらには日本人の意識を問題にしたいのだ。つまり自らを被害者だと思い込んでいるばかりに、いつの間にか国ごと加害者に転化してしまったことが見えないのである。』
(同書p266)

 哲野 今回のインタビューの目的は、平岡敬が何をしてきたか、ではなく、何を考えているか、なんですよ。戦後の流れから色んな質問をさせていただいて、それは当時どう考えて居られたか・・。中国新聞に入られたのは1952年ですね。ですから52年以前はまだ現役の記者ではなかったわけですけど。
 平岡 学生ですね。
哲野 1947年(昭和22年)には、早くも広島平和祭が開かれていますね。
 平岡 そうですね、濱井さんですね、確か。

   現広島平和研究所の研究員、桐谷多恵子の『戦後広島市の「復興」と被爆者の視点』という論文によると、46年(昭和21年)に8月5日に広島市平和復興市民大会が広島護国神社跡で開催され、約7000人が参加した。翌8月6日には広島市宗教連盟広島県支部主催の戦災死没者1周年追悼会が開かれた。「これらの復興祭や追悼会」は占領下であったため東京のGHQや呉の地方軍政部の許可を受けねばならず、GHQにより反米的言論とみなされる行動は一切禁止という監視のもとで行われた。」(同論文)1947年(昭和22年)、NHK広島中央放送局長の石島治志は、平和祭開催を構想し、濱井市長に提唱した。また、広島商工会議所内でも平和祭開催の機運が高まっていた。濱井市長は米軍軍政部に平和祭開催の打診を行い、占領軍の賛成を得た。6月20日には広島市役所、広島観光協会、広島商工会議所の三者により濱井市長を会長に広島平和祭協会が設立された。「毎年8月6日に“平和祭”を挙行し、市長が“平和宣言”を行うことを決定した。」(同桐谷論文)


原爆は「懲罰」か?

哲野 初期の平和祭はお祭り騒ぎだった、という見方がありますが?
平岡 お祭り騒ぎと言ってしまっていいのかどうかわからんのですが、私の見方ですけどね、初期、これは復興に立ち上がろうとする市民を力づけようという、原爆とかなんとかいうよりも、それを乗り越えて広島市をつくっていく、その一つのスタート台にしようという、そういう思いがあったと思いますね。だから「平和祭」なんですよ。平和を喜ぼうという。ただしあの時はですね、第2回もでしょ?占領軍が来てるんですよ。来賓として。それで、酷いこと言っておるんですよ。これは私も、あの本にも書いてた・・・
 
英連邦軍のですね。「天罰だ」と酷いことを言っておるんですよ。それを甘んじて受けざるを得ないと言う状況があったというのを理解しないといけない。怒ったか怒らんのかわからんのですけど、たぶん「ハハーっ」って、みんな聞いたと思うんですよね。その通りだと。

   1947年(昭和22年)の第1回広島平和祭に当時GHQの最高司令官ダグラス・マッカーサーは次のようなメッセージを寄せたという。『あの運命の日のいろいろの苦難は、すべての民族、すべての人々への警告として役立つ。それは世界の破壊性を助長するために自然力を動員するならば、ついには人類を絶滅し、全世界の構造物をことごとく破壊し尽くす手段を得るまで進んでやまないだろうという警告である。神よ、この警告がないがしろにされることのありませんように。』(「写真記録 ヒロシマ25年 佐々木雄一郎 朝日新聞社」朝日新聞社 昭和45年7月30日発行 p116)
     
 また第2回の平和祭にはイギリス連邦軍(オーストラリア軍司令官)ホレス・ロバートソン中将が来賓として出席し、次のように述べたという。『この度の惨劇の原因は、日本国民自身にあることを思い起こさねばなりません。開戦布告を与えずに日本は裏切り的に英連邦諸国並びに米国民を襲撃し、その国民に非常な苦痛を与えたのでした。広島市が受けた懲罰は戦争遂行の途上受くべき日本全体への報復の一部とみなさねばなりません。』(前掲桐谷論文。なお桐谷は48年8月7日付け中国新聞一面記事から引用している。)

その時の日本人の心境って大変複雑ですから。一方で原爆に対する怒りがあったかもわからないけれども。やっぱり戦前の我々が騙されて戦争に協力したという怒りもあっただろうし。だからアメリカ・・あれは英連合軍の将校が来て、本当なら慰霊祭のはずなんですが、慰霊祭ではないんですね。だから「平和復興祭」。立ち上がろうとするその時に説教をされたと・・・ということについて新聞にもなにも書いてないです。 
哲野 書けなかった?プレス・コードで。 
 平岡 いや、僕はね、批判をするその土壌が無かったという気がするんですね。 
哲野 言論プレス・コード以前の問題として? 
 平岡 プレス・コードもあるんですけど、問題として、そういう問題意識を持ってたかどうか・・・あるいは持ってたとしても書けなかったかも知れない。占領軍批判は出来なかったですから。

記録によれば、中国新聞によれば、ロバートソンだったかな?彼が喋ったことは、載っているわけですよね。今の考えからいくとこれはけしからん話だと・・あれは英連邦軍ですから。(原爆を)落とした直接の犯人じゃないですけれども、要するに連合軍がやったことについて、これは天罰であるという言い方をしているわけですよね。 
哲野 日本人全体に対する懲罰・・・。 
 平岡 懲罰ですよね。 
哲野 これは受けて当然の話だという・・・。 
平岡 日本人も仕方ないなと。一方で東京裁判・・・戦犯裁判が進行して、そこではどんどん日本人が悪いことをしたんだということを盛んに言っている、それに日本人の大多数が納得・・洗脳されているというか、納得をしとるわけですよね。

そういうのでどんどん・・これは、占領軍の政策だと思いますけれども、ラジオを使って日本軍の旧悪を暴いていく。それは東京裁判と同時進行でやっておるわけですよね。国民がみんなそういう意識になってる。おそらく広島の人間も、そういう意識に囚われてたんじゃないかと思うんですよね。今考えたらおかしいこといっぱいあるんですよね。占領下という事情と、一面、解放なんですよね、日本国民にとっては。 


初めての国民運動としての原水禁運動

 哲野 釈放された共産党の徳田球一はGHQ占領軍を解放軍と言った、間違えて。 
 平岡 戦前の軍国主義体制から民衆が解放されたという、思いはあったと思うんですよ。 
 哲野 それは絶対にあったわけですね。 
 平岡 あった。そりゃ間違いない。その思いはやっぱり憲法が出てきた時に、諸手を挙げて賛成したというところに結集してますし、原水禁運動というのはまさしく私たちの思いを何かに託さなきゃいけない、ということだったと思うんですよ。それまで、日本人の思いは、何も受け皿がなかったわけですね。それで原水禁がでてきたと・・1954年になりますか。
 哲野 ビキニの後ですね。 
 
 平岡 52年に占領が解けたわけですから。その時に、初めて日本人が、自分たちの思いを託する運動というのを見つけたと思うんですよね。

本来なら原水禁運動がなくても、日本人が戦後の、組織して新しい国を作っていこうという運動があるべきだったんだけども、その担い手が、担い手というかリーダーが居なかった・・・。

おそらく他の国では、共産党だとか、中国の場合ですね、あるいはヨーロッパもですが、そういう左翼政党にしっかりしたのがあったんですけども、日本の場合は朝鮮戦争の前から弾圧しましたね。共産党を。

共産党が良いか悪いかはこれは別の評価として、やはり民衆を組織して、そして新しい社会を創っていくリーダー、あるいは理論的支柱、さらには前衛という、そういう立場の政党が無かった。その代わりに原水禁運動があったと僕は思うんです。

で、国民がわーっと乗っていく。原水爆反対だけれども、同時にやっぱり新しい社会を、戦前のああいう社会とは違う、新しい日本を創ろうじゃないかというのがあったと・・・これは今頃の私の解釈です。

だからあれだけ全国民の運動に広がった。原爆反対だけじゃないって気がするんですよね。原爆って言うのは一つ、火を付けて、底流にやはり日本人のですね、戦前と違う新しい国家というのを夢に見てたというか、そういう民衆がいたと思うんですね。その民衆を束ねるのに平和運動が、それをやっぱり今度は政党が利用したんですね。本当言えば新しい社会を創るために、その原水禁運動を持っていくんじゃなくて、自分たちの党利党略っていうか・・ 
哲野 まぁ。自分たちの党勢拡張、政治的に・・・。
 平岡 拡張のために、平和運動を傘下に入れようとしたんですね。これは。社会党も共産党もそうなんですが、その分裂が今日まで尾を引いているという。 


みんな戦争被害者だった

哲野 話は戻りますが、平和祭は今のお話でいうと、確か49年は中止させられたのかな?  
 平岡 いや、中止は1950年(昭和25年)です。朝鮮戦争で。 

    前掲桐谷論文は次のように述べている。『(東西対立や49年4月のパリ及びプラハでの第1回平和擁護世界大会、1950年3月の原水爆禁止を呼びかけたストックホルム・アピールなどの)こうした世界情勢を受けて、6月には広島市は第4回平和祭の計画案を作成し、その当時、県や市を含めて平和擁護大会が開かれる予定であった。しかし、8月2日、式典の4日前に広島平和協会常任委員会が突然平和祭の中止を決定した。これは「(中国地方)民事部ならびに国警本部県管区本部長、市警本部長との交渉」の結果なされた決定であり、これにより広島市が平和式典への協力を辞退し、8月6日の行事すべてが禁止された。広島市警察本部は、「反占領軍的または非日的と認められる集会、集団行進、あるいは集団示威運動を禁止する方針を決定」し、8月5日全市に「平和祭に名を借りる不穏行動に乗るな―知らずして犯罪に問われるな」というビラを配った。
 この年の平和式典前後の中国新聞の記事には、「原爆5周年と平和祈念」、「北鮮軍のいわれなき侵略」、「静かなる祈りに明け暮れるこの日」、「平和祭の取り止め」といった見出しや記事が並び、これから、朝鮮半島での戦争と広島の「平和」を関連付け、軍事的緊張感をあおり、核保有や投下を正当化するような意識醸成の傾向があるように感じられた。』

