2010.10.9
第8回 広島市長時代―「原爆ドーム」世界遺産化の意味

1996年、「原爆ドーム」はユネスコの世界遺産に登録された。それは「ヒロシマの観光資源」づくりだったのか?それとも、そこに「核兵器廃絶」へ向けての大きな意味があったのだろうか?『やっぱり他になかった。あれがなくなったら、つまり原爆を証明するというか、原爆投下を証明するものが無くなるという危機感があったんじゃないか、今思うと。』と平岡は言う。「原爆ドーム」は、「ヒロシマ」の存在証明としてやはり貴重なのかも知れない・・・。

日本の歴史認識の問題

哲野 次に市長時代のことで、原爆ドームの世界遺産化問題についてお尋ねします。
平岡 96年の12月。メキシコのメリダでね。で、その前なんですよね、これができるまでがちょっとややこしかったのが。

  参考に日本語Wikipedia「原爆ドーム」の優れた記述を引用しておく。

『1992年に日本政府が世界遺産条約を受諾したことを契機に、同年9月に広島市議会が「原爆ドームを国の世界遺産候補リストに登録するよう要望する」意見書を採択。市長は翌年1月に要望書を文化庁に提出した。全国的な署名運動も始まり、1994年に165万人分超の署名を添えた国会請願が衆議院・参議院両本会議で採択された。1992年当初、日本政府は「世界遺産への推薦には、“その遺産が国内法(文化遺産であれば日本では文化財保護法)で保護されていること”が条件」であるとしており、「原爆ドームは歴史が浅く、文化財に指定できないため、推薦要件を満たさない」として原爆ドームの推薦には消極的であった(日本国外では、アウシュヴィッツや、アパルトヘイトに反対する政治犯を収容したロベン島、ベルリンのモダニズム集合住宅群など、「歴史が浅く」ても、国内法によって保護された上で世界遺産に登録された例は複数あった)。文化庁が消極的だった背景には、アメリカや中国・韓国を刺激したくないという政治的配慮が強く働いていたが、結果としてこれが署名運動の盛り上がりにつながり、上記のような多数の署名者を得ることになった。1995年3月、文部省(当時)は文化財保護法に基づく史跡名勝天然記念物指定基準を改正し、同年6月に原爆ドームを国の史跡に指定した。これをうけて、日本政府は同年9月に原爆ドームを世界遺産に推薦した。原爆ドームの登録審議は、1996年12月にメキシコのメリダ市で開催された世界遺産委員会会合において行われた。このとき、アメリカ合衆国は原爆ドームの登録に強く反対し、調査報告書から、「世界で初めて使用された核兵器」との文言を削除させた。また、中華人民共和国は、「日本は戦争への反省が足りない」として審議を棄権している。』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%88%
86%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%A0
>の「世界遺産への登録」の項参照の事。 

 平岡  ええ、あれはね、世界遺産委員会がメキシコのメリダに集まって審議したわけです。で、日本から宮島と原爆ドームと2件出した。で、宮島は満場一致でOK。原爆ドームについてはアメリカと中国が反対したという。ま、反対の理由がややこしいんですけどね。歴史認識について反対をしたと。
哲野 中国は厳密に言うと棄権だったわけですね?
平岡 ま、棄権ですかね。
 哲野 票を入れなかった。
 平岡 はい。でもう一つの記録によるとね、両方とも棄権というような、採決に加わらなかったというようなことを書いている文章もあるですけどね。どっちが正しいか私、確かめていません。
 哲野 えっと、私が確認したところでは、アメリカは積極的に反対だった。ですね。
 平岡 反対の意思表示・・それもね、採決に加わらなかったという人がいるんですよ。中国は欠席したんですよ。退席したはずです。
 哲野 あ、退席ですか。
 平岡 ええ、退席です。中国は。だから消極的というか・・消極的反対でしょうね。で、理由が両方とも歴史認識ですよ。アメリカも、「日本の歴史認識がなっとらん」と。それまで日本がやったことを考えろということ。中国は要するにまだ反省しとらん奴が居るからね。そういう人間が悪用する可能性があるから反対。そういう意味だったと思いますね。 
 哲野 世界遺産登録については、市長としての平岡さんはどういう風に働かれてどういう風に機能したのか・・・。
平岡 僕はね、世界遺産を大いにやるべきだということで・・・。で、決めるに当たっては、まず世界遺産委員会のほうが、これは「遺跡」が国内法によって保護されているかどうかっていうのが問題なんですよ。原爆ドームは文化遺産じゃなかったんです。当時。まず日本の文化財に指定してもらわなきゃ、話が始まらない。

