2010.10.9
第9回 広島市長時代―「アジア大会」とアジアとの和解
 1991年平岡は広島市長に初当選する。「結局、アジア大会のために市長に立候補したようなものだ。」と平岡は言う。「アジア大会」は、1990年代、「失われた10年」に突入した日本経済全体の中で、広島財界の「広島首都圏基盤整備」の要求が背景にあって開催されたものだといっても過言ではないだろう。しかし「アジア大会」開催に当たって、平岡には別な狙いもあった。「アジアとの和解」の契機にしようとした、ということができよう・・・。

「アジアへの加害責任」

哲野 市長時代のことで、お尋ねします。1995年から96年がICJでの証言、「勧告的意見」ですね。原爆ドームの世界遺産化も同じく96年。で、その1年前、1995年(平成7年)。この時に、平和宣言の中で、ご本人を前にして読むのもおかしいが、『第二次世界大戦終結五十年を迎えるにあたって、共通の歴史認識を持つために、被害と加害の両面から戦争を直視しなければならない。すべての戦争犠牲者への思いを心に深く刻みつつ、私たちは、かつて日本が植民地支配や戦争によって、多くの人々に耐えがたい苦痛を与えたことについて謝りたい。』えっと、これはおそらくは非常に画期的な・・・。
平岡 いやいや、私は、これは91年からこれは言っておるんですよ。
哲野 91年?
平岡 最初市長になったときにこれ言っておるんですよ。
 哲野 ええっ?91年から?

   1991年平和宣言。『日本はかつての植民地支配や戦争で、アジア・太平洋地域の人びとに、大きな苦しみと悲しみを与えた。私たちは、そのことを申し訳なく思う。ことしは、太平洋戦争が始まって50年に当たる。私たちは、真珠湾攻撃から広島・長崎への原爆投下に至る、この戦争の惨禍を記憶し続けながら、世界の平和をあらためて考えたい。』

『平和とは単に戦争のない状態を言うのではない。私たちは、飢餓、貧困、暴力、人権抑圧、難民生活、地球環境破壊など、平和を脅かすあらゆる要因を取り除き、人間が安らかで豊かな生活のできる、平和の実現に努力したい。』
(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/hiroshima_nagasaki/
1991_0806_hiraoka.htm
>)

 平岡 これが91年です。これが最初市長になった時の。なんでこれを入れたか言うたら、94年にアジア大会をやる。アジア大会を実行するために、僕は市長にならされたようなもんなんですよ。
 哲野 ハァー? 

アジア大会失敗の懸念

 平岡 あの、打ち明けて言えば。あの80年代の終わりでバブルがはじけましたね。もうアジア大会の計画はずっと前からあったんですよ。で、これは失敗するかもわからんという不安が出てきたんですよ、私が市長になる前・・・。

というのは、その準備段階で・・・その事務局がめちゃくちゃでしてね。新聞社からも放送局からも事務局に人を出してるんですよ。その報告を聞くじゃないですか。すると、こりゃ出来んよ、という話になって。

それと最初に、どうしても寄付金に依存しますね。その寄付が集まらない。というのはさっき言ったバブルが弾けて、昔、10出そうと言った企業が半分にしてくれとか、もう出せない、とかいうのが続々と出てきましてね、これじゃあひょっとしたら失敗するかもわからんと。そうすると広島市の都市イメージの低下、それから地盤沈下が進むだろう、これは何とかしなきゃいけない。そういう言う話が、ずっと89年、90年くらいから出てきたんですよ。特に90年になってからですね。それで誰を市長にするかという話になって、それで私にやれということになった。

  それまで私が「街作り」だのなんだのって色々やってたものですから、ちょっと逃げられなくなって。新聞・放送での広告収入っていうのが、広島では、凄く落ち込んでたんです、電通・博報堂の広告がね。で、これじゃいかんじゃないか、これでアジア大会を失敗したらこれはもう大変だと。市場から見放されるぞと、いうような思いもあって・・・。
 哲野 当時、広島地元の大手企業の計算としては、アジア大会でもって、広島の色んな意味でのインフラを整備させて都市基盤を整備して・・・。
 平岡 そうそう。整備させて。最初の目的はそうなんです。最初からなぜアジア大会かって言ったときにね、やっぱり理念がないんですよ、私が思うに。要するに都市基盤整備だと。まあこれは当たり前ですよね。どこでもね。広島の整備をやると。で、オリンピックなら凄かったんだけど、アジア大会だと国が出さないです、金を。

それだからまぁ、広島市が単独でやる。それには行政ももちろん金を出すけれども、民間の協力が要る。そういうことでずっとやってきた。その民間の協力が、経済不況に伴って得られなくなってくる恐れがあった。
 哲野 この時点で恐れじゃなくて、もうすでに現実だったでしょうね。