 
哲野 で、中止させてそれまではどちらかというとお祭り騒ぎで被爆者不在の平和祭だったという指摘があるんですが、それは、今はどうお考えになりますか?  
 平岡 どうですかねぇ。私もね、その辺でね、「被爆者」というはっきりした分類をする意識が、私にはなかったですね、その当時。戦後、私は引き揚げですからね。みんな戦争被害者なんですよ。全員が。で、たまたま被爆した人もいる。しかし皆さん、戦争の傷を持っている。なんとなしにですね、広島市で、私が街を歩いておっても、これはちょっと言い方が甘っちょろいですが、一種の共和国的なね、雰囲気というのがあったと思うんですよね。  
哲野 だから、我々が今考えるように、被爆者か、被爆者でなかったかという、そういう頭の縦分けはあんまりなかった・・・  
 平岡 私は無かったように思いますね。私には無かったですね。だから、町を歩いたら頭に包帯をしている人も居るし、娘さんでも頭丸坊主になっているから・・・そういう人はたくさんいるわけでしょ?で、その事に対して違和感も何も無いし。

みんな戦争被害者だと。生き残って。ただまぁ、被爆者の場合は、「あんた、あの時どこにいたの?ピカのときにはね・・」という話を盛んにやってましたね。で、それに私は加われなかったという・・その時には朝鮮人だとかいう話になるんだけれども。会えばそんな話ですよ。みんな。街で。


すでに存在していたマスコミの自主規制

哲野 色んな文献資料を読んでみると、被爆の実情を知られることは極端にGHQが恐れていて、そういう報道は出来なかったというか、そこの部分についてはかなり神経質に目配りをしていたというレポートといいますか、研究報告があるんですが、その点についてはどうお考えになりますか。
 平岡 両方見方がありましてね、色々、笹本征男さんが出している「米軍占領下の原爆調査」という本がありますね。

アレを見ても確かに、言論統制はあるのはあるんですが、それほど・・・どう言うかねぇ・・・占領軍の神経を逆撫でするような書いた人がいるのかという。私はほとんど居ないと思うんです。

で、中国新聞の場合も、一応、残念ですけれども、もう事前検閲というか自主規制という、日本のマスコミの中にずっと、戦前から出来ているわけですよ。これで書けば、大本営は嫌がるよ、ということは解るわけですよね。そうすると記者もコレを書けば、占領軍のアレに引っかかるんじゃないかと思って、おそらく書かないというね。弾圧される前にね。
  私の先輩からは、意外に無かった、と聞いています。無かったんじゃなくて、むしろ書かなかったんじゃないかと思う・・・。僕はまぁ、随分言ったことあるんですけれども。それは別に人を責めるっていうんじゃなくて、日本人のマスメディアの中にそういう体質があると。  
哲野 戦前から・・・。
 平岡 戦前から。ずーっとそれで戦前は、でないと生きられなかったわけですからね。だから、軍部の意向に逆らうような事は書かない。それは結局、提灯持ちになるわけですが。それが、その体質がそのまま占領軍になっただけで、親分が。

で、やっぱり書かなかったんじゃないかな、それで書いてですね、何か一つでもですよ、何か軍法会議にかかったとか、という事例が在ったら私も感心だと思う。それが一つもないんですよ。これは日本の記事の中で。中国新聞だけとはいいませんよ。

朝毎読ですね。記者がそれで逮捕されて沖縄に送られた、まぁウワサがあったんです、その当時は。なんかその、反占領軍的行動をやれば、沖縄に行って、送られて、刑務所に入らなければいかんとかと言う話が、軍法会議にかかるとか色んな話ってありましたけれども、言論、表現の自由に関しては、そういうことは・・無いですよね。誰かが犠牲になって・・・ということはなかった。だから、書かんかったんじゃないかという気がするんですよ。それは今の私の後知恵ですから。その当時の状況では、一生懸命書いた人がいたかもわからん。


広島を再建するか、放棄するか

 平岡 で、要するにですね、あの当時は、一つには、広島が廃墟になりましたね。
あの時広島を再建するのか、ここを放棄して、新しいところに移るのかという論争があったんです。1945年の11月頃ですね。後に、広島市復興委員会ができるんですが、その前の話ですよ。

どうするかって話になって、意見が二つありまして。結局、ここへ再建しようじゃないかという意見が勝ったんです。で、その時には、実は放射能の影響っていうのを、非常に軽視しようというですね、これも占領軍の意向とぴったり合うわけですね。で、ここは放棄して別の所にするとするなら、何故放棄したか、放射能があるから、という話になるんですね。そうするとこれは非常に具合が悪い。
 哲野 トーマス・ファレルが9月のなん日かに来ましたよね。


<マンハッタン計画の軍部側総責任者レスリー・グローヴズ【左】とトーマス・ファレル【右】1945年に撮影>
トーマス・ファレル(Thomas Francis Farrell Deputy Commanding General and Chief of Field Operations of the Manhattan Engineer District)。マンハッタン計画の軍部側責任者レスリー・グローブズの片腕。当時准将。「爆発当時は危険性があったであろうが、その翌日あるいは二、三日後からは、放射能はないはずである。」(中国新聞 1945年9月10日付け)と述べた。全く同時期、グローブズはニュー・メキシコ州アラモゴードの最初の原爆実験場に全米から選りすぐった30人のジャーナリストを集めて「実験場には残留放射能はない。」という内容の記事を書かせた。
なお、この時のプレス・リリースを書いたのは、ニューヨーク・タイムスの科学記者、ウイリアム・L・ローレンスである。L・ローレンスはすでに「マンハッタン計画」と秘密契約をしていて、マンハッタン計画のために広報活動をしていた。L・ローレンスは一連の「原爆報道」でピューリッツア賞を受賞するが、英語Wikipediaによると、2004年、アメリカのジャーナリスト、エミー・グッドマンとデビッド・グッドマンは、L・ローレンスがマンハッタン計画と秘密契約をしていたことを理由に、46年のピューリッツア賞授与取り消しをピューリッツア賞委員会に申し立てた。 (<http://en.wikipedia.org/wiki/William_L._Laurence>参照の事。)  

 平岡 そう。無いと言っておるわけですよ。アメリカはね。ですからその、いわゆる体制側というか、やっぱり無いんだと・・・だからここに新しい都市を造ろうじゃないかという動きがずっとあったと思うんです。で、それは、その市民もそう感じてる。

これは、広島市民も、ここは危険な都市であるということは、もうあまり考えたくないです。で、となるとここで我々はここに再建すべきだという意見が勝って、広島の復興ということになる。

当時はですね、復興がメインなんですよ。復興ですね、ですからもう、原爆の被害をなるべく軽視していこうという、意識的にも。 
 哲野 それはGHQから指導されたからそうだったのかどうだったのか。 
 平岡 いや、そこはわかりません。 


「人間の生きる力」から突き出る「平和」に価値がある

 哲野 復興への思いは、広島全体が? 
 平岡 それは広島全体だと思いますね。市民の思いとして、やっぱりこれから我々は立ち上がってですね、やっていかなければならない・・・。

ですが、凄いですよ。その庶民のエネルギーというのは。

被爆したあと直ぐですね、9月ですけど、もう広島駅前に横川、己斐、みんな闇市が出来とる。で、もちろんそこには朝鮮人もいるし、それから、周りから出てきた奴もいるし・・・みんなそりゃもうねぇ、軍の放出物資を売り買いでしょう?

闇煙草、それからアメリカの占領軍の煙草をね。みんなそりゃもう、たくましく生きているわけですよ。 
 
 哲野 広島駅前地域の人の話を聞いたことがありますが、完全に無法地帯だったという・・・。 
 平岡 無法地帯。そう。だからやっぱりそこでもヤクザがね、縄張りを作って。広島は有名になったけれども。

で、庶民のたくましさというのは、倫理的にどうのこうのいう話じゃないんですよ。「人間が生きる」というのは、やっぱりそういうことをくぐり抜けなきゃいけないんだ。だから焼け跡に行って、鉄くずとかね・・・。当時は全部、五右衛門風呂ですからね、焼けた、タダレた五右衛門風呂をね、まだ9月には残ってましたよ。それを大八車に積んで、みんな持って逃げるわけ。盗むわけですね、これは。ですからその後、一家全滅のところへ、知恵者が来て、そこに縄を張ってね、ここは俺の土地だと言って頑張ったりね。随分そういうことがあった。

戦後、秩序が回復するまでには、その無法地帯が暫く続いた・・・。その中でも人間は生きてきた。私、そこの所をね、綺麗ごとで・・ぱっと広島が最初から平和を掲げてですよ、なんか、世界の平和の聖都であるかのごとき言い方をするのが、あまり好きじゃない。

アレを見てるから。人間なんてやっぱりこの・・ひどいもんだと。それは戦場においてもそうでしたし、おそらく、兵士はね、戦友の肉を喰うわけですからね。そんなにまでして生きてくる。そういう人間の集まりなんだと。その中で今度は都市を造っていって、平和を・・と言った、その事が、私は大事だって言うんです。ところが最初から、みんな平和の首都みたいな顔してるから、私は嫌なんです。

吉川さんみたいに「原爆第一号だ」を売り物にする、それを批判する人もいる、だけどそれだってたくましいですよ。「生きられない」というね。そういう人間の生き方みたいなことに目配りをしていかないと、大江みたいになるわけですよ。
 
 哲野 ハハハハハ。 

   吉川さんは、吉川清のこと。「原爆第一号と呼ばれて」という著書がある。1984年74才でなくなった。私も小学生の頃、まだ出入り自由の原爆ドームの真ん中で両肌脱ぎになって、自分の原爆の傷跡を観光客に説明していたオジサンを見ていたことを思い出す。あれが今にして思えば吉川清だった。大江、は「ヒロシマ・ノート」を書いた大江健三郎のことだ。

 平岡 (笑いながら)学生諸君は最初から崇め奉ってね。

そんなことないだろ、と。お前も人をなんかしてきただろ、と。戦後の人間は皆、そうなんですよ。そういう、やましさみたいなものを忘れちゃってね、平和を言うのは好きじゃない。だから、みんな人を食い物にし、死者の屍を踏みつけて生きてきたんだと。戦後の人間は。そういう自覚がまずあって、それからそれを突き抜けて、自分たちが平和を訴えていくんだということがないとですね・・・。 