で、ある公明党の衆議院議員が大変熱心だったですね。最初。で、私の所にも言ってきたんですよ。参議院で質問したりなんかしてですね。私もそれを是非やって貰いたいということで政府に働きかけたんだけど、文化庁は「原爆ドーム」は文化財保護法の対象になってない、だから推薦出来ない、と言ってきた。で、私は「文化財に入れてください」と頼んだ。するとね、建築物はなんか100年経たないといかんとかね。それからもう一つは芸術的価値、建築学的に大変価値のある建物でないとダメと言う。建物の価値と年数の問題。両方とも「原爆ドーム」(広島産業奨励館)はクリアしてないと言うんですよ。(産業奨励館は1915年の竣工)
  従ってこれは、文化庁としては推薦出来ないとなった。それじゃ、いかんじゃないかということで、今度政治的な運動を始めたんですよ。一つは連合が署名運動に取り組んだ。弁護士会、それから医師会、色んな労働組合などを含めて、署名運動をやった。これが160万以上集まったですね。で、その声をバックにして私が羽田(孜)総理の所に行ったり、外務省に行ったり・・・。要するに文化庁は反対だったんです。そういう例外をつくるわけにいかんと。 

国会議員が超党派で動いた

 哲野 文化庁は要するに文化財保護法の運用の立場から反対・・・。
 平岡 そうそう。だけどまぁ国会で問題になったわけです。それでそれだけの署名があると、国会議員が動いたわけですよね。もちろん、広島県出身の国会議員も含めて、超党派で動いてくれた。

そして国会決議したんですよ。世界遺産にしようじゃないかと。文化財にしようと。そういう動きが出たもんだから、政治的圧力に屈したわけですね。で、あれを認めようと言うことになった。文化庁としては非常に不愉快だったようだね。要するに上からのね、政治的圧力によって自分たちの法律の適用・運用が曲げられた・・・。

ま、しょうがないですよ。国会決議であって、総理から指示がばーんと行ったわけですから。私の目の前でやるんですよね、羽田さんが。総理執務室へ行ったんかな。とにかくこういう問題だから、是非あの文化庁を動かしてくれ、と言ったら、すぐ電話を取ってね。文化庁の役人に文化財に指定しろ、とやったんよね。ま、格好つけたんかもわからん。僕の前で。だけど普通はね、それは「承っておく」って、そんな目の前でやることないんですよ。総理大臣がね。それをやっちゃった。(笑う)
 哲野 原爆ドームを、世界遺産あるいは文化財として登録するという発想自体が、当時としては奇抜な発想だったんじゃないですか?
 平岡 うーん、それは、さっき言った公明党の議員さんが一生懸命、最初火を付けたと思うんですね。それに我々も乗ったというか、そうことなら是非やろうと。で、市議会で決議したんですかね。それで私も動きやすいわけですよ、市議会の決議があるから。
 哲野 それは思想的にはどういう思想だったんでしょうか。
 平岡 さぁ・・・・さぁ・・(笑う)金儲け。いや観光資源にもなるだろうし。しかし建前はですね。たくさんの人に見てもらって原爆の悲劇を2度と繰り返さないようにと。そのためにはこれを残して、皆さんに見せることが大事であると、いうことだろうと思うんですね。で、その戦争遺跡というのを強調するとね、世界遺産委員会の中で非常に揉めるという・・なんかあったんでしょうね、確かに。従ってあそこでは名称が違うでしょ?平和モニュメントかなにかになってる?

