2010.10.7
第5回 新聞記者時代−「みんな平和に希望を託した」

ヒロシマの惨劇から20年後、地元中国新聞は初めて本格的な「原爆報道」「被爆者報道」を開始する。平岡敬もまたそうした報道の主要な執筆陣の一人だった。まず被爆の実態が知られることが大事だった、これが出発点だった、と平岡は肯定しつつも、「核兵器の持つ意味」、その世界や日本の中の「現実政治」における「問題提起力」が弱かった、と現在自己批判をしている。そして平岡の自己批判はそのまま、「核兵器廃絶」という課題から見た時の「ヒロシマ」のあり方に対する批判にもなっている・・・。

「ヒロシマ」20年

哲野 今回は、市長になられる前、中国新聞で「ヒロシマ報道」、「原爆報道」を手掛けられた時のことを中心にお尋ねします。初めて本格的に「ヒロシマの原爆」を中国新聞として手掛けられたんですよね?
 平岡 ええ。「ヒロシマ20年」三部作というやつで。「証言は消えない」それから「炎の日から20年」「ヒロシマの記録」この三部作で1ヶ月毎日1P特集をやったんですよ。これは画期的なことでね。

  この三部作は、後に単行本として出版されている。「『炎の日から20年』《広島の記録1》中国新聞社編 未来社 1966年」、「『証言は消えない』《広島の記録2》中国新聞社編 未来社 1966年」、「『ヒロシマの記録』《年表・資料編》中国新聞社編 未来社 1966年」。なお、「『ヒロシマ・25年』 中国新聞社編 未来社 1971年」が《広島の記録3》とされている。 

 哲野 当時中国新聞の朝刊のページ立てが14から15ページぐらい・・・。
 平岡 私はその中の歴史の部分を担当して書いたんですけど。
 哲野 「広島の夏は熱く、広島の20年は耐え難く重い」という書き出し・・・。 
 平岡 書いてる(笑う)。アツく・・熱のほうですよ。暑でなくてね。 
 哲野 耐え難く重い、日本の戦後の重みが1点に集中している、これが『炎の系譜』ですね。

  『炎の系譜』は『炎の日から20年』の中の中国新聞掲載時のシリーズ・コラム名。

 平岡 ええ、これが私の文章ですね。えらそうげに書いておるが。(笑い) 

未確立だった「核エネルギー観」

哲野 この「炎の系譜」の中で、何を表現しようとしていたのか、それを今平岡さんはどう評価してどういう風に記事を今振り返って考えられるか、というこの2点をちょっとお訊ねしておきたいなと思って。
 平岡 原爆の焼け跡から20年経った間の市民の生き様、生き方、それを記録しておこうじゃないかという思いでやったんです。だから色んな角度から迫っているわけですが、ただ新聞連載ですから、学術本と違って非常に上滑りなところがあるんです。
   
どうしてもね。表現が一般読者向けですから。硬い表現ができないという、やや表現スタイル自体に不満なところもあるんですけど、とにかくまとめておこうという思いで・・・。
 
   被爆20周年ですから、1965年(昭和40年)ですね。

それまで、広島の中国新聞が原爆についてきちっとやってきたかというと必ずしもそうではない。戦後、一つはアメリカの占領下という問題があった。

それでは、占領後、つまり1952年(昭和27年)独立して、自由に原爆問題について報道していったかというと、そうではなかった。我々の問題意識自体がですね、原爆に対してきちっとした、今のような問題意識をもってなかったという気がしますね。
 哲野 それは原爆報道に自主規制があったか、なかった以前の問題?
 平岡 それ以前の問題。それまでわれわれ自体が原爆、あるいは核兵器に対しての認識がどうも充分ではなかった、と。これは新聞記者だけじゃなくて世間一般ですね。当時「原爆の子」という本がでましたね。

あれを編集した広島大学の長田新(おさだ あらた)さん、学長をやった人です。長田さんが原爆のことを書いているのに、当時広島市民は原爆を天災だと思っていた。そう受け止めていた、やむを得ないというかね、天から核兵器が落ちてきた。そういう受け止め方をしていたんだけど、長田さんはそうじゃないよ、という。これは戦争ということから起こってきたんだ、ということを長田さんは書いています。同時に核の平和利用ということについても大変明るい展望を持っているわけです、彼は。