戦後フレームアップと戦争準備

 哲野 だからその、とりあえず被爆者は後回しにして、広島市の復興をと言うのが、広島の本音だったわけですかね? 
 平岡 そうですね、被爆者救済というのはあまり問題にならなったですね。初期はですね、みんな、戦災者なんですよ、被爆者を含めてね。
   
これは全国に組織が出来ましてですね、共産党が指導したんだと思いますけれども、ただ、共産党も組織が全部壊滅したあとですからね、その生き残りの連中が造っていったんだと思いますが、東京で。
 哲野 それは戦後共産党が地下に潜る前ですか? 
 平岡 もちろん潜る前です。潜るのは1949年から50年ですね。

そのころ、凄く事件が起こるから・・・下山事件、三鷹事件とか松川事件とか。あの事件が私は大きな影響を与えたと思いますね。広島の平和思想にも。

アレは結局、共産党を弾圧するためのフレームアップかどうか・・・色々意見がありますけどね。たぶん、フレームアップでしょう。

  下山事件(しもやまじけん)とは、連合国の占領下にあった1949年(昭和24年)7月5日朝、日本国有鉄道初代総裁・下山定則(しもやま さだのり)が出勤途中に失踪、翌日未明に死体となって発見された事件。事件発生直後からマスコミでは自殺説・他殺説が入り乱れ、警察は公式の捜査結果を発表することなく捜査を打ち切った。

三鷹事件(みたかじけん)は、1949年(昭和24年)7月15日に日本・東京都北多摩郡三鷹町(現・三鷹市)と武蔵野市にまたがる日本国有鉄道中央本線三鷹駅構内で起きた無人列車暴走事件。6人が死亡、20人が負傷。国鉄労働組合の共産党員10名と非共産党員1名が逮捕された。共産党員1名はすぐに釈放。残り10名が起訴されたが、共産党員9名は無罪となった。非共産党員1名の単独犯とされ最初無期懲役の判決を受けたが、後に死刑判決。結局犯人とされた非共産党員(竹内景助)は、無罪を訴え続けたが刑の執行前に獄中で脳腫瘍で死亡。

松川事件(まつかわじけん)とは、1949年(昭和24年)8月に福島県の国鉄東北本線松川駅 - 金谷川駅間で起きた鉄道のレール外しによる意図的な列車往来妨害事件。このため列車脱線事故が起こり3名が死亡。捜査当局は、この事件を当時の大量人員整理に反対していた、東芝松川工場労組、国鉄労働組合(国労)と日本共産党の共同謀議による犯行と断定。犯人と目した労働組合関係者20人(東芝松川工場労組・国労各10人)を次々に逮捕・起訴した。1963年被告全員の無罪が確定した。(以上日本語Wikipediaのそれぞれの項目から抜粋引用。)

事実関係として3つの事件で有罪になったのは竹内一人であり、その竹内も死ぬまで冤罪を主張した。しかし事件は起こっている訳であり、犯人は別にいるということになる。意図的にかあるいは無能なせいか、警察は全く別な犯人を捕まえて真犯人を逃していることになる。

また事実関係として、こうした事件のために「共産党や労働組合は暴力で日本の社会を転覆させようとしている、暴力革命を目指している。」というイメージ作りに大いに役だった。また事実関係として、大手マスコミがこの事件を大々的に報道することによって、こうしたイメージ作りに手を貸したことにもなる。これら事件をきっかけに49年暮れから50年にかけて共産党に対する弾圧・非合法化が開始された。ほぼ同時期アメリカでは非米活動委員会を拠点にマッカシー旋風が吹き荒れ、ニューディール以来の親共産主義的雰囲気が一掃され、アメリカは「反共国家」に生まれ変わる。

平岡がここで「フレームアップだと思う。」と言っているのは、個々別々の事件のことを言っているのではなく、こうした一連の事件全体を通じて作り上げられた「反共イメージ」総体のことを指している。

だから、そういうことを利用して日本を再軍備の方に持っていこうとする、それが原水禁運動へずーっと出てくるわけですね、モロに。なんか上手く、整理できないんです、私も。 

広島平和記念都市建設法

 哲野 その流れの中で、平和都市建設法でしたっけ、1949年ですね。当時の広島市長の濱井信三さんの回想録の中に、一応濱井信三さんが、GHQのウィリアムスという国会担当者に会いにいって、事前に了解をとっといてから、星島二郎あたりに根回しを始めたと言う風なことが回想録に書いてあるそうなんです。それはありそうなことなんでしょうか?

  星島二郎。当時吉田民主自由党の幹部で第一次吉田内閣の商工大臣。47年当時は吉田内閣の無任所大臣。後衆議院議長、自民党顧問。

平岡 でしょうね。広島市に、例えば復興計画の時なんかでも、イギリスの何とか中尉とか、全部入ってるんですよ。来てるんですね。復興計画に、彼等は・・むしろ彼等は市の行政を監督してたんじゃないかと思いますけどね。2人くらい来てるんですよ。占領軍から。
 哲野 そうでした?
 平岡 ええ。広島市駐在の、ま、派遣将校っていうのがね。
 哲野 中尉クラスですか。 
 平岡 中尉クラスだったと思いますけどね。 
 哲野 そうすると、広島の復興って・・長崎も49年だったと思いますけれども、広島・長崎の復興というのは占領政策の一貫でもあったということですか? 
 平岡 いやぁ・・・そこまではわかりませんですけれども。 
 哲野 そこまでは言い過ぎですか? 

  前掲桐谷論文では、1945年11月広島市議会において「復興委員会」が組織されたこと、広島市が復興資金調達に苦慮したこと、1948年2月に大蔵省広島財務局に旧軍用地無償払い下げ申請が出され却下されたこと、原爆都市復興を念頭に置いた世界平和都市建設のために国が一切の援助をする形にしてからスムースにことが運んだことを説明してから、次のように記述している。『GHQの国会担当官であるウイリアム(William, Justin)に特別法の起草案を提示すると、「国会から法案の承認を求めてきたら、私自身がマッカーサー元帥のところへ行って、サインをもらってくる」と賛成を得た。その後浜井市長が「民自党の星島二郎氏に会って協力を依頼した時、星島は“それはよいことだと思うがお濠端(GHG-当時GHQは皇居お堀端の第一生命館に本部を置いたので当時そう呼ばれたものとみえる)が承知しないだろう”」と言ったが、浜井がウイリアムの了解は得ている、と述べると星島は「それならできるだろう」と答えた。そして「広島平和記念都市建設法」は衆議院、参議院ともに満場一致で可決された。』としている。そしてこの特別法で獲得した政府資金を中心にして、平和公園、記念碑、記念資料館が建設・整備された経緯を述べた後、『建設を重視した「復興」は、やがて市民の暮らし、生活空間を基とした「復興」とは隔たりのある、不自然と思えるほど綺麗に整備され、空間の広がった大きな平和公園を作り出した。』と記述している。

平岡 要するにアレ(広島市復興計画のこと)をやったのは・・・任都栗さんとか、当時の市会議員、彼等が一生懸命、再建したいと。ところが財源がない。これはやっぱり、国有地を払い下げて貰ってなんかやればいいと。ところが大蔵省は、「特定の市に払い下げるわけにいかんじゃないか」と。
 哲野 日本国民みんな困っておるのに広島だけ、ちゅうのはいかん、と。
 平岡 そうそう。ただそのときに、原爆の特殊性を言った訳ですよ、広島は。長崎もそうなんですがね。長崎は後で付いてきたんですが・・。広島は原爆によって壊滅、大打撃を受けたんだと。これが立ち上がるにはどうしても特例が要ると。特別の。そこで平和都市建設法が、寺光さんでしたかね、作ったのは。法案を作って、そしてそれを住民投票にかけられたんです。 
哲野 そうでしたね。住民投票をかけて賛成を得ないと・・ 
 平岡  そう。出来ない法律だったんですね。特別法で。結局、狙いはですね、国有地をいかにして安く払い下げて貰うかという、その道を作るのが平和建設都市法。これは実はまだ活きてるんです。広島市の出す建設書類は全部ハンコが押してあります。実際に活きてると。(笑う)ホントは形だけなんですがね。私も被爆50年の時にこれを利用して、日銀広島支店の、あるでしょう?払い下げてくれと。(笑う)
 哲野 日銀広島支店というと? 
 平岡 旧館ですよ。それで旧大蔵省に行ったことがある。(笑う)そしたらこれは(広島平和記念都市建設法)はもう死んどるって言うわけですよ。死んでるって、全部生きてるじゃないか法律は。(笑う)あるんですよ。ホントに。現に生きて居るんですからねずっと。しかも広島市が出す提出関係のは、全部平和建設都市法のハンコが押してあるんです。それに乗っ取っておるわけですよ。 
 哲野 でも、今でも年に一回、報告せにゃならんのでしょう? 
  そうですよ、ですからこれはもう形だけで死んでるんですがね、もうすでに。何をいうかと建設省に怒られたですよ。50年だからちょっとねぇ、適用してもいいじゃないか、法律(平和都市建設法)がここにあるんだからと。広島は、政令指定都市になっとるような都市が、なんたるさもしいことをと言うかと。(笑う)あそこはね、大蔵省が持っておってもしょうがないんだから。売るだなんだ言うから、じゃ、ちょっと広島市にくれって言ったわけです。そう言う話があります。
 哲野 それは、あくまで法律の根拠はこの・・・ 
 平岡 ええそう、これ。戦後50年だからこれで売り買いしようやと言ってやってみたんですがね。 
 哲野 なるほど。駄目だった。(笑う) 
 平岡 うん。ハハハ・・(笑う)甘ったれるなと。ま、そりゃ冗談ですけどね。政令指定都市、100万都市を豪語しとる広島市がなんという浅ましいことを言ってくるか、ということを言われましたよ。 


原爆被害者救済に立ち上がったのは医師

 哲野 なるほど。ですから、広島市の復興というのは、今のお話もあったように、被爆者をなんとかしようということではなしに・・。 
平岡 それはなかったですね。ですから、被爆者はずっと放置されていたんで、それを一生懸命やったのはお医者さんなんですよ。松坂義正さん(昭和25年広島県医師会会長)とか原田東岷さん(外科医。1946年に広島に戻り、原子爆弾投下直後の同市で爆心地にバラックの外科病院を作り、治療を開始。)とか。それから街のお医者さんですよ。お医者さんが一生懸命被爆者を、朝鮮戦争以後ぐらいです、診て、これは大変だと。

