2010.8.26
第4回 「核の傘」と「核兵器廃絶」の関係
 ジャーナリスト時代の反省点として、平岡は「核の傘」問題と日米安全保障条約への斬り込み方が甘かったことを自ら指摘した。そして広島市長時代にこの問題に気づき、「8・6平和宣言」の中でもこの問題に触れるようになる。そして「核の傘」(アメリカの核の拡大抑止力)に依存したまま、ヒロシマが「核兵器廃絶」を唱えても、それが国際的にどれほどの説得力をもつのか、われわれ市民社会は、核兵器廃絶に向かって為すべきことを怠ってはいないかと問題提起する。

「核の傘」と「ヒロシマの平和」との間の矛盾

 哲野 改めて詳しく聞いておきたい問題は、ここに書いて居られるんで聞いてみるんだけども、「核の傘」の問題。市長時代に平和宣言の中で・・・。
平岡 97年。

  1997年8月6日の平和宣言の中で平岡は次のように述べた。

 『国際社会は、包括的核実験禁止条約の調印によって、核爆発を伴う実験の禁止に合意したものの、条約発効までの道はなお険しく遠い。そのような折、米国は条約に触れないと主張して「臨界前核実験」を実施した。一方で、核兵器削減を約束しながら、他方で核実験に固執する態度は、人類共存の英知を欠くものと言わざるをえない。核兵器こそは、戦争に代表されるあらゆる暴力の頂点に位置するものである、とあらためて世界に訴える。

現在、広島で開催中の第4回世界平和連帯都市市長会議では、「核兵器なき世界」を目指して、核兵器使用禁止条約の締結、非核地帯の拡大を各国政府、国際機関に求める討議を進めている。広島は日本政府に対して「核の傘」に頼らない安全保障体制構築への努力を要求する。』

 哲野 この「核の傘」の問題がですね、ここで核兵器廃絶を訴える矛盾への追及が弱かったとここで言っておられる。これはもう、ジャーナリズムに対する批判・・・。
 平岡 私自身の話じゃね、これは。
 哲野 はぁはぁ。
 平岡
全部これは自己批判。今まで原爆報道に携わってきたんだけども、こういう問題(核の傘)があったじゃないか、私はジャーナリストしてその問題を追求してこなかった、という自己批判ですよ。この問題はいまでもあるんですよ。 
 哲野 この問題にお気づきになったのはいつ頃なんですか。
 平岡 うーん、はっきり記憶してないな・・・。
 哲野 これは2005年に書かれた文章。
平岡 それは2005年ですがね。(前出「新聞研究」に寄稿した「被爆60年とジャーナリズムの責務」のことを指している)。平和宣言では確か97年だったと思うんですがね。

95年にICJで証言をした後、色んなところに引っ張りだされて喋っているうちに、なんだか妙な感じになってきたわけよね。

広島は「平和」を言ってるけれども、「核の傘」については全然問題していない。

で、「核の傘」って前からあるわけですよね。それは我々あんまり意識しないで、平和を語ってきたのは事実なんですよね。核の傘から出ようという人はいなかったでしょう。

ま、特定の政党で言った人はいるかもしらんけども。

少なくともですね、平和運動をしている人の中で「核の傘」から出ようと云った人は、覚えてない・・・。

  平岡敬は、1995年11月7日、オランダ・ハーグにある国際司法裁判所(ICJ)で、「核兵器の使用および核兵器による威嚇の違法性」に関する勧告的意見採択に関わる証人として証言台に立つ。事前に日本政府から、「核兵器は非人道兵器である」という証言をしないでくれ、という要請があったのを無視して、

私はここで、核兵器廃絶を願う広島市民を代表し、特に原爆により非業の死を遂げた多くの死者たち、そして50年後の今もなお放射線障害によって苦しんでいる被爆者たちに代わって、核兵器の持つ残虐性、非人道性について証言いたします。』
と述べ、詳細に広島の惨状を説明した上で、
さらに、1961年の国連総会では、「核兵器・熱核兵器の使用は、戦争の範囲を超え、人類と文明に対し、無差別の苦しみと破壊を引き起こし、国際法規と人道の法に違反するものである。」を内容とする「核兵器と熱核兵器の使用を禁止する宣言」が決議(国連総会決議1653)されております。』
市民を大量無差別に殺傷し、しかも、今日に至るまで放射線障害による苦痛を人間に与え続ける核兵器の使用が国際法に違反することは明らかであります。また、核兵器の開発・保有・実験も非核保有国にとっては、強烈な威嚇であり、国際法に反するものです。』
現在地球上には、人類を何回も殺りくできる大量の核兵器が存在しています。核兵器は使用を前提として保持されていますが、核兵器の存在が平和の維持に役立つという納得できる根拠はありません。核兵器によって、自国の安全を守ることはできず、今や国家の安全保障は、地球規模で考えなければならない時代が到来しています。』
 とたたみかけた上で、  
核兵器が存在する限り、人類が自滅するかもしれないということは、決して想像上の空論ではありません。核戦争はコントロールできるとする戦略、核戦争に勝つという核抑止論に基づく発想は、核戦争がもたらす人間的悲惨さや地球環境破壊などを想像できない人間の知性の退廃を示しています。』

と断じている。それだけに、アメリカの「核の傘」(拡大核抑止力)の下に存在しているという日本の現実が、平岡の中で深刻な自己矛盾として立ち現れてきたわけだ。話は違うがこの平岡の問題意識と、現広島市長、「オバマジョリティ」の、我が秋葉忠利クンの次のノーテンキな言葉と比べてみよ。

