(2013.3.26)
No.054
反原発運動は、とりわけ反被曝運動でなければならない
脱原発大分ネットワーク主催:「放射能安全神話で子どもの未来が危ない」

その① 網野沙羅の報告



網野沙羅 報告『なぜ私たちは広島2人デモを始めたか』・・・・・・・・
哲野イサク 報告『放射能汚染食品による極低線量内部被曝の健康損傷』・・


放射能安全神話のカラクリ

 2013年3月23日、大分市で「放射能安全神話で子どもの未来が危ない」というタイトルの“講演会”が、大分市で永年脱原発運動を進めてきた市民の団体である『脱大分ネットワーク』(小坂政則代表)の主催で開かれた。“講演会”と表記したのは、“講師”が私(哲野イサク)と私の同僚の網野沙羅で、講演会・講師というよりも、「報告会」、「報告者」と言う方が適切だろうと考えているからだ。

 なぜ、私と網野が招かれたというと、「開催のいきさつ」を説明した主催者の一人佐藤真紀子さんが、「放射能安全神話が世の中で幅をきかしている限り、放射能から子どもを守ることはできない。その放射能安全神話のふるさと、ヒロシマから2人の市民ジャーナリストにきてもらって、放射能安全神話のカラクリを報告してもらう」と述べた通りである。

 『放射能安全神話』とは何かの説明は後に譲るとして、この40人程度の勉強会で、私たちとしては、

1. ICRP(国際放射線防護委員会)という組織を知っているか知らないかは別として、福島原発事故以降、私たちはICRPの放射線防護基準とそのリスクモデルを基に作られた防護行政と放射線被曝強制の仕組みの中で暮らしている。
2. ICRPのリスクモデルは、広島・長崎の原爆生存者寿命調査(Life Span Study-LSS)をもとにできている。
3. LSSは原爆傷害調査委員会(ABCC)とその後身である放射線影響研究所(放影研)の手で一貫して進められて来たが、その正体は軍事医療調査研究機関であり、その目的は、電離放射線は外部から大量に照射されると人体に大きな影響があるが、少量長期間にわたって被曝しても健康に大きな影響はない、という言説を作りだし、その言説(デマ)に科学的外観を与えることだった。
4. つまりLSSは、外部大量被曝(広島・長崎の原爆被曝)という極めて特殊で例外的な被曝モデルを、ほぼ無根拠に、放射線被曝一般に拡大・延長して適用し、「低線量被曝は危険ではない」とする『放射能安全神話』の根拠に使われている。
5. この意味でヒロシマは「放射能安全神話」の誕生地であり、放射能安全神話はこれまでチェルノブイリやフクシマの被害者ばかりでなく、日本中、世界中の一般市民を危険に陥れている、私たちはこの「放射能安全神話」を一般市民の側に立った科学をベースに打ち破っていき、核施設を推進する側の放射線防護行政(それは事実上被曝強制行政)に基づく政策ではなく、100%私たちの健康を守る側に立った政策を実現していく運動(反被曝運動)を通じてのみ、子どもたちの健康ばかりでなく、私たち全員の健康、生活の安全、生活の質(QOL)を守ることができる。

 ということを訴え、大分の市民と共通の理解と認識・知見の共有を図るところに目的があった。
 
 これだけ広範囲なテーマを2時間でこなすには無理がある。というのは、共通の理解と認識・知見の共有を達成するには討論というプロセスが欠かせないからだ。しかし私たちは折角「脱原発大分ネットワーク」から与えられた機会なのでチャレンジしてみることにした。

 以下がその時網野と哲野が使用したレジュメである。


網野沙羅 報告『なぜ私たちは広島2人デモを始めたか』・・・・・・・・
哲野イサク 報告『放射能汚染食品による極低線量内部被曝の健康損傷』・・



網野沙羅の報告

 網野と私は昨年6月23日(土)から『広島2人デモ』を始めた。網野の報告『なぜ私たちは広島2人デモを始めたか』の“スライド1”はその理由を説明したものである。
<スライド1>


 実は『広島2人デモ』には前段があった。それが2011年9月11日に実施した「放影研デモ」だった。ABCC(原爆傷害調査委員会)は元来軍事医学研究機関だった。ABCCの後身である放影研時代となってもその軍事研究機関としての色彩は濃厚に残している。そのことがはしなくも露呈されたのが2009年に発生した「米国立衛生研究所・国立アレルギー感染研究所研究受託事件」だった。これに抗議するデモが「放影研デモ」だった。(スライド2)
<スライド2>


