2010.8.26
第2回 韓国人(朝鮮人)被爆者問題と歴史に対する責任

前回までは、1945年8月6日、広島に原爆が投下され、それでやってきた「平和」を広島市民はどううけとめたか、朝鮮戦争が勃発すると、「平和」が危険思想になっていった過程、その中で「被爆者」の存在がようやくクローズアップされ、中でも平岡敬が「朝鮮人被爆者」の問題に着目していく過程を見てきた。平岡は「朝鮮人被爆者」の問題を決して皮相的には捉えずに、日本の戦後歴史清算の問題として捉えた。

「孫振斗」事件

    1977年2月に平岡が書いた「仮面の裏側」という文章の冒頭。

 『 被爆朝鮮人について書くのは、日本人被爆者について何かを語るよりも一層私をつらい思いにさせる。それは彼らの苦悩に対し私がこれまでほとんど力になり得なかったということ、私自身が加害者であり続ける日本人の一人であることに起因する。−中略−しかし、いかにつらかろうとも、被爆朝鮮人の悲惨な状況が現に存在する以上、やはり口を閉ざすべきではないだろう。それは彼らを代弁しようというのではなく、全く「自己確認のために」である。

戦後、日本はことあるごとに「唯一の原爆被爆国」という立場で、世界へ向かって平和を訴えてきた。人類の十字架を背負ったような、その犠牲者的風貌は、いまやすっかり板について、日本人はそれが仮面であることにさえ気づかなくなっているように思われる。あえて仮面というのは、広島・長崎で多数の朝鮮人が被爆した事実を、戦後一貫して黙殺しているからである。被爆者救援を一つの柱とする原水爆禁止運動すら、そのスタートから彼らの存在を視野に入れてこなかった。被爆朝鮮人は日本人の考える「原爆問題」や「ヒロシマ・ナガサキ」の中に占めるべき場所を持たなかったのである。これは日本人に自らの歴史に対する責任感覚が欠けていることを示すものだ。』(「無援の海峡」p50-p51)

 『 ・・・日本人被爆者の体験記はたいていの場合「あの朝」の閃光から始まる。しかし被爆した朝鮮人は、まず「なぜ自分が日本にきたか」というところから語り出す。その違いこそ、被爆朝鮮人問題を考える場合の核心である。』(同p54)

『かつて釜山で被爆者の集まりに参加したことがある。その中の何人かは、被爆状況を聞かせて欲しいという私に対し、(被爆状況ではなしに)馬鹿にされ差別された徴用工時代の苦しみを訴え続け、遂には泣き出してしまうのであった。』(同p56) 

 『 日本人の被爆体験記が「あの日」から始まるのは、あるいはそのような編集がなされるのは、八月六日以前の歴史と絶縁して、自らを被害者に位置づけ、過去を免罪したことに他ならない。だから空洞化した「平和国家」に安住しているのである。』(同p56) 

平和の下で切り捨てられている被爆朝鮮人の存在は、平和の意味を問い、その実体を鍛えるヤスリである。−中略−私たちはもっともっと被爆朝鮮人の肉声を集めなければならない。それは私たちの過去と現在の歴史をつなぐ貴重な証言である。その集積はおのずから私たちの醜さを鏡に映し出し、私たちを打ちのめすだろう。だが、私たちはこの醜さから目をそらしてはならない。』(同p56) 

 こうした中で「孫振斗事件」が起こる。1970年暮れに朝鮮人被爆者孫振斗が支援を求めて日本に密航して来たのだ。

 『 原爆後遺症を治療するため韓国から密入国した孫振斗さんが、福岡県知事を相手取り被爆者健康手帳(原爆手帳)の交付を求めている裁判も、実は朝鮮人を差別する日本の行政との戦いである。