つまり、ご承知でしょうけど、放射能被害というのはその直後に若干出るんですが、暫く潜伏していて、だいたい10年くらい経って出てくるわけですね。その典型になったのが佐々木禎子さんです。彼女は2才の時に被爆して、12才の時に発病する、白血病ですね。
 
  いろんな白血病が随分出てきたんですよ。ピークがあるんですね、ちょうど10年ていうのは。

これはどこの都市もそう、私もカザフスタンに行ってますが、カザフもそうなんです。10年くらいでワーっと出てくる。特に子供に出るわけです。抵抗力が無いですからね、子供には。

で、これは、お医者さんが、これはいかんというんで、一生懸命やって、原爆医療法というのを作るわけですね。医療法が出来てくるのはですね、実は被爆者の階層分化が起こるわけですよ。

最初は被爆者、被爆者と言ってますけどね、みんな被爆者だ。それが戦後の復興のなかで、あるいは朝鮮戦争で日本が経済成長を一歩踏み出した、その中で、被爆者の中に階層分化が起こるんですね。

財産があり、社会的地位のある被爆者は、社長だったり、社会的な上流。ところが、働く人は、身体が充分に働けない。原爆病だ、ブラブラ病だ、どんどん、どんどん底辺に沈んでいくわけですね。

被爆者における階層分化っていうのが、朝鮮戦争を契機にして起こってくるわけですよ。これは日本の経済復興と、軌を一にしてますね。

結局落ちてきた人たちとの中で原爆症っていうのが非常に問題になってくる。そうすると、お金もないから、国家で救済してもらないといけないんじゃないかという運動がずっと起こって、それはお医者さんを中心に起こってきて、もちろん政治家も噛んでいって、原爆医療法が出来るわけですね。これが1957年(昭和32年)だと思いますね。確か。

  原子爆弾被爆者の医療等に関する法律(昭和32年法律第41号)。通称原爆医療法。被爆者健康手帳、医療給付、健康診断などが受けられるようになった。その後16回の改正が加えられて、平成6年(1994年)廃止になった。


被爆者の階層分化と社会政策的視点

 平岡 原爆医療法が曲がりなりにも出来て、これは国の責任で治療しようと。その時に病名が非常に限定されてますから。その後、これを巡って拡大していこうというのが、今日まで続いている。ですから、被爆者と一括りにできない。最初は確かにみんな被爆者なんですが、やっぱり朝鮮戦争以後、日本が経済復興していく課程で、繁栄から落ちこぼれていった人たちと、ずっと昇っていった人たちもいるという視点が重要です。被爆者といっても、大金持ちも、会社の社長も被爆者ですしね。 
  だからそういう括り方をすると、僕はいかんと東京の連中に言うんですがね、東京の連中も被爆者というと非常に貧しくてね、しんどい、というイメージを持って居るんですよね。確かにそういう人もいるけれども、同時に経営して俺たちより金持ちもいるんだよと。そういう・・・何かなぁ、固定観念で見たらいかんと言うんですけどね。それにはやっぱり日本の経済復興に乗っていった人と、こぼれ落ちていった人と、階層分化をきちんと見ていかないと。

そうすると、今度は全く、被爆者の話じゃなくなるわけじゃないですか。そこばっかり言うと。そこでジレンマが起こって、私なんか怒るわけですよね。やっぱり被爆者は被爆者で健康の問題があるし、申請は問題があるし、会社の社長といえども不安を抱えて生きていく。

これはやっぱり、原爆はけしからんということになるじゃないかと、括っていきますよね。括っていくと、原爆には色んな問題があるわけですが、肉体的影響、心理的影響・・・。それにひとつ加わるわけですよ、社会的影響という側面がね。ところが括りかたによっては、社会的影響っていうのが抜け落ちるんですね。
 哲野 社会的影響?
 平岡 ええ、原爆が日本の社会にどのような影響を与えて、どういう形で戦後、残ってきたかという視点ですね。ですが、原爆被爆者のこうした学問的研究っていうのは無いですね。個別のケースは、これは新聞社の領分ですから、こんな酷いことがあったと書いて残るんですが、なんとなしに、この日本の社会政策のなかで落ちこぼれていった人たちへの、そういう者達に対する目っていうのが無かったような気がするんですよね。 
 哲野 社会政策的なアプローチが無かったと言ってもいいんですか? 
 平岡 ウーン、あんまり無かったという気がするんですがね。だから健康面だけでの救済でしょ?ずっと。ね? 

だからホントは健康面だけじゃないですね、底辺に落ちていった人にとっては、今でもそうなんですけど、やっぱりフリーターとか、ニートとかそういう問題と共通するもんが、彼等にあったと。

健康被害ですからね。健康被害だけ目を向けて、医療法で救えないじゃないか、そういう人たちは。だから援護法という構想になってくるわけですけどね。随分後ですよ。被爆者援護法っていうのはね。 


“被爆の特殊化”と断絶

 平岡 ただねぇ、この辺までくると僕はやっぱり、一般国民と被爆者との意識の乖離みたいなものがずっと出てきてですね、被爆者が特殊化される・・・実際特殊なんですよ。我々も実際、特殊な被害なんだということを強調してきたけれども、そのことによって一般の戦争被害者と断絶が起こってくる。

それが良かったか悪かったかというのは、僕の反省点ですけどね。初期の頃は良かったと思うんですよ、確かにこれは酷いんだと。あなたが批判している被爆者、特に人間的悲惨をね、広島は強調しすぎてけしからん、という・・・。

  初期の段階ではね、つまり、原爆の人間的悲惨すら知られてないから。まずこのことを知らせる事が大事だというんで、一生懸命書くわけですね。

ところが後になってくると、広島の悲惨に匹敵するというか、それを乗り越えるような被害が世界にいっぱいあるじゃないかという、そこへ目がいかなかったという、問題は確かに出てきます。

被爆者運動自体もね。自分たちの被害だけ訴えていったと。これは国内に置いてもそうなんで、他の戦争被害者との連帯がうまく取れなかった。ましてや海外のヒバクシャとも、連帯をやってなかったという問題が出ている。

  ここで平岡がいう“海外のヒバクシャ”というのは、広島、長崎で原爆の被害を受けて、現在日本国外に在住している被爆者、という意味ばかりではない。広く核実験によるヒバクシャは、アメリカにも、「世界の核実験場」となった南太平洋にも、カザフスタンのセミパラチンスク(現在はセメイ)にも、サハラ砂漠のあるアルジェリアにも、一時イギリスの実験場になったオーストラリアにも、中国の実験場にも世界中に広汎に存在している。また核実験を行った際、任務を遂行した現場の兵士たちやその家族にも相当な被害が出ていることが報告されており、特にフランスとアメリカでは大きな社会問題になっている。さらには、チェルノブイイリやアメリカの「スリー・マイルス事故」のように、核兵器ではなく、原子力発電事故で被害を受けたヒバクシャも広汎に存在している。平岡が“海外のヒバクシャ”と言っているのは、こうした広汎な“核被害者”のことを指している。 
 


原爆直後の“平和”とは?

 哲野 ただ、その問題に入る前に、押さえておきたいことは、1945年から1949年まで、平和都市建設法という名前に代表されるように、その当時「平和」という言葉がやたらと・・ 
 平岡 出ましたね。 
 哲野 出てきましたよね。その時の平和の概念が私にどうしてもわからない。今の「核兵器のない平和な世界」という時の「平和」と明らかに違いますよね? 
 平岡 これはまぁ、戦争しないっていうだけの話ですよ。厭戦、戦争は嫌だという。
 哲野 こういう解釈はできんでしょうか。つまり原爆が落ちたことによって、戦争が終わって、平和が来たんだ。この平和を大事にしようという考えだったと、こういう解釈はできんでしょうか? 
 平岡 そりゃできるでしょうけど、それにはちょっと落とし穴があってね。落とし穴があって、だったら、そりゃ原爆良かったじゃないか、原爆落ちて良かったという考え方。 
 哲野 濱井信三はそう言ってますよね。 
 平岡 言ってる、言ってる。彼は。言ってるんです。ええ、そう!1947年の平和宣言で、「不幸中の幸いだった」と。うん。

  最後の非公選広島市長・木原七カ(1947年3月公職追放のため辞任)は、1946年(昭和21年)8月6日「被爆一周年に寄せるメッセージ」で次のように述べている。『本市がこうむりたるこの犠牲こそ、全世界にあまねく、平和をもたらした一大動機を作りたることを想起すれば、わが民族の永遠の保持のため、はたまた世界人類恒久平和の人柱と化した十万市民諸君の霊に向かって熱き涙を注ぎつつも、ただ感謝感激をもってその日を迎うるのほかないと存じます。』(「増補 ヒロシマの記録」 中国新聞社 1986年7月24日発行 p61)

また、翌1947年の第1回平和祭の平和宣言で、最初の公選市長・濱井信三は、『昭和20年8月6日は広島市民にとりまことに忘れることのできない日であった。この朝投下された世界最初の原子爆弾によって、わが広島市は一瞬にして潰滅に帰し、十数万の同胞はその尊き生命を失い、広島は暗黒の死の都と化した。しかしながらこれが戦争の継続を断念させ、不幸な戦を終結に導く要因となったことは不幸中の幸いであった。

この意味に於て8月6日は世界平和を招来せしめる機縁を作ったものとして世界人類に記憶されなければならない。われらがこの日を記念して無限の苦悩を抱きつつ厳粛な平和祭を執行しようとするのはこのためである。』と述べた。
(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/hiroshima_nagasaki/
1947_0806_hamai.htm
>)
 
濱井は後にこの部分は誤りであった、と述べている。濱井は、平岡のいう「落とし穴」に落ちた、という事なのか。 

 哲野 だからアレっ?と思ったんです。それは、今はどうお考えになりますか。そう彼等は思ってたのか?つまり、原爆は戦争を終わらせたものとして、少なくとも濱井信三は47年の平和宣言で原爆投下は何十万人の市民の命を殺したけれども、戦争を終わらせたことは不幸中の幸いだったと・・ 