屈折した登録理由

 哲野 そうです、そうです。英語ではですね、ユネスコの登録理由は、英語はですね、この不気味な建物を、不気味っていうのは原爆ドームなんですが、不気味な建物を、人類がかつて創造した最大の破壊力の象徴である、この気味の悪い荒涼とした風景を平和の象徴として守っていこうとする広島市民の意志と希望が世界遺産、という意味合いですね。非常に英語も・・・。
平岡 ややこしいですね。ストレートじゃないんですよ。だから平和モニュメントみたいな、正式な登録名がですね、原爆ドームじゃないんですよ。
 哲野 「Hiroshima Peace Memorial」。で、カッコして原爆ドーム、と書いてありましたね。だからあくまで・・・。
平岡 世界文化遺産のなかで、負の遺産っていうのは、三つあって、一つはゴレ島の奴隷売買の遺跡と、アウシュビッツと、それから原爆ドームと。

ですが、原爆ドームは極めて政治的なややこしい話ですよね、どっちにしても。アメリカが絡んでくるから。アウシュビッツはいいんですよ、あれはナチがやったと言ってそれでカタが付くんだけれども。
 哲野 「アウシュビッツ」は、もう政治的な議論にはならないですね。
 平岡 ないですね。原爆ドームはもう、アメリカに対する配慮っていうのは非常にあるんですね。ユネスコっていうのは元々金がないもんですからね、アメリカはそんなに金出してないんです、ユネスコには、日本が一番金を出している。アメリカにもっと金を出してもらいたい。その辺があるんでね。色々そういうユネスコ自体のややこしい政治的配慮というか、そういうのがあるんじゃないかと、これはまぁ想像ですよ。
 哲野  だから正直言って、今、考えてみて、原爆ドームを世界遺産にしようというまず、これは広島市民の運動というか、強い意志がないと広島市議会、広島市を動かせない。広島市を動かせなきゃ日本政府も動かせないということになっているわけですから、その、広島で市民の意志というのが、思想的にはどういうもんだったのかなということを、今日、確認しておきたいな、と思って。
 平岡 ウーン。私はね、主体は「連合広島」だったと思うんです。労働組合のね。やっぱりあれだけの署名を集めるっていうのはね、そりゃ普通のところじゃ出来ないですよ。やっぱり連合が中心になって署名を・・。で、その署名は160万以上になります、ということは、政治的な圧力になるんですよ。これは。
  だから、政府、政治家も動かざるを得ない。政治家が動けば、国会が動く。国会が決議をしたりなんかすると、役人も動かざるを得ない、そういう状況だったですね。

で、なんでそれを言い出したのかというと、最初は、広島でもご承知の通り、原爆ドームを取り壊そうという議論があってね。結局、濱井さんが、先頭に立って残すということになった。彼は最初、壊す方だったんですよ。それを市民が残せ、残せという声が強かったもんで、結局残すことになった。

そうすると残すにあたっては何か理屈が居るんですよ。何故残すかっていう理由がいる。残すといたってお金がかかる話で、しかも、修復もしなきゃいけないし、維持費もかかるんですよ。ですから、大義名分が要る、というような、そこが一つあったんじゃないかなと思いますけどね。 

「残す」という広島市民の意志

哲野 だから、広島市民の中には、やっぱり残すべきだという意見・意志があったわけですね。
 平岡 あったですね。ええ。
 哲野 その意見・意志なしに、例えば「世界遺産になったら観光資源になるよ」というだけのことではない?
 平岡 ない。それはないですよ。それは、残ってきたんだから。今まで。何度も取り壊そうと言う話がありながら、ずっと残ってきたっていうのはやっぱり広島市民の意志があった。
 哲野 そうすると、広島市民は、なぜ残そうとしたのかっていう話になりますよね。
 平岡  うーん。まぁ・・・わからんですよね・・。あれを見るたびに気分が悪いという人がいたりね。やっぱりあれを教訓・教材にしたいという思いも確かにあった・・・。だからああいうものを通じて自分たちの思いを伝えようとしたんですかね。