地元財界の後押し

平岡 91年の広島市長選挙に、その時に自民党は杉本というお医者さんを立てる、経済界は橋口さんという方が。
 哲野 橋口収?
平岡 うん。彼が広島商工会議所会頭だった。私は副会頭だったんです。
 哲野 へえー。
 平岡 で、橋口さんが、お前やれ、と。お前やるんだったら金を集めるぞと。という話。それは内々の話ですけどね。
哲野 橋口さんから話があったんですか?
平岡 うん、そう。橋口さんからもだけど、その前に話があったのはね、一番、最初はね社会党ですよ。で、それは、僕は断ってる。そのうちにマツダのね、藤井(明。元マツダ副社長)さんと言って、僕の一年、高校の先輩なんだけど彼が言い出した、僕を引っ張り出してどうかって。

で、僕は嫌だ嫌だと言っているのが橋口さんを口説き、もちろん中国新聞の山本(朗。あきら。当時中国新聞社長)さん、親分を口説いて、それから今度はその時の連合の会長が、マツダの森川(武志。日本労働組合総連合会広島県連合会会長)という人だった。藤井さんはマツダの会社側ですから。組合と一緒になって応援すると。で、中電、広銀、マツダと・・・。
哲野 御三家が揃った。
平岡 御三家が揃っとったけど、それぞれ監督官庁に気を遣ってましたね。私は自民党の敵なんですよ。
哲野 なんで自民党が敵なんですか?
平岡 それは荒木(武。当時広島市長。三菱重工がバック)さんが杉本を後継者として押したからですよ。で、そういう非常にややこしい、捻れた選挙でしてね。で、私はもちろん市民党という形で出たんですけどね。だから自民党割れたんですよ。私を支援するのと、そうでないのと。
哲野 なるほど。
平岡 でまぁ、経済界は私を応援してくれた。ということで今度アジア大会をやるというのが大きな第1期目の仕事になったわけですよね。だから最初に、平和宣言でアジアへの謝罪の問題を書いた。

アジアへの謝罪

哲野 そうすると、「アジアへの謝罪」は、あんまり思想的なところから出てきたわけではない?
 平岡 思想?
哲野 いや、要するにアジアの人たちに配慮しなきゃいけない、というところから出てきたものなんですか?これは。
平岡 だから、アジア大会を広島が開くのに、これまでアジアに対して何にも発言してないんです、広島が。だから私はアジア大会を開くんだったら、これを最初に謝っておかないといけない。
 哲野 アジアへの謝罪は、一番良いタイミングだったわけですね。
 平岡 うーん、もっと早くても良かったと思っている。長崎はもっと早かったかな?こういうことを考えるのが、私だったんですね、これは、他の市長だったらこれは書かなかったかもわかりません。それは、私がたまたま、朝鮮人の話から始まってきた私の思想に由来している。「平和宣言」の表現は、柔らかい表現です。

というのは、さっき言いましたように、私を支持してくれた勢力のなかには自民党もいるし、市議会を頭に浮かべながらね。あの時、そんなにキツイ表現ではなかった。

・・・これだけでもしかし、凄かったですよ。右翼が全国から押しかけてきたんですからね、あの時。何事か、アジアに謝るとは、英霊に申し訳ない、平岡出てこい!(笑う)ウチに来たんです、ズラリと街宣車が取り囲んで。
 哲野 これが91年ですよね。
 平岡 91年です。
 哲野 私、たまたま92年の・・・。
 平岡 92年も書いてます。アジア大会までずーっとやったんです。93年もやってます。で、94年にアジア大会をやった。

過去の戦争や植民地支配で、わが国はアジア・太平洋地域の人々に大きな苦しみと深い悲しみを与えた。私たちは、その痛みを自らの痛みとすることによって、未来へ向けて相互の絆をより強めなければならない。道義こそ信頼の源となるからである。』
(92年平岡平和宣言。<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/
hiroshima_nagasaki/1992_0806_hiraoka.htm>)

広島でのアジア競技大会開催を来年秋に控え、私たちはアジアの人々の日本に対する思いに深い関心を抱いている。日本がかつての植民地支配や戦争でアジア・太平洋地域の人々に苦難を与え、その心に今も深い傷を残していることを私たちは知っており、率直に反省する。特に、隣国の朝鮮半島に住む多くの原爆被爆者がたどった戦後の足跡を思うとき、私たちの心は痛む。これらアジア・太平洋地域の人々との末永い友好を築くためには、いまだに清算されていない、いわゆる戦後処理問題に速やかな決着をつける日本政府の決断が不可欠である。』
(93年平岡平和宣言<http://www.inaco.co.jp/isaac/
shiryo/hiroshima_nagasaki/1993_0806_hiraoka.htm
>)
 