  長田新。広島高等師範学校、京都帝国大学文学部卒業。旧制広島文理科大学(広島大学の前身)教授在任中の1945年8月6日広島に投下された原爆に被爆し重傷を負ったが、家族や教え子の看護で九死に一生を得た。敗戦直後の1945年12月には学長に就任して広島文理大の再建にあたり、その後学制改革により新制広島大学が設置されると1953年の退官まで同大学の教授を務めた。1947年(昭和22年)には日本教育学会初代会長に就任した。また「日本子どもを守る会」を結成しその初代会長を務めるなど戦後の日本の教育再建の立役者の一人となった。自らの被爆経験から原爆反対などの平和運動にも積極的に参加し、原爆を体験した少年少女たちの手記を集め『原爆の子−広島の少年少女のうったえ』として岩波書店から刊行した。同書はその後世界十数ヶ国語に翻訳され、また1952年には新藤兼人監督=近代映画協会により乙羽信子主演で「原爆の子」として映画化されるなど大きな社会的反響を呼び、平和教育のバイブルと称された。以上は日本語Wikipedia「長田新」の丸写しである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E7%94%B0%E6%96%B0>。

 哲野 「原子力エネルギー」を肯定的に評価する、というのは、その当時の風潮でもあったわけですね。

  またバニーバー・ブッシュが大統領トルーマンに提出した論文「科学、その限りなきフロンティア」などの例に見られるように、原子力エネルギーが人類の未来を切りひらいていく、という思想は、当時アメリカが創り出したプロパガンダでもあった。

 平岡 戦争はいかんけれども、核の平和利用っていうのは人類の未来にとって、広島市にとっても大変いいことなんだという考え方が、後にあちこちで出てきます。特に知識人の書いたものの中に。そういう風潮の中で、日本が独立して、ようやく被爆者の被害がわっと出てくるわけです。それを最初にやってるのは、朝日新聞なんですよ。1952年の8月6日のアサヒグラフです。

私ももちろん今持ってますけどね。貴重なものですよ。特集で広島の悲劇を、つまり人体への被害を報道したんです。それまで原爆の人体の被害って言うのは、広島以外の人は目にすることなかったですね。ただ、私は知ってますよ、広島の人間はね、知ってるけれども、日本人の大多数は、原爆の被害を目にすることはなかった。

原爆の人体に対する被害を伝えた「アサヒグラフ」が全国で70万部売れたそうですけどね。凄い反響ですね。そういう反響に対して地元の中国新聞がどうやったかというと、必ずしも問題意識を持って、これは大変なことだと、キャンペーンをやった形跡がないんです。

毎年巡り来る8月6日には、あの日はどうだったという記録はない・・・これは新聞を見れば解りますけどね。

そこには「核兵器と現代」、あるいは「核兵器と世界」とか、そういう問題意識はまだ無かったと思います。時代的な制約があってやむを得なかったとは思いますけどね。

新聞記者の不勉強を責める前に、核に対する知識が充分に与えられていなかった。

その核の被害の人体に対する放射線の影響というのが顕著になってくるのが昭和30年ですよ。丁度10年くらい経ってから白血病だとかが出てくるわけですね。広島のお医者さんが見るに見かねて自分たちで治療していくんだけれども、これはやっぱり自分たちの手に負えない、国家的な救済が要るんだということで、一生懸命医療法の制定運動を始めるわけです。もちろんこれは行政や市義会議員も一緒になってやりましたけれど、中心はお医者さんです。

結局、昭和31年だったと思いますが、まがりなりにも原爆医療法が出来るわけです。その後はその医療法の充実、拡大というのが被爆者の中心課題になってくるわけですが、そういう動きがあったときに報道がきちっとそれに応えていたかどうかと言うと、そこには疑問を感じざるをえませんね。  


兼井亨(とおる)のこと

 平岡 地元の中国新聞が、この問題を初めて本格的に取り上げたのが、昭和40年ですね。
 哲野 1965年ですね。
 平岡 65年ですね。1960年頃から、少し被爆者の実態を報道していこうじゃないかということを言い出したのが、兼井亨(かねいとおる)さん。金井利博(かないとしひろ)と兼井(かねい)と、二人居るんですが・・・。私は兼井さんの功績を評価してるんです、実は。社会部育ちの人でね、最後は編集局次長、編集局総務を務めています。