あれがなくなったら、いくら口で言ったって、全く平和な街の中で、原爆の痕跡のない街の中で、それを訴えても迫力がない。
 哲野 長崎がそうですもんね。
 平岡 何か、やっぱりこういうモノが残ってると「いけん」のじゃないかという話もある。色々難しい問題ですね。他に被爆建物たくさんあるわけでしょ。それを残せ、残せという運動もありますけどね。例えばあそこのレストハウス。

  広島平和公園レストハウス。以下は日本語Wikipediaからのほぼ丸写し。
『広島市の平和記念公園内にある観光案内所兼休憩所。被爆時は「燃料会館」。元安橋を挟んだ対岸の爆心地から西南に約170mの至近距離に位置していた。被爆によって屋根が下がり、梁や床が破損して内部は全焼したが、頑丈な作りであったためか全壊は免れた。被爆から50年目の節目を控え、市は改めて市内の被爆建物を調べ直した。結果、1994年に「老朽化が進行し現状保存ではレストハウスとして使用できない」とする調査結果が出たことから、1995年に丹下健三監修のもと地上部分を取り壊しレストハウスを新築、地下室のみを保存するという構想を打ち出した。これに市民団体が反発し、現状保存に向け署名を集め要望書を提出したが、平岡敬市長は方針を変えなかった。さらにユネスコや文化庁も改修反対に回った。これら抗議活動を重く見た平岡市長は計画を1999年まで延期すると発表した。平岡が市長を退任、その後市は財政難を理由に再延期を発表した。以降数年市民が抗議活動を行った結果、現在事業自体凍結された状況である。』 

 平岡 あれが残ったということは、原爆の威力は大したことがないという具合に見られるんじゃないか・・・。あの上で爆発したのに、残っている建物があるじゃないかと見られて、原爆の威力を過小評価する人が出てくるんじゃないかと言う人がいたりして。広島でもレストハウスの扱い、私の時にもあって、あそこへ全く・・地下には大事なモノがありますからね、地下は残そう、上へ新しい建物を建てようかと言ったら、さっきの文部省(文化庁)にやられましてね。
 哲野 どういうふうにやられたんです?
平岡 ウン?あれだけ「原爆ドーム世界遺産」の時に広島は残せと言ったのに、「レストハウス」をなんでいじるんかって。(笑う)
 哲野 覚えとんだなぁ、しっかり。(笑う)
平岡 覚えとる。(笑う)仇を取られましたよ。(笑う)
 哲野 当時被爆建物って言えば本川小学校だってあったし・・・。
平岡 ええ。袋町小学校、それから日赤病院ね。 

   以下は「米国戦略爆撃調査団報告―ヒロシマとナガサキへの原爆の効果―」からの引用。
   『鉄筋コンクリート建ての建物にしても設計上の非均質性、質の悪い材料を使ったことを示している。ある種の建物の細部(たとえばモルタル作りなど)は、しばしはお粗末で、コンクリート部分は間違いなく脆弱である。このような理由で爆心(ground zero)から2000フィート(約600m)以内の鉄筋コンクリート建ての建物でも崩壊するか、大きく損壊したのである。3800フィート(約1140m)以内の建物でも中には、内部壁が完全に破壊されたものも出ていたのである。』『しかしながらある種の建造物は、アメリカの地震用標準建築基準に照らしてみても、遙かに頑丈に出来ていた。さらに日本では1923年の地震(*関東大震災のこと)以来、耐震建築基準が強化され、屋上は1平方フィートあたり70ポンド(約33.6Kg)以上の耐荷重が必要とされていた。アメリカの基準では同様な建物の屋上耐荷重は40ポンド(19.2Kg)以上ではなかったのである。この基準が常に遵守されたわけではないが、広島の爆心点にあった建物のうちいくつかは、飛び抜けて頑丈に作られていた。建築上の欠陥もなく原爆の衝撃に対しても耐えうる能力を疑いようもなく持っていたと言うことである。』(「数奇な運命をたどる原爆ドーム」の項などを参照の事
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/
U.%20S._Strategic_Bombing_Survey/01.htm
>)