 
 私は思い違いをしていた。アジア大会を開くので、当たりを和らげるために「アジアに謝罪した」のではなくて、「アジアに謝罪しなければ被爆都市広島でアジア大会」は開けない、というのが平岡の考え方だった。少なくとも私はそう納得させられた。

1995年8月6日、韓国KBSは初めて広島にTVクルーを送った。ユ・スンジェ特派員は次のように報じた。


  日本の広島では、今日原爆投下50周年にあたり、大々的に原爆犠牲者のための慰霊祭が行われました。しかし、村山首相をはじめ政府要人がこぞって出席した今日の式典には、相変わらず過去の反省はおろか、歴史美化と自分たちの原爆被害のみに焦点を合わせた格好になりました。

今日行われました日本人たちの式典内容は大きく二つに要約されます。
     
第一に、原爆投下が非人間的な大量虐殺であったと強調し、第二は日本が唯一の被爆国家として何よりも平和を渇望していると言うことです。平和の鐘が鳴り響き、鳩が解き放たれ、子どもまでが平和を誓い合いますが、自責と反省の姿は一向に見られませんでした。
 
今日の式典を見る限り、明らかに歴史の加害者であったはずの日本が、あたかも被害者であったかのように、見受けられます。
 
原爆記念館を見て回っても、当時の日本軍部が最後まで抗戦を主張したと言う事実には一言も触れず、日本が被った惨い(ママ)被害のみが強調されています。歴史の真実に背いたまま日本は戦後半世紀という歳月を送り、今また新しい半世紀を迎えようとしています。ただ今ご覧になりました広島追悼式典で確かめられたと思いますが、過去の歴史に対する反省をしない日本人の歴史認識によって敗戦50年が過ぎても真の戦後処理を通じた過去清算を未だに終わっていません。各国の被害者たちが日本政府を相手に補償請求を起こしていますが、日本政府は反省の兆しすら見せようとしていません』
(<http://www.inaco.co.jp/isaac/back/010/010.htm>) 

平岡 で、これだけは、やっぱり言っておかないと。

アジアの人たちはね、原爆が広島に落とされて良かったと思ってるんです。これは私の体験から、韓国で随分言われましたから。そうじゃないんだと。広島は反省してるし、平和は大事ですよということを、なんとかして表現しようと思いまして。

「平和宣言」がどれだけ読まれているかわかりませんけどね。だけどこれはやっぱりやっておかないと、広島でアジア大会を開く意味がない。単なるスポーツ大会、都市基盤整備じゃなくて、広島にとってはこういう、何か思想的な位置づけをしておかないといかんなというのが・・・。
 

アジアとの和解の次が・・・

 哲野 だから或る意味、アジアに対する・・いわゆる侵略国の積出港であった、そのまた侵略国の象徴というか「侵略」の積出港であった広島の市長として、そのアジア諸国に謝罪をするというのは、或る意味平岡さんにとっては、ずっーっと前から。
 平岡 そうそう、ずーっと前から。
 哲野 これをきちっと謝罪しておかないと、アジア大会ひとつ開けない。
 平岡 そうそう、開けない(笑う)やっぱり。そりゃあアジアからたくさんの人が来てね、どうせ原爆ドーム見るんですから。当然の報いよと言われたらね、たまったもんじゃないから。やっぱり広島の考え方っていうのはこうなんだということを出しておく必要があった。だからしつこくやった。毎年。
 哲野 アジア大会のために書いたとおっしゃったけども、実際、思いとすれば、これをしっかりやっておかないとアジア大会ひとつ開けない。
 平岡 開けないですね。開いても意味がないですね。
 哲野 例えばアジアの諸国集めて広島で会議やろうと言っても、これもやれない。
 平岡 やれないですね。なんだと言われたときにですね。返す言葉がない。だからやっぱりアジアに対しての認識というものを・・・。いままでやってないです、広島は。アジアに対して。