核兵器のない未来を願う市民社会の声、良心の叫びが国連に届いたのは、今回、国連事務総長としてこの式典に初めて参列して下さっている潘基文閣下のリーダーシップの成せる業ですし、オバマ大統領率いる米国連邦政府や1200もの都市が加盟する全米市長会議も、大きな影響を与えました。』(2010年8月6日広島平和宣言より)

秋葉クンは必ずや歴史のゴミ箱に追いやられることだろう。

国際司法裁判所での証言

 平岡 98年がインドでしたかね。
哲野 98年がインド。
 平岡 98年がインド、パキスタン核実験。98年ですね。だからその前ですね。だいたいあの頃、インドやパキスタンが核実験をやろうという話が出てきてるわけです。

それに対して広島は一生懸命、抗議をしたり電報打ったりしてるんだけども、まぁ相手にされないというか。

1974年5月に「平和的核爆発」と称する核実験を行った。当時は建設工事などを目的とした「平和的核爆発」がありうるとした時代でもあった。この時をもってインドは核兵器保有国となった、とみなされる。印パ紛争が険悪化する中で、インドは1998年5月に計5回の核兵器実験を行った。これに対抗する形で、パキスタンは同年5月末少なくとも2回の核実験を行った。これで両国とも名実ともに核兵器保有国とみなされることになった。

 哲野 また、しかもインドの外務大臣に。
 平岡 あ、あれは、インドの外相じゃなくて、国防相と副大統領です。会ったのは98年です。
 哲野 国防相と副大統領でしたか。お会いになったエピソードが・・・
 平岡
ええ、あれは98年ですね。あのときはコテンパンにやられたから。(笑う)日本政府に言うべき事をね、なんでここで来てやるのかという。 

98年、平岡はインドを訪問した際にインドの外相に会い、インドが核兵器を保有していることに抗議する。インドの外相は、「われわれは自衛のために核兵器を保有している。日本もアメリカの“核の傘”に入ることによって、核兵器で自衛している。それとどこが違うのか。インドの核兵器保有を非難する前に日本政府に、核兵器で自衛することをやめさせてはどうか。」と反論される。平岡は後に「一言もなかった」と言っている。

それは97年だったと思うな。核の傘にいる矛盾を思い知らされたのは。なんかきっかけがあったんですよ、それは。私自身に。
 哲野 オランダのハーグの国際司法裁判所の判断が出たのは?
 平岡 96年ですね。ええ、95年11月にハーグに行って証言して、96年のね、おそらく7月・・・に勧告的意見が出てるんですね。それを踏まえて、だったかなぁ。こういう状況が出てきて、確かに、あれは条件付きなんだけれども、要するに核兵器というものは、国際人道法に違法する兵器であると。確か、配備も威嚇にあたるんじゃなかったかな。
 哲野 そうです。間違いなくそうです。 
 平岡 ね。配備もね。 
 哲野 核兵器の実戦配備こそ核兵器による威嚇そのものですから。 
 平岡 威嚇でしょ。そう言う状況があって、もちろん「国家存亡の時には、国際司法裁判所で判断できない」、と。国際司法裁判所は国連の機関ですからね。国家の論理を否定できなかった。そこまではわかるんだけども・・・。 

要するに、「核兵器が国際人道法に違反する兵器」だと、それが常識だとするならば、やっぱり、そういう「核の傘」っていうのは意味がないというか、一体なんだろうかと真剣に考え始めたんだと思います。

そういう非合法的な武器に守られるという意味はないじゃないかという、その辺を考えたんだろうね。

自分の中の矛盾

 哲野 こういう風に私が理解してよろしいでしょうか。平岡さんが日本国内にいらっしゃって、色んな話をしておられた間は、言ってしまえば自分のお話の中の矛盾に気が付かなかったけれども、国際的に出て色んな人と話をする中で、自分の中の矛盾に気づかざるを得なくなってきたという理解をしていいんでしょうか。
 平岡
まぁそういうことでしょうねえ。綺麗に整理すればそういうことになる・・・。

そんなに矛盾、葛藤があったのかって記憶が定かじゃないんですけどね。

たぶん、「ICJでの証言」や「勧告的意見」あたりから、ヒロシマが国際的に発言していく場合に・・・。これまではただ、核兵器廃絶と言ってたけど、ひとつの理論的後ろ盾が出来たわけでしょ、国際司法裁判所の「勧告的意見」で。 

それを後ろ盾にしてに喋っていく時に、じゃあ日本政府に何を言うべきなのか。大体、私は日本政府には言ってきたんですよ。私は平和宣言では言っていたんですが・・・。
 哲野 あの「1997年平和宣言」でしたっけ?
 平岡 ええ、97年です。それでね、その前もね、だいたいその前の政治課題というか、要求は言ってるはずですよ。非核地帯を作ろうだとかね、そのための外交努力をやれとか。

要するに、核に守られずに、住めるような、そうした日本を作って行かなきゃいけない・・・と。それで、マ、一言必ず、被爆者援護法をよろしく、と。(笑う)
 哲野 ハハハハハ。(笑う)
 平岡 これは決まり文句でついておる。(笑う)だけどその前に、日本政府への「平和」に対しての要求をつけているんです。

ですからたぶんね、あなたがおっしゃるように、ICJでしゃべった、それに対して判断が出た、この論理を使って、核廃絶問題を考えていく、そうするとやはり「日本の核の傘」の問題が出てくるわけ。