孫さんは大阪市で生まれ、“日本人”密山文秀として育った。18歳のとき広島市内で被爆、父親は三年後に原爆後遺症と思われる症状で死亡し、母と妹は韓国へ引き揚げたが、日本育ちで朝鮮語もわからない孫さんは日本へ残った。しかし1951年(昭和26年)外国人登録をしていなかったため、韓国へ強制送還された。その後身体の調子が悪く、原爆後遺症の不安から1970年(昭和45年)12月に日本の専門家の治療を求めて佐賀県に密入国し、逮捕された。被爆者のための専門病院もなく、治療費も満足に稼げない韓国からの脱出は生きのびるためのギリギリの手段だった。』(同「黙殺との戦い」p69-p70) 

 平岡 孫振斗さんの支援運動をやったんですよ、僕は。その時に(日本の被爆者団体に)「支援してくれ」、と言ったんです。そしたら「(助けて)やらん」と。密航者、あれは犯罪者である、と。つまり運動のシンボルにならないというわけですね。(助けて)やらない・・それはおかしいよと言ったんだけれども・・・。まぁ、当時そういう雰囲気ですよ。   
哲野 今は変わった?
 平岡 今は変わった、やっぱり加害の問題もきちっとやらないといけないとなっている。75年頃からじゃないですかね。被爆者運動自体が加害の問題も視野にいれて。

70年の初め頃じゃないですかねえ。孫さんの時にはね、まだ犯罪者だから支援出来ないと言われまして。で、森滝さんは、「まぁ平岡さん、組織としては支援できんけれども、私個人はあなたに支援しよう」と。と言ってくれました。森滝さんは。
哲野 森滝市郎さん。
 平岡 ええ、森滝市郎さん。だけど組織としてはできない。
哲野 ごめんなさい。その組織としては出来ない、という理屈が僕にのみこめてない。
平岡 彼は、犯罪者なんだと。
 哲野 それは形式論理・・・。
 平岡 被爆者は全部偉い人かと、善人か、と言って居るんですよ!ボクは。色んな人がいると。被爆者はね。確かに(孫さんは)犯罪者というか、筋が悪い人なんですよ。
 哲野 元々? 
 平岡
元々。だけどね、原爆というのは人を選んで落とすんではないんですよ!

みんな、良い人も悪い人も被爆するんだ、と言ってるんだ。

だから、たまたまその人は広島で被爆して、ちょっと筋がわるいかもわからんけれども、被爆者には違いないんだから。

僕は調べたんですよ。彼が密航したときに、(佐賀県の)唐津に行って、(彼の)写真撮って、後で(被爆者ではないと)ひっくり返されたらいけませんからね。写真撮って、南観音から観音新町あたりずっと歩いて、この人、知っておらんか、とずっと歩いた。 

そしたら、この人知って居るというひとが2人出てきたんですよ。その当時、(孫さんは)密山という名前だった、戦争中。これは「密山じゃないか」と。

じゃあなた、証人になってくれますね?といって頼んだ。藤井さんと、もう一人松浦さんという女性と。この2人を確保して、支援に乗り出した。 
 哲野 裏をとったんですね。
 平岡 ええ。嘘を言ってたらね、恥をかくじゃないですか。
 哲野 ええ、問題が全然違ってきますよ、そりゃ。
 平岡 だからそうなると、ヤバイ話になってくる。
 哲野 なるほど。
 平岡 しかも密航者で。コソ泥的な生活をやってきたと。そりゃしょうがないんですよ。食べる方法がないんですから。被爆して(韓国へ)帰ってね、密航を繰り返してるんですから、間違いなく。それはもう、そのことを責めたらいかんと、被爆した事実を彼は訴えるわけですよね。密航が成功してたら、表にでないわけでしょ?

たまたま(密航が)バレたから、彼は、被爆者でなんとか治療してほしいと、そのために来たんだと言うわけでしょ。これを受け止めることのできるのは広島の人間だと。これは僕の理屈ですよ。
 哲野 冒頭のお話の中で、みんなどろどろとした中で、生きるために必死になってやってきたんだ、という話とどこか通じるところがありますね。
平岡 そう。人間ってのはね、必死になって生きるわけですよ。そんな綺麗事で生きるはずもないし。