欧米にはやってますよ。平和巡礼が行ったりね。色んな訴えてやってるんですよ。だけどアジアへはね、やっぱりそれは行けなかったでしょ。例えば被爆者団体が中国に行く、韓国に行って訴えると言ったって、それはそういう時代じゃなかったですね。
 哲野 ちょうどこの頃だったと思いますけど、僕はウィキペディアの記事で読んだんだけども、広島市が当時世界各地に平和使節を派遣して、南京の博物館だったと思いますけれども、一緒にやりましょうと言ったら、いや今の日本だと、広島と一緒にやれないと言ってはっきり断られたっていう記事が出てましたけれども。それは90年代の・・・シンガポールにしてもインドネシアにしてもベトナムにしても中国にしても朝鮮にしてもそうでしょうね。
 平岡 ええ。フィリピンもそうでしょ。
 哲野 フィリピンもそうですね。
 平岡 だから、私の中ではこれは一貫してるんですが、他の人が見たら、なんでこんなところに(平和宣言に)出てくるんだ。それはアジア大会開くのにというのがあるんですよ、もちろん。アジア大会があろうがなかろうが、これは、やっぱりヒロシマにとっては大事なことだなと思ったんです。

だからこそ今度は言えるんですよ、アメリカに対して。我々はアジアに謝ったんだ、アジアと和解したんだ。だから今度はアメリカと和解をしたい。だけど、謝罪なしに、和解が出来るかってね。
 
  私はずーっと根底にあるんですね。だから最初に、秋葉さんが和解と寛容って言ったのかな、平和宣言で。もう非常に僕は不愉快だったですね。誰の許しを得て、謝罪なしの和解をするのか。

僕は死者というのが念頭にあるんですがね。死んでいった人たち。だから、生き残った人間が、死者の気持ちも全く無視して勝手なことやったらいかん、という思いがある。広島オリンピックもそうですよ。生き残った人間が何を勝手なことやってるんだと。 

秋葉の「和解」と平岡の「和解」

哲野 ・・・秋葉さんは・・。
平岡 僕は本当にあの人は死んだ人のことを考えてないなと思う。
網野 利用してるだけです。
平岡 利用してるだけでしょ。広島を弄んでおるというね。
網野 引きずり降ろしたかったです。去年(09年)広島平和記念式典の時。
 哲野 「オバマジョリティ」の時? 
平岡 あれは、ホントに、去年は酷かったね。
網野 酷かったです。引きずり降ろしたかった。ほんっと。私目の前で見ました。恥ずかしい以上に、私のおばあちゃんを利用するなとほんまに思いましたよ。
(網野の祖母の名前も被爆者死没者名簿に加えられて慰霊碑に納められている。)
平岡 だから生き残った人間ていうのはね、やっぱり、死者を食い物にしたっていうのはおかしいけど、他人の犠牲の上で生き残ってるんですよね。
網野 うん。だからそれを考慮しながら生きなきゃいけないと思うんですよね、同じ事を起こしたりしないように。
平岡 それはだから反省っていうのが全然ない・・生者の論理でやっていくとやっぱり間違うなと。
網野 生者というより勝者の論理ですよね。あの人の場合。
平岡 ウン。そう。自分さえよけりゃいいというね。
哲野 今年のNPTの再検討会議でNGOセッションが5月7日あって、その時に秋葉さんのスピーチがあった中で、「被爆者の言葉に、“私たちが経験した苦しみは他の誰も味わってはならない”。どうか、“誰も”という表現は文字通り、私たちが敵だと見なしている人々も含んで“すべての人が”という意味なんだ、ということを特筆しておいてください。それが和解の精神であり、報復を為さない精神であります。」と言ったですね。

つまり、秋葉さんにおいては和解とは、報復をしない、全て水に流しましょう、どうもこれ以上の意味はないみたいですね。(笑う)
平岡 それは「あんた」はいいよ。しかしね、水に流せんひとがいるじゃないか。特に死んだ人はね。どうしてくれるってね。アメリカがあれは間違っていたと言えばね、死んだ人が眠れるかもわからない。安らかに。

「原爆投下」は正しかったといったらね、何のために死んだか。何のために殺されたかっていうのが問題になるわけよね。
網野 秋葉個人がそう思っているのはいいけど、市長の立場で言っちゃいけない。
平岡 だから市民を代表してるわけだからね。広島市民がみんなそう思っていると思うじゃない。
哲野 英語では秋葉もreconciliationという言葉を使ってるんです。マイク・ホンダが2007年に「旧日本軍性奴隷制度非難決議案」を提案したときの彼の言葉ですけども、ホンダも和解と言う言葉を使っているが、ホンダの、「和解」の定義は曖昧さのない形で事実関係を確認する、そういう事実があったということを確認する、これが第一。事実関係を認めた上できっぱりと謝罪をする。これが補償を含むんですが、謝罪をした上でそれが二度と起こらないことへの保証をする。二度と起きないような世代への教育、国際社会への勧奨、この4段階が・・・。
平岡 それが出来て初めて和解やと。
哲野 で、これを和解と呼ぶんだとホンダは議会証言でしとるんですけども。いや、マイケル・マコト・ホンダが、この議会証言と、この下院の決議案の中で、彼が執筆した文章から読みとっていくと、水に流しましょ、忘れましょ、という秋葉のね、「和解」の底の浅さといいますか。しかし「和解」がホンダのように、ここまできっちり出来ていると、被爆者は成仏しますよ。
平岡 ふんふん。そう、それが出来たら。
哲野 こうこう、こういう理由で落としたんだ、ご免なさい!もうお金では解決できんが、謝罪金を払う、それからこういう事が二度と起こらないようにアメリカ国内で法制的に全部やると、それから世界に対してもこういう事が起こらないようにずっと教育していくよと。だから勘弁してくれ、これだったら成仏しますよねえ。キリスト教風に言えば、昇天できる・・・。