「核の傘」って言うのは、抑止力とかなんとか言って、なんとはなしに認めていたわけでしょ。安保体制の中で。

で、安保の問題に行き当たってきたんですよ。この辺から。私は。

1995年、「8・6平和宣言」。
人類が未来に希望をつなぐためには、今こそ勇気と決断をもって核兵器のない世界の実現に取り組まなければならない。私たちは、その第一歩として核実験の即時全面禁止とアジア・太平洋における新たな非核地域の設定を求める。日本政府は、日本国憲法の平和主義の理念のもとに、非核三原則を高く掲げ、核兵器廃絶に向けて先導的役割を果たすべきである。また、核時代の証人である内外の被爆者に対する暖かい援護について一層の努力を要請する。

核兵器の保有は決して国家の安全を保障するものではない。また、核兵器の拡散や核技術の移転、核物質の流出も人類の生存を脅かす。それらは人権抑圧、飢餓・貧困、地域紛争、地球環境の破壊などとともに平和を阻む大きな要因である。』

1996年「8・6平和宣言」
国際司法裁判所は、一般論ながら「核兵器使用の違法性」を明言した。核兵器廃絶を求める国際世論は徐々に、しかも着実に広がっている。この潮流のなかで、私たちは、新たな包括的核実験禁止条約の合意によって、これまで二千回以上も続けられてきた核爆発が禁止され、これが核実験の全面禁止へつながることを期待している。反面、核兵器廃絶への道筋が見えない現状では、核大国の核兵器固定化に大きな不安を抱かざるを得ない。

私たちは次の段階で、世界の人びとと連帯して核兵器使用禁止国際条約の実現を目指し、国内では非核武装の法制化を強く求める。』

 哲野 「拡大抑止核の傘」の話になれば、安保の話にならざるをえませんですね、これは。
 平岡 ええ、で、安保って言うのは非常に扱いにくい、地方自治体としてね。難しい話なんだけども、結局核が無くても、安保が無くたって、日本の安全をどうやって守るかというのは国民的課題だから一緒に考えましょう、日本人全体が考えよう、といういいかたを僕はしているはずなんですよ。
 哲野 平和宣言の中で。
 平岡 中で。当然そう言う外交努力を要求するけれども、核が無くても私たちが安全に暮らせるようなそういうあり方を国民一人一人が考えようという、確か呼びかけだったと思うんですがね。これは、人に要求することじゃなくて自分たちが考えようということなんですよ。

それで98年、インドへ行って、コテンパンにやられましてね、あの年もやっぱり、核の傘という表現をしたかどうかわかりませんけれど、やっぱり非核地帯を作っていこうという・・言ったですね。

私たちは、史上初の被爆体験を持つ日本の政府が、世界の先頭に立って、すべての核保有国に対し、核兵器廃絶への実効ある行動を起こすよう強く要請する。同時に、私たち国民一人ひとりも、核兵器に頼らぬ安全保障の方策を真剣に考えねばならないと思う。

地球上には、今日、核実験などによる多くの被害者が存在する。この事実をヒロシマと重ね合わせるとき、核時代を生きる私たちの課題がみえてくる。ヒロシマは、国家を超えて都市・市民の連帯の輪を広げ、そのネットワークによって国際政治を動かし、核兵器のない世界を実現させたい。』(1998年平和宣言より) 

パキスタンの言い分とニュージーランドの言い分

 哲野 インドに提案されたわけですか?非核地帯を作ろうという提案を。
平岡 いや、インドではしてないです。インドでしたのは「核実験やめてくれ」って言ったんです。
 哲野 なるほど。
平岡
で、核実験をやっちゃったんです、結局。その後ね。あれは1998年の5月・・。核実験をやった後、私は東京で両方の大使と対談やりましたよ。TVで。長いことやったね、あれは。1時間ずつくらい、パキスタン大使とインドの大使と。あの時は大変有名な話だけれども、パキスタンのシャリフ首相がこういった。「私たちはヒロシマ・ナガサキを再現しないために核武装をする」と。

これに対して僕らはどんな反論をできるかっていう課題がある。 
 哲野 いわゆる典型的な核抑止論でパキスタンの首脳が答えたわけですね。

ニュージーランドのディビッド・ロンギ政権、最初の労働党政権が、国政選挙に勝って、アメリカの核兵器搭載の寄港を・・・。
 平岡 寄港を拒否したのはいつですか。
 哲野 1986年だったと思います。だから今のお話の10年くらい前に。その時にディビッド・ロンギは、有名な・・・。その時の国務長官はジョージ・シュルツですから、レーガン政権の。言ったことは、「核兵器などという危険なもので守って欲しくない」という有名なセリフを言ったんですけれども。核で守ってもらうどころの話じゃない。核兵器そのものが危険なんで、そんなもので守って欲しくないってディビッド・ロンギは言ったんです。

  『五年前(1986年)−中略−われわれの核同盟国である合衆国に、われわれは核兵器で守ってもらうことを望まず、核抑止戦略がわれわれの安全保障に役立っているとは考えず、−中略−これを合衆国にわかってもらいたいと思って、その意思表示のために合衆国に次のように言いました。

「われわれは原子力推進または核武装した軍艦がわが国を訪れることを望まない」

−中略−合衆国、あるいはその指導者たちはいいました。

「南太平洋からわれわれに吠えかかっているこのネズミは何者だ。ニュージーランドか。少し懲らしめてやろう。見せしめが必要だ。彼らの利益や彼らの民主的選択が採り上げられないようにしなければならない。このニュージーランド病が広がらないようにしなければならない。」
 