そういう人を支援するというのは、僕はあまり表だって出来ませんからね、若い連中がやってくれたんですよ。あの当時はね。それが広大の中核やシンパの連中ですよ、全部。 
 哲野 ハア!(感嘆) 
 平岡 それが、また学生運動の中にはまりこみましてね、京都から変な車なんか来るしね。竹中労とかね。こんなんがやってきて、応援するって言う。やめてくれ、って言ったけどね。彼は入管闘争をやるって言うんです。いや、違う、これは入管闘争じゃないんだ、被爆者支援闘争なんだと。(笑う)まぁ、毎晩毎晩ねぇ、若い連中とこれ(一杯飲む仕草)、やってましたよ。

あの時にですね、お医者さんがいたんですよ。彼等が(孫さんの)診断書を書いてくれたりね、みんなやってくれたんですよ。九州にも行ってくれて。あの時に裁判闘争になりまして、私も証人に出たんですが、河村虎太郎さんに出てもらって、森滝さんにも出て貰ったような気がするんだけどな。 

  河村虎太郎。広島市内河村病院院長。早い時期に韓国人被爆者の診療にあたった。広島市医師会の記録に「ヒロシマ 医師のカルテ」という刊行物があるが、その中に「韓国被爆者診療医師団に参加して」という一文がある。
(<http://www.city.hiroshima.med.or.jp/hma/archive/karte/
3-1-02.pdf
>)

 哲野 森滝さんはどういう証言をされたんです? 
 平岡 日本の被爆者の現状についてね。被爆というのはこういうものだと。だから、彼が訴えている事は正しいというか、受け止めなきゃ行けないと。森滝さんは言ってくれたような気がするんだけど、僕も記憶が今、曖昧なので。彼は「あんたの言うことなら聞いてあげるよ」というようなことだったなぁ。

河村虎太郎さん、これは間違いない。私が行って証言しましょう、と。死んだんだけど、中島君というのが東京にいたので。何人か証言に立ちましたよ。

で、私は韓国の被爆者の現状を証言したんです、裁判官に。こんな状況なんだと。彼等は韓国で生きていけないから、だから密航してきたんだと。
 哲野 だから、この裁判のポイントは、密航者でなんであろうが、被爆者なんだから被爆者手帳を受ける権利がある、と言うのが焦点だったんですね。
 平岡 そうそう。それで最高裁まで行って勝ったんですよ。それがその後の被爆者の権利を拡大していくというか、取り戻していくきっかけだったと思いますね、日本人もひっくるめて。

  日本被爆者団体協議会の公式Webサイトに「在外被爆者の裁判」という項目が設けてあり、そこには次のように記述されている。

  (1)孫訴訟

1972年3月、韓国人被爆者孫振斗さんが、被爆者健康手帳の交付を求めて福岡県知事を提訴した裁判。1、2審とも勝訴し、1978年3月、最高裁は福岡県の上告を棄却。判決は、「原爆医療法は、特殊の戦争被害について戦争遂行主体であった国が自らの責任によりその救済をはかるという一面をも有するものであり、その一点では実質的に国家補償的配慮が制度の根幹にあることは、これを否定することができないのである」と、孫さんの主張を認め、被爆者健康手帳を交付すべきであるとした。
 以降、外国に居住している外国人被爆者でも、来日すれば被爆者健康手帳が交付されることになった。

在外被爆者は、日本に来て被爆者健康手帳の交付を受けた場合に、健康診断、病気治療の医療費の給付、健康管理手当等の諸手当の支給が受けられることになっていた。これに対して、在外被爆者が「被爆者はどこにいても被爆者」と訴えて、厚生労働省に帰国後も手当を支給すべきだと要求していた。しかし、厚生省(当時)は、昭和49年7月に公衆衛生局長402号通知で、「日本国の領域を超えて居住地を移した被爆者には、法律の適用がない」として、在外被爆者は法律を活用できなかった。
 
帰国後の手当支給打ち切りに対して、在韓被爆者が大阪地裁に提訴したことにはじまって、アメリカ、ブラジルの被爆者が、次々と提訴した。』
(<http://www.ne.jp/asahi/hidankyo/nihon/seek/seek5-02.html>)
 