 合わせてABCCの基本的性格とその設立の経緯を説明。日本で流布されている定説とは違い、事実上ABCCが長崎原爆投下直後から活動を開始し、アメリカ軍部の医学研究機関だったこと、すなわち1946年11月トルーマン大統領が全米科学アカデミーに広島・長崎の原爆傷害調査を命じ(トルーマン指令)、全米科学アカデミーがその学術調査を開始するにあたってABCCがスタートしたことになっているが、実際はその軍事研究に学術的外観を装ったものに過ぎないこと、それが証拠に原爆投下直後からの被爆者調査研究報告書が、トルーマン指令からわずか1か月あまりで第1回報告書が出されていること「ABCC全体報告1947」1947年1月)を指摘した。(スライド3)
<スライド3>


 核兵器開発やそれまで準備されつつあった核の産業利用・商業利用(いわゆる“平和利用”)を推進するにあたって、当時アメリカの核推進勢力がもっとも恐れたことは、一般大衆の放射線への恐怖だった。大衆が科学的理解をし、いかに低線量であろうと人工電離放射線は人体に深刻な影響をもたらすことを知れば、核兵器開発も核の産業利用・商業利用も不可能になる、「すべての核装置・核設備の存在を許さなくなる」、このことをアメリカの核推進勢力はもっとも恐れた。

 ここに「放射能安全神話」を作りあげる必要があった。アメリカの核推進勢力はABCCでの調査研究活動と並行してすでに、1946年には核産業労働者や核兵器を扱う兵士などに対する被曝上限値を決定するため、アメリカ放射線防護委員会(NCRP=National Committee on Radiation Protection)を発足させ、外部被曝の許容限度を決定する第1委員会と内部被曝の許容限度を決定する第2委員会をスタートさせていた。つまりNCRPに代表される核推進勢力は、外部被曝と内部被曝は別種の損傷をもたらす被曝だと認識していた。このNCRPの国際版が事実上1950年から活動を開始したICRPだが、ICRPは『LSS』仮説を全面的に取り入れ、内部被曝と外部被曝は全く同じ種類の被曝、そのリスクは同じとする『放射能安全神話』を世間に流布させ、その勧告にも盛り込んでいた。(スライド4)
<スライド4>



ABCCの収集した被爆者データの使い道

 ABCCが収集したデータ、原爆生存者データは主として、2つの目的に使われた。

 ①「核戦争」に対応した被曝防護の基準作り、② 核産業労働者や兵士、あるいは一般公衆への被曝基準作り、である。

 この作業から『放射線は外部から大量に浴びない限り、健康に大きな害はない』とする『放射能安全神話』が形成される。しかしこの神話には医科学的外装が是非とも必要だった。そのためには広島・長崎の原爆被爆者の健康損傷は、核爆発時に生じた第一次放射線(それはγ線と中性子線)による健康影響のみであって、放射性降下物による被曝や残留放射線による影響はなかったとする仮説が都合が良く、この仮説に基づいてLSSがまとめられていった。ABCCが被爆者の調査を実施するにあたって、日本政府(直接的には厚生省=当時)、広島県・広島市や警察、広島県の医師会なども全面的に協力した。なぜなら、こうした行政機関や医師たちの協力なしには、ABCCは、一体だれが被爆者なのか、どこに住んでいるのかすらわからなかった。また、「モルモット扱いされる」、「内臓を抜かれる」などのうわさ話に怯えた被爆者の自宅に広島地元の警察が占領軍のジープなどで乗り込んで、嫌がる被爆者を無理矢理比治山のABCCに連れて行った、などというエピソードが広島市民の間に語り継がれている。

 こうして『放射能安全神話』が形成されていくのだが、そしてこの『放射能安全神話』こそ、現在「フクシマ放射能危機」に直面する私たち日本の社会に全面的に適用されているのだが、放射能安全神話形成に果たした「ヒロシマの役割」を圧倒的大多数の広島市民は知らないばかりか興味もない。これに注意を喚起する目的で行ったのが、「2011・9・11 放影研デモ」だった。広島2人デモの前段にはこの「放影研デモ」があった。(スライド5)
<スライド5>