兼井さんは、核兵器の政治理論だとか国際的情勢みたいなことはあまり言わない。社会部記者の目で今の悲惨な実態を捉えていこうという発想で、昭和30年年代の終わりごろから、毎年夏に被爆者の実態を連載し始めたんです。

その連載を、私なんかは読んで、その被害を理解するようになった。

中国新聞では金井(利博)さんが、原爆報道の元祖というか、作った人だといわれているけれども、確かに金井さんもそうだし、私らも金井さんの弟子ですけど。

一方で、兼井さんは、現実の被爆者をきちっと捉える仕事をした。その時彼は社会部長でしたが、昭和38年、39年と2年間続けて被爆者報道をやった。それをベースにして「ヒロシマ20年」の特集があるんですよ。そういう積み重ねの上に被爆者の悲惨さを訴えようじゃないかと考えた。トップは被爆者の実態を訴えるルポ、それと被爆20年の歴史を組み合わせる・・これは私が書いた歴史なんですが。で、もう一つは年表。そういう3つの構成で特集を続けたわけですね。メインは、被爆者の実態というのを表に出していくと、言うことだったんです。

「核兵器」の持つ意味がわからなかった

哲野 20年も経っているのに、あまり被爆者の実態については地元紙としては取り組んでこなかったという反省がまずあって・・・。
 平岡 まずひとつありますね。私が今言ってもしょうがないんですが、取り組んでこなかったのはさっき言ったように我々の勉強不足もあったかもわかりませんが、社会的全般に原爆というものに対する認識が今ほど充分でなかったということが挙げられます。核兵器を持つ意味がよくわかっていなかった。
 哲野 政治的、軍事的・・・。
 平岡 そう、政治的にも、医学的にも、社会的にも、心理的にも、そういう研究はなされていなかった。アメリカはやってたんですよ。だけど占領時代には、すべて報道するな、ということですからね。日本はお医者さんが原爆治療に取り組んでいた。また物理学者は核兵器の威力ということについては研究をしたけれども。しかし核兵器の持つ意味、この世界に対して、或いは国際社会に対して持つ核兵器の意味、或いは米ソ冷戦における核兵器の意味、こうしたことは我々はよくわかっていなかった。
 哲野 トルーマン政権の陸軍長官だったヘンリー・スティムソンの言葉を借りれば「文明社会に対する核兵器の持つ意味」ということですね。
 平岡 そうそう。核兵器の意味っていうことまで、ずっと我々、考えていなかったというのが事実ですね。それで「被爆の実態」という現実に触れて、これは大変だと、地元紙できちっとやるべきだと、20年も経ってるんだから、特集でこれまでの整理をしようというねらいでした。広島市民がいかにして原爆から立ち上がってきたか、その間、行政は何をしたか、親を亡くした子供達はどう生きたのか、或いは平和研究の現状とか、様々な分野から取り上げて、それから平和運動ですね、これら取り上げて、みんなで考えようよ、という特集です。

つまり、この時点では原爆の廃墟から立ち上がってきた人たちは、当初はどうだったんだろうかというテーマがまず浮かび上がってきた。「原爆」から「核兵器」になっていくのは朝鮮戦争のあたりですね。あのへんから核兵器の問題が出てきた。朝鮮戦争で核兵器が使われる可能性があるというのですから、心ある人はそれは大変心配した。

特に核兵器に対する反対運動、あの頃は共産党が中心なんですが、反核運動的なものが出てきた。しかし一般の人はさっき言ったように、「核エネルギー」に対する幻想っていうのをまだ抱いているわけですね。「核戦争」はいけないが、「核エネルギー」を良い方向に使えば、人類の幸せをもっと保証するんだと。

「原爆報道」は正しいステップ

哲野 「平和的核爆発」というのもありましたもんね。あの時に。
 平岡 そうそう(笑う)。大規模工事用に水爆を使うとかね・・。ですから「核エネルギー」に関しては混沌とした時代だったというか・・・。