−中略−彼らは私たちの指導者を信用のおけない野蛮人として描き出そうとしました。彼らはわれわれが世界的な核抑止体制を根底から覆そうとしていると主張しました。

−中略−小国ニュージーランドは世界中の他の多くの国のように、世界中の他の多くの民衆のように立ち上がっていいました。−中略−(核保有国は、あるいは潜在的核保有国は)彼らが高度の核抑止戦略、核のオーバーキルを防衛の有効な手段と考えている限り、裸なのだ。彼らは裸で立っている。彼らは非合理、非論理的な政策を追求して立っている。』(「太平洋の非核化構想」岩波書店−1990年12月−所収、ケビン・クレメンツ教授−カンタベリー大学−の講演より。P54−p56を抜粋引用)

なお以後ニュージーランドは一切の核兵器を自国領土内に寄せ付けていない。また1987年には反核法が成立している。
 
 平岡 なるほど。

国民の力を背景に米軍基地を排除

 哲野 もう今日、これで最後の質問になるんですが、核の傘、アメリカの軍事用語でいうところの「核の拡大抑止」によって守られる状況を、現在ですね、どういう風にお考えになるのか、それを聞かせて下さい。
平岡
そりゃもう、やっぱり、「核の傘」の中で、僕らは言ってきたんですよね、核兵器廃絶だとか何とか言って。

それを言ってきた以上、核兵器廃絶の立場を、われわれは採るわけだ。

その立場に立ったら、やっぱり核の傘を否定せざるを得ない。と同時に、核の傘が無くても、国民の安全が保てるような方策を、政治家は考えるべきだろうし、我々は政府にそれを要求していくべきだろうと考える。

色んな方法があるだろうと思うんです。具体的には。例えば先制攻撃を禁止するとか、或いは核兵器そのものを禁止する国際条約を作るとか、さらには北東アジアの非核地帯、これはピースデポなんか言ってますけども、非核地帯を作っていくとかですね。

で、そうすると、北朝鮮の問題と必ず絡んでくるわけですから、北朝鮮に核を放棄させるためには、やっぱり日本と朝鮮半島を非核地帯にすると。こういう強烈な意思表示を日本が示す、そのことによってしか北朝鮮は放棄しないだろうと思うんですね。
 哲野 絶対間違いないですね。
平岡 そうすると、日本がそういうことをやるということは、アメリカの基地を除けろということですよ。

そう言えば、日米安保を変質させろという、安保条約の変質をやらなければいけない、柔らかい言葉で言えば、そうなる。

ホント言えば、廃止、廃絶ですけどね。それが一挙にできるとすれば、この「日米安保体制」を変えていくしかない。

その中で沖縄の問題が当然出てくるわけですけれども、日本と朝鮮半島の非核化、それをアメリカ、ロシア、中国に保証させるという、やり方もひとつあるじゃないか。

それも全部外交ですよ。外交努力をやっていくだけの力が、それだけの外交力が日本にあるかないか・・・。

それはやっぱりわれわれ次第ですよ。外交は国民全体の声をバックにやっていかなければならないだろうと僕は思う。

ですから普天間の基地だって、沖縄だけの声じゃ駄目なんだ。日本全土で、ああいう集会をやったときに初めて、アメリカはこりゃ大変だ、と思うだろう。

少しは条件闘争に切り替えてくるだろうと思うんですが、いまはやられっぱなしですからね。そう言う意味では、国民の力でやらないといけないことはまだたくさんある、という具合に思いますね。

「核の傘」のない国際環境作り

 哲野 今の話の中で、核の傘を脱するのと、安全な方策を政治外交努力で模索していくのと、これは順番がつくんでしょうか。
 平岡
いやいや、同時並行でしょ。目的は核の傘を無くする、というよりも、我々の安全、核の傘がなくてもいいような国際環境を作っていくということですから、当然、そこには信頼関係だとかなんとか外交努力を、一方でやらないといけないですよね。

中国や北朝鮮や韓国との信頼関係を作っていかなくてはいけない。

だけど、今、日本は中国を敵視してるから。これはまぁ、アメリカの戦略のせいかもしれませんね。中国は中国で潜水艦が来たり航空母艦作ったり、沖縄のあたりをうろうろするとか、いうことがあると、日本人は警戒して、やっぱり「核の傘」は必要じゃないかということになってくる。

だけどこれはおそらく作られた脅威だろうという感じがするんですよね、僕は。というのはこれまでアメリカにどれだけ騙されてきたかっていうのをね、戦後。

それを、僕らは検証しなきゃいけないと思うんですね。それも凄く騙されてるわけ。

で、極端なことを言えば、「9・11」までね、騙されてたんじゃないかという話がでてますけど。

それでなくてもトンキン湾事件とか、その他もろもろの事件があって、そのつどの政治状況が変わってくるわけですね。
 哲野 逆に真実だったことはほとんどなかったかもしれませんね。
 平岡 だからもう、あまりにもありすぎる。うまいことできてるんですね。まぁ、(韓国の)哨戒艦が撃沈されたとか沈没したかよくわからんけれども、沈んだ。

その時、ちょうど沖縄の普天間問題のために、(米国務長官の)クリントンが飛んでくる、ぴったりでしょ、あれも。偶然にしては出来すぎてる。やっぱり、これは、アメリカは沖縄を離したくない。そしたら、結果その通りなったんですから。