だけど、「水に流す」の秋葉さんじゃ、成仏出来ないですよ。(笑う)

平岡さんも書いておられたけども。だからここまで行けば・・・しかしそれはアジアの諸国に対しても、同じ事が。
 平岡 同じ事じゃないか。
哲野 和解をしなきゃいけない。
しなきゃいけない。日本としてね。しかし、まだ、やってない。そりゃ談話という形でね、河野談話はあるけれども、ホントにきちっとした形での解決をやってないですよ。事実を、例えば従軍慰安婦でも認めないの、まだ、してない。それが今日まで日本の対アジアに対する姿勢っていうのが出てるわけよね。そりゃやっぱりアジア蔑視と通底してると思う・・・。

「非核武装」の法制化

哲野 96年の平和宣言は、非核武装の法制化を強く求める、といってますね。

国際司法裁判所は、一般論ながら「核兵器使用の違法性」を明言した。核兵器廃絶を求める国際世論は徐々に、しかも着実に広がっている。この潮流のなかで、私たちは、新たな包括的核実験禁止条約の合意によって、これまで二千回以上も続けられてきた核爆発が禁止され、これが核実験の全面禁止へつながることを期待している。反面、核兵器廃絶への道筋が見えない現状では、核大国の核兵器固定化に大きな不安を抱かざるを得ない。』 
私たちは次の段階で、世界の人びとと連帯して核兵器使用禁止国際条約の実現を目指し、国内では非核武装の法制化を強く求める。』
(96年平岡平和宣言。<http://www.inaco.co.jp/isaac/s
hiryo/hiroshima_nagasaki/1996_0806_hiraoka.htm


平岡 やっぱりもう、日本は「核武装」に抵抗してこういうことをしませんと。  
哲野 世界に向かってはっきり口で言うだけでなしに、法的な裏付けを持てと。
平岡 そう。そういう事ですよね。それがない限りは、核兵器使用禁止条約を日本が提案できない。日本がまず、本当言えば・・これ順序が、後前になってますけれども、国内ではまず「非核武装の法制化」をやって、そして世界に向かっては核兵器禁止条約を作ろうじゃないか、という順序ですね、本来は。

そのリーダーシップを取って欲しいと思う。だけどまぁ日米安保の事を言ってないんだから、これ意味ないよなと思って・・・今読めば。(笑う)
哲野 いや、それがですね。
平岡 だけど、これをやろうと思ったら日米安保の問題に入らざるを得ない。
 
  97年平岡平和宣言。 
現在、広島で開催中の第4回世界平和連帯都市市長会議では、「核兵器なき世界」を目指して、核兵器使用禁止条約の締結、非核地帯の拡大を各国政府、国際機関に求める討議を進めている。広島は日本政府に対して「核の傘」に頼らない安全保障体制構築への努力を要求する。』
<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/
hiroshima_nagasaki/1997_0806_hiraoka.htm>


哲野 97年には、はいってますね。今度は。だから96年・97年まとめて、お訊ねを・・要するにこの文脈の流れの中でお訊ねをしていきたいんですが。なぜこの時点でこういうことを入れなければならなかったのか。
平岡 あのね、それはやっぱりICJなんですよ。ICJの1996年に国際司法裁判所の勧告的意見が出ましたね?あの中で、明らかに核兵器は国際法に違反するという兵器だとされた。という具合にこれが一般的な、一つの国際的な常識になった。

とするならば、そうした間違った兵器で守られてる我々日本はどういう国なのか。この矛盾に、まぁ当然、我々は気が付かなきゃいけないですね。だからこの「核の傘」のことを97年に言ってるわけです。96年のICJの勧告を受けて、「核の傘」という大きな矛盾。
 
  私の頭の中では、もう、そういう具合に国際的に決められてしまった一般的な常識、すなわち「違法な核兵器」に対する判断、それを踏まえるならば、やっぱりもう「核の傘」から出なければいけないんじゃないか。