私たちの勘違い

 「広島2人デモ」を開始してみると私たちが大きな勘違いをしていることがわかった。

 一般広島市民は、原発事故の影響や放射能の影響について無関心だと思われていたが、決してそうではないことがわかった。自分自身の興味を率直に表に出せない環境にもあることもわかった。これには代表的な原発ベンダーである三菱重工業の城下町であるという事情、また広島は「支店経済」といわれるほど、中央大企業の支店が多く、「原発に対する反感」や「放射能に対する恐れ」を口に出すことが憚られ、うっかり口に出そうものなら自分の仕事や商売に影響が出ることを恐れている。長い間の「みざる、いわざる、きかざる」の雰囲気が濃厚。ひとことでいえば「体制順応型」の風土や地域文化が形成されてきた。これが「原発問題」「放射能問題」に対する「無関心」の表層をなしている。また広島市民は、政党や労組あるいは宗教団体、既存の平和運動組織(共産党や旧社会党の影響下にあることがよく知られている)に対して非常な警戒心を持っていることもわかった。つまり「反原発」や「放射能問題」に名を借りた組織拡大運動ではないかという警戒心。

 こういう風土や文化の濃厚なところで単に「原発反対」「子どもを守れ」などといった問題を深めていないスローガンを繰り返すデモはほとんど一般市民に影響力を持ち得ない、と結論するにいたった。

 それで深層では決して無関心ではない広島市民の、「興味」「関心」に訴える形のデモに切り替えざるを得なかった。またいわゆるマスコミの伝える内容に全幅の信頼を寄せているわけでもないこともわかった。その意味では、最初の2回は大いに的外れのデモだった。(スライド6)
<スライド6>


 3回目からはチラシ作成を開始。もともと大飯原発再稼働に反対して歩くデモではあったが、以下の方針を立てた。

1.  大飯原発問題から拡大し、反原発・反被曝、日本内外の世界の核産業をめぐる情勢など広汎な情報を正確に伝えること。
2. 原発や政府の動き、東電福島第一原発、放射能やそれを取り巻く防護行政・規制行政など現状生起している出来事に適切な解説を加えること。
3. 一般市民の情報ニーズに応えること。
4. 一般市民が知るべき情報を提供すること。
5. うわさ話や根拠の明確でない情報は絶対に避け、一次資料に依拠した情報を提供し、資料出典を明示すると同時に、自分自身で確認できるように工夫したこと。
(スライド7)

<スライド7>



既成市民グループからの批判

 最初数回は、既存の原発運動に参加している市民の参加も見られたが、威勢のいいシュプレヒコールもなく、あまりに少人数なので失望したのか、3回目以降はほぼ3人に定着。既存の市民運動グループからは、「歩きながらスピーチするのは聞きづらい。スピーチならデモではなく街頭演説にすべき」、「少人数で歩いても効果はない」、「難しいことをいっても一般市民は理解できない」、「運動はまとまって多人数でアピールすべき。既存の運動の力を分散させる」、「目的が明確でなく効果もない」などといった批判があった。しかし私たちの意図は「効果」よりも、私たちの「反原発の政治意志」「反被曝の政治意志」を明確にして、定期的に不特定多数の広島市民に訴えることに第一義の目的があったこと、「反被曝」・「反原発」の私たちの根拠を明確にして伝えることと一般マスコミがなおざりにしている重要課題を丁寧に伝えること(ミニコミあるいは市民ジャーナリズム)に目的があったので、こうした批判とはなかなかかみ合わなかった。

 さらに、政党や労働組合が主導権を握った形での「脱原発運動」や、既成市民グループのともすれば閉鎖的な脱原発運動ではなかなか一般市民に、「反原発」「反被曝」の主張が広がらない(一般市民と既成市民運動グループの間の目に見えない垣根)などといった私たち自身の問題意識もあった。

 参加する人たちに変化が見られるようになったのは8月頃、第10回目のデモあたりから。既成市民運動グループではない全くのニューカマーが参加するようになった。また事情で参加できない(多くは反原発の意志を表だって表明しにくい市民層)から支援・支持の連絡を受けるようになった。

 今年1月頃からはほぼ現在のメンバー(7~8人)が顔ぶれとして揃ってきた。また金曜日の午後6時出発という時間帯では、なかなか仕事や勤務先から時間をやり繰って参加することも難しい、という事情もある。(スライド8)
<スライド8>


 デモのスタイルとしては、毎回更新チラシ、それに連動したプラカード、それに連動したスピーチ。意図と目的からして当然のスタイル。当初はスピーチ役は固定していたが、顔ぶれが揃うに従って全員スピーチになった。問題意識も、素養も、感性も、仕事も、年齢層もばらばらの市民がそれぞれの立場から、考え調べたことをスピーチするのでバラエティに富んで面白いと思う。(これがヒントになって次のスタイルが生まれるのではないか、と期待している)(スライド9)
<スライド9>


 8月初旬から「広島2人デモ」のWebサイトを開設し、Webと連動したデモのスタイルを目指す。広島の一区画で実施したデモの様子やチラシの内容が全国に伝わること、告知内容、チラシ内容、プラカード内容、スピーチ内容、定時定点的に行うデモに対する毎回の町の反応の違い、仲間同士での感想や議論、情報交換など事細かに報告することによって閲覧者にとっての情報共有、体験共有の効果を狙ったもの。