  例えば、インドが最初の核実験をするのは1974年だが、この実験のコードネームは「微笑む仏」と呼ばれて、「平和的核爆発」の実験だった、と主張した。技術はアメリカとカナダが提供した。いまでもインドの最初の核兵器の実験は1998年の核実験で、74年は核兵器の実験ではなかったと主張する人がいる。また1968年に発効した「ラテン・アメリカ及びカリブ海核兵器禁止条約」(非核兵器地帯条約)では当初、「平和的核爆発」は禁止の対象ではなかった。1986年になっても、その年成立した南太平洋非核地帯条約では、わざわざ「平和的核爆発」も禁止の対象とすると明記し、条約名も「非核兵器地帯条約」ではなく「非核地帯条約」としたほどだった。世界的にみても「核兵器」に対する認識が甘かった、という事がいえるだろう。

今、考えたらね。「核兵器」をきちっと位置づけていなかった・・・。「核兵器」は人類と共存出来ないんだと言い出したのはずっと後のことですからね。この時は、 「人類と核兵器は共存出来ない」という認識に至っていないです。
 哲野 ただ、今考えてみるとこういう被爆者の実態を調べ、それをキチッとみんなが認識するという段階をやっておかなかったら、その次のステップには・・・。
   
 平岡 行けない、行けない。絶対に行けなかった。それはこうした「原爆報道」などの大きな功績ですよね。それは今もなおかつ正しいステップだった、 正しいと思いますね。やっぱり実態の認識なくして理論がばっかり目立ってもしょうがないわけですから。

ですから、その実態を充分に報道してこなかった、あるいは出来なかったという状況が・・・、大変立ち後れたことが問題となるわけです。被爆者救援にとってもですね。

本当言えば、戦争が終わればすぐ、被爆者ならびに戦災者に対しての国家の救済というのがあってしかるべきだけれども、国自体が戦争によって壊滅したわけですから、そういう余力がない。ほっておかれた、というのは事実ですね。アメリカ占領時代にはそれが隠されていた。被爆者の苦しみが隠されていた・・・。

それは報道の責任でもあると今なら、言えるんですけどね。現実を見ていなかったじゃないかと。つまり、苦しんでいる人は、原爆であれ他の戦災者であれ、格差の底辺に沈んでいるひとであれ、そういう苦しみ、弱い人たちに目を注ぐのが、私はジャーナリズムの役割だと思っています。
 哲野 ひとつの大きな役割ですね。 
 平岡 そうしたジャーナリストの目をしっかり持っていれば、今苦しんでいる人は一体なんなんだと、そういうことが気が付くはずなんです。それが本来あるべき時期から遅れた。結局、私が兼井(亨)さんを高く評価してるのは、彼が被爆者の実態を調べて報道しろ、と言ったからです。

「金井」と「兼井」

哲野 それは金井利博さんじゃなかったんですか?
 平岡 いいえ、利博さんじゃない。利博さんはまた別なの。
 哲野 そのことに最初に着目して、やったのは金井利博だと、例えば大江の「ヒロシマ・ノート」にもそう書いてありますよ。
 平岡 ウーン、そうかもわからん、そうかもわからんけれどもですね。金井さんは、全くタイプの違う記者なんです。私の先輩なんですけどね。片っポは飲んだくれ記者なの。
 哲野 どっちが飲んだくれなんです? 
 平岡 兼井さん。社会部肌ですから。そんなん、理屈よりも現実で行け、と現場に行った。で、金井さんは、理屈のほうなんです。理論家ですよ。一生懸命、核権力という本を書いたんです。非常に抽象思考を好む人。で、片っポは現場主義の人。その両方相まって私は中国新聞の原爆報道っていうのが出来たと思っているわけ。その辺をあまり指摘する人はいない、若い人はね。解らないんだよ。確かに金井さんはね、何故有名になったかというと、大江健三郎のヒロシマ・ノートに出てくるから。で、金井さんがクローズアップされて中国新聞の平和報道を作ったのは金井、となっているし、確かにそれはあるんですよ。そういう一面は間違いない。