 平岡 やっぱり、私はあの、活用していくっていうね、被爆した建物を。今の「アンデルセン」(広島市内中心部のベーカリー・ハウス)がそうですね。あれは元の帝国銀行。それをこう、改装してね。福屋(市内デパートの老舗)もそうですね。
 哲野 あ、福屋もそうですか。
 平岡 福屋も残ったのをそのまま改装して。使ってますね。
残ったのは中国新聞、福屋、それからこっちへ来て芸備銀行だとか、この大手町の通りね。

あの建物が「ヒロシマ」

哲野 だからこうやってみても、何故原爆ドームを残そうとする広島市民の気持ちが、それほどまでに強かったのか、という疑問が残るわけですよ。
 平岡 ウーン、だけどねえ。私は労働組合運動が、それをテコに組織の、なんというかな、てこ入れを計ったとか、そういう側面もあったと。
哲野 あった。あったけれども、基本的に広島市民が残したいと思わなければテコにも使いようがなかった。
平岡 ウーン・・・・。やっぱり他になかった。あれがなくなったら、つまり原爆を証明するというか、原爆投下を証明するものがなくなるという危機感があったんじゃないですかね、今思うと。あれが無くなってキレイな野原になったら。で、それは原爆だけじゃなくて、過去の歴史に対する愛着みたいなものがね。市民球場がそうでしょ。今。残せ、残せというのが出てきたり。やっぱり歴史の中でそこで自分が関わってきたから。原爆ドームを、自分は体験してないけれども或いは自分が生まれたときからずっとあって、これは自分の風景でしょ。若い広島市民にとってはね。戦後生まれの人にとっても、あの風景の中で自分は育って来ていると。それがやっぱり壊れるというのは嫌なんじゃないですかね。なんか人間っていうのはそういう風景の中で生きていきたいという人がいるんですよ。

 
  小樽でね、あそこに小樽の運河がありますね。残ってるんです。あれを潰そうっていう計画があったんですよ。その時におばあちゃんがね、あれは峯山富美さんというおばあちゃんがね、反対運動をやりましてね。私、会いに行ったんですよ。6〜7年前に。おばあちゃんにね。なんで残したのかと。で、今、運河が残って煉瓦の倉庫があるもんだから、観光客がいっぱい来るわけですね。900万人くらい来るんですよ。商工会議所の連中は喜んでおるわけです。観光客がいっぱい来るから。その前は商工会議所の連中は、あそこは邪魔になるから道路作れといって、そういう計画があったんです。それを反対運動で運河を残した。で、峯山さんになんであんた、ああいうことやったんですかと言ったら、いや、私は生まれた時からこういう風景見て育ったんだ、その風景の中で死にたいと。ただそれだけだったんですよ。観光客を呼ぼうとやったわけじゃないよ、と言ってましてね。

なるほどなぁと思ってね。人間ていうのはそういう自分の風景の中で死にたい・・・あるいは、生きたい、かね?それを思い出として持っておきたいんだなと思った。

ですから原爆ドームというのは、私は前の古い建物も知ってますし、廃墟も知ってるんだけど、それを知らない人にとってはあの建物が、「ヒロシマ」、ということじゃなかったですかね。