そんなモノに守られてるなんて自己矛盾もいいとこだから。それをヒロシマは日本政府に対して「核の傘」を出ようという、求めていくことが大事だ。ただ、これは簡単に出来るもんじゃない、みんなと一緒に考えましょうと、僕は言ってるんです。

  98年平岡平和宣言。 
人類は、今こそ新たな英知と行動を求められている。世界各国は、先年、国際司法裁判所が示した勧告的意見の精神に沿って、核兵器廃絶への一段階として、核兵器使用禁止条約の締結交渉を直ちに開始すべきである。』『私たちは、史上初の被爆体験を持つ日本の政府が、世界の先頭に立って、すべての核保有国に対し、核兵器廃絶への実効ある行動を起こすよう強く要請する。同時に、私たち国民一人ひとりも、核兵器に頼らぬ安全保障の方策を真剣に考えねばならないと思う。』
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/hiroshima_nagasaki/
1998_0806_hiraoka.htm
l>

 平岡 98年。・・・。だから、私の中でも少しずつ、変わるというか、発展はしてきてはいるんですね。核兵器に対して。・・・だから、やっぱり自分たちがどうやって生命や生活が大切でこれを守るかということを考えないといけない。 

だから核兵器に頼らない安全保障の方策をを考えようじゃないかと、言っているわけですね。それは日本政府に一方的に要求するだけでなしに、私たち自身の一人一人の問題だよ、考えよう、ということだったんです。

「自分の矛盾に気づかなかった」

哲野 僕は原則オジサンなんで、こういう風な文書っていうのは必ず原文に当たって読む癖がついてる・・・で、今読み直してみると、結構歴史的な文章やなぁと思いながら。
平岡 うん、いやそう。僕もそうだと思っています。

これは、その時点における「ヒロシマ」の国際情勢に対する見方だとか世界情勢に対する「ヒロシマ」の発言だと、いう風に位置づけたんですよ。

だから、被爆者の訴えとかなんとか言うのあるけれども、これはもう最後にぽっと載せるだけで、そのときにヒロシマは世界に対してどういう事を言うべきか、と思ったから、たぶんこれ、歴史的にずっと追ってるはずなんです。

ですから少しずつ発展してる、マ、発展かはどうかはわからんけど、自分の考え方は着実に変化している・・・。
哲野 積み上げられている感じはしますね。
平岡 ええ、考え方がね。例えば「核の傘離脱」なんか、最初に言っておきゃいいんですよね。今、考えれば。だけどその時には、自分の矛盾に気が付いてないです。
 哲野 その時に。
 平岡 その時には。やっぱりインドに行って、やられたりね。(苦笑い)
 哲野 「お前ら、アメリカの核の傘に入っとんのにナニいうとんねん。偉そうに。」と。(笑う)
 平岡 そうそう。(笑う)そういう体験が積み重なると、そりゃ、そうだな、ってことになるんです。

我々は、絶えず「核兵器反対」を訴えてきた。特にインド・パキスタンに対してはわざわざ行って実験止めろと言ったわけですからね。そりゃこたえたですよ、これは。他はないですね。そういった反論をされたことは。
 哲野 ただ、色んな人と話をしてる間に、日本人以外の人と話をしている間に、気づかざるを得ない、ですね。
 平岡 気づかざるを得ない。特に国際司法裁判所の判断が出たわけですから、こういう残虐な兵器なんだという。それを真剣に我々考えないといけない、受け止めなきゃいけないと思った。一生懸命、陳述しておるんだけれども、それを真剣に受け止めるということは、やっぱり核兵器をなくするというしかないじゃないか、少なくとも核兵器に頼らない安全保障を考えないといけないと思った。これは、しかも日本政府に対して言うべき事なんです。これをインドで言われたのですからね。日本に帰って政府に言えと。(笑う)「核の傘」の中にいて、よそへ来てね、広島市長が偉そうに言うなと。  
哲野 お前、核兵器持っちゃいけないって、お前、自分が核兵器の中で暮らしてるっちゅうのがわかってないのかっていわれる。(笑う)
平岡 そう。そりゃもうすごく、反論に困ってね。インドは一貫してましたね。前の年からジュネーブで軍縮会議がありましてね、たまたま僕も「軍縮会議で何とか成果を出してくれ」ということを各国代表に要請に行ったら、インドのゴーシェという軍縮大使、女性ですよ。同じ事言うんですよ。その時にやっぱり、コテンパンにやられましたね。理屈は向こうが正しい・・・。
哲野 インドが元々NPTに加盟してないも、理由もそこですからね。
平岡 そうそう。そうなんです。核兵器不拡散条約は不平等条約なんだと。