しかし、一方で兼井さんは現実をきちっと調べて、取材して報道してきた、と。金井さんと兼井さんの間で、どういう話し合いがあったか、僕は知りませんが。

ですが、恐らく、兼井さんは、「現場の苦しみ」、そういうものをもっときちっと記者は書けと命令したんだろうと思います。そして2年続けて毎年夏に連載をやっているわけですよ、ヒロシマの。私なんかにはそれがベースにあったものだから、やっぱりこれを「特集の柱」に据えようじゃないかと考えたんです。
 
それだけじゃいかんので、廃墟から立ち上がって、今日までどんなことがあったのかというのを歴史的にまとめていこうというのは、これは私がやりますというのでわたしが書いたんですね。 
 
 哲野 いやね、これね、僕、この本(『炎の日から20年』)のタイトルを見てるとね、『ヒロシマ・ノート』、これ参考にしたんじゃないかな。いや、ヒロシマ・ノートの方が先か。 
 平岡 いやいや、後です。 
 哲野 68年だったですよね。『ヒロシマ・ノート』は。 
 平岡 ええ。 
 哲野 特にこの「立ち上がる人々」っていう中見出しは、ヒロシマ・ノートのどっかの一節の節タイトルだ。 
 平岡 ああ、そうですか。 
 哲野 僕、しつこくあれ、読んだですからね(笑う)『ヒロシマ・ノート』を。(笑う) 
 平岡 (笑う)あの時、「ノート」が出たときには、批判する人も、広島には随分いたんですけれどね 

「核兵器被害の国家責任」

哲野 今考えられて、もちろん当時としては絶対無理だったということはよく解った上でお訊ねするんですが、もし、この「一連の記事・連載」が足りない物があるとすれば、どういう点だったんでしょうか?つまり広島の原爆被爆者たちの実態に、一歩も二歩も多角的に踏み込んだという点は画期的だったとして、もし、あるとすれば何が欠けていたのか、という質問ですけど・・・。
 平岡 やっぱりねえ・・・。核兵器の持つ多角的な意味、或いは「核兵器被害の国家責任」とかに触れてないんですよ、実は。

我々のスタンスとして、この問題を、きちっと「アメリカの原爆攻撃の責任」、或いは「原爆投下の正当性」を認めさせられた「日本政府の責任」、サンフランシスコ条約によってですね。そういうことについて「それは間違っている」という問題意識がないんですね。
 哲野 それは、その当時、そう言う問題意識がなかったからなのか・・・。
 平岡 いや、あったんです。例えば、梶山(季之)が「広島に幽霊が出ないのは何故か」と言ったというんです。金井利博さんから聞いた話ですが。梶山は「広島に幽霊が出ない」っていうんです。それは「恨む対象がわかってないからだ」と。
 哲野 むふふふ・・(笑う)梶山らしい。 

梶山季之(かじやま としゆき)。朝鮮育ちの小説家・ジャーナリスト。引き揚げ後、広島で青年前期を過ごした。週刊誌のトップ屋として名をはせ、数多くのジャンルで小説を書き、ベスト・セラー作家にもなった。本質はジャーナリストで、原爆に関する研究や著作も多い。1975年45歳で死亡。日本語Wikipediaは非常に充実した記述を行っている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/梶山季之

 平岡 ね?誰を恨んで良いかわからんのじゃないかと。だから化けて出てこれないんだ、と梶山はいうわけですよ。

「恨む相手」は日本の国家なんか、或いはアメリカなんか、それとも軍国主義なのか・・・。要するに原爆被害の原因が自分たち自身の中に、きちっと解明されてないという状況があった。もちろん、このことは、今日まで続いてるんです、ずっと尾を引いてですね。それは戦争責任の問題から始まっています。梶山の一番解りやすい言葉で言えば、「誰を恨んで良いかわからない」と。
 
  私が、「恨みの対象」をまず、きちっと明らかにしようじゃないか、という姿勢がないわけ。私はその当時やってないわけですね。この問題は現在に至るもまだ「生きている」問題ですよ。

被爆者が原爆裁判を起こして、東京で裁判をやるんですが、このときは私は、まだ、「じゃ、誰が悪いのか、誰を責めるべきなのか」という問題を、やってない・・・。

原爆裁判」については、このインタビュー・シリーズ第4回「核の傘と核兵器廃絶の関係」の「原爆裁判、1955年」の項の註を参照の事。
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/hiroshima_nagasaki/
hiraoka/4/4.html