この判決は画期的ではあったが、厚生省(=当時)はいわゆる「402号通知」で、被爆者は日本国内にいる間は、被爆者の権利を受けられるが、国外に出ると被爆者の権利は受けられないとした点で問題を残した。どこまで屁理屈を考え出すものだか・・・。

  「勝ちました。完全勝利です。」

友人は感情の昂ぶりを抑えた声で、裁判の結果を伝えてきた。広島で被曝した孫振斗さんが福岡県知事を相手どって起こした「被爆者健康手帳交付申請却下処分取り消し請求訴訟」で孫さんの主張が全面的に認められたのだ。受話器を通して、福岡地方裁判所に集まっている孫さんを支援する仲間たちの感慨が伝わってくるようであった。

「よかったね」と返事しながらも、私は大村収容所(法務省入国管理庁の入国者収容所=現:大村入国管理センター)から一歩も出られない孫さんが、この知らせをどのような思いで聞くだろうかと考えた。−中略−この当たり前の判決が戦後29年もたってようやく出たところに、朝鮮人のかかえる問題を解決しようとすればきわめて困難な戦いを強いられる日本の社会のゆがみをみて、私は暗然となる。これまでに私たちの知らないところで悲惨な一生を終えたであろう数多くの被爆朝鮮人にとってはすべてが遅すぎるのである。』(前掲書「圧殺される声」p81-p82)

郭貴勲の戦い

哲野 郭貴勲さん・・・。
 平岡 そうそう、郭さん、郭さん。郭さんが、最初の、第一回からの韓国人被爆者援護協会からの事を知ってます。あれともう一人、辛泳洙さんという人がいたんです。この2人が、私もずっと付き合ってましたけども。辛さんが死にましたので。今残っているのは郭さんだけです。郭さんも韓国で証言を残しています。
 哲野 このことは僕らなんかがどう理解しておけばいいかと言うと、いわゆる、被爆者は世界のどこにいても被爆者ということを法的に確定づけた裁判と考えていいわけですね。非常に画期的なわけですね。その意味では。 
 平岡 まぁ、そうですね。ただ、今度は手帳を貰ったけれども韓国で使えないわけですね。帰ったら。(厚生省公衆衛生局長「402号通知」のために)

これを問題にしたのが、今の郭さんです。

大阪でね、頑張ってね。被爆者はどこにいても被爆者だ、使えるようにしろ、と言うんで、今、ようやく拡大されて、韓国の被爆者も日本の手当を受けられる、ということになった。それまで日本にいなければ貰えなかったんです。

 
  (2)郭貴勳(クァククィフン)裁判

1998年10月大阪府と国に「402号通達は違法であり、韓国への帰国後も手帳は有効であり、手当を支給すべきだ」と大阪地裁に提訴。2001年6月大阪地裁は、「帰国後の健康管理手当打ち切り処分を取り消し、賠償金を支払へと命じる判決。国は控訴。2002年12月大阪高裁は「被爆者援護法は国家補償的性格と人道的目的から、被爆者はどこにいても被爆者という事実を直視せざるを得ない」と判決。国は控訴を断念して確定した。』(前出日本被団協のサイトより)

この判決が確定したのが「2002年12月」だということを私たち日本の市民はよく記憶しておかねばならない。
 
 哲野 それは無茶苦茶な話だよな。被爆者手帳を日本に居れば貰えたけれども・・ 
 平岡 韓国に行ったら、失効するわけでしょ。月々の手当は貰えない、それはおかしいというんで起こした裁判がその後の郭さんの大阪での裁判です。で、これは勝ったですね。そう言う形で少しずつ被爆者の権利が拡大してきた。 

支援者たち

哲野 そういう意味ではこの孫さんのケースが皮切りだった。
 平岡 本当言えばその裁判をね、僕らも悪かったんだけどもっと国民的な、被爆者を包み込んでいくことができればいいと思ったんですが、ここにやっぱり当時の政治状況っていうのがあるんですね。
哲野 と、おっしゃいますと?
 平岡 新左翼ですよ、この運動をやっているのは、当時の。
哲野 竹中労にしても、中核にしても。
 平岡
それで僕なんかは中国新聞の編集局次長なんかですから、ちょっと拙いなと。僕が表に出てね、広島でですよ、あいつは新左翼だってことになったら、新聞社も具合が悪いじゃないですか。僕はなるべく出ないようにしたんだけれども。