 哲野 まぁ、今言われてみても、僕はもちろん戦後生まれだから奨励館時代見たことない。僕が生まれた時はもう・・・。
 平岡 そうでしょ?
 哲野 もっと・・・。
 平岡 あれが広島。
 哲野 もっと整備されてない・・・ぐちゃぐちゃの原爆ドームでしたけれども。やっぱり僕の頭の中では、原爆ドームが広島に原爆が投下されたということの物的なエビデンス、そういう印象は非常に強いですね。
 平岡 それとやっぱり、「広島といったら原爆ドーム」っていうのを刷り込まれて、だからそれがなくなるっていうのはやっぱり耐えられないっていう人がたくさんいたんじゃないですかね。被爆者じゃなくても。
哲野 それは逆に、早い時代から広島市民に、残そうという意識が芽生えてたってことも言えるんですかね。
 平岡 初期の段階では、さっき言いましたように被爆者の人たちのなかにはね、あれを見るとあの当時を思い出すから撤去しろという意見があったんですよ。で、一方で戦争の記憶として残そうという意見があって、これをずーっとやってきたの、濱井さんの時代まで。

で、荒木さんの時代になってから残そうということが決まりまして、それからずっと残して来たんですね、市も予算を付けて。
哲野 残そうと元々言った時に、これは将来の観光資源になるからみたいな計算はなかったわけでしょ。
平岡 いやぁ、それはなかったと思いますね。だけど・・・、わからんねえ。やっぱりこれを売り物にしなきゃと言って例の原爆第一号の吉川さんみたいに「これを見ろ」とやった人がいるんだけど。それは・・あそこまではね、やっぱり計算してないと思いますね。

広島市民の意志が「世界遺産」

 哲野 ユネスコの理由説明、「原爆ドームがなぜ世界遺産」として残されたのかという僅か10行ぐらいの文章は、結構いいとこ突いてるわけですね?結局。
 平岡 突いてる。
 哲野 「広島市民を含む多くの人たちの努力で1945年8月6日のほぼそのままの姿で保存され 、人類がかつて創造した最大の破壊力の象徴であり、また気味の悪い荒涼とした風景」、これは英 語で言うとa starkという言葉が使われているんですが、「であるだけでなく、世界平和と全ての核兵器の究極的廃絶の希望をも象徴している。」ちょっと、二重三重の複雑な構造にはなっておるけれども。だからそういう気持ちはやっぱりあったんだという、広島市民の間にあったんだという・・・。
 平岡 それは間違いないですね。
 哲野 素直に認めないといかん、まぁちょっとここら辺で欲と二人連れみたいなところがあったかもしらんけども。
 平岡 そこまでは考えてる人は無かったんじゃないです?ただ、あれがなかったら、じゃあ広島に原爆見にいっても資料館を見るしかないということになる。やっぱり原爆ドームがあるということは・・・。
 哲野 物的証拠ですね。
 平岡 これは当初から、丹下さんが設計したときからそう。平和公園を。あれが丁度慰霊碑の向こうへきちっと納まるようになってるんです、設計上。
 哲野 直野(章子。九州大学准教授)さんの講演を聴いてると、ここに原爆慰霊碑があって・・・。
 平岡 その延長線上にですね、そうそう。そりゃもう最初からの設計思想なんですよ。だから原爆ドームがなくなったら、これが原爆慰霊碑なり平和公園の意味が無くなるんですよね。
 哲野 で、直野さんの説明によると、「原爆ドーム」が本殿であり、「原爆慰霊碑」が外殿であるという・・・考え方なんだそうですね。
 平岡 うん。そうかもわからんね。
哲野 で、大東亜共栄圏慰霊碑の構想がベースにあったという説明をされてましたけどね。
平岡 なるほどね。
哲野 ただ、当初から考えられてたんでしょうね。
平岡 だから丹下さんの思想ですよね。最初から。丹下さんの思想、面白いですよ。あれは。なんであそこは高床式なんですか・・・聞いたんです、丹下さんに。原爆資料館はピロティ方式でしょ。丹下さんに、なんで、と聞いたら、いや、平和公園というのは、あそこで平和について市民が議論するところだ、そうすると、あの当時ですから、まだ何もなかったですから、あれがあったら日陰が出来ると。で、日陰で市民の皆さんが色々な平和について考え語り合う、その場なんだと、だから高床にしたんだとこう言う説明だったですよ。


 (以下次回)