そりゃ恫喝したか・・・たぶんそうでしょう。あんなに鳩山総理が一夜にしてですね、抑止力を言い出すとは思わなかった。
 哲野 東南アジア非核兵器地帯が出来あがる歴史を見てみると、東南アジア、ま、ASEAN10カ国、最終的にはカンボジアを加えて10カ国が、東南アジア非核兵器地帯を成立させるまでに、やっぱり30年かかってる。ASEANの出発の5カ国からみても。
 平岡 中央アジア非核兵器地帯もそうですよ、10年以上積み上げてやってますよ。
哲野 2009年の3月に発効したんですか。数え方によっては20年以上かかってるかもしれませんね。
 平岡 かかってるねぇ。
哲野 要するに、かかったのは、お互いがお互いを信頼し合う時間が・・・。
 平岡 どうしても信頼醸成の時間が要るわけでしょ。日本の場合だったらやっぱり、アジアの国ですね。やっぱり信頼醸成をね、高めていかないといけない。特に中国とね、きちっとやっていかないといけない。

核兵器に頼って、安心な生活はない

哲野 東南アジアの諸国同士が、お互いが信頼しあうまでに30年かかったとすれば、北朝鮮含めて日本がお互いに信頼関係作っていくためには、もっとかかるかもしれない。ただ、どんなにかかろうが、それしか方法はないということですよね。
 平岡
方法はない。うん、そういうことですよね。

ですから、核兵器に頼って、そんなに安心した生活が送れるわけはないんだからね。

そこにやっぱりヒロシマが核兵器廃絶を言う意味がある。と、思ってるんだけど、これスローガンだけを唱えてたら駄目なんですよ、結局ね。

まぁ、それは言えば確かに、アピールにはなるけれども。
肝心の足下を、日本政府を動かしていくと言うことを、ヒロシマ・ナガサキが取り組まない限り、先に一歩もすすまない。

「核の傘」、あれは別だと、日本政府は言っておるわけだから、これを変えないと。
哲野 このままじゃ、全然、説得力ないですね。
平岡 無いですね。
哲野 今、南アフリカ共和国がアフリカ・ユニオン、AUを作っていく一つの牽引役になってるんだけれども、これはやっぱりなんといっても、マンデラ政権の前、デクラーク政権の時に核兵器を持ってて、実戦配備をしてて、しかもそれを廃棄した、自ら廃棄したという、その南アフリカ共和国に対するアフリカ諸国の信頼の厚さが、つまり道義的な南アの指導力を、みんなが認めてるというのが、やはり大きな要因。
平岡 あれは、しかし、捨てさせたんだろうね。
哲野 いや、それは。
平岡 わからない?
哲野 間違いなくそうです。間違いなくそうだと思います。
 平岡 黒人政権が出来るから、こいつらに持たせちゃいかん、と。いうことで因果含めて・・・じゃない?
哲野 や、それはあったと思うけども、やっぱりマンデラ政権が出来る前の、デクラークの末期は、マンデラの・・何政党でしたっけ、「アフリカ民族会議」でしたっけ、もう相当マンデラの政策を受け入れていたようです、デクラーク政権が。その時、マンデラはまだ拘禁中だったと思います。

私も勉強中ですけど、だからデクラーク政権のやったことというのは間違いないけども。
平岡 外部の力で。
哲野 やっぱりマンデラの政党の政策を受け入れつつ、政権を委譲してったという、そういういきさつがありますから。そりゃもう、デクラークも核兵器を捨てたい、やめたかったろうし、マンデラも核兵器なんか持ってて、アフリカででかい面出来ないっていうのは、もうわかってるわけだから、一刻も早く止めたかった。

それと、核兵器不拡散の立場からアメリカも核兵器を捨てさせたかったし、イギリスもフランスも捨てさせたかった、みんなの利益が一致して、で、核兵器廃絶ってことになったんだけれども。でも歴史的事件ですよね。

平岡さんのお話は、「核の傘」には未来がない、完全に否定したいいかたで理解していいんでしょうか?

核兵器廃棄後の大変さ

平岡
事実そうですわね。
核の傘って言うのは際限がないですよね。兵器というのは日進月歩ですから。

仮に「核の傘」が有用とすればですよ、もっともっと、性能の良い核兵器を開発していくだろうし、事実アメリカだってそれを一生懸命狙ってますからね。

まぁしかし・・・やっぱり軍需産業が社会を支えている間は駄目やね、こりゃ。やっぱり。

核兵器を無くするというのは、後の始末が大変ですよ。作るのにも金かかったけれども、後始末にも金がかかる。それに核科学者、核技術者をどうするかっていう、大変、大きな問題がある。
僕はカザフスタン(中央アジア非核兵器地帯条約の主要国。セメイに旧ソ連のセミパラチンスク核実験場があった。)に毎年行ってますけど、カザフがそうなんですよ。

核兵器施設を無くして撤去した。残ったのは核科学者と技術者なんですよ。彼等は飯が食えないから北朝鮮行ったりですね、中東の方へ金さえ貰えれば行くという。それをどうやって引き留めるかという問題ですね。
哲野 ナン・ルーガー法で・・サミュエル・ナンと、それからルーガー上院議員が作ったナン・ルーガー法で、いわゆる旧ソ連解体後の核兵器の始末と、今言われた核科学者、核技術者の就職の面倒をみた訳ですが、報告書は15年かかったと言ってますね。彼等がいわゆる生計を立てていくのに15年はかかった・・・。もちろん今のカザフスタンのお話では全員の面倒を見たわけじゃない、ということだったようですが。
平岡 かかる。そうでしょう。大変なもんだよな・・・。
哲野 核兵器を廃絶を決定したとしても、完全に安全化されたか、あるいは完全に廃棄する、あるいは、それを検証するだけでも相当、これも15年かかってますね。

秋葉さんのいう「2020」なんてのは、僕なんか素人が読んでも、アホじゃないかと。

恥ずかしかったNPT秋葉演説

哲野 2020年というのは、論理的に全然根拠ないじゃない。被爆者の寿命から考えたんでしょ。
平岡 僕は知らなかったんですが、そうらしいですね。(笑う)今年のNPTでの演説で、本人がそう告白してました。ああ、そうだったの、と思って。