ま、博多はいいですよ。平岡敬がおってもわからんからね。知事室行ってもね。当時亀井光っていう知事がおったですけどね。

向こうは僕が何者かわからんものだから。(笑う)広島から来たんだ、といっていればいいわけですよ。 

一生懸命やって。裁判も福岡で証人に出たけれど、ニュースにならないから良かった。広島だったらもう、大変なニュースになってね。僕はクビになっておるか、辞めざるを得なかったかもわからんのだけども。(笑う)

だからまぁ、出来たところはあるんですよ。だから、その辺は若い連中が担ってやってくれたんですよ。その代わり僕は、金だけは集めるからと、弁護費用と裁判費用。その金を集めるのを一生懸命やったんですよ。
 哲野 どこらへんに行って集められたんですか。 
 平岡 ん?色々。(笑う)だから、つまらん原稿もいっぱい書きましたよ。(笑う)

随分あるんですよ。(笑う)それから、カンパを貰おうっていうんで、寄付を集めて。広島じゃなかなか集まらんかったですけどね。やっぱり、東京、京都、あの辺が割に良く金が集まったです。
 哲野 ただ今振り返ってみての、私の率直な疑問は、なぜ被爆者団体が、同じ被爆者の痛みを分かちあいながら、つまり被爆者団体が主体となって、そういう裁判闘争なり孫さん支援なり、郭貴勲さん支援なり、いわゆる、被爆者はどこにいても被爆者という思想を、法律的に確定するために、彼等のために、なぜやらなかったのかっていうのが、今の話をうかがっても、私がちょっと気になる部分。 
 平岡 一つはやっぱり、その当時の政治状況の中で被爆者運動というのは、自民党に睨まれたくないんですよ。これは私の推測ですけどね。国から貰ってるでしょ、お金を。毎年毎年、陳情を繰り返しては、あれ(援護)を拡大していくと。

そういう運動をやってたんですよね。そこで反体制的な連中と関わりあうことは避けたんじゃないかなって気がするんですよね。で、被爆者団体自体も、あんなに分裂してお互いに協力してないわけですから。だから・・・。
 哲野 この、政治状況やなんかは解るにしても・・・。 
 平岡 ウーン・・・今だったらなんか、不思議な感じがすると思うんですが、その当時、その裁判に取り組んでいる連中というのは京都から来ましたよ。これは韓青同、韓国の青年同盟の急進的な連中ですよ。これがやってきて、慰霊碑を削ったりしたのが彼等ですよ。こんな屈辱的な文句があるとは、と。韓国人の慰霊碑ですよ。

あれを削ったりですね。そういう連中と、入国管理法反対と言う連中と、それから新左翼のセクトで言えば中核の連中と、九州のですね。それから東京の(新左翼の)学生から、みんな来るんですよ。それは全部、自分たちの主義主張のひとつの材料に(孫さんを)使おうという・・・ことですか。と、言っていいか・・・ウーン。
 哲野 もう一つは新左翼も分裂してたから、なんか手がけて名を挙げておきたいっていうこともありましたね、当時。
 平岡 うん。そう、名を挙げようってとこあったでしょうね。でね、結局頑張ったのは、伊藤ルイさんっていうのが九州にいたんです。これは伊藤野枝、大杉栄の娘です。彼女が支えたですね。もう一人の牧師さんと2人で。一生懸命やってくれたですね。

  大杉栄。明治後半から大正時代にかけてのアナキスト。伊藤野枝は婦人解放運動家。二人の間に女の子4人、男の子1人の5人の子供をもうけた。大杉は伊藤野枝と共に関東大震災の時に、天皇制軍国主義体制に虐殺された。直接の犯人は憲兵大尉甘粕正彦とされている。伊藤ルイ(ルイズ)は、二人の4女。