被爆者の声が核使用を止めた

哲野 とにかく、アメリカなど5カ国だけが持っていいっていうのはおかしい。持っていけないんだったら、みんなが持たんようにせんにゃいかんじゃないかって、インドはインドなりに実は理屈は一貫しとるんですけどね。

だから、その・・平岡さんの思想の中では、「ヒロシマの問題」、「核兵器廃絶の問題」は、実は日本の核政策の問題であるという・・・。
平岡 そうですね。
哲野 これが言葉として言われたのが、この平和宣言。
平岡 それまでね、ヒロシマっていうのはどっちかっていうと、世界に向かって、核兵器廃絶を叫んでたんですね。
哲野 スローガン的に。
平岡 スローガン的に。でまぁ、はっきりいって自己満足だった。で、誰も真剣に聞いてくれてない、と思うんですよ。
哲野 言ってよろしいんですね?
平岡 僕は言っていいと思う。だって核兵器がなくなってないんだから。現に。
哲野 ・・・私もそう思います。
平岡 なくなっていればね、そりゃいいけど。しかしまぁ一定の役割は果たしたと思うんですよ。核兵器は恐ろしいもんだという事を、世界に知らしめた。冷戦時代、被爆者を通じて一定の人たちの心を打っただろうし。それは認めるけれども。
哲野 核兵器が何度も使われるようなチャンスが、何度も、朝鮮戦争の時も、ベトナム戦争の時も、カンボジアの時もあったけれども・・・。
平岡 それを止めたのはやっぱり被爆者の声。
哲野 これは否定できません。
平岡 全てとは言いませんよ。しかし被爆者の声は大きい要素だと思いますね。各国の政府のリーダーは、そこで悩むんですね。核兵器を使うか、どっちにするかっていうことを。その時にやっぱり被爆者の声っていうか、彼等の悲惨さっていうものが・・やっぱり・・・使うことをためらわせた、と私は思う。
哲野 間違いない。
平岡 で、それが結晶したのがやっぱりICJの勧告だろうと思うんです。問題は、世界に訴えると、同時に日本政府に要求していくべきだったんですよ。日本政府が政策を変えなきゃいけない。ところが日本政府に対しての、(被爆者からの核政策を変えろという)要求はなかったですね。

まぁ、あの・・・被爆者援護の医療法を拡充してくれという要求はしたけれども。核廃絶という形での要求はあまり強くなかったような気がしますね。
哲野 強くなかったというか、広島においては、この平和宣言が出るくらいまでは皆無だったんじゃないですか?
平岡 それはやっぱりね、日本の政府が唯一の被爆国ということを言ってるから、ヒロシマの願いはもうその中に包摂されている、という具合に思ってたんじゃないですか?

自分たちの願いを、日本政府はわかってるんだ、だから唯一の被爆国と言って色々やってくれておると。ところが・・・肝心の唯一の被爆国がやるべき事が・・・。
哲野 核兵器で守られているということの自己矛盾は・・・。
平岡 そうそう。なかなかね。気づいてなかったね。学者は気づいているかもしれないけれども、一般の被爆者は気がつかなかったんじゃないですかね?

そこをあんまり明らかにしなかったというか、誤魔化してたのか、自分を。自ら誤魔化すということだったのかもわからん・・・。
哲野 或る意味、触れたくなかったのかもしれませんね。
平岡 触れたくなかった。アメリカの政府には文句を言えてもね、日本政府に文句を言うのはなかなか・・。つまり日常の、これ政治の問題ですからね。選挙がある、誰に投票するの?と。広島は保守の金城湯池だっていう風に言われていますね。保守の地盤でしょう、強固な。

どうしてもおかしいわけよね。で、その保守党っていうのは自民党、憲法改正を言い、「核の傘」を容認しているという政党を支持して、広島はおかしいんじゃないかと思うわけですよ。

「ヒロシマ」は使い分けたんだと思う、やっぱり。日常的な現世利益と、お祈りとしての「核兵器廃絶」と。

「本気」ではないと見抜かれている?