秋葉は今年5月のNPT再検討会議のNGOセッションで演説し、次のように言っている。『2020年という年は、被爆者の平均年齢を考えると自然から与えられた期限(limit)であるがゆえに、基本的であります。被爆者の平均年齢は75歳です。』
(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/NPT/2010_akiba.htm>)

哲野 あと被爆者の寿命がこれだけだからって、なんかいつかそう聞いたですよ。
平岡 いや、本人がNPTの演説のなかでそう言ってました。間違いないです。で、やっと理由がわかりました。何故2020なのか。
哲野 あれは新聞に出たかねえ?その秋葉の演説というのは。
平岡 出てない。それこそ要約みたいなものが、雰囲気を伝える記事の中に出ていただけ。
哲野 だけどA4、1枚半くらいのもんですよ。英語で。秋葉の演説自体が。
平岡 じゃ、読んでみましょう、それは。
哲野 中身のないものです。ほんとに中身のないもの。で、広島市のWebサイトには要約として掲載してあるんだけど、あんな短い演説の要約ってどうするんだろうというくらい短い。(笑う)まぁ、酷い、中身のないものです。で、演説の終わりが「Yes, We Can」で終わってますからね。
平岡 ハハハハハ。
哲野 もう、恥ずかしかった、読んだときは。
平岡 ・・・・・・。
哲野 オバマ大統領は疲れも知らず頑張ってます、みたいなセリフもあったし。オバマ賛美も日本国内でやるぶんには構わんですよ。でも、あそこに行ってまでオバマ賛美をやってたら、非同盟運動諸国はね、ヒロシマは、なに考えてんだと・・・。オレたちが一生懸命「核兵器廃絶の期限」をつけさせようと思って頑張っているのに、その邪魔するオバマの肩なんか持っちゃって、と思うでしょうね。
平岡 いや、どうもね・・一生懸命オバマの肩を持ってね。我々日本人は日本人で、広島は広島で、世界の「核兵器廃絶運動」をリードしていくべきであって・・・。
哲野 だけど、ちょっと異常ですよ。あそこまでいくと。去年の今頃だったら、まだわかりますよ。プラハ演説の後で。まだオバマ・ブームでしたからね。

必要な謝罪の言葉

平岡
オバマのノーベル平和賞の受賞演説・・その直前の11月、オバマが日本へ来た時、日本人の記者団が聞いたでしょう?「ヒロシマへ行きますか?」って。あの時に彼はごまかしたもんね。もし広島へ来たら・・・。おそらくね。彼の政治的立場も考えたら、なかなか広島へ来られないと思うね。

来てもいいけど、来たらやっぱり、あれは(原爆の投下、あるいは日本への原爆の使用は)間違ってたと言わざるを得ない・・言わさんといかんと思うよ。 
哲野 来ること自体が謝罪の意志の表明でしょうね。
平岡 表明?なる?
哲野 ええ、国際的には間違いないと思います。
平岡 だけどやっぱり言葉で言ってもらわなきゃ。謝罪の言葉を。・・・だけどね、それはやっぱり、人類の歴史にとって大事なことなんよ。

あの行為が正しかったのか、あるいは、法的に間違っていたのかというね、国際司法裁判所のああいう核兵器に対する認識が出ている以上、あれは、やっぱり間違っていたと僕は言ってもらいたいね、これは。

それを言わせる権利というか、責任がヒロシマ・ナガサキにあると思うんですよ。あれが正しかったら、すべてOKですよ。何しても、核兵器使っても、それで威嚇しても。

あれが間違っているからこそ、「核兵器はいかん」、「核の傘」はいかんということになるわけだ。その理論的出発点が「オバマの謝罪」だよ。
哲野 そう。だから今の核兵器体系、核兵器正当化論の出発点は、ヒロシマの原爆投下正当化論にあるわけですから。
平岡 だから、あれは間違ってたんだと、ヒロシマはいわなきゃいけない。

だから全て、その後の核兵器配備からなにから全部、核抑止論がね、全部間違っているという論理を立てていかないとしょうがないでしょ、ヒロシマは。
哲野 そういうことにならざるを得ない。出発点が間違っているわけだから、出発点の上に積み上げた論理は全部間違っていることになる。
平岡 そうそう。
哲野 それだけに、来ないですよね。ヒロシマには。

原爆裁判、1955年

平岡
僕らもね、そこを、国際民衆法廷だとかああいうところでやっているのに、あまりこうきちっと報道してないよね。

それと、最初はアメリカの責任を追求するといって原爆裁判やったんだけど、その時広島は冷淡だったとかね。今、考えて色んな反省点があるわけです。広島自体が。

それはやっぱり広島が原爆の本質をきちっと捉えてなかったという問題が横たわっています。 

「原爆投下を裁く国際民衆法廷・広島」。2007年7月広島で開かれた。アメリカ合衆国、フランクリン・D・ローズヴェルト米大統領、ハリー・S・トルーマン米大統領、ジェームズ・F・バーンズ国務長官、ヘンリー・L・スティムソン陸軍長官、ジョージ・C・マーシャル陸軍参謀総長、トーマス・T・ハンディ陸軍参謀総長代行、ヘンリー・H・アーノルド陸軍航空隊総司令官、カール・A・スパーツ陸軍戦略航空隊総指揮官、カーティス・E・ルメイ第20爆撃軍司令官、ポール・T・ティベッツB 29エノラ・ゲイ機長、ウィリアム・S・パーソンズB 29エノラ・ゲイ爆撃指揮官、チャールズ・W・スウィーニーB 29ボックス・カー機長、フレデリック・L・アシュワースB 29ボックス・カー爆撃指揮官、レスリー・R・グローヴズ・マンハッタン計画総指揮官、J・ロバート・オペンハイマー・ロスアラモス科学研究所所長などを「人道に対する罪」などで有罪とした。
http://www.k3.dion.ne.jp/~a-bomb/index.htm>に詳しい。判事団、検事団は設定されたが、残念ながら弁護団は組織されなかった。