 哲野 へぇ・・・伊藤野枝の娘が。 
 平岡 まぁ、亡くなられましたけどね。 
 哲野 それは、大杉栄との間で出来た娘さんです? 
 平岡 そうそう。伊藤野枝の娘です。伊藤ルイって。この人が九州で全部世話をやってくれた。学生達を全部束ねて。僕らは広島ですからね。なかなか行き届かない・・・。裁判が東京に移ってから中島君というのが、亡くなられましたけれども、僕の、早稲田の同期の中島君っていうのがやってくれましてね。彼等が厚生省なり裁判所を全部やってくれた。僕は広島にいたけれども、あまり何もやってない。金を・・・。(笑う)
 哲野 一つのことが成就するために、やっぱり、ちょっと立派な人が何人か目立たないように居たわけですね。伊藤野枝の娘かぁ。先ほど僕の疑問なんですけれども、日本の被爆者運動というのはいったい何だったのかという疑問。 
 平岡 ・・・・・・。(笑う) 

被爆者団体は物盗り団体になってしまった

哲野 こんな風に言うと言い過ぎなんでしょうか。被爆者の悲惨というはよく解る。よく解る。これを何とかするためには理屈はどうあれ国から金を引っ張り出さにゃいかん。これもよく解る。でも金を受け取ってしまったらもう、そこでどうやって既得権を守っていくかという団体だった、という見方をすると、これはちょっと意地悪すぎるんでしょうか。
 平岡 いや。そういう側面あるでしょうね。私もそうなったと思いますよ。その・・物盗り団体になってしまったというね。全部それは否定できないでしょうね。
哲野 なってしまった?
 平岡 なってしまったと。というのは、1995年、援護法ができたんですよ。

  被爆者援護法。「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」(げんしばくだんひばくしゃにたいするえんごにかんするほうりつ)平成6年法律第117号。被爆者健康手帳や様々な援護制度が法制化された。以下はその前文。

  『  昭和二十年八月、広島市及び長崎市に投下された原子爆弾という比類のない破壊兵器は、幾万の尊い生命を一瞬にして奪ったのみならず、たとい一命をとりとめた被爆者にも、生涯いやすことのできない傷跡と後遺症を残し、不安の中での生活をもたらした。
このような原子爆弾の放射能に起因する健康被害に苦しむ被爆者の健康の保持及び増進並びに福祉を図るため、原子爆弾被爆者の医療等に関する法律及び原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律を制定し、医療の給付、医療特別手当等の支給をはじめとする各般の施策を講じてきた。また、我らは、再びこのような惨禍が繰り返されることがないようにとの固い決意の下、世界唯一の原子爆弾の被爆国として、核兵器の究極的廃絶と世界の恒久平和の確立を全世界に訴え続けてきた。
 ここに、被爆後五十年のときを迎えるに当たり、我らは、核兵器の究極的廃絶に向けての決意を新たにし、原子爆弾の惨禍が繰り返されることのないよう、恒久の平和を念願するとともに、国の責任において、原子爆弾の投下の結果として生じた放射能に起因する健康被害が他の戦争被害とは異なる特殊の被害であることにかんがみ、高齢化の進行している被爆者に対する保健、医療及び福祉にわたる総合的な援護対策を講じ、あわせて、国として原子爆弾による死没者の尊い犠牲を銘記するため、この法律を制定する。』
 
http://law.e-gov.go.jp/cgi-bin/idxrefer.cgi?H_FILE=%95%bd%
98%5a%96%40%88%ea%88%ea%8e%b5&REF_NAME=%8c%b4
%8e%71%94%9a%92%65%94%ed%94%9a%8e%d2%82%c9%
91%ce%82%b7%82%e9%89%87%8c%ec%82%c9%8a%d6%
82%b7%82%e9%96%40%97%a5&ANCHOR_F=&ANCHOR_T=>)
 

 この前文では、日本国家の戦争責任にも、アメリカが投下したということにも触れていない。まるで原爆は「自然災害」のようだ。「核兵器の究極的廃絶に向けての決意」もまるでとってつけたようだ。