哲野 だから、本気ではないということはもう、見抜かれてた。
平岡 (笑う)
哲野 世界の人に。
平岡 いや、そこまでワシはよう言わん。あんたなら言えるかもしらん。そりゃやっぱり見抜いた人がいるかもわからんけどね。
 哲野 去年(09年)広島に来たデスコト(第63回国連総会議長のミゲル・デスコト・ブロックマン)は、どうも尻叩きに来たみたいですね。その事に気が付いた人は少なかったけども。ヒロシマやナガサキのケツを叩きに来たという風に・・・。
平岡 なるほどね。もっとしっかりしろと。
哲野 で、彼は「ヒロシマ」には権利があるんだと。だから被爆国に来て下さいなんて頼まないで、呼びつけろと。広島に、呼びつけて、もう核兵器を廃絶しますと言いわせろ、と彼は・・・最後にそう言ったんだけど。長崎ではもっと過激なこと言ってましたね。長崎では核抑止という名の「欺瞞の安定」、軍縮という名の「核兵器の近代化」、こういう欺瞞的な状況を脱却しなきゃいかん。そのためには、長崎が、長崎が本当に本気になって取り組んでくれないと困る、みたいな話を実はしているんだけれども、ほとんど新聞取り上げない。意味がわかってない。デスコトが何しに来たかがわかっていない・・

今、ヒロシマに「平和運動」はあるか?

哲野 あのぅ。一つは「ヒロシマ」の現在のあり方に対してどう思って居られるのか、前からお尋ねしたいと思っていたんですが・・・。
平岡 今?今の広島の平和行政?今はねえ・・・とらえどころがないんですよ、僕には。今。広島は。なんちゅうか、運動の主体がはっきりしないんですよね。
哲野 ・・・広島に、今運動があるんでしょうか?
平岡 いや、今ない、ないでしょ。小さなグループは確かにあるんですよ。被爆者・・坪井さん、金子さんがおったり、一方で森滝(春子)さんのああいうグループがあったり・・・。いわゆる広島をトータルに束ねて、大衆運動というか平和運動を引っ張っていくような組織もリーダーも居ないなというような状況ですね・・・。
 哲野 かつてはあったんですかね?広島に。
 平岡 やっぱり、「原水禁運動」が中心にあったでしょ。それと学者が理論的な方向付づけをしていた、と思うんですよ。・・・昔ですよ。今堀誠二さんみたいな人がいて、方向づけをしていた。

   今堀誠二。東洋史家・平和運動家。広島大学教授、のち広島女子大学長。1992年死去。「原水爆時代 上・下」(三一書房)の著作は有名。

  今は、平和行政、広島市の場合、市民をきちっとね。市民の草の根運動的なところをサポートしていく必要がある、そのサポートする部署が、私は平和文化センターだと思っているんですよ。あそこが本当にきちっとやってるんかどうかですね。

「怒り」を忘れている

哲野 あの、ホントにお訊ねしてみたいんですが、戦後、広島がですね、アメリカの望む方向に直接間接に誘導されてきたっていう風にお考えになることはありませんか?
平岡 うーん、それは非常に隠微な形であったかもわからんですね、それは。そんなに我々が見て、わかるような形じゃないと思う。
哲野 いや、全然、証拠がないんですよ。私の疑いには。
平岡 だけど、我々自体も含めてよ、この65年間、完璧に占領体制の中でね、教育されてきたじゃない。ね?まともにモノが考えられなくなっている・・・。それはアメリカの占領政策の成功だ、と私は思っている。まだ、戦前を知っている僕らが、カッカ、カッカ来るくらいでね、やっぱりそのアメリカのやってること、戦後ずっと見てみたら、ろくなことはやってないよ。

その事について日本人が腹立てないというのは・・・。1960年までは腹立ってたんです。日本人だって、アメリカ帰れって。
 哲野 1960年。「60年安保」の年ですね。
平岡 1960年ね。国会取り囲んで頑張ったけれども、その後はもう全然、音無しの構えで、この日米同盟の深化だなんだの言われてね、黙ってる。

普通考えられないよね。深化とは何を意味するか、従属を深めるということでしょ?アメリカの手先になるだけの話で。そう言う事について、メディアも駄目なんだけど、日本人もけしからんという人もいない。影で言っておるんかもわからんですよ。だけどあんまり怒ってないような気がするな、日本人は。
 
哲野 私なんかそんな影響力ないけども、ただ、個人的に会って話をしてみると、みんな結構思ってる。学者の人や研究者の人が。こないだ平和学会に行って色んな人の話を聞いたんだけども。個人的にはおかしい、という。地方の防衛局の人も実は、個人的にぽろっと喋ったんですけど、やっぱりおかしいよねって言う。やっぱり役人さんも言うわけです。
平岡 それはね、例えば、防衛省なんかだって、おそらくアメリカの指揮下に入ってるわけよ。ホント言えば、自衛隊を動かすのは、内閣総理大臣なんです。ところが内閣総理大臣は動かせないでしょ?だからそういう状況について、怒ることを忘れるというか、怒らないんだ。何も腹が立たないという日本人が増えた・・・。


 (以下次回)