平岡 昭和30年(1955年)かな、最初に日本政府に原爆裁判を提起したんだけれども、その前にアメリカに対しても、提訴しようという運動があったんですよ。岡本さんという大阪の弁護士が。それが、結局アメリカでは駄目だということになって、日本政府を提訴するんです。

裁判していって、結局東京地裁では国際法違反、だという判決は出たんだけれども、まぁ、敗訴ですよね。

それきりで終わっちゃったんだけれども、その時に、広島は、なんにもしてない。

太田洋子だけが一生懸命怒って書いてます、小説に。今考えれば少し重いかもわからんけれども。その太田洋子の小説からも引用した。
哲野 そんなのがあったんですか?
平岡 これは最初の原爆裁判ですね、東京地裁での裁判。これを、まとめたもので、私も裁判長にインタビューしたり、関係者にずっと当たって書いたものですけど。あの辺できちっとアメリカの責任をね、追求しておくべきだったな、という風に思いますね。

まぁしかし、そういうのも後になってから、色んな国際情勢の中で、そして自分達の思想が少し鍛えられていくというか、勉強、研究していったということがあるわけですから。

今考えたら、そう思うけど、あの時はわからなかったな。

  1967年9月に平岡が発表した「原爆裁判」と題する一文。この長い、重いレポートを要約しようという強心臓はさすがに私も持ち合わせていない。事実関係だけをつまみ食いして紹介する。

1952年4月サンフランシスコ講和条約が発効し、日本が独立する。その年の8月芦屋市に住む弁護士岡本尚一は、「原爆投下責任」を問う訴訟を起こすことを決意する。最初はトルーマン政権を相手取ってアメリカで裁判を起こすことを考えるが、アメリカでの協力者の問題、費用の問題、法体系の違い、講和条約での請求権放棄の問題などから断念して、1955年4月、国を相手取って東京地裁と大阪地裁に訴状を提出する。この間3年間かかっている。岡本弁護士がいかに、アメリカでの裁判を研究し尽くしての上の断念であったか想像できよう。国内裁判争点をこのレポートは次のように要約している。

  原告の主張は、@広島、長崎に対する原爆投下は国際法に違反した不法行為である。A国際法に違反した行為に対しては、被害者は相手国に対して損害賠償を請求できる。Bところが、国は講和条約で請求権を放棄し、被爆者がアメリカに対して有する損害賠償権を放棄した。これは憲法で定められた原告(被爆者個々人)の財産権を侵害である。Cよって国は原告に賠償すべきだ。』 

    これに対して国は、
  @原爆投下が国際法違反であるという定説はない。A敗戦国が戦勝国に賠償を求めて実現したことは歴史上ない。B仮に被爆者に損害賠償権があるとしても、それは観念的な概念であって実体がない。それも日本政府は放棄している。C原爆被爆者の補償は行政措置によるべきで、損害賠償の対象ではない。』

とした。要するに両者の言い分は真っ向から対立した。(「無援の海峡」p207-p208を要約。)

この裁判は結果的に8年7ヶ月にわたって展開されるのだが、裁判開始から3年目に岡本弁護士は燃え尽きたように死ぬ。後を引き継いだのが三原市出身の弁護士で、岡本弁護士の子息岡本拓の司法修習生時代の同期生、松井浩康だった。「松井さんの正義感が岡本尚一弁護士の情熱に共鳴したためだ。」(同p210)

1963年12月7日、東京地裁は判決を下す。「広島、長崎への原爆投下は国際法に違反する」とまず判決した。しかし「国際法上違法な戦闘行為によって被害を受けた個人は国際法上その損害賠償を請求する途はない。」 さらに「国家が他の国家の民事裁判権に服しないことは原則であり、従って日本の国内裁判による救済は不可能である。」さらに損害賠償権そのものについても「原告は喪失すべき権利を持たない」とした。つまり原告敗訴の判決である。原告側はそれ以上控訴せずこの判決は確定した。

  だが』と平岡は書いている。『広島、長崎に対する原爆投下が国際法違反であることをはっきりさせた判決は世界でこれが初めてであり、その意義は極めて大きかった。』(同p231)

    引用したい部分も多々あるのだが、割愛して、このレポートの結びの言葉。

  原爆裁判の経過を見るとき、日本の原水爆運動は裁判との取り組みに著しく立ち後れていたという事実に気づく。そのために裁判は法廷内の論争に終始し、広く国民的な関心を結集することが出来なかった。その意味で原爆裁判の意味をもう一度問い直すことは、原水禁運動(今日で言えば核兵器廃絶運動ということになろうか)、被爆者救援運動を進めて行くために、極めて重要な作業なのである。』(同p238)

    2010年を念頭に置いても全く同感である。またこの「原爆裁判」を念頭に置きながら、今、平岡は「あの時アメリカの責任をキチッと追及しておくべきだった。」と云っていることになる。 