終戦の詔勅、アメリカの主張と同じ

 平岡 天皇陛下の詔勅とですね、アメリカ(の主張)と、全く同じです。落としたから戦争が終わったんだ、天皇陛下もですね、終戦の詔勅ではきちっと言っておるんです。 
1945年8月15日の終戦の詔勅で、昭和天皇裕仁は、
『加之 敵ハ新ニ残虐ナル爆彈ヲ使用シテ 頻ニ無辜ヲ殺傷シ 惨害ノ及フ所 眞ニ測ルヘカラサルニ至ル 而モ 尚 交戰ヲ繼續セムカ 終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス 延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ 斯ノ如クムハ 朕何ヲ以テカ 億兆ノ赤子ヲ保シ 皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ』と述べた。
 
(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/hiroshima_nagasaki/
1945_0815.htm
>)
 哲野 そうするとですね、非常に言いにくいことではあるけども、広島の戦後の平和運動なるものは、原爆投下を肯定するところから始まったと言っていいんでしょうか。
 平岡 さぁ、どうか・・・。 
 哲野 言い過ぎですか? 
 平岡 どうかねぇ・・肯定は・・・そんな突き詰めて考える人間いないんですよ。だいたい日本人は。まぁいいやと・・・。理論的に突き詰めて言うのは後のことでしょうけどね、その当時は助かって良かったと、生きててよかったと。 
 哲野 それはまぁ、絶対の実感ですよね。 
 平岡 それから一番問題は、1947年の12月に天皇陛下が来るんですよ。私数えたわけじゃないが、新聞を見れば5万人のね・・この(広島商工会議所ビルのこと。)前ですよ。立派な練兵場があってね、会議所のビルが残ってて、それに集まったっていうことは、やっぱりあなたがおっしゃるように、原爆を許しとったんかもわからんですね。で、今だったらですよ。俺たちがこんな目に遭ったのはあんたのせいだと言う人がいるかもわからん。その時はいなかったんでしょうねぇ。 

昭和天皇は、その後1951年に広島を訪れている。その後戦後初のヨーロッパ歴訪を前に1971年(昭和46年)4月16日に広島を訪れた。この時の天皇来広は、天皇来広に反発する被爆者青年同盟などと原爆慰霊碑の「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから」の抹消を求める右翼グループの鋭い対立を生んだ。その71年4月に平岡は「天皇とヒロシマ」という一文を書いている。
 『天皇の広島訪問―戦争を記憶している日本人はおそらく終戦詔書を思い起こすはずである。(前出終戦の詔勅)この終戦の詔書から慰霊碑参拝までの二十六年という歳月は、決して短くはない。とすれば、天皇の原爆慰霊碑参拝は死者の怨念と生存被爆者の苦悩を、歴史の一ページに送り込むセレモニーだったのだろうか。』『被爆者が歓迎の意向を表明したのは、何よりも経済成長を優先させてきた戦後の日本で、占める場所を持たなかった自分たちの苦悩が、“天皇の権威”によって社会的に認知されると受け止めたからであろう。』『市民の歓迎ぶりも、1947年(昭和22年)暮れに天皇が広島市を訪問した時に比べるとはるかに平穏だった。二十四年前、自ら神であることを否定した天皇が焦土の広島を訪れた時、生き残った広島市民は“人間”天皇への共感と、共に戦争で苦労したという思いから、熱狂的な歓迎ぶりを示した。しかし、今度の広島訪問に対しては、一部の市民から天皇の戦争責任を問う声が起こった。それはまた、戦後の日本の政治のあり方を問う声であった。』『しかし、広島にとって重要なことは、天皇来広を機に天皇の戦争責任、国家責任の問題がようやく表面化したことであろう。これまで広島、長崎の体験を基盤に展開された原水禁運動、平和運動は原爆被害者の残虐を国の内外に訴えることに終始し、戦争責任の問題を自らの手で追及することに欠けていた。―中略― 日本国民自身の問題である“戦争責任”は棚上げにされていた。その発想は終戦詔書を隠れミノにして、敗戦の責任を原爆に押しつけた戦争指導者たちと同様である。日本の平和思想の弱点は、自らの手で戦争指導者と自分自身を裁かなかったところにある。しかも広島の体験は、戦争への反省と戦争責任の追及という視点を持たぬ限り、いつまでも被害者意識のワクを突き破れず、非被爆者との連帯の基盤となり得ないのである。』「非被爆者との連帯」とは、今日で言えば、「あらゆる戦争や暴力の被害者との連帯」と言い換えることも出来るだろう。)


“やむをえなかった”という感情

 哲野 ただ、原爆投下は、肯定とまでは言わないけれど、やむを得なかったとは思っていた・・・。 
 平岡 やむを得なかったとは思っているでしょうねぇ。やむを得なかった・・・そこら辺が複雑なんじゃないですか。さっき言ったように2つ考えられるわけですからね。戦争の、あのままで良かったのか、いやあのままだと死んでるかもわからんし、ああいう人権を認めないような戦前の社会は嫌だと。憲兵も居なくなったしね。特高もいなくなったんだから。 

もう、自分は何を言ってもいいというような時代でありながら一方で、やっぱり・・・すっきりしないものを持ってたような気がしますね。それはやっぱり、戦争の目的がはっきりしなかったからでしょう。
 哲野 日中戦争なり太平洋戦争なりの目的が。 
 平岡 ええ、そうそう。目的がね。わけわからん。ですからなんとなしに、国民の総括ができていなというのは、まさしくそうなんだね。戦争の総括ができてないんで。まだもやもやしてるでしょう?ずーっと尾をひいとりますね。

非常に複雑な戦争の性格だったというですね。一方では防衛戦争的だったところがあるわけですよ。ABCDラインでね、やられて。一方で自分は侵略してるというところがあって。侵略戦争プラス、太平洋戦争になってくると防衛戦争みたいになってくるし、そういう複雑な性格をきちっと一言で表す言葉がないから、いまだに戦争の名前が決まらない。  
 哲野 岸信介は1955年の回想録でもなおかつ、太平洋戦争、あの戦争は日本の防衛戦争だった言ってましたからね。  
 平岡 今でも言っている奴はいるからね。  


ローカルな問題だった原爆

 哲野 演説だとかから類推したところは、結局原爆が落ちて、良い悪いは別。みんなとにかく、平和、要するに空襲もない・・・なんて言ったらいいのかな、当たり前の生活が戻ってきたという安堵感だけは強く感じるんですよ。そのことを平和と呼んだんじゃないかなと僕は思って、それが平和運動の原点だとは思いませんけれども、平和都市建設法とか平和な世界とか、その「平和」という言葉でどんなイメージをしてたんだろうかなということだけは、私の頭のなかに持っておきたい。もしそうだとすれば、戦争が終わって、普通の、当たり前の貧乏で苦しいけれども、当たり前の生活が戻ってきたことを喜んで、それを「平和」と表現したのかなと。 
  平岡 そう、そうでしょうね。庶民はそう思ったでしょうね。 

原爆っていうのは広島のローカルの問題だったんですよ。まさしくこれはローカルなんだね。酷い目にあったらしいというのは当然、(日本全体が)知ってたかもしらんけれども、そこで起こってる問題というのは極めてローカルな問題だった。

つまり日本国民が被爆したとか国民的なね、出来事であったと、衝撃的な出来事であったのはビキニ以後ですよ。それまで極めてローカルな話で。占領軍の政策もあったと思いますよ。こういうものを表に出さないようにという。或いは被害を軽視していこうという。アメリカ自体もよく解ってないんですよ、被害を。だからABCCを作ってね、一生懸命調べたわけですからね。 


ストックホルム・アピール

 哲野 で、そうやっていって、ところがですね、49年になると中国新聞に今度は一挙に原爆被害の記事が出てくる。 
 平岡 うん。逆・・ 
 哲野 平岡さんが中国新聞に入られる3年くらい前でしょうか、つまり朝鮮戦争が今勃発しようというその時になると、中国新聞に被爆被害の記事がどんどん増えていっている。48年と49年は、使用前使用後みたいに被爆報道がごろっと変わっていく、そのターニングポイントが49年に・・・。 
平岡 それはね、おそらくストックホルム・アピールの関係だろうと私は思うんです。 
哲野 あ、うーんなるほど。 
平岡 ヨーロッパで凄くその時危機感があったですね。で、私その時学生だったんですよ。ストックホルム・アピールをね、一生懸命署名をね・・。共産党が生んだんですよね。あれは世界平和評議会か。

  ストックホルム・アピール(Stockholm Appeal)は1950年世界平和評議会(World Peace Council-WPC)が世界に向けて出したアピールで、『われわれは、人民にとっての恐怖と大量殺害の兵器である、原子兵器の絶対禁止を要求する。われわれは、この禁止措置の履行を確保するための、厳格な国際管理の確立を要求する。われわれは、どのような国に対してであれ、最初に原子兵器を使用する政府は、人道に対する罪を犯すものであり、戦争犯罪者として取り扱われるべきであると考える。われわれは、世界中のすべての善意の人々に対し、このアピールに署名するよう求める。(1950年3月19日)』とするもの。当時WPC議長はフランス共産党員で、ノーベル物理学受賞者のフレデリック・ジュリオ・キュリー。彼が呼びかけ人代表となった。呼びかけ人には、ジェルジェ・アマード(ブラジルの小説家)、ルイ・アラゴン(フランスの詩人)、マルク・シャガール(ロシアの画家)、モーリス・シュバリエ(フランスのボードビリアン)、フランク・マーシャル・デイビス(アメリカのジャーナリスト、詩人)、デューク・エリントン(アメリカのジャズ・ピアニスト)、リオネル・ジョスパン(フランスの社会党政治家、後首相)、トーマス・マン(ドイツの小説家)、イブ・モンタン(フランスの歌手)、パブロ・ネルーダ(チリの詩人)、ノエル・ノエル(フランスの映画俳優)、ジェラール・フィリップ(フランスの映画俳優)、パブロ・ピカソ(スペインの画家)、ジャック・プレヴェール(フランスの民衆詩人。シャンソン“枯葉”の詩は彼が書いた。)、ドミートリイ・ショスタコーヴィチ(ソ連の作曲家)、シモーヌ・シニョーレ(フランスの映画女優)など、学者・文化人・芸術家がズラリと並んだ。WPCは世界に向けて署名活動を行い、当時ソ連の成人人口のほとんどすべてを含む2億7347万566人の署名を得たとしている。(以上英語Wikipedia“Stockholm Appeal”による。なお日本語Wikipediaは5億人の署名を得た、としている。)なおWPCは現在も国連のNGOとして活発な反戦・平和活動を行い、「反帝国主義」「非同盟主義」を旗印としている。日本からのメンバーは日本平和委員会。(以上WPCのサイトによる。)