平和社会建設国民運動だった

 平岡 原爆に関する戦争責任を追及していこうという動きが出てきたのは、やっぱり平和運動が挫折してからですかね。このときはまだ平和運動の高揚期なんです。分裂したとは言いながら。だから我々は統一しろ、と。平和運動をどんどん進めていくことによって、核兵器を無くそうじゃないかと考えていたのだと思います。
 哲野 平和運動の高揚期とおっしゃいましたが、その時の平和運動というのは、本質的にはどんなものだったんです?
 平岡 本質的には、平和な国家を作っていこうという国民運動だったと思います。実は、それに国民が自分たちの思いを託したんですよ。

というのは、戦後、日本は、新しい文化国家を作ろうとしたわけですね。これは今になって私が考えていることですけどもね。

ところが、戦後直ぐはアメリカの占領中ですから、そういう国民の(本当の平和国家を作ろうという)思いをきちっと受け止めて、新しい社会を創る、新しい国家を創るという運動は無かった。非常に残念なことですが。で、政党が出来て、共産党もひっくるめてやったけれども、途中で弾圧されたり、紆余曲折があった。そのため、一般の国民は自分たちが新しい国家創造に参画するチャンスがなかったんです。

そういう時に、原水禁運動がぱっと出てきて原爆は大変だというので、一大国民運動に盛り上がっていった。特に、原水禁運動は、食卓の、「マグロ」の問題ですからね。生活に密着していた。
 哲野 焼津の。 
 平岡 焼津の。最初の時はね、広島の原爆の問題は「ローカル」な問題なんです。

ところが焼津の「第5福竜丸事件」によって初めて、「原爆」「核兵器」が、「ナショナル」な問題になっていった。そして国民は全部、原水禁運動に自分たちの次の社会に対する希望を託した・・・、今、私はそういう具合に解釈するんですよ。

自分たちの国家の未来像を創るという思いは、当時、日本人は皆が持っていた、戦争が終わったときに。そうしたエネルギーを出すところがなかったところへ「原水禁運動」という国民的な運動が生まれて、皆さんがそれに参画していく・・・。いわば「原水禁運動」に「平和国家」への思いを託していく、ということだったと思います。

  ところが、そこへ政党が様々な政治的な要求、しかも非常に党派的な要求を持ち込んできて、「原水禁運動」が分裂してしまう・・・。そして国民の「平和への願望」を政治的に吸い上げる契機がなくなってしまう。

そこへ、池田(勇人)の高度成長政策がタイミング良く出され、日本の国民みんながそれに乗って行って、「核の問題」「平和追求の問題」を忘れ去っていく・・・。  

「平和社会」が「経済大国」に

哲野 平和な文化国家を創るというそういう気持ちが流産させられた、そういう言い方をしていいんでしょうか?
 平岡 そうそう、いいですよ。「平和な文化国家を創る」という理想がね、「経済大国」を創って、経済的な幸せを追求しようという目標にすり替わっていった・・・。「所得倍増計画」が象徴的です。日本人全体を、そこにまとめこんだでしょ。
 
それまでは、自分の所得のことなんか、みんなあまり考えてなかった。それよりも、我々もっと素晴らしい社会を創ろうじゃないかと考えていたんだと思います。
 
 哲野 貧乏でもいいから。
 平岡 ええ。戦争中の特高が目を光らせているような社会、女性が差別されて、人権が平気で侵害されているような社会から解放されたんですよ。民主主義国家になって、これからいよいよ我々の時代だと言うときに、アメリカの占領政策が途中で変わるんですけどね。

最初はやっぱり「解放」ですよ。民衆はみんな解放された、良かったと思っていた。

そして「新しい国家を創ろうじゃないか」と。そのエネルギーを受け止めたのが「原水禁運動」だった。だから、それを上手く使っていけば、原水禁運動は単なる核兵器廃絶運動じゃなくて、日本全体の社会変革、或いは平和国家建設の原動力になったと思うんです。