 平岡 (笑う)ま、これも村山総理のときですからね。で、私は市長だったんですよ。 
 哲野 1995年ですから・・・もう市長ですよね。 
 平岡 被爆者援護法が出来て、あの時、あの年にハーグで証言したんですね。被爆者の連中が「市長さん、ご苦労さんでした」と、慰労会してくれたんすよ。そこで、僕は(被爆者に、あるいは被爆者団体に)「援護法が出来た、あなた方、次の目標はなんだ」と・・ 

  「ハーグでの証言」は、オランダ・ハーグにある国際司法裁判所で、「核兵器の使用および核兵器による威嚇の違法性」に関する勧告的意見採択に関わる証人として証言のこと。証言内容は次を参照のこと。
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/hiroshima_nagasaki/
1995_1107_hiraoka.htm
> なおこの問題は、この<シリーズ・インタビュー>の後の回でも出てくる。

 平岡
ええ。そしたらね、どうやっていいかわからんのです。そこで「ひとつ、僕のアイデアを言いましょう」と、言ったんです。

あの頃アジアの女性基金という問題があって、色んな国に対してね、これは後々、問題が出るんだけれども、積み立てて基金を作ろうという運動があったんですよ。 
 哲野 アジア女性基金ですね。

  アジア女性基金(Asian Women's Fund)。「女性のためのアジア平和国民基金」が正式名称。自社さ連立政権の村山内閣成立後の1995年(平成7年)7月に発足。当時旧日本軍性奴隷制度(日本では従軍慰安婦問題)が世界中で問題になっていた。旧日本軍が朝鮮や中国の女性を始めとする多くの女性を「性奴隷」として組織的に虐待していた事実を、日本政府は認めなかったし、ましてや謝罪もしていなかったからだ。村山内閣直前の宮澤内閣末期に、内閣官房長官河野洋平は、自らこの問題を調査し、

    長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。 
 また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。』

とするいわゆる「河野談話」を発表し、旧日本軍性奴隷制度が組織的に存在していたことを認め、率直に謝罪した。しかし、その補償にあたっては、「日本国家の謝罪と補償」という形をさけるために、民間基金という形をとった。これがアジア女性基金である。「最終的な募金額は7億円、日本政府が広告・宣伝・運営には70億円を支出した」と日本語Wikipediaは述べているが
(<http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E6%80%A7%
E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%
E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E5%B9%B3%
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E9%87%91>
)、その実、資金のほとんどは日本政府が支出したものだった。基金は「旧日本軍性奴隷制度被害者」と認定した被害者の女性に一律200万円を「償い金」として贈ったが、多くの被害者女性はこの受け取りを拒否した。多くの被害者女性にとって重要だったのは、「200万円」ではなく、日本国家としてのキッパリした謝罪だったからだ。その意味では「アジア女性基金」が、「日本国家としてのキッパリした謝罪と反省」のトンネル機関だったことを見破られていたことになる。

後に2007年2月、アメリカ下院に「旧日本軍性奴隷制度非難決議案」を提出したカリフォルニア州選出民主党下院議員マイケル・マコト・ホンダは議会の証言で『この決議案では日本政府に対して、「コンフォート・ウーマン制度」の存在を、明確なまた曖昧でない形で(in clear and unequivocal manner)認め、謝罪し、歴史的責任をとることを要求しております。これは旧日本帝国軍隊が1930年代から、アジアや太平洋諸島における植民地時代あるいは戦時の間、若い女性や少女を強制(coercion)して「性奴隷」(sexual slavery)としたものです。婉曲な言い方で「コンフォート・ウーマン」(comfort woman―日本語で言うところの慰安婦)として知られていますが、これら暴力を振るわれた女性は実に長い間、その尊厳と名誉を踏みにじられてきたのであります。』と述べた上で、『私はこのアジア女性基金の創立、それはこの基金から補償的金銭支出を伴うものであります、や過去の日本の首相のコンフォート・ウーマンに対する謝罪を大いに評価するのでありますが、現実は、日本政府からの心からのまた紛う方なき謝罪なしに、こうした金は受け取れないと多くのコンフォート・ウーマンがその受け取りを拒否したのであります。』と続け、『謝罪に歴史的意義があるのであり、対立を和解するにせよ、過去の行為に対して贖罪を行うにせよ、まず謝罪がどうしても必要な第一のステップであることを理解して頂きたい。』と述べている。