なんで、あれ一生懸命やったんかよくわからん(笑いながら)。あれだけ覚えとる。一生懸命ねぇ・・。ストックホルム?ストックホルムなに?って言われるのを、とにかく原爆反対なんだと言ってねぇ。僕自身、その時、原爆反対の意識は無かったような気がする、今ほどは。新聞社に入って色んな被爆者の話を取材するなかで、次第にね、核兵器の実態というか反核意識みたいなのが生まれてきた。しかし学生時代は何もなかったですよ。 

ただまぁ、けしからんと。核兵器を使うのは、と言う程度だったと。新聞社に入ってませんから、どうだったかわかりませんよ、その頃は、あれを中心にして朝鮮戦争前夜的な雰囲気だったですよ。
朝鮮人が広島の場合、非常に熱心だったですね。自分たちの祖国の話ですからね。私がたまたま朝鮮半島育ちと言うこともあって非常に朝鮮に関心を持ってたから、どうもストックホルム・アピールにひっかかったという。(笑う)奨められたのは、どうも朝鮮人の友人だったと思いますよ。もちろん、これは東京で署名運動をやったんですよ。

   当時「ストックホルム・アピール」の呼びかけは、世界の良識ある人々にとっては極めて切実な響きを持っていた。朝鮮半島で、「国連軍」(事実上のアメリカ軍)が、北朝鮮と中国の国境線に原爆を使用する、という議論が公然とおこなわれていたからだ。結局それを強硬に主張する「国連軍」総司令官ダグラス・マッカーサーを、大統領トルーマンが罷免して原爆の使用は見送りになった。「原爆使用中止」の意志決定に、ストックホルム・アピールがどれほどの影響を与えたのかそれはわからない。ただ、こうした世界の声に逆らって、「ヒロシマ・ナガサキ」からわずか5年で、レオ・シラードが予言したとおり、朝鮮半島で原爆を使用したとしたら、それはアメリカの政治的自殺行為だったろう、と私は想像する。 


危険思想になる「平和」

   
 哲野 それで1950年には明らかにGHQの指導で、それまで続いてきた平和祭が中止。 
 平岡 ええ、中止ですね、これは。で、あの時はビラを撒いたってね、なんか・・・あれは朝鮮人の青年達だったという説が強いですね。福屋の屋上(福屋は広島市内の老舗デパート)からビラを撒いたのはね。  
 哲野 ビラを撒いたって言うのは? 
 平岡 主としてリーダーというか、地下で活動をしてた連中は朝鮮人・・あの時は共産党も一緒だもん。朝鮮人も全部共産党員ですよ。朝鮮人のほうが、自分たちの祖国の問題ですから、切実感を持って運動してたという具合に聞いているんですがね。 
 哲野 なるほど。1949年の4月に、パリとプラハで第一回平和擁護世界大会が開かれて、これが1950年のストックホルム・アピールに繋がっていくわけですけどね。丁度今、おっしゃられたような時期ですね。 

  前掲桐谷論文では、先ほどの吉川清の「原爆第1号と呼ばれて」の一節を引用して次のように述べている。『また吉川は「朝鮮戦争が始まると、平和は危険思想となった。8月6日は祈りの日とされ、サイレンを合図の黙祷だけが行われることになった。警察は、県下の警察を動員して、8月6日の集会禁止にむけて厳重警戒体制をしいた。しかも、警察の手によってビラがまかれたのだ。ビラにはこう書いてあった。平和祭に名をかる不穏行動に乗るな―知らずして犯罪に問われるな。」という当時の広島の様子を述べて、「今や<平和>は犯罪になったのである。それでも警官包囲の中で、勇敢にも平和集会を開いた人たちもあった。」』恐らくは朝鮮人を含む広島の平和運動は、朝鮮戦争反対の形を取らざるを得なかった、それが平岡のいう「福屋の屋上ビラまき事件」の一こまとなったのではないか?「戦争」が終了した安堵感としての「平和」は、朝鮮戦争を迎えて早くも「危険思想」となった。

平岡 そのころ、ひょっとしたらそういう動きが(被爆者の惨状についての報道のこと。)新聞社の中にですね・・・。49年頃からですか?被爆者の惨状についての記事は。
 哲野 私が自分で調べてないけども、「桐谷論文」によると、49年から「被爆者報道」がどっと増えるそうです。「桐谷論文」は、実はアメリカがそう言う風に持っていって、朝鮮半島に向かってアピールするために使った、と書いてあります。 
 平岡 ああ、広島の被害を?こうなるぞ、と。そうですか。 
 哲野 そういう見方ですね。はっきり彼女はそういう風な見方をしてて、なかなか根拠もしっかりしている。鋭いですよね。ただ、そういう彼女の独自の見方が正しいのかどうかっていうのはわからないし、その時の時代の気分っていうのが僕なんかわからないわけです、全然。今、平岡さんが振り返られて、たぶんこうだったんじゃないだろうかな、というお話があると、頭の整理になる・・・。 


中国新聞へ入社

 平岡 広島にいないんですよ。ずっと私は。大学で東京にいましたからね。
 哲野 大学はどちらだったんですか? 
平岡 早稲田です。
 哲野 早稲田ですか。どちらですか、早稲田の。
平岡 第一文学部。
 哲野 早稲田の第一文学ですか。
 平岡 ええ。独文です。
 哲野 そうですか。あんまりロクなところじゃないですね。(笑う)
 平岡 何をしとったかという・・ウフフ(笑う)。あんまり言われんのです。色んな事しよった。

  ここは若干の補足説明が必要。2009年10月1日付け中国新聞に、インタビューに答える形で平岡敬は次のように言っている。『日本が植民地支配した朝鮮で少年期を送り、6番目に開設された「帝国大学」へ1944年(昭和19年)に進む。』これは京城帝国大学のことだ。直前は京城中学の学生だから、順序としては旧制高校に進むべきだが、当時対馬海峡の制海権はすでにアメリカに奪われつつあった。内地の旧制高校には通いづらい事情があった。そこで京城帝国大学予科理科乙類(医学コース)に進んだ。入った年は、『金浦空港でモッコを担いで土運び。2年になると、興南(現在北朝鮮咸興市)に送られ、3交代で働いた。チッソ(日本窒素肥料)の化学工場です。そこで8月15日を迎えた。』『翌日、僕も町に出てみたら「日帝、日人即時撤去」のビラがいっぱい張ってある。しかし、その意味がわからなかった。植民地という意識は全くなかった。朝鮮で生まれ育った日本の連中と同じように自分の国土、山河だと思っていた。』ソ連がやってくるというのでみんな大騒ぎしていると、朝鮮人の農民が平然と畑を耕している。『それを見て頭でっかちの国家観のおかしさに目が覚めた。国はいざとなったら弱い者を見捨てる。でも、庶民は関係なしに明日の食いぶちをつくる。これが人間の生きることなんだと思った。』 

平岡 中国新聞はね・・・自分の社のことをあんまり言うのは拙いけどね、僕の入った頃の新聞はろくなもんじゃなかったね。そりゃねえ、優秀な記者が皆いなかった。退社して。
 哲野 21人・・22人と書いていらっしゃいましたっけ? 
平岡 21人だったと思いますね。(レッドパージで)21人くらいクビになっとるでしょ。後はもう、社内の空気は沈滞してましたね。そりゃしょうがないですわね。 
 哲野 そこで、いよいよ52年(昭和27年)に大学を卒業されて、中国新聞に入られてからの話になるんですが、最初から原爆平和報道をやっておられたわけじゃないんですよね。  
平岡 僕はやってないです。僕がやったのはそれです、(と「無援の海峡」を指さす。つまり韓国人被爆者問題のこと。)、最初。言われてから昭和36年、7年、8年までやって、僕はすぐスポーツの方に行かされたから。まともにやってないんですよ。一番大変なとこなんです。僕は取材してるはずなんです、38年ずーっと。運動を横から見てね。それを本当は書いとかないといけなかったのに、書いてないな・・・。

  1961年(昭和36年)、第7回原水禁世界大会は、ソ連の核実験への対応を巡って社会党・総評系と共産党系が対立する。62年(昭和37年)、第8回大会は、ソ連が核実験を行ったため再び対立。63年(昭和38年)、第9回大会は「部分的核実験禁止条約」に対する対応を巡って決定的に両者が対立、大会は流会となった。これが原水禁運動分裂の直接の引き金となる。分裂は今に続いている。

11月だったと思うなぁ。「スポーツ中国」に行けと言われたのは。だいたい、年末にまとめをやりますからね。その年のね。今頃こんな記事はないんです。新聞には。
   
ちょっと見て、批判をして、自分で。これは、ここはちょっとおかしいな、とかね。丁度分裂の前のね、第二原水協ができるじゃできんじゃという、ああいう時代の話ですからね。あと分裂の前夜、2年間。甘いところがあるんですよ、ものすごい甘い希望的観測随分入れてるし。でもまぁ、隠すわけにいかん。書いてる訳ですからね、私は。


整理部へ塩漬け

 哲野 記者になられてからの話ですよ・・・。  
 平岡 私は変則記者なんです。入ってから書くところへ行ってないんです。整理記者、整理部へ塩漬けになったんですよ。その間に書きましたよ。実は。ペンネームやらなんやらでね。そのことは私いま、本にしつつあるところなんですけど。  
 哲野 書いたものはどこへ発表されたんですか。 
 平岡 新聞に書いた。ペンネームで。 
 哲野 ・・・整理部の記者で? 
 平岡 ええ。  
哲野 そんなもん・・・あの・・・。 
 平岡 いやいや、その頃はそういう会社だったんです。それで金井さん(金井利博)がお前ちょっと来い・・・ま、最初は書評を頼まれた。書評はどんどん書いた。そのうち僕が穴埋めを書いたのを、それからちょっとコラムを書いたり・・(笑う)そのうち「お前、来い」と行って、引っ張られた。それから学芸部へ行ったんです。
哲野 或る意味、おおらかな時代だったですね。
 平岡 或る意味ね。だから、社内・外で書いたんです。書けないから。その書いたものを集めてね、ちょっと本にしようと思って。
哲野 それでいわゆる原爆平和報道に初めて向かい合われたのはいつ頃の時期?
 平岡 昭和で言えば36年です。実は昭和34年くらい、僕、組合をやっとるんですよ。