だから原水爆禁止、核兵器反対だけじゃなくて、もう一つその先の、何か大きな「国家像」みたいなのが現れて、それを目指して核兵器も廃絶するんだと、いう形で行くべきだったろうと、今思うんですがね。
 哲野 今、そう考えられますか。 
  平岡 今はそう考えていますね。だから今、私は、核兵器を無くしたって、直ぐに平和な世界が来るわけじゃない・・・。 
 哲野 核兵器をなくしたところで、戦争そのものがなくなるわけでもない・・・。
  平岡 そうそう。平和が来るわけではないんですが、やっぱり貧乏だとか、差別だとか、暴力だとか、そうしたものを一つずつ潰していく、これは日常レベルの話ですから。そういうものを見なきゃいけませんよとよく言うんですけど。どうも「核兵器廃絶」を題目のように言っていれば、なんか素晴らしい社会が来るかのごとく、騙されている。

インタビューをしている時は気がつかなかったが、テープ起こしメモを読んでいて気がついた。平岡は「核兵器廃絶」は決して単独の政治課題ではない、と云っている。「核兵器廃絶」の向こうの地平線にどんな社会を創っていくかというビジョンと共に「核兵器廃絶」という政治課題があると云っている。実際そうだった。憲法に戦争放棄と核兵器放棄を謳い、非核兵器法を作ったフィリピンはマルコス打倒の民衆革命と共にあったし、実戦配備までした核兵器を放棄した南アフリカは「アパルトヘイト撤廃」と高い政治理想を掲げたマンデラ政権ともにあった。非核法を作ったニュージーランドは、結局は失敗したが高い経済民主主義の理想と共にあった。日本ではどうなるのだろうか?恐らくは日米安全保障条約の軛から脱して、第二次世界大戦後初めて「実質独立」達成の理想と共にあるのだろう。それでこそ現在の閉塞感が打ち破られる。


足りなかった「国家責任」の追及

哲野 平和を実現しようという国民運動としての「原水禁運動」は今考えてみると、非常に素朴なものだったですね。ただ素朴に、自分たちこんな酷い目に遭ったんだから、核兵器を無くしましょうと、もうやめようということでしょうね。
 平岡 そう、「マグロ」みたいな口に入るものが、まさしく汚染されてるんだ、危険なものなんだ、と云う認識がいっぺんに広がった。その写真がわーっと出ますよね。マグロを捨てている。ああいう写真グラフだとか、ニュース映画ですね。そういうものが非常に大きなインパクトを与えたんだろうと思いますね。
 哲野 今平岡さんのお話を聞いて僕なりに理解すると、まだそういう分裂問題があったとはいえ、非常に原始的というか、素朴な感じでの平和運動はまだ高揚期にあった、その時代。
 平岡 あったと思いますね。みんな希望を託したわけでしょ。だから統一しろとかね、みんな言うわけですよね。分裂したらいかんぞと。統一してやっていけと。
 哲野 わかりました。それが今平岡さんのお考えになっておられる、当時の平和運動。その中で、そういう時代背景の中で、ご自分のおやりになった一連の「原爆報道」の記事を今評価されて、足りないものはなんだったんでしょうか、という私の質問に対してはどうでしょうか?
 平岡 理屈っぽい話になるんですけどね。国家責任の問題をやっていないことはないんですが、やってるんですが、それは人の口を借りてやっているわけですね。ですから新聞社、或いは私個人のね、思想的な根底に、そういうものがあったら、様々な形で記事になるわけですけどね。どうもそこは、私はまだ充分でなかったという気がします。というのは、とにかく、「被爆者の実態」知らせる事が先なんだと思っていた。
 哲野 うん。なるほど。それは先決問題でしたからね。
 平岡 これをとにかく力を入れていかないといけなかった。私なんかも一生懸命、例えば忘れられている朝鮮人の被爆者、これ誰も言わなかった。これはまさしく国家責任なんですよ。私はその朝鮮人の被爆者をずっとやることによって、初めて「国家と民衆」の関係を冷静に考えられるようになったんでね。

それまでは、日本人被爆者だけですと、国家と一体なんですよ、ずっと戦争中から。それがようやく朝鮮人の問題を考えることによって、初めて「国家と民衆」を峻別して考えられるようになった。国家は民衆に敵対するものだと。国家というものは必ずしも民衆の側に立ってやってるわけじゃないんだと。というのは、朝鮮人の姿を見たらわかるわけですよ。これは。私の思想が、朝鮮人問題によって少し変わってきた、深められたというか・・・。