この点で日本は、アジア女性基金という姑息な手段を使うことによって、「旧日本軍性奴隷制度」の多くの被害者女性との歴史的和解、いいかえればアジアとの歴史的和解に失敗したのである。

 平岡
 被爆者の団体も、(被爆者援護法で)「葬祭料」はでるだろう、と私は言ったんです。(原爆で)死んだ人に10万円出るわけですね。

それをみんな集めたらどうかと。

その金を集めてね、これを戦争被害者のアジアの人たちのために基金を作るという、そういう呼びかけをやったらどうですか、と。そしたら今の運動の目標がさらに広がって、広島の被爆者の思いが伝わっていくんじゃないだろうかって言ったんです。

そしたらね、いやいや、仏壇を買うとらんから仏壇をなんとか、と言って、僕はちょっと怒ってね。

仏壇を買うって、あんた今まで何をしとったんかと。立派な服を着てね。それを今更10万円が出たらどうのこうの言うのはおかしいんじゃないかと。そのうち論争してね。そしたらある人が、「平岡さん、10万円っていう金額がでたら、もう駄目ですよ。みんな。」そういう話を、内輪だけですからね、やったんです。

僕はちょっと、ガックリ来ましてね。アジアと連帯する運動をやったらね、被爆者運動がもういっぺん息を吹き返すかもわからん。

いや、死んだ人から貰ったのを・・・。昭和30年代に死んだからってね、それを貰うわけでしょ、10万円。みんなそれを集めたらいいじゃないかと。で、基金作って。それからの話は別としてね。死んだ人に葬祭料が10万円出たんなら、その葬祭料を・・・。

仏壇を買う、というような事を言うんですからねぇ・・。
 哲野 アジアとの歴史的和解に繋がる貴重な、アイデアだったですね。 

  いや本当に私はそう思う。『私たちは日本の被爆者団体だが、日本政府から分捕った金がわずかだけどここにある。原爆で死んだ人たちに贈られた金だ。旧従軍慰安婦の人たちにこれを使って欲しいと思う。日本人として本当に申し訳ないと思っている。そのお詫びのしるしなんだ。素直に受けて欲しい。』と言えば、アジア女性基金からの受け取りを拒否した奴隷制度被害者の女性も、日本の被爆者からの気持ちを汲み取って、同じ戦争の被害者からの贈り物として、心から喜んでこれを受け取ったと思う。

 平岡 それは僅かでもいいんですよ。みんな10万円出したら、100人だったら1000万、2000万になりますからね。それを全国の人がね、それに共鳴する人が基金を作って、そしてこれは日本の被爆者の言い出した、アジアの戦争被害者の、あるいはアジアの平和のための基金であると、そしたらいいんじゃないかなと思ったよね、僕の思いつきですけどね。(笑う)
 哲野 いいと思います。 
 平岡  それは駄目だと、もう。幹部の人は言うわけですよ。10万円というのが出たら、出す人はいません、と。で、ああこりゃ物盗り団体になったな、と思った。

それはみんなの責任だからね。あの時は、社会党の人もいたけど、自分たちが作ったという・・盛んに言うわけですよ、援護法を作ったのは自分たちの手柄だと。

あれは・・・、ホントの意味での援護法ではなかったような気がするんだけども。私は出来ないと思ってたから。援護法なんていうのは。

自民党が天下で取っている間は。たまたま「自社さきがけ連立」の村山が出たから取れたんだと。

曲がりなりにもね。援護法という名の付くものが出来たなと。
 平岡 考えた方が色々あるから、私の言っていることが正しいという訳ではないんで。だけどなぁ、死んだ人でしょ。死んだ人の思いっていうのを生き残った人間が踏みにじったらいかんなと思うんですよ、今でも。さっき、色んな事をして生き抜いてきたと。死者を踏み台にして生きてきたという人間なんだから、今は本当に死んでる人のことを考えて・・・。  

 (以下次回)