謝罪から和解が始まる

哲野 もう一つ。本島等。「広島よ おごるなかれ」。これについては、今日のお話の中と関係があるんですが、あの・・・。  
 平岡 本島さんとはあんまり、いい仲じゃなかったもんだからね。あれは市長を辞めてから書かれたんかなぁ。
哲野 辞めてお書きになってます。

  本島がこの論文を発表したのは1997年(平成9年)である。広島平和研究所の雑誌「平和教育研究」VOL.24(1997年4月号)に発表したものだ。本島は1979年(昭和54年)から1995年(平成7年)の間長崎市長を務めているので、この論文は長崎市長を退いてからさほど時間を置かずに発表したことになる。
http://www.inaco.co.jp/
isaac/shiryo/motojima.htm


 平岡  僕はちょっと、反論したような気がするんですよ、これにはね。まだ市長だったかな。というのは、彼はアジアに対して謝れって言ってるんでしょ?そうじゃなかったかしら。
 哲野  いや、えーと・・謝れと言ってますね。うん、言ってます。

  『アジア、太平洋戦争については日本と中国、米国の間には共通の認識と理解が成立していない。広島に大戦への反省とがあれば、(原爆ドームの)「世界遺産登録はなかったと思う。』(同)

 平岡 確か、原爆ドームが世界遺産化されたことについて、一種の“ねたみ”みたいなものがあってね。
 哲野 そういうのあるんですか。
 平岡 あります。彼は凄かったですよ。いつも僕と一緒に行動してましたから。彼は政治家では、先輩ですよね。まぁ、私は後から市長になったから。

そうは言いながらも、広島が「先」なんですよ。「ヒロシマ・ナガサキ」、8月6日と9日だと、僕は言って。そうするとね、彼はやっぱりもの凄くそういうことになると抵抗して。

アジアに謝れって彼はいう。いや、僕だって、平和宣言で謝っているよ、と言ったんだ。
 哲野 なるほど。いや、なかなか、僕は・・・うーん、なるほど。   
 平岡 いや、違う評価があるかもわからん。
 哲野 僕は、彼の立論の中で、一番採ったのは、アジアと和解をしないと駄目だ、だけど和解をする為には、日本は詫びないといけない、ここだけは・・・。
 平岡 アジアに詫びないといけない。それは僕も当然そう思うね。アメリカもそうだと、ね。
 哲野 アメリカもそうですね。
 平岡 悪いことしたときは謝れ。そしたら和解が始まるという。

で、ヒロシマはそれを言わずに、和解と寛容と言っちゃったでしょ、10年前。平和宣言でね。あれから僕はちょっとおかしいなと思って。

  『朝鮮半島における南北首脳会談で両国の首脳が劇的に示してくれたのは、人間的な「和解」の姿です。私たちは、20世紀の初め日米友好の象徴として交換されたサクラとハナミズキの故事に倣(なら)い、日米市民の協力の下、広島にすべての「和解」の象徴としてハナミズキの並木を作りたいと考えています。国際的な場面においても広島は、対立や敵対関係を超える「和解」を創り出す、調停役としての役割が果せる都市に成長したいと思います。』(秋葉忠利、2000年「8・6平和宣言」より))

 哲野 さっき2010年NPT再検討会議・NGOセッションでの秋葉さんの演説を引用しましたね。あの中でも云っているんです。

一つの厳粛なる事実は、私たちすべて、市長や市民すべてが「二度と再び起こってはならない」という結論に、一致して達していると云うことであります。

被爆者の言葉に、“私たちが経験した苦しみは他の誰も味わってはならない”。

どうか、“誰も”という表現は文字通り、私たちが敵だと見なしている人々も含んで“すべての人が”という意味なんだ、ということを特筆しておいてください。

それが和解の精神(the spirit of reconciliation)であり、報復を為さない精神であります。』
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/NPT/2010_akiba.htm>)

僕なんか、これを読んでおかしいと思うわけですよ。「二度と起こってはならない」といいながら、われわれは二度と起こらない保証はまだ手に入れていない。現実に核兵器は実戦配備されて、「核兵器の威嚇」と言う形で使用されている。最後の核兵器がこの世からなくなるまで、「二度と起こらない保証」はないわけでしょ。

アメリカの政治責任を問い、その謝罪を求め、原因をただして、二度と起こらない政治的保証を追求することが、今とても重要だと思うんですよ。ところが秋葉においては、その行為は、「報復」という極めて低次元な言葉に置きかえられている・・・。

この人、なにかおかしいな、と思うわけですよ、僕なんか。
 平岡 やっぱり「ヒロシマの思い」というのは、「あれは間違っていた」「悪かった」の一言が欲しいという思いだと思う。また、そのことによって、僕は死者が浮かばれると思うんです。
 哲野 アメリカの政治責任を追及しないことが、「和解」だとは思わない・・・。
 平岡
そういう論調に、被爆者団体が乗っちゃってるからね、今。

ホントは違うよと、私はこんなに思いがあるんだ、謝って欲しいんだ、ということをね、ホントは言うべきだと思う。

で、原爆の死者に代わってというのはね、ウーン、僕はやっぱり・・・言ったことがあるんですよ、実は。「原爆でなくなった方々に代わって」と言ったことがある。

これはもの凄い、千載の痛恨事ですよ、僕にとって。
死者に代わることができる筈ないじゃないか。死者は、何思って死んでいったか。もう恨みつらみかもわからないし、悔しい、とかですね。それは死んだ人じゃないとわからない・・・。

それを、つい言葉の弾みで死者に代わって、なんか言っちゃたんだ。

死者に代わっていうとすれば、あれは(原爆投下は)やっぱり間違いだった、悪かった、心から謝る、という、それしかないなと、今、思う。 

 (以下次回)