組合運動をやって、その時はちょうど安保(60年安保)ですよ。安保で一生懸命やったのはやったんですけどね。35年は書記長だったかなんだったか忘れたけど、とにかくやり手がないんで、お前やれと言われて。人が良いんです、私は。すぐハイ、しょうがないっていってやる。で、3年くらいやりましたかね。その時に今度はスポーツの方へやられたもんですから、書く前に、そうした平和運動への若干関わりはあるんです。労働組合員としてね。平和集会に出てみたり。それはやってるんですがね。活動家でもリーダーでもなんでもないですから。ちょっと聞いてはハスに構えて。(笑う) 
哲野 ここにはですね、当時学芸部長だった金井利博氏から大きな影響を受けた、と書いてあるんですが(2009年10月8日付中国新聞)、その金井さんから受けられた影響というのはどういう・・ 
 平岡 ひとつはね、原爆を・・・人間の立場から原爆をみろという話と、もう一つは・・・「しつこい」んです。「しつこい」。 
哲野 「しつこい」? 
 平岡 しつこいというのはね、対象に食いついたら離れんという、ことですね。どっちかっていうと僕は浮気性で、あれやったりこれやったりする方なんですがね。この人はホンマもう・・・しつこかった。で、そういうことは許される立場だった、彼は。僕らじゃ出来ない。あの人は元の会長・・・僕の入ったときの社長の義理の兄貴なんです。従って社内で彼が非常に我が儘だったけれども、それが誰もなんとも言えないというね(笑う)・・そういう立場だった。 
哲野 いわゆる身内の方だった?オーナーの。 
 平岡 身内・・・でもそれをひけらかす人じゃなかったんですよ。ひけらかす人じゃなかったんですけど、周りはそう見ますわね。普通なら、何やってんだと言われるのを言われずに済んだという・・・自分の好きなことが出来た人だった。最後、学芸部長、論説委員長をやるんですがね、まぁ論説時代でも無茶苦茶ですよあれは。原稿を出したら、また、訂正、訂正でね。そういう我が儘な、その代わり自分で気に入るまでやるからね。文章は長いですしね。 
哲野 文章長い? 
 平岡 長い!(笑う)どんどん書き込みがあるから。私もね、どっちかっていうと長いんですがね。(笑う)あの人は長い。(笑う) 


韓国在住被爆者問題

哲野 朝鮮の被爆者の人から手紙を貰ったことがきっかけだったという。 
 平岡 あれはね、きっかけというか。朝鮮人被爆者のこと、僕、知らなかったんです。確かに、日本人の被爆者は一生懸命取材をしてたんですが。

でね、あれはねぇ・・・1965年(昭和40年)の春ですね、確か、手紙を貰ったのは。2月か3月だったと思いますよ。編集局長の所にきた手紙が僕の所に回ってきたんですよ。こんな手紙きたぞって。で、見たら・・・。 
  
哲野 その時はどこへ所属しておられたんですか? 
平岡 65年はね・・・。
哲野 もう学芸部ではなかったんですか?
平岡 編集委員だったですね。
哲野 あ!もう編集委員になられとった?
平岡 ええ。いや、そりゃ色んな事情がありましてね、社内に。さっき私が38年にクビになってスポーツ中国へ行きますね。そりゃ1964年(昭和39年)、東京オリンピックがあるんですよ。その東京オリンピックを当て込んで、中国新聞がスポーツ新聞を出したわけですよ。
哲野 なるほど。
 平岡 で、ガラにもないスポーツ新聞出すもんですから、その時組合の中央委員かなにかやってたんですけどね、とにかくお前、やれということになって中央委員会開いて、こういう話があったぞというと、みんながやれやれと言うものだから、私は仕方なく部長で行った。
哲野 ハァ・・・随分お若い部長だった・・・。
平岡 若いです。38か9ですかね。でまぁ、とにかくお前やれ、と。で、そのスポーツ新聞を・・・毎日出すのは・・・随分酷いことあったんですがね、無茶苦茶なんですが、要するにそれを、1年間やった。1年で潰れたんですよ。オリンピックが済んだら。ま、潰したんですよね。これは本紙にものすごい影響が出るものだから。本紙売れなくなる。(笑う)スポーツ新聞・・・つまりカープを一面にやってるもんですからね、アハハ・・・(笑う)で、販売局がね、売らんわけですよ。それで潰そうと。潰れたら、私、行くところが無いわけでしょう?で、お前は、編集委員やれ・・・。
哲野 ハァハァ・・・。
平岡 それがまぁ、昭和40年ですわね。戦後20年、で、お前は原爆の取材班をやれと。

  2009年10月10日付け中国新聞。『僕(平岡のこと)を処遇するポストがなくて編集委員で遊んでいたら、兼井亨さん(社会部長から編集局次長)が「人を出すから取材班つくれ」という。何をするか。被爆のそれまでの歴史をABCC含めいろんな角度から整理する。まとまったものは当時なかったし、人間と核兵器を考察する視点は薄かった。被爆の実態は「ヒロシマの証言」のようにもっと掘り起こしていこうと企画した。「“ヒロシマの夏”は熱く、“広島の二十年は耐えがたく重い。”日本の戦後の重みが広島の一点に集中しているからだ」。この書き出しによる自らの「炎の系譜」、浅野記者ら5人が担った「世界にこの声を」、そして年表「広島の記録」からなる「ヒロシマ二十年」は−中略−1ページ特集で連載し、65年の新聞協会賞を受ける。被爆地からの報道の礎をつくった。』『中国新聞の原爆報道といえば、金井利博さんの名が挙げられるが、兼井さんの功績は大きい。』『今となると悔いもある。―中略―日米安保の問題も含め反核運動の本質にもっと切り込むべきだった。』 


韓国で被爆者を取材

平岡 1965年。それ(一連の原爆報道)をやって、夏が済んだら暇だから、丁度その前に(韓国の被爆者からの)手紙を貰ったものだから、ちょっと朝鮮行ってくるわと・・。 
哲野 なるほど。
平岡 出張じゃないんですよ。 
哲野 え、あ、そう。自腹で行かれた?
平岡 自腹。ま、元は取り返しましたけどね(笑う)。原稿を売って。1本、五千円。ウフフフ(笑う)。10回。写真付き(笑う)。「ええい、ヨシ、買おう」と。当時面白い編集局次長が居ましてね。 
哲野 おかしいじゃないですか。 
平岡  (笑いながら)え?
哲野  自分が社員の会社に原稿売ったわけでしょ?
平岡  そうそう・・。いや、出張費がでないんです。出せんって言う。海外出張出来んっていうから、しょうがない、私がいってきますわって。行くけどちょっと取材費が欲しいんで、10回、どうですかって交渉したわけよ。編集局のデスクとね。そんじゃまぁ、写真付き1回五千円、安いですよって言ったら、買おうって。で、すぐ10回書いて、売った。その中に、韓国の被爆者のことを書いた。それが中国新聞の(韓国在住被爆者報道の)最初でしょう。
哲野 朝鮮に行かれて、取材されて、この本にも書かれておったけれども一番何が衝撃だったんですか
平岡 あのね、反共法ですね。実は、僕はいつか行ってやろうと思って、昭和39年・・・、原爆をやりながら海田の朝鮮学校っていうのがあるんですよ。あそこの女の先生にね、朝鮮語習ったんですよ。1年間。僕ぜんぜん、朝鮮語知りませんからね。向こうに居ったといっても、その当時使ってはならないし、朝鮮語知らないし。で、一年間ちょっと勉強したんですよ。(笑う)それで行ったはいいけど、僕の使う朝鮮語が北の朝鮮語だったんですよ。

だいたい、電話かけると、「ヨボセヨ」って言うんですよね。「ハローハロー」っていうのを「ヨボセヨ、ヨボセヨ」。私が習ったのが「ヨボシプシヨ(笑う)ヨボシプシヨ」っていうたら、これは・・・(笑う)あんた、北の言葉だって、向こうで怒られましてね。気を付けろって。当時韓国には反共法ってのがあって、2回目に行ったときに、田舎の旅館でね、被爆者の元徴用工の人に集まって貰って、10人くらいね。一杯飲みながら話を聞きよった。そしたらそこへ警官が踏み込んできてね、「無届け集会」だ、というわけ。あの時はね、反共法何条の何項か忘れましたけども、5人以上集まってやるときには届けなきゃいけないんですよ。そんなこと知りませんしね。 
哲野 まだパク・チョンヒ政権? 
平岡 パク・チョンヒ。
哲野 ああ・・怖い怖い・・・。
平岡 で、田舎に行ったら派出所ですか?警察署の周り、ずっと土嚢が積んであってね。そこへ銃弾構えていつでも応戦出来るような、そんな状況だったんです。だから朝鮮戦争が済んでまだ、まだ10年経ってない(停戦になったのは)57年ですから、まだ7〜8年でしょ。まだ非常に緊張してたときだし、その反共法ってのは知らんもんですからね。とにかく僕を引っ張っていくっていうものですから、周りの被爆者達が、徴用工たちが、「いや、この人はいい人だから」と言ってくれてね。それでこらえてもらった。
  この人はいい人だって言ってくれて。自分たちの苦しみをね、知りに来て取材してくれてるんだと言って、弁護してくれたものだから。そりゃ、村の人たちですからね。村の警察なんですから。だけどもそう言うことがあった。そりゃ怖かったですよ。ビックリしたですね。つまり、僕らは戦後、非常に身の危険なんて感じないところで仕事してるでしょ?ずっと生きてきたですね。これはひょっとしたら殺られるかもわからんな、ちょっと一瞬ね、引っ張られてポンとやられてもしょうがないですからね。で、私は勝手に行っておるんです。出張でもなんでもない。自分の自費で行っているわけでしょう?  
哲野 で、ビザは観光ビザ?。
平岡 観光ビザ。
哲野 いわゆるプレスビザでなく・・・
平岡 ええ、だから殺られてもしょうがないなと。
哲野 なるほど。
平岡 で、ずっとね、私も韓国からマークされてましてね。ていうのは、帰ってからね「世界」(岩波書店の総合誌)に書いたんですよ。「世界」に書いた言うたらね、もう駄目なんよね。北だって思われてる。