 サイトの閲覧(ページビュー)は、スタート当初の8月は日平均400、10月頃には半分の200に下がったが、12月の総選挙を挟んで平均650に上がり、2013年1月は700、2月は990、3月に入って1200程度で推移している。私たちとしては確実にWebサイト情報として認知度があがり、全国の人たちと体験共有ができつつあると評価している。
(スライド10)
<スライド10>



レベルの高い一般市民

 少しずつ拡大していることは間違いない。また毎週決まった時間に、その時々のトピックを調査研究して訴えるというスタイルは、デモの道筋にあたる広島本通り商店街のオーナーや従業員の方々からの一種の信頼は醸成しつつあるように思える。またチラシのハケ具合からも少しずつの拡大は確認できる。

 これとは別に、やはり企業で働く勤労者・労働者、小規模経営を行う商店街のオーナー、そしてその従業員の人たちは、さすがに実社会で実績を築いているだけあって、レベルが高い。また高年齢層は人生経験も豊富であり、ものごとを見る目や評価も的確。情報収集能力や分析能力も高い。また一般的には批判能力も高い。こうした人たちを説得して行くには、私たちも相当高いレベルで幅広い情報や分析の集積が必要となる。このことを学んだ。翻って見ると現在の反原発市民運動レベルの理論水準や情報集積レベルでは、まだまだ世の中を変えていくほどの中身になっていないと感じさせられる。「原発や放射能のことは一般市民は何も知らない。教えてやろう」程度の認識で、一般市民社会の中に打って出ようとすると手痛いしっぺ返しを食うだろう。私たち反原発・反被曝運動側の一層の研究と理論武装が必要だろう。現状のままでは、政治・経済・社会の激しい動きやどんどん進行する危機に対応することは全く不可能になっていく。それではますますスローガンだけを連呼するだけの市民運動となり、社会全体での存在価値を失っていくかも知れない。それは日本の社会全体にとっても不幸なことだ。私たちの一層の努力が必要だ。そして一般市民の私たちに対する潜在化している期待に応えて行かなくてはならない。(スライド11)
<スライド11>


 少しづつの拡大とはいえ、私たちの当初の意気込み、すなわち「原発の危険性」や「低線量放射線被曝の危険性」について多くの広島市民と「認識」を共有し、また危機意識の共有化を図って、政治・政策の変更を迫る、という当初の目的から見ると、まだまだ道は遠いといわざるをえない。今のままでは私たちの「自己満足」に終わりかねない。

 また「広島2人デモ」のスタイルもこのままでは、“点”の動きでしかない。100万都市広島の中で“面”となる動きを準備する新たなスタイルとそれに対応した一定量の人材が必要となることは自明のことだ。

 この点では現在全く手探り状態であり、もっと多角的な視点で、建設的な議論を積み上げていく必要がある。ただし「反原発・反被曝」というベクトルでは全員一致していなくてはならない。「反原発・反被曝」問題を、エネルギー問題と捉えたり、環境問題と捉えたりする全く別々なベクトルを向いた集団となり、混乱ばかりが多く、結局「烏合の衆」となってしまい、敵を利するばかりだ。「反原発・反被曝運動」は、まず私たちの「生存権運動」でなくてはならない。(スライド12)
<スライド12>


 なおレジュメには、これまで「広島2人デモ」で使用したプラカードのいくつかを例示として添付した。



(以下その②「哲野イサクの報告」へと続く)

【参照資料】
・欧州放射線リスク委員会2010年勧告『第5章 リスク評価のブラックボックス』
・中川保雄『放射線被曝の歴史』(技術と人間社 1991年絶版 増補版明石書店2012年)
・哲野イサク 『欧州放射線リスク委員会2010年勧告
        第5章 リスク評価のブラックボックス
        核兵器・原発と共に表舞台に登場したICRP その①』
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/hiroshima_nagasaki/fukushima/ECRR_sankou_04.html
・哲野イサク 『カール・ジーグラー・モーガンについて
        その② 内部被曝に基準を示せなかったNCRPのカール・モーガン』
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/zatsukan/033/033.html
・哲野イサク 『「放射能安全神話」を準備したABCCとヒロシマ
        9・11 広島市民による放影研デモの歴史的意義』
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/zatsukan/030/030.html
・ABCC『ABCC(原爆傷害調査委員会) 全体報告 1947年』
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/ABCC_General_Report_1947.html