その当時領事館が下関にあるんです。僕、ビザの申請の度に下関に「来い」って。旅行社通じて申請を出しておるんですよ。普通の他の人はみんな判を貰うのに、「平岡だけ来い」って。下関まで行って、領事館まで行ったら、机出して「平岡さん、わかってますね?日韓友好のため、いや、韓日友好のために記事書いてくださいよ」って。「解ってますよ」というと、「あなた“世界”に書いておる」って言って・・・(笑う)もう、そうやってイヤミ言うわけですよ。
哲野 しかも、喋る朝鮮語は北朝鮮語。ハハハハハ。
平岡 そうそう!(苦笑い)


日本に責任はないのか

平岡は「二重の痛苦にあえぐ在韓被爆者たち―日本人に責任はないのか」とタイトルの、1977年12月に書いた一文の冒頭で、眉間に青筋を立てながら、次のように書いている。『「韓国にも原爆被害者がいる」という事実が知られ始めてから、もう何年も経つ。しかし日本では、一部の人たちを除いては、朝鮮人被爆の歴史責任を痛感して救援に立ち上がる動きはみられなかった。それは被爆朝鮮人・韓国人の存在が政治問題化しなかったことにもよるが、それよりも日本人が、「なぜ朝鮮人が被爆しなければならなかったのか」を真剣に考えてこなかったことに、より大きな原因がある。―中略―いうまでもなく、このことは被爆朝鮮人・韓国人のせいではなく、むしろ彼らを被爆に追い込み、三十八度線問題をはじめとする戦後処理を自らの責任においてきちんとおこなわなかった日本の責任である。』(前掲「無援の海峡」p25-p26)

哲野 一番なにに衝撃を受けられた、ここに怒りを持って書かれていることは、確か僕の記憶だと朝鮮人の被爆者がほっておかれている、こんなことがあっていいんだろうかという風な文章だったと思うんです。何に一番衝撃を受けられた?
平岡 だからやっぱり、彼等の訴えを周りの人が聞く耳を持たないという。それは韓国人と言いましょうか、朝鮮人の原爆観に繋がるわけですよ。(韓国の被爆者の)周りの人たちは、広島に原爆が落ちたことは良いことだ、良かったと、あれによって自分たちは植民地支配から脱して建国することができたんだという考えでしょ。  
哲野 その気持ちもよく分かる。 
平岡 だからつまり原爆はいいと肯定するわけですね。僕は原爆否定。そのためにあなた方はとにかく被爆者、大事なんだから証言してほしいとそういうこと言っておるわけですが、(韓国の被爆者の)周りの人は全然違いますわね。だいたい、日本に行っていることが、どういうかなぁ、売国的行為。 
哲野 しかしそれは強制労働で連れてこられたわけだから。 
平岡 いや、そういう人もいるけど、自分から日本へ行ってる人もいるわけですよ。もちろん。食い詰めて。出稼ぎというか。植民地にされて、喰えないからと、随分流れてきておるわけですよね。平和的に。
哲野 そりゃあったでしょうね。
平岡 そういう人たちの後に、強制労働があるんですけど、強制労働ばっかりじゃないですよ。そうするとやっぱり、自分たちは植民地で苦労して、日本帝国主義の元で一生懸命生きてきたのに、お前達は日本帝国主義のおこぼれを貰って生きてきた。けしからん、というそういう民族のなかでのせめぎ合いみたいなのがあるわけですね。心理的な。それで日本での被爆でしょ。「被爆」なんかなんでもない、朝鮮戦争の被害を見ろ、と。 
哲野 なるほど。
平岡 韓国の国家にとっては、こっち(韓国内のこと)が大事だ。これは公式的な、向こうの保健社会部というか、日本の厚生省みたいなところですが、ここが言うことは、要するに、朝鮮戦争の被害は大変なんだ、と。一握りの被爆者の面倒を見たくない。これは元々日本がやるべきだと。
哲野 或る意味二重に捨てられた存在。
平岡 そうそう、そうそう。(韓国の被爆者を)韓国は捨てる、日本政府は(韓国の被爆者のことは)全然目に入ってない。で、(日本の)被爆者団体も見捨てておる。なんとかしないといかん、と私は思った。
哲野 被爆者団体も見捨てている?
平岡 最初に行って、発見したものだから、次に2年後に行ってですね、団体を作れと言ったんですよ。被爆者のね。
哲野 あの、韓国人被爆者の。 
平岡 そのことをやる人がいて、その時に居た人は生き残っているのは一人ですけどね。その時に私は被団協の(日本被爆者団体協議会)・・・どっちのぶんを持っていったのかな・・・規約を持っていったんですよ。綱領とか規約とか。そういうものを参考にしながら韓国でそう言う組織をつくったらどうかと。出来たんです、それがね。被爆者援護協会。メンバーは被爆者だけじゃないんですが、被爆者を援護しようという協会が出来て、会長は被爆者じゃないけれども社会運動家です。社会運動家といっても、それで飯を食おうという人。韓国には多いんです、こういう人が。色んなのを作って外国から援助を貰って、もちろんそれは困った人に使うけれども、一部は自分が飯を食ったり、組織を作ったりするのに使う。

それは別に、恥ずべきことでもなんでもないし、社会運動家というのはそういうもんだと。僕らはどちらかというと日本だったら、身銭を切ってね、何かやるというのはあるんですが、そうじゃなくて、それを商売にするというか、職業にする人たちがいるんです。
哲野 これは別に、悪いことじゃないですからね。
 平岡 悪い事じゃない。こういう人が中心になって、元の軍人が集まったりして、被爆者を救済しようじゃないか、という。それはいいことだからと。そういうのが出来た。

事務所を構えてね。そういう人たちが出来たんだから、日本の平和団体というか被爆者団体と連携をとったらどうかと。でまぁ、共産党ってわけにはいかんから。原水禁の方へもっていったような気がするね、最初。


“分け前が減る”

哲野 原水協ではなく、原水禁のほう、いわゆる社会党系ですね。
平岡 ウン、原水禁の方へね。(当時反共法を持っている韓国だから)向こうは共産党って言うと具合が悪いですからね。持っていったけどこっちは見事に蹴られましてね。
哲野 それが私、何回も聞く話なんですが、突っ込んで聞くのは今回初めてなんですが、原水禁が蹴飛ばしたというのは、具体的にどういうことですか?連携しない?
平岡 連携しない。“韓国という国は存在しない。”それは建前ですね。当時は軍事政権でしょ。傀儡政権というとおかしいけれども、「大韓民国」は国家じゃない、国家として認めないというわけですよ。
哲野 ・・・ウーン・・。
平岡 社会新報あたりはね、いわゆる“韓国”ですよ、表記はカッコ付き、全部。韓国という国は、大韓民国という国は存在しない、“韓国”はあるって言うんですよね。そういうことを彼等は言うわけですよね。

そうじゃなくて、「国家」じゃなくて「人間」じゃないかと。人間が苦しんでいるから、連帯をしていったらどうかと。そしたら最後にはある人が、「自分たちの分け前が減る」って言った。それで僕はもう怒って、「お前らとは話をせん!」と言ってね。以来私はそれがトラウマになって。
哲野 突き詰めていったところは、要するに日本政府からやってくる援護金は一定のパイが決まっているから、パイにぶら下がる人間が増えれば増えるほど一人当たりが減ると。
平岡 と言う人がいたんですよ、幹部が。
哲野 それが本音だったんですか?
平岡 いや、だからそういう本音をパッと言うから。おかしいじゃないか、だったら沢山取ればいいじゃないかとね。

或いは、こういう人たちがいるのを、あなた達は見捨てていいのかと。世界平和だと言ってるんだから。

なかなかそういうことになってくれなかった。結局60年代から70年にかけて、つまり私もそれまで、行くまでは朝鮮人被爆者、韓国人被爆者というのが頭の中になかった、同じように日本の平和団体の中にもそういう頭はなかった。それが出てくるのはやっぱり、70年すぎてからでしょう。

あの頃(韓国からの)密航で、どんどん(原爆被害を)訴えてくる人が出てきたですね。韓国から。
 
  それを受け止めて、やっぱり日本の加害の問題だとかという話が出てくる。それまで日本は被害者なんですよ、ずうっと。ようやくあの頃から加害の問題が出てきたんだけれども、加害を巡ってでも、僕は随分議論しましたよ。

「平岡さんみたいに加害、加害と言ったら、自分たちの被害を訴えるエネルギー、迫力が欠ける」と言ったですね。 
哲野 え?すみません。もう一回、おっしゃってください。
平岡 僕は「日本の加害の責任というものをしっかり考えなきゃいけないんじゃないかと、被爆者も」と言ったら、「あなたみたいな加害、加害と言ってれば、自分たちの被害を訴える力というかエネルギーというか、迫力というか、損なわれると。だから被害だけで行くべきだ」と。「加害の事は考えない」と。これは高橋昭博さんも言ったな。
哲野 高橋昭博さんというのは?
平岡 なんか今頃、被爆者で証言する人がいるじゃない。
哲野 あ、広島原爆資料館館長だった・・・。
平岡 ええ、館長だった。あの人も確かそう言ったね。僕は、被害のことは当たり前だから、加害のことも考えなきゃいかんと言った。ですが、私の言い方が悪かったのかもわからないし、言葉足らずだったのかもわからんけども。
哲野 それはいつ頃の論争ですか?
 平岡 70年頃ですね。65年にそういう問題が起こって、67年頃に(韓国に被爆者)組織が出来る、67年から70年にかけてですよ。そのうちに孫振斗さんという被爆者が日本に密航してきた・・・。

これの支援運動をやったんですよ、僕は。その時に助けてくれ、と行ったんです。「やらん」と。密航者、あれは犯罪者である、と。つまり運動のシンボルにならないというわけですね。やらない・・それはおかしいよと言ったんだけれども・・・。まぁ、当時そういう雰囲気ですよ。
哲野 今は変わった?
平岡 今は変わった、やっぱり加害の問題もきちっとやらないといけないと。75年頃からじゃないですかね。被爆者運動自体が加害の問題も視野にいれて・・・。

 (以下次回)